秀吉は端柴拾い?
秀吉が豊臣秀吉を名乗るようになるのは晩年のことで、それまでは羽柴秀吉を名乗っていた。もともとは木下藤吉郎といっていた。
幼名は一般的に日吉丸として知られているものの、これは後世の創作で、実際は違っていたともいわれる。
父親は通説では木下弥右衛門ということになっている。百姓兼足軽のような人物だっとされるも定かではない。
母は仲(なか)で、美濃の鍛冶・関兼貞(または関兼員)の娘で、御器所村の生まれとされる。
木下弥右衛門は藤吉郎が幼い頃に亡くなり、母の仲は織田信秀(信長の父)の同朋衆だった竹阿弥(筑阿弥)と再婚した。秀吉はこの竹阿弥との間にできた子という説もある。
同朋衆というのは主君の傍近くに仕えて雑用や芸能などを行う人たちのことだ。身分としては低い。
秀吉は百姓の子から成り上がったという言われ方をするけど、この百姓というのは幅広い言葉で、必ずしも農民を意味していない。食っていくためには何でもやる職業不詳の人たちもまとめて百姓と呼んでいた。
ルイス・フロイスは『日本史』の中で、秀吉は「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」と書いており、『日本教会史』では木こりとなっているから、そういった山仕事のようなことをしていたのかもしれない。木こりは農民より身分が低く、端柴拾いは更にその下ということになる(端柴はたき付けに使う小枝のこと)。
羽柴秀吉の”羽柴”は丹羽長秀と柴田勝家からそれぞれ一字ずつもらって付けたとされているのだけど、若い頃に端柴拾いをしていたことから自虐的に付けた名前とも考えられる。
いずれにしても父親の身分が低いという自覚があったのだろう、秀吉は父親についてほとんど語っていない。実際に誰が父親か分からなかったのかもしれない。後年、天皇の落胤だなどという話が出てくるのだけど、さすがにそれは信憑性がなさすぎる。
尾張を飛び出し戻って信長に仕える
生まれた地については尾張国愛知郡中村郷というのは間違いなさそうだ。小田原攻めの帰りに同じ故郷出身の加藤清正が故郷の中村に立ち寄ることを提案して実際に一泊したとされている。
ただ、中村郷はいいとして、現在、豊国神社や中村公園がある上中村ではなく、中中村だったと私は考えている。
そのあたりについては日之宮神社や下中八幡宮のページに書いた。
生年は天文6年2月6日(1537年3月17日)とされる(1536年生まれという説もある)。
織田信長が1534年、徳川家康が1542年生まれなので、その間だ。
後に自分の腹心として働くことになる秀長は竹阿弥の子とされているので、秀吉の父が弥右衛門であれば秀長は父違いの弟ということになる。
竹阿弥との折り合いが悪く、若くして尾張を飛び出したという通説もそのまま信じていいかどうかは分からない。このとき15歳前後だったとされる。
どういう当てがあったのか、向かったのは遠江国(静岡県浜松市)だった。今川義元に仕える松下之綱のところに身を寄せることになる。この松下氏は今川の直接の家臣ではなく、今川義元家臣の飯尾氏に仕えていたとされるので、若い藤吉郎からすると今川義元は雲の上の存在で会うことすらできなかったのではないかと思う。
しかし、藤吉郎は松下家を出て尾張に戻り、当時、清須城主になったばかりの織田信長に仕えることになる。1554年(天文23年)というから秀吉17歳、信長20歳の頃のことだ。
これもどういう経緯でそういうことになったのかは伝わっていない。
信長が尾張国を統一するのが1559年なので、その5年前にすでに信長の将来性に目を付けていたとしたら秀吉の眼力はやはりただ事ではないということになる。あるいは本当の偶然でしかないのか。
秀吉、戦国の世を駆け抜ける
1561年(永禄4年)に藤吉郎は浅野長勝の養女の寧々(おね・ねね・ねい)と結婚する。身分の低い出の藤吉郎との結婚には浅野長勝も周囲も反対したのだけど、二人の意志は固かった。
おねは生涯にわたって秀吉を支えることになる。まともに読み書きもできなかった藤吉郎に字を教えたのもおねだったとされる。
ここからの藤吉郎は、信長とともに全速力で駆け抜けるような半生を送ることになる。
結婚前年(1560年)の桶狭間の戦いから墨俣一夜城築城(1566年)、浅井長政・朝倉義景連合軍との戦いにおける金ヶ崎の退き口(1570年)、浅井攻めの褒美として今浜(長浜と改名)を与えられ、長浜城を建てて城主となったのが1573年。37歳のことだ。この年、名前を木下藤吉郎から羽柴秀吉に改めた。
1577年からは中国征伐を行い、数々の城を落とし、織田軍に敵対する勢力を攻め滅ぼした。
1582年、本能寺の変。中国大返しで明智光秀を山崎の戦いで破り、清須会議では三法師(信秀)を担ぎ上げて後継者争いに名乗りを挙げる。
1583年、織田家重臣の柴田勝家と争いになり、賤ヶ岳の戦いで勝利。これによって、実質的に織田信長の後継者となった。
本拠地を大坂城に移す。
1583年、織田信雄・徳川家康連合軍との小牧長久手の戦い。合戦では決着がつかなかったものの、家康を抑え込むことに成功した。
1585年には近衛家の猶子となって藤原氏と改姓し、関白になった。
1586年、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とし、太政大臣に就任した。ついに名実共に頂点に上り詰めた。
1587年に九州の島津軍を降伏させ、京都の聚楽第に本拠地を移す。
1590年に小田原の役で北条氏政・北条氏直父子を倒し、天下統一が成った。
1591年には秀次に関白職を譲り、太閤と呼ばれることになる(関白を退くと太閤となる)。
1592年、朝鮮出兵。第一次は文禄の役、1596年の第二次を慶長の役といっている。
側室の淀殿が秀頼を生んだのはこの間の1593年のことだった。父親は秀吉ではなかったということは当時から言われていたことで、それはおそらく間違いない。秀吉公認で子作りの儀式をして秀吉が認知したというのが実際のところだと思う。
この後、秀次は切腹に追い込まれることになる。
1598年、京都伏見城にて没す。62歳だった。死因については諸説ありはっきりしない。
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、政権は豊臣家から徳川家へと移ることになる。
死後、新八幡神になれず豊国乃大明神に
秀吉が亡くなった慶長3年(1598年)8月18日は、新暦に直すと9月18日でまだ暑いときだった。にもかかわらず、すぐには火葬されず伏見城に安置され、その死はしばらく隠されることになる。
遺命によって遺体は京都の方広寺の東の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されることとなり、阿弥陀ヶ峰の麓では廟所の建築が始まった。当初は秀吉の廟とは知らせず、大仏の鎮守社を建てるとしていた。
秀吉のもうひとつの遺命は、国家鎮護のために自分を八幡神として祀れというものだった。そのため、奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣って秀吉を新八幡として祀る計画だった。
しかし、朝廷から秀吉に与えられたのは豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)という神号だった。八幡神は皇室の神ということで、秀吉を八幡神とすることをよしとしなかったためともいわれる。
豊国は、日本の古名である豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)や豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)から採られたともされる。
麓の鎮守社が完成すると、豊国乃大明神を祀る豊国社とされた。正一位の神階も与えられている。
豊国社は、吉田家の当主・吉田兼見が取り仕切り、社務職には兼見の孫で養子の萩原兼従が就任した。また、兼見の弟の神龍院梵舜が神宮寺の社僧となった。
最初はこれを認めていた家康も、1615年の大坂の役(大坂夏の陣)で豊臣家を滅ぼすと態度が一変する。後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号を剥奪し、神社も廃絶としてしまった。神ではなくなった秀吉には国泰院俊山雲龍大居士という戒名が贈られ、霊は大仏殿裏手に建てられた五輪石塔に遷された。
おねの願いで社殿だけは残されたものの修理をすることは禁じられ、朽ちるがままとなった。
家康の死後、1619年に妙法院に移され、神体は梵舜が持ち出して自宅に隠し祀っていたとされる。
江戸時代を通じて公に秀吉を神として祀ることは禁じられ、それぞれの豊国社は形を変えたりして密かに秀吉を祀ることになる。
明治天皇の鶴の一声で豊国社復活
1868年、明治天皇が大坂に行幸をしたとき、豊国社の再興を命じたことで風向きが変わった。
大坂城内にあった豊国社が再興され(1879年)、京都の東山にも社殿が建てられることとなった。
1880年(明治3年)には方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成して遷座が行われた
1897年には阿弥陀ヶ峰山頂に石造の五輪塔も建てられた。
長浜にあった豊国社が再建されたのが1898年(明治31年)のことだ。長浜の豊国社は長浜城主だった秀吉を偲んで1600年に創建されたものだった。
名古屋の豊国神社が建てられたのは1885年(明治18年)のことだった。
生まれ故郷に秀吉を祀る神社がないのは寂しいということで地元の有志が集まり、創建される運びとなった。
現在は中村公園内に取り込まれる恰好となり、名古屋市秀吉清正記念館も建てられている。
参道の入口に建つ大鳥居は大正10年(1921年)に愛知郡中村が名古屋市に併合されたのを記念して、昭和4年(1929年)に造られたものだ。鉄筋コンクリート造で高さは24メートル。名古屋のあらたなシンボル誕生ということでできたときは大勢の人が集まった。
毎年5月中旬に太閤祭が行われ、出世稚児行列や神輿が町内を練り歩く。
おね、高台寺で秀吉を弔い眠る
秀吉の死後、おねは秀吉の菩提を弔うため、京都の東山に高台寺(髙臺寺/web)を建立した。
家康もおねには一目置いていたようで、最後まで丁重に扱った。家臣の堀直政たちに高台寺の普請を命じてもいる。
山号は鷲峰山(じゅぶさん)で、寺号を高台寿聖禅寺という。寺号は北政所と呼ばれたおねの出家後の院号である高台院(湖月心尼)から採られた。
釈迦如来を本尊とする臨済宗の禅寺だ(創建当初は曹洞宗だった)。
秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰山頂にそのまま残され、おねは高台寺の霊屋(おたまや)の下に眠っている(おね1624年没)。
秀吉と頼朝、時代を超えて
秀吉の辞世の句はよく知られている。
露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
人の一生は朝露が見る夢のように儚いものだという思いを詠ったものだ。
飾らない秀吉の性格がよく出ている句で私も嫌いじゃない。
でも私がもっと好きなエピソードがある。
江戸時代中期の1726年に槙島昭武が書いた『関八州古戦録』という軍記物に出てくる逸話だ。
小田原征伐の後、秀吉は鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝し、源頼朝を祀る白旗社にも立ち寄った。そこで祀られる頼朝の木像にこんなことを語りかけたという。
日本広しといえども、微賎な立場から身を起こして天下を取ったのはあなたと秀吉だけだ。けど、あなたの祖先は多田満仲(源満仲)で、関東には勢力があった。流人の身でも挙兵すれば兵が集まったけど自分はそうではない。氏も系図もない身から天下統一したのだからやはり秀吉の方が上なのは明白だ。
とはいえ、我らは天下友だちには違いないと言って、頼朝像の肩をホトホトと叩いて、カラカラと笑いながら立ち去っていった、というものだ。
あの世では時代を超えて敵味方なく酒を酌み交わしながら仲良く昔話でも語っているだろうか。
それとも根っからの戦好きで今でも西と東に分かれて合戦を繰り広げているのだろうか。
オールスター総出演の天国分け目の合戦が行われているのなら、ぜひ見てみたいものだ。
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