ザオウゴンゲン《蔵王権現》

2020年3月26日

ザオウゴンゲン《蔵王権現》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名  
祭神名  
系譜  
属性  
後裔  
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋)  

吉野の金峰山信仰から始まった

 奈良県吉野の金峯山(金峰山)の信仰に始まる日本独自の神仏習合神が金剛蔵王権現だ。金剛蔵王菩薩ともいう。
 総本山は吉野にある金峯山寺(web)。
 蔵王というと宮城県と山形県の境にある蔵王連峰(蔵王山)を連想しがちだけど、そちらはかつて刈田嶺と呼ばれており、吉野から蔵王権現を勧請して祀ったことから蔵王山、蔵王連峰と呼ばれるようになったので、本家は吉野の方だ。
 金峯山/金峰山(きんぷせん)といってもそういう名前の山があるわけではなく、大峰山脈の中の吉野山から山上ヶ岳にかけての総称としてそう呼んでいるだけだ。本山の金峯山寺があるから金峯山という呼び名が定着した。金の御岳ともいう。

役小角は陰陽師の祖か?

 金峯山(吉野山)を開いたのは役行者(役小角)ということになっている。
 役小角は飛鳥時代の修験者で、修験の祖という言われ方をする。しかし、役小角が半ば伝説化したのはもっと後の平安時代のことで、生きている当時はどれくらい知られた存在だったのかはよく分からない。役小角伝説についてはだいぶ割り引いて考える必要がある。
 ただ、そういう人物が実在したのは確かなようで、『続日本紀』(797年)にも出てくる。
 文武天皇三年の条で、弟子の韓国連廣足(からくにのむらじ ひろたり)が師匠である役君小角を恨み、役君小角は怪しい術や言葉で人々を惑わしていると朝廷に訴え出たため、役君小角は島流しの刑に処せられたという記事だ。鬼神を使って何やら怪しいことをしているらしいと世間で噂になっているともあるので、役小角なる人物がいたことはいたのだろう。
 このとき、役小角は僧侶ではない。役君小角とあるように、君(きみ)の姓(かばね)を持つ豪族だ。修行を行って術を会得したというから、後世でいう陰陽師に近い存在といっていいんじゃないかと思う。
 平安時代初期(822年とも)に薬師寺の僧・景戒が書いたとされる説話集『日本霊異記』(日本国現報善悪霊異記)にも役小角が登場する。
 それによると、役小角こと役優婆塞(えんのうばそく)は、大和国葛木上郡茅原村の出身で、賀茂役公、今の高賀茂朝臣といっている。
 君の姓は朝臣に変えられた例が多いのだけど、賀茂氏の出というのはわりと重要だ。賀茂氏といえば、賀茂神社の一族でもあり、平安時代以降は陰陽寮の要職を独占した一族でもある。安倍晴明の師は陰陽師の賀茂忠行・保憲父子だった。
 父は高鴨神に仕えた加茂間賀介麻で、母は物部真鳥の娘で渡都岐比売(白専女、または刀自女とも)という。
 物部真鳥というと、第25代武烈天皇の勅を受けて韓国に出向き、帰国後韓国連の姓を賜り、大伴金村に攻め滅ぼされた人物だ。兵庫県の韓国神社の祭神になっている。
 この時代の朝鮮半島は、馬韓・弁韓・辰韓の三韓から百済・新羅・高句麗の三国になったのだけど、日本ではそのまま韓の国と呼んでいたようだ。
 役君小角を告発したのが韓国連廣足だというのも何か関係があるように思う。
 ただ、武烈天皇は500年前後の在位とされているので、そのとき活躍した物部真鳥の娘が663年に役小角を生んだとするのは時代が合わない。
 それでも、役小角は賀茂氏系と物部氏系の間の子供というのはそうなのかもしれない。
『日本霊異記』は更に続けて、役小角は生まれながらに賢く、修行の後に孔雀王の呪法を会得し、鬼神を操り、最後は仙人になって天に飛んでいってしまったと書く。
 その他、鬼神に金峯山と葛城山との間に橋を架けろと無理難題を押しつけて困らせたり、捕まりそうになると不思議な術を駆使して逃れたり、伊豆に流された後も富士山まで飛んでいって修行をしたりといった話も紹介している。
 この時点でかなり話に尾ひれがついており、後に書かれた『今昔物語』などでもエスカレートしていって役小角は修験の祖とされ、役行者と呼ばれるようになる。
 つまり、史実として書かれたのは怪しい術を使うから島流しになったということだけで、その他の出自や修験の祖云々という話の大部分が後世の伝承に過ぎないということだ。山を開いたとか寺を建てたという話もどこまで事実かはよく分からない。
 もちろん、1000年以上かけて人々が作り上げた中世縁起をすべて作り話として否定することはできないけれど。

金峯山寺の縁起

 金峯山寺の寺伝によると、役小角が山上ヶ岳にこもって一千日の修行を行ったとき、金剛蔵王権現を感得して祀ったのが始まりという。
 権現ということは、仏が神の姿を借りて現れたということで、仏でもあり神でもあるということだ。
 金剛蔵王権現はインドにも中国にもルーツを持たない日本独自のもので、役小角が生み出した神という言い方ができる。
 本地仏は釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三体で、それぞれ過去世・現在世・未来世を表しているとされる。
 蔵王堂の三尊像はほぼ同じ姿をしている。密教の明王像に似ていて、怒りの形相で右手と右脚を高く上げ、右手には三鈷杵を持ち、左手は刀印を結んでいる。青い顔をした大きな仏像の姿を写真などで見たことがあるという人も多いだろう。基本的には秘仏で、ときどき一般公開される(令和2年は3月28日から5月6日までご開帳がある)。
 その他、京都の広隆寺や鳥取県の三仏寺(web)奥院(投入堂)の金剛蔵王像がよく知られる。
 滋賀県の石山寺(web)に、如意輪観音の両脇侍として金剛蔵王像と執金剛神像があったと伝わる。奈良時代前期の762年に制作されたものとされるも、もともとは神王と称されており、金剛蔵王像とされたのは平安時代以降という。
 吉野から出た鋳銅刻画蔵王権現像(国宝)は銅板に線刻で蔵王権現などを描いたもので、平安時代中期の1001年の銘がある。
 藤原道長が金峯山経塚に埋めた経筒の銘文にも蔵王権現とある(1007年)。
 これらのことから平安時代になってから金剛蔵王権現という共通イメージができあがったと考えてよさそうだ。
 役小角も平安時代に再発見される形で見直されて、修験道が発達していく中で修験の祖という地位を確立し、役行者と呼ばれるようになっていく。
 金剛蔵王の金剛はおそらく硬いといった意味合いから来ているのだろうけど、蔵王というのはよく分からない。蔵の王の「蔵」は通常、「くら」と読み、文字通り蔵を意味する言葉だ。「ざ」と読むから「座」という意味合いで、その場所、地域一体といった意味だろうか。あるいは、地蔵菩薩の「地蔵」のように母胎といった意味で使われたのか。

神仏習合で安閑天皇などと同一視される

 神仏習合思想が進む中で、蔵王権現は第27代安閑天皇(広国押建金日命)と同一視された。
 安閑天皇の名の広国押建金日王の金日から習合したという説もあるのだけど、江戸初期の学者・林羅山が書いた『本朝神社考』に安閑天皇の崩御4年後に金峯山に現れた蔵王権現が自ら吾は廣国押建金日命なりと名乗ったという話があり、そこから広がったとするのが一般的だ。
 あるいは、安閑天皇は5世紀の天皇で役小角は7世紀後半の人だから、金剛蔵王権現として現れたのは広国押建金日王その人だったという可能性もあるのか。広国押建金日王が金峰山に現れたのは崩御の4年後という早い段階ということを考えると、役小角よりもずっと以前から金峰山の守り神は広国押建金日王とされていたとも考えられる。
 神道側から見た蔵王権現は、大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命などと同一視された。
 明治の神仏判然例を受けて、それまで蔵王権現を祀っていた寺社は安閑天皇を祀るとしたところが多い。

櫻本坊と吉野山の桜

 金峯山寺から更に少し奥に入ったところに櫻本坊(web)がある(個人的に縁があって二度お邪魔して巽住職ともお話をさせていただいた)。
 第38代天智天皇の子の大友皇子との後継者争いから逃れるべく、大海人皇子は出家してわずかな伴を連れて吉野山に入った。ある冬の日、桜が満開の夢を見た大海人皇子は役小角の弟子の日雄角乗(ひのおのかくじょう)に夢見をさせたところ、桜は花の王とされるから近々皇位につくという知らせでしょうと答えた。
 翌672年、大友皇子と戦いに勝利した大海人皇子は第40代天武天皇として即位した(大友皇子は明治になって第39代弘文天皇とされた)。
 大海人皇子は吉野時代に過ごした日雄離宮に、日雄角乗を住職として道場を建立した。それが今の櫻本坊とされている。
 金峯山修験本宗別格本山であり、本尊の神変大菩薩は役小角のこととされている。
 吉野山が桜の名所となったのはこの話がひとつのきっかけになったとされる。
 もうひとつの理由は、役小角が金剛蔵王像を桜の木から彫ったからだ。以降、それにならって蔵王像が桜の木で彫られることとなり、修験者たちが桜の木を植えて桜が増えていったという。

吉野という場所

 吉野山というのは、敗者が逃れ、弱者を匿う土地という伝統がある。
 源平合戦の後、源頼朝の追討から逃れて義経は吉野山に身を隠した。しかし、見つかってしまい、愛妾の静御前と吉野で別れることになった。静御前は捕まり、こんな歌を詠んだ。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
 これは壬生忠岑が詠んだ「み吉野の 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の おとづれもせぬ」の本歌取となっている。
 後醍醐天皇は足利尊氏に京を追われ三種の神器を持って吉野山にこもった。以降、南北朝時代となり、後醍醐天皇は吉野山で崩御した。
 芭蕉門弟の東花坊は、「歌書よりも 軍書に悲し 吉野山」と詠んだ。
 秀吉が晩年に吉野山で大掛かりな花見を開いたのは有名な話だ。参加者は5千人だったともいう。
 西行もまた、吉野山と桜を愛したひとりだ。幾度となく吉野山を訪れ、庵を結び、桜の歌を詠った。
「なにとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」
「吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ」 
 私は吉野の桜はまだ見たことがない。けれどそれはもうすでに心のなかで見ているような気もする。
 人の少ない時期の吉野を訪ねると、そこには静かな祈りの空気が満ちていて心が安らぐ。
 千数百年、あるいはもっと長い信仰と祈りの歴史があり、日々の暮らしの中に自然と溶け込み、途切れることなく続いている。それを実感として体感できるのが吉野という場所だ。
 蔵王権現は憤怒の表情をしているけど、その奥には秘めたる大いなる優しさがあるように思う。

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