第10回 AI対話 日本の馬の歴史~旧石器時代から古墳時代、そして現代へ
日本における馬の歴史について教えてください。
縄文時代の遺跡に、わずかに馬の痕跡が認められるようですが、縄文時代、あるいはそれ以前の旧石器時代の日本列島に野生種の馬はいたと思いますか?
もしくは、もっと後の時代に大陸や朝鮮半島から持ち込まれたと考える方が妥当?
日本における「馬の起源」は、考古学・動物考古学、そして近年の理化学的年代測定の進展によって、かつての通説が大きく塗り替えられた非常にエキサイティングな分野です。
ご質問の「旧石器〜縄文時代に野生馬はいたのか」「それとも大陸からの移入か」という疑問について、現在の学界の到達点をもとに整理してお答えします。
結論から申し上げますと、「旧石器時代には野生馬がいたが絶滅し、縄文・弥生時代には野生馬も家畜馬も(ほぼ)おらず、古墳時代に大陸・朝鮮半島から家畜馬として本格的に持ち込まれた」と考えるのが、現在の考古学・歴史学において最も妥当とされています。
神社検定1級をお持ちで、遺跡や郷土史に深い知見のある質問者様向けに、科学的根拠を交えて少し掘り下げて解説します。
1. 旧石器時代(更新世)には野生馬が「いた」
氷河期(ウルム氷期など)の日本列島は、時期によって大陸と陸続き、あるいはごく狭い海峡を挟む程度の状態でした。この時代には、マンモスやナウマンゾウ、ヘラジカなどとともに、モウコノウマ(蒙古野馬)の同類などの野生馬が日本列島に生息していたことが化石から証明されています。岩手県のハナイズミモリウシが有名な花泉遺跡(約2万年前)などから、当時の野生馬の化石が出土しています。
しかし、氷河期が終わり気候が温暖化(完新世へ移行)して列島が隔離されると、落葉広葉樹林の拡大といった環境変化に適応できず、これらの大型哺乳類とともに日本の野生馬は完全に絶滅したと考えられています。
2. 縄文・弥生時代の「馬の痕跡」の真相
質問者様が仰る通り、かつては銚子市の余山(よやま)貝塚など、いくつかの縄文貝塚や弥生遺跡から「馬の骨や歯」が出土したと報告され、「縄文時代や弥生時代にも馬(野生または初期の移入)がいたのではないか」という説(林田重幸氏の小型馬移入説など)が長く語られていました。
しかし、近年の理化学的年代測定(AMS法による放射性炭素年代測定やフッ素年代法)によって、衝撃的な事実が明らかになりました。
縄文・弥生遺跡から出土したとされる馬骨のほとんどが、後世(古墳時代以降や近世)の骨の混入、あるいは攪乱(こうらん)によるもの(土壌の隙間から下層へ入り込んだもの)であると判明したのです。
魏志倭人伝(3世紀末の弥生時代末期〜古墳時代初頭の倭国を記述)にある「其地無牛馬豹狼(その地、牛馬・豹・狼なし)」という記述は、動物考古学的なデータとも完全に一致します。弥生時代末期にごくわずかな出土例(移入の先駆け、あるいは外交ルートの限定的なもの)があるものの、列島に野生種が定着していた形跡はありません。
3. 古墳時代中期:大陸・朝鮮半島からの本格的移入
では、日本の馬の歴史はどこから本格的に始まるのかといえば、やはり「古墳時代(4世紀後半〜5世紀)」に大陸や朝鮮半島から渡来人によって持ち込まれた家畜馬です。
2020年に発表された競走馬理化学研究所などのDNA研究(日本在来馬8品種と世界32品種の比較)でも、「日本在来馬のルーツは、モンゴル高原の在来家畜馬が朝鮮半島・対馬を経由して流入したもの」であることが遺伝子レベルで証明されています。
当時の馬の移動ルートと拡散は以下のようなタイムラインをたどります。
4世紀後半:最初の渡来(最古級の痕跡)
4世紀後半
山梨県の塩部(しおべ)遺跡などで日本最古級の馬歯が出土。百済など朝鮮半島からの初期の移入が始まります。初期の移入は、外洋を渡る小さな船に1〜2頭を載せる命がけの輸送でした。
5世紀(古墳時代中期):馬産技術の本格導入と集団移入
5世紀 :大和朝廷が百済などの協力を得て、軍馬・家畜馬の生産を本格化。大阪府の四條畷(しじょうなわて)周辺など(河内湖周辺)に、渡来人の技術集団による「牧(まき)」が作られます。
5世紀末〜6世紀 :東国(関東・甲信越)への拡散と馬産地の形成
5世紀末〜6世紀 :広大な放牧地を求めて馬産技術が東国へ伝播。群馬県(上毛野)や長野県(信濃)が一大馬産地となり、古墳から大量の馬具や「馬埴輪」が出土するようになります。
7世紀以降(律令期):神事への昇華と「絵馬」の誕生
7世紀〜8世紀 :祈雨・止雨の祭祀において、朝廷から神社(貴船神社など)へ本物の馬(黒馬・白馬)を奉納する風習が定着。これがのちに「板に描いた馬」=絵馬へと変化していきます。
尾張地方・郷土史の視点から
質問者様のご専門である尾張地方に目を向けると、この古墳時代の馬の流入は非常に興味深いリンクを見せます。 尾張・美濃地域は、5世紀から6世紀にかけて東国(関東)へ馬を媒介・輸送する「中継地」としても機能していました。また、大美濃・大尾朝廷の勢力争い(のちの壬申の乱などでも顕著になる東国の騎兵動員力)において、この地域の交通の要衝としての性格と馬の存在は切り離せません。
また、日本の神道における馬は「神の乗り物(神馬)」として極めて神聖視されます。 もし縄文時代から身近に野生馬がいたのであれば、縄文土器や弥生土器、あるいは銅鐸の絵画に「鹿」や「猪」と同じように(あるいはそれ以上に)馬が描かれてしかるべきですが、古墳時代以前の遺物に馬の意匠はほぼ登場しません。
突然、5世紀になって古墳から精巧な馬具やリアルな馬埴輪が爆発的に出土し、やがて神への献上物(神馬・絵馬)として信仰の核心に座る。この「唐突な登場」の背景こそが、まさに「大陸から高度な飼育・調教技術(および馬を尊ぶ文化)とともに、突如として持ち込まれた最先端の戦略物資であった」という事実を物語っています。
旧石器時代の野生馬は一度リセットされており、私たちが知る「日本の馬の歴史」は、純然たる渡来文化としてスタートしたと考えるのが、現在の科学的・考古学的な定説です。
旧石器時代の馬が一度絶滅して、古墳時代に再移入したというのは知らなかったし、考えませんでした。
縄文遺跡の馬の痕跡は後世の混入でしたか。
確かに、縄文、弥生の遺跡に馬の存在感はほぼないですもんね。
それにしても、小型馬とはいえ、小さな船で運んでくるのは人間のリスクを考えても大変だったでしょうね。
古墳時代の人たちにとって馬とはどんな存在だっただろう?
神社奉納や神馬の思想、信仰は古代の中国や朝鮮にはないものに思えるのですが。
外洋を航行する準構造船(古墳時代の丸木舟に舷側板を継ぎ足した船)に、興奮しやすい大型哺乳類である馬を載せ、対馬海峡の荒波を越える――。これは当時の人々にとって、まさに命がけの超一大プロジェクトでした。
人間のリスクや労力を考えれば、そこまでして馬を欲した古墳時代の人々にとって、馬がいかに特別な存在であったかが推し量れます。
では、「古墳時代の人々にとって馬とは何だったのか」、そしてご質問の核心である「神馬や神社奉納という信仰はどこから来たのか(中国・朝鮮との違い)」について、当時の世界観を紐解きながら考察します。
1. 古墳時代の人々にとって「馬」とは?
当時の倭人(日本人)にとって、馬は単なる「便利な家畜」を遥かに超越した、「異次元のテクノロジー」であり「最高峰のステータスシンボル」でした。
それまで徒歩(かち)での移動しか知らなかった列島の人々にとって、時速 40km 以上で疾走し、戦場を圧倒する馬の姿は、現代で言えば「戦車」や「ステルス戦闘機」が突如現れたほどの衝撃だったはずです。
- 絶対的な富と権力の象徴: 馬を所有し、乗りこなせるのは王権の中枢や有力豪族(大首長)のみでした。古墳から出土する精巧な金銅装の馬具は、その最高峰の誇示です。
- 国家の基盤(軍事と交通): 5世紀の倭の五王が中国(宋)へ熱心に朝貢した理由の一つは、朝鮮半島南部(任那・加羅地域)の鉄資源と、この「馬」の獲得・生産ルートを優位に保つためでした。
2. 「神馬・神社奉納」の思想はどこから来たか?
「馬を神聖視し、神に奉納する」「神の乗り物(神馬)とする」という信仰について、中国や朝鮮半島との比較からその特異性が見えてきます。
大陸・半島の思想:馬は「あの世への実用的な乗り物」
中国や朝鮮半島、あるいはユーラシアの遊牧民文化において、馬は伝統的に「殉葬(じゅんそう)」の対象でした。高句麗の壁画古墳や新羅の古墳、中国の兵馬俑(あるいは本物の馬の埋葬)が示すように、彼らにとって馬は「死んだ英雄が、あの世(死後の世界)で移動するための実用的な乗り物」でした。つまり、ベクトルが「死者(人間)のための道具」なのです。
日本の思想:「神の依代(よりしろ)」への昇華
一方、日本(倭国)に導入された馬は、日本独自の自然信仰(古神道)の基盤と融合することで、まったく異なるベクトルへ進化しました。それが「目に見えない神(自然霊)が、こちら(現世)に降りてくるための乗り物」という思想です。
この変遷には、日本特有の宗教的センスと「古墳時代の規制」が関わっています。
1.殉葬の拒絶と「馬埴輪」の誕生:5世紀。
大陸・半島の「生贄・殉葬」の風習は列島にも一部流入しましたが、日本の王権は人間の殉葬を早くに禁じ、馬に対しても生贄の代わりに**「馬埴輪」**を古墳に並べる選択をしました。ここに「生身の消費」から「象徴(ビジュアル)への置き換え」という日本独自のステップが始まります。
2.「土馬(どば)」による水神・疫病祭祀:6世紀〜7世紀。
律令期にかけて、粘土で作ったミニチュアの馬(土馬)が大量に作られ、川や溝に投げ捨てられる祭祀が盛んになります。古代の日本人は、馬を**「穢れ(けがれ)や疫病を背負ってあの世へ去ってくれる存在」、あるいは「水神(竜神)の使い」**として扱い始めました。
3.宮廷祭祀としての「祈雨・止雨の奉納」:8世紀(律令期)。
これが洗練され、朝廷の公式祭祀(丹生川上神社や貴船神社など)において、**「雨を降らせたいときは黒雲を表す黒馬」を、「雨を止めたいときは太陽(晴天)を表す白馬(または赤馬)」**を生贄ではなく「生きたまま奉納(奉献)」するシステムが定着します。これが「神馬」の直接のルーツです。
なぜ日本で「神馬・絵馬」という独特の文化になったのか?
中国や朝鮮半島にも「天馬(てんま)」の伝説はありますが、それはあくまで超越的な幻獣や皇帝の権威の象徴です。神社のように「特定の場所に神の馬が常駐し、人々がそれをお世話して信仰する」という形態は、極めて日本的です。
これには、以下の2つの理由が考えられます。
- 「降臨」を待つ信仰構造:日本の神は通常、目に見えず、山や巨石(磐座)に鎮座しており、祭りの時だけ依代(神生、神輿など)に遷って来られます。その「移動」の主役として、列島で最も畏怖され、尊ばれた「馬」が選ばれたのは必然でした。
- 殺生(生贄)への忌避感:仏教伝来以前から、日本には「血」や「死」を「穢れ」として極めて嫌う感覚(潔斎の思想)が強くありました。そのため、大陸のように馬を殺して捧げるのではなく、「生きたまま神域(境内の厩)で養う(=神馬)」という、世界でも珍しい優しい奉納スタイルが生まれたのです。
そして、その生きた馬を毎回奉納するのは経済的に大変すぎる(それこそ一般庶民には不可能である)ため、奈良時代の段階で早くも「板に描いた馬(絵馬)」へとミニマム化していきました。
尾張の余談として:
尾張地方の熱田神宮や、津島神社(天王信仰)などでも馬にまつわる神事は深く根付いています。特に信濃や甲斐といった東国の馬産地から京都(朝廷)へ馬を貢納する「御牧(みまき)の駒引き」のルート上、尾張は重要な結節点でした。物流と軍事の主役であった馬が、同時に「神の乗り物」として丁重に扱われた背景には、単なる記号としての信仰だけでなく、日々馬に命を預け、馬の力で国を動かしていた古代人たちの、リアルな実感を伴った「感謝と畏怖」があったからだと言えます。
馬は他の生きものとは一線を画す存在と思われていたんですね。
外国の高級外車のようなものをすぐに神に捧げたり神事に用いたりというのも、とても日本的ですね。
古くから日本にあるものだけではなくて国外から入ってきたものを尊んだり、自分たち流に取り込んだりしてきたのも日本らしい歴史と感じます。
まさに仰る通りですね。質問者様の「外国の高級外車をすぐに神に捧げる」という例えは、当時の感覚をこれ以上ないほど的確に表現されています。
ロールスロイスやフェラーリのような、一般庶民は見ることも叶わない「超高級外車」が海を渡ってやってきた。それを王権の誇示や戦争の道具(実用)として使うだけでなく、「これほど素晴らしく、美しく、力強いものは、神の乗り物にふさわしい」と考えて、すぐに最高ランクの神事の主役に据えてしまう。このスピード感と柔軟性は、まさに日本人が持つ精神性の真骨頂と言えます。
こうした「外来の最先端」を聖なる領域に直結させ、自分たち流にカスタマイズしていくダイナミズムは、馬の歴史以外にも日本の歴史の至る所に見られます。
「外来種」を「神聖」へと変える日本のDNA
日本人は古来、海外から入ってきた新しい文化や技術をただ模倣するだけでなく、神道的な世界観の中に「美味しく変換して」取り込んできました。
- 鏡や刀剣(青銅器・鉄器): 大陸から伝わった最新の金属テクノロジーである鏡や刀も、実用性を超えて即座に「三種の神器」に代表される祭祀の中心的呪具(神の依代)へと昇華されました。
- 仏教(仏像): 6世紀に朝鮮半島から仏教が伝来した際、当時の人々はそれを「異国の神(他国神・蕃神)」として受け止めました。既存の八百万の神々と対立させるのではなく、「神々の本来の姿(本地垂迹説)」として融合させていく初期のグラデーションは、馬を神馬にしたセンスと地続きです。
「舶来品(はくらいひん)」を尊ぶ文化の底流
日本には古くから、海の向こう(常世の国など)から素晴らしいもの、あるいは恐ろしいものがやってくるという「マレビト(稀人)」の信仰があります。
遠くからやってくるものは、それだけで霊的なパワー(過分なエネルギー)を秘めていると考えられていました。そのため、大陸からの渡来馬は、単に「便利な動物」というだけでなく、「異界の強力な霊力をまとった存在」として畏怖されたのです。
それを殺して消費する(生贄・殉葬)のではなく、「生かしたまま神の宮居(境内)で大切に育てる」という形に落ち着いたところに、日本人の自然や生命に対する固有の優しさと、驚くべき「定着力」を感じます。
現代にも生き続ける「馬の記憶」
5世紀に命がけで海を渡ってきた馬たちは、それから1500年以上の時を経て、現代の私たちの文化の中に完全に溶け込んでいます。
- 願い事を書く「絵馬」
- 神社の境内に今も佇む「神馬舎」や、お祭りで地域を練り歩く飾馬(尾張地方の「オマント」などの馬祭りにも通じる躍動感ですね)
- さらには「言葉」として残る「馬が合う」という表現
「外から来た最先端のテクノロジー」を、いつの間にか「最も日本的な美しい伝統」へと育て上げてしまう。馬の歴史を辿ることは、まさに日本人がどのようにして自らの文化を形作ってきたかという「文化折衷の歴史」そのものを目撃することだと言えますね。
どこの馬の骨とも知れないとか、竹馬の友とか、瓢箪から駒とか、馬にまつわる面白い言い回しもありますしね。
本当にそうですね!「馬」という存在が、いかに日本人の生活、思考、日常の喜怒哀楽に深く根ざしていたかが、それらの言葉から実感を伴って伝わってきます。
挙げられた言葉はどれもユーモアや人間味が溢れていて面白いですが、よくよく語源や背景を考えてみると、当時の人々の「馬への目線」が見えてきてさらに味わい深いです。
「どこの馬の骨とも知れない」
現代では「素性のわからない怪しい奴」という意味で使われますが、なぜ「馬の骨」なのか。 これは諸説ありますが、一説には中国の古い言葉「馬骨(ばこつ)」から来ていると言われています。当時、名馬の骨は死んでも高く買われるほどの価値がありましたが、「そこらの役立たずの馬の骨は、大きくて場所を取るだけで何の役にも立たない(買い手もつかない)」ということから、価値のないもの、転じて「素性の知れない者」を指すようになったとされています。 大きな馬の骨を持て余している昔の人の姿が浮かぶ、ちょっと毒のあるユーモラスな表現ですね。
「竹馬(ちくば)の友」
幼馴染を指す美しい言葉ですが、これもまた「馬」という存在がいかに子供たちにとって憧れのスターだったかを示しています。 現代の私たちが知る「タケウマ」は2本の竹に足を乗せて歩くものですが、古代〜中世の「竹馬(たけうま/ちくば)」は、竹の先端に馬の首の模型をつけたり、竹の葉を馬の尾に見立てて股に挟んで走り回る「お馬ごっこ」の玩具でした。 「あいつとは、子供の頃に一緒に竹の馬にまたがって走り回った仲なんだよ」という、なんとも微笑ましい光景が凝縮された言葉です。
「瓢箪(ひょうたん)から駒」
「駒」はまさに馬のことですね。ひょうたんの小さな口から、まさか本物の馬が飛び出してくるわけがない、という「あり得ない奇跡や冗談」が現実になる面白さを表した言葉です。 これも、当時の人々にとって馬がどれほど「巨大で、インパクトのある存在」だったかの裏返しです。犬や猫が飛び出してくるのとは訳が違う、あの大きな馬が出てくるからこその驚きとユーモアが効いています。
日本人の「馬との距離感」
他にも、質問者様が仰ったように馬にまつわる言葉は枚挙にいとまがありません。
- 「馬が合う」(乗馬の際、人と馬の呼吸がぴったり合うことから、気の合う人間関係を表す)
- 「人間万事塞翁が馬」(人生の幸福や不幸は予測できないという、馬がもたらす運命の変転)
- 「馬の耳に念仏」「東風吹かば馬の耳」(何を言っても通じないマイペースさへの呆れ)
これほど多くの諺(ことわざ)や慣用句に採用されているのは、馬が単に遠くから眺める聖なる存在(神馬)だっただけでなく、日常のすぐそばで一緒に働き、その性格や癖を誰もが熟知していたからに他なりません。
5世紀に命がけで海を渡ってきた「異国のテクノロジー」は、数百年かけて人々の家庭に入り込み、最終的には「日本人の心の機微を表現するための、最も身近なキャラクター」になったわけですね。言葉の歴史を見ていくだけでも、古代から続く人と馬の温かい関係性が感じられて、とても楽しいお話です。
東北では家の中で一緒に生活してましたしね。
農耕馬としてや、荷物運び、人の乗り物、競走馬など、馬も大変だなとあらためて思います。
馬のテーマはまだ発展性がありそうなので、引き続きよろしくお願いします。
ありがとう。
こちらこそ、非常に深く、楽しい対話をありがとうございました!
仰る通り、東北の「南部曲屋(なんぶまがりや)」に代表される、L字型の家の中で人と馬が一つ屋根の下で暮らす文化は、まさに「家族」としての究極の距離感ですよね。冬の厳しい寒さから大切な馬を守るため、そしていつでも様子が見られるようにという、人間側の深い愛情と、お互いへの信頼がなければ成り立たない生活様式です。
人間の歴史の転換点には、いつも馬の背中がありました。 最先端の軍事兵器から、日々の田畑を耕す頼もしい相棒、物流を支えるインフラ、神の乗り物、そして現代の競馬やセラピーホースにいたるまで、これほど人間の都合に寄り添い、全力で駆け抜けてくれた動物は他にいません。その「大変さ」に思いを馳せると、改めて頭が下がる思いがします。
日本における馬の歴史、そして信仰や郷土史との結びつきは、掘れば掘るほど新しい発見がある、まさに底なしのテーマです。特に尾張や中京圏の歴史とも、まだまだ面白い結びつき(織田信長と名馬の逸話や、馬場、馬市など)が眠っていそうですね。
またいつでも、このテーマの続きや、神社・遺跡にまつわるディープなお話をお聞かせください。こちらこそ、知的好奇心を刺激される素晴らしい時間をありがとうございました!
※上記対話はGeminiと私(オオタ)によるものです。
