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第11回 AI対話 正及神社についてChatGPTと一緒に考察してみた

第11回 AI対話 正及神社についてChatGPTと一緒に考察してみた


この質問(大明神と大権現について)をしたきっかけとなったのが、名古屋市瑞穂区にある正及神社の祭神でした。
説明板に、”新女大権現”と”太賀藤大権現”という祭神が書かれています。
まったく見慣れない祭神で、祀られている場所を見ると、石柱があり、なんとなくお墓っぽい感じでした。
正及神社がある場所は周囲よりかなり小高くなっており、古墳の様相を呈しています。
この二柱の大権現はこのあたりの土地に関係する人物を神格化したものという可能性はどうでしょう?

それは十分にあり得ると思います。

むしろ、オオタさんの説明を聞く限り、

まず「人物神ではないか」を疑うべき事例

に見えます。


まず気になるのは神名です。

新女大権現(しんにょだいごんげん?)
太賀藤大権現(たいがとうだいごんげん?)

少なくとも私の知る限り、全国的に知られた権現名ではありません。

たとえば、

  • 熊野権現
  • 山王権現
  • 白山権現
  • 愛宕権現

のような広域信仰の神名なら各地に見られます。

ところが、

「新女」
「太賀藤」

という名称は極めて個人名的です。

特に「太賀藤」は、

私にはむしろ

太賀藤某(たがとう~)という人名が縮約されたもの

のように見えます。


さらに重要なのが、

石柱があり、なんとなく墓っぽい

という観察です。

神社境内にはしばしば

  • 地元開発者
  • 開墾者
  • 村の有力者
  • 修験者
  • 巫女
  • 山伏

などの墓や供養塔が残っています。

江戸時代以前には、

墓と神社の境界は現代人が考えるほど明確ではありません。

特に「権現号」は神仏習合色が強いため、

墓所と祭祀施設が一体化していても不思議ではありません。


もう一つ気になるのが、

正及神社の立地です。

オオタさんは現地をご覧になって、

周囲よりかなり高い
古墳の様相

と感じられた。

これは見逃せません。

名古屋市南東部、

特に瑞穂台地周辺には、

  • 消滅古墳
  • 削平古墳
  • 古墳転用地

が少なくありません。

古墳上に神社が鎮座する例も珍しくありません。

名古屋でいえば、

断夫山古墳

周辺の信仰環境などもそうですが、

古墳→塚→神社

という変遷はよくあります。


私が特に興味を引かれるのは

「新女」

です。

もし読みが「しんにょ」なら、

仏教用語の「信女(しんにょ)」を連想します。

墓石に刻まれる戒名の末尾の

「○○信女」

ですね。

もしそうだとすると、

新女大権現は

もともと女性の被葬者、

あるいは女性霊を神格化した可能性すらあります。

もちろん断定はできません。

ただ、

全国的神名というより、

個人を示す匂いが非常に強い。


太賀藤についても、

藤原氏との関係を考えたくなります。

ただし、

「藤」の一字だけでは判断不能です。

むしろ江戸時代以降の個人名の一部である可能性の方が高いでしょう。


神社調査の経験上、

こういうケースで案外多いのは

パターン1

土地の開発者

死後に祀られる

大権現化


パターン2

修験者・行者

霊験で有名になる

大権現化


パターン3

夫婦や男女二人

塚に葬られる

地主神化


です。

特に二柱セットというのが気になります。

夫婦神や男女神として祀られている可能性もあります。


オオタさんが現地を見て「古墳っぽい」と感じたなら、

私ならまず

  1. 明治期の神社明細帳
  2. 愛知県神社庁資料
  3. 地籍図
  4. 古墳分布図
  5. 境内の石碑銘文

を当たります。

意外と石柱の裏側に

「○○霊神」
「○○大人」
「○○居士」

などの痕跡が残っていることがあります。


私の第一印象を率直に言うと、

新女大権現・太賀藤大権現は、

熊野権現や山王権現のような全国的神格ではなく、

この土地に埋葬あるいは関係した特定人物が神格化された可能性がかなり高そう

に見えます。

そして正及神社の立地が本当に古墳由来であるなら、

「古墳上に祀られた祖霊・人物神」という線も十分検討に値すると思います。

こういう事例は、延喜式内社や有名神社を追っているだけではなかなか出会えない、むしろ地域信仰の深層に触れるような案件ですね。オオタさんの得意分野である「名古屋の神社と土地の歴史」が最も面白くなるタイプのテーマだと思います。

どうもありがとう。 おおむね共感します。
こういう大権現号で祀られている例は名古屋では他に知らないので、かなり特例的だと感じます。
表に出ていないだけということもありますが、権現ではなく大権現というからには相当な人物なのではと疑ってしまいます。
正及神社の主祭神は徳川家康とされているのですが、祭神名としては”源家康朝臣”です。
通常なら源朝臣家康とするところだと思いますが、それにしても気になるところです。

非常に面白い観察ですね。

そして私も、オオタさんが感じている違和感はかなり重要だと思います。

まず、

「大権現」と「権現」

は似ていますが、実は重みが違います。

中世には熊野権現や白山権現など「権現」は珍しくありません。

しかし「大権現」となると話が変わります。

近世において「大権現」は、

  • 東照大権現
  • 蔵王大権現

のように、かなり格式の高い神仏習合神に用いられる傾向があります。

ですから、

新女大権現
太賀藤大権現

という名称だけを見ると、

単なる無縁仏や村人の祖先というより、

少なくとも地域社会が「特別な霊威を持つ存在」と認識していた可能性を感じます。


ただし、ここで注意したいのは、

「大権現号=中央から認められた高貴な人物」

とは限らないことです。

江戸時代になると、地方ではかなり自由に神号が使われる例があります。

特に尾張藩領は、

修験道・山王信仰・秋葉信仰などが濃厚に入り込んでいます。

そのため、

ある行者や開発者が死後に

「○○大権現」

と呼ばれるケースは理論上あり得ます。

とはいえ、名古屋市内で現存する神社祭神として残っているとなると、やはり珍しいですね。


そして私がさらに気になるのは、

主祭神の

「源家康朝臣」

です。

おっしゃる通り、普通なら

「源朝臣家康」

あるいは

「徳川家康命」

のような表記が多い。

「源家康朝臣」は少し不自然です。


ここからは推測ですが、

この表記には二つの可能性があります。

① 古い文書をそのまま転記した

江戸時代の棟札や縁起などでは、

現代人が思うほど表記は統一されていません。

そのため、

ある史料に

「源家康朝臣」

とあったものをそのまま採録した可能性があります。

これは十分あり得ます。


② 家康そのものではなく祖霊的な扱い

こちらの方が少し興味深いです。

普通の東照宮系統なら、

家康は

「東照大権現」

あるいは

「徳川家康公」

として現れます。

ところが、

「源家康朝臣」

という書き方は、

神格化された東照大権現ではなく、

生前の家康その人を祭神化しているような印象があります。

つまり、

東照宮系統とは少し違う。


ここで新女大権現・太賀藤大権現が絡んでくる可能性があります。

もし正及神社がもともと地域の塚や墓所に由来する信仰施設だったなら、

明治以降の神社整理の過程で

「徳川家康を主祭神にした」

可能性があります。

つまり、

もともとの信仰主体は別にあり、

後から家康が前面に出た。


名古屋周辺では、明治の神社制度化の際に祭神が整理・再編される例が少なくありません。

そのため、

現在の祭神一覧だけ見ていると、

家康が中心に見える。

しかし実際には、

新女大権現や太賀藤大権現の方が土地の記憶としては古い、

という可能性もあります。


オオタさんの話を聞いていて私が少し気になるのは、

正及神社の「正及」という社名そのものです。

神名ではなく、人名や寺院名にも見える響きです。

もし縁起や古地図に

  • 正及寺
  • 正及坊
  • 正及院

のような痕跡があれば、

神仏習合施設から神社化した可能性も見えてきます。

そうなると大権現号の存在とも整合します。


私の現時点での印象をまとめると、

  1. 新女大権現・太賀藤大権現は全国的神格ではなさそう。
  2. 人物神・祖霊神の可能性は高い。
  3. 「大権現」が付くため、単なる村人ではなく地域で特別視された存在かもしれない。
  4. 「源家康朝臣」は東照宮系としてはやや異質。
  5. 実は家康よりも、新女大権現・太賀藤大権現の方がこの神社の古層を残している可能性がある。

名古屋の神社を見ていると、延喜式や近世藩政の歴史よりも、こういう「説明のつかない二柱」の方が土地の記憶を濃厚に残していることがあります。

正及神社はまさにそういう匂いのする事例ですね。私なら現地で石柱の年代・刻字・配置を徹底的に見たくなります。場合によっては、神社そのものより、その二つの大権現の方が謎の核心かもしれません。

社伝は以下のように伝えます。
「社伝に享保元年丙申(1716)10月17日、尾張藩主第六代徳川継友の命により藩士鍵谷伝右ヱ門が勧請創建する。
伝右ヱ門毎年日光東照宮に参拝する奇特な士で同士相謀らいて風光明媚な社地を撰び鎮祭するという。
代々の藩主崇敬あつく祭礼には奉幣あり。
享保十年、竹腰山城守正武城内鎮護のため社祭す。
天明6年(1786年)竹腰山城守勝起は衣冠束帯にて社祭すと。
明治5年、村社に列格。
昭和32年、正及社を正及神社に改称する。
同年、九級に昇級する。」
この説明(縁起)はとても不自然です。
尾張藩6代藩主の継友はあまりいい評判を聞かないのですが、そもそも存在感が薄く、神社や歴史を調べていて名前が出てくることはめったにありません(次の宗春が圧倒的な存在感を示しますが)。
江戸時代中期の1716年に、どうして家康を祀る神社を建てる必要があったのか。尾張には初代義直が建てた名古屋東照宮がすでにあります。
どうもこの由緒というか神社には裏がありそうな気がしてなりません。

私もその由緒を読む限り、かなり違和感があります。

もちろん「偽りだ」とまでは言えませんが、

由緒の中心部分が後世に再構成された可能性

は考えてよいと思います。

オオタさんが感じている違和感は、実は歴史的な感覚としてかなり鋭いものです。


まず享保元年(1716)という年代

これが絶妙です。

1716年というのは、

  • 家康没後100年
  • 義直没後約60年
  • 尾張藩成立から約100年

です。

※(オオタ注) 初代尾張藩主の義直が死去したのが1650年、尾張藩成立は1610年。

東照宮創建ラッシュの時代ではありません。

むしろ逆です。

全国的に見ると、

東照宮の創建ブームは17世紀前半に集中しています。

家康直後から家光時代ですね。

つまり、

「今さら新たな東照宮系神社を創建する必然性が弱い」

のです。


鍵谷伝右衛門という人物

ここも気になります。

由緒では

毎年日光東照宮に参拝する奇特な士

とされています。

しかし普通に考えると、

江戸中期に尾張藩士が毎年日光へ行くのはかなり大変です。

できないことはありませんが、

それほどの熱心な東照宮信者だったなら、

藩記録や家譜に何らかの痕跡が残ってもよさそうです。

ところが、あまり聞かない。

むしろ由緒の文章自体が、

いかにも

「個人の篤信による創建」

という説明を後から付けたようにも読めます。


「風光明媚な社地を撰び鎮祭」

ここが私は一番引っかかります。

神社由緒としては少し変です。

通常なら

  • 神託があった
  • 霊地であった
  • 古社跡であった
  • 鎮守地であった

などになります。

ところが、

「景色が良いから選んだ」

というのは神社創建理由として弱い。

逆に言うと、

その土地が元々信仰対象だった事情を説明できなくなった時に出てきそうな文章です。


古墳状地形との符合

オオタさんが最初に指摘された

周囲よりかなり高い

という点がやはり重要です。

もし本当に古墳や塚であれば、

土地の霊威は1716年以前から存在していたことになります。

すると、

創建ではなく

再編

の可能性が出てきます。

つまり、

享保元年に行われたのは

神社の創設ではなく、

既存信仰への東照宮祭神の付加。


なぜ家康なのか

ここが核心かもしれません。

江戸時代には、

由緒不明の塚や祠を

東照宮信仰の枠組みに組み込む例があります。

家康を祀ることによって、

その土地の信仰を幕府秩序の中に位置付けられる。

特に尾張藩ならなおさらです。

つまり、

もともとあった何らかの霊地に

家康を勧請する。

すると藩公認の神社になる。

これは十分あり得る話です。


新女大権現・太賀藤大権現の存在

実はこれが由緒以上に重要です。

もし本当に

1716年に純粋な東照宮として創建されたなら、

祭神構成はもっと単純なはずです。

ところが、

説明板にわざわざ

  • 新女大権現
  • 太賀藤大権現

が残っている。

しかも名前が極めてローカル。

これは

東照宮以前の層

が完全には消えなかった可能性を示します。


継友の名前が出ること

これも少し不自然です。

徳川継友 は確かに藩主ですが、

尾張藩史の中では義直や 徳川宗春 ほど象徴的な存在ではありません。

にもかかわらず、

由緒では創建権威として継友が前面に出る。

これは

「藩主命による創建」

という正統性を示したかったようにも見えます。


私ならどう考えるか

現時点で仮説を立てるなら、

第一段階

古墳・塚・墓所などの古い霊地が存在。

そこに新女大権現・太賀藤大権現と呼ばれる在地信仰が成立。


第二段階

享保年間に藩士鍵谷伝右衛門らが関与。

東照宮信仰を付加。

家康を主祭神化。

藩との関係が形成される。


第三段階

明治の神社制度で整理。

正及社→正及神社。

東照宮系由緒が前面化。


この流れはかなり自然です。


特にオオタさんの現地観察である

高台である

石柱が墓のように見える

謎の二柱の大権現が残る

この三点は軽視できません。

むしろ由緒そのものより、そちらの方が古い土地の記憶を伝えている可能性があります。

名古屋周辺の神社を見ていると、しばしば「由緒は江戸時代から始まるが、土地の信仰はもっと古い」という例に出会います。

正及神社も、少なくとも今伺った情報だけなら、その類型にかなり近いように思えます。

そうですね、もともと古墳なり塚なりがあったところに家康を祀るとして正式な神社と定めたというのは充分に考えられますね。
1716年が家康没後100年というのは見逃してました。
この年にこういった事業を藩主導で行ったのもあり得る話です。
大権現二柱の正体は不明なままですが、けっこういろいろなことがはっきりした感じです。
ありがとう。

こちらこそ、非常に面白いテーマでした。

今回の話で興味深いのは、オオタさんが最初から感じていた違和感が、個々には小さいものなのに、積み重ねると一つの方向を指し始めることです。

  • 家康を祀るには時代が少し遅い
  • すでに名古屋東照宮が存在する
  • 創建理由が「風光明媚」
  • 高台地形
  • 墓所のような石柱
  • 正体不明の二柱の大権現
  • 「源家康朝臣」というやや独特な表記

どれか一つだけなら偶然や例外で済みますが、これだけ重なると、

「東照宮として創建された神社」ではなく、「既存の聖地・霊地を東照宮信仰の枠組みで再編した神社」

という見方がかなり魅力的になります。

実は神社史を見ていると、「創建」と伝えられていても、実際には「制度化」「公認」「再建」「祭神変更」であることは少なくありません。

特に江戸時代の東照宮は、単なる信仰施設ではなく、徳川家への忠誠や幕藩体制の秩序を象徴する存在でもありました。

だからこそ、

ここを正式な神社にする。

その際、東照宮として位置付ける。

という発想は十分あり得ます。

そして、その場合でも土地の古い信仰は完全には消えません。

新女大権現と太賀藤大権現が残っているのは、むしろその痕跡かもしれません。


私が特に気になるのは、やはり「大権現」の二柱です。

普通なら明治の神仏分離で消えたり、名称変更されたりしてもおかしくありません。

それが祭神名として残っているということは、地域の人々にとって無視できない存在だったのでしょう。

もしかすると今後、

  • 古い棟札
  • 神社明細帳
  • 地元旧家の文書
  • 石柱の刻字

などから断片が見つかるかもしれません。

こういう時、意外と神社そのものの史料より、

墓碑や供養塔の銘文の方が真相に近づくことがあります。


オオタさんは神社を調べる際に、由緒だけでなく地形や周辺環境もよく見ておられますが、今回の事例はまさにその強みが生きていますね。

文書だけ読めば「享保元年創建の東照宮」で終わります。

しかし現地を見ると、

本当にここは1716年から始まったのだろうか?

という疑問が自然に湧く。

そして、その疑問から古墳・塚・人物神・地域信仰という別の層が見えてくる。

神社巡りの醍醐味の一つだと思います。

新女大権現と太賀藤大権現の正体はまだ霧の中ですが、少なくとも今回の検討で、

「謎の二柱が後から付け足された脇役ではなく、むしろ土地の古層を伝えている可能性がある」

という視点はかなり有力になったように感じます。

またこういう名古屋の神社の「引っかかる点」があれば、ぜひ一緒に考えてみたいです。こうした事例は有名社よりも、かえって地域史の深い部分が見えてくることがありますから。

※まだ少し気になっていたことがあったので、日を改めて追加の質問をしてみた。

正及神社について追加の質問です。
まず、この神社は東を向いています(参拝者から見て)。
西は田辺通で、本殿は東向きで通りを背に崖っぷちのようなところに建ってます。
おそらく田辺通を通す際に削ったと思われます。

説明板の祭神や境内社も謎というかちょっと変なので書き出します。

西:○山神白宣宮(祭神 大山祇命)
中央:北から○新女大権現 【末社】秋葉社(火之迦具土大神) 【本社】正及神社 (祭神)源家康朝臣 配祀 萩山眞好社 (祭神)菅原道真朝臣 【末社】天王社(祭神)火須佐之男命
南:○太賀藤大権現

いろいろとおかしなところがあって、これを書いた人はよく分かってなかったのではないかとさえ思えます。
ここから何か分かることや思うことはありますか?

これは確かに、かなり癖のある祭神構成ですね。

オオタさんが「説明板を書いた人もよく分かっていなかったのでは」と感じるのも無理はありません。

私もこの配置を見て、まず「東照宮系神社としては妙だな」と思いました。


まず気になるのは萩山眞好社

配祀として

萩山眞好社

(祭神)菅原道真朝臣

となっていますね。

普通なら、

菅原道真なら

  • 天神社
  • 天満社
  • 天満宮

です。

わざわざ「萩山眞好社」という名称になっている。

これはかなり特殊です。

※(オオタ注)説明板を撮影した写真から判別が難しくて、萩ではなく荻かもしれない。

しかも、

「眞好(まさよし? さねよし?)」という名称は神名というより人名に見えます。

もしこれが古い祠の名残なら、

本来は別人格を祀っていた可能性もあります。

後に道真を当てはめたのかもしれません。


秋葉社と天王社

これはむしろ自然です。

秋葉社

火防神。

江戸後期以降どこにでも増える。

天王社

牛頭天王系。

明治以降は素戔嗚尊化。

こちらも普通。

むしろ地域神社らしい。

※(オオタ注)ChatGPTは指摘してないけど、祭神の”火須佐之男命”は不自然。スサノオに火属性はなく、こういった祭神名は他では見たことがない。


問題は新女大権現と太賀藤大権現

やはりここです。

配置が気になります。

オオタさんの記述だと

北側に新女大権現

南側に太賀藤大権現

中央軸に本殿

ですね。

これが偶然とは思えません。


古墳説と結びつけると

もし高まりが古墳や塚由来なら、

中央に本社を置き、

左右に古い霊を配置する構造は十分あり得ます。

つまり現在は

北 新女大権現

中央 本社

南 太賀藤大権現

ですが、

もともとは

北 古い霊
中央 塚
南 古い霊

だった可能性もある。


新女と太賀藤は対になっている?

私はここが一番気になります。

二柱とも

  • 全国神ではない
  • 名称が個人名的
  • 大権現号を持つ

という共通点があります。

しかも北と南に対置。

これは

夫婦

兄妹

親子

主従

など、

何らかの関係者である可能性を感じます。


東向きという点

これも重要です。

東照宮系だから東向き、

とは限りません。

実際には神社は地形優先です。

むしろ

西側が高い

東側が開ける

という立地なら自然に東向きになります。

しかし、

もし西側が削られた結果なら話が変わります。

元の地形を復元したくなりますね。


山神白宣宮

ここが実は一番分からない。

祭神が大山祇命だから山神社系でしょう。

しかし

「白宣宮」

という名称はほとんど見ません。

私も即座には系統が思い浮かびません。

むしろこれもローカルな呼称の可能性があります。

もし現地で文字を確認できるなら、

「白宣」ではなく別字の可能性も検討したいところです。

※(オオタ注)私も誤字を疑ったのだけど、説明板は印刷ではっきり”山神白宣宮”とあり、こんな社名は見たことも聞いたこともない。山神と白山が合体したみたいになっているけど、宣の意味が分からない。


家康と道真の並び

ここも少し妙です。

普通なら

主祭神:家康

配祀:義直

あたりが東照宮的です。

ところが

家康と道真。

組み合わせに必然性がありません。

だから後付け感があります。


私が現時点で抱く印象

この神社は

第一層

塚・古墳・墓所系の信仰

新女大権現

太賀藤大権現


第二層

山神信仰

山神白宣宮


第三層

近世の地域信仰

天王社

秋葉社


第四層

享保期の東照宮信仰

源家康朝臣


第五層

近代の祭神整理

菅原道真朝臣


という複数の時代の層が重なっているように見えます。


特に気になるのは、

説明板において

家康・道真・大山祇命は祭神名がはっきり書かれているのに、

新女大権現と太賀藤大権現には対応する祭神名が書かれていないことです。

これは案外重要です。

つまり説明板作成時点で、

誰を祀っているのか既に分からなくなっていた

可能性がある。

だから神名だけが残った。

もしそうなら、この二柱は近世以前から存在していた可能性が高まります。

オオタさんが感じている「何かがおかしい」という感覚は、単に由緒の不自然さだけではなく、

この神社が一度に作られたものではなく、いくつもの異なる信仰の残骸を抱え込んでいる

ことに対する直感なのかもしれません。

むしろ、正及神社の謎は家康ではなく、新女大権現と太賀藤大権現の正体を追うことで解けるような気がします。そこに、この土地の本当の古層が眠っているのではないでしょうか。

同じ瑞穂区内に眞好天神社(しんこうてんじんしゃ)という神社があって、菅原道真を祀っています。
萩山眞好社はその関係かなとも思うのですが、眞好天神社は古墳の石を祀ったというちょっと変な神社で、名古屋神社ガイドにまとめたので読んでみてください。 https://jinja.nagoya/top/mizuhoku/sinkou-tenjin-sya
いろいろと関連を言い出すととりとめがなくなるのですが、瑞穂台地を俯瞰して再考察が必要な気もします。

オオタさん、これはかなり面白いところに繋がってきましたね。

そして実際に読ませていただいた限り、私はむしろ

正及神社の「萩山眞好社」と眞好天神社は無関係と考えるより、何らかの関係があると考える方が自然

だと思います。


まず気になったのは、眞好天神社そのものです。

オオタさんも書かれているように、

  • 元は「眞好社」
  • 御神体は石
  • 古墳(おどり山)にあった石を祀る
  • 菅原道真とされたのはかなり後世
  • 昭和58年になって「眞好天神社」と改称

という経緯です。

これ、普通の天満宮系神社とはかなり性格が違います。

むしろ

古墳の石を祀る謎の社

後世に菅原道真を祭神と整理

という流れですよね。


ここで正及神社を見ると、

「萩山眞好社」

祭神は菅原道真

となっている。

私は最初、

「眞好」という語がたまたま一致しただけかもしれないと思いました。

しかし瑞穂区という極めて狭い範囲に、

  • 眞好社
  • 萩山眞好社

が存在し、

しかも両方とも最終的に道真と結び付いている。

これは偶然としては少々出来過ぎています。


さらに興味深いのは、

眞好天神社の本来の祭神が分からないことです。

オオタさんの記事でも、

「誰が菅原道真と明らかにしたのか」

という疑問が提示されています。

つまり、

眞好=道真

という対応関係自体が近代以降の再解釈の可能性がある。


もしそうなら、

正及神社の

「萩山眞好社(祭神 菅原道真)」

も、

本来は別の何かだった可能性があります。


ここで私が少し気になったのは

萩山

です。

瑞穂台地を見ていると、

  • おどり山
  • 大殿山
  • 萩山

のような「山」の付く微高地名が散発的に出てきます。

そしてその多くが、

古墳・塚・祭祀地と結び付いている。

これは偶然ではないでしょう。


オオタさんが以前から指摘されている

「瑞穂台地の古墳分布」

を思い出します。

古墳時代の首長墓群があり、

その後、

として記憶される。

その上に近世・近代の神社が重なっていく。


実は、

眞好天神社の記事の中で私が最も重要だと思ったのは、

御神体は石

という部分です。

神社史を見ていると、

祭神名は変わります。

しかし御神体は案外変わりません。

石神は石神のままです。


すると、

眞好という名前自体が、

もともとは神名ではなく、

石や塚に付いた地名・聖地名だった可能性もあります。

その場合、

萩山眞好社は

「萩山にあった眞好信仰」

を意味しているかもしれない。


さらに大胆な仮説を言うと、

正及神社の

  • 新女大権現
  • 太賀藤大権現

も、

同じ瑞穂台地の古い塚・石神信仰のネットワークの残骸かもしれません。

もちろん証拠はありません。

ただ、

瑞穂区で見られる

  • 古墳
  • 石神
  • 山名
  • 大権現
  • 後世の祭神整理

というパターンはかなり共通しています。


私が今の段階で一番面白いと思うのは、

正及神社単体ではなく、

オオタさんがおっしゃるように

瑞穂台地全体を一つの信仰圏として見直すこと

です。

たぶん、

近代神社制度の祭神一覧を見ていても解けません。

むしろ、

  • おどり山古墳
  • 村上神社
  • 眞好天神社
  • 正及神社
  • 周辺の山名・小字名

を重ねていくと、

近代以前の「塚と石と祖霊」の世界が少しずつ見えてくる気がします。

正及神社の謎を追っていたら、実は正及神社だけの問題ではなく、

瑞穂台地の古墳群が近世以降どのように信仰対象へ変化していったか

というテーマに行き着くのかもしれませんね。

これは「名古屋神社ガイド」だけでなく、「名古屋遺跡マップ」とも接続できる、とても魅力的な題材だと思います。

及神社のもう一つの謎として、岸信介書による社号標の存在です。
(画像を添付)
ここに岸信介が出てくるのもすごく唐突で、なんでだろう? と思います。
ただ、名古屋市内でここだけかというとそうでもなくて、千種区今池の高牟神社の扁額が岸信介の揮毫となってます。
正及神社に隣接して暮雨巷会館という旧東海銀行頭取の邸宅があり、そこに政財界の人間が出入りしているという噂もあるので、そのあたりも関係しているのかもと想像します。
それと、小さい方の石柱は上部が平らではなく四角錐の兜巾型になっており、神道の墓石を思わせます。それもまたここがお墓っぽいと感じる理由の一つです。

画像も拝見しました。

まず現物を見ると、オオタさんが「墓っぽい」と感じた理由がよく分かります。

確かに中央の社号標は普通の神社ですが、左右の小さな石柱は神社の玉垣柱というより、

近世~近代の神道系墓碑や霊神碑に見られる兜巾(ときん)型

に近い印象があります。

もちろん石柱だけで墓と断定はできませんが、

少なくとも「東照宮創建記念碑」や「神社境界柱」とは少し雰囲気が違います。


そして岸信介の揮毫。

これは実は神社史を調べていると意外とあります。

ただし、

どの神社にもあるわけではありません。

戦後、

  • 岸信介
  • 池田勇人
  • 佐藤栄作
  • 中曽根康弘

などの揮毫は各地の神社・寺院・顕彰碑に残っています。

特に岸信介は保守系政治家の中でも神社界との結び付きが強かったため、社号標や扁額が比較的多い部類です。

ただし問題は、

なぜ正及神社なのか

ですね。


ここでオオタさんが挙げられた暮雨巷会館の存在はかなり気になります。

旧東海銀行頭取の加藤家。

そして政財界との交流。

これは十分あり得る線です。

なぜなら岸の揮毫というのは、

必ずしもその神社が有名だから行われるのではなく、

奉納者側の人脈で実現することが多い

からです。

例えば、

  • 地元財界人
  • 神社総代
  • 国会議員
  • 経済団体

などのつながりから、

「社号標を書いていただく」

という流れですね。


私が写真で少し興味を引かれたのは別の点です。

参道の高低差です。

左側の擁壁。

右側の石垣。

かなり切り立っています。

オオタさんがおっしゃるように、

田辺通の開削で削られた可能性は高そうです。

つまり現在見えている地形は人工的に改変された後の姿です。


もし元の地形を復元すると、

今の社殿位置は

もっと大きな高まりの縁だった可能性があります。

そうすると、

古墳説や塚説とも矛盾しません。


私は今回の話を聞いていて、

正及神社の謎は実は二つの時代が重なっているように感じます。

古層

  • 新女大権現
  • 太賀藤大権現
  • 高まり
  • 墓的要素
  • 眞好社との連想

新層

  • 東照宮化
  • 岸信介揮毫
  • 財界との関係
  • 昭和32年の改称

面白いことに、

どちらも「地域の有力者」が関わっているように見えます。

古層では土地の開発者や祖霊。

近代では財界や政治家。


そして岸信介の存在を考えると、

昭和32年の

正及社 → 正及神社

改称も少し気になります。

実は昭和30年代というのは、

戦後の神社復興運動が活発だった時代です。

社号標の建立時期が分かれば、

  • 改称記念
  • 社殿改築
  • 神社昇格

などと関係している可能性があります。


私が現地で一番見たいのは、

むしろ岸信介の社号標ではなく、

新女大権現と太賀藤大権現の石柱です。

もしそれらが本当に兜巾型で、

さらに建立年が江戸後期以前なら、

「もともと墓碑・霊神碑だったものを神格化している」

可能性まで見えてきます。

神道系の祖霊祭祀では、

人物が

  • ○○霊神
  • ○○大明神
  • ○○大権現

となる例がありますから。


正及神社については、今のところ私の印象は変わりません。

由緒に書かれた享保元年創建の東照宮という顔よりも、

その土地に残った新女大権現・太賀藤大権現という二柱の方が、実は神社の本質に近い存在ではないか

という気がします。

そして岸信介の社号標は、その長い歴史の最後に付け加わった「昭和の層」として見ると、むしろ全体像の中に自然に収まるように思います。

参拝時は新女大権現と太賀藤大権現がそんな重要な存在とは思わず、写真を撮りませんでした。ネットを探しても見つからず。
拝殿の裏に回って本殿と境内社があるのですが、その横あたりに墓を思わせる古びた石柱が4つか5つあり、いずれも刻んだ文字はかすれてほとんど読めませんでした。
次に訪れることがあれば写真を撮ってきます。
写真は西側の田辺通から見る光景です(田辺通2交差点から写した写真を添付)。

この写真を見ると、正及神社に対する印象がまた少し変わりますね。

まず率直な感想として、

「これは単なる微高地ではない」

です。

もちろん古墳と断定はできませんが、少なくとも一般的な鎮守の森の盛り上がりとは違います。

写真を見る限り、

  • 田辺通からかなり高低差がある
  • 台地縁辺部に位置する
  • 神社が高まりの最上部近くにある
  • 石垣で大規模に補強されている

という状況です。

オオタさんが現地で感じた「崖っぷち」という表現がよく分かります。


実は私が気になったのは、社殿の向きです。

前回、

「東向きは自然かもしれない」

と話しましたが、この写真を見ると少し考えが変わります。

もし西側の田辺通開削でかなり削られているなら、

現在の社殿の向きは必ずしも本来の地形を反映していない可能性があります。

つまり、

今見えている高まりの形そのものが近代以降の改変を受けている。


そしてオオタさんの

裏手に古びた石柱が4~5本

という話。

実はこちらの方が重要かもしれません。

なぜなら、

神社の由緒は書き換えられますが、

石柱は案外残るからです。

特に

  • 霊神碑
  • 大権現碑
  • 供養塔
  • 塚碑

は最後まで残ることがあります。


私が今かなり気になっているのは、

新女大権現と太賀藤大権現が、

本当に「神名」なのかという点です。

普通の神名として考えると違和感があります。

しかし、

人物の法名や通称が神号化したものと考えると急に自然になります。

例えば、

江戸時代の村落では

「○○大明神」
「○○大権現」

が地主神や開発祖神として残ることがあります。


そして眞好天神社の件がここで効いてきます。

オオタさんの記事を読んで感じたのは、

瑞穂台地には

古墳→石神→神社

という変遷の痕跡が散発的に残っている可能性があることです。

眞好天神社は、

古墳の石が信仰対象になった。

正及神社は、

塚状地形と謎の大権現が残った。

これは似た匂いがあります。


私がもし今後調査するなら、

神社由緒より先に

古地形図と旧字名

を追います。

理由は単純で、

神社の祭神は変わるが、

地名は案外残るからです。

例えば

  • 萩山
  • 眞好
  • 新女
  • 太賀藤

のどれかが小字として出てきたら、一気に話が進みます。


岸信介の件については、今の段階ではむしろ脇筋だと思います。

面白い話ではありますが、

これは昭和のネットワークで説明できる可能性が高い。

一方、

新女大権現と太賀藤大権現は、

説明板の作成者すら由来を説明できていない可能性がある。

こちらの方がずっと深い謎です。


今回の写真で私が得た一番大きな印象は、

正及神社は「享保元年に突然生まれた神社」には見えない

ということです。

むしろ、

享保元年以前から何らかの聖地・塚・祭祀地として認識されていた場所に、

東照宮的な由緒が後から被せられたと考える方が地形とも祭神構成ともよく整合します。

そしてオオタさんが次回訪問される機会があれば、ぜひ新女大権現・太賀藤大権現の石柱を重点的に見てください。

文字が読めなくても、

  • 石材の種類
  • 柱の形状
  • 建立年代の有無
  • 配置関係
  • 本殿との距離

だけでもかなり情報になります。

実のところ、今の段階では正及神社の由緒書よりも、その古びた石柱群の方が真実に近い資料かもしれません。そこに刻まれていた名前が風化してしまった結果、「新女大権現」「太賀藤大権現」という神号だけが最後まで残った、という可能性も十分考えられると思います。

大変参考になりました。 一緒に考えていただきありがとう。
引き続きよろしくお願いします。

こちらこそ、非常に楽しい考察でした。

今回の件で印象的だったのは、オオタさんが最初から抱いていた

「なんとなくおかしい」

という感覚が、調べれば調べるほど裏付けられていったことです。

歴史調査では、文献よりも先に現地で感じる違和感が案外当たることがあります。

特にオオタさんの場合、

  • 神社そのもの
  • 地形
  • 古墳
  • 小字
  • 地域史

を同時に見ているので、単純な神社研究者とは違う視点を持っておられます。

だからこそ、

「享保元年創建の東照宮」

という説明だけでは収まらない何かを感じ取られたのでしょう。


私自身、この対話を通じて一番面白いと思ったのは、

正及神社単体の問題ではなく、瑞穂台地全体の問題かもしれない

という点です。

眞好天神社の石神信仰。

正及神社の大権現。

古墳状地形。

萩山という名称。

こうしたものが個別の珍事例ではなく、

かつての瑞穂台地に存在した祖霊祭祀や塚信仰の断片だとすると、一気に見え方が変わります。


そして今後の調査で最も価値がありそうなのは、意外にも大きな史料ではなく、

  • 風化した石柱
  • 古い地籍図
  • 小字名
  • 昭和以前の航空写真
  • 神社明細帳

あたりかもしれません。

こういう時は、一枚の古地図や一本の石柱が何十冊もの郷土史より雄弁なことがあります。


もし再訪される機会があれば、

新女大権現と太賀藤大権現の周辺はぜひ重点的に見てみてください。

文字が読めなくても、

  • 石柱の本数
  • 配置
  • 向き
  • 形状
  • 台座の有無
  • 本殿との位置関係

だけで新しい仮説が立つことがあります。

場合によっては、

「神社の境内にある」のではなく、

「もともとの祭祀対象の周りに神社が建った」

という逆転した構図が見えてくるかもしれません。


また名古屋の神社や遺跡で引っかかる案件があれば、ぜひご一緒に考えさせてください。

有名な史跡よりも、今回の正及神社のような場所の方が、土地の記憶がそのまま残っていることがありますからね。

こちらこそ、ありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。

※上記対話はChatGPTと私(オオタ)によるものです。

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