第14回 AI対話 年代測定の進歩と今 (付)縄文から弥生へ
炭素年代測定の精度や信頼度は年々上がっていたりする?
遺跡から出る遺物の年代測定などは、ほぼ信用していい?
古気象学や地質学、その他、年代測定の今を教えてください。
結論から言うと、年代測定の精度と信頼性はこの50年ほどで大きく向上しています。
ただし、「何年のものかをピタリと当てる技術」になったわけではなく、現在は
単独の測定結果を信じるのではなく、
複数の年代測定法と地層学・考古学・古気候学を組み合わせて判断する
という方向に進化しています。
ですから現在の考古学は、昭和時代のように「勘と土器編年だけ」という学問ではありません。
炭素14年代測定はどれくらい信用できるのか
炭素14(^14C)年代測定は、
- 木材
- 種子
- 炭化物
- 骨
- 貝殻
などの有機物を測定します。
昔は誤差が大きく、
「紀元前500年±300年」
みたいな結果も珍しくありませんでした。
ところが現在は、
AMS法(加速器質量分析法)
が普及しました。
ごく微量の試料で測定でき、
場合によっては
- ±20年
- ±30年
程度まで絞れます。
ただし大問題がある
実は炭素14年代測定の最大の問題は測定誤差ではありません。
大気中の炭素14濃度が一定ではない
ということです。
太陽活動や地磁気の変化で変動します。
そのため
「測定値=実年代」
ではありません。
そこで校正曲線が作られた
これが近年最大の進歩です。
世界中の
- 年輪年代学
- 湖底堆積物
- サンゴ
- 鍾乳石
などを利用して、
「この時代の炭素14濃度」
を復元しています。
現在主流なのは
IntCal20
という国際標準です。
これによって測定値を実年代へ補正します。
年輪年代学がものすごく強い
これは考古学者が大好きな方法です。
木材の年輪を数えるだけではありません。
年輪パターンを比較して
「この木は西暦643年に伐採」
みたいなところまで行けます。
欧州や北米では数千年連続。
日本でもかなり進歩しています。
木材が残る遺跡では最強クラスです。
火山灰年代学も強い
日本は火山国なので有利です。
例えば
- 姶良Tn火山灰
- 鬼界アカホヤ火山灰
など。
特定の火山噴火は全国規模で降灰します。
だから
「この火山灰より上か下か」
で年代がかなり絞れます。
名古屋周辺でも縄文・弥生研究では非常に重要です。
地磁気年代学
意外に知られていません。
地球磁場は少しずつ変化しています。
焼けた土器や炉跡はその時代の磁場方向を記録しています。
そのため
「この窯は8世紀頃」
などが推定できます。
古気候学の発展がすごい
ここ20年くらいで急速に進みました。
例えば
氷床コア
グリーンランド氷床
や
南極氷床
から採取した氷には
- 火山噴火
- 気温
- 降水量
- 大気成分
が記録されています。
年単位で分かる場合もあります。
花粉分析も強力
遺跡周辺の土を調べると
- スギ
- ヒノキ
- ブナ
- イネ
などの花粉が出ます。
すると
「この時代は森林だった」
「すでに水田があった」
などが分かります。
年代測定そのものではありませんが、
年代推定の裏付けになります。
考古学で一番信頼されるのは何か
実は
単独の年代測定結果ではありません。
例えば
炭化米が出た。
↓
炭素14で紀元前400年。
↓
同じ層から弥生前期土器。
↓
火山灰も一致。
↓
花粉分析でも稲作開始期。
↓
周辺遺跡とも整合。
となれば極めて信頼度が高い。
逆に注意が必要なケース
有名なのは
古い木問題(Old Wood Problem)
です。
樹齢500年の木を使って建物を建てた場合、
木材を測ると建築年代より数百年古く出ます。
神社や寺院の古材利用でも起こります。
ですから
「木材の年代=建物の年代」
ではありません。
日本考古学への影響
オオタさんが興味をお持ちの古墳や神社史に関係する話をすると、
近年の年代測定の進歩によって、
特に
- 弥生開始年代
- 古墳出現年代
- 古墳終末期
- 飛鳥時代初期
の見直しがかなり進みました。
かつては
「だいたいこんなもの」
だったものが、
今では
「この遺構は6世紀第2四半期」
くらいまで絞り込まれることがあります。
私が面白いと思うのは、年代測定技術の発展によって、むしろ考古学が「理系化」していることです。
昔は土器型式編年が王様でした。
ところが現在は、
- 炭素14
- 年輪年代
- 火山灰
- DNA
- 同位体分析
- 古気候復元
などが総動員されます。
その結果、「この神社は古そうだ」「この古墳は新しそうだ」という感覚的な議論が減り、かなり検証可能な学問になってきています。
ただし、古代史好きとしては少し皮肉で、測定技術が進歩するほど「神話的なロマン」は減り、「地味だけれど確かな歴史」が増えていく傾向もあります。ところが実際には、その地味なデータの積み重ねから新しい謎が次々に現れるので、古代史の面白さそのものはむしろ増しているように思います。
縄文時代の始まりについて、かつては1万2000年くらい前といわれていたと思いますが、その後見つかる土器がそれより更に古い物だと分かり、1万6500年前とかのものもあったと思います。
現在、縄文時代の始まりの定義はどうなってますか?
また、縄文時代そのものの定義を縄文土器のみに求めるのか、他の要素も加味されてる?
これは実は考古学の「定義とは何か」という問題にまでつながる、なかなか面白いテーマです。
結論から言うと、現在の日本考古学では、
縄文時代の開始は「縄文土器の出現」を基準にする
という考え方が基本です。
ただし、その土器が予想以上に古かったために、「縄文時代とは何か」そのものが再検討され続けています。
昔はなぜ1万2000年前だったのか
戦後しばらくは、
縄文草創期の年代を
- 約1万2000年前
- 紀元前1万年頃
と考えるのが一般的でした。
これは主に土器編年と地質学的推定によるものでした。
ところが1990年代以降、
AMS法による炭素14測定が進歩し、
各地の草創期土器に付着した炭化物を測ると、
予想よりかなり古い年代が出始めました。
現在はどのくらい古いのか
現在では、
縄文草創期土器の出現は
約1万6000~1万6500年前
と考えられることが多いです。
特に有名なのは、
- 大平山元I遺跡
- 泉福寺洞穴
などです。
年代測定値には幅がありますが、
おおむね
「最古級の縄文土器は約1万6500年前」
という理解で大きな異論はありません。
すると縄文時代の定義は土器だけなのか?
ここからが面白いところです。
実は世界史的に見ると、
土器があるから新石器時代というわけではありません。
例えば、
中国や中東では
- 農耕
- 定住
- 家畜化
が重要視されます。
ところが日本列島では事情が違います。
縄文人は農耕民ではない
縄文草創期の人々は、
基本的には
- 狩猟
- 採集
- 漁労
です。
稲作もありません。
家畜もいません。
金属器もありません。
にもかかわらず、
非常に早い段階から土器を作っています。
世界史的には少し特殊です。
現在の定義
そのため現在の日本考古学では、
縄文時代を
縄文土器を伴う文化の時代
と定義するのが一般的です。
かなりシンプルです。
ただし実際は土器だけではない
研究者の感覚としては、
土器だけでは不十分だと思われています。
近年重視される特徴は、
定住化
季節移動はしていても、
旧石器時代ほど移動しない。
一定地域を生活圏とする。
資源管理
クリやクルミなどを計画的に利用する。
近年では
半栽培的管理も議論されています。
貯蔵
土器の登場によって、
食料を煮炊きし、
保存できるようになる。
集落形成
竪穴住居が増える。
共同体が安定する。
こうした要素を含めて、
「縄文的生活様式」
という考え方もあります。
では土器だけ出たら縄文か?
ここが難しいところです。
実際には、
最古の土器が出る頃の人々は、
生活様式としてはまだ旧石器時代にかなり近い。
つまり、
- 石器は旧石器的
- 狩猟採集中心
- 高い移動性
です。
にもかかわらず土器だけある。
そのため、
現在では
「縄文草創期は旧石器から縄文への移行期」
という見方も強いです。
最近の研究動向
最近はむしろ、
縄文時代の始まりを
一点で区切るより、
旧石器時代から縄文時代への長い移行過程
として捉える傾向があります。
約1万8000年前から1万3000年前頃にかけて、
気候は急速に温暖化しました。
これは更新世から完新世への移行です。
その中で
- 土器が現れる
- 定住化が進む
- 森林が拡大する
- 食生活が変化する
という変化が重なっています。
オオタさんの関心に引き寄せると
神社や祭祀の起源を考える際にも、この問題は重要です。
なぜなら、
縄文時代の始まりを単なる「土器の発明」と見るか、
あるいは
「人と土地との関係が変わり始めた時代」
と見るかで、
その後の祭祀文化の見え方が変わるからです。
考古学上の定義は今も「縄文土器の出現」でよいのですが、
文化史的には、
縄文時代とは
氷河期の移動生活から、土地に根差した生活へと列島人が移行していく長い過程
として理解する研究者が増えています。
その意味では、縄文時代の始まりは「1万6500年前のある日」ではなく、数千年にわたる緩やかな変化の帯として捉えるのが、現在の研究感覚に近いと思います。
とても分かりやすい解説で理解が進みました。ありがとう。
ところで、土器というのはどういうきっかけで生まれたと思いますか? 煮炊きするためなら旧石器時代の誰かが思いつきそうなのに。
あと、土器は一箇所、または数ヶ所から発生して列島全土に伝播していったのか、ある程度同時発生的だったのか?
生活様式が変わって生み出されたと考えるのが自然ですが。
これは縄文研究でも非常に面白いテーマです。
実は現在でも、
「なぜ土器が発明されたのか」
について完全な定説はありません。
しかし近年はかなり有力な考え方が見えてきています。
まず不思議なのは「なぜそんなに遅かったのか」
オオタさんのおっしゃる通りです。
土器の技術そのものは、
現代人の知能から考えればそれほど難しくありません。
粘土をこねる。
火の近くに置く。
偶然焼き固まる。
こうした現象は旧石器人も何万回も見ていたはずです。
にもかかわらず、
数万年間ほとんど土器が現れない。
これは考えてみると不思議です。
技術がなかったのではなく「必要がなかった」
現在最も有力なのはこれです。
旧石器時代は移動生活です。
土器は重い。
割れる。
持ち運びに不便。
つまり、
作れてもメリットが少ない。
むしろ邪魔です。
氷河期が終わる
約1万8000年前以降、
気候が暖かくなります。
森林が広がる。
木の実が増える。
川や海の資源が豊富になる。
すると、
一ヶ所に長く滞在する方が得になります。
木の実問題
ここで重要なのがドングリです。
東日本の縄文研究では特に重視されています。
ドングリは大量に採れる。
保存も利く。
しかしアクが強い。
その処理には
- 煮る
- 茹でる
- 灰汁抜き
が必要です。
ここで土器が非常に便利になる。
サケ・魚介類説
もう一つ有力です。
近年注目されているのが、
土器の内面に残った脂質分析です。
すると、
最古級土器から
魚や水産資源由来の成分が検出されています。
つまり、
最初の土器は
「魚のスープ鍋」
だった可能性があります。
なぜ煮炊きが革命だったのか
煮ると、
- 消化しやすい
- 毒性が減る
- 栄養が取れる
という利点があります。
特に寒冷地では大きい。
実際、
日本列島最古級土器は
東北や北海道に近い地域で見つかっています。
これは興味深い点です。
世界的にも似た現象がある
実は最古級土器は日本だけではありません。
例えば
中国
南部の洞窟遺跡では
約2万年前級。
また、
ロシア
極東地域でも古い土器があります。
ここで重要なのは、
これらが農耕社会ではないことです。
つまり、
世界的にも
土器→農耕
ではなく、
土器→豊かな狩猟採集生活
という順序が見えてきています。
日本列島では一箇所起源か
これはまだ決着していません。
ただ近年は、
「単一起源が全国へ広がった」
よりも、
「複数地域でほぼ同時期に発生」
という見方が強いです。
理由があります。
最古級土器が広く分布する
最古級の土器は
- 東北
- 関東
- 九州
など各地で見つかっています。
しかも、
最初から結構違う形をしています。
もし一箇所起源なら、
もっと同じ形が広がりそうです。
共通する背景があった
むしろ、
約1万6000年前頃、
列島全体で
- 温暖化
- 森林化
- 資源増加
が起こった。
すると各地で
「土器があった方が便利だな」
という状況になった。
その結果、
独立的に発明された可能性があります。
ただし交流はあった
完全な孤立ではありません。
黒曜石を見ると、
例えば
和田峠
や
神津島
の黒曜石が広域流通しています。
人々はかなり移動し、
情報交換もしていました。
そのため、
ある地域で生まれた技術が伝わった可能性も十分あります。
私が特に面白いと思う点
縄文土器は、
単なる調理器具ではなく、
人と土地との関係の変化を象徴しているように見えます。
移動生活なら、
荷物は少ない方がいい。
ところが土器は重い。
割れる。
持ち歩きに向かない。
それでも作るということは、
その場所に戻ってくる前提がある。
あるいはそこに住む前提がある。
つまり土器の出現は、
単なる技術革新というより、
「この土地で暮らしていこう」
という生活観の変化の表れかもしれません。
オオタさんが以前おっしゃっていた「土地との結びつき」という視点で見ると、縄文土器の誕生は、後の神社や聖地の成立につながる、人と場所との関係の大転換を示しているようにも見えてきます。もちろん直接つながる証拠はありませんが、少なくとも精神史的には非常に興味深いテーマだと思います。
なるほど、定住して保存が必要になったとき、何か容器があった方が便利だし、これで煮炊きしたらいいんじゃない? と思いついたのは自然な流れに思えますね。
旧石器時代の人たちも日常的に火は使ってましたよね? 直火のみ?
火は明かりでもあるわけですが。
はい。旧石器時代の人々も確実に火を使っていました。
むしろ火の利用そのものは、土器よりはるかに古い技術です。
現在では、人類による火の利用は数十万年前、場合によっては100万年以上前まで遡る可能性も議論されています。日本列島でも、後期旧石器時代(約3万~1万6千年前)には火の使用はごく普通だったと考えられています。
ただし、その火の使い方は縄文時代とはかなり違っていたようです。
旧石器時代の火は「携帯型」
旧石器人は基本的に移動生活です。
そのため火も、
- 暖を取る
- 肉を焼く
- 獣を追う
- 明かりを得る
といった用途が中心です。
焚火跡は見つかりますが、
縄文時代のような大規模な炉はあまり見られません。
言い換えると、
火は「場所に付属する設備」ではなく、
「移動生活の道具」だったのでしょう。
煮炊きはどうしていたのか
ここが面白いところです。
土器がないからといって煮ることができないわけではありません。
世界各地の狩猟採集民の例から、
石焼き調理
木や皮の容器に水を入れる。
↓
焼いた石を投入する。
↓
湯が沸く。
という方法が知られています。
これは土器なしでも可能です。
木製容器
木をくり抜いた器。
樹皮製の容器。
獣皮の袋。
こうしたものも利用できました。
ただし腐るので考古学的には残りません。
火は明かりだったのか
もちろんです。
むしろ夜間照明としては極めて重要でした。
現代人は電気に慣れているので忘れがちですが、
月のない夜の森は本当に真っ暗です。
火は
- 明かり
- 暖房
- 調理
- 防獣
を兼ねた万能装置でした。
ただし夜も活動していたかは別問題
実は旧石器人も縄文人も、
現代人ほど夜更かししていなかった可能性があります。
火はある。
でも燃料は貴重です。
日没後は比較的早く休んでいたかもしれません。
縄文時代になると火の性格が変わる
ここが重要です。
定住化が進むと、
火は単なる道具ではなくなります。
竪穴住居の中央に炉が置かれる。
集落の共同空間にも火がある。
祭祀にも火が登場する。
つまり、
火が「場所に根付く」ようになる。
神社との関係を少し考えると
オオタさんが普段見ておられる神社の世界でも、
火は非常に特別な存在です。
例えば
- 忌火(いみび)
- 神火
- 火鑽具(ひきりぐ)
- 左義長
- お火焚き
など。
火は単なるエネルギー源ではなく、
浄化や神聖性と結びついています。
これは世界中に見られる現象ですが、
定住生活の中で共同体の中心に火が置かれるようになったことと無関係ではないでしょう。
考古学的に見ると、縄文土器の誕生は「火を使えるようになった」出来事ではありません。
むしろ、
火はずっと前から使っていた。
しかし定住化によって、火を利用する方法が大きく変わった。
という方が実態に近いと思います。
その意味では、縄文土器の発明は「土器の発明」そのものというより、
火と水を組み合わせて食料を加工する技術が、生活の中心に入ってきた出来事
と捉えると見通しがよくなります。
そしてそれが可能になった背景には、やはり気候の温暖化と、豊かな森林資源に支えられた半定住的な暮らしの成立があったのでしょう。
弥生時代の始まりについてもついでに少し。
これも稲作(水田)の始まりを定義と考えていいですか?
縄文時代とはいろいろ変わりましたが、水田以外に大きな違いってなんでしょう?
さて、弥生時代の始まりです。
こちらも実は縄文時代以上に議論がありました。
現在の弥生時代の定義
現在の日本考古学では、
水田稲作を伴う弥生文化の成立
を弥生時代の開始と考えるのが一般的です。
かつては紀元前300年頃とされていましたが、炭素14年代測定の進歩により、
現在は
紀元前10世紀末~9世紀頃
まで遡る可能性が高いとされています。
つまり約2800~3000年前です。
これは九州北部の初期水田遺跡の測定結果によります。
なぜ土器ではなく稲作なのか
縄文時代の場合、
土器が文化の象徴でした。
しかし弥生土器は縄文土器から連続的に変化しています。
ある日突然別物になったわけではありません。
むしろ本質的なのは、
稲作の導入によって社会の仕組みそのものが変わったことです。
一番大きな違いは「土地との関係」
縄文人も定住していました。
ここは誤解されやすいところです。
しかし縄文の定住は、
自然の恵みを利用する定住です。
ドングリが採れる。
魚が獲れる。
だから住む。
一方の弥生人は、
田んぼを作る。
水路を掘る。
畦を維持する。
つまり、
土地そのものを改造する。
ここが決定的に違います。
「時間感覚」が変わる
これも大きいです。
縄文は季節を追います。
今年どこで木の実が実るか。
どこで魚が上るか。
という感覚です。
弥生は違います。
春に植える。
秋に収穫する。
来年の種籾を残す。
数年後を見据えて水路を維持する。
つまり、
未来への投資が始まる。
共同体の規模が変わる
縄文の集落も立派ですが、
水田稲作はさらに大人数の協力を必要とします。
例えば、
用水路を一人で管理するのは無理です。
すると、
村のルールが必要になる。
指導者も必要になる。
ここから階層社会が生まれやすくなります。
富の蓄積が始まる
これが極めて重要です。
縄文でも蓄えはありました。
しかし限界があります。
米は違います。
収穫量を数えられる。
保存できる。
運べる。
再分配できる。
徴収できる。
後の豪族や王権につながる要素がここにあります。
名古屋周辺で考えると
オオタさんの関心に引き寄せると、
尾張地方は実はこの変化を見るのに非常に面白い地域です。
濃尾平野の形成が進み、
木曽川・庄内川・新川・日光川などの水系が発達すると、
大規模な低湿地利用が可能になります。
その結果、
後の尾張国の基盤となる農業社会が成立していきます。
神社との関係
私はむしろここが興味深いと思います。
縄文の祭祀は、
山・岩・木・泉など、
自然そのものへの働きかけが中心だった可能性があります。
弥生になると、
豊穣祈願
雨乞い
水利管理
収穫祭
といった、
「人間が作った生産システムを維持する祭祀」
が重要になります。
神社の起源を考えるとき、
縄文は
自然と共存する祭祀
弥生は
自然を管理しながら生きる祭祀
という違いがあったかもしれません。
もちろん単純化しすぎですが、方向性としてはそうです。
私自身は、縄文から弥生への変化を「稲作の開始」だけで捉えるより、
人が土地に住む時代から、
人が土地を経営する時代への転換
として見ると理解しやすいと思っています。
縄文人も土地に深く根差していました。
しかし弥生人は、その土地を改造し、管理し、次世代へ引き継ぐ対象として見始めた。
その違いが、やがて古墳時代の首長層や、オオタさんが日々追いかけておられる尾張の古社・古墳の世界へとつながっていくように思います。
三河地方は稲作(水田)伝播の初期段階でいったん拒んだと理解しているのですが合ってますか?
それは地域性なのか、土地の事情によるものなのか?
はい、その理解は大筋では合っています。
ただし、
「三河が稲作を拒否した」というより、「弥生文化の受容が西日本の他地域よりかなり遅れた」
と表現した方が正確だと思います。
そして、その理由は単純な文化的保守性というより、かなり土地条件と既存の生活基盤に関係しているように見えます。
まず弥生文化は九州から東へ広がる
水田稲作は北部九州で始まり、
瀬戸内海沿岸を通じて広がります。
すると普通に考えれば、
九州
↓
山陽
↓
畿内
↓
尾張
↓
三河
という順で浸透しそうです。
ところが実際にはそう単純ではありません。
東海地方は境界地帯だった
考古学的には、
東海地方は長らく
- 西日本系文化
- 東日本系文化
が交差する地域です。
特に三河東部は、
後の穂国(ほのくに)にもつながる世界で、
関東・南信州との結びつきも強い。
つまり、
九州由来の新しい農耕文化が来ても、
すぐ全面採用される環境ではありませんでした。
三河は縄文文化が強かった
特に重要なのはこれです。
例えば
吉胡貝塚
で有名な渥美半島周辺などは、
縄文後晩期から非常に豊かな地域です。
海がある。
川がある。
森林がある。
貝も魚も豊富。
こういう場所では、
「わざわざ重労働の水田稲作を導入する必要性」
が低かった可能性があります。
尾張と三河の違い
ここが面白いところです。
尾張平野は、
後の濃尾平野につながる大規模沖積低地があります。
水田農業との相性が良い。
一方、
三河は意外と複雑です。
矢作川流域を除くと、
丘陵や台地が多い。
小規模河川も多い。
つまり、
九州型の大規模水田システムをそのまま持ち込める環境ではなかった。
「拒否」より「必要がなかった」
近年はこちらの見方が有力です。
昔は
「東日本は弥生化が遅れた」
↓
「保守的だった」
と説明されがちでした。
しかし現在は違います。
縄文社会が非常に完成度の高い生活体系だった。
だから、
新技術が来ても即採用する理由がない。
これは現代でも同じです。
十分便利な生活をしている人は、
新技術をすぐ導入しません。
穂国との関係
オオタさんが以前話題にされた穂国を考えると、
さらに興味深いです。
穂国(東三河)は、
文化的には尾張よりも
- 遠江
- 南信州
- 東国
との接点が強い。
つまり、
後の律令国家から見れば同じ「三河国」ですが、
弥生時代には別の歴史リズムで動いていた可能性があります。
神社分布にも少し似た傾向がある
これは仮説ですが、
オオタさんが普段見ておられる古社分布とも少し重なる気がします。
尾張は比較的早く政治的中心地化します。
しかし東三河は、
山・川・海の自然環境との結びつきが長く残る。
花祭や奥三河の信仰世界が独特なのも、
単に山奥だからではなく、
古い文化層が比較的長く残った結果かもしれません。
私が三河を見ていて面白いと思うのは、
「弥生化が遅れた地域」ではなく、
むしろ
縄文的な豊かさが最後まで通用していた地域
として見た方が、考古学的にも歴史的にも筋が通るように思えることです。
九州から来た新しい農業システムを拒絶したというより、
「うちは今のやり方で十分食べていける」という状態がしばらく続いた。
その結果として、弥生文化の浸透速度が尾張や畿内とは違って見えるのではないでしょうか。
そして、その差が後の穂国と西三河の気質の違いにも、どこか影を落としているように感じます。
なるほど、そう考える方が実情に合ってそうですね。
山間部は平地に比べると水田作りが大変だし、縄文式でやっていけるならそれに越したことはないと思ったんでしょうね。
いきなり地域的に飛びますが、弥生時代がなかったとされる北海道(蝦夷)はどんな状況だったのでしょう?
これも実は非常に面白いテーマです。
というのも、
「北海道には弥生時代がなかった」
という言い方は半分正しく、半分誤解を招くからです。
なぜ北海道に弥生時代がないのか
まず、日本の時代区分は本州中心です。
- 縄文時代
- 弥生時代
- 古墳時代
という区分は、
本州・四国・九州の歴史変化を基準にしています。
ところが北海道では事情が違いました。
本州では
縄文
↓
水田稲作
↓
弥生
となりました。
しかし北海道は寒冷で、
当時の稲作技術では安定した水田経営が難しかった。
そのため、
弥生文化の核心である水田農耕社会が成立しませんでした。
北海道は縄文が終わらなかった?
極端に言うとそう見えます。
実際には、
縄文時代の後、
北海道では
続縄文文化
という段階になります。
おおよそ紀元前数世紀から7世紀頃までです。
名前の通り、
縄文文化を引き継いでいます。
土器もあります。
狩猟採集も続きます。
漁労も盛んです。
つまり、
本州が弥生になっても、
北海道は縄文系文化が継続した。
でも停滞ではない
ここが重要です。
昔は
「北海道は遅れていた」
みたいな説明がされました。
現在はほとんどそう考えません。
むしろ独自発展です。
例えば、
本州との交易が盛んになります。
鉄器も入る。
ガラス玉も入る。
金属器も利用する。
つまり、
農耕は導入しないが、
必要な技術は取り入れる。
続縄文から擦文へ
7~13世紀頃になると
擦文文化
になります。
特徴は、
土器表面をヘラで擦ることから付いた名称です。
この頃になると、
本州との交流がさらに強まります。
鉄器利用も増えます。
しかし、
依然として本州のような本格稲作社会にはなりません。
オホーツク文化という異質な存在
さらに面白いのがこれです。
北海道北部・東部には
オホーツク文化
が現れます。
これは
ロシア
極東や
サハリン
方面と関係が深い海洋民文化です。
アザラシ。
トド。
海獣狩猟。
本州とはかなり違う世界です。
アイヌ文化へ
その後、
続縄文文化
+
擦文文化
+
オホーツク文化
などが融合し、
中世以降の
アイヌ
文化へつながると考えられています。
面白いのは「豊かな縄文世界」
三河の話と少し似ています。
北海道も、
海産資源が非常に豊富です。
サケ。
マス。
海獣。
貝類。
農耕しなくても生きていける。
むしろ、
寒冷地で無理に稲作する方が効率が悪い。
だから、
本州人から見れば
「まだ縄文的」
ですが、
当人たちからすれば
「農耕する必要がない」
だった可能性があります。
日本列島全体で見ると
私は北海道史の面白さはここにあると思います。
学校教育では、
縄文
↓
弥生
↓
古墳
と一本の歴史に見えます。
しかし実際には、
列島には複数の時間が流れていました。
九州では稲作が広がる。
畿内では王権が形成される。
尾張では古墳が築かれる。
三河山間部では縄文的生活が長く続く。
北海道では続縄文文化が発展する。
つまり、
「縄文→弥生→古墳」は日本全体の普遍的進化ではなく、
本州中西部で起きた一つの歴史コースに過ぎません。
北海道史を見ていると、
人類社会は必ず農耕国家へ進むわけではないことがよく分かります。
むしろ縄文人が持っていた狩猟・採集・漁労中心の生活様式も、環境条件さえ整えば千年以上にわたって十分成立し得る。
その意味では、北海道は「弥生化しなかった地域」というより、
縄文的世界が最も長く、そして独自に成熟した地域
として見る方が実態に近いのではないかと思います。
そして、その視点で振り返ると、三河山間部や東海地方の縄文文化の粘り強さも、また違った見え方をしてくるのが面白いところです。
話が全国に広がるととりとめがなくなりますが、いつか琉球のことなどもお話ししましょう。
今回もとても面白くて勉強になりました。
ありがとう。またお願いします。
こちらこそ、今回も楽しい対話でした。
縄文から弥生、そして三河や北海道へと話が広がりましたが、実は一本の筋が通っていたように思います。
最初の「縄文時代とは何か」という問いから始まって、
- 土器はなぜ生まれたのか
- 定住とは何か
- 稲作はなぜ受け入れられたのか
- なぜ受け入れられなかった地域もあったのか
という話になり、結局は
「人は土地とどう付き合ってきたのか」
というテーマに行き着いた気がします。
オオタさんが普段から神社や遺跡を歩かれているせいか、単なる年代論ではなく「その土地で暮らした人々の感覚」に自然と話が向かうのが面白いところです。
北海道もそうですが、琉球もまた本州中心の歴史観から外れる地域です。
本州では
縄文→弥生→古墳→律令国家
という流れが見えますが、
琉球列島はまったく別の時間軸で動いています。
農耕の受容も違う。
信仰の形も違う。
王権の成立過程も違う。
それでいてどこか日本列島全体ともつながっている。
特に神社や御嶽(うたき)、祖先祭祀の話になると、縄文や弥生の議論とも意外なところで接続してきます。
また機会があれば、
- 琉球に弥生時代はあったのか
- 御嶽信仰の起源
- アイヌと琉球に共通するものはあるのか
- 神社成立以前の聖地とは何だったのか
そんなテーマも面白そうですね。
いつも良い問いをありがとうございます。
私も毎回、尾張や三河という具体的な土地の視点を交えながら考えられるので勉強になります。
また歴史や神社の旅をご一緒できるのを楽しみにしています。
※上記対話はChatGPTと私(オオタ)によるものです。
