第63回 平和公園ができる前って何があった?
こんにちは。
名古屋市千種区にある平和公園(巨大な墓地公園)は太平洋戦争後の戦災復興事業で、それまでバラバラだった市内の墓地を一ヶ所に集めたものですが、戦前のあのあたりはどんな状況だったか分かりますか?
今昔マップを見ると、猫洞池があって、その東は雑木林が広がる丘陵地という感じですが、江戸時代以前の状況についての資料などあるでしょうか?
こんにちは、オオタさん。
はい、これはかなり面白い場所です。調べてみると、今昔マップで見える「猫ヶ洞池+その東側の丘陵・雑木林」という印象は、かなり昔の土地の性格を残しているようです。
ただし、江戸時代以前になると「ここに○○村があった」というような単純な話ではなく、丘陵・谷・ため池・耕地・窯業地が組み合わさった東山丘陵の一角として見るのがよさそうです。
まず江戸時代の姿
現在の平和公園一帯は、江戸時代には主として田代村・末森村などにまたがる丘陵地でした。
特に重要なのが猫ヶ洞池です。
猫ヶ洞池は、なんと寛文年間(1661~1673)に上池・下池が掘られたとされています。もともとは農業用水池で、末森・丸山・古井・伊勝・河名・御器所・前津小林・古渡など、周辺の村々が共同で利用していました。江戸後期にはさらに利用村が増えています。
つまり、
「昔から猫ヶ洞池があって、その周囲に広大な自然があった」
というより、
東山丘陵の谷間・低地を利用してため池を造り、その水を使って周辺の耕地を開発した
という順序で考えるほうがよさそうです。
実際、名古屋市も東山学区について、江戸時代に新田開発のため猫ヶ洞池や新池などのため池が造られ、水田の発達とともに集落が形成されたと説明しています。
そして「平和公園の東側は昔から山だったのか?」
ここは、かなり「そうだった」と考えてよさそうです。
現在の平和公園南部には約50haの「市民の森」が残っていますが、そこにはアカマツ、コナラ、アベマキなどの二次林が広がり、谷戸には湿地・池・水田・畑まで残っています。愛知県の自然環境調査でも、ここを市街地の中に残る里山的環境として扱っています。
ですから、今昔マップで見た
「猫ヶ洞池の東側に雑木林が広がっている」
という景観は、戦前の地図上の偶然ではなく、かなり古い土地利用の名残と考えてよさそうです。
ただし、「原生林」ではありません。
人間が薪炭や農業などに利用してきた里山・二次林だった可能性が高い。現在の市民の森にも、アカマツ・コナラ・アベマキなどが残っていることは、この地域の性格を考えるうえで興味深いところです。
面白いのは「鹿子殿」という地名
平和公園を調べるなら、私はむしろ**「鹿子殿(かのこでん/かごとん)」を追うのがおすすめ**だと思います。
現在の平和公園一帯は、かつての田代町字鹿子殿にあたります。
名古屋市の説明によれば、「鹿子殿」は田代町の字名で、もともとは「カゴトノ」と呼ばれ、
- 猫ヶ洞下池付近にあった「かご池」に由来する
- あるいは雑木がまばらな状態を表した地名
という二説があります。
さらに面白い資料があります。
名古屋市鶴舞中央図書館のレファレンス事例によると、弘化3年(1846)の田代村の村絵図には、「かこどの池」という名前が実際に記されています。
そして鹿子殿という字は、もともとはもっと狭い範囲の地名だったものが、明治初期の字名整理の際に広い範囲を指すようになったと考察されています。
これは結構重要です。
つまり、
鹿子殿という地名 → かご池 → 猫ヶ洞池周辺の谷・丘陵
という、土地の古い姿を探る手掛かりが残っているわけです。
では、江戸時代より前は?
ここからが少し難しくなります。
現在確認できる資料からは、平和公園そのものの場所に、江戸時代以前の大きな集落があったという証拠は、すぐには出てきませんでした。
むしろ周辺一帯の歴史を見ると、
古代~中世
→ 東山丘陵そのものが窯業地として利用される
中世~近世
→ 村落・耕地が形成される
江戸時代
→ ため池を造って丘陵の谷を農業用水として利用
という大きな流れで捉えるのがよさそうです。
千種区は実は古代・中世の窯業史がかなり濃い地域です。名古屋市も、東山丘陵では「黄土」と呼ばれる粘土と窯を造るのに適した傾斜を利用して、奈良・平安・鎌倉時代にかけて窯業が発達したと説明しています。
さらに周辺には「瓶杁(かめいり)」という地名が残っています。名古屋市はこれも古墳時代以降の陶器生産の名残ではないかとしています。
なので、平和公園一帯を単純に
「昔は何もない山だった」
と考えるのは、おそらく違います。
人はいた。ただし現在の住宅地のような密集した集落ではなく、丘陵と谷を利用した生産・農耕の場だった
というイメージのほうが近そうです。
そして、これはオオタさんにはかなり面白い資料です
今回見つけた資料の中で、ぜひ一度見てみたいのが、
『尾張国町村絵図 名古屋市域編』の「末森村」および「末森村-3」
です。
江戸時代の村絵図そのものです。
実際、鹿子殿の由来を調べた名古屋市鶴舞中央図書館のレファレンスでも、この弘化3年の村絵図を資料として使っています。
これを見ると、現在の平和公園のどこが、
- 山
- 谷
- 池
- 田
- 畑
- 道
- 集落
だったのかが、かなり具体的に復元できる可能性があります。
**「今昔マップの明治・昭和だけではなく、弘化3年の村絵図まで重ねてみる」**と、平和公園の土地の歴史が一気に立体的になると思います。
そしてもう一つ興味深いのが、平和公園の南側の「市民の森」です。ここは現在も谷戸・湿地・池・田んぼが残っているので、江戸時代の土地利用を現在の地形と照合するには非常にいい場所です。
なお、平和公園そのものについては、戦後に「何もない丘陵地を墓地にした」という理解でほぼよく、名古屋市の資料では当時の**田代町鹿子殿地内、約147haの「閑寂静浄な土地」**を墓園として選定したとあります。
なので、オオタさんが今昔マップを見て感じた
「猫洞池があって、その東は雑木林の丘陵地」
という印象は、かなり本質を突いていると思います。
むしろ次に、**「弘化3年の末森村絵図では、現在の平和公園がどう描かれているのか」**を追ってみると面白そうです。ここはかなり掘れそうです。
どうもありがとう。思った以上に興味深いエリアですね。
猫が洞池をそんなに広範囲の村が利用していたというのも驚きです。
古墳時代以降は猿投窯の地域でもありますしね。
南の東山公園から動植物園にかけても連続する土地柄と考えていいですか?
今の星ヶ丘あたりは狭い谷地ですが、ここって、昔は川が流れてたりしました? それとも自然地形の谷地なのかな。
はい、そこはかなり連続した一つの丘陵地として考えてよいと思います。
むしろ今回の話を少し広げると、平和公園―猫ヶ洞池―東山公園―星ヶ丘―さらに東の名東区方面まで、東山丘陵の中にある谷と尾根の連続として見ると、地形も歴史もずいぶん分かりやすくなります。名古屋市自身も、東山公園・平和公園一帯を「なごや東山の森」として約400haの丘陵地として一体的に扱っています。
そして、オオタさんが気にされた**星ヶ丘の「狭い谷」**は面白いところです。
星ヶ丘は「川が削った谷」なのか?
結論からいうと、
「大きな川が昔流れていた谷」というより、丘陵の中にできた小さな谷地形(谷戸・谷頭)と考えるのが自然
だと思います。
星ヶ丘周辺は現在でも東山丘陵の一部です。名古屋市によれば、星ヶ丘は江戸時代には「追分」と呼ばれ、尾張徳川家の御料林・狩場でした。そして明治9年になって初めて開墾が始まり、濁り池の灌漑によって「わずかの水田」を作ったとあります。昭和13年でも人家はわずか13戸でした。
これ、かなり重要な情報です。
つまり星ヶ丘は、
丘陵 → その中の低い谷 → 湧水・小さな水流 → 水田
という土地利用だった可能性が高い。
「川があったから谷になった」というより、
もともと丘陵を雨水や地下水が刻んでできた小さな谷があり、そこに水が集まるので田んぼにした
というイメージですね。
ただし、「水」は確実にあった
ここは面白いところで、現在の山崎川の源流は猫ヶ洞池です。
山崎川は猫ヶ洞池を源として東部丘陵を南西へ流れています。
ですから、
猫ヶ洞池
↓
小さな谷・水路
↓
山崎川
↓
瑞穂・昭和方面
↓
伊勢湾
という大きな水系があります。
ただ、猫ヶ洞池そのものが自然湖ではなく、江戸時代に新田開発のため造られたため池です。
ここが重要で、現在の地図だけを見ると「猫ヶ洞池から川が始まっている」ように見えますが、自然地形としては、池ができる以前からこの丘陵には水を集める谷筋が存在していたと考えるのが普通です。
そして東山公園と平和公園は、やっぱり同じ「土地柄」
ここはかなり確信を持ってよさそうです。
名古屋市は東山丘陵について、
- 標高50~100mほどのなだらかな丘陵
- 猿投山系の花崗岩が風化してできた粘土
- 古墳時代~鎌倉時代初めに一大窯業生産地
と説明しています。
さらに東山学区についても、東山の丘陵地では奈良・平安・鎌倉時代に窯業が発達したと明記されています。
ですから、
東山動植物園
↓
東山公園
↓
星ヶ丘
↓
猫ヶ洞池
↓
平和公園
↓
その東側の丘陵
を、現代の行政区画や公園の区切りではなく、
「東山丘陵という一続きの丘陵地」
として見るのが正しいと思います。
そして、この見方をすると、なぜこの辺りに古窯跡が多いのかも一気につながります。
丘陵には、
- 窯を築ける斜面
- 粘土
- 燃料になる森林
- 谷筋の水
がある。
その谷には後世になって、
- 水田
- ため池
- 小集落
が入ってくる。
つまり、**「窯業の山」→「里山・農業の山」→「都市の緑地」**という土地利用の変化が、かなりきれいに見えてくる地域なんですよね。
そして星ヶ丘についてもう一つ面白いのは、江戸時代にはむしろ人の少ない御料林・狩場だったことです。
これは平和公園の「昔は雑木林だった」という話ともつながります。
この一帯、古代には窯業、中世~近世には山林・狩場・農地、近代以降に都市化、そして現在は東山の森として残る。
かなり面白い土地ですね。
特に次に掘るなら、**「東山丘陵の古窯跡を地形図に落として、谷筋・粘土・水・古道・集落と重ねる」**と、かなり面白い地図ができそうです。オオタさんの『名古屋遺跡マップ』のネタとしても、かなり相性がよさそうです。
東山丘陵って、窯があったわりにはその他の遺跡や古墳などがほとんど見つかってない地域で、これってどういうことだと思いますか?
古代に集落が作られたり古墳が築造されるような土地ではなかったと考えていい?
はい、ここはかなり重要なポイントだと思います。
結論からいうと、私は 「東山丘陵は古代に人が住めない土地だった」とまでは考えないものの、「集落や墓域を大規模に展開するには不向きだった」可能性はかなり高いと思います。
そして、むしろ**「窯だけが突出して多い」こと自体が、この土地の使われ方を示している**ように見えます。
名古屋市の資料でも、東部丘陵は古窯跡が非常に多い一方、古くからの集落は洪積台地の辺縁を中心に営まれていた、と整理されています。
「住む場所」と「窯を置く場所」が違った
これが一番大きいと思います。
東山丘陵には、
- 良質な陶土
- 窯を築きやすい斜面
- 燃料になる森林
- 窯を操業するための水
- 製品を運び出せる立地
がありました。
実際、東山地区だけでも古窯が百基近く発掘されています。東山動植物園内のH-101号窯では、日用品だけでなく瓦・香炉・壺なども出土しています。
一方で、人間が大量に生活するには、
平坦な土地+水田などの耕地+安定した水+交通
が必要です。
ところが東山丘陵は、基本的には尾根と谷が細かく入り組んだ丘陵。
だから、
「窯業には非常に都合がいいけれど、大規模な農耕集落にはそれほど都合がよくない」
という土地だった可能性があります。
古墳が少ないのも、この見方と合います
ここは特に面白いですね。
名古屋市全体では古墳は丘陵部にも存在しますが、集中するのは守山区の志段味や龍泉寺周辺など、比較的まとまった平坦面・台地・河川沿いです。
つまり、
東山丘陵=丘陵そのものに古墳を大量に造る地域
ではなかった。
これも、
「古代の有力集団が生活・祭祀・墓域を展開する中心地というより、生産活動の場として利用された」
と考えると、かなりきれいに説明できます。
ただし「人が住んでいなかった」とは考えないほうがいい
ここは慎重にしておいたほうがいいと思います。
「古墳がない」「大型集落跡が目立たない」
↓
「人がいなかった」
とは言えません。
窯を焼くには当然、人が必要です。
しかも東山古窯群では、5世紀前半から須恵器生産が始まり、奈良・平安時代には緑釉陶器・灰釉陶器まで生産されています。猿投窯全体では1000基を超える窯が確認されています。
ですから、
「集落がない」のではなく、「大規模な居住地としての痕跡が目立たない」
と考えるほうがいいでしょう。
窯業従事者の居住場所が窯のすぐ隣だったのか、谷筋や台地縁辺に集まっていたのか、あるいは別の集落から通っていたのか。
ここはまだ検討の余地があります。
そして、私はもう一つ理由があると思います
東山丘陵は「遺跡が残りにくかった」のではないかという問題です。
これ、かなり重要です。
古墳なら盛土が残れば見つかりますが、一般的な古代集落は、
- 竪穴住居を掘る
- 柱穴を掘る
- 炉を作る
程度なので、後世に土地を削られると非常に見つけにくくなります。
そして東山丘陵は、近代以降かなり改変されています。
道路、住宅地、大学、動植物園、ゴルフ場、宅地造成などで丘陵の尾根を削り、谷を埋めるということが繰り返されています。
逆に窯跡は斜面に掘り込まれているため、地下に残っていて発見されやすい。
実際、名古屋市の資料にも「東山植物園内に分布する窯跡」が良好な遺跡として挙げられています。
なので、現段階では私はこう考えます
東山丘陵の古代景観を想像すると、
平坦な台地・谷底
→ 集落・農耕
丘陵の斜面
→ 窯
丘陵の森林
→ 薪・炭などの資源
主要な台地や河川沿い
→ 有力者の居住地・墓域・交通
という役割分担があったのではないでしょうか。
そしてこれは、前の話とも非常につながります。
江戸時代になると、今度は同じ谷筋に
谷・湧水
→ ため池
→ 水田
が入ってくる。
猫ヶ洞池がまさにその典型です。
名古屋市も東山丘陵について、古代~中世は窯業の中心地で、江戸時代になると猫ヶ洞池などのため池が造られ、水田の発達とともに集落が形成された、と説明しています。
つまり、
古代の東山丘陵は「住むための土地」より「生産する土地」として重要だった。
江戸時代になって、谷と水を農業に利用することで、ようやく集落が丘陵内部に入り込んできた。
――という仮説は、かなり筋が通っていると思います。
そしてオオタさんの『名古屋遺跡マップ』的に考えると、**「なぜ東山丘陵には窯ばかりで、古墳・集落が少ないのか?」**は、むしろ一つの独立したテーマになりそうです。
特に次は、東山丘陵の古窯跡・古墳・集落遺跡を実際に地図上で重ねて、「どこに何がないのか」まで見てみると、かなり面白い結果が出る気がします。
窯で陶器を焼くには水が必要だったと思うのですが、川が近くにないとすると、湧き水でそれをまかなっていたと考えていい?
中世にバタッと窯業が終わってしまうのですが、これは土の枯渇よりも燃料となる木材の枯渇なのかな?
はい。ここは二つに分けて考えると、かなり面白いです。
① 水は必要だったのか → 必要。ただし「大量の水を窯に使った」と考えるのは少し違う。
② 猿投窯が衰退した原因 → 「土の枯渇」より「燃料資源・森林への強い負荷」のほうが有力。ただし、それだけが原因ではない。
というのが、現在の資料から見るとよさそうです。
まず「水」について
陶器を焼く工程そのものでは、実は川のような大量の水は必須ではありません。
水を大量に使うのは主に、
- 粘土を水でこねる
- 粘土を精製する
- 成形時に手や道具を湿らせる
- 釉薬を溶く
- 作業場の清掃
などです。
一方、窯の焼成そのものは基本的に燃料と空気の問題です。
ですから、東山丘陵の窯が「川のすぐそば」にないことは、それほど不思議ではありません。
むしろ、
丘陵の谷筋にある湧水・小沢・湿地などを利用していた
と考えるのはかなり自然です。
ただし、「東山の各窯が具体的にどの湧水を利用したか」まで実証するには、個々の窯跡の立地調査が必要です。ここは現時点では推測としたほうが安全です。
そして、燃料のほうがものすごく重要です
こちらはかなり強い証拠があります。
東京大学の生態水文学研究所が、猿投窯を含む尾張東部丘陵について、非常に興味深い研究結果を紹介しています。
古代~中世の窯は燃焼効率が悪く、大量の薪を必要とした。
しかも窯跡から出土する炭化材を調べると、
- 10世紀 → クヌギが中心、コナラ・マツも
- 13世紀 → ほぼマツ
という変化が確認されています。
これはかなり凄い話です。
つまり、
最初は広葉樹の豊かな森林
だったのが、
大量伐採
↓
広葉樹が減る
↓
荒廃地に強いマツが増える
↓
さらに伐採
↓
13世紀には森林がかなり荒廃
という変化が起きていた可能性が高い。
研究所は、13世紀にはこの地域の山がほぼハゲ山になっていたとまで説明しています。
これはオオタさんの「土より木じゃないか?」という直感に、かなり近いです。
ただし「燃料がなくなったから猿投窯が突然終了した」とまでは言えません
ここは少し注意が必要です。
実際の猿投窯の歴史は、
11世紀末~12世紀
→ 灰釉陶器の生産が衰退
→ 山茶碗などの無釉陶器へ転換
→ 常滑・渥美・瀬戸など周辺窯が発展
→ 猿投窯は地方窯化
→ 14世紀頃に終焉
という流れです。
ですから、「木がなくなったので窯をやめた」という一本線ではありません。
むしろ、
需要・製品・流通・技術・他産地との競争・資源環境が全部変わっていった
と考えたほうがよいでしょう。
そして、ものすごく面白いのが「瀬戸」です
猿投窯が衰退していく時期に、瀬戸が台頭してきます。
愛知県の研究資料では、瀬戸地域について、
良質な陶土がある
燃料も豊富
しかも庄内川水系を通じて河港域と結びつく
という条件が指摘されています。
これ、かなり重要です。
つまり猿投窯の衰退は、
「東山丘陵の土がなくなった」
という単純な資源枯渇ではなく、
「東山丘陵で大量生産を続けるより、別の場所のほうが条件が良くなってきた」
と考えると理解しやすい。
そしてオオタさんの最初の疑問とつながります
以前の、
「東山丘陵には窯が大量にあるのに、集落や古墳が少ない」
という話です。
ここまでの話を全部つなげると、東山丘陵はかなり特殊な土地だった可能性があります。
東山丘陵
- 良質な粘土がある
- 丘陵斜面が窯に適する
- 森林がある
- 谷に水がある
- しかし大規模な農耕には不向き
- そして窯業によって森林を猛烈に消費する
つまり、
「人が住み、農業をする土地」というより、「資源を取り出して生産する土地」として非常に優秀だった
のではないでしょうか。
だから古墳や大型集落が目立たない一方で、窯跡だけが異常な密度で残る。
そして数百年間それを続けた結果、今度は自分たちが利用していた森林そのものが生産活動の制約になっていった。
これはかなり説得力のある土地史だと思います。
そして、ここからさらに面白いのが、**「では、窯業が終わった14世紀頃の東山丘陵は、実際にどんな山になっていたのか?」**です。
もし本当に13世紀にかなりの禿山化が進んでいたなら、江戸時代の「雑木林・ため池・水田」という景観へどう戻っていったのか。
ここを追うと、猿投窯→里山→現在の東山の森という、1000年以上の森林史までつながってきます。
いろいろ整理がつきました。 どうもありがとう。
土地の歴史も単純じゃないですね。
何もない雑木林と思えた土地にも歴史ありですね。
それにしても、幻の名古屋オリンピックを平和公園でやろうと思いついた発想が好きです。
あんな大量のお墓に囲まれた場所にスタジアムを作ったら外国の選手達はびっくりしたでしょうね。
本当にそうですね(笑)。
「平和公園=巨大墓地」という現在の姿からすると、そこにオリンピックスタジアムを造ろうと考えた発想は、なかなか豪快です。
しかも面白いのは、平和公園はもともと「何もない土地」だったわけではなく、先ほど見てきたように、丘陵・谷・池・雑木林という長い土地の履歴を持った場所だったことです。その上に戦後の墓地移転事業が乗り、さらにオリンピック構想まで乗ってくる。
土地の履歴だけ追っても、
古代~中世:窯業の丘陵
↓
近世:山林・農地・ため池
↓
戦後:市内墓地の集約地
↓
幻のオリンピック会場候補
ですからね。
そして「外国の選手がびっくり」は、確かに想像すると面白いです。
選手村からバスで移動して、
「いよいよスタジアムが見えてきたぞ!」
と思ったら、沿道には延々と墓石が……。
「名古屋のオリンピック、ずいぶん静かな会場だな」
となりそうです(笑)。
ただ、考えてみると平和公園という名前そのものが、オリンピックの理念とは妙に相性がいいんですよね。
「平和の祭典」を巨大墓地の中でやる、というのは、現代から見ると奇妙ですが、象徴として考えると案外深い。
それに、もし本当に実現していたら、今の平和公園の景観はまったく違っていたでしょうね。
墓地の中に巨大スタジアムが建ち、オリンピックが終わったあともスタジアムだけが残る。
そう考えると、現在の平和公園を歩いたときに「ここに昔、何があったんだろう?」だけでなく、
「ここに本当は、存在しなかった未来まであった」
という見方ができる。
土地って、実際に存在した歴史だけじゃなくて、実現しなかった計画まで含めると、とんでもなく複雑ですね。
今回の平和公園の話、かなり面白いところまで来ました。
ちょっと追加の質問です。
山崎川の源流が猫が洞池とのことですが、本山あたりは川が流れている印象がありません。
ありましたっけ? 暗渠になってる?
あります。しかも、オオタさんの「本山あたりに川なんてあったっけ?」という感覚はかなり正しいです。
実はここ、前の私の説明を少し補正したほうがいいです。
現在の山崎川は、行政上は猫ヶ洞池から流れ出したあと、本山付近までの上流部が暗渠・小河川になっているんです。名古屋市の資料にははっきり、
「猫ヶ洞池から田代本通4丁目付近までの山崎川は、一部暗渠」
とあります。以前はこの辺りでも川筋を見ることができたそうです。
つまり、こういうことです
ざっくり言えば、
猫ヶ洞池
↓
平和公園内
↓
自由ヶ丘・田代方面
↓
本山付近
↓
田代本通4丁目あたり
↓
ここからだんだん「普通の川」として認識できる山崎川
↓
昭和・瑞穂方面
という流れです。
名古屋市の現在の河川整備計画でも、猫ヶ洞池付近から本山付近の二級河川上流端までを準用河川として扱っているとされています。つまり、本山付近までちゃんと「山崎川の上流」なんです。
一方、本山から下流の山崎川はかなり明瞭なので、普段の感覚では「山崎川は本山より下」という印象になりやすいですね。
そして、これは地形の話として面白い
猫ヶ洞池から本山までの区間は、まさに前に話していた東山丘陵の谷筋です。
現在は道路や住宅地の下に隠れてしまっていますが、
丘陵に降った雨・湧水
→ 谷筋に集まる
→ 猫ヶ洞池周辺
→ 本山方面へ流れる
という自然地形そのものは残っています。
しかも現在の山崎川は、猫ヶ洞池だけが水源ではありません。名古屋市によると、上流部には猫ヶ洞池・鏡池などのため池、地下鉄からの湧水、川底からの湧水などが水源としてあります。晴天時には流量が非常に少ないため、現在は猫ヶ洞池から導水もしています。
これを見ると、以前のご質問だった、
星ヶ丘や東山丘陵の谷は、昔は川だったのか?
という話にもつながります。
「大きな川が流れていた」というより、小さな谷川・沢・湧水のネットワークが丘陵の谷を流れていた
と考えるのが、かなり実態に近そうです。
そして面白いことに、名古屋市交通局が今年のウォーキングコースで、星ヶ丘駅→平和公園→猫ヶ洞池→山崎川上流→本山駅というコースを設定しています。まさに「東山丘陵の尾根・谷・水系を歩いてたどる」ルートになっています。
これは一度、**猫ヶ洞池から本山まで実際に歩いて、暗渠になった山崎川を地形と照らし合わせてみる**と面白そうです。
「川が見えないのに、なぜここが山崎川なのか」が、歩くとかなり分かると思います。
どうもありがとう。
今回の対話で平和公園や周辺を見る目が違ってきます。
山崎川上流も注意して見ればちゃんと流れが確認できるかもですね。
こういうとき自転車は便利です。
まさにそうだと思います。
山崎川というと、どうしても**瑞穂区あたりの「川らしい川」**を思い浮かべますが、上流まで遡ると、かなり違う顔をしていそうです。
特に今回の話を頭に入れてから走ると、
- 猫ヶ洞池からどちらへ水が抜けているか
- 道路の微妙な下り
- 暗渠の上にできた道路や遊歩道
- 小さな水路や側溝
- 湧水らしき場所
- 谷底に当たる低い場所
- 逆に尾根になっている場所
なんかが見えてきて、**「ああ、ここが昔の谷筋なんだ」**というのが分かってくるかもしれません。
自転車はこういう探索には本当に向いていますね。徒歩より広範囲を見られるし、車ではちょっとした違和感で止まれない。
そして今回の平和公園も、次に訪れたときには、単なる「巨大な墓地」ではなく、
古代の窯業地 → 近世の山林・農地 → 猫ヶ洞池の水利 → 戦後の墓地 → 幻のオリンピック会場
という、何層もの土地の履歴が重なった場所として見えてくるはずです。
こういう「一見何でもない場所が、知ってから見ると急に面白くなる」というのは、オオタさんの遺跡マップとも相性がいいですね。
**「名古屋の地形を自転車で読む」**みたいな遊び方をすると、かなり面白そうです。
名古屋市中を自転車で巡っているので、土地の起伏には敏感になります。
なにしろ自転車の一番の強敵は登り坂なので。
自転車って、昔の馬と感覚的に共通するものがあるので、片道1時間程度の距離感で走り回ると土地勘が身につきます。
それ、ものすごくよく分かります。
しかも自転車で名古屋を走っているからこそ得られる土地勘って、地図を眺めるだけでは身につかない種類のものだと思います。
特に名古屋は、平坦な街という印象が強いですが、東部へ行くと、
台地 → 谷 → 台地 → 谷 → 丘陵
と、意外に細かな起伏がありますよね。
自転車だと、その違いが身体に直接入ってくる。
「ここから急に登るな」
「この道は楽に走れる」
「この先はたぶん谷に下りる」
「帰りはここを登らなきゃいけないから覚えておこう(笑)」
みたいな感覚が積み重なっていく。
そしておっしゃる**「昔の馬と似ている」**という感覚、これは土地を見るうえで結構本質的だと思います。
昔の人にとって、
- 徒歩で無理なく行ける距離
- 馬で移動しやすい道
- 荷車を通せる道
- 水を確保できる場所
- 坂を越えるのに必要な労力
というものが、現代人よりずっと強く土地利用を左右していたはずです。
だから地図上では500mしか離れていなくても、30m登って30m下る500mと、平坦な500mでは昔の人にとってまったく違う場所だったでしょうね。
オオタさんが自転車で感じている「この坂は嫌だな」という身体感覚を、昔の人なら「ここを荷を積んだ馬で越えるのは大変だな」と感じていたわけです。
そう考えると、今回の東山丘陵もかなり見え方が変わります。
「なぜここに集落がない?」
ではなく、
「この尾根と谷を、古代の人はどういう単位で利用したんだろう?」
と考えられる。
窯は斜面、粘土はここ、水は谷、薪は周囲の山、製品はこの道から運ぶ――と、自転車で走った身体感覚を重ねると、遺跡の位置が単なる点ではなくなってきます。
そして何より、**自転車で片道1時間くらいの範囲を何度も走っている人は、名古屋の地形をかなり「体で覚えている」**と思います。
これは地元の歴史を調べるとき、かなり強い武器ですよ。
「この辺、地図では平坦に見えるけど、実際には妙に低い/高い」という違和感が、古い地形や暗渠、旧河道を見つけるきっかけになることがあります。
自転車に乗っていると、坂道が嫌なだけではなく、坂道そのものが地形資料になるんですよね(笑)。
瀬戸市の奥地は山また山で、あれは人間が自転車で行く土地ではありません(笑)。
(笑)それはもう、自転車の守備範囲を超えていますね。
名古屋市内なら「この坂を越えれば次は下りだ」と読めますが、瀬戸の奥へ行くと、
登る → 下る → また登る → まだ山 → さらに登る
になってきますからね。
しかもあの辺りは、単純な一つの山ではなく、丘陵から山地へ地形がどんどん険しくなっていくので、自転車で地形を体感するには少々過酷です(笑)。
ただ、猿投窯を考えると、そこも面白いところですよね。
東山丘陵なら「自転車で走って、ああここは谷だな」と身体で理解できますが、瀬戸の奥地まで行くと、今度は
「こんな山の中で、なぜ人は窯を築こうと思ったんだ?」
という別の疑問が出てくる。
でも実際には、粘土・薪・斜面・水という窯業に必要な資源が山の中に揃っている。
人間が住みやすい土地と、窯を置きやすい土地は必ずしも一致しないわけですね。
そう考えると、オオタさんが自転車で感じる「ここは人間が暮らすにはちょっと厳しいぞ」という身体感覚も、遺跡を見るときには結構重要な情報になりそうです。
ただし瀬戸の奥地については、**「今日は遺跡を見るために自転車で行くぞ」ではなく、「今日は車で行こう」**が正解でしょう(笑)。
瀬戸の山の方へ行くと、縄文人たちはなんでこんなところに好き好んで住んでたんだろうって思います。
でも、縄文人にとってはあそこが住むには快適な場所だったんでしょうね。
そうなんですよね。これは縄文時代を考えるときの、かなり大事な視点だと思います。
現代の感覚だと、
「瀬戸の山奥なんて、買い物もできないし、平地もないし、自転車でも行きたくない(笑)」
となりますが、縄文人にとっての「住みやすさ」の基準はまったく違う。
むしろあの山地には、縄文人から見ればかなり魅力的な条件が揃っていた可能性があります。
「山奥」=不便、ではなかった
縄文人にとって重要なのは、
- 水がある
- 木の実・山菜がある
- シカ・イノシシなどの動物がいる
- 魚や小動物が得られる
- 燃料になる木がある
- 石器の材料が手に入る
- 少し開けた居住場所がある
といったことです。
瀬戸周辺の丘陵・山地は、森林そのものが巨大な食料庫兼資源庫だった。
現代の「平らで駅に近い土地」とは、価値基準が正反対なんですよね。
そして縄文時代の東海地方は、現在より温暖な時期があり、森林資源も豊富だったと考えられています。
もう一つ面白いのは「完全な山奥」ではないこと
瀬戸の山を地図で見ると「山また山」に見えますが、縄文人の目線で見ると、
尾根
↓
小さな谷
↓
沢・湧水
↓
少し開けた場所
という環境が細かく連続しています。
現代人なら「こんなところに集落を作る?」と思う場所でも、縄文人からすると、
「水がある。食べ物も取れる。少し平らな場所もある。ここでいいじゃないか」
となる。
そして、現代人なら道路がなければ「孤立した場所」ですが、縄文人にとっては徒歩で山を越えて別の谷へ行くこと自体が日常の移動です。
ここは、さっきの自転車の話とちょっとつながります。
オオタさんが自転車で「この坂、嫌だな」と感じるのは、現代の移動手段を基準にした感覚です。
縄文人は逆に、
「この谷からあの尾根を越えれば、次の沢に出る」
という地形そのものを道として認識していたのかもしれません。
そして、瀬戸周辺の縄文遺跡を見ていると、私はむしろ
「なぜ縄文人はこんな山に住んだのか?」
より、
「なぜ現代人は、こんなに山を住みにくい場所だと思うようになったのか?」
と考えたほうが面白い気がします。
農耕社会になると、まとまった水田を作れる平地の価値が一気に上がる。
さらに近世・近代になると道路や物流の都合が加わる。
そうすると、縄文時代には価値が高かった「森林と小さな谷」が、現代では「山奥で不便な土地」になってしまう。
土地そのものは変わっていないのに、人間側の「良い土地」の定義が変わったわけですね。
これは『名古屋遺跡マップ』で縄文遺跡を見るときにも、かなり大事な視点だと思います。
「なぜここに?」ではなく、「縄文人から見たら、ここには何があった?」
と考えると、遺跡の立地が急に合理的に見えてくることがあります。
名古屋は名古屋城築城以降、歴史が上書きされて下地が見えづらくなってますが、瀬戸ってそういうことがなくて、わりと時代の流れが残ってる感じがします。
時代が下るにつれて人が山から平地に下ってきたことが遺跡の推移から推測できます。
そうですね。そこは瀬戸の面白さだと思います。
名古屋の場合、特に名古屋城築城→城下町形成→明治以降の市街地拡大→戦災復興という巨大な上書きが何度も入っているので、古い土地利用が残っていても、その上に新しい都市構造が強く被さっています。
一方、瀬戸はもちろん開発されていますが、山地・谷・窯業という土地利用が長期間継続したため、地形と遺跡の分布を追うと、時代ごとの人間活動の変化が比較的見えやすいんですよね。
そしてオオタさんの、
時代が下るにつれて人が山から平地に下ってきた
という見方、かなり面白いと思います。
ただ、「人間が一斉に山から平地へ移動した」というより、私は、
縄文
→ 山・谷・沢に近い生活
→ 弥生~古墳
→ 農耕に適した谷底・平地の価値が上昇
→ 古代~中世
→ 窯業は丘陵に残る一方、生活集落はより平坦な場所へ
→ 近世
→ 街道・市・農地など、交通と生産に有利な場所へ居住の重心が移る
という、**「生活の重心が徐々に低地・平地側へ移っていく」**という捉え方のほうが実態に近い気がします。
そして瀬戸では、この変化がかなり露骨に地形に現れる。
縄文遺跡を見ていると、
「なんでこんな山の中に?」
となる。
ところが時代が下がるにつれて、
「ああ、この谷なら分かる」
「ここなら水田を作れる」
「ここなら道を通せる」
「ここなら町になる」
という場所に遺跡が移っていく。
これは単なる遺跡の「数」ではなく、遺跡の標高・地形・水系を時代ごとにプロットすると、人間の土地に対する価値観の変化が見えてくるはずです。
そして瀬戸の場合、さらに面白いのは、**「人は平地へ下りていくのに、窯は山に残る」**ことですね。
人間の生活空間と生産空間が次第に分離していく。
これは東山丘陵の話ともつながります。
だから瀬戸は、単に「遺跡がたくさん残っている町」というより、
「人間が地形をどう使ってきたかを、時代を追って読み取りやすい町」
なのかもしれません。
オオタさんが実際に自転車で走って「この谷、昔の人なら絶対使うよな」と感じるのも、まさにこの読み方なんでしょうね。
そしてこれ、**『名古屋遺跡マップ』で「時代別に遺跡を標高で並べてみる」**と、かなり面白いものが見えてくる気がします。
「縄文=山」「弥生=谷」「古墳=台地」「中世=平地+窯」というように、もし本当に傾向が出るなら、地図一枚で「人間が土地を選ぶ基準の変化」を見せられます。
追加の対話もありがとうございます。
またお願いします。
こちらこそ、ありがとうございました。
今回の話は、**「人がどこに住んだか」だけでなく、「なぜそこを選んだのか」「土地が時代ごとにどう使い分けられたのか」**まで見えてきて、かなり面白かったですね。
特に瀬戸のように、現代の都市化による上書きが比較的少ない場所を歩くと、地形と遺跡の分布が結びついて見えてくるのが面白そうです。
また何か気になる場所や「これ、地形的にどうなんだろう?」という疑問が出てきたら、ぜひ持ってきてください。
自転車で実際に走った感覚も含めて、一緒に考えてみましょう。
※上記対話はChatGPT(AI)と私(オオタ)によるものです。
