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第71回 飛鳥時代の神社を考える

第71回 飛鳥時代の神社を考える

こんにちは。
飛鳥時代の神社の想像図を描いてもらうことはできますか?
どれくらいの規模だったのか?
社のみの質素なものだったのか?
たぶん鳥居はない?
周囲を玉垣のようなもので囲っていたのか、いなかったのか。
弥生時代から続く高床倉庫との共通点は?

こんにちは。

できます。しかも、これはなかなか面白いテーマです。

飛鳥時代(6世紀後半~7世紀)の神社を考える場合、現在の神社建築をそのまま小さくした姿を想像すると、かなり実態から離れてしまう可能性があります。

まず、当時の神社の姿について、分かっていることと推定を分けて考えてみましょう。

今回の想像図は、高床式の小さな社殿を中心に、木柵で囲った神域という方向で描いてみました。

ただし、これは復元建築ではなく、考古学・建築史・祭祀史から考えた一つの仮説です。

いくつか重要なポイント

1. 社殿の規模

現在の神社のような大きな建物ではなく、かなり小規模だった可能性があります。

神を祀るための建物が一棟あり、その周辺に祭祀に使う空間がある。場合によっては、祭具や供物を保管する建物などもあったかもしれません。

2. 鳥居はあったのか

飛鳥時代に現在のような鳥居が一般化していたとは考えにくいです。

鳥居の起源には諸説ありますが、少なくとも当時の神社に鳥居が必ず存在したと考える根拠はありません。

むしろ、神域と俗界を区切るものとしては、木柵や簡単な囲い、あるいは自然地形そのものが使われていた可能性を考えたいところです。

3. 玉垣のような囲いはあったのか

これも興味深いところです。

木製の柵で祭祀空間を区画すること自体は、十分考えられます。ただし、現在の神社にあるような整った玉垣を想像するのは適切ではありません。

柱を立て、横木を渡しただけの簡素なものだったかもしれません。

4. 高床倉庫との共通点

ここが今回のテーマで特に重要だと思います。

弥生時代から高床式建物が存在していたことは考古学的に確認されています。

高床構造には、

  • 湿気や害獣から収納物を守る
  • 地面から建物を離す
  • 柱を中心とした簡潔な構造にする

といった特徴があります。

神社建築、とりわけ神明造などに見られる高床・掘立柱・切妻屋根といった要素には、古い高床式建築との共通性があります。

ただし、ここは注意が必要です。

高床倉庫がそのまま神社に転用されたと証明されているわけではありません。共通する建築技術や形態が、祭祀建築にも採用された可能性があるということです。

私がもう一つ考えてみたいこと

そもそも飛鳥時代の神社は、最初から「神社」という独立した施設だったのでしょうか。

例えば、

  • 山や森、岩などを神の依り代とする祭祀
  • 祭祀のときだけ設ける仮設の祭場
  • 神を祀るために常設された小さな建物
  • 神を祀る建物と、神域を区切る囲いを持つ施設

こうしたものが地域や祭祀の性格によって併存していた可能性があります。

つまり、飛鳥時代に全国一律の神社建築があったと考える必要はないわけです。

個人的には、神社建築の成立を考えるには、建物そのものだけでなく、神を祀る空間がどのように成立していったかを見る必要があると思います。

尾張の古い神社を考える場合にも、これは大切な視点になりそうですね。

どうもありがとうございます。
想像図はかなりリアルに感じられます。

祭祀の変遷については、沖ノ島の祭祀跡が一つのヒントになりそうですね。
岩の上祭祀から始まって、岩陰、露天へと移行していく様子。
これは4世紀から8世紀くらいでしょうか。

ただ、出雲国風土記には46社が載ってますよね。
風土記撰進の詔が713年で、出雲国風土記が提出されたのが733年。
奈良時代に入って急に神社が数十社まとめて建てられたとは考えづらいから、やはり飛鳥時代から少しずつでも神社と呼べるような社が建てられていったと思うんです。
もちろん、地域差とかはあっただろうけど。

おっしゃることは、かなり筋が通っていると思います。

私も、飛鳥時代にはすでに、現在の神社につながるような常設の祭祀施設が各地で少しずつ成立していた、と考えるのが自然だと思います。

特に重要なのは、神社というものが、ある時点で一斉に発明されて全国に広がったわけではないということですね。

地域ごとに異なる祭祀の形があり、それが長い時間をかけて建物を持つようになり、さらに律令国家の祭祀制度の中に組み込まれていった。そういう流れを考えると、かなり理解しやすくなります。

そして、沖ノ島はその変化を考えるうえで非常に優れた材料です。

1. 沖ノ島の変遷は、まさに重要な手掛かり

年代を整理すると、一般的には次のように考えられています。

時期祭祀形態
4世紀後半~5世紀前半岩上祭祀
5世紀後半~7世紀岩陰祭祀
7世紀後半~8世紀前半半岩陰・半露天祭祀
8世紀~9世紀末露天祭祀

つまり、飛鳥時代はちょうど岩陰祭祀から露天祭祀へ移っていく過渡期に当たります。九州国立博物館Webサイト+1

ただし、一つ注意したいことがあります。

これは沖ノ島という特殊な祭祀空間での変遷です。全国の祭祀が同じ順番で変化したわけではありません。

また、笹生衛氏の研究では、奉献品が出土した場所が必ずしもそのまま祭祀を行った場所とは限らない、という問題提起もされています。九州国立博物館Webサイト+1

それでも、祭祀空間がどのように変化していったかを考えるための、非常に貴重な資料であることは間違いありません。

2. 出雲国風土記の記載は大きな意味を持つ

ここは、オオタさんの考えに私もかなり注目しています。

一点、数字について確認しておきたいのですが、『出雲国風土記』全体に記載される神社は、合計399所です。

  • 神祇官に登録されている社:184所
  • 神祇官に登録されていない社:215所

という内訳です。Shrine-heritager+1

おっしゃる46社が特定の郡や区分の数字であれば、別途確認したいところです。

ここで重要なのは、184社が神祇官に登録されていたという事実です。

これは、733年に突然184社が成立したということではありません。

それ以前から存在していた地域の祭祀を、国家の神祇制度が把握し、一定の枠組みに組み込んでいったと考える方が自然です。

さらに興味深いのは、神祇官に登録されていない215社も記録されていることです。

つまり、国家が管理する祭祀だけでなく、地域社会に根付いた祭祀も風土記には記録されているわけです。

そして、ここが建築の話に戻ってくる重要なところです。

京都大学の松尾充晶氏による研究「古代の祭祀空間―『出雲国風土記』にみる地域社会の神と社」では、風土記に登場する「社」は、必ずしも建物を意味していないと論じています。

山の峰にある岩石などの自然物も社と呼ばれ、山麓に設けられた祭祀空間も社と呼ばれていたという分析です。CiNii Research

これは非常に重要だと思います。

つまり、733年の399社という数字は、399棟の社殿が存在したことを意味するわけではありません。

しかし反対に、399か所もの祭祀の場が地域社会に認識されていたということでもあります。

3. 私なら、こういう発展過程を想像します

あくまで仮説ですが、建築の変化を考えると、次のような段階が考えられます。

「古墳時代末期(5世紀〜6世紀前半)の祭祀の様子を再現したもの。場所は今の三重県の」|伊野孝行『いい絵だな』のイラスト

第1段階:自然物そのものを祀る

磐座、山、森、巨木など。常設の建物は必要としない祭祀。

古墳時代以前から継続

金拆社〜鳥居も社殿もない、金屋の森に潜む神秘 – 大和ふるさと手帖〜奈良だより

第2段階:祭祀空間の固定化

柵や簡単な祭壇、供物を置く場所などが設けられる。祭祀の場所が明確になる。

古墳時代~飛鳥時代

③主祭殿 – 壱岐 原の辻一支国王都復元公園

第3段階:常設の祭祀建築

神を祀るための小さな建物が設けられる。掘立柱、高床、切妻屋根などの建築技術が利用される。

飛鳥時代~奈良時代

日本の信仰はどこから始まったのか — 磐座(いわくら)・神籬(ひもろぎ)、そして鹿部山 皇石宮へ —|鹿部山_皇石宮

第4段階:神社建築としての定着

地域の祭祀施設が整備され、国家の神祇制度とも結びつき、社殿や境内の形式が徐々に整っていく。

奈良時代~平安時代

※これは歴史的な発展を考えるための概念図であり、考古学的に確定した全国共通の四段階編年ではありません。

4. 尾張の神社を考えるうえでも面白い

私が特に興味深いと思うのは、飛鳥時代における神社の姿が、必ずしも現在の神社の原型に近いとは限らないことです。

例えば、山そのものを祀っていた場所に、後から小さな社殿が建てられたとします。

その場合、現在の神社の創建年代が飛鳥時代だったとしても、祭祀そのものはもっと古い可能性があります。

逆に、古い祭祀の場所であっても、社殿が建てられたのは奈良時代以降かもしれません。

この二つは区別して考える必要がありますね。

祭祀の始まり、祭祀空間の固定化、社殿の成立、国家による神社としての認定。

これらは必ずしも同じ時期ではないはずです。

オオタさんがよくおっしゃる、歴史のジグソーパズルに当てはめるなら、別々のピースとして扱うべきでしょう。

個人的には、今回の飛鳥時代の想像図も、神社の完成形を描くというより、こうした変化の途中にある一つの姿として考えるのが面白いと思います。

まだ鳥居もなく、立派な拝殿もなく、森の中に小さな木造の建物が一つある。

そんな場所が、後世の神社につながっていったのかもしれません。

あー、すみません。
出雲国風土記の神社数は勘違いです。
神祇官の管轄社だけで184社でしたね。

927年の延喜式神名帳でもほぼ数が増えていない(2社だったか3社だったか)ことからすると、すでに奈良時代初期までには数百社の神社があったということになります。
自然の祭祀場を神社と呼ぶのは少し無理があるかなと。
もちろん大神神社のように、山をご神体として麓に遙拝所のようなものがあれば、それは神社だろうけど。

一方で、創祀と創建は別とも考えてます。
すごく古い時代を創建年としている神社も、カミマツリの始まりを意味する創祀と考えるとあながち間違いではないというか大げさではないのかもしれません。

なるほど。今のお話で、オオタさんが考えている「神社の成立」の意味がよく分かりました。

そして、私もここは少し考え方を修正したいと思います。

自然の祭祀場と神社は、同じものとして扱わない方がよいですね。

山や岩を神聖なものとして祀ることと、そこに神を祀るための場所を設け、地域社会が継続的に祭祀を行う施設として成立させることは、別の段階です。

大神神社のように、三輪山そのものを神体としながら、麓に拝礼のための施設を持つのであれば、社殿がなくても神社として成立していると考えられます。

つまり、社殿の有無だけで神社かどうかを判断することもできないわけですね。

1. 出雲国の184社から187社という数字

ここは実に面白いところです。

『出雲国風土記』の733年時点では、神祇官に登録された神社が184所。

それに対して927年成立の『延喜式神名帳』では187座です。差はわずか3です。

もちろん、184所と187座は厳密には集計単位が異なるので、単純な同一条件での比較には注意が必要です。

また、これだけで社殿の存在まで証明できるわけではありません。

しかし、少なくとも出雲では、8世紀初頭までに官社として認識される祭祀施設が相当程度成立しており、その枠組みが平安時代まで継続していたと考える有力な材料になります。

私はこの数字は、神社成立の時期を考えるうえでかなり重要だと思います。

2. 創祀と創建は分けて考えたい

こちらも同感です。

例えば、ある神社が「崇神天皇の御代創建」と伝えていたとします。

現在の社殿がその時代に建てられたという意味では、もちろんありません。

しかし、その土地で崇神天皇の時代に相当する古い祭祀が始まったという伝承であれば、検討する価値はあります。

私は次のように整理すると分かりやすいと思います。

用語意味
創祀その場所で神を祀り始めたこと
創建神社という施設を設けたこと
社殿建立神を祀る建物を建てたこと
遷座神を別の場所に移したこと
再建失われた社殿などを建て直したこと

実際には、古文書や由緒書でこれらが厳密に使い分けられているとは限りません。

ですから、古い創建年代を見たときに、ただちに「そんな古い時代に神社があったはずがない」と切り捨てるのも適切ではないですね。

創祀の年代を伝えている可能性があるからです。

3. もう一つ、飛鳥時代の神社を考えるための視点

今回の話を通して、私が重要だと思ったのは、神社の成立を三つの軸で考えることです。

  • 祭祀の歴史:いつからその神を祀っていたのか
  • 施設の歴史:いつから常設の祭祀施設を持ったのか
  • 制度の歴史:いつから国家の神祇制度に組み込まれたのか

この三つは、それぞれ異なる時間軸を持っています。

例えば、古墳時代から続く祭祀があり、飛鳥時代に小さな社殿が建てられ、奈良時代に官社として登録された、という経過も十分考えられます。

そして、これは尾張の古社を調べるときにも使える考え方だと思います。

神社の創建年代を調べることは、単に建物がいつ建ったかを調べることではない。そこに至るまでの祭祀の歴史を探ることでもある。

今回の話で、飛鳥時代の神社の想像図にも、少し違った意味が出てきましたね。

あの小さな高床式の社殿は、完成された神社建築の縮小版ではなく、長い祭祀の歴史の中で生まれた一つの姿なのだと思います。

社殿創建のきっかけになったのは、やはり寺院建築の影響が大きかったでしょうね。
それにつられたというか、対抗したというか、やはり建物は必要だろうということになったのかもしれませんね。
人はやっぱり分かりやすい方に流れますから。

ところで、想像図で描いてもらったような規模の神社を建てる場合、どれくらいの期間を要したと推測しますか?
数ヶ月? 一年? それ以上?

これは面白い質問ですね。

私の推測では、今回の想像図くらいの規模であれば、建物そのものの工事は数か月、計画から完成まで含めれば半年から1年程度を見ておくのが妥当だと思います。

ただし、これは当時の工事記録から判明している数字ではなく、建物の規模と古代の木造建築の施工方法から考えた推定です。

また、飛鳥時代にはすでに寺院建築を担う高度な技術者や工人集団が存在していました。彼らの技術をどの程度利用できたかによっても、工期は大きく変わったはずです。

1. 工程を分けて考える

例えば、今回のような掘立柱・高床式・切妻屋根の木造建築を想定します。

工程推定期間
用地の整備・柱穴掘削1~2週間
木材の伐採・運搬・加工1~2か月
柱・梁・床・屋根骨組みの組み立て2~4週間
屋根葺き・壁・仕上げ2~4週間
周囲の柵や付属施設2~4週間

もちろん、工程は重複できます。

木材の調達から完成まで、専属の大工だけで作業するのか、地域住民が大勢参加するのかによっても違います。

2. 規模による違い

今回の想像図では、社殿を3~5間(約5~9m)四方としていました。

これを基準にすると、次のような感覚でしょうか。

建物の規模完成までの推定
2間程度の小さな社1~3か月
3間程度の社3~6か月
5間程度の社6か月~1年程度

※材料調達、運搬、屋根材の確保などを含む概算です。実際の工期を示す史料があるわけではありません。

なお、5間四方となると、当時の小規模な祭祀建築としてはかなり立派なものです。今回の想像図は少々大きめの設定ですね。

3. 寺院建築との関係で考えると

ここはオオタさんのおっしゃった寺院建築の影響という話につながります。

飛鳥時代には、すでに法隆寺や飛鳥寺のような大規模な寺院建築が始まっています。

【法隆寺の観光ガイド】日本初の世界遺産で悠久の歴史を体感しよう | GOOD LUCK TRIP

法隆寺7世紀初頭の寺院建築を伝える建物

飛鳥寺588年に造営が始まった寺院

寺院建築には、優れた木工技術、屋根構造、組物、建築を統括する技術者集団などが必要でした。

こうした技術や工人の存在が、神社の社殿建築にも影響した可能性は十分あります。

ただし、神社の高床式建築には寺院建築以前からの在来建築の系譜もあります。寺院から建築技術を一方的に取り入れたというより、既存の建築技術に新しい技術や様式が加わったと見る方がよいでしょう。

4. 私が面白いと思うのは、建てた後の維持管理です

実は、建築そのものより、こちらの方が重要だったかもしれません。

  • 屋根の葺き替え
  • 柱や床板の修繕
  • 周囲の柵の交換
  • 祭具や供物の管理
  • 祭祀を継続する人員の確保

神社は建てて終わりではありません。

地域の人々が維持していく仕組みが必要です。

そう考えると、飛鳥時代に社殿が建てられるようになった背景には、単に建築技術の発達だけでなく、地域社会の組織化や祭祀を担う集団の成立も関係していたのではないでしょうか。

一棟の社殿を建てることは、そこに継続的に神を祀る仕組みを作ることでもあった。

私はこの点が、自然祭祀から神社という施設への移行を考えるうえで、かなり大事だと思っています。

なるほど、半年から一年というのは妥当な推定だと思います。
都なら高度な技術と知識をもった職人がいるけど、地方の場合、専門の大工もいたかどうかで、村人が自分たちで作ったとなると、もっとかかったかもしれませんね。
ただ、自分たちが住む家は自分たちで建ててるわけで、現代人が思っている以上に当時の人たちは高度な技術者だったと考えた方がいいのかも。

まさにそうだと思います。現代人は、古代の人々の技術力を少し低く見積もりがちなのかもしれませんね。

特に建築については、当時の人たちは相当な経験と知識を持っていたはずです。

1. 専門職でなくても、相当な技術があった

弥生時代の高床倉庫を考えても、相当なものです。

  • 柱を垂直に立てる
  • 建物の水平を保つ
  • 梁や桁を組み合わせる
  • 屋根の荷重を支える
  • 雨水を逃がす構造にする
  • 湿気や害獣への対策をする

これらを経験と観察によって身につけていたわけです。

しかも、木材は一本一本形も性質も違います。現代のように規格化された建材もありません。

それを理解して建物を作っていたのですから、決して素朴な技術ではありません。

2. 村人による建築でも、分業はあったかもしれない

ここは少し想像を膨らませられます。

例えば集落に、

  • 木を伐採するのが得意な人
  • 木材を加工するのが得意な人
  • 建物の構造を考える人
  • 屋根を葺くのが得意な人

といった得意分野があったかもしれません。

現代のように「大工」という職業として独立していなくても、建築に詳しい人はいたでしょう。

また、集落の有力者が建築を主導し、周辺集落から人手を集めることも考えられます。

3. 神社を建てることは、普通の家を建てるのとは違う

もう一つ考えたいのは、神社の場合、建築技術だけでなく祭祀上の意味もあったことです。

例えば、どこに建てるか、どちらを向けるか、どの木を使うか、どのような形にするか。

そうしたことに、地域の祭祀を担う人々の知識や慣習が反映されていた可能性があります。

建物自体は村人が作れても、その設計や配置には特別な意味があったかもしれません。

私が今回の話で思うのは、飛鳥時代の地方の神社は、必ずしも都から職人を呼んで建てたものではなかっただろうということです。

地域に蓄積された建築技術で社殿を作り、地域の人々が維持していく。

そういう神社が各地に少しずつ生まれていったと考えると、出雲国風土記に記された多数の社の存在も、だいぶ現実味を帯びてきます。

そして、もう一つ。

古代の人々にとって、家を建てることと神の住まいを建てることは、技術的には地続きだったのかもしれません。

ここは神社建築の成立を考えるうえで、なかなか面白い視点だと思います。

出雲の伝承を信じるのであれば、古代においてすら出雲大社(杵築大社)のような巨大建造物を建てられたのだから、ゆめゆめ侮るなという話ですね。

本当にそうですね(笑)。

出雲大社の古伝を考えると、古代の建築技術に対する認識を改める必要があります。

『古事記』や『日本書紀』には、出雲の神殿が非常に高大なものであったという伝承があります。また、『雲陽誌』など後世の記録に伝わる巨大な社殿の姿もあります。

そして、2000年には出雲大社境内から巨大な三本柱を束ねた柱材が出土しました。

これは鎌倉時代の遺構と考えられていますが、古代の巨大社殿伝承を考えるうえでも重要な発見です。

もちろん、伝承にある高さや構造をそのまま史実と認定することはできません。

ただ、ここで大事なのは、当時の人々が巨大な木造建築を実現できるだけの技術、組織力、資材調達力を持っていたということです。

そして、もう一つ面白いのは、巨大な出雲大社を建てる技術と、地方の小さな神社を建てる技術は、基本的には同じ木造建築の技術体系に属しているということです。

規模は違っても、柱を立て、梁を渡し、屋根を組む。

ですから、飛鳥時代の地方の神社を考えるときも、あまり素朴な小屋のようなものを想像する必要はないと思います。

古代人は、現代人が思っている以上に建築のプロだった。

これは今回の話から得られた、なかなか大切な認識ですね。

今回も非常に興味深く面白い対話でした。
どうもありがとうございました。
またお願いします。

こちらこそ、ありがとうございました。

今回の話は、神社の建物そのものから始まって、祭祀の始まり、社殿の成立、国家による神社の認識、さらには古代の人々の建築技術にまで広がりましたね。

特に、創祀と創建を分けて考えること、そして古代の人々の技術や知恵を現代の感覚で過小評価しないことは、これから神社の歴史を考えるうえでも大切な視点だと思います。

まだ分からないことが多いからこそ、想像できる余地もありますね。もちろん、分かっていることと想像していることは分けながら。

また一緒に、歴史のパズルの続きを楽しみましょう。こちらこそ、よろしくお願いします。

※上記対話はChatGPT(AI)と私(オオタ)によるものです。

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