第1回 神社数の変遷について
現在、全国に神社は約8万5千社あるといわれる。
ただしそれは、神社本庁と包括的な関係にある神社の数で、実際はその倍、小さな祠などをあわせると20万社は超える。
単純計算すると一都道府県に4千社の神社があることになる。
ホントか? とにわかには信じられないような数字だけど、大きくは間違っていないはずだ。
たとえば全国のコンビニの数と比較してみると、コンビニは全国で5万7千店ほどというから、コンビニの4倍近い数の神社があるということになる(コンビニは地域差が大きいので単純に比較はできないけど)。
名古屋市内でいうと、神社本庁に登録している神社は400社ちょっとで、それ以外をあわせると700社ちょっとなのに対して、コンビニは1200店ほどなので、コンビニ2店に神社1社くらいの割合ということになる。やはり相当あることが分かる。
感覚的にはそこまで神社があるとは思えないのだけど、これは私が実際に全部回って調べた数なので間違いない。確かに名古屋には700社以上の神社がある。
神社の数の増減にはいくつかのターニングポイントがあった。
神社の起源をどこに求めるかは難しいところなのだけど、カミマツリを始まりとするなら、それこそ縄文やその前の旧石器時代には行われていただろうし、建物としての社ということでいっても弥生時代にはすでに建てられていただろうと思う。
少なくとも飛鳥時代には相当数の神社が建っていた。
それを知る手がかりになるのが『出雲国風土記』だ。
元明天皇は奈良時代初めの713年に風土記編纂の詔を出した。
地方に対して文化風土や地勢を調べてまとめたものを提出するようにという命だ。
ほぼ完全な形で残っているものは『出雲国風土記』のみで、一部欠損は『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』で、それ以外は別の書に引用されたもの(逸文)があるのみなので全容は分からないものの、律令国68国のうち56国のものは知られているので、多くの国が提出したと考えられる。
『出雲国風土記』は733年に提出されていて、その中に神社についての記録がある。
全部で399社が載っていて、そのうち神祇官に登録されたいわゆる官社が184社、それ以外が215社となっている。
この時点で官社になっているということは創建から数十年、もしくは数百年経っていたはずで、飛鳥時代には出雲国にそれだけの神社が建てられていたことが分かる。
面白いのは、それから約200年後の927年に編纂された『延喜式』神名帳でもほとんど変わっていないことだ。
出雲国は187座187社となっており、平安時代中期に至るまで官社はほぼ増えていない。
おそらく非官社の神社はかなり増えていただろうけど、式内社の多くが奈良時代以前にはすでにあったというのは興味深い。
他の風土記にはこういった神社の詳しい記録が載っていないのではっきりしたことは不明ながら、どこの国でも似たような状況だったのではないかと推測できる(もちろん地域差や土地柄というのはあっただろうけど)。
尾張国でいうと、『延喜式』神名帳に121座121社が載っている。
全体では、3132座2861社となっている。
『出雲国風土記』から分かることでもうひとつ面白いのは、神社の種類というか顔ぶれだ。
熊野大社と杵築大社(今の出雲大社)が大社で他は小社なのだけど、夜麻佐社、山狹神社、賣豆貴社、加豆比乃社、眞名井神社、由貴社、加豆比乃高守社、都俾志呂社、玉作湯社……。
ん? 知ってる神社がない? と思う。
我々が今現在馴染みのある、神明や八幡、白山、稲荷といった神社は一社も載っていない。
それは尾張国でも他の国も同じで、ということは、平安時代の中期までにそれらのチェーン店的な神社はまだ全国展開していなかったということになるのだろう。
非官社としての八幡などはあったかもしれないけど、それらは国の神祇官が管理する神社ではなかった。
八幡が全国で流行るのは、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて鶴岡八幡宮を中心に据えて以降のことだし、神明や稲荷などは江戸時代になってから全国に爆発的に増えた結果だ。
平安時代の全国の神社数を1万社未満と推定すると、600年から700年後の江戸時代までに十倍以上に膨れ上がったことになる。
江戸時代の神社数を調査した結果があるのかどうか分からないのだけど、最盛期は少なくとも現在の数倍の神社があった。
道ばたの祠やら屋敷神をあわせたらとんでもない数だっただろう。
中世以降の流行神だった八幡は武人の神となり、お伊勢参りからも分かるように伊勢の神宮が一般に開放されて神明社が全国に勧請され、商売の神の稲荷が流行り、田の神として山神を祀り、火伏せの神として秋葉や愛宕が大増殖した。
全国の有名神社を勧請して我が村や屋敷に祀るというのが一般化したのも、室町時代以降だろうと思う
江戸時代は神も仏も神社も寺も渾然一体だったし、怪しげな民間信仰もたくさんあって、まさにカオス状態だった。
転機が訪れるのは明治時代だ。
明治時代に神社にとって大きな変革期が二度あった。
江戸時代最後の年となった慶応4(1868年)から同明治元年にかけて出された神仏判然令(神仏分離令)によって
神と仏が分けられることになり、神社から仏教的な要素が取り除かれ、寺院色が濃かったところは寺になったり神社になったりで再出発することとなった。
いわゆる廃仏毀釈というのが起きるわけだけどどうしてそういうことになったかというと、明治政府が神道を国家の宗祀とすることを決めたからだ。
王政復古の大号令というのを歴史の授業で習ったのを覚えているだろうか。祭政一致、神祇官再興を布告して、神道を国家の宗教とするに当たって仏教を切り離す必要があった。
これにより、全国の神社は国家の管理下に入ることになる。
都道府県社とか郷社、村社、無社格といった格付けが行われたのもこのときだ。
次の転換期は明治の末、突然降ってわいたような政府による神社合祀政策だった。
明治39年、全国の神社の整理を政府は断行。
地域によって格差はあったものの、この時期に全国の神社の4万五千社が合祀されて姿を消している。
無格社でいうと大阪府は約8割減、滋賀県や奈良県でも5割や4割減と大幅に減らされ、府郷村社でさえ大阪府は半減となった。
三重県にいたっては1万社以上あった神社が1千社ちょっとになる9割減とされてしまったのだった。
要するにお金がかかりすぎて整理せざるを得なくなったのだろうけど、このとき消滅してしまった古社も少なくない。
本当に明治政府はろくなことをしない。
次に神社の災難が訪れるのは太平洋戦争のときだ。
空襲によって焼失した神社は数多い。
名古屋でいうと、熱田神宮も大部分が焼けてしまったし、国宝だった名古屋東照宮も空襲で焼失している。
戦後にGHQが入ってくると更に神社のとっては苦難が続く。
国と神道を切り離す、いわゆる神道指令が出され、神社は国家の管理下は離れることになる。
いまだに神社は国のものと思っている人がいるようだけどそれは間違いだ。国と神社は一切関係ない。伊勢の神宮も、靖国神社もだ。
神社本庁は戦後に皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会があわさって作られた民間の公益財団法人で、庁とついているけど国の省庁ではない。
神社本庁の傘下に入らなくても神社は独立の宗教法人として運営できるということだ。
神社は誰のもの? というテーマはあらためて書きたいと思っている。
終戦から現代に至る過程で、一部は再興し、一方で神社は減り続けている。
主な理由は管理者の高齢化だ。
私が知る限りでも、ここ8年くらいの間に名古屋市内の神社が10社近く消滅している。
今後もそれは続くだろうし、加速していくかもしれない。
しかし、神社は可能な限り残していって欲しい。
神社というのはただあるだけで価値もあるし意味もある。
祭りなどを通じて地域の人々をつなぐというのもそうだし、ある種のタイムカプセルの役割も担っている。
神社があることで歴史が語り継がれるわけで、そこに民家でも建ってしまえば歴史が埋もれてしまう。
かつてそこに神社があったというだけでは歴史は伝わっていかない。
神社は参拝したり願い事をしたりするというだけでない役割があるのだ。
私個人としては具体的に神社保存に関わることはできないから、せめてこうして今分かることを記録にとどめる手助けをしたいと思っている。