第7回 祭りと祀り
マツリとは何か?
これはテーマが大きすぎて、このコラムでは扱いきれないのだけど、避けては通れない問題なので、今回は端緒だけでも書いてみることにしたい。
マツリ、あるいはカミマツリといった方がいいのだろうけど、マツリには二つの字を当てる。
”祀”と”祭”だ。
今はごっちゃになってどちらでもいいみたいになっているけど、本来は別の意味を持つ言葉だったはずだ。
祀りというと、いわゆる神事を思い浮かべるだろうし、祭りは縁日などが出るお祭りを連想する人が多いだろう。
ただ、これは個人的な考えというか感覚なのだけど、本来のマツリは”祭”の方だったのではないかと思う。
そこから祭祀としての祀りが生まれて形式化していったという流れではないかと考えている。
マツリとは何かといえば、それは、”魂鎮(タマシズメ)”、”魂振り(タマフリ)”、”祭(マツリ)”の三つの要素から成り立っている。
神や天の怒りを鎮め、神を奮い立たせて力を得て、祭によって気持ちよくさせるということだ。
日本人は自然や万物に神を見いだして信仰するというのはよく言われることなのだけど、それは後天的というか、二次的な思想、信仰で、マツリの原点ではない。
マツリの始まりは”畏れ”に他ならない。
古代の人たち純真で無知で善良な人たちと考えるのは間違いだ。古代の人も現代人も本質的には何も違わない。
人間は先天的に、いい思いをしたい、楽をしたい、つらいことからは目を背けて幸せに暮らしたいと願う生き物だ。
困った時の神頼みというのは、我々だけのことではない。ずっと昔から人間はそうだったということだ。
何も問題がないときは神のことなど忘れている。
まずその前提を認識しないとマツリの本質を理解することはできない。
ずっと古い時代、神と人は今よりも近しい関係性にあった。もしかしたら直結していたかもしれない。
そうであれば、神と人は一心同体で、願ったり祈ったりしなくても人は幸福に暮らすことができただろう。
しかし、どこかの時点で人は神から切り離された。独り立ちするためにそうする必要があったということだろう。
このとき、マツリというものが生まれたのだろうと思う。
直接の対話ができないから、次善の策として祈るしかなくなり、マツリという概念に発展したということだ。
だとすれば、最初の頃は日常的にマツリは行われていなかっただろう。何か困ったときや特別なときにだけマツリが行われたのではないだろうか。
マツリが形式的になっていくのはもっと後のことだ。
人が生きていく上で困ることは多い。
自然災害や病気や死といったものがそうだ。
雨が降らなければ作物は育たないし、大雨なら田畑や家が沈んだり流されたりする。
疫病が流行れば大量死を招く。
自分たちではどうしようもないことに対して祈ることしかできなかった。
頼れるのは神であり天だ。
人々はそういった災厄を恐れ、それを司る神を畏れた。
だからマツリを行った。
それは必然であったし、実際に祈りが通じたとなれば、それは今の科学に近いものだっただろう。
中身は違っても、共同幻想によって社会が成立しているのは古代も現代も同じだ。
マツリによって(と信じた人たち)問題が解決されたとき、初めて人々は感謝することになる。
感謝が先ではない、あくまでも感謝は後だ。この順番も勘違いしてはいけない。
これが鎮めということだ。
沈静化というだけでなく、本来あるべき姿に戻ってもらうという意味合いもある。
次に”魂振り”とは何かということだ。
”フリ”と”フル”はたぶん同意語で、シェイクする”振る”であり、振り下ろすなどの”フリ”であり、”震える”の”フル”といったイメージでいいと思う。
”揺さぶる”といった方が分かりやすいだろうか。
イノリ、マツリをしてもまだ足りないとき、更に神に力を発揮してもらうべく、神の心を震わせ、力を貸し、奮い立ってもらわないといけない。
ここでマツリ(祭)が生まれることになるのだけど、”フル”というのは具体的な行為でもある。
神社や神道では”振る”ということがよく行われている。
巫女舞のとき手に持った鈴を振るとか、神職がお祓いのときに幣(ぬさ)を振るといったものだ。
日本神話の中で天鈿女命(アメノウズメ)が踊ったというのも、タマフリ(魂振)の一種と考えていい。
拝殿に吊られた鐘を叩いて震わすとか、おみくじを振って出すといったことも魂振の名残りといえるかもしれない。
単純にいってしまえば、魂振は神様を励まし応援する行為という言い方ができると思う。
魂振に関連して思い浮かべるのは奈良県天理市にある石上神宮(いそのかみじんぐう/web)だ。
「ひとふたみよいつむゆななやここのたり」と唱えて「ふるべ ふるべ ゆらゆらとふるべ」と十種神宝(とくさのかんだらか)を振れば死者さえ生き返るという呪文が伝わっている。
祭神は布都御魂大神(フツノミタマ)に加えて布留御魂大神(フルノミタマ)を祀っている。
”振の神”ということだ。
魂鎮と魂振が理解できれば祭も分かりやすい。
これはもう、一言で言えば、神様を接待することだ。
供え物で腹一杯飲み食いさせて、祝詞で褒めちぎっていい気持ちになってもらう。それが祭の本質であり目的だ。
人間が楽しむものではない。
では、”祀り”とは何かということになる。
祭祀(さいし)という言葉があるように、祭と祀は似ているけど別のものだ。同じ意味の言葉を意味なく重ねたりはしない。
禊祓(みそぎはらえ)の関係に少し似ているかもしれない。
祀というのは文字通りであれば”しめす編”に”巳”から成り立っている。
巳は巳年(みどし)からも分かるように蛇のことだ。
だとすれば、この文字は”蛇に示す”ことを意味している。
一方の祭は、”月+又+示”が組み合わさった文字だ。
月は肉、又は右手、示は示す、もしくは神棚という意味と取って、右手で神に肉を示すという意味という解釈がある。
ただ、これは個人的には違うと思っている。そもそも神に肉を供えたりはしない。
あるとすれば、月は肉ではなく人間そのもので、神に何らかの願いをする代償として人身御供(ひとみごくう)を差し出したことを意味するのかもしれない。
難工事などで実際に人間を人柱として埋めるという風習は近世まで残っていたという話もある。
一つポイントとなるのは、”示”が持つ意味だ。
”神”は今では”ネ”のしめす編(ね編)を使っているけど、もともとは示の”神”だった。
”示”は単に”示す”以上の意味を持っていたはずだ。
神であれば、申に示すなので、申して示す、または申は”申年”の申なので猿と関係があるかもしれない。
上でマツリは魂振だと書いた。”振”という文字は”て偏”+”辰”で、ここには龍がいる。
”蛇”と”龍”と”猿”、何かありそうだと感じる。
個人的な考えとして、祀りは祭りから派生したものだと思っている。
祭りは行為であり、儀式であり、総体的な意味でもあるのに対して、祀りは行為に限定される。
祭りを行うことを祀りといったのかもしれないし、祀りはもっと限定的なものだったのかもしれない。
文字通り蛇に示したのが祀りだとすれば、蛇とは何かということだ。
日本は龍の国だ。龍神がおさめていた。
そこへ蛇が入ってきた。
逆ではないし、同時でもない。
龍神と邪神は相容れないながらも共存してきた。
時代によって龍神優位なときと蛇神が優位のときがあったようで、今の時代でいうと少し前まで蛇神優位だったのが令和以降は龍神の時代に移った。
あるいは、初めて蛇と龍が融合する時代になったともいえる。
マツリの概念や形は時代ととに変化してきた。
縄文時代と飛鳥時代では違っているのは当然として、奈良時代と平安時代を比べてもかなり大きく変わっている。平安時代になってより形式が重んじられるようになった。
室町から戦国時代にかけて荒廃し、江戸時代で少し持ち直して、明治でもう一度古い形式や思想を取り戻そうという揺り返しがあった。
戦争を経て戦後はまた全然違う形になった。
古代のマツリが正しくて現代のマツリが間違っているということはない。それぞれの時代にそれぞれのマツリがあるということだ。
この先も少しずつ変化していくことになる。
神社というと願い事をしにいくところと考えている人が多いだろうけど、本来はカミマツリの場だ。
神社を必要以上に神聖視することはないと個人的には考えているのだけど、神の家にお邪魔するのだから礼儀正しく振る舞うことは大事だとは思っている。
願い事は極力しないように心がけている。
カミマツリの基本は神様接待だ。神を気分良くさせてこそ御利益もあるというもので、神を不快にさせるようなことはしない方がいい。