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神社って何ですか? と訊かれたら

第8回 神社って何ですか? と訊かれたら

 日本を訪れた外国人に、ジンジャって何ですか? と訊かれたら、あなたは上手く説明できるだろうか。
 私は自信がない。こんなにも神社に関わっているのに。

 神社にさして興味もない日本人に対して神社とは何かを説明するのはそれほど難しくない。
 日本人の中には神社に対する漠然としたイメージや共通認識があるからだ。
 しかし、神社に関する知識がゼロの外国人に、日本人に対するのと同じ説明をしてもたぶん通じない。
 鳥居があって、社ががあって、神を祀っていて、と説明しようとしても、まずトリイって何ですか? と訊かれそうだし、なんで拍手するの? とか、日本人のいう神ってゴッドのことですか? とか、立て続けに質問を投げかけられると答えに窮してしまう。

 当たり前だけど、神社について説明をするにはまず神社についての知識が必要だし、神道についての理解や、日本人が思う神の概念についても認識していなければならない。
 今回のコラムは、外国人にジンジャについて訊かれたとき、どう答えればいいかというテーマで考えてみることにしたい。

 神社の英訳は”shrine”(シュライン)とするのが一般的だ。
 しかし、shrineは聖なる場所や建物、聖堂や聖地、神殿などを指す単語で、shrine=神社ではない。
 場所としてのエルサレムや、建造物としてのピラミッドやストーンヘンジなどもshrineだし、聖堂や聖人の遺骨などもshrineだ。
 なので、他のshrineと区別するために”Shinto shrine”(神道のシュライン)とすることもある。
 ただ、外国人にShinto shrineといってすぐにピンと来るかといえば来ないだろう。それにはShintoとは何かを説明しなければならない。

 ちなみに、お寺の英訳である”temple”(テンプル)も一般名詞で、temple=お寺ではない。
 templeは儀式や祈祷といった信者が集団で行う活動の場のことで、神殿や聖堂などはtempleでありshrineでもあるので、ちょっとややこしい。
 いずれにしても、神社や寺院に該当する英語は存在してないと考えた方がいい。
 なので、外国人に神社はshrineで、お寺はtempleですよと言って教えてあげたような気になっていると、相手は半分ポカンとしてしまうことになる。

 神社について一定以上の知識や理解がある人ほど、これを外国人に説明して分かってもらうのは至難の業だとあきらめてしまいがちだ。
 実際無理だと思う。
 でも、そこであきらめてしまっては自分自身の理解も進まないので、なんとか頑張って説明を試みたい。

 日本は昔から八百万(やおよろず)の神がいて、それは生活や風習の中に溶け込んでいて、そういった神々を祀っている(祀るという概念が通じるかは疑問だけど)、人生の通過儀礼にも重要な役割を果たすのが神社なんですと、説明したとしよう。
 外国人といっても国によって宗教や神概念もそれぞれ違っているし、日本に対する知識がほぼないようなアフリカや中東の人に一から神社を教えるのはさすがにしんどいので、ここでは欧米のキリスト教圏の人と想定しよう。

 まず、一神教のキリスト教に対して日本の神道は多神教だということを言わないといけない。
 多少なりとも日本に興味があって日本を訪れている外国人なら、そのへんのことは理解しているかもしれない。
 八百万と言っても分からないので、たくさんの神がいますよということだ。
 山にも海にも、木々や風にも神がいるし、家の中の台所やトイレにもそれぞれ神がいる。新年になると戻ってくる神や、火除けや疫病除けの神もいて、それぞれがそれぞれの役割を果たしているのが日本の神という考え方も知ってもらう必要がありそうだ。
 一方で、神には特定の場所に住まってもらうという考えもあって、社という神の家を建て、境内という名の神域を設けてそこにいてもらうというのが神社なのだと。
 教会と神社の大きな違いは、教会は信者たちの祈りの場で、信者が主なのに対して、神社は神の家で神が主ということだ。
 キリスト教的に言えば、天にいる父なる神やキリスト、マリアが住まうための家を建てて、信者がそこへ詣でるようなものというと、少しはイメージしやすいだろうか。

 では、ここからは外国人を伴って実際に神社へ行くところをシミュレーションしてみることにしよう。
 入り口にはまず鳥居がある。
 トリイって何ですか? という疑問は当然起きることだろうけど、これは日本人も上手く説明できないものだ。
 鳥居の起源や由来など、ほとんどの日本人が知らない。
 英訳すると、birds stay? そんなことを言うとややこしくなるから言わないでおく。
 名前の由来は日本人でも知らないんだけど、言えることは、外界と神域を分ける境界線としての役割を持っているのが鳥居なんですよというくらいだ。
 鳥居をくぐったら一礼することは、そういうもんなんだと言うにとどめたい。日本人はお辞儀をする民族なんだと。
 手水舎で手を洗うのは教会で聖水盤に指を付けて清める習慣があるキリスト教徒なら理解しやすいはずだ。
 ただ、口まですすぐことや、これは清めるのではなく祓うのだということを言い出すと面倒なことになる。
 禊ぎや祓えの概念を説明するのはあきらめたい。

 舞殿や拝殿、本殿のことや社殿様式のところまで踏み込むことはない。
 蕃塀の意味とか、尾張造がどうだとか、神明造や妻入などといった専門知識までは彼らも求めていないだろう。
 二拝二拍手一拝についても、こういう作法が決まり事なんだと言うだけにしておく。
 なんで拍手なんだ? と問われたら、日本人は昔から高貴な対象に向けて拍手をしていたようで、その流れというか名残と言われているんですよ、くらいは言ってもいいかもしれない。
 賽銭を入れて願い事をすることも、あれこれ言い出すと切りがないので、これが作法だということで押し切りたい。
 だんだん説明することが面倒になってないですか? と言われると否定できない。

 外国人に対して神社とは何かを説明することが難しいのは、神道について説明するのが難しいからというのも一因としてある。
 神道には聖書やコーランに当たるような聖典がない。仏教の経典(仏典)のようなものさえない。
 あれ? そういえばそうだよねと思う人もいるんじゃないだろうか。
『古事記』や『日本書紀』は歴史書であって聖典ではない。
 では神社の神職は何を持って神道を教え、神道を学のだろうという疑問を抱くかもしれない。
 神道を養成する大学ではどんなテキストを使っているのか知らないのだけど、歴史書や儀式書、口伝による教えなどを総合的に教え学んでいるのが実情だろうと思う。
 神道にあるのは作法で、決まった作法はないとは言いながらも、古くから受け継がれてきた作法の中に神道の神髄があるという言い方はできるかもしれない。
 神道に対する研究は古くから行われてきた。奈良時代や平安時代なども行われていたし、特に盛んだのが江戸時代で、 国学者と呼ばれる人たちがその代表だ。
 それによって神道の研究はかなり進んだ。
 しかし、我々一般人が神道について学ぶ機会があったかといえばまったくなかった。
 驚くことに、歴史書の『古事記』や『日本書紀』についてさえ中身まで踏み込んで教えることがない。
 戦前までは尋常小学校で歴代の天皇の名を覚えさせたものだけど、終戦後にやってきたGHQによって神道教育も否定され歪められてしまった。
 その結果、戦後生まれの世代は神道についてほとんど何も知らないまま成長してしまうことになった。
 神社について学校の授業で習った記憶もない。
 神社について外国人に簡単な説明すらできないという嘆かわしいことになっている。

 日本を訪れた外国人の多くが神社にも立ち寄っていると思う。
 そこがどういう場所かを理解できなくても、美しく整った光景とか、礼儀正しい日本人の姿とかには素直に感銘を受けるだろうし、誰も騒いだりしてないから、ここが神聖な場所ということも分かるはずだ。
 見よう見まねで参拝をして、おみくじを引いたりすることを楽しんでもらえればいいと思う。
 別に神社を堅苦しく考えることはないし、神道を深く理解しなければ参拝できないわけでもない。日本人だって神社のことなどよく分かってないのだし。
 ただ、今回のテーマである、外国人に神社ってどういうものですかと訊かれたときに、必要最低限の説明はできる日本人でありたいとは思う。
 日本人には気づかない視点もあるし、我々が疑問に思わずにいることをするどく指摘してくることもあるだろう。
 それらに答えるためには、私たちが日頃から神社についてよく理解しておかなくてはならない。
 知らないのはやっぱり恥ずかしいことだ。
 たとえば我々がアメリカの教会を訪れて、教会やキリスト教について訊ねたとき、自分もよく知らないんだよねと言うアメリカ人はまずいないのではないか。すごく熱心に説明してくれるだろう。
 外国人が引くくらい熱く神社について語れる自分でありたいと、個人的には思う。


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