第9回 『日本書紀』ミステリー
『日本書紀』とは何か?
日本人なら当たり前のように知っていると思いがちだけど、それは知ってるつもりなだけで、本当には分かっていないかもしれない。
『日本書紀』にはいくつもの謎があり、疑問がある。
同時に多くの誤解もあるように思う。
読んでいると、なんでそうなんだろうとか、なんでこんなことをここに書いたんだろうと不思議に思うことが少なくないし、明らかに変なところや矛盾点も多々ある。
そんな中、一つ大きな問題として挙がるのは『日本紀』がいつ『日本書紀』になったか、ということがあるのだけど、とりあえずそれは後回しとして、まずは『日本書紀』とは何かを考えつつ、成立の過程をおさらいすることにしよう。
そもそもどうして『日本書紀』が作られることになったのかといえば、これは律令制と深く関係している。
律令制というのは、刑法の”律”とそれ以外の法律の”令”による中央集権国家体制のことをいう。
”律”と”令”に加えて追加・修正の”格”と、運用する上での細かな規則を定めた”式”が揃って初めて施行されるものなのだけど、日本の場合は令が先行して律が整い、格式はだいぶ遅れて成立した。
律令制には三本の柱がある。一つは律令、一つは都があること、もう一つが歴史書を持ていることだった。
律令制がいつ始まっていつ整ったかについては諸説あるのだけど、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)の治世あたりだろうというのが通説になっている。
だとすれば、中大兄皇子の近江大津京や近江令などが端緒ということになり、西暦でいうと天智天皇6年(667年)あたりということになる。
この年、それまでの飛鳥から近江に遷都して大津京を築いたとされる。
一般的に『日本書紀』編纂は681年、大海人皇子時代に始まるとされるのだけど(後述)、中大兄皇子には歴史書編纂は始まっていたのかもしれない。
それまでも歴史をまとめた書はいくつがあったことが知られている。『帝紀』や『旧辞』、『国記』や『天皇記』などがそれだ。
それ以外にも『ホツマツタヱ(秀真伝)』や『ウエツフミ』、『竹内文書』に代表される古史古伝と呼ばれる書もあった。
しかし、それらは国の正式な歴史書ではなかったようで、あらためて国が編纂する正史と呼ばれる歴史書が必要になって作られたのが『日本書紀』だった。
時代背景を考えると、645年の乙巳の変(大化の改新)、663年の白村江の戦い、672年の壬申の乱を経て、いよいよ国が一つにまとまらないとやっていけないということになった時代という言い方もできる。
正史としての歴史書というのは我々が考える以上に重要で、必要不可欠なものだった。正史を持たない国は国家ではないとさえ考えられていた。
履歴書もない人間はどこの馬の骨とも知れないようなものだ。
それゆえ、『日本書紀』は国内のみならず、大陸(唐)や朝鮮半島を強く意識して作られている。
『日本書紀』には序文がない。
歴史書としてはこれは異例のことで、どうして付けなかったのか、あるいは元々はあったのに消してしまったのか、そのあたりは定かではない。
『古事記』にちゃんと序文があって(その真偽はともかくとして)、成立の過程をある程度知ることができる。
『日本書紀』以外に『日本書紀』について知る手がかりも、実は少ない。
797年に完成した『続日本紀』の養老4年(720年)5月癸酉条にはこうある。
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
一品(いっぽん/位階の第一位)の舎人親王(とねりしんのう)が天皇の命を受けて編纂していた『日本紀』が完成したので紀三十巻と系図一巻を奏上した、という内容だ。
このときの天皇は元正天皇(持統天皇の孫で元明天皇の娘)だった。
これをもって『日本書紀』の完成を720年(養老4年)としているのだけど、ここで気づくことが二つある。
一つは『日本書紀』ではなく『日本紀』となっていること、もう一つは”系図一巻”の存在だ。
系図? そんなんあったっけ? となるのが普通の反応だ。書かれているのだからあったに違いない。しかし、それは現在にはまったく伝わっていない。
こんな大事なものを不注意でなくすわけがないので、ある時期に廃棄されたか、もしくは隠されたということだ。完全に失われたとは考えにくい。
今も誰かがどこかに持っているはずだ。天皇家かもしれないし、別のどこかかもしれない。
系図一巻というからにはある程度の分量があったはずで、ペラ紙一枚のことではない。天皇や関係者だけでなく、登場する国津神の祖のことなども書かれていたのだろう。
もし残っていれば(公になっていれば)、日本の歴史観は今とは大きく違っていた。それくらい重要な存在だったはずだ。
それと問題は『日本書紀』ではなく『日本紀』だということだ。
”書”があるのとないのとではそんなに違うの? と思うかもしれないけど、これは大違いなのだ。
それを理解するためには、歴史書の形式について知っておかないといけない。
当時の日本で初めて国の”正史”としての歴史書を作るとなったとき、手本としたのが中国の歴史書だった。
中国に憧れていたというよりも、東アジアの国際基準に合わせるという意識だっただろうと思う。
中国の歴史書は大きく分けて紀伝体(きでんたい)と編年体(へんねんたい)があった。
編年体は歴史的な出来事を年代順に書いたもので、紀伝体は、『史記』で知られる司馬遷(しばせん/紀元前145–87年?)が生み出した形式とされ、王や皇帝の記録の”本紀”(ほんぎ)、皇帝に近い人物について記した”世家”(せいか)、活躍した個人の記録についての”列伝”(れつでん)、年表の”表”、天文や地理、制度などの”志”(書とも)をもって正式な形とされた。
”本紀”の”紀”と”列伝”の”伝”を取って”紀伝体”と呼ばれ、中国の正史はこの紀伝体で書かれるのが決まりだった。
『史記』をはじめとして、『漢書』、『後漢書』、『隋書』などがそれに当たる。
編年体の歴史書としては『春秋』、『漢紀』、『後漢紀』などがある。
つまり、紀伝体なら”書”、編年体なら”紀”とされることが多いから、編年体の『日本書紀』はやはり『日本書紀』ではなく『日本紀』なんじゃないかと思うのだけど、事はそれほど単純ではない。
『日本紀』なのか『日本書紀』なのかという議論は古くからあったのだけど、本来は『日本書』だったのではないかという説がある。
『日本書紀』(日本紀)が大陸や朝鮮半島を意識して作られたのだとすれば、国の正史にふさわしい紀伝体を目指したと考えられる。
現在伝わっているのが最初から意図された形式だったのか、どこかで紀伝体をあきらめたのかは分からないのだけど、日本式の紀伝体にしようくらいは思ったのではないか。
『日本紀』が『日本書』のうちの”本紀”に当たるとして、系図は天津神や天皇家の系譜だけでなく、国津神の系譜を網羅するものだったとすれば、それは”世家”や”列伝”に相当するものだったかもしれない。あるいは、年表の”表”も含んでいた可能性もある。
では地理などの”志”はどうかといえば、713年に元明天皇が詔を出して提出させた各地の「風土記」がそうだったのではないだろうか。”志”そのものではないにしても、”志”を作る参考資料にする意図があっただろうか。
そういう意味でいうと、単に『日本紀』(『日本書紀』)という歴史書を作るというよりも、律令制も含めて広い意味での歴史観を構築しようと考えていた当時の人々の思いが浮かび上がってくる。
日本とは何か、自分たち日本人はどういう歴史を持っているかといったことの再確認をしようとしたという言い方もできる。
しかし、その壮大な企画は途中で頓挫した。少なくとも完全な形にはならなかった。
以上のことを考え合わせたとき、やはり『日本書紀』というのはおかしな書名だということをあらためて思う。
紀伝体を目指したなら『日本書』だし、編年体でいくなら『日本紀』とするのが自然だ。
”何々書紀”などという歴史書は大陸にも半島にもない。国外の人たちが『日本書紀』という書名を見たら、なんだこりゃ? と思ったんじゃないだろうか。
もともと『日本書』を目指していて、その中の本紀に当たる部分を「日本紀」といっていて、”日本書”の”紀”と呼び習わしていたのがいつからか”日本書紀”という書名として定着したのではないかという説がある。
すごくもっともらしいのだけど、これはたぶん当たっていない。というのも、同時期に『日本書紀』と『日本紀』が同時に存在していたらしいからだ。
『万葉集』の歌の注に「日本書紀」と「日本紀」が出てくる。
たとえば6番歌(巻第一)の左注に「檢日本書紀」という言葉が書かれている(右、檢日本書紀 無幸於讃岐國。亦軍王未詳也。)。『日本書紀』を檢(かむが)ふるにという意味だ。
他にも「日本書紀曰」、「日本紀曰」、「紀曰」、「古事記曰」という注がある。
『万葉集』は759年から780年頃にかけて作られたとされ、783年に大伴家持が完成させたというのが通説だ。
天皇でいうと、淳仁天皇、称徳天皇、光仁天皇の時代に当たる。
全20巻のうち、巻1と巻2は古く、持統天皇や元明天皇が関わったともいわれる。
ここから考えられるのは、この当時の人たちは「日本書紀」と「日本紀」を厳密に区別していなかったか、もしくは『日本書紀』と『日本紀』が”同時に別々の書として存在していた”かだ。
ただし、この注がいつ書き込まれたかという問題はある。
『万葉集』の原本は見つかっておらず、最も古い写本とされる「桂本万葉集」は平安時代中期のもので、巻4の一部が残っているに過ぎないし、全20巻が揃った「西本願寺本万葉集」はずっと時代が下った鎌倉時代後期のものだ。
なので、成立時点からすべての注があったのか、途中で書き足されたのかが分からない。
もし、783年の時点ですでに注があったのであれば、そのときまでに『日本書紀』という書はすでにあったということになり、『日本書』の”紀”が『日本書紀』と呼び習わされたという推測はちょっと無理がある。
では、『日本書』というものがあったかどうかだけど、これはあった。
正倉院文書に保存されている『正倉院文書続修後集』の中に「天平二十年六月十日 帝紀二巻 日本書」とある。
天平二十年は748年で、元正天皇が亡くなった年に当たる。元正天皇が4月に亡くなり、その年の6月に『日本書』が作られたことが何を意味しているのか。
720年に『日本紀』が元正天皇に奏上されて、その元正天皇が亡くなってすぐの748年に『日本書』ができているというのもおかしな話だ。
二巻ということは、正式な紀伝体の形式で編まれた書ではないことは明かだ。
ひょっとするとこれは、現在の『日本書紀』の最初の部分、神代(かみのよ)上・下のことではないのか。
『古事記』は年代順に書かれた話ではないので編年体ではない。紀伝体としての正式な形式ではないものの、書き方としては紀伝体といえなくもない。
『日本書紀』の神代の部分は『古事記』に近く、編年体ではないという意味で紀伝体の”書”という認識だったとすれば、神代の部分を『日本書』、神武天皇以降の人代(ひとのよ)の部分を『日本紀』として、それが合わさって『日本書紀』となったという可能性が考えられる。
720年に提出された『日本紀』に神代があれば、わざわざその後の748年に神代だけの『日本書』を作る必然性は低い。
個人的に神代の部分は後付けではないかと考えている。
それを裏付けるような一つの研究がある。
中国文学専攻で言語学者の森博達氏が唱えたα群・β群説を知っているという人もいるだろう。
何が書かれているかではなくどう書かれているかを言語学の視点から読み解いて、唐代の正格漢文で書かれた巻の集まりをα群、倭習によって書かれた巻をα群として区別した。
倭習(わしゅう)というのは、ネイティブな漢文筆者なら絶対にやらないであろう日本風の漢文で書かれたものをいう。
たとえば”憂”とすべきところを”愁”としたり、”在”とすべきところに”有”としたりといったことだ。
外国人が話す日本語がちょっとおかしかったり、日本人が和製英語混じりの英文を書いたりしているようなものといえば分かりやすいと思う。
森氏は、巻14~21・24~27がα群(正格漢文)、巻1~13・22~23・28~29がβ群(倭習漢文)で、最後の巻30(持統天皇紀)だけはα群にもβ群にも属さないと分類した。
発表後に批判や反論が出たり、別の視点から区分けする説などもあるのだけど、この視点が一石を投じたのは確かで、そこから何が言えるかというと、一つには何人もの人間が編纂に関わっていることと、正格な漢文が書けた人間と日本的漢文で書いた人がいたということだ。
森氏はα群は中国人が書いたと主張しているけど、断言はできないと思う。日本人でも完璧な漢文が書けた人がいなかったとは限らない。
森氏の説に沿うならば、神代上下は日本人が書いたといってよさそうだ。
それがどうして後付けの可能性があるかといえば、中国人もしくは”正格の漢文を書ける人間の添削を受けていない”ということだからだ。
たくさんの人間が時代を跨いで編纂に参加しているとしても、ある時代には正格の漢文を書けた人がいたのだから、最初に神代が書かれていれば、当然、正格の漢文筆者も読んでいる。誰が書いたとしても、間違いがあれば直せばいいだけだ。
国の正史でもあり、大陸や朝鮮の人間が読むかもしれないことを思えば、文体が間違っているのは恥ずかしい。
720年に提出された『日本紀』は、すべてではないにしても、概ね正格漢文で書かれていたのではないか。
言い方を変えれば、倭習で書かれている部分は後から日本人が書き直したか書き加えた可能性が高いということだ。
完成から現在に至るまでのどこかで、『日本書紀』には誰かの手が入っている。オリジナルのままではない。
『日本紀』と『日本書紀』の書名が併存しているのもそれを表している。
ここであらためて『日本書紀』の編纂事業について再確認することにしよう。
『日本書紀』編纂の始まりを一般的に681年と仮定しているのは、『日本書紀』に書かれた次の一文によっている。
「三月丙戌 天皇御于大極殿 以詔川嶋皇子 忍壁皇子 廣瀬王 竹田王 桑田王 三野王 大錦下上毛野君三千 小錦中忌部連首 小錦下阿曇連稻敷 難波連大形 大山上中臣連大嶋 大山下平群臣子首 令記定帝紀及上古諸事 大嶋 子首 親執筆以錄焉」
即位10年(681年)の3月17日に、天武天皇は大極殿(おおあんどの)で川嶋皇子(カワシマノミコ)や忍壁皇子(オサカベノミコ)をはじめとした面々に『帝紀』(すめらみことのふみ)と上古の諸事を記して定めるよう詔を出し、大嶋(オオシマ)と子首(コビト)が筆録したという内容だ。
しかし、これを『日本書紀』の編纂開始とするのはちょっと無理があるように思う。後の『日本書紀』編纂につながる出発点ということであればそうだろうけど、だとすると完成して提出された720年までに40年かかったことになり、いくらなんでもかかりすぎだ。
ゼロからの出発ではなく、先行する歴史記録の『帝紀』や『旧辞』、『国記』などを下敷きにしているのだから、2、3年では難しいにしても10年はかからないのではないか。
40年といえば、天皇も天武、持統、文武、元明、元正と代替わりしている。
その間に社会情勢や世界情勢も変化しているし、律令国家に欠かせない正史を作ることの意義も揺らいでいたかもしれない。
少なくとも持統天皇時代にはできていないと駄目だったんじゃないかと思うけどどうなんだろう。
40年の間には当然ながら責任編纂者も交替している。
持統天皇の側近として最高権力者に上り詰めた藤原不比等が深く関わっているというのもそうだろう。
関わった延べ人数でいうと、相当な数の人間が『日本書紀』編纂に携わったと考えるのが自然だ。
この部分は中国人、この部分は日本人といった明確な区分けができるはずもない。
とにもかくにも、『日本紀』は養老四年五月癸酉(720年5月21日)に提出された。
同じ年の8月3日に藤原不比等が亡くなっていることとの関連も指摘される。
繰り返しになるけど、『続日本紀』は720年に提出されたのは”『日本紀』の紀30巻と系図1巻”だと書いていることだ。
『日本紀』が『日本書紀』を略したものということはあり得ないのは上で見てきた通りだ。
『続日本紀』は個人の記録などではなく国家の公式記録なので、書名を間違えたなんてこともあり得ない。
『日本書紀』って、すごくとっちらかってるよねという印象を抱く人は多いと思う。
その理由として考えられるのは、全体を通じての責任編集者がいなかったことと(舎人親王が編集にどこまで関わっていたかは不明)、多くの人間が時代を超えて関わった寄せ集め記事ということ、我々が今読んでいる『日本書紀』が写本を継ぎ接ぎしたもの、ということがある。
更に、『日本書紀』は時代を経る中で幾度も改変された可能性も考えられる。
『日本書紀』も原本は現存してない(ということになっている)。
しかし、普通に考えてこんな大事なものがそう簡単に失われるとは思えない。表に出ていないだけで、天皇家には伝わっているのではないか。少なくとも原本に近い写本は今も天皇家にあると個人的には考える。
でもそれはきっと、表に出せないものなのだろう。
写本が継ぎ接ぎというのはどういうことかというと、全30巻が揃っている写本は慶長年間(1596-1615年)のものでしかなく、それ以前でいうと熱田神宮が所蔵する熱田本が巻1から巻15(仁徳天皇の巻11が欠損)まで揃っているものの、室町時代前期の1375-1377年(南北朝時代)に写されたものでしかない。どちらも新しすぎる。
これ以上遡るとなると、部分的にポツリ、ポツリと伝わっているだけで、一番古い物とされる田中本も平安時代初期の神代上と応神天皇紀しかない。
これらの写本を100パーセント信用できるかといえばできない。失われた部分は誰かの命令で捨てさせられたのかもしれないし、表に出せないので隠されたのかもしれない。
すべての写本が原本を忠実に写しただけで何も変えてないということもあり得ないだろう。
どこかで何らかの力は必ず働いている。
問題はいつ『日本紀』から『日本書紀』になって、今伝わっている形になったかだ。
そこでクローズアップされるのが奈良時代末から平安時代初期の天皇と日本紀講筵だ。
日本紀講筵(にほんぎこうえん)は、平安時代前期に数回行われた『日本紀』の購読会で、約30年に一度開催されたことが知られている。
購読会といっても学者の研究会といったものではなく、朝廷行事として行われた。
卜部懐賢(兼方)の『釈日本紀』(1300年頃)によると、養老5年(721年)、弘仁3-4年(812-813年)、承和10-11年(843-844年)、元慶2-5年(878-881年)、延喜4-6年(904-906年)、承平6-天慶6年(936-943年)、康保2年(965年)に行われたようで、第一回の721年は『日本紀』の完成お披露目会だったとされる。
このうち重要なのは第二回の弘仁3年から4年(812-813年)に行われたものだ。
学識者の中から博士、都講、尚復が選ばれ、太政大臣をはじめとした官人や公卿などが参加して『日本紀』の講義や議論がなされた。
代表として講義を行う者は、「私記」というものを作った。読み合わせのための資料や記録のようなものだ。
第二回で講義を担当したのは、多朝臣人長(おおのあそみひとなが)という人物だった。
弘仁3年(812年)に詔が出され、翌弘仁4年(813年)に『日本紀』の講義が行われ、参議の紀広浜(きのひろはま)など10数人が参加した。
弘仁4年に作られたことから、このとき作られた私記を「弘仁私記」と呼んでいる。
この「弘仁私記」の序の内容が興味深くいくつかの示唆に富んでいる。
それはこんな言葉で始まっている。
「夫日本書紀者(中略)一品舍人親王(淨御原天武天皇第五皇子也) 從四位下勳五等太朝臣安麻呂等(王子神八井耳命之後也) 奉敕所撰也」
夫れ日本書紀を奏上したのは一品舍人親王(いっぽんとねりしんのう)で、太朝臣安麻呂(おおのあそみやすまろ)たちが編纂して奉ったといっている。
まずここで、え? どういうこと? と思う。
ここでは『日本紀』ではなく『日本書紀』といっているのと、それを編纂したのが太安麻呂だといっているので驚く。
太安万侶(一般的にはこう表記される)といえば『古事記』を編纂した人として知られているけど、『日本書紀』の編纂もしたと書いているのだ。
続く文章はこうなっている(一部略)。
「先是 淨御原天武天皇御宇之日 有舍人 姓稗田 名阿禮 年廿八 為人謹恪 聞見聽慧 天皇敕阿禮使習帝王本記及先代舊事 謂之舊事 未令撰録 世運遷代 豐國成姫元明天皇臨軒之季 詔正五位上安麻呂俾撰阿禮所誦之言 和銅五年正月廿八日 初上彼書 所謂 古事記三卷者也」
要約すると、天武天皇の命で稗田阿禮(ひえだのあれ)が習い覚えた故事を太安麻呂が編纂して和銅五年(712年)に奏上したのがいわゆる『古事記』ですということだ。
気づいた人もいると思うけど、弘仁の日本紀講筵の博士を担当した多人長と太安麻呂は”おお”つながりだ。
多氏(おおうじ)は皇別氏族では最古のひとつとされ、”太”、”大”、”意富”、”於保”などとも表記される。
火国造の火君や大分国造の大分君、阿蘇国造の阿蘇君などもこの一族とされ、尾張では丹羽縣主の丹波臣が同族という(この丹羽が本家かもしれない)。
ここでは太安麻呂を神武天皇皇子の神八井耳命(カムヤイミミ)の後としていて、『新撰姓氏録』(815年)にもそうある。
多人長が太安麻呂の直接の後裔かどうかは不明ながら、多氏が歴史を伝え記述する氏族だったという推測はできそうだ。
その多氏一族が持っていた古記録をまとめたものが『古事記』だったと理解することはできるのだけど、『古事記』も謎が多く、『日本紀』の改変と『古事記』の改変はおそらく連動している。そのあたりについてはあらためて別のコラムで書くことにして、ここでは話を進めることにする。
続く文章はこうだ。
「清足姫元正天皇負扆之時 親王及安麻呂等 更撰此日本書紀三十卷并帝王系圖一卷 養老四年五月廿一日 功夫甫就獻於有司」
養老四年(720年)に(舎人)親王や安麻呂たちが”日本書紀三十巻と帝王系図一巻”を奏上したといっている。
『続日本紀』は”日本紀”といっているのに対して、ここでは”日本書紀”となっているということだ。
なんだ、それじゃあこのときまでに『日本書紀』になってたんだと思うと、必ずしもそうとは言えない。
奈良時代の『万葉集』の中で両方出てくるのもそうだし、日本紀講筵は”日本紀”講筵であって、”日本書紀”講筵ではない。
「弘仁私記」の中にも「詔刑部少輔從五位下多朝臣人長 祖禰見上 使講日本紀」という言い回しもある。
”使講日本紀”、つまり”日本紀”を使って講筵をしたと書いている。
平安時代初期の人たちにとっての『日本書紀』と『日本紀』の認識がどうだったのかはよく分からないのだけど、少なくとも「日本書紀」と「日本紀」の両方の書もしくは表記があったということだ。
もし、時の権力者によって『日本紀』が『日本書紀』に作り替えられたとしたら、旧書名である『日本紀』はタブー視されたとしても不思議はない。
しかし、平安時代に至っても「日本紀」という呼び名は残っている。ずっと後の時代になっても、たとえば卜部の一族は”日本紀の家”という呼ばれ方をした。鎌倉時代後期(1274-1301年)に卜部懐賢(兼方)が書いた『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』もそうだ。『釈日本書紀』ではないし、”日本書紀の家”でもない。
上でも見たように『万葉集』の注も、「日本書紀」と「日本紀」があって、どちらかに統一していない。
では、『日本紀』と『日本書紀』はどういう関係性なのか、ということだ。
同じものを指しているのか、まったく別のものなのか、「日本紀」は「日本書紀」の一部なのか。
どこかの時点で『日本書紀』として統一されたとしたら、そこでは何らかのきっかけがあったのだろう。
あるいは813年の弘仁の日本紀講筵が分岐点になった可能性もあるのだけど、そういった動きはもう少し前からあった。
鍵を握る人物の一人が桓武天皇だ。
ネット記事によると、桓武天皇が『日本紀』の系図を焚書して『日本紀』31巻を『日本書紀』30巻に再編集させたという。
しかし、調べたところ、そのようにはっきり書いている史料を見つけることはできなかった(私が見つけられなかっただけかもしれない)。
もし、北畠親房の『神皇正統記』(じんのうしょうとうき/1340年頃)や「弘仁私記」の記事からそう考えているのであれば、ちょっと飛躍しすぎだと思う。
北畠親房(きたばたけちかふさ)は南北朝時代の南朝の公暁、歴史家で、南朝の正当性を示すために歴代天皇記の『神皇正統記』を書いたのだけど、その中の応神天皇のところに確かにそれらしい記事はある。
「異朝の一書の中に、『日本は呉の太伯が後也と云ふ。』といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。(中略)神・皇の御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云文をつくられき」
ここで言っているのは、”異朝の一書”の中に日本と三韓(朝鮮半島)は同種と書いているものがあるので桓武天皇の時代に焼き捨てたということと、氏素性を偽る者たちが増えたので姓氏録を作らせたということだ(815年の『新撰姓氏録』ではない)。
『日本紀』の系図を焼いたとか、『日本書紀』に作り替えたなどとはいっていない。”異朝の一書”は外国の書ということだ。
ただ、「弘仁私記」の序にも少し似たことが書かれている。それがこの部分だ。
「世有神別紀十卷 天神 天孫之事 具在此書 發明神事 最為證據 然秊紀夐遠 作者不詳(夐遠視也隳正反) 自此之外 更有帝王系圖 天孫之後 悉為帝王 而此書云 或到新羅高麗為國王 或在民間為帝王者 囙茲延曆年中 下符諸國 令焚之 而今猶在民間也」
世の中に『神別紀十卷』という作者不明の書があり、それとは別に帝王系図があって、その系図に新羅や高麗の人間が国王となったり、民間人が帝王になったと書いているので、延暦年中に諸国にお触れを出して焼(焚)かせた。しかし、民間にはまだ残っているらしい、といった内容だ。
『神別紀十卷』というのは『日本後紀』に出てくる『倭漢惣歴帝譜図』のこととされるのだけど、これは現存していない。焼かれて残っていないのか、どこかに隠されたか。
それとは別の帝王系図が何を指すかは分からない。文脈からすると『日本紀』の系図のことではないだろう。普通に読めば異国の書、または異端の書といったものだ。
延暦年中は782年から806年なので、桓武天皇(在位781-806年)の時代ということだ。
以上からして、桓武天皇が『日本紀』の系図を焼いて『日本書紀』に作り替えたということはできないと思うけどどうだろう。
しかし、この時代に何かがあったらしいことは『日本後紀』の記事から推測はできる。
『日本後紀』(840年)に、延暦9年(790年)に桓武天皇が国史の再編纂を命じたという記事がある。
それによると、『続日本紀』はもともと光仁天皇の命で20巻本として作られたものを、桓武天皇が14巻に再編纂させて両書とも隠し、更に桓武天皇時代までを追加するように命じてあらたに40巻本として作り直されたというのだ。
現在に伝わっている『続日本紀』40巻は、桓武天皇の命で作られた改訂版ということになる。
20巻本や14巻本は知られていない(見つかっていない)。
だとすると、『続日本紀』がいうところの「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」という証言も少々怪しいと思えてくる。
『日本後紀』では『日本紀』についての記述はないものの、『続日本紀』をこれだけいじくっておいて『日本紀』にまったく手を付けなかったとは考えいにくい。
実際に系図を焼いたのかもしれないし、『日本書紀』も再編集したかもしれない。
それが事実ならば、何が気に入らなくて、何がまずかったのか。
なんでそんなことをしたのかを考えるには、このときの時代背景を理解しておく必要がある。
桓武天皇だけでなく、その前の光仁天皇と後の平城天皇、嵯峨天皇に至るあたりが何やらきな臭い。
この時代は、いろいろな部分で大きな変革期だったという言い方ができる。
光仁天皇(白壁王)は天智天皇の第7皇子の施基親王(志貴皇子)の第6皇子で、そもそも天皇になるような人ではなかった。
先代の称徳天皇のゴタゴタ(道教事件など)や政変があって担ぎ出される格好で770年に62歳で即位した(即位時の最高齢)。
その息子の山部王(後の桓武天皇)もまた、天皇となるべく育てられたわけではない。
母は光仁天皇の宮人(側室)だった高野新笠(たかののにいがさ)で、百済系渡来人の和氏の出身だったため、そもそも天皇候補ではなかった。
父が突然天皇になったことで自身も皇族となり、あれこれ政変が起こってお鉢が回ってきた格好で即位することになった。
こういう出自や経緯があったので、天皇の正当性を疑わしくするような書を人一倍嫌ったのかもしれない。
桓武天皇といえば、奈良の平城宮から長岡京(784年)、そして平安京(794年)に遷都した天皇として知られている。
早良親王の怨霊騒ぎがあったり(785年)、最澄を唐に留学させたりということも行っている。
806年に桓武天皇が崩御した後、その息子の安殿親王が平城天皇として即位した(809年)。
しかし、わずか3年で弟の神野親王(後の嵯峨天皇)に譲って、自分は平城京に戻っていってしまった。
にもかかわらず、翌810年になると、譲位するのはやっぱりやめたと言って、勝手に平安京から平城京へ遷都する詔を出す。
最終的には嵯峨天皇が軍で制圧して収めるのだけど、この一連のゴタゴタを薬子の変と呼んでいる。
この後、嵯峨天皇は810年(大同5年)3月に蔵人所(くろうどどころ)を設置している。
蔵人所というのは、天皇の事務仕事をする機関なのだけど、主な役目は書や機密文書を管理することだった。
何か、匂う。
嵯峨天皇時代の背景をいえば、最澄、空海を保護したのが嵯峨天皇で、『古語拾遺』(807年)、『新撰姓氏録』(815年)、「弘仁格式」(820年)が成ったのもすべてこの時期のことだ。
『先代旧事本紀』も早ければ810年代の可能性がある。
斎部広成が『古語拾遺』を書いたのも、嵯峨天皇が”式”を作るに当たって提出させたといわれていて、弘仁格式は初めて成立した”格式”だった。
格式は本来、律令を運用する上で欠かせない追加の法と細則なのだけど、701年の大宝律令から100年以上も遅れてようやく完成した。
『新撰姓氏録』は桓武天皇時代に企画された姓氏録が完成しなかったようで、嵯峨天皇があらためて制作させた姓氏録ということで”新撰”と名づけられたといわれる。
弘仁の日本紀講筵が行われた813年というのは、こういった一連の流れの中にあるということを理解しておく必要がある。
行われたのは嵯峨天皇の時代だったけど、企画や意図としては桓武天皇時代に端を発していると考えてよさそうだ。
日本紀講筵には表向きだけではない裏の理由があったのではないかとするのは勘ぐりすぎではないように思うけどどうだろう。
ここで別の角度から『日本書紀』を考えてみることにしたい。
それは読み方の問題だ。
現在の我々からすると『日本書紀』は”にほんしょき”だし、『続日本紀』は”しょくにほんぎ”で、『古事記』は”こじき”で、他に読みようがないように思う。
しかし、奈良時代や平安時代の人たちはそんな読み方(呼び方)はしていない。
実は『日本書紀』も『古事記』も正式な読み方は分かっていない。意外に思うだろうけど、フリガナがないので分からない。
”日本”はまず間違いなく”やまと”と読(呼)んでいたはずだ。
倭も、大和も、和も、すべて”やまと”の当て字でしかない。
天武天皇時代に倭から日本になったという説があるけど、あれも表記の変更だけで、日本を”にっぽん”とか”にほん”と称するようになるのはもっと後の時代になってからだ。
”やまと”の語源に関しては諸説あるのだけど、我々日本人、もしくは人類はもともと”やまと”の民だったと聞いている(話が長くなるのでここでは省略)。
『日本紀』も『日本書紀』も、おそらく”やまとのふみ”と、当時の人たちは読んでいただろうと思う。
『古事記』は、”ふることぶみ”または”ふることのふみ”といっていただろう。
なので、『日本紀』と『日本書紀』は形式の違いではあるのだけど、表記の違いだけという見方もできるかもしれないということだ。
言葉で”やまとのふみ”といったとき、「日本紀」と思い浮かべるか「日本書紀」を浮かべるかの違いだけと言えなくもないのか。
ここまで『日本紀』と『日本書紀』の共存、もしくは混在から『日本紀』が『日本書紀』に改編(改変)された可能性を考えてきたけど、『日本書紀』の一番の問題点はやはりなんといっても神代の存在だ。
天地が別れて、国常立尊が現れ、伊弉冉尊と伊弉冉尊が高天原から降りて葦原中国を造り、大国主神の国譲りがあって、天孫降臨して、その子孫が神武天皇につながるというあの神話部分だ。
もし、『日本書紀』に神代がなくて神武天皇から始まっていたら、ここまで異質な歴史書にはなっていなかった。
天皇の長すぎる寿命やいろいろな矛盾はあるにしても、編年体の天皇紀ということでさほど違和感は持たなかったはずだ。
神代が無駄とか余分とかではない。神代は神代で独立した書にすればよかったのではないかということだ。
実際、当初の『日本書』はそういう意図で編纂されたものかもしれない。
しかし、神代を頭にくっつけたことで様々な問題が出てしまった。あちこちほころびだらけで修復不能な状態になっているのはそのせいだ。
神代さえなければ、神武天皇の始まりも、もっと現実的な時代設定にできただろうし、そうすれば天皇の寿命を引き延ばしたりする必要もなくなる。
途中の改ざんがあったにせよなかったにせよ、神代ありきの状態から理路整然とした歴史書にするのはだいぶ無理がある。
どこかの時代、たとえば平安時代初期にその試みが行われたというのであれば理解できる。当時の人たちでも、さすがにこれはおかしいだろうと思っただろうし、国の正史がこんなでは国外にちょっと恥ずかしいという思いも持ったかもしれない。うちはこれでいいんですと押し切るのもちょっと厳しい。
そもそも『日本書紀』制作は、本当の歴史を隠しつつ歴史を後世に伝えるという困難なミッションだった。
都合の悪いことを誤魔化そうとしたなどという狭い了見ではないし、そんな低いレベルの話でもない。大事なものを守るために隠したのだ。
そういった彼らの心持ちを知らないと『日本書紀』の本質には迫れない。
『古事記』にある須佐之男命の有名な歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」は、一般に新婚の喜びを歌ったものとされているけど、そうじゃない。そういうふうに解釈されるようにあえてそう装いつつ別のことを歌で伝えたものだ。
考えてみてほしい、新婚の妻がいくら大事だからといって八重の垣を囲って守り隠す必要などどこにあるというのか。むしろ逆に見せびらかしたいくらいだ。
ここでいう妻は奥さんのことではない。言うなれば歴史や国そのもののことだ。
中央の雲から出て出雲となり、出雲が八つで八雲になる。
これは建国の話であり、国や歴史は八重垣で囲まれている。八重垣を更に八重垣で囲んで守っている。
歴史の真実を知るのは、その八重垣を掻き分け、掻き分けしていかないと届かないし、誰かの手助けなしに辿り着くのは無理だ。
山幸が塩土老翁(シオツチノオジ)の助けを借りたように。
塩土老翁が山幸を海神の元へ送るために乗せたのが竹の籠だった。
木曽の妻籠、馬篭、丹後一宮の籠神社、籠目紋…。
籠は竹に龍。
すべてはつながっている。
歴史はヒタ(飛騨)に隠された。だから”ひた隠し”という。
ひた隠しの一端を担ったのが『日本書紀』だ。我々は『日本書紀』によって真相から遠ざかるようにミスリードされている。
すべては計算尽くで、表も裏も絵が描かれている。
歴史の真相は裏側にはない。もっともっとずっと深い深層に守られている。
最後にこれだけは言っておきたい。
『日本書紀』には最大限の敬意を払わなければならないということだ。
長い年月をかけて大勢の人たちが知恵を絞って作り上げた結晶であり、後に続いた日本人たちが大事に1300年以上も守り続けてきたものだ。
ゆめゆめおろそかにできないし、安易に否定していいわけもない。
推理したりあれこれ議論する自由や権利はある。
でも、『日本書紀』を侮るようなことがあってはならない。
『日本書紀』は実に手の込んだ、ある意味では恐ろしい書である。