
御嶽というより神明?
読み方 | おんたけ-じんじゃ(りゅうせんじ) |
所在地 | 名古屋市守山区竜泉寺1丁目 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明 |
アクセス | 名古屋市営バス(ゆとりーとライン)「竜泉寺口」より徒歩約3分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
龍泉寺か竜泉寺か
名古屋市北区と岐阜県多治見市を結ぶ県道15号線(名古屋多治見線)のうち、小幡(おばた)から吉根(きっこ)を通って志段味方面のあたりを竜泉寺街道と呼んでいる。おそらく、通称だろうとは思う。
名前の由来はそのまま龍泉寺という寺があることと、このあたりの町名が竜泉寺だからだ。
ところで龍泉寺と竜泉寺はどっちが正しいのだろうと思うことがある。
町名は竜泉寺で寺は龍泉寺なのだけど、寺も竜泉寺と表記することがある。
公式サイトでは龍泉寺となっているし、江戸時代の地誌の『尾張志』(1844年)などでもそうなので龍泉寺で決まりかというとそうとも言い切れない。
龍と竜は厳密にいうと別で、古くは区別していたはずなのに、時代が進むにつれて曖昧になっていった。
もっというと、柳と龍と竜を区別していて、音は同じでも意味というか内容は違う。
アプローチの案内
県道15号線の「竜泉寺口」交差点より少し北の側道を入っていくと、その先に龍泉寺がある。
坂道の途中に弘法堂があり、そこを過ぎて少し行った左に細い道がある。そこを入って進んでいくと辿り着くのだけど、最初は分からず行ったり来たりしてしまった。完全に民家と民家の間の脇道なので、入っていっていいものかどうか判断に迷う。

以前は入り口に御嶽神社の社標が建っていたそうなのだけど、隣の民家が新しくなった際に撤去されてしまったらしい。
御嶽神社入り口とでも書いた板きれでもいいので案内は欲しいところだ。
私があきらめて帰りそうになったくらいだから、行ったけど分からなかったという人もいるんじゃないかと思う。
メインは神明?
道を進んでいった先に開けた空間があり、そこが境内になっている。
社があり、築山には御嶽の霊神碑と祠が乗っている。
中央辺りに拝殿があり、その向こうに社が二社並んでいる。
中央の社は大きめで「神明神社」のプレートが置かれ、隣の小さな社は「秋葉神社」とある。
少し離れたところには覆い屋に収まった「津島神社」が置かれている。
御嶽社はというと、左手の築山に霊神碑とともに小さな社が祀られている。
この配置を見ると、ここは御嶽社というより神明社なのでは? と思う。
神社の一角に御嶽教が間借りしているパターンはよくあって、ここもそんなふうに見えた。
もともと御嶽社があったところに神明社などを移してきたのかもしれないけど、現状では神明社と呼ぶ方がしっくり来る気がする。
それはともかくとして、この神社に関する由来というか縁起はまったく不明というのが実情だ。史料にもネットにもそういった情報はまったく出てこない。
場所を考えると龍泉寺と関係がありそうなのだけど、そう決めつける根拠もない。
龍泉寺があるのは江戸時代の吉根村(きっこむら)で、吉根村の神明社は深沢1丁目に現存している。
『寛文村々覚書』(1670年頃)に「吉根村 社三ヶ所 内 八幡 神明 山之神 社内五反弐畝弐歩 前々除」とあり、この神明が深沢1丁目の神明社だろう。
八幡(八幡神社)が吉根村の氏神で、今も残っている。
深沢の神明社は大正8年(1919年)に一度八幡神社に合祀され、その後、昭和48年(1973年)に元の鎮座地に戻されたという経緯がある。
龍泉寺の神明は深沢の神明と何か関係があるかもしれない。
御嶽社に関しては江戸時代のどこかで御嶽教の人たちが祀ったものだろうと思う。
どうやら福寿講のものらしい。
御嶽教と講については中川区の御嶽教東福寿教会のページに書いたので、よかったらそちらをお読みください。
龍泉寺について
龍泉寺の山号が松洞山(しょうどうざん)というのは知らなかったというか意識したことがなかった。
正式には松洞山大行院龍泉寺という。
尾張四観音(おわりしかんのん)のひとつで(他の3寺は荒子観音、笠寺観音、甚目寺観音)、その年の恵方に当たる寺は節分会のとき大勢の人で賑わう。
龍泉寺は古くから熱田神宮(公式サイト)とゆかりがあり、熱田の奥の院という呼ばれ方もする。
本尊は馬頭観音。
馬頭観音の寺はそれほど多くない。
江戸時代中期の1755年(宝暦5年)に書かれた『龍泉寺記』によると、延暦年間(782-806年)に最澄が熱田社に籠もっている際、龍神のお告げがあり、多々羅池のほとりで経文を唱えると池から龍が現れ、同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが始まりという。
これの元ネタとなったのが1283年(弘安6年)に成立した無住道暁の『沙石集』(しゃせきしゅう)のようなのだけど、これは仏教説話を集めたものなので、そういう伝承が古くからあったということだ。
空海も熱田社参籠中に熱田にあった八剣のうち三剣を龍泉寺に埋めたという伝えがある。
何の根拠もなくこういう話が生まれるとも思えず、この場所(吉根村)である必然もあったのだろう。
龍の泉という名が与えられているくらいだから、龍神にまつわる信仰や思想が元になっているということだ。
もともと天台宗の寺で、中世から近世は春日井の密蔵院(公式サイト)の末寺だった。
尾張国における天台宗の中心は小牧の正福寺(大山寺)だったのが衰退したため(比叡山延暦寺と並び立つくらいの大寺だったのが三井寺の僧兵に焼かれて荒廃し15世紀に廃寺)、それに代わる寺院として美濃国御嵩(みたけ)の慈妙によって密蔵院が開かれたのが1328年(嘉暦3年)という。
密蔵院はその後、非常に栄え、最盛期の永享年(1440年代)には七堂伽藍を備える大寺院となり、尾張・美濃を中心に700の末寺や36坊の塔頭を持つまでになった。修行僧も3,000人を超えていたらしい。
現在はわずかに室町期の多宝塔(国の重要文化財)のみが往時の面影を伝える。
龍泉寺は火にまつわる逸話が多い。
戦国時代は近くに織田信行(信長の弟)が龍泉寺城を築城した(1556/弘治2年)せいもあって、1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いのとき豊臣秀吉方の陣が置かれ、退却の際に池田恒興(いけだつねおき)の配下の者によって城ものとも龍泉寺まで焼かれてしまった。
その後、1598年(慶長3)年に密蔵院29世の秀純和尚が堂や塔を再興するも、1906年(明治39)年に放火されて焼失してしまう。
しかし、焼け跡から慶長大判2枚と慶長小判98枚が入った器が発掘され、これを元手として本堂が再建されたのだった。
重要文化財に指定されている仁王門は1607年(慶長12年)の建造とされているので、再建時のもののようだ。
所蔵する木造地蔵菩薩立像も重文指定となっている。
多宝塔はもともと仁王門の向かって右手にあり、現在のものは昭和に再建されたもので、場所も移されている。
近頃は猫の寺としてちょっと知られる存在になっており、境内では猫たちがまったり過ごしている姿を見ることができる。
少し補足情報
龍泉寺を訪れたことがある人なら御嶽神社周辺や駐車場などに石仏が集められているのを見たかもしれない。
「御花弘法」として知られた霊場にあったもので、大正時代に御花弘法八十八ヶ所霊場として木村義豊・てつ子親子が整備したそうだ。
戦後に荒廃していたものを石黒籐三郎が集めて再構築したのが今の姿という。
参道弘の法堂裏や龍泉寺墓地の南にもある。
あまり知られていないのだけど、小幡緑地に大きな御花弘法像が建っている。
コンクリ仏師の花井探嶺(はないたんれい)によるものとされる。
花井探嶺についてはブログ記事「花井探嶺というコンクリ仏師がいた」にわりと詳しく書いたので、興味がある方はそちらをお読みください。
御花弘法八十八ヶ所霊場は名古屋電気鉄道の前身のひとつ瀬戸電気鉄道が力を入れていたもので、戦前はそれなりに賑わったようだけど、戦後に荒れ、龍泉寺の管理からも離れた。
それでもお世話をしている方がいるようなので、しばらくはなくなることはないだろう。
竜泉寺という土地は最澄と空海の両方のゆかりの地ということで、名古屋市民はもっと大切に思っていいところだ。
作成日 2025.3.24