
天王が先なのか
読み方 | しんめい-しゃ(いわふじ) |
所在地 | 日進市岩藤町所寒525 地図 |
創建年 | 1673年(?) |
旧社格・等級等 | 十五等級・旧無格社 |
祭神 | 天照皇大神(アマテラス) |
アクセス | 名鉄バス「岩藤」より徒歩約3分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月第1日曜日(旧7月15日) |
神紋 | 五七桐紋(五三桐紋?) |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
岩藤新田の開拓について
かつての岩藤新田から岩藤新田村になった集落の神社なのだけど、いくつかの異なった情報があってどれを信じたらいいのかよく分からない。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
創建は天王社・山神社が祀られていた地へ、明治初年に神明社を建立したことにはじまる。
明治六年据置公許となる。
これは本当だろうか。
元は天王社だったらしいというのは他の情報にもあるのだけど、天王社と山神社のところに明治初年(1868年)に神明社を建てたというのは、ここにしかない独自の情報だ。
境内にある由緒書は新田開発を含めてこう書く。
岩藤神明社由緒
当地は正保3年(1646)岩崎越、本郷越、岩作越、又三河寺部越よりの祖十一戸が移住し新田を起こす、その後岩崎村、藤島村の両村名より岩藤新田村となる。
岩藤神明社は寛文13年3月(1673)に創建され、岩藤新田村(現岩藤町)の氏神として祀る。
(区保存資料より抄出)
現在では合祀されている天王社の祭(天王祭り)が毎年7月に盛大に行われる。
旧御社殿は上葺の棟札より明治17年に再建し、昭和5年12月に建立されたもので、以後改修を重ねたが永年の風雪による老朽化が著しく、この度境内地の有効利用も考慮し旧本段より北側に全面御造営された。
岩藤新田は岩崎村の枝邑(支村)という位置づけで、尾張の地誌には独立した項がなく、詳しいことは分からない。
『尾張徇行記』(1822年)は岩崎村と岩藤新田について以下のように書いている。
此村ハ高針村ヨリ一里ホト行程へタチ街道筋ニアリ、小百姓ハカリニテ軒ヲナラヘタル村立ナリ、竹木少シ、四瀬戸ニ分ル、神明島・西中市場・東中市場・又其東ヲ清水ト云、枝邑ヲ岩藤ト云、本郷ヨリ東ニアリ、是ハ藤島ノ者岩崎へ出ヤシキシタル故カク唱フト也、又北新田ハ岩藤ツツキ山腰ニアリ、民戸処々ニ散在セリ
岩藤については、「藤島ノ者岩崎へ出ヤシキシタル故カク唱フト也」と、藤嶋村の人間が岩崎村に出郷を作ったからそう呼ばれたといっているのだけど、神社由緒やその他情報ではこれは違っているようだ。
神社由緒書では、岩崎、本郷、岩作(長久手)、三河の寺部から11軒が移住して新田を作り、岩崎と藤島の間にあったので岩藤としたとする。
『日進町誌』は『日進村誌』を引用してこう書いている。
慶長か元和か詳かでないけれども、岩崎より志水の祖、本郷より福岡の祖、現在の常夜燈の周囲に移り、其の頃岩作より庄右エ門なる人移り来りて下原に新開を墾き、倉地・水野・加藤は岩作より来り、其の後、藤嶋の一部上原へ、寺部より高木(以上皆現今の姓)移住して、尾張藩(源敬公なりと云う伝説あるも年月に違いあり)の助力を受けて新池を開き、岩藤新田を創めたり。当時上原七戸、下原六戸なり。
慶長は1598年から1615年まで、元和はそれに続く1615年から1624年までなのだけど、神社由緒書の正保3年(1646年)とは出発時点が違っている。
最初に岩崎から志水家が、本郷から福岡家が移り、同じ頃に岩作(やざこ)の庄右エ門という人物が下原を開拓し、それに続いて倉地家、水野家、加藤家も岩作からやってきて上原を開き、三河の寺部(豊田市)から高木家が移住してきたと、かなり具体的に書いている。
細かい部分は違っているものの、共通するのは他のいくつかの村から少数の人たちが移ってきて新田を開拓したという点だ。
早ければ江戸時代初期、遅くとも江戸時代の前期というのはその通りなのだろう。
ここで問題は、神社の始まりと、それが何神社だったかだ。
岩藤新田の氏神は何?
神社の由緒書で疑問に思うのは創建年のことだ。
1646年に11戸がこの地で新田開発を行い、1673年に神社を創建したといっている。
新田開発には年数がかかるから、一応格好がついたときに初めて神社を建てたということもある得ることではあるけど、ちょっと違和感がある。
これから新田を作っていくに当たって最初に何らかの神を祀るというのが順序のような気がする。
あるいは、村としての体裁が整って初めて神社を建てることが許可されたということだろうか。
だとしても、27年というのは少し長いというか遅いように思うけどどうだろう。
初めから神明社だったのか天王だったのか別の神社だったのかは書かれていない。
ここがどうもはっきりしない。
新田村の氏神として牛頭天王が適当だったかどうか。
なくはないけど印象として少なかった気がする。
この時代の牛頭天王社総本社は津島の津島牛頭天王社(公式サイト)で(今もそうなのだけど)、その関係が何かあっただろうか。
上にも書いたように、岩藤新田は岩崎村の枝邑(支郷)という位置づけだったので、尾張の地誌には独立した項がなくて神社について知ることはできない。
『尾張志』の「神明社 白山ノ社 辯才天ノ社 山ノ神ノ社四所 八幡社 天王ノ社二所 みな岩崎むらにあり」の中の天王二所のひとつが岩藤新田の天王(神明)という可能性もあるのか。
『日進町誌』の中から関係する部分を引用すると以下のようなことが書かれている。
幕末の史料では、この辺りを「天王浦」と呼んでいるので、元来は現在、末社になっている須佐之男社(天王社)が祀られていたものと考えられる。
当社の例祭を、 今日でも「お天王まつり」と呼ぶことから、このことは十分に首肯できるが、江戸期の地誌類には、天王社も神明社も見えない。明治元年九月に、白山社神主小塚大和が神紙方役所へ書上げた「由緒書」に当社は見えないが(天王社も見えない)、明治五年には員外社(無格社)になっているので、 この間に創立されたものかと思われる。
明治十二年の「神社明細帳」には、次のように見えている(抄出)。社殿 奥行五尺間口参尺五寸
境内弐百六拾五坪
境内神社 二社須佐之男社 建物奥行壱尺六寸間口壱尺参寸
山神社建物奥行壱尺参寸間口壱尺
境内遥拝所 建物縦式間 横壱間参尺
氏子 七拾七戸
主な年中行事は、七月十五日の例祭である。現在の境内地は二百二十四年。末社は須佐之男社天王社)と山神社の二社である。
これらの記述からすると、江戸時代後期には天王と認識されていて、明治のどこかで天王社と山神社は境内社となり、本社は神明となったということだろうか。
『愛知縣神社名鑑』がいう明治元年に天王社と山神社があるところに神明社を建てたというのは事実かもしれない。
かつてこの辺りが天王浦と呼ばれていたとか、神社北の橋が今も天王橋なのもそれを伝えている。
神社の祭りも岩藤天王祭といい、日進市唯一の山車が曳き回されるそうだ。
と、ここまでで納得すればそれで終わるのだけど、ひとつ引っ掛かっていることがある。
それは、神紋が五七桐紋という点だ。
もし津島神社系の天王社なら本社にあわせて木瓜紋を使用するのが自然だ。
五七桐紋を使っている神社は多いので一概には言えないのだけど、尾張氏との関係が考えられる。
ネットで見た天王祭の際にかかげられた提灯は何故か五三桐紋になっている。
五三桐紋なら尾張氏との関係が深いことになるのだけど、いずれにしてもこの神社の実体というのは分かりづらい。
岩藤新田の変遷
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
集落は3つ。今の下原、上原、もうひとつは西の梅ノ木、平子あたりだ。
岩崎村の本郷は岩崎川の西で、本郷から見ると岩崎川の東を新田開発したことになる。
このあたりは丘陵地が少なく平地が多いから、開拓さえすれば田んぼをたくさん作れた。
神社があるのは下原集落の東の外れで、岩崎川の南、天王橋の近くだ。
岩崎川はもう少し西で北から流れてきた北新田川と合流し、その先で天白川とぶつかる。
寺についての情報はないので、冠婚葬祭などは岩崎村まで行って行っていただろうか。
ただ、法然寺という字が残っているので、古くは寺があったかもしれない。
1920年(大正9年)はまだほとんど変化がなく、地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛んでしまうのだけど、劇的な変化は見られない。道が整備され、道沿いに民家が増えた程度だ。
集落の東に東名高速道路の高架が建設されたのは1968年(昭和43年)だけど、インターチェンジはここから遠いので交通の便はあまりよくならなかったのではないかと思う。
その後の発展もゆるやかで、このあたりは今も田んぼが残っている。
日進は面白い地名が残っているところなのだけど、神社があるところを”所寒”(とこさむ)という。
由来はよく分からない。
熱田に夜寒(よさむ)という地名があるから、”さむ”に何か意味があるのかもしれない。
近くには黒砂雲(くろすくも)や夏焼(なつやけ)といった不思議な地名もある。
はっきりしなかった
一応、得られる情報を得て組み立ててみたものの、やっぱりよく分からないというのが結論になる。
岩藤新田以降のことしか語られないのだけど、もしかするとそれ以前の歴史もあるかもしれない。江戸時代以前というだけでなく、平安やそれ以前だ。
まったくないとは言えないと思う。
天王やその前身の神社があった可能性を考えてもいいのではないか。
作成日 2025.5.24