松原氏創建ではない
読み方 | はちおうじ-じんじゃ(きょうえいどおり) |
所在地 | 瀬戸市共栄通五丁目64番 地図 |
創建年 | 不明(1473年?) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十二等級 |
祭神 | 天忍穂耳命(アメノオシホミミ) 天津彦根命(アマツヒコネ) 熊野櫲樟日命(クマノクスヒ) 天穂日命(アメノホヒ) 活津彦根命(イクツヒコネ) 湍津姫命(タギツヒメ) 田心比売命(タゴリヒメ) 市杵島姫命(イチキシマヒメ) 天照皇大神(アマテラスオオカミ) 素戔嗚尊(スサノオ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「水野駅」から徒歩約16分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月中旬の日曜日 |
神紋 | 五三桐 |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 瀬戸市共栄通にある八王子社 |
今村は新しい村なのか?
神社は江戸時代に今村と呼ばれた村にあった。
神社の話をする前に、今村について考察しつつまとめておくことにしたい。
『尾張国地名考』(津田正生)は今村についてこう書いている。
今村 いまむら
同名いま多し故印場今村と呼
支村 横山
【松平君山曰】 舊名を横山といひしと也
【箕浦賢屯曰】横山は今却て支村の名にのこる
【正生考】印場村より東へ瀬戸までむかしは村里なし近世其間に新居と今村との二村出来たりされば舊名横山といふことも只山の名にして村名にはあるまじき意地す
今村という村名は多い(江戸時代)ので、他と区別するために”印場今村”と呼んでいることと、旧名を横山といったという話を紹介しつつ、津田正生自身は横山というのは山の名前で旧村名ではないのではないかと推測している。
かつては印場村と瀬戸村の間に村(郷)はなかったとも言っているのだけど、果たして本当にそうだっただろうか。
というのも、この八王子があるということは近くに集落があったということを意味するからだ。
印場村と瀬戸村との間は直線で8キロも離れていて、この間に集落がなかったというのはちょっと考えづらい。
八王子はかなり古い神社の可能性があると個人的には考えている。
松原広長が創建した?
今村について語るにはまず松原広長について説明しなければいけない。
事の始まりは松原広長の父、松原下総守一学(吉之亟)が三河国碧海部今村(安城市)から三河国西加茂郡の今村(豊田市)に移り、更に尾張国春日井郡赤津村(横山村とも)に移ったことだ。
このとき赤津城の200メートルほど南に御戸偈城(おとげじょう)を築いたと伝わる。
1445年頃というから応仁の乱(1467-1477年)の少し前ということだ(もう少し後という話もある)。
しかし、国を超えてよそから来た人間が縁もゆかりもない土地で勝手に住んだり城を建てたりできたのかと考えると、この話は今一つ信じられない。
ただ、松原氏が移り住んだ理由というか事情というのは推測できる。
ネット情報で出典が定かではないのだけど、松原一学は衣(挙母)城主の中条氏の配下で、中条氏の命で飽津(赤津)に移り住んで今村と名づけたという。
別の話として、松原一学の子の広長の時代に勢力を広げて、この八王子神社があるあたりに城を築いて今村城としたというのもある。
どちらが本当なのか判断がつかないのだけど、ここで重要なのは中条氏と衣だ。
衣(ころも)は後に挙母(ころも)と表記されるようになる。今の豊田市だ。
室町時代の衣は尾張国の一部だった(後に三河国になる)。
そして、中条氏は源氏一族ということだ。
中条氏の祖は源義朝(頼朝や義経の父)の後裔の八田知家(はったともいえ)とされる。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では市原隼人が演じていたあの筋肉ムキムキの人だ。
鎌倉時代に尾張守護の中条頼平の子の景長が衣の地頭に任じられ、1308年に金谷城を築城した。
当時このあたりを高橋荘といっていた。
南北朝時代の中条長秀は3代将軍・足利義満の剣術指南役も務めた剣豪として名が通った人物だ。
中条流平法の創始者で、後の一刀流剣術の元となった。佐々木小次郎などもこの流派で、新撰組にも中条流の使い手が何人かいたという。
中条氏は守護や奉行などを歴任する名家だったのが、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり/在位1429-1441年)との不仲が原因で急速に力を失っていくことになる。
理由はよく分からないのだけど、京都へ一度も挨拶に行かず、1432年に足利義教一行が富士遊覧のとき近くの矢作宿に宿泊したときも無視したため、怒った義教に所領を取り上げられてしまった。
その後、結城合戦(1440年)などで一族が武功を上げてなんとか高橋荘を与えられたものの、以前の力は失われていた。
松原一学が尾張国赤津に移ってきたのはこの頃のことということになる。
中条氏の力が衰えて召し抱えられなくなったのかもしれない。
中条氏は源氏の直系であり、赤津は山田郡で、ここを治めていた山田氏は尾張源氏の一族だから、そういったつながりがあったのだろうと思う。
そうでなければよそ者がフラッとやってきて城を建てたりはできなかったはずだ。
問題は、後に今村と呼ばれるところにすでに集落があったかどうかということだ。
それが八王子神社創建にも関わってくる。
その後の中条氏がどうなったかというと、三河の松平氏や今川氏との争いで劣勢を強いられ、最終的には織田信長の勢いに押されて戦うことなく金谷城(挙母城)を明け渡して中条氏の衣支配は終わりを告げることになった。
赤津から今村へ
あらためて流れを整理すると、松原一学(吉之亟)が三河国碧海部の今村から三河国西加茂郡の今村に移り、更に尾張国春日井郡に移ったのが1445年頃。
赤津城の南に御戸偈城(おとげじょう)を築城した。
その松原一学の子の広長が父から下総守を世襲したのが1463年という。
広長の代に勢力を広げ、赤津から本地あたりまで支配下に治め、横山に移って城を築き、今村と名を改めたというのだけど、どこまで事実なのか判断がつかない。
分かっているのは、1482年に品野の桑下城主だった長江利景との争いに敗れて自害したらしいということだ。
これが本当であれば、広長は20年ほどを今村で過ごしたことになる。
問題は広長がこの地に移ってきたとき集落がすでにあったかどうかだ。
あったとすれば、八王子もあったことになる。
一方で、この八王子を広長が創建したという話もある。
ただ、まったく何もない未開の土地にやってきて一族郎党だけで集落や城を作ったというのはちょっと考えづらい。
城といっても館城だっただろうからそれほど大がかりな工事ではないにしても、それなりの働き手は必要だし、どこかから資材を調達してこないといけない。食べていくための田畑も必要だ。
しかし、すでに集落があるところによそから入ってきて簡単に支配できるかといえばそれも難しい気がする。
室町時代の村人がどんな暮らしをしていたのかが想像できないので、このあたりは何とも言えない。
個人的には八王子はすでにあって、広長が修造したか、拡張したのだろうと考えている。
八王子神社のすぐ南には慶昌院(けいしょういん)という寺があり、これは広長が1474年に城の守護ならびに八王子の神宮寺として八王子大明神と薬師如来を祀る天台宗医王山八王子を開いたことに始まるとされる(江戸時代前期の1631年に曹洞宗に改宗)。
この話もどこまで信じていいのか分からないのだけど、八王子に広長が何らかの形で関わっていたことは間違いないだろう。創建か修造かでいえば修造の可能性が高い。
室町時代以前からあったとすると、八王子を祀っていることからして創建したのは尾張氏だろうから、その起源はかなり遡るのではないかと思う。
鳥居に五三桐が彫られているからこれが神紋だろう。五三桐は尾張氏の古い神社であることを示している。
江戸時代の今村について
江戸時代の今村についてまとめておくことにする。
『寛文村々覚書』(1670年頃)は以下のように書いている。
家数 三拾軒
人数 弐百五拾八人
馬 弐拾七疋禅宗 寺内年貢地 赤津村雲興寺末寺 慶昌院
薬師堂一宇 地内弐畝弐拾八歩 前々除
熱田祢宜 次右衛門持分社弐ヶ所 内 八王 山神
同人持分
社内五反六畝七歩前々除古城跡壱ヶ所 先年松原吉之丞居城之由、今は畑ニ成。
家数が30軒で村人が258人ならそれほど小さな村ではない。
慶昌院が年貢地になっているのは江戸時代に入ってから改宗したりしたからで、古くからの薬師堂に関しては前々除(まえまえよけ)になっている。
神社は八王子ではなく”八王”になっているのが興味深い。
本来は八王と呼ばれていたのか、単に八王子を間違えただけなのか。
山神についてはどうなったか不明。今はないので明治以降に八王子に合祀されただろうか。
重要なのは熱田祢宜の持分になっていることだ。
江戸時代になっても熱田の尾張氏がこの神社を管理していたことが分かる。
松原氏が尾張氏と関係があったのかどうかは分からないのだけど、松原広長が祀った忘れ形見のような神社とはやはり思えないのだ。
続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみよう。
八王子 山神 覚書ニ社内五段六畝七歩前々除、熱田祢宜次右衛門持分
八王子社人熱田社家長岡円太夫書上ニ、八王子社内四畝二十歩、此社勧請ノ由来ハ不知、修造ハ文明五癸丑年、今村ノ城主下総守源広長為之、 又明応八戊午年同城主松原下総守周盛修造スト也、西山神社内三畝十五步又東山神社内一畝步共年貢地
又円太夫書上ニ、三狐子社内一畝十歩、金井明神社内一畝十二歩、諏訪明神社内一畝歩、弁才天社内一畝歩何レモ年實地
府志曰、八王子祠在今村、所祀神、即俗所謂五男三女神是也、配享天照大神素盞烏尊、社伝曰後土御門帝文明五年癸巳九月下総守源広長造進神祠
摂社 熊野三所及以天照大神祭一祠
金井明神祠、在同村、杞安閑天皇、社伝曰、延喜神名帳所載、 金神社是也、按同郡小金山神社、是乃式内金神則今此社亦移祀之者歟
情報が多いので順番に整理していく。
まず、八王子と山神はともに前々除で、八王子祢宜の熱田社家・長岡円太夫の書上によると勧請の年は不明で、文明5年(1473年)に今村城主の源広長が修造を行ったといっている。
やはり、松原広長は創建ではなく修造と考えた方がよさそうだ。
”源”を名乗っていたのか、後世の認識なのか分からないのだけど、松原氏は源氏の一族のようだ。
明応8年(1499年)にも今村城主の松原下総守周盛が修造したといっており、おやっ? と思う。
というのも、1482年に起きた品野・桑下城主の長江利景との戦いで松原広長が討ち死に(自刃とも)した後も今村城は引き続き松原氏が支配していたことを意味するからだ。
西山神社と東山神社というのは、こういう名前の神社が2社あったのか、西の山神・東の山神という意味なのか、ちょっと分からない。
興味を引かれたのは、三狐子、金井明神、諏訪明神、弁才天の存在だ。
『寛文村々覚書』には記載がなく、すべて年貢地になっていることから、江戸時代に入ってから祀られたものだろうか。
それにしても面白いのは、この金井明神を『延喜式』神名帳(927年)の山田郡金神社だといっていることだ。
社伝曰くといっているから、そういう記録なり言い伝えなりがあったということだろう。
安閑天皇を祀っているというのも何かありそうだ。
このあたりについては『尾張志』(1844年)も書いているので引用してみる。
八王子社
今村にあり五男三女神を祀り天照大神素盞嗚尊を配享す社傳に文明五癸已年九月松原原下總守源廣長造營すといへり
末社 熊野三社およひ天照太神を一社に祭れり金井明神ノ社
同村にありしが今廢す安閑天皇を祀れり社傳に延喜神名帳に載る金神社是也といへり
按するに同郡小金山神社は即式内金神社なれは此社も亦それをうつし祭れるもの歟白山社 三狐神ノ社 此二社も今村にあり
ここでは金井明神ノ社が今村にあったけど”今は廃す”といっている。
『尾張徇行記』から『尾張志』の間の20年ちょっとの間に廃社になってしまったとはちょっと考えにくいのだけど、それでも金井明神で安閑天皇を祀っていて、それが延喜式内の金神社という伝承があったというのは事実のようだ。
江戸時代当時、金神社は上水野村の小金山の上にあった(今は移されている)。
『尾張徇行記』も『尾張志』も延喜式内の金神社は上水野村の金神(小金山神社)という認識を示しつつ、今村の金井明神は上水野村の金神をうつし祀ったものかもしれないと推測している。
安閑天皇というと唐突に思えるけど、広国押武金日命として祀られる例があり、蔵王権現とも習合した歴史がある。
尾張ともゆかりの深い天皇で、尾張の金神社で安閑天皇を祀るというのも故のないことではない。
このあたりについては金神社のところでもう一度考えることにしたい。
今村の様子について『尾張徇行記』は以下のように書いている。
(前略)寺山島ト市場島ハ瀬戸川ノ南ニアリ、是本郷ナリ、又三州街道ノ内ニ横山ト唱フル所ナリ、府志ニ今村古ハ横山村ト云由ミエタリ、サレハ今接スルニ、往昔横山村中ニ別ニ村落ヲ開基スルカ故ニ今村ト唱へ来レル乎、小百姓ハカリニテ貧村ナリ、竹木茂リ村立ハ大体ヨクミヘタリ、農業ヲ以テ専ラ生産トス、農隙ニ、赤津瀬戸ノ陶器、又三州小原村辺ノ炭ノ駄賃著ヲシテ渡世ノ助トス、又横山ト唱フル所へ、街道通リニアリ、ココニ中水野村ノ出屋敷モアリ
瀬戸川の南に位置する寺山島と市場島(今の東寺山町から市場町のあたり)が本郷で、今村の古名が横山というのは、横山の中に新たな集落を作ったからそこが今村と呼ばれるようになったのではないかといっている。
小百姓ばかりの貧村で、農業を主にしつつ、農閑期には赤津の瀬戸物や小原村あたりまで行って炭を売ったりして生活の足しにしていたとのことだ。
江戸時代に特別裕福な村というのもそうはなかっただろうから、これが普通の姿だったという見方はできそうだ。
今村の変遷
今昔マップを見つつ今村の変遷を辿ってみることにしよう。
明治中頃(1888-1898年)の地図は江戸時代後期の姿がそのまま残っていると思っていい。
集落の中心は今の寺山町と市場町のあたりで、ここが本郷だった。
八王子神社はちょうど中心に鎮座する格好になっている。
一方の瀬戸川の北はどうだったかというと、そちらには瀬戸街道(水野街道)が通っていて、街道沿いに民家が並んでいた様子が見て取れる。
民家が集まっているのは今の平町から南山町にかけてだ。
地図には「今村川西」とある。
この旧瀬戸街道が後に瀬戸自動鉄道(瀬戸電気鉄道)の線路になった(今の名鉄瀬戸線)。
地図には「八白村」(やつしろむら)とある。
八白村は明治22年(1889年)に稲葉村・三郷村・今村・美濃ノ池村が合併して誕生した村だ。
その後、明治39年(1906年)に印場村と新居村を併合して旭村になったことで八白村は廃止となった。
大正14年(1925年)に今と美濃ノ池が瀬戸町に編入された。
現在は川西・北脇地区を效範連区、寺山・市場地区を長根連区と呼んでいる。
これらの村名、地名には意味があって、高天原や尾張氏が関わっていることを示している。
八白などは特にそうで、”八”の”白”などという村名は関係がないと付けることはできない。
長根もそうで、”根”の付く地名はどこも重要な場所を意味している。
1920年(大正9年)の地図では大きな変化は見られない。
その後地図は1968-1973年(昭和43-48年)に飛ぶのだけど、激変していて驚く。
ほとんどすべてのエリアが区画整理されて田んぼは姿を消している。
東の愛知環状鉄道の線路こそ通っていないももの、現在の町並みはこの頃までにほぼ出来上がっている。
八王子神社も住宅街に飲み込まれた。
戦前、戦後はどんなふうだったのかが気になるところだ。
秋祭りと献馬
『愛知縣神社名鑑』には10月中旬の例祭の神賑神事として「子供獅子」と「駆馬」とある。
今は少し形を変えて、4つの各シマが飾り馬を献馬するようになった。
特徴としては毎年持ち回りで代表になったシマを”やんちゃ”といい、馬に極端な仮装を施すというのがある。
かつて猿投神社祭礼の山口合宿に加わっていたときに途中で馬が言うことを聞かなくなって隊列から遅れてしまったことがあって、それ以降、わざと着飾らせて献馬するようになったのだとか。
ただ、これは表向きの話で、何か裏事情がありそうな気もする。
現地の感想
住宅街に埋もれるように建っているとはいえ、社殿の背後にはちょっとした森も残っていて、全体の雰囲気は悪くない。
とても穏やかな空気感に満ちているように感じた。
整っていてザワザワしていない。
裏手にはちょっと池がある。
今村城の堀の一部と伝わっている。
もともと水堀だったとは思えないので、後世に水をためたのではないかと思う。
池の端には「松原広長公城跡」の石碑が建っている。
以上、いろいろなことを考え合わせると、やはりこの神社はこの地を開拓した尾張氏が古い時代に祀った神社で、室町時代に松原氏が修造して、松原氏亡き後は村人たちが守ってきたと考えるのが妥当だと思う。
山田郡を治めた山田氏は尾張源氏であり、松原氏も源氏だとすればつながるし、熱田との関係でいえば藤原氏も関係している。
ちょっと面白いと思ったのは、八王子社でありながら神明鳥居で、鳥居に五三桐紋が刻まれていることだ。
近くの金神社もそうだったので、明治以降の熱田神宮にならったのか、それとも別の力が働いたのか。
作成日 2024.10.1