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妻神社(下半田川町)

塞ノ神とは

読み方さいのかみ-しゃ(しもはだがわちょう)
所在地瀬戸市下半田川町 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神不明(塞ノ神)
アクセスせとコミュニティバス/東鉄バス「妻之神」より徒歩約9分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 3月第3日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

兄妹の悲恋伝承

 ”妻神”と書いて”さいのかみ”と読ませている。
 察しの良い方なら塞ノ神のことだなと思うだろうけど、そうでもありそうでもないのがこの神社だ。
 入り口の説明板にこんな話が書かれている(一部改行)。

いつの頃であったか、この村はづれに兄を小治呂(こじろ)妹を稗多古(ひえたこ)と呼ぶみめうるわしい兄妹がいました。
年頃となり兄はせめて妹ほどの女を妹は兄ほどの男を、と西と東に別れて旅だった
遠い国のはてでやっと見つけて契りあつた美しい女とうるわしい男は妹であり兄でした。
二人は悲しい運命に泣く泣く故郷に帰り
「私たちの魂はここに止まり、せめて世の若い人たちのために幸福な縁結びとなってあげたい」とあい果てました。
村人たちは、ささやかな詞をつくって二人を祭ってやりました。
不思議にもよく願いが叶うとゆうので遠くからも参拝者が多く縁結びの「妻神」として 名高くなりました。
例大祭は毎年陽春三月第三日曜日
氏子

 これを単なる昔話として片付けていいかどうか。
 現実的にあり得る話で、実際にあった出来事かもしれない。
 あるいは、何かを伝えるために作られたお話なのか。

 我々現代人の感覚からすると、妹(いもうと)は兄に対する年下の女性でしかないのだけど、古い時代の妹(いも)は違っていた。
 上の話がいつくらいの設定なのかは分からないのだけど、江戸時代あたりだとするならば、妹はやはり”いもうと”であって、兄と妹が夫婦になるのはタブー視されただろう。
 しかし、これがもっと古い神話時代の話を元にしているのであれば話は少し違ってくるかもしれない。
 妹は妻を意味する表現でもあった。
『古事記』は神世七代のところでこんなふうに書いている。

次成神名、宇比地邇上神、次妹須比智邇去神此二神名以音、次角杙神、次妹活杙神二柱、次意富斗能地神、次妹大斗乃辨神此二神名亦以音、次於母陀流神、次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音、次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。

 男女一対の神の女性の頭に”妹”が付いている。イザナギ・イザナミも、イザナギに対して”妹”イザナミになっている。
『日本書紀』はこういう書き方をしていない。
 どうして『古事記』は”妹”を付けたのか。

 そもそも、兄弟姉妹の間での婚姻がいつ頃から禁忌となったのかという問題もある。
 それほど時代を遡ることもなく兄弟姉妹婚は行われていた。
 天皇や皇族の婚姻も、かなり近しい血縁で行われていたことが系図からも分かる。
 ただし、父親と母親ともに同じ兄弟姉妹での婚姻は古くから禁忌だったかもしれない。
『日本書紀』にもそんな話が書かれている。
 允恭天皇の子の木梨軽皇子と軽大娘皇女が通じたことが知られてしまい、軽皇子は流罪となり、その後再会したものの自害したといっている。

 それにしても、妻神社の伝承にはなんとなく釈然としないものを感じる。
 兄妹と知らずに結ばれて、後に兄妹と判明したから自害したということと、縁結びの神とされたことが上手くつながらない気がする。
 祀った側の感覚としても、二人の霊を慰めるために祀った祠に願い事をするだろうかと考えるとそれも違和感がある。
 祀るのであれば供養塔で、祠の神とはしないのではないか。

 どうもこの話は後付けっぽい匂いがする。
 そもそもこの社は塞ノ神だっただろうと思う。
 では塞ノ神とは何かということになる。

創祀は江戸時代なのか

 情報としては少ないながら、江戸時代の尾張の地誌にも名前だけ載っている。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはなく、『張州府志』(1752年)は未確認、『尾張徇行記』(1822年)は以下のように書いている。

神明社内東西十間南北十二間、斎ノ神社内東西五間南北四間、愛宕秋葉一社境内四間四方共ニ村除、是ハ庄屋書上也

 下半田川村の氏神は大明神・神明・白山の合同社で、現在の八劔社だった。
 それ以外として、神明、斎ノ神、愛宕・秋葉があるといっている。
 このうちの斎ノ神が今の妻神社のはずだ。
 下半田川村は独立性の高い集落だったようで、神社に祢宜を置かず、村人で管理や修造まで行っていたらしい。
 社地は年貢地だっただろうけど、村除になっているので村が除地として肩代わりしていたのではないかと思う。
 創建年代については不明ながら、『寛文村々覚書』に載っていないことからすると、江戸時代中期あたりかもしれない。
 あるいは元になる祠や石などが古くからあっただろうか。

『尾張志』(1844年)も見ておく。

八劔社 幸神ノ社 神明ノ社 神明社白山社二社 六社共に下半田川村にあり

 ここでは幸神ノ社という字を当てている。
 読み方はいずれも”さいのかみ”だろうけど、だんだん変化していったのか、古くから様々に表記したのかは分からない。
 これを妻神としたのがいつで、どういう経緯だったのかも不明としかいえない。
 明治以降なのか、昭和なのか。
 祭神についてもまったく分からない。

場所から考える

 ネットでも情報らしい情報はなく、ここで行き詰まった。
 ただ、祀られていた場所から見えてくるものがある。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 祀られているのは集落の東のはずれで、民家が途切れるあたりだ。
 つまり、集落の東の出入り口に祀っていたことになる(村境ではなく)。
 では、西の出入り口はどうなのかと見てみると、グーグルマップでは秋葉社が載っているもののマピオンにはなく、現地に行ってみると石灯籠のみがあって社は見当たらなかった。
 もともとはここに秋葉権現の祠があったのか、どこか別のところにあって私が見つけられなかっただけか。

つまりは塞ノ神

 集落の出入り口に祀り、”さいのかみ”と呼ばれていたのであれば、それはやはり塞ノ神だろうと思うのだ。
 兄妹の悲恋伝承が事実にもとづくとしても、それは後付けだろう。

 塞ノ神をかんたんにいうと、”ふせぐ”神だ。
 外から悪いものが入ってこないように集落の入り口や辻に祀ることが多かった。
 あるいは山の入り口に祀ってこちらとあちらを区別する境界とすることもあった。

 岐神(クナト)と同一視されたり、道祖神と習合したりもした。
 このあたりの民間信仰は複雑な様相を呈しているので理解が難しい。
 ミシャクジ(社宮司)なども絡めるとますますややこしくなる。

 日本神話の話を少ししておくと、『古事記』においては伊邪那岐神(イザナギ)が黄泉国から戻って禊(みそぎ)をした際に脱ぎ捨てた褌から道俣神(チマタ)が化生したとあり、『日本書紀』は、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、追いかけてきた伊弉冉尊(イザナミ)に対して伊弉冉尊(イザナギ)が、「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(クナト)が化生したといっている。
『古事記』では、投げた杖から化生した神を衝立船戸神(ツキタテフナト)とする。
 クナトを”来るな処”と解釈して境界の神とした。

 中世から近世の人たちがこういった神を明確に認識していたとは思わないのだけど、日本人の感覚として理解できる部分はある。
 現代の日本はどの町も地続きで境界があってないようなものだけど、明治時代、あるいはもっと後の昭和の戦前までは集落という単位がはっきりとしていた。
 実際に住んだことはなくても、田舎に行けば多少はその感覚が分かると思う。
 それはつまり、内と外の意識が今よりもずっと強かったということだ。
 内は内、外は外。内さえ良ければ外は知らないという感覚が、たとえ言葉にしたり自覚しなかったりでもあったに違いない。
 なので、内を外から守るためには境界や出入り口に何らかの神を祀るのは自然であり必然だった。
 それが塞ノ神やクナトや道祖神といったものだ。

 塞ノ神のサイは齋(いつき)や幸(さいわ)いの他、歳神の歳を当てることもできる。
 下半田川のように妻の字を当てたところはあまりないのではないかと思う。
 妻君(さいくん)のように使うから妻を”さい”と読ませることはできる。
 珍しい社名ということでちょっと引っ掛かるのを狙ったかどうは分からないけど、これはけっこう成功だったのではないだろうか.。
 近年はネットで紹介されることも増えて、縁結び祈願に市外から訪れる人もいるという。
 名古屋からでもなかなかの遠さで行くのは少し大変だけど、機会があれば一度訪ねてみてください。
 妻をめとらば才たけてみめ美わしく情ありみたいな人と出会えるかどうかは分からないけど。

作成日 2025.1.7

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