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オオウス《大碓命》

オオウス《大碓命》

『古事記』表記 大碓命
『日本書紀』表記 大碓皇子、大碓命
別名 不明
祭神名 大碓命・他
系譜 (父)第12代景行天皇
(母)播磨稲日大郎姫(針間之伊那毘能大郎女)/稻日稚郎姫(『日本書紀』)
(兄)櫛角別王(『古事記』)
(弟)小碓尊/日本武尊、倭根子命、神櫛王
(妃)兄比売、弟比売
(子)押黒之兄日子王(オシグロノエヒコノミコ)、押黒弟日子王(オシグロノオトヒコ)
属性 景行天皇の子 日本武尊の双子の兄
後裔 身毛津君、守君、大田宿禰、阿礼首、池田首など
祀られている神社(全国) 猿投神社(愛知県豊田市)、清瀬神社(岐阜県山県市)、守田神社(長野県長野市)など
祀られている神社(名古屋)
なし

 双子? 双子じゃない?

 大碓命(オオウス)を日本武尊(ヤマトタケル)こと小碓の双子の兄と認識している人が多いと思うけど、必ずしもそうではない。そういっているのは『日本書紀』で、『古事記』では双子と書いていない。
 大碓・小碓は珍しく『古事記』と『日本書紀』で表記は一致している。
 一般的に”オオウス”と”オウス”とされているのだけど、本当は”ヲヲウス”だろうし、もしかしたら”ヲウス”かもしれない。その場合、小碓は”コウス”とも考えられる。
『古事記』と『日本書紀』で大碓についての記述がいろいろ違っているので、そのあたりを比較しつつあらためて読んでみたいと思う。

 

 大碓と小碓の生誕の場面

『日本書紀』は景行天皇の皇后で大碓と小碓の母を播磨稻日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)、またの名を稻日稚郎姫(イナビノワキイラツメ)とし、子供は第一子の大碓皇子(オオウス)と第二子の小碓尊(オウス)の2男子としている。
 異伝としてもうひとり、第三子に稚倭根子皇子(ワカヤマトネコ)の名前を挙げる。
 稚倭根子については『日本書紀』の別のところでは八坂入媛(ヤサカイリヒメ)との間の第四子としており、混乱が見られる。
 大碓と小碓は、同じ日に同じ胞(えな)から生まれたとあるので、双子ということだ。
 それを見た景行天皇は、”天皇異之則誥於碓”というのだけど、これがよく分からない。
 現代語訳では「天皇はいぶかって碓(臼)に向かって叫んだ」としているのだけど、これは正しい解釈なのだろうか。
 ”誥”は叫ぶではなく告げるという意味で、”みことのり”とも読むように、上から下へ告げるという意味合いの言葉だ。
 ”異之”についても、”いぶかる”とか”不思議に思う”とするのはちょっと飛躍しすぎで、通常とは異なっているくらいに取るべきではないのか。
 では、碓に向かって告げるというのはどういうことかということが問題となる。
 このあとに続くのが”故因號其二王曰大碓・小碓也”で、この出来事にちなんで大碓・小碓と名づけたというのだけど、これも考えるとよく分からない。
 ここでいう”碓”は”臼”のこととしていいのだろうか? 臼というと我々現代人は餅つきの臼と杵を思い浮かべる。この碓はその臼なのか?
 もしそうだとして、出産と碓(臼)はどう関係しているのだろう。
 古い風習に出産のときに夫は臼を背負って家の周りを回ったという話があるのだけど、まさか天皇がそんなことをするとも思えない。
 碓に向かって何を告げて、それがどういう意味を持っていたのかが分からないのでモヤモヤする。
 飛鳥から奈良時代の人たちにしたら、こう書いておけばどういうことなのかは説明しなくても共通理解があったということなのだろうけど。
 小碓については、日本童男(ヤマトオグナ)と日本武尊(ヤマトタケル)という別名を伝えつつ、子供の頃から力持ちで容姿も優れていたと書いている。

 

『日本書紀』と『古事記』で食い違う兄弟構成

『古事記』では大碓と小碓の兄弟構成が大きく違っている。
 母親は針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオホイラツメ)と共通するものの、子供は5人といっており、大碓と小碓は第二子、第三子とされている。
 第一子は櫛角別王(クシツヌワケ)で、大碓命、小碓命、倭根子命(ヤマトネコ)、神櫛王(カムクシ)と続く。
 小碓についてはここでも別名として倭男具那命(ヤマトヲグナ)を挙げている。
 一番の違いはやはり、大碓と小碓を双子としていないことだ。書いていないというだけで双子ではないとは決めつけられないのだけど、双子なら双子と書くのが自然だ。
 第四子の倭根子命は『日本書紀』の異伝で紹介されている稚倭根子皇子のことだろう。
 第一子の櫛角別王は茨田下連(まんだのしもむらじ)の祖という以外は不明。
 第五子の神櫛王は『日本書紀』では五十河媛(イカワヒメ)の子としており、『古事記』は木国之酒部阿比古・宇陀酒部らの祖とする。
『新撰姓氏録』では讃岐公や酒部公が後裔として載っている。

 記紀ともに景行天皇には80人の子供がいたとしており、その中で倭建命/日本武尊(ヤマトタケル)、若帯日子命/稚足彦天皇(ワカタラシヒコ)、五百木之入日子命/五百城入彦皇子(イオキノイリヒコ)の三王子は太子だったといっている。天皇位を継げる皇太子として3人だけが特別扱いされていたということだ。
 このうち、ワカタラシヒコが第13代成務天皇として即位した。

 

 大碓と美濃の美人姉妹の話

 大碓の行動についても、記紀ではその内容がかなり違っている。
『日本書紀』によるとオオウス・オウスが生まれたのは景行天皇即位2年というのだけど、その2年後の即位4年におかしなことが書かれている。
 美濃国造の神骨(カムボネ)という人の娘に兄遠子(エトオコ)、弟遠子(オトトオコ)という美人姉妹がいるという話を聞いた景行天皇は、その姿を見てみたいと思い、大碓を自分の代わりに送ったところ、大碓は報告もしなかったため、天皇は恨んだというのだ。
 しかし、2才やそこらそんな役割を果たせるはずもなく、もっと後の時代の出来事の記事がここに紛れ込んでしまったのか、あるいは何かを暗示しているだろうか。

 同じような記述が『古事記』にもあるのだけど、ここでは姉妹の名前を兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)、その父を大根王(オオネノミコ)としつつ、使者となった大碓はこの姉妹を勝手に自分のものとして、代わりに別の姉妹を景行天皇の元に送ったというのだ。
 これはかなり大胆な行動と言わねばならない。実際、この後、大碓は天皇たちの食事の場へ出て行けなくなり、それを景行天皇に咎められ、小碓に殺される要因となった。
 身代わりの姉妹について天皇は、妃とするでもなく処置を決めかねて惚(なや)んだといっている。
 後日談になるのだけど、大碓と兄比売・弟比売との間にできた子が大碓の後裔としてつながっていくことになる(系譜については後述)。

『古事記』はこの後、小碓による大碓惨殺について書いている。
 景行天皇は小碓に、おまえの兄は朝夕の食事の席に出てこない、おまえが行って”ねぎ教へ覚(さと)せ”と伝えた。
 しかし、5日経っても大碓は出てこないので、天皇は小碓に、まだ誨(おし)えていないのかと訊ねると、もう”ねぎつ”したという。
 どのように”ねぎつ”したのかと訊くと、朝便所に入ったところを待ち伏せして捕まえて、手足をちぎって薦(こも)に包んで投げ捨てましたと答えた。
 ”ねぎ”というのがどういうことを言うのかは正確には分からないのだけど、天皇と小碓との間での行き違いあったということで、この蛮行を怖れた景行天皇は小碓を賊討伐へと追いやることになる。

 

 大碓は草むらに隠れた?

 小碓が大碓を殺したという話は『日本書紀』には出てこないので、設定として大碓はずっと生きていて、景行天皇40年のところで再び大碓が出てくることになる。
 東の方の賊(夷)が叛(そむ)いて辺境が騒がしいのでどうしたものかと天皇は群臣たちに相談したところ、西征を終えて日本武尊になっていた小碓が、自分は西を担当してもう疲れているので、大碓をやればいいと進言した。
 突然指名された大碓は焦った。即位40年だから、すでに38歳になっている。わりともうベテランだ。急に賊退治と言われても困ってしまう。
 怖じ気づいた大碓は逃げ出して草の中に隠れてしまった。
 ”逃隱草中”とあるのだけど、まさか文字通り草むらに隠れたというのではないだろう。”草”は何かの象徴で、誰かのところに駆け込んでかくまってもらったということではないかと思う。
 天皇は使者を送って大碓に、本人が望まないのに無理に派遣することはない、とはいえ敵と対峙もしてないのにおびえるとは何事かとも伝えた。
 結局、大碓は美濃に封じられ、身毛津君(むげつのきみ)と守君(もりのきみ)の二つの族の始祖となったと『日本書紀』は書いている。

『古事記』では父である景行天皇の妃候補を奪って弟の小碓に殺され、『日本書紀』では東征を拒否して美濃送りになってしまった大碓は、いずれにしても良い書かれ方をしていない。非常に印象が悪い。
 これは英雄ヤマトタケルを引き立たせるための道化役を与えられただけなのか、何らかの史実に基づいているものなのか。
 ただ、大碓の後裔を自認する一族がいる以上、モデルとなる人物が実在したということは言えるのではないかいかと思う。

 

『先代旧事本紀』も双子とする

 大碓に関しては中立と思われる『先代旧事本紀』を見てみると、『古事記』と『日本書紀』を足して2で割ったような内容になっている。
 兄弟の構成については、大碓命、小碓命、稚根子命(ワカネコ)の三兄弟のうち第一子と第二子は双子といっている。これは『日本書紀』の”ある伝えによると”の内容と一致する。
 美濃国造の神骨の娘の兄遠子と弟遠子の元に大碓をやったら密かに通じて、天皇は恨んだとあり、これも『日本書紀』に準じている。
 大碓に東征させようとしたという話はなく、小碓は景行天皇51年に東の夷(えみし)を討伐したあと、尾張で亡くなったと書く。
 これは記紀にはない『先代旧事本紀』独自の伝承として注目に値する。

 

 大碓は後裔を残している

 大碓の系譜について『古事記』は、姉の兄比売との間に押黒之兄日子王(オシグロノエヒコ)がいて、妹の弟比売との間に押黒弟日子王(オシグロノオトヒコ)がいるとする。
 そして、押黒之兄日子王を美濃の宇泥須和気(うねすくわけ)の祖とし、押黒之兄日子王を牟宜都君(むげつのきみ)などの祖としている。
 更に田部を設置したり、膳(かしわで)の大伴部(おおともべ)を定めたり、大和の屯家を定めたと書いている。
『古事記』は兄比売と弟比売を奪った大碓はほどなく小碓に殺されたことになっているにもかかわらず、子供がいたり美濃国を直轄したりしたというのはちょっと矛盾する。
『日本書紀』は上にも書いたように、身毛津君(ムゲツキミ)と守君(モリノキミ)の始祖としている。
『古事記』がいう宇泥須和気と守君がつながるのかどうかはよく分からない。

『新撰姓氏録』には、左京皇別の牟義公・守公、河内国皇別の大田宿禰・守公・阿礼首、和泉国皇別の池田首が載っている。
 平安時代初期までに大碓の後裔たちは都や周辺地域で一定の勢力を持っていたことが見て取れる。

 

 岐阜県山県市に痕跡を残す

 美濃国造の娘との間に子供が生まれたとし、『日本書紀』では美濃に封じられたとあるものの、大碓の美濃における痕跡はあまりない。
 ほとんど唯一といっていいのが、岐阜県山県市で、かつてここは武儀郡(むぎのこおり)と呼ばれていた。
 名古屋方面から見ると岐阜市の更に向こうの山の方といった場所だ。
 武儀郡は名前からも推測できるように、牟宜都君の本拠地だったところだ。
 妹の弟比売の子の押黒弟日子王の家系だ。

 山県市には大碓・小碓ゆかりの清瀬神社と垣野神社がある。
 清瀬神社で大碓命を祀り、垣野神社で小碓命(日本武尊)を祀っている。
 ここは柿野という地区で、大碓が密かに暮らしており、亡くなったあとに祀ったと社伝は伝える。
 古くは清瀬神社を内宮柿野明神(東宮)といい、垣野神社を外宮柿野明神(西宮)といったというから、元々対の関係だったということだ。
『美濃国内神名帳』には清瀬明神として載っている。
 特殊神事として、4月の祭りの際には両社から御旅所へ御輿が出され、獅子神楽の舞やからくり奉納があるという。
 同じ柿野地国ある太刀矢神社も大碓・小碓にゆかりがある神社とされる。
 小碓が牛に乗って大碓を訊ねてきたという伝承があり、その牛を埋めたとされる牛塚も残されている。
 社伝では小碓(ヤマトタケル)は大碓を訊ねた後に、ここから伊吹山に向かったという言い伝えがあるそうだ。

 

 三河国と大碓の関係

 大碓と縁が深い場所が三河国にもある。
 愛知県瀬戸市と豊田市にまたがる猿投山(629メートル)の麓にある猿投神社(web)は延喜式内社の三河国三宮の古社で、大碓命を祭神として祀っている。
『日本文徳天皇実録』の仁寿元年(851年)10月7日条に、狭投神に従五位下の神階を授けるという記述があることから少なくとも平安時代初期にはすでにあったということだ。実際はもっと古いに違いない。
 社伝によると、大碓は美濃に封じられた後、この地に移ってきて開拓をし、猿投山で毒蛇に噛まれて亡くなったという。それが景行天皇52年で42才のときといっている。

 猿投山の名前の由来に景行天皇が関わっている。
 天皇が伊勢国へ赴いたとき、かわいがっていた猿が不吉なことを言ったため海に投げ捨てたところ、猿は泳いで陸に渡り、鷲取山に逃げ込んだことから猿投山と呼ばれるようになったというのだ。
 この話には後日談があって、ヤマトタケルの東征の際に三河国から従った者がいて、活躍して功績を挙げたのだけど、後から聞くとその者の正体は例の猿だったという。
 猿投山の北には尾張・三河・美濃にまたがる三国山(701メートル)があり、それを越えた向こうは美濃国だから、オオウスが美濃国に封じられたという話もまったくの作り話ではないかもしれない。

 

 大碓は猿投山に眠る?

 猿投山の上に猿投神社の奥宮として東宮と西宮があり、東宮では景行天皇を、西宮では垂仁天皇を祀るとしている。
 山の上の社ながら祠といった規模のものではなく通常の神社と同じくらいの社が建っている。中世の神仏習合時代にはそれぞれ薬師如来像と観音像を安置するための堂もあった(礎石だけが残っている)。
 西宮の奥には大碓の墓があり、宮内庁が治定しているから、猿投山の伝承を作り話として片付けることはできない。
 尾張や三河の土地勘がある人なら分かるだろうけど、この猿投山に大碓の伝承があること自体不自然なことで、むしろそのことが逆に信憑性を高めている。

 ところで、猿と碓(臼)といえば、「さるかに合戦」を思い出す人もいるんじゃないだろうか。
 蟹をだました猿は子蟹たちに復讐されて最後に臼に潰されて死んでしまう。
 オオウスは猿なのか臼なのか。
 尾張国と三河国をあわせた地形はカニの形にも見えるけどどうだろう。
 尾張国の西に蟹江があり、三河国に猿投があるのはたまたまだろうか。

 猿投神社で大碓命を祀るとしたのは近世以降のことで、それ以前は猿田彦命、吉備武彦、気入彦命、佐伯命、大伴武日命、頬那芸神といった祭神名が挙がっている。
 しかし、近世に祭神が変えられたからといって本来の祭神とは違うと考えるのは早合点で、中世以降に変えられた祭神を元に戻した例も少なくない。
「奪われていた祭神を明治天皇に頼んで返してもらった」という話も聞いている。

 

 大碓は封印されている

 全国的に見て大碓を祀っている神社はごく少ない。上に書いた岐阜県山県市の清瀬神社と垣野神社以外では長野県長野市の守田神社くらいしかないのではないかと思う。
 名古屋市内にも大碓を祀る神社はない。江戸時代の地誌でも大碓に関する記述は読んだ覚えがない。
 ここまで伝承に広がりがないのはかえって珍しい。文字通り美濃と三河に封印してしまった感じだ。
 双子の片割れは表に出られないということを示しているのだろうか。

 

 双子と三河の奇妙な縁

 双子ということで少し脱線すると、双子はかつて、”畜生腹”(ちくしょうばら)や”忌み子”(いみご)と呼ばれて不吉なものとされた。動物と同じように一度に複数の子が産まれることは正常ではないと考えられたのだろう。
 あまり知られていないけど、徳川家は双子が多かった。
 家康には20人の子供がいたとされるけど、その中で次男の秀康、三男の秀忠、六男の忠輝は双子だったとされる。
 片割れについては秀康の兄弟が永見貞愛ではないかというくらいで、他はほとんど知られていない。
 家康自身も双子だったという話がある。これは一般的には信じられていないのだけど、三河の奥に徳川発祥の地とされる松平郷があり、そこに幼い日の竹千代(家康)の伝承が多く残っている。しかしそれは、竹千代が尾張で人質になっていた時期と重なる。
 秀康の片割れとされる永見貞愛は、三河国二宮の知立神社(web)の神職を務めたという。
 双子と三河を無理矢理こじつけるつもりはないけど、歴史に偶然はなく、そこには何かしらの必然がある。

 

 光と影は表裏一体

 双子とされる大碓と小碓は、一方は表で、もう一方は裏という関係性で、小碓は英雄に祭り上げられ、大碓は日陰者とされた。
『古事記』は小碓を兄殺しとし、『日本書紀』はそうしなかった。その逆ではないということに注意を払わなくてはいけない。
 大碓と小碓を実在の人物とするかどうかは難しいところなのだけど、小碓の派手な活躍が喧伝される一方で、大碓は影として働いていたのではないかという想像ができる。
 天皇家はどういうわけか日本武尊(小碓)を怖れているようなところがある。いまだに天皇の大喪の礼で日本武尊を悼む歌を歌うのは何故なのか。
 大碓についてもどこかに封じる必要があると考えたのかもしれない。それが猿投山だったのには理由がある。
 大碓の存在が表に出ることは今後もないだろう。

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