イメージ先行を改めることから
ヤマトタケルについてはイメージが先行しすぎて実体からかけ離れてしまっている感がある。 そもそも実在したのかという大きな問題があるのだけど、それとは別に『古事記』、『日本書紀』から逸脱して物語の主人公として語られすぎている。 ヤマトタケルの正体とは何かと問う前に、まずは『古事記』、『日本書紀』が何を書いて何を書いていないのかを確認することから始めたい。 個人的には熱田神宮(web)を書いたときにある程度把握できたつもりではあるのだけど、今回はヤマトタケルのみに絞ってもう少し広く深く探っていくことにする。 記紀その他についても見ていかないといけないし、熱田神宮の縁起書の存在も大きいので、そこも無視できない。 各地の風土記にもヤマトタケルは登場していて、奈良時代には広く認識される存在だったことがうかがえる。
『古事記』が描くヤマトタケル像
『古事記』、『日本書紀』ともに第12代景行天皇の子とするのは共通するものの、その兄弟構成はかなり違っている。特に双子かどうかというのが大きな違いとしてある。 ヤマトタケルといえば双子の弟というのが広く認識されているけど、そう書いているのは『日本書紀』だけで『古事記』はそういっていない。 『古事記』は景行天皇こと大帯日子淤斯呂和気天皇(オオタラシヒコオシロワケ)が吉備臣(きびのおみ)たちの祖の若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の女(むすめ)の針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオホイラツメ)を娶って五人の子が生まれたとし、ヤマトタケルこと小碓命(オウス)を第三子としている。 順番に書くと、櫛角別王(クシツヌワケ)、大碓命(オオウス)、小碓命、倭根子命(ヤマトネコ)、神櫛王(カムクシ)という顔ぶれとなっている。 小碓命の別名として、倭男具那命(ヤマトオグナ)を挙げる。 大帯日子淤斯呂和気天皇には他に何人もの妃や妾がいてたくさんの子がいたと書いているのだけど、結局、後を継いで帝位についたのは小碓命の母ではなく崇神天皇皇子の八尺入日子命(ヤサカノイリヒコ)の女の八尺之入日売命(ヤサカノイリヒメ)との間にできた若帯日子命(ワカタラシヒコ)だった。これが後に第13代成務天皇として即位したといっている。 この系譜の最後に奇妙なことが書かれている。原文はこうだ。 「娶倭建命之曾孫 名須賣伊呂大中日子王(自須至呂四字以音) 之女 訶具漏比賣 生御子 大枝王」 倭建命の曾孫(ひまご)の須売伊呂大中日子王(スメイロオオナカツヒコ)の女の訶具漏比売(カクロヒメ)を娶って大枝王(オオエ)が生まれたというのだ。 誰もがあれ? と思う。この通りなら、自分の子供の玄孫(やしゃご)を娶って子を生ませたということになるからだ。 ここから分かるのは、小碓命と倭建命は別で、小碓命よりもずっと昔に倭建命という名の人物がいたということだ。小碓命が倭建命の名を継いだといういい方ができるかもしれない。 系譜の締めくくりとして、大帯日子天皇は記録にあるだけで21人、記録されていない59王とあわせて80人の王がいて、そのうちの若帯日子命、倭建命、五百木之入日子命(イオキノイリヒコ)の三王だけが太子の名を負い、残りは国々の国造(くにのみやつこ)、和気(わけ)、稲置(いなき)、県主(あがたぬし)になったと書いている。 太子の名を負うというのは皇太子候補だったということなのだけど、このときすでに”倭建命”としていて、これが小碓命のことと断定していいのかどうかというのもある。 五百木之入日子命は若帯日子命の同母弟に当たるのだけど、どうしてこの3人だけが特別視されたのかは分からない。 このへんは全体的に怪しくてその通りではないのだろうけど、とりあえず話を先に進めよう。
大碓命と小碓命については、大碓命を守君(モリノキミ)、大田君(オオタノキミ)、島田君(シマタノキミ)の祖とし、小碓命は東西の荒ぶる神や従わない人たちを平らげたと書いている。 この後、三野国造(みののくにのみやつこ)の祖の大根王(オオネノミコ)の女(むすめ)の兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)が容姿麗という話を聞いた天皇は自分のところに召そうと大碓命を遣いに出したら大碓命が自分のものにしてしまって、身代わりに別の女人を差し出したというエピソードが語られる。 天皇はその女人が別人だと気づきながら大碓命をとがめることはせず、大碓命と兄比売との間に押黒之兄日子王(オシグロノエヒコ)が、弟比売との間に押黒弟日子王(オシグロノオトヒコ)が生まれたといっている。 大碓命による女人強奪事件からどれくらいの月日が経ったのかは書かれていないので定かではないのだけど、少なくとも子供が生まれていることからして直後ではないタイミングで天皇と小碓命との間でこんな会話が交わされた。原文は以下の通りだ。
「天皇詔小碓命『何汝兄於朝夕之大御食不參出來 專汝泥疑教覺(泥疑二字以音 下效此)』如此詔以後 至于五日 猶不參出 爾天皇問賜小碓命『何汝兄久不參出 若有未誨乎』答白『既爲泥疑也』又詔『如何泥疑之』答白『朝署入廁之時 待捕 搤批而 引闕其枝 裹薦投棄』」
天皇は小碓命に、汝の兄が朝夕の大御食(おおみけ)に出てこないから、汝が”ねぎ”って教え覚らせよと命じた。 しかし、それから5日経っても大碓命は出てこないので、天皇は小碓命に、まだ誨(おしえ)ていないのと問うと、すでに”ねぎ”りましたと答えた。どんなふうに”ねぎ”ったのかと更に問うと、朝厠(かわや)へ行くところを待ち伏せして捕まえて搤(つま)み批(う)って、枝を引きちぎって薦(こも)に包んで投げ棄てましたと答えた。 もっと砕いていうと、朝トイレに来るところを待ち伏せして捕まえてボコボコにして手足を引きちぎって薦に包んで投げ捨てておきましたということだ。 完全にイカれた人間の所業だけど、それをなんとも思っていない小碓命がまた恐ろしい。しかも、この後の文章から分かるのだけど、このときの小碓命はまだ少年だった。 ここでは”ねぎ”るの解釈の違いで、天皇としてはよく言って聞かせろというニュアンスだったのが、小碓命はやっちまえという命と受け取ったことで起きた行き違いだったということだろうか。 あまりの乱暴さに恐れをなした天皇は、西に熊曽建(クマソタケル)というのが二人いる、従わない礼儀知らずのやつらだから行って討ち取ってくるようにと命じた。 このとき「其御髮結額也」とあり、これは額(ぬか)に髪を結っている、つまり少年の髪型だったといっているので、小碓命は幼少時代からすでにそんな荒くれ者だったということをいいたかったようだ。 ただ、そうなると年齢設定などいろいろ問題が出てくる。大碓命は父の遣いに出るくらいの年齢で、子供も産ませているから少年とはいえず、小碓命は子供の髪型をしているから10代前半ということになり、やはり双子とするのは無理がある。
命を受けた小碓命は姨(おば)の倭比売命(ヤマトヒメ)に御衣(みそ)と御裳(みも)を給って、剣を御懐に納れて出立した。 倭比売命は第11代垂仁天皇と日葉酢媛命(ヒハスヒメ)の娘で、景行天皇とは兄妹なので、小碓命から見て父の妹になるのだけど、”姨”という字を使っているのはちょっと引っかかる。 通常、”姨”は母方の姉妹を指す言葉で、父方の姉妹なら”姑”を使うはずだ。 『古事記』がそんな勘違いをするとは思えないのであえてなのだろうけど、だとすると、小碓命の母の針間之伊那毘大郎女と日葉酢媛命が姉妹ということになるだろうか。もちろん、そんなことはどこにも書いていないのだけど。
小碓命が熊曽建の家にたどり着いてみると、その家の周囲には軍が三重に囲んで室を作ってるところだった。 そのまま突っ込んでも勝ち目がないと思ったのだろう、御室楽(みむろいわい)をするといって食事を用意しているのを見て機会をうかがうことにした。 楽日になると髪型を崩して垂らし、姨(倭比売命)から受け取った御衣御裳を服して童女の姿に成って女人の中に交じって潜入することに成功する。 倭比売命からもらった服は女装するためのものだったことがここで分かる。倭比売命はこんなこともあると見越していたということか。 女装した小碓命を見て気に入った熊曽建の兄弟は自分たちの間に座らせて酒盛りを始めた。 宴も酣(たけなは)になったとき、小碓命は懐から剣を出し、熊曽の衣の衿を取って胸を刺し通した。 それを見て弟の建は畏れをなして逃げ出した。 追いかけていって階段の下に追い詰め、背の皮をつかんで剣を尻から突き通す小碓命(至其室之椅本 取其背皮 劒自尻刺通)。 その状態でもまだ生きていた熊曽建は、ちょっと待て、その剣を動かすな、言いたいことがあると懇願し、小碓命はしばし許して押し伏せた。 汝は何者だと訊ねる熊曽建。 それに答えて小碓命は、吾は纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)に坐して大八島国(おおやしまのくに)を知らしめす大帯日子淤斯呂和気天皇の御子で、名を倭男具那王(ヤマトヲグナ)という。熊曽建の二人が従わず無礼なので取殺れという命を受けて遣わされたのだと。 それで納得したのかあきらめたのか、熊曽建はここより西に吾らより建き強き男はいない。しかし、大倭国には吾ら二人より建き男がいた。なので、吾らの御名を献上したい。この後は倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と称(たた)えるべしと言い終えたところで小碓命は熟した瓜を割るように熊曽建を裂き殺したのだった。 帰り道では山神、河神、穴戸神(アナト)を言向け和しつつ戻ったという。
それにしてもやることが凶暴すぎないか小碓命あらため倭建。これではほとんど殺人鬼だ。いくら古代といえどもまっとうな人間の所業ではない。 実際にはこんなことはなかったにしても、『古事記』はどうしてヤマトタケル像をこんなふうに描いたのかという疑問を抱く。 須佐之男命(スサノオ)も乱暴者だし、後の時代では雄略天皇も大勢を殺したと書いているものの、『古事記』の中で最も残忍なのは間違いなく小碓命(倭建)だ。 この後の出雲建(イズモタケル)とのエピソードでも倭建は残虐さを示すことになる。
そもそも出雲建を殺せという命は受けていなかったと思うのだけど、出雲国に入った倭建は出雲建を殺することに決めた。 それでとった手段が友人になるというものだった。 一緒に肥河へ川遊びにいって自分はまず最初に川から出て、刀を取り替えようと持ちかけた。 その刀というのが小碓命があらかじめ赤梼(いちい)で作っておいた偽の刀(木刀)だったのだけど、出雲建の意思を確かめる前に勝手に交換してしまったようなニュアンスで書かれている。 その上で、さあ刀合わせをしようと申し出て、出雲建が偽の刀を抜こうとして抜けずにいるところに刀を浴びせかけて撃ち殺してしまった。 その後、倭建は歌を歌っている。 「夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮」 やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ 出雲建が身につけていた刀は鞘につるがたくさん巻いてあるけど味がない、つまり刃がないから憐れだねといった意味だ。 無茶苦茶な話というか、倭建は異常者としか思えない書きようをしている。 やることが巧妙というかずるいというか、正々堂々と戦って勝ったわけではなくだまし討ちをしているだけで、天皇の皇太子とも思えないやり口だ。少なくとも立派な武人のやることではない。 後の時代でいうと、源義経に近いだろうか。
こうして出雲国を治めた上で帰還して報告をした倭建に対して天皇は、休む間も与えず東に十二道の荒ぶる神とまつろはぬ人たちがいるから言向け和平せよと命じた。 天皇はここでも殺せとは言っていない。”言向けして和せよ”と言っている。 ここではお供として吉備臣(きびのおみ)たちの祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副へ、柊(ひいらぎ)の八尋矛(やひろほこ)を与えたと書いている。 東征の副将が誰だったのかはわりと重要なので覚えておいてほしい。 ここでも出立前に倭建は姨の倭比売命の元を尋ねていく。これらの話の中で倭比売命は重要な鍵を握っていると見るべきだろう。 その倭比売命は伊勢大御神宮(いせのおおみかみのみや)にいるという設定になっている。 これが今の伊勢の神宮(web)を指しているとは個人的には思っていないのだけど、倭比売命がここで倭建に対して草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を授けているということは大きな意味を持つ。 草那芸剣は『古事記』でいうと速須佐之男命が八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)を倒した際に尾から出てきたものを天照大御神(アマテラス)に奉ったという話になっていて、その後についての言及がないのだけど、いつの間にか伊勢大御神宮にいた倭比売命が持っていたことになっている。 三種の神器の一つであり、天皇即位に欠かせないものになる前とはいえ、皇女から皇子に譲り渡していいものなのかという疑問を抱く。 この草那芸剣とともに御嚢(みふくろ)を渡し、もし危急なことがあればこの嚢を解くようにとアドバイスをしている。 後にこれのおかげで倭建は命拾いすることになることから、倭比売命は一種の予言者的な性格を帯びているということがいえる。 倭建は倭比売命に、天皇は自分に死ねというのでしょうかと泣き言を漏らしているけど、そもそも要因を招いたのは自分の所業だという自覚はないようだ。
東征話は複数のヤマトタケルの話
尾張国に到った倭健は、尾張国造の祖の美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に入る。 ここで非常に気になるのが、女性である美夜受比売を尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の祖としている点だ。 律令制以降と以前とでは国造の意味合いが違うのだろうけど、国の長には違いなく、尾張国における国造の祖を女性の美夜受比売としたことは何を意味しているのか。長に相応しい男性がいなかったのか、このときの当主が美夜受比売だったということなのか。 あるいは倭建との関係を結んだことで美夜受比売が尾張国造の祖とされたとも考えられるのだけど、倭建と美夜受比売との間には子供がいなかったという設定なので、それもどうなんだろうと思う。 美夜受比売と婚姻しようと考えた倭建だったけど、帰ってからでいいかと思い直して約束だけして東へ向かい、山河の荒ぶる神や伏さない人たちを言向け和平した。 このへんの描写は非常にあっさりしているというか具体性を欠いていてリアリティがない。 しかし、続く相模国での出来事は物語仕立てになっている。
相模の国造がこの地の大沼に甚道速振神(はなはだちやはふるかみ)がいるので見てきてほしいと頼み、倭建が見に行くと国造が野に火を付けたので倭建は火に囲まれてピンチに陥る。得意のだまし討ちを逆にやられた格好だ。 そうだ、倭比売命にもらった嚢だと思い出して開けてみると中には火打が入っていた。 授かった草那芸剣で草をなぎ払うと火打で火を付けて迎え火にして火を消し、国造たちを皆、切り滅してしまった。 ここでも倭建の殺人鬼ぶりが表れている。 この地は今の焼津(やいず)ですといっているのだけど、相模国は今の神奈川県なので、静岡県の焼津市とはちょっと合っていない。
次の舞台は走水海(はしりみず)なのだけど、いつも書くように舞台設定は架空のものなので、走水海がどこのことかを探してもあまり意味がない。 ただ、走水海としたことに意味はあって、そこには何らかの暗示が隠されているという受け取り方はできる。 あるいは実際に東国に倭建とされる人物がいて、今の東京湾あたりで起きた争いの歴史を形を変えて伝えたものがここで語られているのかもしれない。 倭建は一人ではなく複数いたのだろうし、リレー方式というか、別々の倭建の物語を一人の人物のものとして統合しているとも考えられる。 そうでないとあれほど多くの妃と子供がいたことの説明が付かないし、尾張国で美夜受比売と婚姻の約束をしながら后の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)がピンチを救ったという話の整合性も怪しくなる。 東征に后が付き従ったのかというのも謎というか不自然すぎるし、話を継ぎ接ぎしているのであちらこちらにほころびが出てしまっている。 ここでの話は、走水海が荒れて船が進まなくなったので海の神の怒りを鎮めるために弟橘比売命が自ら海に入って倭建一行を救ったというもので、話自体は『日本書紀』も共通している。 気になったのは弟橘比売命を”后”としつつ、弟橘比売命が自分のことを”妾”としている点だ。 通常、”后”は正妻を表す皇后のことで天皇の正妻に用いる言葉だ。 にもかかわらず、弟橘比売命はへりくだって自分のことを”妾”といっている。 このへんのことを言い出すと長くなるのでやめるけど、後ほど『常陸国風土記』でもう少し見ることにしたい。 系譜についても後ほどとする。
弟橘比売命は別れの歌を歌い、海に身を投げた。 七日後に弟橘比売命の御櫛(みくし)が海辺に流れ着いたので、御陵を作ってその櫛を治め置いたといっている。 櫛というのも一つのキーワードで、何かをいわんとしている。 伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉国へ伊邪那美命(イザナミ)を追いかけていって姿を見るなというのに髪に挿していた櫛の節を一本取って火を付けて見たとか、速須佐之男命は八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)から櫛名田比売(クシナダヒメ)を守るために櫛名田比売を櫛に変えたりという場面でも櫛は重要な役割を担っている。
先へ進んだ倭健は荒ぶる蝦夷(えみし)たちを言向け、山河の荒ぶる神たちを平和して帰途につくことになる。 足柄(あしがら)の坂本に到って御粮(みかれひ)食していた処に、その坂の神が白鹿に化けて立ち、倭建が食べかけの蒜(ひる)の片端を待ち打ったところ、それが目に当たって死んでしまうという出来事があった。 蒜は今でいう野生のニンニクのようなものだ。 なんのこと? という奇妙な話なのだけど、倭健が何かやらかしてしまったらしいことは分かる。 倭建は坂に登って三度歎じ、「あづまはや(阿豆麻波夜)」と詔したので、その国を阿豆麻(あづま)というようになったとも書いている。 ”あづまはや”を”我が妻や”と弟橘比売命を思い出して嘆いたというのが一般的な解釈だけど、話の流れや前後の脈略からするとそうではない気がする。 ”歎”は「嘆き悲しむ」という意味と「感心して褒め称える」という意味があって、もし後者であれば解釈はまったく違ってくる。 倭建の話全体が匂わせ記事で、額面通り受け取るとミスリードされてあさっての方向に導かれてしまう。 倭から東国までの遠征が全部嘘だとしたらどうなのか、と考えてみる必要がある。実際にはもっと狭い範囲で起きた出来事が元になっているかもしれない。 倭建が本当に倭(今の奈良)の人だとして、どうやって東国の事情を知ったのか? 調査員を派遣したとしてももちろん地図などはないし、地理も把握できなければ道も分からず、現地勢力も認識できていたとは思えない。 この話全体が本当ではないとすると、記紀の作者たちは何を描き何を伝えようとしたのか、ということだ。 そのあたりを考えながら更に読み進めていくことにしよう。
ヤマトタケルは歌人
足柄の坂本で不用意に白鹿に化けた神を殺してしまった倭建だったのだけど、特に何事もなく甲斐の酒折宮(さかおりのみや)へ到り、ここで歌を歌う。
「邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流」 にひはり つくばをすぎて いくよかねつる 新治、筑波を過ぎて、幾夜寝つる
それに対して御火焼(みひたき)の老人が歌を返した。
「迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁」 かがなひて よにはここのよ にひはとをかを 日々並べて 夜には九夜 日には十日を
記紀に収録されている歌は、実際にそのときその人が歌ったものではなく、後世に作られたものを当てはめているというのが定説となっている。上の歌などもほとんど意味をなしていない。 倭建が酒折宮で何日くらい経ったかなとつぶやいて、それに対して御火焼の老人が10日ですよと答えたといったことで、何が言いたかったのかよく分からない。 倭建の歌に返歌できる御火焼の老人とは何者かというのもあるのだけど、そもそもどうしてこんな重要とは思えない歌をここに収録したのかが問題だ。 倭建といえば最後の歌がよく知られているけど、この後も何首も出てくるから、歌人としての性格も付与されているという見方ができる。 それが何を意味しているのかということも一つ重要なテーマとしてある。 倭建はその老人を褒めて東国造に任じたといっているのだけど、天皇でもない皇太子が勝手にそんなことができたのかという疑問もある。
尾張に帰還
甲斐国を出た倭建は科野国(しなののくに)で神を言向けして尾張国へと還り、行きに約束した通り美夜受比売の許に入った。 行き道は海ルートで帰りは山ルートを通ったというのは理にかなっているのだけど、出てくる地名には何か別の意味が隠されているように思う。 地名ではない可能性もある。 美夜受比売のところで行われた大御食で、美夜受比売が大御酒盞(おおみさかづき)を捧げ献じようとしたとき、倭武は意須比之襴(おすひのすそ)に月経(つきのさはり)がついているのを見て歌を歌った。
「比佐迦多能 阿米能迦具夜麻 斗迦麻邇 佐和多流久毘 比波煩曾 多和夜賀比那袁 麻迦牟登波 阿禮波須禮杼 佐泥牟登波 阿禮波意母閇杼 那賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多知邇祁理」 ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 撓(わた)や腕(がひな)を 枕かむとは 我(あれ)はすれど さ寝むとは 我(あれ)は思へど 何が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり 天香具山の上を渡る白鳥よ、その細い首のようにか弱い腕を枕にしたいと私は思うのだが、あなたと寝たいと思うのだが、あなたの衣の裾に月が立ってしまった。
対して美夜受比売はこう返した。
「多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 阿良多麻能 都紀波岐閇由久 宇倍那宇倍那宇倍那 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 都紀多多那牟余」 高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経れば あらたまの 月は来経往く 諾な諾な諾な 君待ち難に 我が著せる 襲の裾に 月経たなむよ 日の御子よ、私の大君よ、年を経れば月も経るでしょう、いかにも、いかにも、君を待ち難く、私の衣の裾に月が立(経)ってしまいました。
襲(おすひ)の裾の襲は上着のことで、そこに月経、つまり生理の血がついていたので、共寝するのはやめておこうか、という意味と取れるのだけど、月経の月と月日の月が掛かっていて、必ずしも生理中だからまぐわいはやめておこうといった下世話な話ではなさそうだ。 取りようによっては美夜受比売が待っている間に初潮を迎えたとも取れる。 このあたりの歌については『日本書紀』にはまったく書かれておらず、『古事記』だけが書いている。 歌自体は例によってどこかから持ってきたものだろうけど、作者には必ず意図があって、適当にはめ込んだわけではない。 一般に対してではなく、ある特定の人に向けたメッセージかもしれない。 月経は後世の時代では穢れとされるのだけど、ここではそういう意味ではないと思う。
歌を交わした後、結局二人は交わることになるのだけど、この後の展開が急すぎる。原文はこうだ。 「故爾御合而 以其御刀之草那藝劒 置其美夜受比賣之許而 取伊服岐能山之神幸行」 御合した後、草那藝劒を美夜受比賣のもとに置いて伊服岐能山(いふきのやま)の神のところへ向かったと。 これでは翌朝出立したいみたいなふうに取れる。そんなことはないと思うのだけど、『古事記』は倭健の尾張帰還と伊服岐能山(伊吹山)行きの間を思いきり端折っている。あえて書かなかったのか、書く必要がないと思ったのか。
伊服岐能山へ
それにしても倭建はどうして伊服岐能山の神の元へ向かったのだろう? 「取伊服岐能山之神」といっているので、取りに、つまり討ち取りに行ったということだろうけど、理由について『古事記』は何も書いていない。 現地に着くと、この山の神は徒手で直に取ると宣言して山を登り始めた。 そこへ牛くらい大きな白猪が現れた。 倭建は、この白猪に化けたのは神の使いだから今殺さなくても還りに殺せばいいと言挙げした。 あえて口に出して言ったということだ。 倭建の悪いところは、余計なことを言ったりやったりすることで、それが自分に跳ね返ってきて危機に陥るというのがいつものパターンだ。しかも全然学習しない。 結果としてこのときの判断間違いが命取りになる。 にわかに大氷雨が零(ふ)ってきて倭建を打ち惑わせ、倭建はさっきの白猪は神の使者ではなく神の正身だと知ったのだった。 山を下りた倭建は玉倉部(たまくらべ)の清水に到ってようやく落ち着いたものの、当芸野(たぎの)あたりでにわかにおかしくなり、歩くこともままらなくなってしまう。 ここでもやはりそこのことを口に出して言っている。 「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖」 吾が心はいつも空を飛んでいるようだったのに今や足も歩けないくらいに”たぎたぎしく”なってしまったと。 そこからは杖を衝(つ)いてようやく歩けるくらいのよちよち歩きになった倭建。 我々は勘違いしがちなのだけど、倭建は伊服岐能山の神を討ちに行って返り討ちにあって死んだのではなく、神を神の使いと勘違いして怒りを買い、大氷雨に打たれて体調不良で命を落としただけだ。少なくとも『古事記』はそういう書き方をしている。
尾津前(おつなさき)というところの一本松に到ると、そこには行きに食事したとき忘れた刀がそのまま残っていた。 おいおい、倭建、大丈夫かとツッコミが入る。草那藝劒を美夜受比賣のところに置いてきただけでなく、別の刀も行きしなに忘れたのかと。 それで手ぶらでもやってやると息巻いていたのか。 ここでも倭建はのんきに歌を歌っている。
「袁波理邇 多陀邇牟迦幣流 袁都能佐岐那流 比登都麻都 阿勢袁 比登都麻都 比登邇阿理勢婆 多知波氣麻斯袁 岐奴岐勢麻斯袁 比登都麻都 阿勢袁」 尾張に 直に向へる 尾津の崎なる 一つ松 あせを 一つ松 人にありせば 大刀佩けましを 衣着せましを 一つ松 あせを 尾張に向かって立つ尾津の崎の一つ松よ、おまえが人なら刀を帯びさせ、衣を着せてやるのに、といった意味だ。
三重村に到ったところでまたつぶやいた。吾が足は三重の勾(まがり)の如くして甚疲れたり。自分の足は三重に曲がって疲れてしまったと。 続く能煩野(のぼの)で、例の有名な歌を歌う。
「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣(あおかき) 山隠れる 倭しうるはし
しかし、歌ったのはこれだけではなく、続けて以下の歌も歌っている。
「伊能知能 麻多祁牟比登波 多多美許母 幣具理能夜麻能 久麻加志賀波袁 宇受爾佐勢 曾能古」 命の 全けむ人は たたみこも 平群の山の くま白梼が葉を うずに刺せ その子
「波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母」 愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
ここで容態が更に悪化する。
「袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯 都流岐能多知 曾能多知波夜」 嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
そう歌うと倭建は崩(かむあが)ったのだった。 最後に思ったのが美夜受比賣のところに置いてきた草那藝劒のことだったか。 倭建の死を知らせる使者がすぐに送られ、倭で知らせを受けた后や子供たちはあわてて現地に駆けつけることになる。
倭建を悼む
倭から下り来た后や御子たちは御陵(みささぎ)を作り、周囲の田んぼを這い回って泣きながら歌を歌った。 ここでもやはり歌が歌われている。
「那豆岐能多能 伊那賀良邇 伊那賀良爾 波比母登富呂布 登許呂豆良」 なづきの田の 稲幹(いながら) に 稲幹に 匍ひ廻(もとほ) ろふ 野老蔓(ところづら) 墓の近くの田の稲の茎稲の茎に絡みつくトコロの蔦(つた)のように悲しむ私達
すると、倭建は八尋白智鳥(やひろしろちどり)に化けて天に翔って浜へ向かって飛んでいった。 それを追いかける后と御子たち。竹の切り株で足を切ってもかまわずに哭(な)きながら追いかけた。 そこでも歌を二首歌う。
「阿佐士怒波良 許斯那豆牟 蘇良波由賀受 阿斯用由久那」 浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
「宇美賀由氣婆 許斯那豆牟 意富迦波良能 宇惠具佐 宇美賀波伊佐用布」 海処(うみが)行けば 腰なづむ 大河原(おほかはら) の 植草(うゑぐさ) 海処(うみが) は いさよふ
草が絡みついて進めず、空も飛べない、海に行こうとしても腰に水が絡み付いて進めないと嘆く歌だ。 八尋白智鳥が磯にいたときに更にもう一首詠んでいる。
「波麻都知登理 波麻用波由迦受 伊蘇豆多布」 浜つ千鳥 浜はよ行かず 磯伝ふ
浜の千鳥は浜を行かずに磯を行くといった意味なのだけど、歌にするほどのことではないように思う。 ということは何か別の意味があると考えるべきだ。
倭建を悼む4首は「至今其歌者 歌天皇之大御葬也」といっている。 つまり、『古事記』成立時(奈良時代初期)も天皇の大御葬(おおみはふり)で歌われているということなのだけど、驚くことにそれは現代まで続いている。 昭和天皇の葬儀のときも歌われていたから、次の代の葬儀でもおそらく歌われる。 天皇や天皇家は今でも倭建を忘れていないということだし、何かを恐れているようにも思える。 そのあたりは後述としたい。 あと、多くの人が勘違いしているのが倭建はハクチョウになったと思っていることだ。 しかし、よく読めば”八尋白智鳥”、つまり大きな(八尋の)白い千鳥だと書いていることに気づく。 チドリは浜にいるような小さな鳥の総称で、今でいうチドリ科のシロチドリではない。ただ、ハクチョウでもないのははっきりしていて、古名でハクチョウのことを”鵠”(くぐい)といった。日本で見られるハクチョウは渡り鳥で、寒い地方にしか飛来しないから倭や伊勢の人たちが鵠(ハクチョウ)を見たことはなかったと思うのだけど、それにしても倭建を白い小鳥に見立てたということにも何か意味があったのだろう。
伊勢の能褒野から飛び立った八尋白智鳥は河内国の志幾(しき)に留まったので、そこに御陵を作って白鳥御陵(しろとりのみささぎ)と名づけた。 しかし、そこからも飛び立った八尋白智鳥は天に向かって飛び去ってしまったのだった。 こうして倭建の物語は幕を閉じる。
以上が『古事記』が書いている倭建の話だ。 大事なのは何が書かれているかよりも何が書かれていないかを認識して把握しておくことだ。 そこを踏まえた上で、『日本書紀』についても読んでいくことにしよう。
大碓と小碓は本当に双子?
『古事記』の景行天皇記(大帯日子淤斯呂和気天皇)は大部分が倭建の記事で占められているのに対して、『日本書紀』は日本武尊のこと以外に景行天皇こと大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)の事績もけっこう書いている。 違いとしては、日本武尊のキャラと双子設定だ。 最初の方に書いたように、『日本書紀』は日本武尊こと小碓尊(オウス)と兄の大碓皇子(オオウスノミコ)を双子としている。ただ、双子という言葉は使わず、「一日同胞而雙生」と、同じ日に同じ胞(え)に包まれて生まれたという含みのある表現を使っているので双子と断定することはできないかもしれない。 この”胞”は同胞とか胎盤といった意味の胞と捉えるのが一般的なのだけど、音の”え”ということでいえば別の意味の可能性もある。 それから、『古事記』には書いていなくて『日本書紀』だけが書いていることとして、亡くなったときの年齢を30歳(時年卅)としている点も重要だ。 日本武尊の実働年が10年とか15年というのを短いとするか長いとするかは判断が難しいところではあるのだけど、『日本書紀』の設定として、大碓皇子と小碓尊は双子で、小碓尊(日本武尊)は30歳で死んだということを念頭に置いて読み進めていく必要がある。
年齢について細かいことを言い出すと矛盾だらけでどうにも収拾が付かなくなるのだけど、大足彦忍代別天皇は先代の活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)の第三子で、活目入彦五十狹茅天皇の即位37年に皇太子となり、即位99年に先代が崩御したので即位したといっている。 一体、大足彦忍代別天皇は何歳の設定なのか? 即位の時点ですでに100歳を越えてしまっている。 さらに、即位2年に播磨稻日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)を皇后として、この皇后が大碓と小碓を生んだというから、出だしからして完全に破綻してしまっている。 このへんを気にし出すとどうにもならないので、気を取り直して先へ進むことにする。 ここからは主に『古事記』との違いに注目して読んでいくことにしたい。
『古事記』は針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)が、櫛角別王(クシツヌワケノミコ)、次に大碓命(オオウスノミコト)、次に小碓命(オウスノミコト)を生んだといっているのに対して、『日本書紀』は第一子大碓皇子と第二子小碓尊を双子の二兄弟としつつ、一書曰くという形で、第三子の稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ)の名を挙げている。 二子が生まれたときの状況や名づけについての記述の解釈が難しいのだけど、原文はこうだ。 「天皇異之則誥於碓 故因號其二王曰大碓小碓也」 天皇は異(あやし)んで碓(うす)に誥(たけ)んだ。よってその二王を大碓・小碓と名づけたというのだけど、もしこの兄弟が双子だったとしても、双子がそんなに珍しかったとは思えないし、碓に叫んだことも意味不明だ。 奈良時代に書かれた『続日本紀』には飛鳥時代から奈良時代にかけて双子や三つ子、四つ子まで生まれたので何かを贈ったという記事があるから、古代に双子が珍しかったわけではないはずだ。 双子は不吉だから片方をいなかったことにするといった風習がいつから始まったのかは分からないけど、古くからそういう思想があったということをいいたかったのか。 碓は餅つきなどで使う臼のこととされるのだけど、これも何かを暗に示しているのだろう。 ”天皇異之則誥於碓”の”誥”も、叫んだという解釈は違いで、何かを告げるというニュアンスなのかもしれない。 小碓尊の別名として、日本童男(ヤマトオグナ)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をここで挙げている。 その性質については、幼い頃から雄略の気があり、壯じてからは容貌は魁偉で、身長は一丈、鼎(かなえ)を持ち上げられるくらいの力持ちだったと書いている。 双子でも性格が違う例はあると思うけど、臆病者として描かれる大碓とは対照的な性格付けがなされている。
武内宿禰という存在
この後の記事は小碓尊には関係ないのだけど気になるので書いておくと、天皇即位3年に紀伊国(きいのくに)へ行幸して神祀りをしようとしたところ、占いで不吉と出たので取りやめて、代わりに屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロ)派遣することにしたという。 屋主忍男武雄心命は阿備柏原(あびのかしはら)で神祀りを行い9年ほど暮らす中で紀直(きのあたい)の遠祖の菟道彦(ウジヒコ)の娘の影媛(カゲヒメ)を娶って武内宿禰(タケノウチノスクネ)が生まれたといっている。 景行天皇の次代の成務天皇こと稚足彦尊(ワカタラシヒコ)は、武内宿禰の同日生まれといっているので、そのあたりの因縁というか、何かいわくありげではある。 稚足彦尊は小碓尊から見ると異母弟に当たる。 武内宿禰はこの後、鍵を握る人物としてたびたび登場してくる。
小碓尊は美濃生まれ?
天皇即位4年の記事は、美濃の弟媛(オトヒメ)とのやりとりについてのものとなっている。 『古事記』では三野国造の祖の大根王の娘の兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)を宮に入れようとして遣いに出した大碓命が横取りしたという話になっていたけど、ここでは天皇と弟媛との間の恋の駆け引きのような描かれ方をしている。 弟媛は最初拒否するものの最後は受け入れ、自分の代わりに姉の八坂入媛(ヤサカイリヒメ)を宮へ入れることになる。 その八坂入媛は7男6女を生んだといい、子供は全部で80人というのは『古事記』と共通する。 稚足彦天皇(若帯日子命)、日本武尊(倭建命)、五百城入彦皇子(五百木之入日子命)の3人を皇太子にしたというのも同じだ。 同じ年、同じ美濃でよく似た話が語られる。 美濃国造の神骨(カムボネ)の娘で兄遠子(エトオコ)、弟遠子(オトトオコ)という美人姉妹がいると聞いた天皇は、その姿を見たいと大碓命を遣いに出したところ、何の音沙汰もなくなり天皇は大碓を恨んだという話だ。 名前の違いはあるものの、話としては『古事記』と同じなので、最初の弟媛と八坂入媛姉妹は別の話と見るべきなのだろう。 違いといえば、『古事記』では天皇は身代わりの女たちに気づかないふりをして大碓を許したのに対して『日本書紀』は恨んだといっている点だ。 この後、さらっと読むと見落としそうな大事な一文が書かれている。 「乘輿自美濃還 則更都於纏向 是謂日代宮」 美濃の兄遠子・弟遠子姉妹の話は即位4年の記事なのだけど、輿に乗って”美濃に還り”、纏向(まきむく)に都を作って日代宮(ひしろのみや)と呼んだといっているのだ。 つまり、天皇は即位して4年間は美濃にいて、あらたに纏向に都を作ったということになる。 ということは、大碓・小碓の兄弟は美濃生まれということにならないだろうか? これは頭に入れておいていいことなので覚えておいてほしい。 後々、尾張、美濃、三河とヤマトタケルはつながっていくことになる。
大足彦忍代別天皇の話が長い
系譜に続いて大足彦忍代別天皇の事績が語られる。 熊襲(くまそ)が叛いたので筑紫(つくし)まで出向いたとか、碩田国(おおきたのくに)や日向国(ひむか)の国で苦労の末に賊を討ち取ったといった話をかなり詳しく長々と書いている。 このへんは『古事記』にはまったくない話で、『古事記』が省略したのか『日本書紀』が加えたのかということでいえば後者だろうと思う。 出てくる地名はすべて今の九州に当てはめることができるのだけど、これが実際に九州で起きた出来事とは個人的には考えていない。 九州に目を向けさせる必要があってそういう書き方をしたということだろう。 九州は外国に向いた玄関口であり、本国の影武者をやってもわなくてはならなかった。 『日本書紀』が編纂された飛鳥時代末から奈良時代初期の国外情勢や政治状況が『日本書紀』に与えた影響は少なくない。
上の記事は即位12年から13年の出来事として語られている。 そもそもの年齢設定がハチャメチャなので即位何年というのも当てにならないのだけど、とりあえず時系列で追っていくしかない。 各地で行宮を作ったといっているので纒向(倭)には戻らずその地に滞在したことになっている。 次の記事は即位17年に飛ぶ。 子湯縣(こゆのあがた)というところで遊んでいた天皇は故郷が恋しくなったのか、こんな歌を歌った。
波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮 夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試 異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固
愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も 倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し 命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ 此の子
あれ? 倭しうるわしの歌を歌ってる? と思う。 『古事記』では東征から戻る倭建が故郷を思って詠んで歌ということになっているのに、『日本書紀』では大足彦忍代別天皇が歌ったことになっている。これはちょっと戸惑う。 ただ、微妙な違いもあって、”国のまほろば”が”国のまほらま”になっていたり、”山隠れる”が”山籠れる”になってたりする。 「命の全けむ人は」の歌も続けて歌ったことになっている。 じゃあ、『日本書紀』では日本武尊は歌を歌っていないのかといえばそうでもない。それは順を追って見ていくことにしよう。
即位18年春3月、天皇は京(みやこ)へ向かうことにして、その前に筑紫国を見て回った。 途中、従わない者たちを誅したり、歌を歌ったりしつつゆっくり進み、最終的に戻ったのは即位19年秋9月のことだった。 しかし、なんとも微妙な書き方をしているのが引っかかる。原文はこうだ。 「十九年秋九月甲申朔癸卯 天皇至自日向」 天皇は日向から自に至った? 前後の文脈から本拠地の纒向(倭)に還ったということだろうと解釈されるのだけど、そこをはっきり書かなかったことは何らかの意図があったと考えるべきだろう。 ここから記事は飛びとびになり、即位20年に天照大神を祀らせたとか、即位25年に武内宿禰を東国に派遣したといった短い記事が続く。 日本武尊が再登場するのは、即位27年のことだ。 原文にはこうある。 「秋八月 熊襲亦反之 侵邊境不止 冬十月丁酉朔己酉 遣日本武尊令擊熊襲 時年十六」 おかしな点があることに気づいただろうか? 小碓尊ではなくいつの間にか日本武尊になっていることと、このとき16歳だったということだ。 小碓尊誕生の記事で別名として日本武尊を挙げていたからそれはまあいいとして、即位27年に16歳では勘定が合わない。 そもそも即位したときはすでに100歳超えだった天皇が、即位2年に皇后を立てて、それから10年近く経って子供が生まれたなんてことはちょっと信じられない。 おかしいなことを書いているのは『日本書紀』の作者当人が一番分かっていたはずなのに、どうして辻褄を合わせようとせずこんな書き方をしたのだろうと不思議に思う。 一つ考えられるのは年代を合わせたり誤魔化したりする中でそういうことが起きてしまったということだ。 歳月を引き延ばしている部分とぎゅっと凝縮させている部分が混在しているのも混乱の要因になっている。 日本武尊の話も、単に何人かの日本武尊を一つにしているだけでなく時代もかなり隔てている。3世紀の話と5世紀の話を一つにするといったことは普通に考えて無理がある。 そのあたりも最後に考えられたら考えることにして、まずは最後まで読み進めていくことにしよう。
一番の違いはキャラ設定
天皇即位27年秋8月、熊襲討伐に派遣されることになった16歳の日本武尊は、弓を善く射る者を連れて行きたいけどどこかにいないかと訊ねた。 それなら美濃国に弟彦公(オトヒコノキミ)がいるというので葛城(かつらき)の宮戸彦(ミヤトヒコ)を遣いにやった。 弟彦公は石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タコノイナキ)、乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきて従った。 熊襲国(くまそのくに)に着いたのが4ヶ月後の秋12月というのもちょっとかかりすぎと思うのだけど、熊襲梟師(クマソタケル)を女装して不意打ちで胸を刺したという話は『古事記』と共通している。 違う点は姨の倭比売命のところに寄ったということが省かれていることと、熊襲梟師は通称で、名を取石鹿文(トロシカヤ)、または川上梟師(カワカミタケル)としているところだ。 『古事記』は熊曽建を兄弟としているのに対して、ここでは一人としている。 細かい違いでいうと、夜も更けて人がまばらになったところを狙ったとしており、全体的な描写が『古事記』と比べると穏やかになっている。 胸を刺されてもまだ生きていた川上梟師は日本武尊に、汝尊は何者かと訊ねる。 吾は大足彦天皇の子で、名を曰本童男(ヤマトオグナ)というと、ここでは曰本童男と答えている。 曰本童男なんてのは日本(倭)の童男だから個人名のはずはなく、小碓尊を名乗らなかったのかはちょっと引っかかる。諱(いみな)を避けたということだろうか。 対して川上梟師は許されるならば尊号を奉りたいといい、日本武尊(曰本童男)が許すと、それならば日本武皇子を奉りますというので、以降は日本武尊と称されるようになったというのがここでの話だ。 川上梟師にとどめを刺した後、弟彦たちを派遣して一族を討ち滅ぼし、帰り道のついでとばかりに穴海の悪神を殺し、難波では柏済(かしわのわたり)の悪神を殺し、即位28年春2月に、天皇に熊襲平定を奏じたのだった。 描写は過激ではないものの、命じられてもいない者たちを殺しまくる日本武尊。 しかし、それを報告すると天皇は日本武尊を褒め、ことのほか愛したと書いている。
ここまで読み比べて気づくのは、『古事記』の倭建と『日本書紀』の日本武尊の一番の違いはキャラ設定だということだ。 同じことを語っていても書き方によってこうも印象が違ってくるのかと思う。 『古事記』の倭建は凶暴な殺人鬼で天皇は恐れをなしてわざと危険な任務を与えて遠ざけたというような書き方をしていて、『日本書紀』の日本武尊は幼い頃から力持ちで天皇は頼りになる存在として頼ったという設定になっている。 この後の東征のところでもそうだし、日本武尊が死んだときの天皇の態度にもそれは表れている。
天皇と日本武尊の掛け合い
次の記事は即位40年夏6月に飛ぶ。いわゆる東征の話だ。 天皇即位27年秋8月のとき16歳だったというから、このときの日本武尊は29歳になっていたということだろう。 『古事記』では西征から戻ってすぐに東征を命じられたような書き方をしているけど、ここでは12年も開いている(戻ったのは即位28年)。その間、日本武尊は何をしていたのかとか、逆らう勢力はいなかったのかといったことが気になりつつ、読み進めていくことにしよう。
夏6月に東の夷が多く叛き、邊境が騷がしくなった。 天皇は群卿(まえつきみ)たちに対して東で叛く者がたくさんいるけど誰を派遣したいいだろうかとはかった。 しかし、群卿は誰が適任とも答えない。 そこで日本武尊は先回りして自分は西征で疲れているので、兄の大碓皇子にこの役をやらせましょうと奏じた。 いきなり指名されて驚き恐れをなした大碓皇子は逃げだして草の中に隠れてしまう(時大碓皇子愕然之逃隱草中)。 天皇はすぐに遣いを出して呼び寄せ、汝が欲しないことを無理にやらせようとは思っていない。しかしまだ賊に對してもいないうちに恐れるとは何事かと責め、美濃に封じたのだった。 大碓皇子は身毛津君(ムゲツキミ)と守君(モリノキミ)の祖といっているので、追放されつつ許されて美濃に土着したという認識が示されている。 大碓皇子のキャラも『古事記』とは違ったように描かれていることが分かる。 しかし、日本武尊もひどいやつで、自分は西征で疲れてるからって、それ12、3年前の話じゃん、と言いたい。 結局、日本武尊が東征に行くことになるのだけど、「於是日本武尊 雄誥之曰『熊襲既平 未經幾年 今更東夷叛之 何日逮于大平矣 臣雖勞之 頓平其亂』」と、なかばやけっぱちのようにその役目を引き受けることになったのだった。 天皇はその言葉を待ってましたとばかりにすぐに斧と鉞(まさかり)を授けて日本武尊に語った脅し文句が笑ってしまう。 朕が聞くところによると、東の夷は性がはなはだ暴强で、強姦は当たり前、村の長や邑の首はおらず、封堺を貪り合い、略奪し合っている。山には邪神、郊には姦鬼がいて道を塞ぎ、人を苦しめており、中でも特に蝦夷が強い。 男女は交わって居て、父と子の別はなく、冬は穴を宿とし、夏は樔(す)で暮らしている。獣の毛の衣を身につけ、血を飲み、兄弟で疑い合う。山に登れば飛ぶ禽のようで、草原では獸のように走る。 恩を受けても忘れ、恨みは必ず復讐する。頭髻の中に箭を隠し、衣の中に刀を佩き、邊堺を犯し、農桑を伺って人民から略奪し、擊とうとすると草の中に隠れ、追うと山に入ってしまう。 いにしえから王化に染まったことはない。 ここまで散々脅しておいて天皇がいうには、察するに汝は身長も大きく、容姿は端正、鼎を持ち上げられるくらいの力持ちで雷電のように猛々しい。向かうところ敵無しで、攻めれば必ず勝つのは分かっている。 我が子ながら汝は神人だ。朕が未熟で国に不平があるので、天業を成し、宗廟が絶えないように天がそうしてくれたのだろう。天下は汝のものだ。この位は汝がふさわしい。願わくば深謀遠慮によって悪心を探り、威を示し、ときには兵甲をもって従わせ、巧みな言葉によって暴神を調和させ、武を振るって姦鬼を払うがよい。 こんな励ましある? これではほとんど漫才だ。天皇の位を与えるとまで言ってるけど、絶対嘘だろうと思う。 それでも日本武尊は健気に拝命し、すぐに出発しましょうといった。 天皇は吉備武彦(キビノタケヒコ)と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)を供として従わせ、七掬脛(ナナツカハギ)を膳夫(かしわで)とした。 こんなすったもんがありつつ、日本武尊の東征は始まったのだった。
倭姫命に会いに行った理由
上の天皇と日本武尊のやりとりがあったのが秋7月16日で、実際に日本武尊が出発したのは冬10月2日だった。すぐに出立するみたいな感じだったのに、3ヶ月近く経っている。 ルートとしては、尾張を経由して東へ向かうというもので、その途中に伊勢の神宮に立ち寄って倭姫命から草薙剣を授かるというものなのだけど、個人的にちょっと疑問に思うというか納得できないところがある。原文は以下のように書かれている。 「冬十月壬子朔癸丑 日本武尊發路之 戊午 抂道拜伊勢神宮」 十月壬子朔癸丑は10月7日で、出発してから5日が経過している。 問題は”抂道拜伊勢神宮”をどう読むかだ。 そのまま読めば、道を抂(ま)げて伊勢神宮を拝したとなる。 これは具体的に伊勢神宮を参拝したということになるのだろうか? 抂げるは曲げるということなのだろうけど、寄り道したというよりは予定を変えてといったニュアンスに取れる。 伊勢神宮を拝したというのは、遠くから遙拝したのかもしれない。 あくまでも物語上の設定といえばそうなのだろうけど、土地勘のある人間からすると東征のルート設定なども腑に落ちない部分が多々ある。 一つ言えるのは、草薙剣が尾張の熱田で祀られている理由を説明するための苦しい言い訳のようにこの作り話を差し込んだ可能性があるということだ。 天皇即位に必要な三種の神器の一つである草薙剣が尾張の熱田にある理由が必要だったのだろう。 草薙剣は本来、別の目的や使用方法があったので、そんなに簡単に動かしていいものではない。個人的には最初からずっと尾張にあって動いていないと考えているのだけど、それでは都合が悪い。 そこで考え出されたのが倭姫命と日本武尊と宮簀媛の話だったのではないか。 草薙剣については熱田神宮の項で詳しく書いたけど、後に天智天皇時代に持ち出され、次の天武天皇が病気になったのは草薙剣の祟りだと占いが出たため、即日尾張の熱田に送り置いたといっている。 つまり天皇家、少なくとも天武天皇は草薙剣の正統な所有者ではなかったということだ。
話を戻すと、倭姫命に会った日本武尊はこんなことを言っている。 「今被天皇之命而東征將誅諸叛者 故辭之」 天皇の命で東へ行ってもろもろの叛く者を討つところなんだけど、これを辞したい、と。 オレがやってやるぜと高らかに宣言はしたものの、事ここに至っても実はイヤイヤだったということだ。 そりゃあそうだろう、天皇にあんなに脅されてしまっては気が進むわけがない。 ほとんどの人が伊勢神宮で倭姫命に会ったのは草薙剣を受け取るためだったと思っているだろうけど、ここを読めばそうではなかったことが分かる。 要するに倭姫命に泣きついて天皇に口利きしてもらいたかったのだ。この任務はやめさせてあげてほしいと。 大足彦尊(景行天皇)と倭姫命は同母の兄妹で、おそらく神に仕える巫女のような人だっただろうから、倭姫命なら大足彦尊を説得できると考えたのではないだろうか。 しかし、倭姫命は草薙剣を持ち出してきて日本武尊に授け、慎みなさい。怠ってはなりません、と諭した。 説得に失敗した上に草薙剣までもらってしまって後に引けなくなった日本武尊。 だんだん日本武尊が憐れに思えてくる。
大筋は『古事記』と共通する
駿河で賊に騙され野火で殺されそうになりつつ難を逃れたという話は『古事記』と共通している。 ここで”一云”という形で、佩いていた叢雲劒(むらくものつるぎ)がひとりでに飛び出して草を薙いで難を逃れたので草薙剣というようになったという話を挿入している。 草薙剣の元の名は天叢雲劒(アメノムラクモ)だと言ったり書いたりしている人が多いけど、それは一つの伝承であって『日本書紀』の本文がそう書いているわけではない。 天叢雲劒は別名の一つで、草薙剣はやはり最初から草薙剣だったはずだ。 助かった日本武尊はその地の賊たちを焼いて皆殺しにしている。『日本書紀』も残忍である点に違いはない。
次が馳水(走水)の海で暴風雨にあって進めなくなって弟橘媛(オトタチバナヒメ)が犠牲になって助かったという話で、これも基本的には『古事記』と同じだ。 相模から上総へ渡ろうとしていたとき、海に向かって、こんな小さな海は立跳で渡れるさと、あえて高挙(ことあげ)して海の神の怒りを買った。 つい余計な一言を言ってしまう性格だったのだろう。 ここで気になったのは、弟橘媛を”王之妾”としている点だ。 『古事記』は弟橘比売命自らは”妾”と言っているのに”后”と、天皇の皇后のような扱いをしているのに『日本書紀』はそうしていない。 弟橘媛を穂積氏忍山宿禰(ホヅミノウジノオシヤマノスクネ)の女(むすめ)といっている(このへんのことは弟橘媛の項に詳しく書いた)。 『古事記』にあった、櫛が流れ着いたので御陵を作ったという話はない。
上総から陸奧国に入った日本武尊に対して、恐れをなした蝦夷たちは戦わずして降伏したため、日本武尊は許したと書いている。 そのうちの首師を俘にして従身としたともいっていて、この捕虜たちは後にもう一度出てくることになる。 蝦夷を平らげたところで引き返し、日高見国(ひたかみのくに)の常陸を経て、甲斐国の酒折宮(さかおりのみや)にとどまった。 もう幾夜寝ただろうと歌った日本武尊に誰も歌を返せずにいると、ある人物が夜は9日、昼は10日ですよと返歌したというエピソードも語られる。 『古事記』では御火焼(みひたき)の老人としていたものを、ここでは秉燭者(ひともせるもの)という表現になっている。いずれにしても宮の火の管理をしている人間ということだ。 続く信濃国と越国(こしのくに)は抵抗して王化に染まらなかったため、お付きの吉備武彦を越国に遣って監察させた。 碓日嶺(うすいのみね)に登って弟橘媛を偲び、東南を見て三回嘆いて「吾嬬はや」と嘆いた。 信濃の山中で休みながら食事をしていると白鹿が現れたので蒜(ひる)を投げると目に当たって死んでしまった。これが山の神だったため日本武尊は道に迷ってさまようことになり、そこへやってきた白狗が道案内をしてくれたのでなんとか美濃に出ることができたのだった。 このへんの話もだいたい『古事記』と共通している。
性格変わった?
ここまで読んできてふと思うのは、途中から日本武尊の性格変わってないか? ということだ。 馳水の手前までは乱暴でお調子者だったのが、上総以降はなんだか穏やかな気質の人として描かれている。 陸奧国では戦わずに蝦夷を許したり、弟橘媛を思い出して嘆いたり、上手く歌を返した人を褒めて位を与えたりと、急に人格者のようになってしまった。 続く尾張においてもそうで、五十葺山でやられて体調を崩してからはすごく弱々しくもなってしまう。 逆にどうした日本武尊と、心配になるというか拍子抜けする。 そういえば、『日本書紀』では兄の大碓皇子を殺したことにはなっていない。 そのこともあって、『日本書紀』だけを読むと日本武尊が凶悪な殺人鬼などとはまったく思わない。 日本武尊が多重人格者でもない限り、やはり日本武尊は時代を超えて何人もいたと考えるよりほかなさそうだ。
尾張に帰還、そして
尾張に還ってきた日本武尊は、宮簀媛を訪ねた。原文は以下のように書かれている。 「日本武尊 更還於尾張 卽娶尾張氏之女宮簀媛 而淹留踰月」 尾張に”還”り、すぐに”尾張氏之女”の宮簀媛を娶り、しばらくの間、留まったと。 『古事記』はどう書いているかというと、 「還來尾張國 入坐先日所期美夜受比賣之許」 尾張国に還り、行きの約束通り美夜受比賣のところに入った、とある。 ここに微妙なニュアンスの違いがある。 行き道で尾張国に寄ったといっているのは『古事記』だけで、そこでは「入坐尾張國造之祖美夜受比賣之家」という書き方をしている。 尾張國造の祖の美夜受比賣の家ということは、このとき美夜受比賣は尾張氏の当主だったと取れる。 『日本書紀』は”尾張氏之女”といっているので、必ずしもそうではないし、国造うんぬんとも書いていない。 宮簀媛(美夜受比賣)の親子兄弟関係については”記紀ともに何も書いてない”ということを頭に入れておく必要がある。尾張の伝承ではキーパーソンとなる建稲種も出てきていない、ということだ。 『古事記』では帰還を祝う大御食(おおみけ)をしているときに美夜受比売の襴に月経が著われているのを見て歌を詠み交わすというのがあったけど、『日本書紀』ではそのあたりも省かれている。
尾張で日本武尊が何をしたかということもないまま近江の五十葺山(いふきやま)に荒神がいると聞いて出向いていくことになる。 行き道の描写に比べるとこのあたりから駆け足になっていく。 ちょっと面白いと思うのは、五十葺山を”近江”としていることだ。 我々尾張側の人間からすると伊吹山は美濃の西端に思えるのだけど、古代では近江の山という感覚だっただろうか。現住所でいっても大部分は滋賀県米原市だから、西日本の人からすると近江の東端になるだろうか。 剣を宮簀媛の家に置いていったというのは『古事記』と同じなのだけど、原文は「卽解劒置於宮簀媛家」となっていて、草薙剣とはいっていない。 ”解劒置”という表現からすると、剣を解いた、つまり手ぶらで出かけたといったことがいいたかったのだろう。 そもそも草薙剣は武器として振り回すような実用本位のものではないから、賊退治には必要ないといえばない。 続く一文は「至膽吹山 山神 化大蛇當道」となっているのだけど、あれ? ”膽吹山”になってる、と思う。 すぐ前の文では”五十葺山”だったのに、ここでは”膽吹山”としている。読みとしては同じ”いふきやま”だろうけど、字が違うだけで同じ山だろうと勝手に解釈してスルーしてしまっていいのだろうか。 まさかとは思うけど、五十葺山へ行くつもりが間違って膽吹山へ行ってしまったなんてことはないだろうな、日本武尊。いふき違いでしたでは済まない話だ。 山の神が化けたのは『古事記』では白猪になっているのに対して『日本書紀』は大蛇になっている。 この違いはわりと大きいのではないかと思う。猪と蛇では全然違うし、白というキーワードのあるなしというのもある。 別々の伝承があったのか、『古事記』を踏まえた上で『日本書紀』があえて変更してきたのか。 大蛇を見た日本武尊は、これは荒神の使いだろう。本体の神(主神)を殺せばいいから使者など相手にすることはないと、また余計なことを口走って蛇を跨(また)いで進んだところ、案の定、山神の怒りを買ってしまい、山神が冷たい氷を降らせ、谷に霧がわきたち、行くも戻るもままらなくなってさまよい歩くことになる。 それでもなんとかフラフラになりながら山を下りて清水で酔いが覚めたように人心地ついたものの、今度は身が痛み始め、どうにか起き上がって尾張まで還ってきた。 しかし、宮簀媛の家には入らず、伊勢の尾津に到るという謎の行動を取っている。 ここも個人的にすごく違和感がある。物語の設定にしてもルートがおかしい。 このとき日本武尊はどこへ向かっていたのか。倭へ戻ろうとしたとは思えない。伊吹山(膽吹山)は琵琶湖の東で、今でいうと長浜の東に位置している。 道をさまよって想定よりも東側から降りてしまったとしても、そこから倭へ向かうなら西へ進んで琵琶湖沿いを行って(舟でもいい)、大津あたりから山背を南下するのが自然だ。 伊勢から山越えで倭を目指すのはルートとしては過酷すぎる。体調不良の日本武尊に伊賀越えは無理だ。 尾張まで還ったなら宮簀媛のところで休めばいいのにそれもしていない。 どういうわけか日本武尊は伊勢を南へと向かっている。 最終的に伊勢の能褒野(のぼの)で力尽きることになるのだけど、それも不思議に思う。 能褒野は今の亀山市で、海沿いではなくけっこう内に入っている。伊勢湾から10キロ以上内陸で、伊勢の神宮方面へ向かうルートからも外れている。 能褒野で死ななかったらその先どこへ行こうとしていたのか。 日本武尊の東征も、膽吹山行きも、全部作り話だったとして、記紀の作者たちは読み手の目をどこへ向けさせようとしたのだろう。
尾津をどこに想定していたのかは分からないのだけど、尾津濱で食事をしたといっているのでどこか海に近い場所だ。 「昔日本武尊向東之歲」というから、東征の行き道の途中とすると、今の桑名あたりだろうか。 ここにかつて忘れていった剣がまだあったので、松よ、おまえが人間なら衣を着せて太刀を佩かせてやるのにという歌を歌っている。これは『古事記』にもあった。 能褒野に到っても痛みはひどいままで、もう先は長くないと悟ったようで、俘にした蝦夷を神宮に献じ(こいつらが後に騒いで倭姫命を困らせる)、吉備武彦には東夷を平らげたことを天皇へ報告させた。 独り荒野に臥し、誰に語りかけるともなく、亡くなるわが身を惜しむことがあるだろうか、「唯愁不面」、という言葉を残して息を引き取った。享年30。 唯(ただ)不面(あはざる)ことを愁(うれ)へる、をどう捉えるかは人それぞれだろう。一般的には天皇とされるけど、最後に浮かぶ顔が父親だろうかと考えると、日本武尊の想い人は別にいたかもしれない。
天皇の大げさな嘆き
知らせを受けた天皇は大げさとも思えるほど嘆き悲しんだと『日本書紀』はいう。 ちょっと長いけど原文を載せておく。
「天皇聞之 寢不安席 食不甘味 晝夜喉咽 泣悲摽擗 因以 大歎之曰『我子小碓王 昔熊襲叛之日 未及總角 久煩征伐 既而恆在左右 補朕不及 然 東夷騷動勿使討者 忍愛以入賊境 一日之無不顧 是以 朝夕進退 佇待還日 何禍兮 何罪兮 不意之間 倐亡我子 自今以後 與誰人之 經綸鴻業耶』 卽詔群卿命百寮 仍葬於伊勢国能褒野陵」
天皇は知らせを聞いて、食べても味が分からないほど泣き悲しんだ。熊襲が叛いたときはまだ子供だった。その後は自分の側に置いて助けになってくれたし、及ばない部分は教えもした。 東の夷が叛いたときは他に誰もいなくて泣くなく派遣はしたけど一日たりとも忘れたことはなかった。 これからは誰とともに天下を治めればいいのか。 そう言って、家臣たちを遣いに出して能褒野に葬った、といった内容だ。 『古事記』では后や子供たちが能褒野まで出向いて嘆き悲しんだというだけで天皇については何も書いていない。 それにしても、さんざん便利使いしておいて、死んだ途端にこの反応はなんか嘘くさいと思うのは私だけではないはずだ。
葬ったはずの日本武尊だったが、白鳥(しろとり)に化して倭へ向かって飛び立った。 群臣たちが棺を開いてみると衣だけが残っていて遺体(屍骨)は残っていなかった。 白鳥を追いかけていくと倭の琴弾原(ことひきのはら)に留まったのでそこに陵を造り、更に飛び立って河内の旧市邑(ふるいちむら)に留まったのでそこにも陵を造った。 『古事記』では河内国の志幾(しき)に留まったので陵を造ったといっているので、ここでも違いがある。 それよりも大きな違いは、『日本書紀』は歌を載せていないことだ。 『古事記』は飛び立った白鳥を后や子供たちが追いかけながら倭建を悼む歌を歌っているのに対して、ここではまったく書いていない。 日本武尊の記事全体で見ても歌は少なくて、『日本書紀』だけを読むと日本武尊が歌人という印象は持たない。 この差は一体なんだろうと思う。 最終的に旧市邑の陵からも高く翔んで天へ上っていってしまったので衣冠だけを葬ったといっている。 この年は即位43年と書いているので、日本武尊が能褒野で亡くなって3年後の話ということだ。
日本武尊のその後
日本武尊亡き後の(景行)天皇即位51年、日本武尊の異母弟に当たる稚足彦尊(ワカタラシヒコ)が皇太子となる。 これが後に成務天皇として即位するのだけど、稚足彦天皇紀では大足彦天皇即位46年に24歳で太子となったと書いていて、食い違いが見られる。 稚足彦天皇(成務天皇)の後を継いだ仲哀天皇こと帯中日子天皇(タラシナカツヒコ)は日本武尊と両道入姫命(フタジイリヒメ)との間の子というのだけど、これも年齢というか年代が全然合っていない。 このへんはいろいろな嘘というかごまかしがあって、書いてあることをそのまま受け取ることはできない。
この後、日本武尊は意外な形で登場することになる。 景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇の次の仁徳天皇の記事にそれが出てくる。 仁徳天皇こと大雀命(オオサザキ)は、この系譜でいうと日本武尊のひ孫に当たる。 原文はこうなっている。
「六十年冬十月 差白鳥陵守等 充役丁 時天皇親臨役所 爰陵守目杵 忽化白鹿以走 於是天皇詔之曰『是陵自本空 故 欲除其陵守而甫差役丁 今視是怪者 甚懼之 無動陵守者』 則且授土師連等」
役丁(えよほろ)というのは公共事業において労働義務を負う役という意味で、3つある白鳥陵のどこかは分からないのだけど、白鳥陵の陵守を役丁に充てようとして天皇が出向いていったところ、陵守が白鹿に化けて走り去っていった。 天皇は、この陵はもともと空なのだから、陵守を役丁にしようと思ったけど、あんな怪しい者を視たからには甚だ懼(おそ)れなければいけないと言って、陵守の配置転換をやめ、土師連(はじのむらじ)たちに授けたといった内容だ。 白鹿といえば、日本武尊東征の途中、信濃の山中で現れて蒜を投げつけたら目に当たって死んでしまったというあの白鹿を思い出す。あれは山の神だった。 そのときはなんとなくおとがめなしみたいな感じで過ぎたのだけど、ここにまた白鹿が出てきたということは何かありそうだ。
更にこれに類するような話が『続日本紀』(797年)の中に出てくる。 大宝二年(702年〕八月の記事に次の一文がある。
「震倭建命墓 遣使祭之」
倭建命の墓が震えたので遣いをやって祭らせたというのだ。 ”震”を地震と取るのは正しくなくて、文字通り墓が震えだしたのではないかと思う。そんな馬鹿なというかもしれないけど、人を遣って祭らせたと、わざわざ公式記録に書くくらいだから、実際に何かあった可能性は高い。 見方を変えれば、天皇もしくは朝廷は倭建(日本武尊)を畏れていたということがうかがえる。 702年といえば『日本書紀』はまだ完成してないものの、編纂作業が行われていたときだから、この出来事が日本武尊の記事に何らかの影響を与えたかもしれない。 日本武尊はある意味では国の犠牲者であり、殉教者といういい方もできる。それを祭るというのは当然といえば当然だ。当時の人たちが日本武尊が恨みを残して死んだと考えていたならば、怨霊化しないように特に手厚く祭らなければならなかった。 奈良時代を超えて現代に至るまで天皇の葬儀に日本武尊を悼む歌を歌い続けているのも、そういうことではないだろうか。
『古語拾遺』の独自性
『古語拾遺』(807年)は天皇記が飛びとびで各記事は短いので内容は薄いのだけど、ちょっと面白い書き方をしているので全文を紹介したい。
「至於纏向日代朝 令日本武命征討東夷 仍 枉道詣伊勢神宮 辭見倭姫命 以草薙釼授日本武命而教曰 慎莫怠也 日本武命 既平東虜 還至尾張国 納宮簀媛 淹留踰月 解釼置宅 徒行登胆吹山 中毒而薨 其草薙釼 今在尾張国熱田社 未叙禮典也」
纏向日代朝は景行天皇朝ということなのだけど、記事は日本武命のことしか書いていない。 面白いのはここだ。 ”枉道詣伊勢神宮 辭見倭姫命” 道を枉(ま)げて伊勢神宮を詣で、倭姫命に辭見したと書いている。 ”辭見”は目上の人に別れを告げるために対面することを意味する言葉だ。 なので、日本武命は倭姫命にお別れを言うために伊勢神宮へ行ったことになる。 記紀とは異なるこの見解は斎部広成の独自見解なのか、そういう伝承があったのか。 もう一ヶ所面白いと思ったのは、”中毒而薨”の部分だ。 中毒のため薨(みまかった)、つまり中毒死したといっている。 記紀では冷たい雨に打たれて体調を崩したといったニュアンスで書かれているのに、斎部広成は何らかの中毒症状によって亡くなったとする。 最後の一文もさらっと読み流しそうになるけど、これも記紀にはないものだ。 日本武尊は草薙剣を宮簀媛のところに置いていったのだから尾張の熱田社で祀られたのは当然の流れでしょと思っているかもしれないけど、記紀にはそんなことは一言も書かれていない。 唯一書いているのが『古語拾遺』だ。 ”其草薙釼 今在尾張国熱田社 未叙禮典也”と、平安時代初期の時点で草薙剣は尾張国の熱田社にあったことと、朝廷でそれをきちんと祀っていないといっている。 草薙剣と熱田社の扱いに対する不満は「拾りたる第一」に書いているくらいだから、斎部広成が最も指摘したかったことと考えていい。 熱田社側にとって、この証言は非常に心強かったと思う。自分たちだけが草薙剣の正当性や重要性を主張しているわけではないということだからだ。
『先代旧事本紀』の一言
『先代旧事本紀』(800年代)も、天皇記については簡単なまとめ記事になっているのだけど、景行天皇(日本大足彦忍代別尊)についてはそれなりに書いておこうという意思が感じられる。 しかしながら興味深いのは、『先代旧事本紀』の日本武尊に対するそっけない態度だ。 書いていることとしては、皇后の播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)が産んだ三子のうちの二番目が小碓尊で兄の大碓命と双子であること、小碓尊は幼いときから雄々しくて力持ちで容貌も優れていたこと、16歳のときに天皇の命で熊襲を討ったことくらいで、東征に関してはたった一行で終わらせている。
「日本景武尊乎東夷還未參薨於尾張國」
日本武尊は東の夷(を討って)還ることができずに尾張国で亡くなったと書いている。 最初にこれを読んだときは衝撃的だった。 『先代旧事本紀』はときどき本当のことをポロッと漏らすことがあって、これなどもそうではないかと思ってしまう。 これが本当ならば、伊勢の能褒野で亡くなったとか、白鳥になって飛んでいったといった話は全部作り話ということになる。 なんの根拠もなくこんなことを書くとも思えないし、『先代旧事本紀』がわざわざ偽情報を流して攪乱するとも思えないから、作者の家にそういった話が伝わっていたのではないだろうか。 そもそも『先代旧事本紀』が日本武尊について無関心なのは、日本武尊をそれほど重視していなかったという見方もできる。ああ、そんな皇子もいたっけね、というくらいの感じだ。わざと無関心を装っているわけではないと思うけどどうなんだろう。 日本武尊が日本”景”武尊になっているのは、書写したときの間違いか、何か意図があったのかの判断がつかない。 私が参照したのは寛永21年(1644年)の写しで、他がどうなっているかは確認していない。
白も黒になるとは
『日本書紀』のところでは書かなかったのだけど、日本武尊の第二子とされる仲哀天皇こと足仲彦天皇(タラシナカツヒコ)紀に白鳥の話がある。同じ話を『先代旧事本紀』も書いているので、ここで紹介しておこう。 足仲彦天皇が群臣に、自分が幼いときに父である日本武尊が亡くなってしまい、父の神霊は白鳥となって天に上ったそうだから、陵の近くで白鳥を飼いたいと言いだし、諸国に命じて白鳥を献じさせたというエピソードだ。 『日本書紀』では越国で捕まえた白鳥四隻を使者が運ぶ途中、菟道河(うじがわ)で蘆髮蒲見別王(アシカミノカマミワケ)がそれはどこへ持っていくものかと訊ね、天皇に献じるものですといったにもかかわらず、白鳥といっても焼けば黒鳥になるだろうといって奪っていってしまった。 謁見して事情を話すと、天皇は兵を遣って蒲見別王を誅殺した。この蒲見別王は天皇の異母弟だったといったことを書いている。 ん? 何の話? と思うのだけど、白鳥も黒鳥となるというのが意味深で、偉い人間が黒といえば黒になるし白といえば白になるといったことの裏返しだとすると、足仲彦天皇はもしかして日本武尊の子でもなければ天皇になる資格もなかったのではないか、という疑いを持ってしまう。 上にも書いたけど、足仲彦天皇を日本武尊の子とするにはだいぶ無理がある。
『熱田太神宮縁記』という物語
以上を踏まえた上で、熱田神宮の根本縁起の一つ、『熱田太神宮縁記』を読んでいくことにしよう。 奥書に寛平二年(890年)に編纂したとあり、それが本当であれば平安時代中期ということになる。 書き出しに「正二位熱田太神宮」とあり、『日本三代実録』の貞観元年(859年)に従二位から正二位になったという記事と『日本紀略』の康保3年(966年)に正一位になったという記事のそれぞれを信用するなら矛盾はない。 寛平年間に編纂されたということで「寛平縁起」とも呼ばれる。 少し注意が必要なのは、書写して献上したのが延久元年(1069年)といっていることだ。 熱田の大宮司の従三位伊勢守尾張宿祢員信という人物によるという。 なので、オリジナルからどの程度改変されているかの判断がつかない部分があるということを頭に入れておきたい。 尾張氏や熱田社に伝わる独自の伝承はあったにしても、書かれている内容がそのまま事実は限らないということだ。 ここに書かれていることが、あたかも真実かのように語られ、一人歩きしている感が強いので、そこに危うさを感じる。
まず最初に書いているのは、熱田太神宮は神剣を主神(かむざね)とするということだ。 元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といっていたものを後に草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名を改めたともいっている。 『日本書紀』では、本文の中に差し込む形で一書曰くとして本名は天叢雲劒で日本武皇子のときに草薙劒に改名したと書いているものの、『古事記』にはそういったことは書かれていない。 この一書というのが尾張側の伝承だったといえばそうなのかもしれない。 あと、気になったの”熱田太神宮”という社号についてだ。 熱田神社が神宮号を認められたのは明治元年(1868年)で、それまでは主に熱田神社といっていたのだけど(927年の『延喜式』神名帳でもそうなっている)、平安時代に”太神宮”を名乗っていたかという点にやや疑問をいただく。
続いてすぐに日本武尊の話が始まる。 大足彦忍別天皇(景行天皇)が稲日太郎媛(イナヒオオイラツヒメ)を皇后として双子の大碓命と小碓尊が生まれ、小碓尊のまたの名を日本武尊と書いている。 小碓尊は幼い頃から立派で力持ちだった云々とし、西征については省きつつ、東征の話になる。 小碓尊が大碓命を推薦したら逃げて隠れてしまったので結局小碓尊(日本武尊)が行くことになったといった記事の内容は『日本書紀』をほとんどそのまま写している。 この後が大きく違っていて、東征のお供として天皇が付けた副将として建稲種公(タケイナダネノキミ)が出てくる。『日本書紀』は吉備武彦と大伴武日連としているので、大伴武日連と建稲種公が入れ替わった形だ。 二人の他に膳夫(かしわで)として七拳脛も付けられたというのは『日本書紀』と共通している。 東へ向かう前に伊勢太神宮を参拝して斎王の倭姫命に会いに行ったというのも同じだ。 ここでは倭姫命をはっきり斎王に位置づけている。斎王は、天皇の皇女などが天皇の代わりに伊勢の神宮に奉仕した巫女のことだけど、この頃すでにそういった制度が確立さていたのかという問題はある。 この縁起でも倭姫命は日本武尊に剣を授けるのだけど、『日本書紀』と同じく”神剣”と書いていて、草薙剣とは書いていない。 『日本書紀』が書いていないこととしては、剣を授けるときに、努努(ゆめゆめ)身から離してはいけないときつく言っていることだ。 これが後々の前フリになっている。
ここから先は熱田縁起独自の伝承になっていく。 尾張国の愛智郡に至ったとき、稲種公は日本武尊に、この郡の氷上邑(ひかみのさと)は私の故郷なので、大王よ、ぜひ休んでいってくださいと勧め、日本武尊はそれに応じた。 そこで一人の麗しい娘を見て名を訊ねると、稲種公の妹の宮酢媛(ミヤスヒメ)だという。 すぐに稲種公に命じてその娘を娶り、厚く寵愛して数日を過ごし、離れがたいほどだった。 しかし、日本武尊には任務がある。そんなにのんびりはしていられないということで出立することになった。 日本武尊は海道を行き、稲種公は山道を行くことになり、坂東国(ばんどうのくに)で会う約束をした。 ここからはまた『日本書紀』の話に戻る。 駿河で賊長に騙されて焼き殺されそうになったところを返り討ちにし、相模の海が荒れて進めなくなったときは弟橘媛が海に身を投げて一行を救ったといった話だ。 その後、陸奥(みちのく)から海路で玉の浦を渡ったところで稲種公が合流し、ともに蝦夷を討つこととなり、蝦夷たちは威を畏れて降伏したので日本武尊は許して虜とした。 甲斐国の酒折宮で、幾日経ったかなという歌を歌ったという話がここでも書かれている。 日本武尊と稲種公は相談して、行きとは逆に日本武尊が山道を、稲種公は海道を行くこととして、宮酢媛の屋敷での再会を誓った。 信濃の山で日本武尊が山神が化けた白鹿を殺してしまい、道に迷っていたところに白狗がやってきて道案内をしてくれた助かったという話も書いている。 篠木(しのぎ)というところに至って食事をしていたとき、稲種公の従者の久米八腹(クメノヤハラ)が慌ててやってきて、稲種公が海に落ちて亡くなりましたと告げた。 突然の知らせに悲しみ涙した日本武尊は「現哉現哉」(うつつかな、うつつかな)と嘆いた。 それでその地を内津(うつつ)と呼ぶようになったと書いている。 従者に事情を訊ねると、海を渡っているときに可憐に鳴く美しい鳥を見つけて、稲種公が名を訊ねると鶚駕鳥(みさごどり)というというので、それを捕まえて日本武尊に献じようとして鳥を追いかけているときに波風が荒くなって船が傾いて稲種公は海に落ちてしまったのだという。 食欲もすっかり失せてやる気をなくした日本武尊だったが、なんとか気を取り直して尾張の宮須媛のところまで戻っていった。 そこで裾に月が立っているのを見て日本武尊と宮須媛が歌を交わすというのは『古事記』に書かれた話だ。それまでずっと『日本書紀』を下敷きにしていたのに、急に『古事記』を持ち出してきているのでちょっと戸惑う。 日本武尊と宮須媛の話は全体的に物語仕立てになっているから、この歌の部分はどうしても入れたかったのだろう。 ちょっと手が込んでいるのは、『古事記』では「ひさかたの 天の香具山 鋭喧(とかま)に さ渡る鵠(くび)」となってる部分を、「まそぎ 尾張の大和 をちこちの 山のかひ(峡)よ(由)と 視わたる日 かはのは」になっているなど、替え歌のようになっていることだ。 しかし、もしかするとそれは逆で、尾張の歌が先にあって『古事記』が変えたという可能性も考えられる。 続く「鳴海浦を 見遣れば遠し 日高路に(直徒歩に) この夕潮に 渡らへむかも」と「年魚市潟(あゆちがた) 氷上姉子は 我れ来むと 床去るらんや あはれ 姉子や」の歌はちょっと蛇足だ。 他の歌も実際に日本武尊が歌った歌ではないだろうけど、他と比べるとこの二首は格調が低くて俗っぽすぎる。
この後のエピソードが面白い。 宮簀媛の家に久しく滞在していた日本武尊はある晩、厠に行き、帯びていた剣を解いて桑の枝に掛けた。 倭姫命に決して肌身離さずいろと命じられたので言いつけを守っていたということかもしれないけど、夜中に便所に行くときも剣を持っていったというのはちょっと笑える。 厠を出た日本武尊は半分寝ぼけていたのか、剣を忘れてそのままにしてしまう。 明け方目を覚まして、そうだ、剣を忘れたと気づいて取りに行ったところ、剣を掛けた桑の木が照り輝いていた。 それでも剣をそのままにはできないと持ち帰り、桑が光り輝いていたことを宮簀媛に話すと、原因は桑の木ではなく剣が光っていたのでしょうと言い、その日はそのまま寝てしまった。 それから何日か経って、日本武尊は宮簀媛にこう告げた。自分はいったん都に戻ってあなたを迎える準備をしてきますから待っていてほしいと。 そう言って、帯びていた剣を授け、これを宝として、また床の守りとするようにと言い聞かせた。 と、ここで急に大伴建日(オオトモノタケヒ)が割り込んできて、それはなりませんと日本武尊をたしなめた。 大伴建日は『日本書紀』では天皇が副将として付けた一人だったけど、熱田の縁起ではそういう扱いになっていなかったのに、ここで突然登場してきた。 剣を置いていってはいけないのは、これから向かう気吹山に荒ぶる悪神がいて、剣がなければそれを倒せないからだという。 それに対して日本武尊は、そんな神がいたら蹴殺してやると、また悪い癖で余計なことを言挙げしてしまうのだった。 こうして剣を宮簀媛の元に預けたまま日本武尊一行は気吹山へ向けて出立した。 これらは熱田縁起の完全なオリジナルなのだけど、記紀が語らなかった行間を埋めるという意識が感じられる。どういった理由と経緯で熱田社で草薙剣が祀られるようになったかをきちんと説明する必要があると考えたのだろう。 そのためには、記紀には登場しない建稲種公という存在も欠かせなかった。
気吹山の山神が化けたのは大蛇とするなど、能褒野で絶命するまでの話は『日本書紀』に準じている。 載せている歌は、尾津の浜の一本松の歌と、乙女の床の辺に吾が置きし剣の太刀その太刀はやの歌で、尾張や宮簀媛に関係したものに限っている。 日本武尊死すの知らせを受けて天皇が嘆く様子や、能褒野に陵を造った話なども『古事記』ではなく『日本書紀』から採っている。白鳥になって飛び去ったというのもそうだ。 日本武尊が亡くなった理由については、剣を身から離したせいだといっている。 続いて熱田社創建の話になるかと思いきや、素盞鳥尊が八岐大蛇を退治して草薙剣を得たというところに戻る。 面白いのは、その大蛇を”尾八岐大蛇”と書いていることだ。これも尾張に引っ掛けている。 大蛇の”尾”から出てきたのが草薙剣というのがそもそも尾張を暗示しているし、素盞鳥尊が持っていた十拳剣の刃が欠けたというのも意味がある。 素盞鳥尊は草薙剣を天照大御神に献上し、その天照大御神を祀る伊勢の斎王が持っていたという経緯を説明したかったのだろう。
日本武尊亡き後も宮簀媛は約束を違えず、独りで剣を守っていた。 その間も剣から光彩が射すことがずっと続いたという。 月日は流れ、あるとき宮簀媛は親族や親しい者たちを集めて相談があるといった。 自分は老いて衰え、もう先も長くない。自分がこの世を去る前に剣を祀る社地を決めておきたいけどどこがいいだろうかと。 相談の結果、社地が定められると、そこにあった一本の楓(かえで)が水田に倒れ、倒れながら燃え続けた。そこでその地を熱い田、熱田と名づけたのだといっている。 草薙剣は天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケ)の時代に新羅の道行に持ち出され、天渟中原瀛真人天皇(アメヌナハラオキマヒト)に祟って戻されたという話を挟み、それを機に社守を七員置いたのだという。 宮簀媛がこの世を去った後に、愛智郡氷上邑に宮簀媛を祀る祠を建てて氷上姉子天神と呼んだとも書いている。
そして最後に、おや? というようなことを書いて締めくくっている。 熱田社にはもともと縁記がなかったので、貞観16年(874年)に神宮別当の尾張連清稲が古い書を探し、長生きの老人から聞き取りをしてまとめたというのだ。 そんな馬鹿な、という話だ。 平安時代前期まで熱田社の縁起(ここでは縁記と書いている)がなかったなんてことがあり得るだろうか? いや、あり得ないことだ。 もしなかったとしたら表に出さず隠していたということで、熱田社の人間すらも知らなかった可能性がある。 つまり、『熱田太神宮縁記』は、平安時代に作られた歴史書、あるいは歴史物ということになる。 『日本書紀』を下敷きにしている時点でほとんど何も分かっていなかったという見方もできる。 いくら古老に聞いたとしても、知っていることは表の話か、せいぜい裏話程度で、核心的な真相には遠く及んでいない。 だから、読み物としては面白くても、これは歴史書ではないと認識しなくてはいけない。 逆にいえば、熱田社の本当のことは平安時代から現代に至るまで表沙汰になっていないということだ。 熱田社は草薙剣を祀るために建てられたなんてのはまったくの嘘っぱちで、そんなわけがない。熱田社の起源はもっとずっと古いし、熱田社の祭神も草薙剣や日本武尊などではない。
江戸時代の日本武尊
時代はずっと下って江戸時代。その頃の尾張の人にとって日本武尊はどういう存在だったのかを知る手がかりが、尾張の地誌にある。 江戸時代後期の1844年に完成した『尾張志』を見ると、日本武尊(倭建命)の名がちょくちょく出てくる。 熱田皇大神宮(熱田神社)は草薙神剣を日本武尊の御魂代として奉祀するとしていたり、火上姉子神社(氷上姉子神社)は乎止与の女の美夜受比賣の本居で、後に比賣を祭ったのが始まりなどといっている。 松姤社の項では、祭神を宮簀姫命、一説では建稲種命とし、日本武尊東征のとき宮簀姫命の居宅がここにあり、東征の間、門戸を閉じて親しい人の声も聞かずにひたすら還りを祈ったといい、そのため、聾神(つんぼがみ)と俗にいうという伝承を伝えている。 また、断夫山古墳の南の白鳥山法持寺境内社の白鳥社や白鳥御陵(白鳥古墳)について詳しい考察をしていたりもする。 同じ1844年に完成した『尾張名所図会』には、「日本武尊から宝剣を受ける宮簀媛命」という絵が載っており、松姤社についても書いている。 熱田の布曝女町(そぶくめまち)は東征中の日本武尊が宮簀媛に会った地で、宮簀媛は川辺で布晒(ぬのさらし)をしていた。それを見て日本武尊が名を訊ねると、宮簀媛ですと答えたという。 古代において名を聞くことと答えることはプロポーズをしてokしたといった意味があったとされる。 また別の説として、日本武尊が宮簀媛に火高への道を訊ねたところ、宮簀媛が聞こえないふりをしたという話も紹介している。
以上のように、尾張国において日本武尊は一定以上の存在感を持って認識されていたことがうかがえる。 その当時の人たちが熱田社の神が日本武尊と思っていたかどうかは分からない。ただ、草薙剣を祭ることは知っていたはずだ。 江戸時代にはすでに日本武尊の他に宮簀媛や建稲種も熱田社で祭られていた。 おそらく、江戸時代の尾張人は、日本武尊と宮簀媛の話を実際にあったことと信じて疑っていなかっただろうと思う。我々の感覚に当てはめれば、源平合戦があって義経が活躍して、静御前との別れの場面は悲しいよねくらいの感覚だったんじゃないだろうか。 江戸時代の庶民が『古事記』や『日本書紀』を読んでいたかというと広くは読まれていなかっただろうけど、熱田縁起などは話として知っていたのではないかと思う。 考えてみると、日本武尊が尾張に残したものといえば草薙剣しかなくて、尾張に対して何をしたというわけでもないのに、なんとなく恩人のような扱いになっているし、この地方の人たちは現在に至るまで日本武尊に近しい感情を抱いている。 その感覚は他の地方にはないちょっと独特のもののような気がするのだけどどうなんだろう。
風土記では天皇扱い
奈良時代に書かれた『常陸国風土記』の中に、日本武尊(倭建命)を思わせる倭武天皇が出てくる。 これは雄略天皇こと大泊瀬幼武尊のことではないかという説もあるのだけど、関東地方には日本武尊を祭神とする神社が多くあることからするとそれだけではなさそうだ。 どうして倭武を天皇としたのか、何故それが許されたのか、というのは謎というか問題としてある。 風土記は713年に元明天皇が出した詔によって編纂された地方誌で、いうなれば国が命じて国に提出された地方の歴史記録だ。 完成した時期にばらつきがあるものの、『日本書紀』が完成した720年以降とされるので、『日本書紀』と矛盾するような内容がそのまままかり通ったというのもちょっと不思議ではある。 『出雲国風土記』なども『日本書紀』とは全然違う歴史を伝えているから、地方史は地方史でよしとしたのだろうか。 『阿波国風土記』逸文にも倭健天皇命が出てくるということは、今は失われてしまった他の風土記にも倭建天皇は出てきていたかもしれない。
”タケ”違い
ここでヤマトタケルの名前について考えることにしよう。 日本武尊と倭建は、単に『日本書紀』と『古事記』の表記の違いというだけにとどまらない。 ”武”と”建”ではまったく意味が違うように、ヤマトの”武”とヤマトの”建”は別の人物という可能性がある。 文字通り武力のヤマト”武”と国作り(建国)を担ったヤマト”建”がいたと考えていい。 ”武”も”建”も”タケル”と読ませているのだけど、本当にそうだろうか。”タケ”または”タケシ”かもしれない。 もしタケルであれば日本猛の方がふさわしいように思うけどどうだろう。 タケにはもう一つ、”竹”の意味も隠されている。 松竹梅はランク付けのように思っているけど、もともとは家の象徴のようなものだった。 今でも天皇家の人たちはそれぞれ自分の植物(印)を持っている。上皇は”榮”(えい)、今上天皇は”梓”(あずさ)がそうだし、家にはそれぞれ家紋もある。 ”竹”は何かというと、伊弉冉尊の家系(血筋)を表している。 思い返してほしいのだけど、東征に出てきたメンバーの多くが”タケ”だった。 倭のタケ、吉備のタケ、大伴のタケ、タケ稲種と、主要メンバーは皆タケだし、やっつけられた側のイズモタケルも出雲の”建”だった。 これらは武であり建であり竹でもある。 建稲種だけが頭にタケが付いているので、竹の稲種ということになりそうだ。 ヤマトについていうと、もともとは尾張と周辺を含めた地区をヤマトといっていて、それを今の奈良の方に移したときに大和、または倭という字を当ててそれが残ったに過ぎない。 尾張国をコピーして他の地区にペーストしたので、当然地名もコピーされている。全国に大和や山戸、山門といった地名が残っているのもそのためだ。それらは大和地方のコピーではない。 それぞれの地方にいたタケの伝承を一つにしたのが記紀が伝えるヤマトタケルの物語だ。それは一つの時代ではなく、いくつもの時代にまたがってもいる。
「さるかに合戦」は実話が元になっている
尾張氏の家に伝わる一つのヤマトタケルの話がある。 時は5世紀半ば、尾張を中心に、三河と美濃を巻き込んだ戦いがあったという。 それは昔話「さるかに合戦」として今に伝えられている。 あらすじはこうだ。
蟹がおにぎりを持って歩いていると、そこへ猿がやってきて柿の種と交換しようと持ちかけた。 蟹は最初嫌がったものの、おにぎりは食べてしまえばおしまいだけど、柿の種は植えて実がなければたくさん食べられるから得だと説得され了承した。 木が生長して実がなると猿がやってきて、木に登れない蟹に代わって自分が採ってやろうと申し出た。 猿は木に登って熟した柿を食べ始め、蟹が催促すると猿はまだ熟していない青くて固い実を蟹に向かって投げつけた。 すると蟹はそのショックで子供を産んですぐに死んでしまった。 怒った子蟹たちは栗と臼と蜂と牛糞を味方につけて復讐することを決心する。 家の中でそれぞれ隠れて猿を待ち受けた。 囲炉裏に当たろうとしていた猿に向かって焼けた栗が体当たりして火傷を負わせ、水で冷やそうとしたところを蜂が刺し、家から逃げようとしたところに牛の糞が転倒させ、最後は屋根から落ちてきた臼によって猿は死に、子蟹は復讐を果たしたというものだ。
この話をヤマトタケルといきなり結びつけるのは難しいのでいくつかのヒントやキーワードを挙げてみる。 愛知県の地図を見て何かの生き物に見えたことはないだろうか。 パッと見で思いつくのは、知多半島と渥美半島を蟹の手に見立てることだ。 しかし、見方を変えるとしゃがんだ猿の横姿にも見えないだろうか。 それは無理があるよというかもしれないけど、愛知県や周辺には猿と蟹にまつわる地名がいくつかある。 たとえば名古屋西部のすぐ西は海部郡蟹江町(かにえちょう)だったり、愛知県北部には岐阜県可児市(かにし)がある。 愛知県豊田市には猿投山(さなげやま)があり、三河国三宮の猿投神社の祭神は大碓命だ。 おにぎりと柿の種は建稲種を連想させる。おにぎりは米であり稲で、種はそのまま種だ。 猿を殺したのが臼というのもどうだろう。小碓命、大碓命が生まれたとき天皇は臼に向かって叫んだと記紀はいっている。 ここまでキーワードを並べたらなんとなくそんな気がしてきたのではないだろうか。
そもそもこの話は何を暗示し、何を伝えようとしたかだ。 おにぎりは稲で、柿の種はそのまま柿の種ではなく鉄のことなのだという。 餅鉄(もちてつ)とも呼ばれる磁鉄鉱は主に河原に落ちていて、かつての尾張ではそれがたくさん採れたそうだ。 この話の発端として、尾張側が鉄と稲(米)の交換を持ちかけたということだったようだ。 しかし、何らかの行き違いがあって、殺し合うような結果になってしまったらしい。 話に出てきた主な登場人物を当てはめるとこうだ。
親申 乎止与 子申 建稲種 親蟹 両道入姫 子蟹 仲哀王子 臼 大碓命・小碓命 蜂 成務天王 栗 物部十千根
私も教えてもらった話なので確信があることではないのだけど、 親蟹が両道入姫で子蟹が仲哀王子というのは面白いというか興味深いことではある。 両道入姫は日本武尊の皇后で、二人の間の子が仲哀天皇として即位したと『日本書紀』はいうのだけど、この一族と尾張側が戦って最終的に天皇側が勝ったというのであれば納得できる。 小碓命はもともと申の味方だったようなのだけど、途中で裏切ったのか、もしくは申を殺したのは大碓命の方だったのか。 いずれにしてもこの戦いで乎止与も建稲種も殺されてしまったようで、尾張氏は一時的に当主不在の格好となり、代わりを務めたのが宮簀媛だったとも考えられる。 信じるか信じないかは個人の判断だけど、そういう話が尾張氏の家に伝わっているという事実がある。
ヤマトタケルと686年
ヤマトタケルを祀るとする神社はかなりある。 印象としては中部や関東に多いように思うけど、東北や九州、四国などにもそれなりにあって全国規模の広がりを見せている。 しかし、これって不自然じゃないだろうか? ヤマトタケルってそんなに祀られるほどの存在だろうか? 言ってしまえば、天皇の皇子というだけで天皇ではないし、西征や東征が何らかの事実に基づいていたものだとしても、それほどの偉業とも思えない。 意地悪な見方をすれば、ヤマトの王権が地方を討伐して従わせたということで、地方目線でいえばヤマトタケルは中央の征服者の旗頭のようなもので決して歓迎すべき存在ではない。ましてや信仰の対象になるとも思えない。 記紀はあくまでも中央目線で書いているからヤマトタケルの所業を立派なものとしているけど、立場が違えば意味合いは全然違ってくる。 私はヤマトタケルの物語やヤマトタケル信仰は意図的に創作されたものだと感じている。 そのためにヤマトタケルの話を美談に仕立て上げる必要があったということだ。
奈良時代末にまとめられたとされる『熱田太神宮御鎮座次第本紀』に、朱鳥元年(686年)にヤマトタケル東征ゆかりの地に10社の神社を祀ったという記述がある。 挙げると、水向神社、松姤神社、白鳥神社、日長神社、狗神神社、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社で、今はもうなくなってしまったものもあるのだけど、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社は『延喜式』神名帳(927年)に載る式内社だ。 問題は686年という年にある。 686年といえば、草薙剣が熱田社に送られてきた年だ。 『日本書紀』によると、668年に熱田社から沙門の道行が草薙剣を盗み出し、686年6月10日に天武天皇の病の原因を占ったところ草薙剣の祟りと出たため即日熱田社に送り置いたという。 これらの話がどこまで事実なのかは分からないけど、草薙剣が熱田社に戻ったことと、ヤマトタケルゆかりの地に神社を10社建てたことがまったく連動していないとは考えにくい。 草薙剣という神剣が本当に実在したと仮定すると、それが熱田社にあることを説明するためにヤマトタケルの話が作られたとも考えられる。 686年当時は、『日本書紀』の編纂中だったはずで、完成前ならなんとでも書き換えることはできた。 ヤマトタケルのストーリーを肉付けするために東征ゆかりの地に神社を建てたとは考えられないだろうか。 証拠のねつ造というと言葉が強すぎるけど、物語を既成事実化するために神社を建てるのは効果が高い。実際に目に見えるものだからだ。 当時の人たちにとってはなんだこりゃ? とか、ヤマトタケルって誰? といった反応だったかもしれないけど、『日本書紀』が完成して100年も経てば、ヤマトタケルという人が本当にいて、実際にここにも来てたんだと思い込んだとしても無理はない。 尾張に限ったことではなくて、おそらく全国規模で同様のことが行われただろうと思う。もしかするとヤマトタケルを祭神として創建された神社は686年を遡らないかもしれない。 しかしこれも変な話で、記紀が描いてみせたようなヤマトタケルがいたとして、景行天皇時代を4世紀初頭と想定した場合、300年以上も経って急にヤマトタケルの神社を建てたということになる。 やはり、この時期に天皇が主導してヤマトタケル・キャンペーンといったものを全国展開させたのではないか。大がかりにやれば大きな嘘も本当になる。 では、それを行ったのは誰だったか、ということだ。
持統天皇にそれができたのか?
天武天皇が崩御するのは9月9日なのだけど(『日本書紀』)、5月に病気を発症して以降、経を読ませたり大勢を出家させたり罪人に恩赦を与えたりあれこれやっているので、その間の政務は他の人間が行っていたかもしれない。考えられるのは皇后の鸕野讚良(持統天皇)だ。 持統天皇といえば天武天皇とはおしどり夫婦で、天武天皇亡き後を引き継いで政治を進めた優れた女帝というイメージが強い。 しかし、私はこれには懐疑的で、天武と持統はもっと対立的な関係だったのではないかと考えている。 天武天皇は大海人皇子(オオアマノミコ)という名が示すとおり、アマ=天、つまり尾張側の人間で、持統はどちらかというと三河側の人間だったように思う。笑われそうだけど持統は三河出身という話も聞いている。 草薙剣を熱田社に送ったのも、尾張にヤマトタケルの神社10社を建てさせたのも、持統天皇だったとしたらどうだろう。 持統天皇は宮簀媛ゆかりの氷上姉子神社を火上山の上から現在地に移させたという話も伝わっている。 690年に伊勢の神宮の第1回式年遷宮を行わせたのも持統天皇だ。 何やら大がかりな歴史の改変の匂いがしないだろうか。 そもそも、天武天皇の後を持統天皇が引き継いだのも不自然なことで、天武天皇にはたくさんの皇子がいて、天皇候補は何人もいた。 にもかかわらず、持統が即位できたのには理由があったに違いない。 歴史の改変があったとして、それを持統天皇一人でできたはずもない。強力なバックがいたということだ。 持統天皇は孫の軽皇子(文武天皇)に譲位して太上天皇となり、最晩年の702年に三河行幸を行っている( 正確には伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河)。 そこで何をしたのかは具体的な記録がなく、壬申の乱の功をねぎらうためだったのではないかとされているのだけど、結局その年に亡くなってしまうような体調の中、そんなことのためにわざわざ自ら出向くはずもなく、三河へ行かなければならない強い理由があったと考えられる。 三河には誰がいるのか。三河にはタカミムスヒの一族がいる。そこへ挨拶に行ったのかもしれないし、死ぬ前に里帰りしたかったのかもしれない。 あるいは、伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河といえば高天原のエリアなので、そこを最後に見て回りたかっただろうか。 持統天皇には和楓諡号が二つあり、一つは大倭根子天之廣野日女尊、もう一つは高天原廣野姫天皇だ。 高天原の名を冠する諡号を持つ天皇のは持統しかいない。
それぞれのヤマトタケル
ヤマトタケルを祀る神社を全部紹介しているととんでもなく長くなるのでやめておく。 一ついえるのは、たとえば八幡社や神明社、稲荷社のように総本社があって、そこから全国展開したチェーン店のような神社と違って、それぞれの独自性というか独立性が高いのがヤマトタケル関連神社の特徴となっている。 よく知られる代表的な神社を挙げておく。 建部大社(滋賀県大津市/web)、大鳥大社(大阪府堺市/web)、加佐登神社(三重県鈴鹿市/web)、焼津神社(静岡県焼津市/web)、草薙神社(静岡県静岡市/web)、走水神社(神奈川県横須賀市/web)、酒折宮(山梨県甲府市/web)、吉田神社(茨城県水戸市/web)、妙義神社(群馬県富岡市・他/web/web)、など。 白鳥になって舞い降りたという伝説にちなむ白鳥神社も何社かある。 その他の関連社でいうと、三峯神社(埼玉県秩父市/web)は日本武尊が東征の途中に伊弉諾尊、伊弉册尊を祀ったのが始まりという伝承を持ち、氷川神社(埼玉県さいたま市/web)は日本武尊が東征の際に立ち寄ったという話が伝わっていたりする。 特徴としてもう一ついえるのは、格式の高い古社でヤマトタケルを祀っているということだ。 建部大社は近江国一宮で式内の名神大社だし、大鳥大社も名神大で和泉国一宮だ。 まったくの架空のキャラがここまで広く信仰対象になるとは考えづらく、その土地ゆかりの誰かがヤマトタケルとして祀られたのだろうという推測はできる。 東征の話自体は創作だとしても、人物まで架空となると、ここまで説得力を持たせるのは難しい。 人々が求めるヒーロー像とヤマトタケル像が合致して一人歩きを始めたということはあっただろうけど。 土地柄という地域性というのはたぶんあって、尾張の人間にとってのヤマトタケルと関東の人間から見たヤマトタケルは違っているはずだし、西日本や東北、九州それぞれのヤマトタケル像といったものがあるのではないかと思う。
系譜についてのまとめ
後回しになっていた系譜についてまとめておくことにしよう。 まずは『古事記』から。
天皇ではないので后や妃という区別はないものの、結果的に布多遅能伊理毘売命(フタジノイリヒメ)との間に生まれた帯中津日子命(タラシナカツヒコ)が即位することになった(仲哀天皇)ので、布多遅能伊理毘売命が正妻と考えていいだろうか。 他には、弟橘比売命(オトタチバナヒメ)との間に若建王(ワカタケル)が、布多遅比売(フタジヒメ)との間に稲依別王(イナヨリワケ)、大吉備建比売(オオキビタケヒメ)との間に建貝児王(タケカイコ)、玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)との間に足鏡別王(アシカガミワケ)、一妻の子として息長田別王(オキナガタワケ)の名を挙げ、あわせて6人の子がいたと『古事記』はいっている。 続けて、これらの子の後裔についても書いている。
『日本書紀』の系譜は少し違っている。 兩道入姫皇女(フタジノイリヒメ)との間に生まれたのが稻依別王(イナヨリワケ)、足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)、布忍入姫命(ヌノシイリビメ)としていて、男子だけではなく女子についても名を挙げる。 『古事記』では稻依別王は布多遅比売との間の子となっているのに対して、ここでは兩道入姫皇女が生んだ足仲彦天皇の兄という位置づけになっている。 ただ、稻依別王を犬上君(イヌカミノキミ)と武部君(タケルベノキミ)の祖とするのは共通する。 吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)との間の子として、武卵王(タケカヒコノミコ)と十城別王(トオキワケ)が生まれたとする。十城別王は『古事記』では出てこない子だ。 弟橘媛(オトタチバナヒメ)との間の子は稚武彦王(ワカタケヒコ)で、『古事記』がいう若建王(ワカタケル)と同じだろうと思う。
『先代旧事本紀』は、両道入姫皇女との間の子を稲依別王、足仲彦尊、布忍入姫命、稚武王の四兄弟とする独自伝承を伝えている。 でも確かに、弟橘媛が子を生んだというのはちょっと無理があって、日本武尊の東征に従って相模の海に身を投げて死んでいるので、子がいたとしたらその前に生んでいて幼い子を連れていたか実家にでも預けてきたということになり、そんな母親を東征に従わせるのは不自然な話だ。 吉備穴戸武媛との間に武卵王と十城別王が生まれたというのは『日本書紀』と共通する。
尾張の宮簀媛との間に子はいなかったというのはすべてに共通している。熱田の縁起にもこの存在は書かれていない。 熱田縁起では東征の帰りに兄の建稲種は駿河の海に落ちて死んでしまったことになっているものの、玉姫との間に尾綱根命(オツナネ)、志理都紀斗売(シリツキトメ)、金田屋野姫命(カナタヤノヒメ)がいたことになっていて、このうち尾綱根命が後を継いだとされる。 歴史にifはないというのはよく言われることだけど、もし宮簀媛が日本武尊の子を生んでいたとしたら、尾張の歴史は今とは少し違ったものになっていたかもしれない。よかったかどうかは分からないにしても。
次に『新撰姓氏録』(815年)を見てみる。 ヤマトタケル関係を抜き出してみると以下の通り。
景行皇子 日本武尊より出る 犬上朝臣 左京皇別上 犬上朝臣同祖 日本武尊の後 建部公 右京皇別下 建部公同氏 別公 右京皇別下 犬上朝臣同祖 倭建尊の後 和気公 和泉国皇別 和気公同祖 日本武尊の後 県主 和泉国皇別 倭建尊三世孫大荒田別命の後 聟木 和泉国皇別 山都多祁流比女命四世孫毛能志乃和気命の後 阿刀部 未定雑姓大和国
記紀その他が伝える後裔とおおむね一致するのだけど、それよりも見逃せないのは、これらの氏族が”日本武尊”または”倭建尊”の後裔を称していたということだ。 小碓命ではなく日本武尊を祖とするということが公式に認められていたということを意味する。 それはつまり、日本武尊というのは記紀が描いた物語上だけの存在ではないということだ。 少なくとも、平安時代初期において、日本武尊は実在の人物で、その後裔がいて、天皇家もそれを認めていたということになる。 架空の人物を自分たちの祖先とするのはやはり無理があるし、いくら言い張っても周りは納得しないだろう。しかも天皇の皇子であり、天皇の父ということになっているのだからだなおさらだ。 平安時代の人々にとって日本武尊は現代の我々が想像するよりもずっとリアルな存在だったのかもしれない。
それぞれのヤマトタケル像
結局のところ、ヤマトタケルとは何者なのか? という問いに対する答えを私は持ち合わせていない。 この項を書き始める前に、着地点はどうしようかと考えて、それが見えないまま見切り発車で始めて、最後まで見つけることができなかった。 でもそれでいいと今は思っている。 ここまで一人歩きして肥大化してしまったヒーローを私がどうこう言えるはずもない。 それぞれの中にそれぞれのヤマトタケルがいていい。そのどれもが間違いであり正しくもある。 ヤマトタケルはいたといえばいたし、いなかったといえばいなかった。
繰り返しになるけど、ヤマトタケルには武の面と建の面があって、ある意味ではスサノオとも重なる。スサノオもまた特定の人物を指す個人名ではない。 どの時代のどの場所にも、ヤマトタケルやスサノオに相当する人物がいて、敵と戦い、国作りをしたのだろう。 それは必ずしも正義とは限らないし、良い行いばかりだったはずもない。 ヤマトタケルの時代はすでに神代の時代ではなく人代の時代だからだ。 そういう不完全な人間くささが日本人の心の琴線に触れる要因ともいえる。日本人は悲劇のヒーローが好きだ。
これはあまり指摘されることがないのだけど個人的な感触としてヤマトタケルには祟り神、怨霊としての一面があるように感じている。 特に天皇家はヤマトタケルをどこか畏れている。 祟りというのは祟られる側に心当たりがなければ成立しないもので、天皇家がヤマトタケルを畏れているのであれば何かやましいことや負い目があるということだ。 昭和の大喪の礼でヤマトタケルを悼む歌を歌っていたのはそのためではないのか。 おそらく次の大喪の礼でもヤマトタケルを悼む歌が歌われることになる。 畏れではなく恩義を感じているというのであればそうかもしれない。
これからも我々の中にヤマトタケルは生き続けることになる。 当のヤマトタケル本人はそんな地上の思惑をよそに、今も白鳥となって天を翔び回っているだろうか。
|