ヤマトタケル《日本武尊》

2020年2月8日

ヤマトタケル《日本武尊》

『古事記』表記 倭建命
『日本書紀』表記 日本武尊
別名 小碓尊、小碓命、小碓王、日本童男、日本武皇子、倭男具那命、倭男具那王、倭建御子、倭武天皇、倭建天皇、倭健天皇命
祭神名 日本武尊・他
系譜 (父)第12代景行天皇
(母)播磨稲日大郎姫
(兄)大碓皇子、櫛角別王
(弟)倭根子命、神櫛王
(妃)両道入姫皇女、吉備穴戸武媛、弟橘媛、山代之玖々麻毛理比売、布多遅比売
(妻)美夜受比売/宮簀媛
(子)稲依別王、第14代仲哀天皇、布忍入姫命、稚武王、武卵王、十城別王、稚武彦王、足鏡別王、息長田別王
属性 景行天皇の皇子、仲哀天皇の父
後裔  
祀られている神社(全国) 建部大社(滋賀県大津市/web)、大鳥大社(大阪府堺市/web)など
祀られている神社(名古屋)
熱田神宮(熱田区)、八剣宮(熱田区)など
 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父。
 母は景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫/針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)。
 同母兄弟について、『日本書紀』は大碓皇子(オオウス)と双子の弟とし、『古事記』は兄に櫛角別王(クシツヌノワケ)・大碓命、弟に倭根子命(ヤマトネコ)・神櫛王(カミクシ)がいるとする。オオウスと双子とは書いていない。
 本名は記紀ともに小碓尊/小碓命(オウス)とし、またの名を日本童男/倭男具那命(ヤマトオグナ)とする。
 日本武尊/倭建命(ヤマトタケル)の名は、西征で川上梟帥(または熊曾建)を討った際に相手から与えられたものだと記紀はいっている。
『常陸国風土記』や『阿波国風土記』逸文はヤマトタケルを倭武天皇/倭健天皇命など表記している。
 妃と子供について『古事記』は、布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメ)との間に帯中津日子命(タラシナカツヒコ)が、弟橘比売命(オトタチバナヒメ)との間に若建王(ワカタケル)が、布多遅比売(フタジヒメ)との間に稲依別王(イナヨリワケ)が、大吉備建比売(オオキビタケヒメ)との間に建貝児王(タケカイコ)が、玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)との間に足鏡別王(アシカガミワケ)が、ある女との間に息長田別王(オキナガタワケ)がいて、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)が仲哀天皇となったと書く。
『日本書紀』は、兩道入姫皇女(フタジノイリビメ)との間に稻依別王(イナヨリワケ)、足仲彦天皇(タラシナカツヒコ)、布忍入姫命(ヌノシイリビメ)、稚武王(ワカタケ)がいて、吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)との間に武卵王(タケカヒゴ)と十城別王(トオキワケ)が、弟橘媛(オトタチバナヒメ)との間に稚武彦王(ワカタケヒコ)がいると書いている。
 尾張の美夜受比売/宮簀媛(ミヤズヒメ)については、記紀ともにヤマトタケルの系図に入れていない。妃という立場ではないという認識だっただろうか。
『日本書紀』はヤマトタケルを犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)などの氏族の祖とし、『古事記』は、犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別宮道之別(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)らの祖とする。
『新撰姓氏録』でも左京皇別の犬上朝臣や和泉国皇別の和気公らをヤマトタケルからつながる氏族としている。
 ヤマトタケルの性格や人物像については、『古事記』では乱暴で感情的な悲劇の英雄として描き、『日本書紀』では景行天皇の正統な皇子の活躍物語として描かれる。一般的なヤマトタケル像は『古事記』によるところが大きい。
 16才のヤマトタケルは、景行天皇の寵愛する女を奪った兄の大碓命(オオウス)を殺し(手足をもいで薦に包んで投げ捨てた)、その所業を恐れた景行天皇に九州の熊襲建兄弟(クマソタケル)討伐を命じられる。
 伊勢で斎王をしていた叔母の倭比売命(ヤマトヒメ)の元を訪ね、女性の衣装を受け取り、女装して新築祝いの宴会にもぐりこんで兄弟を惨殺した。このとき、弟の弟建から倭建の号を授かったという(『古事記』)。
『日本書紀』では兄の大碓命殺しについては書かれず、美濃国の弟彦(オトヒコ)をはじめ、尾張の田子稲置(タゴイナギ)らを従者として与えられて九州征伐に赴いたとなっている。
 ここでは熊襲の首長は川上梟帥(カワカミノタケル)となっている。
『古事記』はこの後、山の神、河の神、穴戸の神を平定し、出雲で出雲建をだまし討ちにして殺した話を載せる。
『日本書紀』は吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺したとする。
 西征から帰還するとすぐに東征を命じられるような書かれ方をしているのだけど、西征に向かったときは16才で、東征に赴いたのが27才のとき、命を落としたのが30才と『日本書紀』にあるので、西征が長かったのか、西征と東征の間にある程度の期間があったのかもしれない。子供も6人(もしくは7人)できている。
 東征やミヤズヒメとの物語については熱田神宮のページに書いたので、ここでは略しておく。
 伊吹山で体調を崩したヤマトタケルは、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと記紀は書く。
『古事記』は白鳥になったヤマトタケルは伊勢を飛び立ち、河内の国志幾にとどまった後、天に翔っていったと書く。
 死の知らせを受けた后や子供たちは大和から駆けつけて陵を作り、ヤマトタケルを弔う歌を詠む。白鳥になって飛び立った後を追い、更に三種の歌を詠んだ。この四歌はヤマトタケルの葬儀でも詠まれ、現在に至るまで天皇の葬儀でも詠まれている。
『日本書紀』は、能褒野の後、大和琴弾原、河内古市にとどまり、それぞれ陵墓を作ったとする。
『日本書紀』では景行天皇がヤマトタケルの死を嘆き悲しんで寝込んでしまったと書かれている。
 陵というのは天皇・皇后に使う言葉なので、ヤマトタケルは天皇に準ずる立場という扱いとなっている。
 宮内庁は、能褒野墓(三重県亀山市)、白鳥陵(奈良県御所市)、白鳥陵(大阪府羽曳野市)の3基をヤマトタケル陵としている。
 ヤマトタケルを祀る主な神社としては、滋賀県大津市の近江国一宮・建部大社(web)や大阪府堺市の和泉国一宮・大鳥大社(web)がある。
 その他、北は岩手県から関東一円、長野県、愛知県、三重県、西は鳥取県、島根県、四国の徳島県、香川県、南は九州の福岡県、熊本県、宮崎県まで幅広く祀られている。
 愛知県内のヤマトタケルゆかりの地としては、一宮市大和町の笠懸の松や中村区岩塚町の七所社の腰掛岩、ヤマトタケル白鳥伝説が残る熱田区の白鳥古墳や守山区の白鳥塚古墳、春日井市の馬蹄石、知多郡の生路井などがある。
 名古屋市でヤマトタケルを祀る神社は多い。熱田神宮や八剣宮をはじめとする熱田社・八劔社系統だけでなく、八幡社や神明社などでもヤマトタケルを祀っている。

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