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アントクテンノウ《安徳天皇》

アントクテンノウ《安徳天皇》

『古事記』表記なし
『日本書紀』表記なし
別名言仁(ときひと/諱)
祭神名安徳天皇
系譜(父)第80代高倉天皇
(母)平徳子(建礼門院)
属性第81代天皇
後裔(次代)第82代後鳥羽天皇
祀られている神社(全国)赤間神宮、安徳天皇社(香川県高松市)、久留米水天宮(web)、全国の水天宮
祀られている神社(名古屋)水天社(白鳥町)(熱田区)

1歳2ヶ月で即位

 平安時代の末、1178年に生まれ、1歳2ヶ月で第81代天皇として即位し、6歳で平家滅亡とともに海に沈んで没したのが安徳天皇だ。
 父の第80代高倉天皇も政争に巻き込まれて19歳という若さで亡くなった天皇だった。
 高倉天皇と平清盛の娘の徳子(建礼門院)の第一子が安徳天皇で、諱は言仁(ときひと)といった。
 源平合戦を描いた時代劇で女の子のような風貌をしているから安徳天皇を小さな女の子と思っている人もいるかもしれないけど(私がそうだった)男性だ。実際の安徳天皇も髪を長く伸ばしていて女の子のようだったという話もある。
 1歳で即位して6歳で崩御したとなるとどちらも最年少だろうと思いがちだけど、高倉天皇の前の第79代六条天皇は7ヶ月で即位しているので安徳天皇は2番目になる。六条天皇は在位期間もごく短く、2年8ヶ月で祖父の後白河上皇の意向で高倉天皇に譲位することになった(11歳8ヶ月で崩御)。
 平安時代末というのは、こうした天皇家の皇位継承争いに加えて、平氏や源氏などの武士たちが大きな力を持ち始めた時代で、戦争は避けられないような状況だったといえる。
 1185年の壇ノ浦の合戦によって平家は滅び、源氏の棟梁だった源頼朝が鎌倉に幕府を開くことことになるのだけど、その直接的な契機となったのが1156年の保元の乱だった。
 ちなみに、”平家”と”平氏”は別で、平忠盛の一門(伊勢平氏)が滅亡しただけで、平氏そのものが滅んだわけではないことに注意が必要だ。

源平合戦は保元の乱から始まった

 後白河天皇と崇徳上皇との間で皇位継承問題が起こり、摂関家の内紛などもあって武力衝突に到った。保元元年に起きた戦いということで後に保元の乱と呼ばれるようになる。
 結果、後白河天皇側が勝利して崇徳上皇は讃岐に流されて決着を見るのだけど、このとき実際に戦ったのが武士たちで、これ以降、武士の存在感が増していくことになった。
 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として1118年に生まれた。
 保元の乱(1156年)で後白河天皇の信頼を得た清盛は、1159年に起きた平治の乱でも功績を挙げ(このときの戦で源氏の棟梁で頼朝・義経の父・源義朝が死去)、武士として初めて太政大臣となった。
 これが気に入らなかった後白河法皇と対立。清盛は治承三年の政変(1179年)で法皇を幽閉して、娘の徳子の産んだ安徳天皇を即位させ(1180年)、自ら政治の実権を握った。
 しかし、これに反発したのが源氏をはじめとした武士や公家、寺社勢力だった。
 1180年に後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)が平家を討つべしという令旨(りょうじ)を出し、それに呼応したのが源行家や木曾義仲といった源氏の武士たちだった。後に尾張国山田荘の地頭となる山田重忠もこのとき木曾義仲に従って京に入っている。
 いわゆる源平合戦がこれに当たるのだけど、最近は元号から治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)と呼ぶことが多い。
 平清盛との戦で命を落とした源義家の子の頼朝(三男)も少し遅れて配流地の伊豆で兵を挙げた。
 1181年に清盛が死去すると、全国で打倒平家の気運が高まった。
 その後、連勝を続けていた木曾義仲と頼朝が対立し、頼朝の弟の義経の活躍もあり、宇治川の戦いで頼朝側が義仲軍を破った。それが1184年のことだ。
 勢いに乗った義経軍は平家軍を次々と破っていく。断崖を駆け下りていった一ノ谷の戦いはよく知られているところだ。
 これに先立つ一年前の1183年、倶利伽羅峠の戦いで平家軍を打ち負かした木曾義仲が京に入ってきたのを機に、平宗盛は安徳天皇一行と三種の神器を持ち出して京を脱し、西へと向かった。
 天皇不在の京では、三種の神器がないまま後鳥羽天皇が即位して第82代天皇となった。
 後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子で、安徳天皇の異母弟に当たる。
 ここから2年間、天皇が二人いる状況が続くことになる。

安徳天皇一行は平宗盛に連れられて都落ち

 都を追われた平宗盛と安徳天皇一行は、讃岐国の屋島(香川県)まで逃れ、そこに行宮を置いた(現在、その近くに安徳天皇社がある)。
 一ノ谷の戦いで敗れた平家軍も屋島に合流して拠点としたものの、追いかけてきた義経軍との戦いとなり、ここでも敗れてしまう。それが1185年2月のことで、屋島の合戦と呼ばれている。
 拠点の屋島を失った平家軍は、もうひとつの拠点としていた長門国の彦島(山口県下関市)へ向かった。そこには平知盛がいた。
 彦島は本州最西端で、関門海峡を挟んですぐ向こうに九州が見えている。本来であれば九州に渡って兵力を整えるべきだったのだけど、先回りしていた源範頼によって九州が押さえられてしまっていたため、平家軍は彦島から進むことも戻ることもできずに追い詰められてしまった。残されたのは海での水軍戦しかなかった。
 もともと水軍戦が得意だったのは平家で、源氏は水軍を持っていなかった。しかし、勝ち戦の中で義経軍は水軍を得ることに成功して、このときまでに平家を上回る水軍を有するようになっていた。
 こうして1185年3月24日、運命の壇ノ浦の合戦を迎えることになる。

運命の壇ノ浦

 戦いは午前6時頃に始まり、潮流を読んだ平家軍が優勢に進めた。
 しかし、途中で潮の流れが変わって形勢逆転。義経の掟破りの水夫狙いという非情手段もあって、源氏優勢へと傾き、ついには平家軍は総崩れとなった。
 もはやここまでと悟った二位尼(平清盛の正室で建礼門院徳子の母、安徳天皇の祖母)は神璽と宝剣を身につけ、安徳天皇を抱いて入水。
 それを見た平家の人々も次々と海に身を投げ、壇ノ浦の戦いは源氏勝利、平家の実質的な滅亡という形で幕を閉じることになった。
 このときの様子を『平家物語』(先帝身投)はこう綴っている。

 尼ぜ、われをばいづちへ具してゆかんとするぞ」と仰せければ、いとけなき君に向ひ奉り、涙をおさへ申されけるは、「君はいまだ知ろし召されさぶらはずや。先世の十善戒行の御ちからによッて、今万乗のあるじと生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運既につきさせ給ひぬ。まづ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからんと思し召し、西に向はせ給ひて、御念仏候ふべし。この国は心うき境にて候へば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせ候ふぞ」と、泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづらゆはせ給ひて、御涙におぼれ、小さくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふし拝み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都の候ふぞ」となぐさめ奉つて、千尋の底へぞいり給ふ。

 海の底にも都があるからと幼い天皇に言い聞かせ、6歳の安徳天皇は祖母の言うとおり、小さな手を合わせて東の伊勢神宮を拝み、続いて西の極楽浄土に向かって念仏を唱えたとは泣かせる。
 安徳天皇は前世で徳を積んで天子になったけれど悪縁によって運が尽きたとも言っている。実際の二位尼の言葉ではなかったにしても、中世の人たちの死生観や人生観が表れた言葉だ。
 縁によって人は出会い別れ、運によって生きもするし死にもするというのは武士だけでなくこの時代を生きた人たちの共通観念だったのだろう。
 平知盛(清盛の四男)は『平家物語』の中でこんなことを口にしている。
 二位尼と安徳天皇に戦況が絶望的なことを伝え、「世のなかはいまはかうと見えて候」と言い、いよいよ最後となったとき、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」と述べ、鎧を二着身につけて海に入った。
 見るべきものは見た。『平家物語』巻頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ」は、この言葉に集約されるかもしれない。
 しかし、そうと悟れた人間ばかりではなかったようで、このとき平家の棟梁だった平宗盛(清盛の三男)は死にたくない一心で逃げ回り、泳いで逃げようとしたところを源氏軍に捕らえられ、鎌倉まで連行された後、処刑された。その他に生き残った平家の主だった男子も皆、処刑された。
『吾妻鏡』によると、建礼門院徳子の母である平時子が三種の神器の一つ天叢雲剣を持ち、按察使局が安徳帝を抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かったことになっている。
 また、『愚管抄』では、時子が天叢雲剣と神璽を持ち、安徳帝を抱いて入水したとする。
 一緒に入水した建礼門院徳子は源氏の兵に救われ、京に送られた後出家して大原寂光院で残りの生涯を送ったと伝わる。
 ここで大きな問題となったのが、箱に入っていた八咫鏡と八尺瓊勾玉は回収されたものの宝剣が海に沈んで見つからなかったことだった。

宝剣が見つからないのが問題だ

『吾妻鏡』や『愚管抄』はこの宝剣のことを天叢雲剣と書いている。
 つまり、熱田社で祀られる草薙剣とは別の剣という認識だったということだ。
『日本書紀』本文は、ある書によるとという但し書き付きで、草薙剣はもともと天叢雲剣と呼ばれていたと書いているのだけど、『日本書紀』の一書や『古事記』では最初から草薙剣だった。
 草薙剣は一度、668年に盗難にあって、天武天皇に祟ったということで686年に熱田社に送られたと『日本書紀』は書いている。
 ということは、これ以降、天皇所有の三種の神器の宝剣は熱田社の草薙剣とは別ということになる。
 それが草薙剣の形代なのか、まったく別の剣なのかは分からない。ただ、平安時代までに三種の神器が天皇即位に必要不可欠のものとなっていたのは間違いないだろう。
 三種の神器なしに即位した後鳥羽天皇は焦っていた。絶対に見つけ出すようにと命じ、海女を潜らせたり寺社に祈祷させたりして必死の捜索を行わせるも、とうとう見つけ出すことができなかった。
 頼朝も怒っていた。そもそも、義経は後白河法皇から安徳天皇の命と三種の神器を守ることを厳命されていた。平氏を滅亡させることが目的ではなく、この二つが義経がなすべきことだったのに暴走してこのふたつともを失ってしまったのは大失策だった。そのことが義経の命を縮めることになったという言い方もできる。
 2年後の1187年にも厳島神社の神主の佐伯景弘に命じて再び大がかりな捜索を行わせている。このときは2ヶ月探して見つからず、それでもあきらめきれなかった後鳥羽は上皇になっていた25年後の1212年にも捜索を行わせた。生涯をかけた執念と言っていい。
 結果的にはついに宝剣は見つからなかった。代わりの剣を伊勢神宮から奉納させ、正式な宝剣とした。
 ここで疑問に思うのが、頼朝はどうして熱田社に草薙剣を引き渡すよう命じなかったのか、ということだ。
 頼朝の母・由良御前は熱田大宮司の藤原季範の娘だ。代々、熱田社は尾張氏が大宮司を務めていたのが員職のときに突然、夢のお告げということで外孫の藤原季範に大宮司を譲ってしまった(1114年)。
 頼朝から見ると、熱田社大宮司になった藤原季範は母方の祖父に当たる。壇ノ浦合戦のときにはすでに死去していたとはいえ、熱田社大宮司は季範の子が代々継ぐことになるので、熱田社の人間は頼朝にとって近い親戚だ。草薙剣を差し出すよう命じることも可能だったのではないか。
 しかし、表向きはそういう話は出ていない。あるいは裏で何らかの取引があったのかもしれないと思うのは穿ちすぎだろうか。

安徳天皇は龍王の娘?

 安徳天皇の名は死後に贈られた漢風諡号だ。平安時代のこの頃までには天皇は死後に院号を贈られるのが慣習となっていたのだけど、安徳天皇は例外的に漢風諡号が贈られた。鎮魂のために徳のつく字を当てたとされる。
 6歳で崩御しているので、皇后や子供もいない。未婚の男性天皇は安徳天皇以降はいない。
 安徳天皇の遺体は翌日漁師の網にかかって引き揚げられ、阿弥陀寺内に埋葬されたということになっている。
 しかし、日本各地に壇ノ浦合戦の後も生き延びたという伝説が残っている。
 西日本の九州、四国に多いのだけど、近畿や青森にもそれはある。中にはまことしやかな物語として伝わっているものもあり、ひょっとするとと思わないでもない。義経がチンギス・ハーンになったという話よりは信憑性がある。
 こういった伝承もあって、安徳天皇を祀るとしている神社も少なくない。
『愚管抄』では安徳天皇は厳島明神(厳島神社)が化生した龍王の娘といっている。
『平家物語』でも見た目が女の子のように描かれていることから、後世の創作物では安徳天皇を女性としているものもある。
 安徳天皇が葬られたとされる阿弥陀寺は859年に創建された寺だ。
 1191年に後鳥羽天皇の命により御影堂が建立され、安徳天皇の菩提が弔われた。
 明治の神仏分離令を受けて阿弥陀寺は廃され、天皇社となった。
 明治8年(1875年)に赤間宮と改称された。
 ここを安徳天皇陵としたのは明治22年(1889年)のことで、他にも山口県下関市、鳥取県鳥取市、高知県高岡郡、長崎県対馬、熊本県宇土市など、安徳天皇陵はいくつか候補があった。
 昭和15年(1940年)には官幣大社に昇格し赤間神宮(web)と名を改めた。
 第二次大戦で社殿を焼失。昭和40年(1965年)にあらたな社殿が建てられた。

水天宮で祀られる

 福岡県久留米市にある久留米水天宮(web)は、生き残った按察使局伊勢が1185年にその地に逃れてきて、1190年に水天宮を祀ったのが始まりとされる。
 剃髪して千代と名乗り、近隣住民のために加持祈祷などを行ったところ、霊験あらたかという評判が立ち、水天宮は尼御前神社と呼ばれるようになったという。
 その後、この社を守ったのが平知盛の孫、平右忠で、現在までこの家が宮司を務めている。
 全国に水天宮は主なところだけで50社程度あるようだけど、一番よく知られているのは東京日本橋の水天宮(web)だろう。安産祈願のために戌の日には大勢の妊婦さんや関係者が押し寄せる。
 しかしこの水天宮は意外と新しく、江戸時代中期の1818年に久留米藩の有馬頼徳が江戸の藩邸に祀ったの始まりで、明治以降、青山に移り、その後、明治5年に現在地に移され一般も参拝できるようになった。
 名古屋では熱田白鳥に水天社があり、安徳天皇を祀っている。
 ただし、この神社はもともと仏教系の水天を祀るところで、明治以降に安徳天皇を祀るとしたのではないかと思う。
 久留米水天宮では、安徳天皇の他に、天御中主神、高倉平中宮、二位の尼を祀っている。

運とは何か?

 1歳で即位して6歳で崩御した天皇の運とは何だったのだろう。
 平安時代の人たちが考えていた”徳”というものについても思いをはせないわけにはいかない。
 源平合戦を経て誕生した武士の社会は、その後長きにわたって日本中に戦乱をもたらすことになる。
 平家が悪で源氏が善などという単純な話ではない。
 源氏も平氏も元を辿れば天皇の皇子たちから始まっている。天皇家のモメ事に一般庶民たちが巻き込まれて迷惑したという言い方もできる。
 本当に源平合戦は必要だったのだろうか。
『平家物語』や『吾妻鏡』をしっかり読んでみようかという気になっている。

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