桜田貝塚や桜田勝景絡みで紹介されることが多く、この神社について語られることは少ない。 『愛知縣神社名鑑』は「創建については明かではない。明治5年7月、村社に列格する」と書くだけで手がかりは得られない。 境内にある由緒書きには「建立文化十癸酉十二月」とある。 文化10年は1813年のことだけど、これが創建年ということはあり得ない。建立というから再建したのか修造したのがその年ということだろう。
神社がある現住所は呼続町で、数少ない呼続町の生き残りだ。大正10年(1921年)に呼続町大字千竈を名古屋市南区に編入して誕生し、合併によって一時は47町という広い町域だった。その後、呼続1-5丁目などに分かれて、現在は八幡社の敷地と道路敷と河川敷にのみ町名が残っている。 江戸時代のこの場所はおそらく櫻村(桜村)になると思うのだけど、ちょっと確信が持てない。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の櫻村の項はこうなっている。 「社四ヶ所内 八幡 権現 神明弐社 村中支配 社内六反壱畝弐拾弐歩」 この中の八幡が今の呼続の八幡だとすると、前々除となっているので1608年の備前検地以前の創建ということになる。 『尾張徇行記』(1822年)は、東宝寺に残る記録として、「当寺控神明祠境内一反九畝歩余、熊野祠境内五畝余、八幡祠境内三反七畝歩、地蔵堂境内一畝余、倶ニ御除地」と紹介している。 続けて、こう書く。 「今東宝寺書上ニ拠レハ、八幡祠熊野権現祠神明祠一区ハ寺支配ニナリ、神明祠一区ハ村支配ニナレルトミヘタリ」 もともと村で支配していた四社のうち、八幡、熊野、神明は江戸時代のどこかで東宝寺の支配になったようだ。 東宝寺は、桜中村城の家老屋敷跡に建てられたとされる浄土宗の寺だ(地図)。 『尾張志』(1844年)は東宝寺について、「櫻村にありて薬王山といふ祐福寺の末寺也創建の年月知かたし僧受圓を開祖とす」と書いている。 八幡社については、「大地欠(ダイチガケ)といふ地にあり」とする。
神社があるのは笠寺台地の中央部、東の縁に近いところだ。 ここは古代、あゆち潟と呼ばれる遠浅の海に囲まれた地で、松巨島(まつこしま)と呼ばれていた。 あゆち潟は満潮時と干潮時の海面差が2メートルほどあったとされ、満潮時は舟で移動し、干潮時は陸路を歩いて移動していたようだ。 笠寺台地は、満潮になると北に位置する瑞穂台地と海で隔てられて大きな島のように見えたのだろう。松巨島というのは、松が生い茂る大きな島といったイメージだ。 台地上では、縄文時代以降の遺跡や古墳が見つかっている。 境内で貝塚が発見されたのは大正7年(1918年)のことだった。 桜田貝塚と名付けられた貝塚からは、弥生時代後期と見られる土器や貝殻などがたくさん出土している。当時の人たちがハマグリ、アサリ、カキなどを食べていたことが分かる。 魚のような格好をした珍しい魚形土器も発見された。 神社から少し南へいったところにある見晴台遺跡(地図)からは旧石器時代の遺物も見つかっており、縄文・弥生から古墳時代にかけて集落があったところだ。笠寺台地最大の集落だったと考えられており、竪穴住居跡も200以上見つかった。 その他、神社北西の桜台高校グラウンドでは古墳時代の住居群や奈良時代の土馬などが出土している。
このあたりの桜という地名の由来は諸説あるものの、桜の木の桜ではないことは確かなようで、狭い土地や谷間を指す「さ(狭い)くら(谷)」から来ているというのが有力な説となっている。『和名抄』には愛智郡作良郷とある。 津田正生は『尾張国地名考』の中で、「佐久良は正字狭座(さくら)の義なるべし佐は狭きなり久良は小高く座る所なるをいふ」と書いている。 かつての桜村は、八幡社の北一帯、元桜田町、桜本町、桜台町あたりが村域だった。今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、村の様子がある程度分かる。 古くは台地の西から北は干潟の海が広がり、東側は入り海だった(後にここを天白川が流れることになる)。 昔から景勝地として知られていたようで、『万葉集』(800年頃成立)には桜田の風景を歌った高市黒人(たけち の くろひと)の歌が収められている。 「桜田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡」 現代語訳すると、 「桜田(さくらだ)へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴(たづ)鳴き渡る」 桜村の田んぼの方に鶴が鳴きながら渡っていく、どうやらあゆち潟の潮が引いたらしい、といった意味だ。 『尾張名所図会』(1844年)では「櫻田の古覧」と題した絵図でその様子が描かれている。 大正13年(1924年)に新愛知新聞(中日新聞の前身のひとつ)が選んだ名古屋十名所でも桜田勝景が入っている。長らくここは名古屋を代表するような景勝地だった。 今は海も遠くになり、高台から街を見下ろすこともできないため、かつての風景を想像することは難しい。
祭神について『愛知縣神社名鑑』では應神天皇一柱なのに対して、境内の由緒書きでは應神天皇、比売大神、大帯姫命の三柱となっている。 どちらが正しいのかは判断がつかないのだけど、もともと三柱だったとすれば、宇佐神宮(web)、石清水八幡宮(web)、鶴岡八幡宮(web)などと同じということになる。名古屋の八幡社ではここだけではないかと思う。 もしかすると、この八幡社はかなり古いかもしれない。 ただ、境内の空気感に古めかしさがないのが気になった。そこそこ奥行きがあって木々が生い茂っているものの、なんとなく落ち着かない感じがした。どっしりしていないというか、空気が軽い。 境内の由緒書きにあった文化10年(1813年)建立というのが現地に遷座したことを意味しているのかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』に「飛地境内社 大楠社境内地(南区楠町17番地) 迦具土社(元桜田町2丁目26番地)」とある。 大楠社は楠の巨木がある村上社(地図)のことで、そこにはかつて八幡社があって移したという話がある。その八幡社がこの呼続の八幡社のことなのか、別の八幡社なのかは分からない。 迦具土社は今の秋葉神社(元桜田町)のことだろう。
境内には、桜田貝塚と高市黒人の歌碑が建てられている。 この八幡は神社そのものの歴史よりも、貝塚や高市黒人の歌を語り継ぐためにあるような気もする。神社はそういった歴史を現在に伝える役割も担っている。 もしここが神社でなかったとしたら、とっくの昔に家か何かの建物が建てられて歴史も埋もれてしまっていただろう。やはり神社はタイムカプセルだと思う。
作成日 2017.4.18(最終更新日 2019.8.5)
|