ホムタワケ/オウジンテンノウ《誉田別尊/応神天皇》

2020年1月17日

ホムタワケ/オウジンテンノウ《誉田別尊/応神天皇》

『古事記』表記 品陀和氣命
『日本書紀』表記 誉田別尊
別名 応神天皇、譽田天皇、大鞆和気命、胎中天皇、品太天皇、凡牟都和希王
祭神名 応神天皇・他
系譜 (父)仲哀天皇
(母)神功皇后
(異母兄)香坂王/麛坂皇子、忍熊王/忍熊皇子
(后)仲姫命
(妃)高城入姫、弟姫、宮主宅媛、小?姫、息長真若中比売、糸媛、日向泉長媛、迦具漏比売、葛城野伊呂売、兄媛など
(子)仁徳天皇、額田大中彦皇子、大山守皇子、菟道稚郎子皇子、八田皇女、雌鳥皇女、稚野毛二派皇子、
隼総別皇子、草香幡梭皇女など
属性 第15代天皇
後裔 天皇家(今上天皇に続く血筋とされる)
祀られている神社(全国) 宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、箱崎宮をはじめとする全国の八幡社
祀られている神社(名古屋) 若宮八幡社(栄)御器所八幡宮田光八幡社八幡社(児子社)植田八幡宮八幡社(牛立)城山八幡宮など

『日本書紀』は誉田別尊(和風諡号は譽田天皇)、『古事記』は品陀和氣命と表記し、別名を大鞆和気命というとある。
 母親の神功皇后のおなかにいるとき、神の託宣でこの世界はおなかの子のものだと告げられたことから胎中天皇とも呼ばれたと『日本書紀』はいう。
『播磨国風土記』などに品太天皇、凡牟都和希王とあり、いずれも「ホムタ」または「ホムタワケ」と読むことからホムタ(ワケ)は生前からの名前だったかもしれない。
『日本書紀』は生まれたときに腕に肉が付いていて、その形が鞆(ほむた/弓用の防具)に似ていたことから名づけられたと書いている。
 父親の仲哀天皇は即位前に大中津比売命/大中姫という妃がおり、その子の香坂王/麛坂皇子と忍熊王/忍熊皇子が反乱を起こしたものの神功皇后に鎮圧されたことで誉田別は天皇に即位できた。本来の皇子は麛坂と忍熊で、神功皇后側がクーデターを起こしたという説もある。
 神功皇后は亡くなるまで摂政を続けたため、その間の誉田別はずっと皇太子のままだった。
 神功皇后が摂政69年に100歳で崩御すると、その翌年ようやく天皇として即位した。
『日本書紀』のこの記述を信じるなら、即位したのは70歳前後ということになる。
 ただ、応神天皇(誉田別)も即位41年まで生きているので(『日本書紀』では110歳、『古事記』は130歳)、在位期間が短いわけではない。
 即位2年に仲姫命/中日売命を皇后とした。この皇后との間の大鷦鷯尊/大雀命が後に仁徳天皇として即位する。
 応神天皇には多くの妃がおり、仲姫皇后の姉の高城入姫と妹の弟姫も妃としている。妃と子供の系譜について『日本書紀』と『古事記』はほぼ共通している。
『古事記』はこの三姉妹の父を品陀真若王としており、品陀真若王は五百木之入日子命と尾張連の祖の建伊那陀宿禰(タケイナダネ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)との間の子といっている。
 五百木之入日子は第12代景行天皇の子で、ヤマトタケル、成務天皇とは兄弟であり、この3人は皇太子という扱いだった。
 ヤマトタケルといえば尾張とは因縁浅からぬものがあるし、タケイナダネから見ると仁徳天皇は娘の方の孫に当たる。
 仲姫と応神の長女の荒田姫は、タケイナダネの妻の玉姫が大荒田命の娘であることと何かつながっているかもしれない。
 その他、応神天皇の妃としては宮主宅媛、小甂姫、息長真若中比売、糸媛、日向泉長媛、迦具漏比売、葛城野伊呂売、兄媛などがいる。
 子供は全部で26人(男11人女15人)いたと『古事記』は書いている。
 宮について『古事記』は軽島豊明宮(奈良県橿原市)とし、『日本書紀』には記載がない。
 神功皇后の宮は磐余若桜宮(奈良県桜井市)なので、そのまま動かなかったか。
 ただ、行宮として難波大隅宮(大阪府大阪市)があり、その地で没したともいうので、大隅宮が実質的な宮だった可能性はある。
 陵について『日本書紀』の雄略紀に蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵とあり、『古事記』は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にありとある。
 現在は大阪府曳野市にある惠我藻伏崗陵が宮内庁により治定されている。
 全長約420メートルの前方後円墳で、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次いで二番目の大きさだ。
 これとは別に大阪府堺市の御廟山古墳が応神天皇陵ではないかとする説もある。

 応神天皇は後に八幡神と同一視されて八幡神社で祀られるようになったことから知名度は高いものの、在位中に何をした天皇だったのかはほとんど知られていない。
 記紀から事跡を辿ってみると、女性を追いかけるか歌を詠うか酒を飲むかくらいしかしていない。あちらにいい女がいると聞くと駆けつけ、出先で気に入った女性を見つけると妃にしたといった感じで、そちら方面には余念がないものの、政治的にはこれといった功績を残していない。
 やったことといえば、いくつか池を作ったことと、渡来人を大勢迎え入れたことくらいだ。少なくとも記紀の作者にはそういう天皇という認識だったのだろう。
 子の仁徳天皇陵とともに巨大古墳を築かれたのは権力の大きさゆえではなく、渡来人によって高度な土木技術が持ち込まれたことで実現したものだろう。渡来人が多数流入した時期と古墳が巨大化した時期が重なることは偶然ではない。それらが難波(大阪)に築かれたのも、瀬戸内海から大和に入ってくる渡来人に対するアピールではなかっただろうか。陵が難波にあるからといってそこに宮があったとは限らない。
 在位中に起こった事件としては、武内宿禰濡れ衣事件というのがある。
 弟の甘美内宿禰が武内宿禰が筑紫の勢力や新羅、百済などの協力で天下を奪おうと企んでいると応神天皇に嘘を吹き込み、それを真に受けた応神天皇は武内宿禰を殺そうとしたというものだ。
 壱岐の真根子が身代わりになって命を落とし、武内宿禰は無実を訴えるも、応神天皇は判断がつかなかったので武内宿禰と甘美内宿禰を戦わせることにした。
 結局、武内宿禰が勝ったものの、そんな判断もできないような天皇だったと『日本書紀』の作者は暗に言っている。
 もうひとつ印象的な出来事がある。14歳のとき武内宿禰に連れられて角鹿(敦賀)の笥飯大神(氣比神宮)を参ったとき、去来紗別尊と名を交換したというものだ(武内宿禰が誉田別の本当の父親という説もある)。
 それが本当であれば、誉田別は交換後の名前で、本来は去来紗別だったということになる。
 応神は生前中、お気に入りの菟道稚郎子を皇太子とし、兄の大鷦鷯尊を太子の補佐役とした。
 しかし、応神崩御後に大山守命がそれを不服として反乱を起こし、それは鎮圧されたものの、菟道稚郎子が即位を辞退して自殺し、最終的には大鷦鷯尊が天皇として即位することになった(仁徳天皇)。
 この後の天皇は仁徳の子の履中などが継ぐも、第25代武烈天皇に男子がいなかったことから、越国にいた応神の五世孫の継体が第26代天皇として継ぐことになる。
 このあたりの経緯についてはいろいろ憶測を呼んでいるのだけど、応神や神功皇后とはゆかりの深い越国から迎えられたということや后が尾張の目子媛だったことなどを考えると、表には出せない複雑な事情があったのだろう。
 この継体の血筋が今上天皇まで続いているということになっている。

 全国の八幡社の総社とされる宇佐神宮(大分県宇佐市)の社伝によると、第29代欽明天皇時代(570年頃)、宇佐の地に自分は誉田天皇で八幡だと名乗る神が現れ託宣を下したといい、それが宇佐八幡の創建につながったとしている。
 もともと八幡は「やはた」と読み、秦氏などの渡来人が祀る神だったという説がある。
 奈良の都に東大寺の大仏を建てる際、宇佐から上京した八幡神が大仏建造に協力したということで宇佐八幡は鎮護国家、仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を与えられた。
 奈良時代もしくはそれ以前から神仏習合していたようで、八幡神イコール誉田別天皇ととなっていったのは奈良時代から平安時代にかけてのようだ。『東大寺要録』などにも八幡は誉田別天皇とある。
 八幡という字は奈良時代初期に成立した『続日本紀』(797年)が初出とされる。
 平安後期から鎌倉時代にかけて武家が八幡を守護神としたことで信仰が広がり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が幕府守護神としたのが鶴岡八幡宮だったことから、全国で八幡社が多く建てられていった。
 一方で応神天皇は皇祖ということで、宇佐八幡や石清水八幡宮が皇室の崇敬を受けることになる。
 江戸時代以降は農耕神という性格も併せ持つようになり、明治の神仏分離令で八幡大菩薩の神号は禁止されたものの、現代において日本で一番多い神社が八幡社となっている。一説では神社の半分は八幡社だともいわれる。
 宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮の他、筥崎宮も三大八幡と呼ばれることがある。
 名古屋にも当然八幡社はけっこうあるのだけど、それほど多い印象はない。はっきり数えたことはないのだけど、50社くらいだろうか。700社以上ある中の50社なら1割にも満たない。
 オススメ60社の中に、若宮八幡社(栄)御器所八幡宮田光八幡社八幡社(児子社)植田八幡宮八幡社(牛立)城山八幡宮を入れている。

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