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秋葉社(前熊村)

秋葉の生き残り

読み方あきば-しゃ(まえくま)
所在地長久手市前熊根ノ上8番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセスリニモ「公園西駅」から徒歩約25分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他
神紋
オススメ度
ブログ記事前熊の秋葉社を参拝したのは初めて

秋葉はこれだけ

 江戸時代の前熊村にあった神社の中で、多度社以外に生き残った唯一の神社がこの秋葉社だ。
 かつては各シマに秋葉と天王が祀られていたそうだけど、天王社(津嶋社)も多度社に合祀されて残っていない。
 どうしてここの秋葉社が残ったのかは分からないのだけど、秋葉も一つくらいは必要だろうということだっただろうか。

 創建年や経緯など、詳しいことは伝わっていない。
 江戸時代の書の中で『尾張徇行記』(1822年)だけが秋葉について触れている。

天王祠境内五反庚申堂内二反共前々除、外ニ秋葉祠是ハ前熊寺掌レリ

『尾張徇行記』

 秋葉祠を前熊寺が管理しているといっているのだけど、この秋葉祠が今残っている秋葉社のことなのかどうか、判断がつかない。
 というのも、今ある場所は昌隆寺のすぐ目の前で、前熊寺はちょっと離れているからだ。
 距離にすると300メートルほどなのだけど、かつては各シマに秋葉が祀られていたという話からすると、別の秋葉の可能性もあるのではないか。
 あるいは、江戸時代後期にはすでに秋葉祠は現存する今の一社だけになっていただろうか。
 前熊寺が管理しているというなら、そもそも前熊寺がここに祀ったということかもしれない。

 前熊寺や昌隆寺については多度社(前熊村)のページに書いたので、よかったらそちらをお読みください。

現在の秋葉社は

 現在は215号線沿いにあって、秋葉社の小さな社よりもお堂の方が目に付く。
 これは昌隆寺のすぐ東にあった行者堂をここに移したものだ。
 目立つといえば境内地にあるしだれ桜だ。春に通りかかるときれいなしだれ桜の花を見ることができる。

『長久手町史』(昭和56年)は、秋葉社と行者堂の他に、庚申塔と山ノ神祠があると書いている。
 これは今も変わっていないのではないかと思う。
 秋葉社の灯籠には文化4年(1807年)の銘がある。
 山神祠もどこかから移してきたものだろうけど、かつて前熊寺田にあった山神は多度社に合祀されているので、それとは別のものだろう。

 大峰山(おおみねさん)は奈良県南部にある山上ヶ岳(1,719 m)のことなのだけど、広くは金峰山(きんぷせん)とも呼んでいる。
 より詳しくいうと、青根ヶ峰から南を”大峯”、それより北を”吉野”といっている。千本桜で有名なあの吉野だ。
 いずれにしても修験道の聖地で、飛鳥時代の終わりに役小角(えんのおづぬ)が開いたとされるのだけど、実際はもっとずっと古くからの信仰があった。
 前熊寺の行者堂は昌隆寺が建てたのか、村民が建てたのかは分からない。
 大峯山に登った村人(たち)が建てた可能性もある。
 長久手という土地はちょっと変わっていて、禅寺が多かったり密教寺院があったりと、信仰心が強い土地柄であり、進歩的な人が多かったような印象を受ける。
 隣接する名古屋東部とも違うし、尾張旭市とも違っている。

秋葉周辺の経緯と今

 今昔マップを年代順に見ていくと、このあたりがどのように変化していったのかが分かる。
 前熊村で一番民家が集まっていたのはここより西、観山寺(かんざんじ)がある西脇だったようだ。
 215号線から少し南に入った観山寺の前の通りが旧道で、今も往時の名残がある。
 観山寺は明治の初めに村人が始めた尼寺が元になっていて、昭和17年(1942年)に今の名に改められた。

 215号線の北は昔も今も水田地帯で、215号線の南は長らく手つかずの丘陵地帯だったのを、1980年代に区画整理して宅地化していった。
 昭和56年(1981年)に長久手小学校の分校として長久手東小学校がここに開校しているので、その頃までに人口が増えたようだ。
 2005年の愛地球博のときはこのへんも賑やかだった。
 215号線沿いの店や民家が来訪者用の貸し駐車場をやっていたためだ。あの半年間で思いがけず儲けた人もいただろうと思う。
 今となってはあれは夢だったのかと思うほど跡形もなく、秋葉社は変わらずここにある。

 地元の住民でも秋葉や行者堂を意識して暮らしている人は少ないんじゃないかと思う。
 横を車で通り過ぎるだけの人ならなおさらだ。ここにそんなものがあることすら気づいていないかもしれない。
 せめて前を通るときは心の中で挨拶してあげるといい。
 通りすがり拝でも、そこに意識を向けることが大事だから。


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