どうして多度社だったのだろう
読み方 | たど-しゃ(まえくま) |
所在地 | 長久手市前熊志水108-1 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧村社・十一等級 |
祭神 | 天津彦根命(アマツヒコネ) 日本武命(ヤマトタケル) 武御名方命(タケミナカタ) 須佐之男命(スサノオ) |
アクセス | リニモ「公園西駅」から徒歩約30分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月10日前後の日曜日 特殊神事 おまんと(警固祭)豊年の年に行われる 天王まつり 7月16日に近い日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 長久手前熊の多度神社は本当に多度神社だったのか 長久手前熊の多度社再訪 |
名古屋にはない多度社
ちょっとというかかなり意外なのだけど、名古屋市内に多度系の神社は一社もない。かつては存在したのかもしれないけど、現存はしていない。
多度といえば、三重県桑名市の多度山にある多度大社(公式サイト)がよく知られている。
『延喜式』神名帳(927年)では名神大社という扱いで、北伊勢の総本社でもあり、伊勢の神宮(公式サイト)との関係も深い。
そんな多度信仰が尾張に伝わらなかったとは思えず、多度社がほとんどないのは謎といえる。
しかし、名古屋にはない多度社が周辺部にはある。尾張旭市の新居に一社、ここ長久手市の前熊に一社、瀬戸市の広久手にある一社がそれだ。
この不思議な分布をどう考えればいいのだろう?
江戸時代の書では
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
創建は明かではない。天正年中の長久寺合戦(ママ)により右文章(ママ)を失う。
『愛知縣神社名鑑』
明治5年7月28日村社に列格する。
大正2年1月5日字寺田、八劔社、字橋之本、津島社を本社に合祀した。
誤字はともかくとして、1584年の長久手合戦で記録などを失ったということはそれ以前にすでにあったということだ。
明治ではなく大正2年に八劔社と津島社を合祀したというのもちょっと引っ掛かる点ではある。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の前熊村を見るとこうなっている。
前熊村
家数 弐拾五軒
人数 弐百拾四人
馬 三疋禅宗 岩作村安昌寺末寺 久応山昌隆寺 備前検除
同宗 藤嶋村龍谷寺末寺 天申山前熊寺 寺内年貢地社 四ヶ所 内 権現 明神 山ノ神 諏訪明神
『寛文村々覚書』
社内壱町四反七畝歩 前々除
当村祢宜 喜大夫持分
ここでいう”権現”が多度社のことで、”明神”は八剱社のことだ。
他に山神と諏訪社(諏訪明神)があったことが分かる。
すべて前々除(まえまえよけ)になっているので1608年の備前検地以前にあったということだ。
ここでは漏れているのだけど、後に津島社となる天王祠もあったようだ。
『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。
社四ヶ所、覚書ニ、権現・明神・山神・諏訪明神社内一町四反七畝余前々除
祠官須賀喜太夫書上ニ多度権現祠、摂社神明山神境内三反前々除諏訪明神祠境内一畝、山神祠境内二反十六歩、八剣大明神祠境内九畝十一歩共前々除、鎮座の年暦ハ不知
天王祠境内五反庚申堂内二反共前々除、外ニ秋葉祠是ハ前熊寺掌レリ
『尾張徇行記』
ここで天王祠が出てきて前々除になっているので、これも江戸時代前からあったことになる。
前熊寺が管理する秋葉社もあった。
多度権現に関しては、摂社として神明と山神があるといっている。
これらいずれも鎮座の年暦は分からないとしているので、どれも古い神社と推測できる。
『尾張志』(1844年)も神社の顔ぶれは同じで、少し補足情報がある。
多度ノ社 天津彦根尊を祭る 末社に神明社山神社あり氏神也
八劔ノ社 山ノ神ノ社 以上二社氏神より東南の方にあり
諏訪ノ社 氏神より南の方にあり
天王ノ社 天申山前熊寺社の事を掌る以上前熊村にあり
『尾張志』
ここから新たに分かるのは、多度社を氏神としていることと、それぞれの神社の位置関係だ。
あと、天王社も前熊寺が管理していたようだ。
補足情報
『長久手町史』(昭和56年)を見ると、かつて前熊村のどこにどの神社があったのかを知ることができる。
八剱神社は字寺田19番地に、諏訪神社は字前山12番地、山神は字原山62番地、秋葉社は字根之上28番地、津嶋社は字橋之本14番地にあった。
『愛知縣神社名鑑』との食い違いは、八劔神社は明治43年に多度社に合祀されたとしている点だ。
天王社(津嶋社)は大正2年に多度社に合祀されたとする。
興味深い情報として、前熊村には氏神が二社あって、上の切は八劔社、下の切は多度社がそれぞれの氏神だったというものだ。
これは何かありそうだぞと思わせる。
八剱社があった寺田は、多度社から見て1キロちょっと南東、サンコー鞄の敷地内に当たる。
不思議なのは、寺田には集落がなかったことだ。
今昔マップを見ると分かるのだけど、南に広がる丘陵地帯の麓で、周辺に家は建っていない。
この場所に神社があってもいいのだけど、この神社を氏神とした理由がよく分からない。
下の切が北で上の切が南の集落なのだろうけど、距離だけでいっても上の切の集落からは南の八劔社より北にある多度社の方が近い。
考えられるとしたら、下の切と上の切では住んでいた人たちが違う系統の人たちだったということか。
八劔社は熱田の尾張氏系だろうし、多度社は伊勢に近しい人たちだったとするのは短絡的すぎるにしても、前熊村には少なくとも二つの氏族集団がいて、それぞれ別の神を祀っていたという推測はできそうだ。
じゃあ、多度社を祀る集団ってどんな人たちだろう、ということだ。
多度社の天津彦根とは何者か?
多度社で天津彦根を祀る理由については尾張旭市の多度神社(新居)のところで書いたので、ここでは繰り返さない。
その考察の中で尾張との関係が少し見えたものの、その正体はよく分からなかった。
天津彦根の名前を分解すれば、天の彦根となる。”根の彦”といった方がいいかもしれない。
たぶん、この”根”が鍵を握っていて、この意味が分かれば天津彦根についても分かるのだと思う。
根の付く地名は全国にあるのだけど、愛知県は特に多い。
名古屋でいうと高根、大根、吉根(きっこ)、宮根、大曽根、長根、松ヶ根など、挙げるとキリがない。
長久手にも、杁ヶ根、仏ヶ根、丸根、中根原、根ノ上、根の神、根嶽など、たくさんある。
もちろんすべてが同じ由来ではないのだけど、ここは根の国の一つだったといえるのではないか。スサノオが行くといったあの根国(根之堅洲國)だ。
沖縄で根神(ニーガン)というと、旧家(根屋)から出た神女のことを指す。
イワサク・ネサクの根析神(根裂神)やアジスキの阿治志貴高日子根神(味耜高彦根)なども何か関係しているかもしれない。
『新撰姓氏録』(815年)には天津彦根の後裔とされる氏族が多く載っていることから、天津彦根を祖とする一族がかなりいたと推測できる。
前熊にもその一族がいて天津彦根を祀った可能性はあるのだけど、個人的な感触としてそういうことではない気がしている。
前熊村の寺について
前熊村の寺について少し補足しておくと、多度社の170メートルほど南に前熊寺(”ぜんのうじ”と読ませているのだけど昔からだろうか)が、440メートルほど西南に昌隆寺がある。
それぞれの寺について『尾張徇行記』は以下のように書いている。
昌隆寺 当寺書上ニ、境内一反三畝前々除、此寺ハ慶長五庚子岩作村安昌寺前住明岩和尚創建ナリ
前熊寺 当寺書上ニ境内三畝年貢地、此寺ハ寛永十四丁巳年満嶺和尚草創シ、法地ノ再興ハ宝暦七丁丑年太随和尚ナリ
『尾張徇行記』
昌隆寺の方が少し古く、慶長5年(1600年)に、岩作村の安昌寺の住職だった明岩和尚が創建したといっている。
前熊寺は寛永14年(1634年)に満嶺和尚が草創して、宝暦7年(1757年)に太随和尚が再興したという。
昌隆寺が前々除なのに対して前熊寺は年貢地になっている。
この話とは別伝承として、前熊寺は天文5年(1536年)に郷士の福岡太郎右衛門が両親の菩提を弔うために創建したという話もある。
当初は前熊山和合寺といっていたものを永禄5年(1562年)に今の天申山前熊寺と改めたともいうので、こちらの方が信用できそうだ。
隣村の大草村の大草城を築城した人物として挙がる福岡新助が同じ福岡姓なので関係があるのだろう。
前熊村の様子と変遷
前熊村の村名由来について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこんなふうに書いている。
熊村(くまの) 前熊北熊の二村あり
【瀧川弘美曰】舊名を熊針村(波濁音)といふ三河國古繪圖に見へたり
『尾張国地名考』
【正生考】熊は填字にて隈の字なるべし久萬は曲りくねるをいふなり
【山中寛紀曰】前熊村は殊に鍵の手に曲りたる村なり
旧名が熊針(くまばり)だったというのは面白い説だけど、そういった話は他では聞かない。
熊は”隈”で曲がりくねっているのが由来という津田正生の説には同意しない。
近世の人間の感覚は意外に”新しく”て、中世以降の延長線上にいるので地名の由来を地形に求めがちなのだけど、古代から続く地名というのは、こういった地形由来ではないものが多い。
前熊、北熊があるというのはその南に熊があったはずで、熊が曲がりくねった地形とも思えない。
前熊村の村絵図は寛政5年(1793年)のものが残っている。
今はない香流川の支流がいくつあったようで、この川に沿った道沿いに民家が並んでいたようだ。
多度社があるのは集落から外れた東北で、林に囲まれたように描かれている。
香流川と神明川が合流する少し手前に位置している。
ここで川が氾濫すると南西に広がる田んぼに多大な影響が出ることから、この場所に水神を祀ったというのは考えられることだ。
多度社というと雨乞いの神とされるのだけど、水全般をつかさどると考えられていただろうか。
多度社の少し南に前熊寺と天王が書かれている。
集落の東は丘陵地で、その裾野あたりに山之神と大明神がある。
村の中央やや西寄り、神明川の南に諏訪明神と昌隆寺が書かれている。
これらはいずれも多度社に合祀されて現在は残っていない。
弘化4年(1847年)の絵図では”砂入”が増えている。香流が氾濫して荒れ地になったということで、申し出るとこの場所分の年貢は免除になる。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く村の様子が分かる。
集落の中心は多度社や前熊寺があるあたりよりだいぶ西の観山寺があるあたりだったようだ。現住所でいうと西脇がそれに当たる。
それ以外では215号線の元になった道沿いに民家が続いている感じだ。
観山寺の前から東の前熊中島公民館があるあたりに旧道の名残がある。
215号線の北から香流川にかけての平地が田んぼ地帯で、このあたりの田んぼは今も残っている。
地図は飛んで、1968-1973年、旧道を整備して215号線を通している。
集落の中心を南北に貫く道もできた。
民家はそれほど増えていない様子だけど、どうだっただろう。
1970年代後半に区画整理された以外はさほど変わっていない。
長久手小学校の分校として長久手東小学校が開校したのが昭和56年(1981年)だから、この頃になると民家も増えていったのだろう。
鳥居と山車のこと
ここ多度社の境内はいびつな格好をしていて、南入口も不自然な道筋になっている。
すぐ南に児童福祉センターが建っているためなのだけど、仕切りのフェンスもあって南鳥居を引いた構図では撮れない。
この鳥居がすごくいい鳥居なのでもどかしい。
江戸時代前期の1661年(寛文元年)に制作されたもので、花崗岩造の明神鳥居だ。
見るからに古めかしくて風格がある。
高さは3メートルちょっとと少し低いのは江戸時代人の身長が今より低かったこともあるだろうか。
この鳥居は一見の価値ありとしておきます。
毎年7月16日に近い日曜日に行われる天王まつりでは山車が曳き回される。
この天王まつりは戦国時代の1562年(永禄5年)頃から始まったというからなかなか古い。
この山車は長久手に現存する唯一のもので、文化年間(1804-1818年)に名古屋の出来町から譲り受けたものという。
名古屋城下の出来町は天王が大流行した地区で、山車もたくさん持っていたので、この話はうなづける。
ここも神明か
長久手地区の古い神社はどこかの時点で神明が被ってきている。
北熊の神明社だけでなく、岩作の石作神社も長らく神明と呼ばれていたし、景行天皇社も神明と白山を加えて三社明神などと称していた。
前熊の多度社もそうで、江戸時代は何故か多度社ではなく神明社や天照皇大神宮などと称していたようなのだ。
天和元年(1681年)の棟札では「奉建立伊勢神明天照皇大神宮」となっており、大正11年(1922年)の棟札でも「神明社」となっている。
明らかに長久手全体に神明の影響が及んでいる。伊勢の神宮の影響なのか、別の勢力によるものなのかはよく分からない。
このあたりに伊勢の神宮の荘園があったというような話は聞かない。
『長久手村誌』(昭和9年)によると、多度社の末社に、神明、山神、知立、鍬社、稲荷社があったようで、鍬社が伊勢の神宮外宮のものであれば、そちらの関係という可能性もあるだろうか。
境内の片隅に「八剣神社跡」の石碑があって、横に説明板が立っている。読んでみるとこんなことが書かれている。
もともと八剣神社は前熊寺田の小高い丘の上にあり、多度社より古いとされる。
大正2年に八剣神社は多度社に合祀されたものの、跡地は前熊が管理していた。
しかし、昭和34年の伊勢湾台風で多度社が大きな被害を受け、再建の費用を捻出するため八剣神社の跡地を売ることになった。
その後、有志による八剣神社跡の石碑が作られた。
その石碑は各地を転々とした後、最終的に多度社の境内に移された。
それが令和6年の1月だったようで、今年のことなのかと、ちょっとびっくりした。
よく分からない
以上、前熊の多度社について見てきたのだけど、結局のところこの神社ってどういう神社なのと訊かれてもよく分からないとしか答えようがない。
なんかピントが合わないというか、実像がぼやけている。
本当に最初から多度社だったのだろうか。
そうだったとしたら、どうして多度社だったのだろう。
一つの村に多度社と八剣社の二つの氏神があったというのが何かヒントになりそうではある。
古い時代に北熊から数戸が志水、橋の本あたりに移り住んだという話があって(『長久手町史』)、志水は多度社がある地区なので、この人たちが祀ったのが始まりとも考えられる。
ただ、古くというのがいつ頃のことをいっているのかが分からないので何ともいえない。
いずれにしても、前熊は北熊とあわせて見ていく必要がありそうなので、北熊の神明社のところであらためて考えることにしたい。