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御嶽神社(吉野町)

”みたけ”なのか?

読み方みたけ(?)-じんじゃ(よしのちょう)
所在地瀬戸市吉野町 地図
創建年不明
旧社格・等級等
祭神不明
アクセス愛知環状鉄道「山口駅」から徒歩約28分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他
神紋
オススメ度
ブログ記事

”おんたけ”ではない?

 瀬戸市内に点在する御嶽社の一つで、普通に”おんたけ-じんじゃ”と思ったら、ネット情報では”みたけ”となっていて、おやっ? と思った。
 この神社に関しては史料に情報がまったくなくてお手上げ状態で、”みたけ”の読みが正しいのかどうか判断ができない。
 とりあえず”みたけ”としておいて、間違っていたら訂正します。

 しかし、やはりここは”おんたけ”ではなく”みたけ”なのかもしれないと思う。
 というのも、神社があるのが”吉野町”だからだ。
 吉野といえば、奈良の吉野との関係が当然思い浮かぶ。
 御嶽神社は大きく分けると木曽御嶽山系の”おんたけ”神社と、吉野の金峯神社(きんぷじんじゃ/金峯山寺)系の”みたけ”神社とに分けられる。
 名古屋や周辺部では”みたけ”神社はほとんどないと思うのだけど(私は知らない)、金峰山系の神社があったとしてもおかしくはない。
 距離はだいぶ離れてはいるものの、瀬戸市の上半田川町には金峯神社がある。
 では、この地域の吉野はいつ頃からの地名なのかということになる。

吉野町について

 wikiで吉野町を検索すると、こんなことが書かれている。

昔、山田郡菱野村山口の吉田部落は、一面に葦が生い茂った谷間洞であったが、田が作られるようになって吉田洞と呼ばれていた。

町名設定の際、すでに瀬戸市内には吉田町があったことから、吉田に似た吉野町にしたといわれている。

 出典は「瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会 2020」となっているので、瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会のメンバーが調べたものだと思うのだけど、これは本当だろうか。
 吉田部落と呼ばれていたというのは本当だろうけど、町名をつけるときに吉田町はすでにあったから似ている吉野町にしたというのは、ちょっとあり得ないのではないか。
 吉田町は現在も西吉田町と東吉田町があるけど、別に南吉田町でもよかったし、吉田にこだわらないなら似ている名前にする必要もない。
 この話に引っ掛かったのは、やはり御嶽神社があって、それを”みたけ”と読むらしいということがあったからだ。
 私自身がそこにこだわってしまうと真相から遠ざかってしまうということもあるのだけど、とりあえずの前提として、この神社を”みたけ”神社として見ていくことにしようと思う。

”みたけ”信仰について

 奈良の吉野や金峯山寺にまつわる信仰については神様事典蔵王権現の項に書いたので、よかったらそちらをお読みください。
 飛鳥時代から奈良時代にかけての伝説の修行者、役行者(役小角)が金峯山(吉野山)に千日籠もって修行して蔵王権現を感得して祀ったのが始まりという。
 たぶんこれは本当ではないだろうけど、そういう話が生まれる下地はあったということだ。
 吉野山や吉野に対する信仰というのはもっとずっと古くて、縄文時代に遡るだろうと思う。
 何故、”よしの”なのか? ということだ。
 ”よ”も”し”も”四”だから、何かそのあたりも関係しているかもしれない。
 蔵王はもとも座王だっただろうから、その土地に坐す主ということで、特定の個人名ではない。

 名古屋市内に金峯神社はないものの、東区の片山神社は江戸時代まで蔵王権現社とも呼ばれていたので、まったくなかったわけではない。
 蔵王権現は後の時代に何故か安閑天皇(広国押武金日天皇)と習合するので、それでいうと天白区平針の中山神社が安閑天皇を祭神としているので関係がある。
 天白区平針という土地柄からしても、尾張氏とゆかりがある。
 安閑天皇は第26代継体天皇と尾張連草香(クサカ)の女(むすめ)の尾張目子媛(メコヒメ)との間の子なので、尾張との血縁的なつながりもある。
 金峯山信仰は神仏習合した仏教色の強い信仰で、明治の神仏分離令で神社と寺が分かれたときに失われた可能性はある。
 御嶽社を木曽御嶽山系の神社と決めつけているけど、実際は吉野の”みたけ”系の神社で、私が知らないだけということもあり得る。

”おんたけ”か”みたけ”か

 瀬戸の吉野町にある御嶽神社が”おんたけ”か”みたけ”かということだけど、普通に考えると”おんたけ”だろうとは思う.。
 ただ、ここが”吉野町”であることがやはり引っ掛かっている。そうでなければ”おんたけ”で疑うことはなかった。
 もともと”みたけ”だったのを、御嶽信仰が後から被せてきた可能性もある。
 関係者に訊けば何か話が聞けそうだけど、その話が事実とは限らない。
 深い歴史を秘めているかもしれないし、ただ江戸時代に村人が祀った祠かもしれない。
 考えて結論が出るものではないので、保留とするしかない。

現地での感触

 一番上の写真を見てもらうと、中央にある石碑に「御嶽神社」とあり、御嶽講のマークもあり、向かって右には二基の霊神碑が建っていて、一見して木曽御嶽講社系の神社ということが分かる。
 しかし、気になったのは向かって左の小さな社だ。
 これが本来の社だとすると、御嶽神社とは別の神を祀っている(いた)ということになるのではないか。
 それが”おんたけ”ではなく”みたけ”という可能性はある。
 木曽の御嶽山に対する信仰は古代に遡るものの、いわゆる御嶽教や御嶽信仰は江戸時代後期以降のものなのでわりと新しい。
 覚明(かくめい)が御嶽山の登山道を整備したのが1784年で(普寛が1794年)、各地に御嶽講社が作られたのはそれ以降ということになる。
 吉野町の集落がいつできたのかということも問題となるのだけど、江戸時代後期以降かというとどうなのだろうと思う。
 もっと古い時代から集落があったとしたら、山の上の方に祀った社は御嶽(おんたけ)ではないということになる。
 当然ながら蔵王権現信仰はもっとずっと古い。

行き方の説明

 この社もなかなかに行きがたい場所にあって、最初は入り口が分からずに断念して帰宅した後、衛星写真を見ても入り口はさっぱり不明で、二度目にようやく見つけたのだった。
 まず下の写真の五叉路に辿り着くところから(地図)。
 

 信号も交差点名もないので説明が難しいのだけど、左手に何かのお堂があって、それが目印になる。
 何の仏が安置されているのかは書いていなくて、卍のマークだけがある。
 写真は東を向いているところで、右斜め前の方(南)へ入っていく。

 先ほど入った先すぐに左に入っていく道があるので、ここで左に折れる。

 ほどなく舗装が途絶えて土の道になる。
 ここをしばらく進んでいくと右手に階段があって、そこが入り口になる。
 地図からこの入り口を見つけるのはとても困難で、関係者以外は近所の人でもこの社の存在を知らない人はいるんじゃないかと思う。

 歩道はわりとしっかり整備されていて歩きにくさはない。
 この山道を5分くらい登っていくと社のある広場に辿り着く。
 案内は一切ないので途中けっこう不安だった。

 瀬戸の神社巡りは山歩きだと再認識した。

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