これまたちょっと変わり種の神社だ。拝殿が妙に白い。 コンクリート造の社殿が白く塗られることはよくあることだけど、ここの場合は木造で白塗りになっている。その白色が発注ミスだったんじゃないくらい白いのだ。もともと神社側でこの白色を指定したのだろうか。 本殿はというと、通常の木造なのだけど、なんというかロッジみたいな建造物で覆っている。不思議で個性的だ。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に”熱田ノ社春田村にあり”と 『尾張徇行記』には”熱田社、大明神 境内三畝二十歩除地 棟札に寛永十年(1633年)の物を初め十数枚蔵す”と記るす。明治5年、村社に列格する」
江戸時代の書の春田村の神社はそれぞれ以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社弐ヶ所 内 神明 大明神 須成 三郎太夫持分 社内三畝弐拾歩 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「神明社 大明神社内三畝廿歩前々除」
『尾張志』(1844年) 「熱田ノ社 神明ノ社 二社春田村にあり」
江戸時代を通じて春田村には熱田社と神明社があり、熱田社は古くは大明神と呼ばれていたことが分かる。神明社(春田)(地図)も現存している。かつては若宮もあったようだけど、廃社になったか合祀されたかで今はない。 熱田社があるところの以前の住所は字大明神屋敷だった。今も西の河原に大明神屋敷の地名が残っている。 前々除とあるので、1608年の備前検地以前からあったということだ。創建については分からないのだけど、春田村の成立と同時期であればけっこう古いかもしれない。
春田村につて津田正生は『尾張国地名考』でこう書いている。 「春田村 はるだ-むら 正字治田(はるだ)の伝声なり 富田(とだ)墾田(はりだ)同時に開拓せし地也とぞ」 「はるた」ではなく「はるだ」と濁ることからも、あらたに開墾したという意味の墾田から来ている可能性は高い。 富田は戸田とも表記され、平安時代中期に富田荘(荘園)が成立した。 室町時代初期の1338年に作成された鎌倉円覚寺(web)所蔵の「富田荘絵図」(重要文化財)に春田里とあることから、平安時代か鎌倉時代には春田という表記になっていたようだ。 この絵図に神社は書かれていない。 現在は「はるた」と「はるだ」が混在している。駅や町名などは「はるた」となっている一方、春田小学校など一部では「はるだ」としている。 熱田社がある春田1丁目も「はるた」だけど、もともと春田村(はるだむら)にあった神社ということで、「はるだ」の熱田社としておく。 春田村は南の戸田村とほとんど隣接していたということは、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると分かる。境界線が分からないくらいだ。 江戸時代後期の戸田村について『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。 「此村落ハ戸田川ノ辺リニ農屋建ナラヒ、戸田村ト向ヒ合南北ヘ長キ村ナリ、上ノ切中ノ切下ノ切三区ニ分レリ、村立ハ大体ヨキ所ナリ、高ニ準シテハ戸口平均ノ所ナリ、其商屋五戸ホトアリ、紺屋モ一戸アリ、村中蟹江街道カカレリ、茶店アリ」
それにしてもこの神社はもともとヤマトタケルを祀る熱田社だったのだろうかという素朴な疑問がわく。大明神といっていた頃、村人はどんな神を祀っているという意識だったのか。 創祀が鎌倉時代あたりまでさかのぼるとすると、農村の氏神としてヤマトタケルを祀るというのはピンと来ない。熱田社にゆかりのある土地であれば、熱田大神を祀ったということは考えられるだろうけど。 神明社もけっこう古そうなのだけど、あちらも最初からアマテラスを祀る神明社ではなかったのではないか。 江戸時代後期には熱田社とされていたことは『尾張志』からも明らかだ。その頃すでに祭神はヤマトタケルとされていたかどうか。
春田地区の上ノ割、中ノ割、下ノ割の3つの地区の中で、熱田社は上ノ割の神社で、下ノ割に太神社があって、それぞれ「カグラ」が保管されている。中ノ割の神明社にあったカグラは空襲で焼失してしまったそうだ。 熱田社では10月の例祭のときにカグラを曳き回すという。
作成日 2017.6.23(最終更新日 2019.6.4)
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