江戸時代に開発された忠治新田にあることから忠次稲荷神社と称している。 創建年ならびに創建者は不明。開墾者の忠治が創建したといった話は伝わっていない。 神社本庁への登録はなく、『南区神社名鑑』も扱っていない。
忠治新田は、1727年(享保12年)に熱田神官の田島肥後が開発に着手するも失敗し、熱田田中町の井上忠治(忠二郎とも)が譲り受けて1735年(享保20年)に完成させた。 それなら井上忠治が神社を建てたと考えてよさそうなのにそれをしなかったのか。熱田の神官が始めたなら熱田神を祀ってもよかったのに熱田社でもない。 『南区の神社を巡る』によると、新田絵図には氏神も三昧(墓地)も載っていないとある。 しかしながら、『尾張志』(1844年)には「いなりの社 忠治新田にあり」と書かれていることから、少なくとも『尾張志』が完成した1844年にはあったと考えられる。 今昔マップを見ると明治期にはこの場所に神社はなく、昭和12年(1937年)の地図には現在地より少し西に鳥居のマークが描かれている。 大正7年(1918年)の地図に鳥居のマークがあるものもあるそうだ。 現在の道徳東部公園の隣に遷座したのは昭和28年(1953年)頃のことのようだ。 『南区の神社を巡る』は、『南区の歴史探訪』(池田陸介)の中から、忠次郎の子孫の忠治から土地を譲り受けた滝定助(たきさだすけ)と春日井丈右衛門(かすがいじょうえもん)が奉納した灯籠が神社に残ると書かれている部分を紹介している。 滝定助と春日井丈右衛門は名古屋銀行(現在の名古屋銀行とは別で東海銀行の前身のひとつ)の頭取だった人物たちだ。 灯籠の台座には当時の小作人60名の名前が刻まれている。
井上忠治(忠次郎)が建てたのでないとすれば、江戸時代に新田の村人たちが建てたということだろうか。だとしても、どのタイミングで建てたのかは分からない。『尾張志』にいなりの社とあるから、最初から稲荷社だったのだろう。 『尾張徇行記』(1822年)には忠治新田の項はあるものの、神社に関する記述はない。 『南区の歴史』(三渡俊一郎)は、「忠治神社」として「開拓者井上忠次郎を祀る」と書いている。 ちょっと信じられないのだけど、あり得ないことではないのか。 ただ、『尾張志』には「いなりの社」とあるから、やはりちょっと信じがたい。
それほど古い歴史のある土地ではないし、新田開発の経緯ははっきりしているのに神社についてはほとんど何も伝わっていないというのはどういうことだろう。そのあたりがどうも釈然としない。 江戸時代にできた土地の神社についてさえ伝わっていることは本当に少ないとあらためて思い知る。
作成日 2018.4.11(最終更新日 2019.8.26)
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