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ウカノミタマ《倉稲魂命》

ウカノミタマ《倉稲魂命》

『古事記』表記 宇迦之御魂神
『日本書紀』表記 倉稲魂命
別名 稲荷神、御倉神、専女(トウメ)、三狐神(ミケツ)
祭神名 宇迦之御魂命、倉稲魂神、他
系譜 (父)須佐之男命(『古事記』)または伊弉諾神(『日本書紀』)
(母)神大市比売(『古事記』)または伊弉冉神(『日本書紀』)
(兄)大年神(『古事記』)
属性 穀物、食物、稲倉
後裔 不明
祀られている神社(全国) 伏見稲荷大社(京都府京都市)をはじめとする全国の稲荷社、小津神社(滋賀県守山市)、小俣神社(三重県伊勢市)、など
祀られている神社(名古屋) 稲荷社(八百島)(港区)、稲荷社(義市稲荷)(東区)、生玉稲荷神社(守山区)、寶田社(八番)(熱田区)、七所社(岩塚)(中村区)、伊奴神社(西区)

 食物関係の女神?

 現在は稲荷神として知られるウカノミタマだけど、『古事記』、『日本書紀』では系譜の中に名前が出てくるだけで、その実体はよく分からない。
 中世に稲荷神と習合して以降、あれこれ性格付けがなされて話が広がっていった。
 食物に関連する女神と考えられたことから、大宜都比売(オオゲツヒメ)や豊受媛(トヨウケヒメ)などと同一視されることもある。

 

『古事記』と『日本書紀』で食い違う系譜

『古事記』は、素戔嗚尊(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から櫛名田比売(クシナダヒメ)を救ってめとった後、大山津見神(オオヤマツミ)の娘の神大市比売(カムオオイチヒメ)をめとり、大年神(オオトシ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が生まれたと書く。

『日本書紀』の第五段本文には登場せず、一書第六に出てくる。
 伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が大八洲国を生み、朝霧を吹き消した息から風の神の級長戸辺命(シナトベ/またの名を級長津彦命)が生まれ、イザナギが飢えたときに生まれたのが倉稲魂命(ウカノミタマ)としている。
 その後、海の神や山の神などが続けて生まれたと『日本書紀』は書いている。
 少し注意が必要なのは、ウカノミタマが生まれたのは”イザナギが飢えたとき”と言っている点だ。イザナミとではなく、イザナギ単独で生まれたとしていることは何らかの意図があると見るべきだ。
 性別についての記述はなく、婚姻についても触れられていないものの、古くから女神と考えられてきた。

 名前の”宇迦(ウカ)”は食物を意味する”ウケ”に通じるということで、稲を主とする食物の神というのが通説となっている。
 ただ、スサノオのところで食物を請われた大気津比売神(オオゲツヒメ)が鼻や口、尻などから食べ物を出して調理したところ汚いとスサノオの怒りを買って殺されてしまい、その死体から五穀が生まれたという説話があり、『古事記』ではウカノミタマとオオゲツヒメは別の神となっている。
『日本書紀』の表記の”倉稲魂命”から稲を収める倉を神聖視したことから生み出された神とも考えられている。

 

 稲荷神と習合した理由はよく分からない

 ウカノミタマと稲荷神が習合したのは中世以降のことで、文献上に表れるのは室町時代以降のことだ。
 稲荷神総本社の京都の伏見稲荷大社(web)は、京都伏見の稲荷山に対する信仰から始まったとされる。
『山城国風土記』逸文や社伝によると、秦伊侶具(はたのいろぐ)が奈良時代初期の711年に稲荷大神(伊禰奈利)を祀ったことを創祀としている。
『日本書紀』の欽明天皇記に山背国紀伊郡深草里に秦大津父(はたのおおつち)という人物の記事があり、
古くから山背(山城)地方に秦氏が勢力を持っていたことがうかがえる。
 一般的に秦氏は渡来系とされているのだけど、個人的には他の地域から移ってきた日本人の一族と考えている。
 渡来の人たちを一族に取り込む格好になったということならあっただろう。

 都が平安京に移ると稲荷信仰は広がりを見せ、796年に教王護国寺(東寺/web)が創建される際、秦氏が稲荷山から切り出した木材を提供したことで東寺が稲荷神を祀るようになり、やがて仏教のダキニ天(荼枳尼天)と習合した。 
 ダキニは白狐にまたがる天女の姿として描かれることが多く、そこから稲荷神の使いは狐とされた。

 習合ということでいうと、中世に信仰された宇賀神とも関係があるとされる。
 ”ウカ”と”ウガ”の音が似ているからというだけなのか、それ以外の理由があったのかはよく分からない。
 宇賀神の場合は食物というより金運アップの神としての性格が強い。
 宇賀神は、体はとぐろを巻いた蛇で、頭は女性だったり老婆だったりするものが多い。
 比叡山延暦寺(web)とも関係が深く、宇賀神は弁才天とも習合した。

 

 中世から近世にかけてのウカノミタマ

 鎌倉時代に伊勢で成立したとされる「神道五部書」の中のひとつ、『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』に内宮(web)で祀られる御倉神(みくらのかみ)はスサノオの子のウカノミタマだという記述がある。
 この神を専女(とうめ)または三狐神(みけつかみ)ともいうとしている。
 また、外宮においても、調御倉神(つきのみくらのかみ)をウカノミタマとし、ここではイザナギとイザナミが生んだとする。
 別名としてオオゲツヒメの名を挙げ、保食神(うけもちのかみ)ともする。
 更に神祇官で祀っている御膳神(みけつかみ)もウカノミタマのことで、神服機殿(かんはとりはたどの)で祀る神もそうだといっている。

 鎌倉時代までには、食物関係のウカの神はすべてウカノミタマのことだという認識が生まれていたようだ。
 それがいつで、どういうきっかけだったのかはよく分からない。
 『延喜式』神名帳(927年)に伏見神社三座はすべて名神大となっているけど、この頃はまだ稲荷神をウカノミタマとは考えていなかったのではないかと思う。
『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』がいう”三狐神”は”御膳神”の”ミケツ”の当て字だろうけど、稲荷神の使いといえば狐で、”三狐”としていることと稲荷神社の三座ということにも掛かっていると考えるべきか。
 稲荷神社(伏見稲荷大社)はいつから稲荷神=ウカノミタマとするようになったのか?
 少なくとも、鎌倉時代までの史料に稲荷神をウカノミタマとしたものはないとされる。
 ちなみに、三座のうちの他の二座の祭神は明確ではなく、明治になって猿田彦神(サタヒコ)と大宮能売大神(オオミヤノメ)とされた。

 室町時代に京都の吉田神社(web)の神官である吉田兼倶(かねとも)の『神名帳頭註』の中で伏見稲荷の祭神はイザナギとオオイチヒメの子のウカノミタマだという記述があることからすると、そもそも吉田家が言い出したことかもしれない。
 兼倶の孫の吉田兼右(かねみぎ)が書いた『二十二社註式』では、ウカノミタマは伏見稲荷の中社に祀られていて、別名をトヨウケヒメとしている。
 また、この神は大和国の広瀬大明神や伊勢の外宮と同じ神だともいっている。
 
 本居宣長は『古事記伝』の中で、『日本書紀』の神武天皇記に出てくる戦場で祭祀を行ったときの供物の干飯に厳稲魂女(いつのうかのめ)と名づけたとあるこの神もウカノミタマだと書いている。

 

 ウカノミタマを祀る神社

 稲荷社以外にウカノミタマを祭神として祀る神社としては、小津神社(滋賀県守山市/web)、小俣神社(三重県伊勢市/web)などがあるも、数は少ない。
 愛知県豊川市の豊川稲荷(妙厳寺/web)など、神社ではなく寺で稲荷神を祀っているところも少なくない。ただ、そこではウカノミタマとはせず、吒枳尼天(ダキニテン)を祀るところが多い。
 三大稲荷と称しているところは伏見稲荷の他に、最上稲荷(妙教寺/web)、祐徳稲荷神社(web)、笠間稲荷神社(web)などがある。

 名古屋では一部の稲荷社が保食神(ウケモチ)を祭神としている他はウカノミタマを祀っている。
 祭神名としては、倉稲魂神としているところと、宇迦之御魂命としているところがある。
 守山区の生玉稲荷神社、中区の稲荷神社(古渡稲荷神社)、緑区の豊藤稲荷神社などが名古屋を代表する稲荷社といえる。

 

 稲荷神は祟り神?

 稲荷神は祟り神という話がある。
 一度信仰したものを途中で投げ出したり、他の信仰に移ったりすると祟るということがまことしやかに語られる。
 実際にそういうことがあったのだろうけど、根拠としてはよく分からない。神祠である狐とも関係があるだろうか。
 現在、個人宅や企業で何らかの社を建てて神様を勧請して祀ろうと考えたとき、実際に勧請してくれるのが伏見稲荷くらいしかないので、必然的に稲荷神社になってしまいがちだ(伊勢の神宮も昔は勧請してくれたのだけど今はやっていない)。
 神札を神棚で祀る場合は神宮でも他の神社でもいいのだけど、神社となると他に選択肢はほとんどない。
 しかし、安易に稲荷神を勧請するのはおすすめできない。自分はちゃんとやっていても残された家族に迷惑がかかる場合がある。
 稲荷神社に参拝するときも、簡単に願い事はしない方がいいかもしれない。

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