旧住所の八坂町は、この八坂神社があることから来ていた。現在の町名は名西で、「めいせい」と読ませる。 ここは江戸時代に何村だったかというのがひとつ問題となる。押切村なのか、児玉村なのか、枇杷島村なのか、判断がつかないと悩んでいたら、どうやら栄村らしい。 自信は持てないのだけど、『尾張志』(1844年)の栄村の項にある「天王ノ社 境内に神明ノ社あり」というのが八坂神社のことではないかと思う。 『寛文村々覚書』(1670年頃)にも栄村の天王が載っているので、江戸時代前期にはすでにあったということだ。ただし除地ではなく年貢地となっていることからすると、江戸時代に入ってからの創建だろうか。
神社の由緒によると、1185年に平家の武将が現在地の100メートルほど北に住みついて、一ッ池と呼ばれる沼田の中に祠を建てて須佐之男を祀ったのが始まりという。 江戸時代に入って1610年頃、美濃路沿いが発展して店や家が建ち並ぶと、一緒に祀るようになり、1702年に現在地に遷されたとしている。 平安時代の末、もしくは鎌倉時代の初めに平家の武将が須佐之男を祀るかというとそれはやや疑問だ。もしその時期に本当に祀ったとすれば、牛頭天王だったのではないか。ただ、平家の武将と牛頭天王も結びつかない。「祇園精舎の鐘の声」で始まる『平家物語』が書かれるのは鎌倉時代中期以降のことだ。とすると、本当に最初から須佐之男を祀ったのだろうか。 八坂神社と改称したのは明治以降には違いないのだけど、津島社でも須佐之男社でもなく八坂神社としたということは京都の祇園社(八坂神社 web)から勧請したとも考えられる。 少し気になったのは、境内奥に「八阪神社」と彫られた社号標があることだ。兵庫県宝塚市や大阪府大阪市に八阪神社があるから、ひょっとするとそちらの関係ということもあり得るのか。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。古くより八坂町の産土神として崇敬あつく。元禄十五壬午年霜月吉日(1702)の棟札を社蔵する。明治5年、村社に列格し明治40年10月26日、指定社となる」 神社は美濃路沿いの北側にあり、南から入って参道を進むと東向きの前拝殿が行く手を遮る格好になっているので少し戸惑う。本殿や境内社も東向きで、少し違和感のある配置になっている。それには理由があって、こんな話が伝わっている。 元々は美濃路沿いに南向きに建っていたのが、新川の刑場に向かう罪人が前を通ると鳥居の前で落馬することが続いたため、神のさわりがあるのではないかということで社殿を東向きに変えたのだという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、この頃まではまだ旧美濃路沿いに家が建ち並んでいて様子が見てとれる。 賽銭箱がないのにも戸惑った。この規模の神社で賽銭箱を置いていないところはめったにない。 社がある区域を全体に囲んであり、社殿正面に鉄製の門があって鍵が掛かっている。そのため、奥の拝殿までも近づくことができない。 これほど守りを固めているということは過去に何か悪いことでも起きただろうか。なんとなく参拝者を拒絶しているようなところが感じられたのは気のせいか。
(追記)2018.12.17
賽銭箱が置かれていない理由を教えていただいた。 この神社の神様は子供の神様という言い伝えがあって、小学生までの子供が賽銭を拾うことができるという習わしから賽銭箱は置かれていないんだそうだ。最近では賽銭を拾う子供は少なくなったようだけど、5月の夏祭りの2日間は賽銭箱が置かれる他、大晦日の夜は子供たちがお賽銭を拾うために集まってくるのだとか。 他では聞いたことがない珍しい風習だ。
夏まつりは山車ではなく山笠提灯が出る。神社がここに移った元禄時代(1702年)から始まった祭りで、高さ20メートルの山笠に880個の提灯をぶら下げるという大がかりなものだ。 提灯の形は米を表し、米寿にあやかるということで880個にしているのだとか。 1814年に作られたものを平成18年まで使っていたというから、それは見てみたかった。現在のものは平成19年にあらたに作られたものだ。 祭礼の2日目は御神船流しも行われる。 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)はこんなふうに書いている。 「例祭は六月十四日なり、十五日夜には御葭船一艘を惣兵衛川に流し、下流の村々にては順次に之を拾ひて祭ること各々七日にして、竟に放流するを以て、古例とせり」
千種区にあった八坂社が上野天満宮に合祀されてなくなってしまった今、名古屋で八坂社を名乗るのはここだけになった。 今後も守っていってほしい。
作成日 2018.5.2(最終更新日 2019.9.9)
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