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スサノオ《素戔男尊》

スサノオ《素戔男尊》

『古事記』表記 建速須佐之男命・速須佐之男命・須佐之男命
『日本書紀』表記 素戔男尊・素戔嗚尊
別名 神須佐能袁命・須佐能乎命、他
祭神名 須佐之男命・素戔男尊・他
系譜 (父)伊弉諾神
(母)伊弉冉神
(妻)奇稲田姫(クシイナダヒメ)・神大市比売(カムオオイチヒメ)
(子)清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠(スガノユヤマヌシミナサルヒコヤシマノ)・大己貴神(オオナムチ)・他
属性 海原の神、他
後裔 大国主神、他
祀られている神社(全国) 素盞嗚神社(広島県福山市)、 八坂神社(京都府京都市)、津島神社(愛知県津島市)、氷川神社(埼玉県さいたま市)、広峯神社(兵庫県姫時期)、久武神社(島根県出雲市)、 須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)、日御碕神社(島根県出雲市)、など
祀られている神社(名古屋) 白龍神社(名駅南)(中村区)、富部神社(南区)、八幡社(牛立)、須佐之男社、素盞嗚神社、津島社、天王社など多数

スサノオについてあらためて復習してみる

 スサノオとは何かということを考える前に、まずはスサノオについての主だった情報を総ざらいしていこうと思う。
 記紀その他の史料は何を書いているか、どういう違いがあるかについて重点的に見ていく。
 記紀が語るスサノオの物語を章立てするなら、4つに分けることができる。
 1章は生誕、2章は天照大神(アマテラス)との誓約から岩戸隠れを経て葦原中国追放、3章は八岐大蛇退治、4章は大国主神との関係その他といった感じだ。
 なので、この項では時系列順に『古事記』と『日本書紀』がそれぞれ何を書いているかを確認しつつ、『先代旧事本紀』や『古語拾遺』なども参照していく形をとることにする。
 そういう読み方というか見方がスサノオの基本的なところを理解するのに適しているのではないかと思う。
 何度も書くけど、大事なのは『古事記』と『日本書紀』の内容をごちゃ混ぜにしないことだ。『古事記』が書いているけど『日本書紀』が書いていないことやその逆には必ず意味や意図がある。そこを読み取らないと重要なヒントを見落とすことになる。
 書いてあることよりも書かれていないことに真実が隠されている場合も少なくない。

 

『古事記』が語るスサノオ生誕話

 伊邪那岐命(イザナギ)は、迦具土神(カグツチ)を生んだときの火傷がもとで亡くなってしまった伊邪那美命(イザナミ)に会うため黄泉国へ行き、そこで仲違いをして別れて戻ってきて、こんなことを言った。
 吾はなんとも醜い穢(けが)れた国へ行っていた。禊(みそぎ)をして身体を洗い清めようと。
 そして、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に至り禊ぎ祓いをした。
 そのとき身につけていた衣類や杖から12柱の神が生まれたという。
 続いて川の流れに入って身体から八十禍津日神(ヤソマガツヒ)や神直毘神(カムナオビ)、底津綿津見神(ソコツワタツミ)や底筒之男命(ソコツツノオ)が生まれている。
 これに続くのがいわゆる三貴神と呼ばれる神で、左の目を洗った時に成った神が天照大御神(アマテラス)、右の目を洗った時に成った神が月読命(ツクヨミ)、鼻を洗った時に成った神が建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)だった。
 三柱の貴い子を得たと喜んだ伊邪那岐命は、天照大御神には高天原を、月読命には夜之食国(よるのおすくに)を、建速須佐之男命に海原(うなばら)を統治するよう事依(ことよ)さした。
 しかし、建速須佐之男命は国を治めることもせず泣いてばかりいるので青山は枯れ、川や海は乾いてしまった。
 伊邪那岐大御神は怒り、須佐之男命にどういつもりか問いただすと、亡き母の国(妣國)の根之堅洲国(ねのかたすくに)に行きたいというのでおまえはこの国にいてはいけないといい、追放されることになったのだった。

 考察は後回しにして同じ場面を『日本書紀』はどう書いているか読んでみる。

 

『日本書紀』での違い

 この部分における『日本書紀』本文と一書では内容に大きな違いがある。
 本文では伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が国生みをして山川草木の神を生んだあと、天下を治める神を生むとして日神の大日孁貴(オオヒルメノムチ/別伝では天照大神、天照大日孁尊)、月神(別伝では月弓尊、月夜見尊、月讀尊)が生まれ、この二柱は光り輝く神ということで高天原へ送られた。
 続いて生まれたのが蛭児(ヒルコ)なのだけど、3年経っても足が立たなかったので天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて流してしまった。
 その次に生まれたのが素戔嗚尊(スサノオ)だった。素戔嗚尊の属性や役割についてここでは書かれていない。
 素戔嗚尊は勇ましくて荒々しく残忍なところがあり、常に泣きわめいているので国中の人々が多く死に、青山を枯れさせもした。
 伊弉諾尊と伊弉冉尊の父母二神は、汝は道を外れたので宇宙に居場所はないといい、遠い根国へ行ってしまえと追放を決めた。
 これが『日本書紀』本文の内容で、『古事記』で建速須佐之男命は伊邪那岐命が禊ぎをしたときに成ったとしているのに対して(このときすでに伊邪那美命は黄泉国へ行っている)、伊弉諾尊と伊弉冉尊が共に生んだことになっている点に大きな違いがある。
 しかし、一書においてはまた別の話が語られている。

 一書第一は、伊弉諾尊が単独で天下を治めるための神を生んだとしており、白銅鏡(ますみのかがみ)を左手に持ったときに大日孁貴が、右手に持ったときに月弓尊(ツクユミ)が、首を回して後ろを向いたときに素戔嗚尊が生まれたといっている。
 素戔嗚尊については破壊することを好んだ(性好殘害)ため根国を治めることを命じたと書いている。
 一書第二は伊弉諾尊と伊奘冉尊が生んだことになっていて、やはり根国にやられてしまう。
 一書第六は軻遇突智と伊弉諾尊・伊奘冉尊の黄泉国の話なのだけど、ここでは黄泉から戻ってきた伊弉諾尊が禊ぎをしたときに天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三貴神が生まれたという話になっており、おそらく『古事記』と同じ伝えが元になっているのではないかと思う。
 本文との違いは蛭児が出てこないことだ。
 あと追記として、天照大神は高天原を、月読尊は青海原の潮流を、素戔嗚尊は天下を治めよと命じたと書いている。
 しかし、素戔嗚尊は髭も伸び放題で泣いてばかりいるので結局根国へ追放されてしまう。
 一書第十一では、天照大神と月夜見尊はともに高天原を治めよと命じられ、素戔嗚尊が青海原を治めよと命じられたことになっている。
 ここでは素戔嗚尊の根国追放の話には触れておらず、月夜見尊が誤って保食神(ウケモチ)を斬り殺したため天照大神が怒って絶交宣言を出し、昼と夜が別れた話が語られている。

 

『先代旧事本紀』と『古語拾遺』では

『先代旧事本紀』は『古事記』と『日本書紀』との合わせ技というか全部入りになっていて、伊奘諾尊・伊弉冉尊の神生みのところでも三貴神が生まれ、伊奘諾尊の禊ぎのところでもまた三貴神が生まれたことになっている。
 とにかく全部突っ込んでいておかしなことになっている。
 ちょっと面白いというか興味を引くのは、建速素戔烏尊は出雲国の熊野神宮と杵築神宮に坐すと書いていることだ。
 これはまた神社のところであらためて触れることにしたい。

『古語拾遺』は全体を通じて『日本書紀』に準じていることもあって、ここでも伊奘諾伊奘冉の二神夫婦が日神月神を生み、その後、素戔鳴神が生まれ、哭(な)いてばかりいて人民が死に、青山が枯れたので早く根国へ去ってしまえといったという話になっている。

 この後の話の展開なのだけど、素戔嗚尊はすぐに根国へ行ったわけではなく、姉の天照大神に挨拶するという名目で高天原を訪れ、そこで一悶着ある。これがよく知られる天津罪と岩戸隠れの話だ。

 

乱暴な嫌われ者とされたスサノオ

 まずは『古事記』を見ていくと、速須佐之男命は天照大御神に報告してから根之堅洲国に行くことにしようと天に参上すると山川はどよめき、国土は震え、その音を聞いた天照大御神は驚き、弟は善い心から来るのではない、私の国を奪おうとしているに違いないと思い、髪をほどいてみずらに結い(男装して)、左右の手に八尺(やさかに)の勾玉(まがたま)で作った玉飾り(八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠)を巻き、背中に千本矢の靫(ゆぎ)を背負い、と脇腹に五百本入る靫を付け、高い音が出る鞆(とも)を身につけ、弓を振り立て、地面を踏みしめて臨戦態勢を取った。
 それに対して速須佐之男命は、自分に邪心はないといい、根之堅洲国追放の経緯を語った。
 すると天照大御神は、どうやって心の潔白を信じればいいのかと速須佐之男命に問い、ではそれぞれ誓約(うけひ)をして子を生み(宇氣比而生子)ましょうと速須佐之男命は提案した。

 天安河(あめのやすかわ)を挟んで誓約をすることとなり、まずは天照大御神が建速須佐之男命が持っていた十拳剣(とつかつるぎ)をもらい受けて三つに打ち折り、天真名井(あめのまない)の水ですすいで噛み砕き、吐き出した息吹の霧から三柱の女神が成った。
 多紀理毘売命(タギリヒメ、またの名を奥津島比売命)、市寸島上比売命(イチキシマヒメ、またの名を狭依毘売命)、多岐都比売命(タギツヒメ)のいわゆる宗像三女神と呼ばれる神がそれだ。
 次に速須佐之男命が天照大御神が身につけていた勾玉(八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠)から正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、天之菩卑能命(アメノホヒ)、天津日子根命(アマツヒコネ)、活津日子根命(イクツヒコネ)、熊野久須毘命(クマノクスビ)の五柱が成った。
 これらをあわせて五男三女神と呼んでいる。

 この結果を受けて、速須佐之男命は自分の心は清らかだから女子が生まれたのだと天照大御神に対して勝利宣言のようなことを言っているのだけど、どうして女子ならいいのかという理由については語られていない。
 誓約(うけひ)というのはあらかじめこういう結果が出たらこうだということを決めておく占いのようなものとされている(本当は違うのだけど)。
 子供の頃、靴を飛ばして表なら晴れ、裏なら雨のような天気占いをしたことがある人もいると思うけど、あれのようなものだ。
 この場合、速須佐之男命が潔白なら女子が生まれるとあらかじめ決めてあったということなのだろうけど、それ以外にも女子であることの意味が何かあったのかもしれない。
 これで調子に乗った速須佐之男命は高天原で暴れ回る。天照大御神の作る田の畔(あぜ)を壊したり、灌漑用の溝を埋めたり新嘗の新穀を入れておく御殿に糞をしたりとやりたい放題した。
 しかし、天照大御神はそれをとがめず好きにさせると、速須佐之男命は助長して神に献上する機を織っていた機屋に天井から皮を剥いだ馬を放り投げ、驚いた機織女が死んでしまうという事件を起こす。
 これら速須佐之男命がやらかした一連のことを天津罪(あまつつみ)と称している。
 事ここに至ってついに天照大御神は恐れをなし、天石屋戸を閉じこもってしまった。

 この後、神々たちがあの手この手を使って天照大御神になんとか出てきてもらうことに成功し、天岩戸開きということになる。
 八百万の神々は相談して、速須佐之男命に罰を与えた上で高天原からの追放が決定する。
 この部分の言い回しが興味深くもあり解釈が難しくもある。
 原文はこうだ。

「負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐」

 一般的な現代語訳としては、多くの贖罪のための品を科して髭を切り、手足の爪を抜いて高天原から追放したというようになっているのだけど、その訳文は必ずしも原文に即していない。
 千位置戸とは何か。髭を切って手足の爪を抜くというのはどういう意味があるのか、神夜良比夜良比岐の”かむやらひやらひき”とはひと続きの言葉なのか、といったあたりの問いに対する答えになっていない。
 ニュアンスとしては伝わるけど本当のところはよく分からない。
 千位置戸を負わせるというのは何かを差し出させるということだろうけど、置戸は物なのか場なのかが分からない。
 髭を切るのは今でいう頭を丸めるとか、侍の髷(まげ)を落とすみたいなこととして、手足の爪を抜くのは拷問だ。
 神夜良比夜良比岐の神夜良比(かむやらひ)はたぶん慣用句で、島流しとか国外追放みたいなものの神様版といったところだろうか。
 いずれも他に用例がないのではっきりしたことは分からない。

 ここまで読んで、あれ? と疑問に思うのは、速須佐之男命って根之堅洲国へ行くんじゃなかったっけ? ということだ。
 罪を犯したことでその話が立ち消えになってしまったのか、この後、速須佐之男命は葦原中国へ降り立つことになる。
 根之堅洲国を母の国といっているのだけど、母が伊邪那美命だとすれば、それは死者の国(黄泉国)だ。
 罪を犯したのに死者の国ではなく国津神のいる葦原中国へ行くことになった理由や経緯についての説明はない。
 それから、次に差し込まれた話も唐突で違和感がある。
 高天原を追われた後だと思うのだけど、速須佐之男命が大気都比売神(オオゲツヒメ)に食べ物を乞うと大気都比売神は鼻や口や尻から様々な食べ物を取り出して調理して出した。
 すると食べ物を穢したと速須佐之男命は怒って大気都比売神を斬り殺してしまう。
 殺された大気都比売神からは蚕、稲種、小豆、麦、大豆が成り、神産巣日御祖命(カミムスヒノミオヤ)に取らせて種としたという。
『日本書紀』では一書の中で同じ話を別の登場人物として書いている。殺したのが月夜見尊、殺されたのが保食神、種を取りに行ったのが天熊人(アメノクマヒト)になっている。
 五穀の起源を語る話だけど、『古事記』は速須佐之男命にして『日本書紀』は月夜見尊にしたそれぞれの意図が分かりづらい。

 

『日本書紀』の該当部分は

 素戔鳴尊の誓約から天津罪、岩戸隠れを経て素戔鳴尊追放までは第六段と第七段の本文ならびに一書に書かれている。
 根国へ行く前に高天原の姉(天照大神)に会いたいと天に向かう素戔鳴尊と、それを武装して迎える天照大神という構図は『古事記』と共通している。
 素戔鳴尊が持っていた十拳剣から田心姫(タコリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)が生まれ、天照大神の八坂瓊之五百箇御統から正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、天穗日命(アメノホヒ)、天津彦根命(アマツヒコネ)、活津彦根命(イクツヒコネ)、熊野櫲樟日命(クマノクスビ)の五柱の男神が生まれたのも同じなので、この部分は共通の伝承が元になっているのだろう。

 第六段一書第一は少し違っていて、ここでは日神が男装して十拳剣、九拳剣、八拳剣を身につけて素戔鳴尊を待ち構え、日神がつけていた十拳剣から瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)が、九拳剣から湍津姫が、八拳剣から田心姫が生まれたとし、五百箇御統之瓊をつけていたのは素戔鳴尊の方で、それから五男神が生まれたといっている。
 誓約に先立って日神と素戔鳴尊は心が明浄でここ(高天原)を奪う気がないなら汝(素戔鳴尊)から男が生まれるだろう共同宣言をしており、結果として素戔鳴尊から男が生まれたので潔白が証明された(既得勝驗)という話になっている。
 天照大神ではなく日神としたことと、持ち物と男女が入れ替わっている理由が気になるところではある。

 第六段一書第二では、素戔鳴尊が天に昇ろうとしたとき羽明玉(ハアカルタマ)という神が現れて瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を渡し、素戔鳴尊はそれを天照大神に献上しようとするも天照大神は素戔鳴尊の真意を疑い、素直には受け取らなかった。
 そこで誓約をして、女が生まれたら邪心があり、男なら清い心だということにして(生女爲黑心 生男爲赤心)、天照大神が持っていた剣と素戔鳴尊の八坂瓊之曲玉を交換して行うことになった。
 その結果、八坂瓊之曲玉から三女神が生まれ、剣から五男神が生まれたのだけど、物々交換して剣は素戔鳴尊のものになっていたため、男が生まれたので素戔鳴尊が勝ったことになったようだ。
『古語拾遺』も出雲の玉作祖(タマツクリノオヤ)の櫛明玉命(クシアカルタマ)が素戔鳴神に瑞八坂瓊之曲玉(みずのやさかにのまがたま)を差し出したという話を書いているので、この一書は忌部氏の伝承が元になっているかもしれない。

 第六段の一書は第三までで、第三でも日神が持っていた十拳剣から三女神が生まれ、素戔鳴尊の五百箇統之瓊から五男神が生まれたので素戔鳴尊の勝ちとなったという話になっている。
 ちょっとした違いとしては、誓約のときに日神が、男子が生まれたら天原を治めさせようと言っている点だ。
 五男神の長男に当たるのが勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミ)で、本来天降るはずだったのがこの勝速日天忍穗耳尊だった。
 二男の天穗日命は国譲りの先発隊として遣いに出された神として登場する。

 

どうしてスサノオは葦原中国へ行ったのか?

 ここであらためて思い返してみると、『古事記』において速須佐之男命は、妣国(ははのくに)の根之堅州国へ行きたいと言って泣いていたことを思い出す。
 あれ? と思った人もいるだろう。『古事記』では死んだ伊邪那美命のいる黄泉国へ行って戻ってきた後、伊邪那岐命が禊ぎをして成ったのが速須佐之男命だった。
 つまり、速須佐之男命の母は伊邪那美命ではないのではないか? ということだ。
 伊邪那美命がいるのは黄泉国であり、根之堅州国ではない。速須佐之男命も死ぬとは言っていないので死者の国へ行くわけではない。
 速須佐之男命は伊邪那美命に会いたいと泣いていたとなんとなく解釈しているけど、それは違うのではないか。
 だとすると、速須佐之男命の実の母は誰で、根之堅州国とはどこかということになる。
 あるいは根之堅州国は葦原中国のどこかなのか?
 根国の”根”は何を示しているのか。概念的なものなのか、具体的な地名に類するものなのか。
 根が広い意味での葦原中国で、堅州国が具体的な土地を表しているとも考えられる。
 実はこの後、大己貴神の話のときにもう一度、根堅州国が出てくる。大己貴神が兄神たちに追われているとき、大屋毘古神(オオヤビコ)が大己貴神を逃がしてやって、須佐之男命がいる根堅州国に行けばいい考えを授けてくれるだろうと助言した場面だ。
 だとすると、須佐之男命は最終的に根堅州国に行くことができたということになり、それはやはり死者の国ということになるのだろうか。
 では、根堅州国と黄泉国はどういう関係になるのだろう。
 そのあたりを頭に入れつつ、葦原中国での出来事がどう書かれているか、まずは『古事記』から見ていくことにしよう。

 

葦原中国で人が変わったスサノオ

 天を追われてやってきたのは、出雲の肥河(ひのかわ)の上流の鳥髪(とりかみ)という地だったと『古事記』はいう。
 一般的には鳥髪を島根県と鳥取県の境にある船通山とし、肥河を斐伊川とする。
 ただし、いつも書くように、出雲といっても出雲地方とは限らないので、そういうふうに限定して考えない方がいい。
 そもそも『出雲国風土記』が記紀が語る出雲神話を一切書いていないのだから、それらは出雲地方に伝わる話ではないと考えるのが自然だ。
 川に箸が流れてきたのを見た須佐之男命は上流に人がいることを知り、老夫と老女のふたりと、その間で泣いている童女を見つけ、何者かと訊ねる。
 すると老夫は、自分は国津神で、大山津見神(オオヤマツミ)の子の足名椎(アシナヅチ)で、妻は手名椎(テナヅチ)、女(娘)の名は櫛名田比売(クシナダヒメ)ですと答えた。
 続けて、どうして泣いているの問うと、もともと娘が8人いたのに高志(こし)の八俣遠呂智(やまたのおろち)が毎年やってきて食べてしまいました(毎年來喫)。今がちょうどそのときなので泣いていたのですという。
 それはどんな形をしているのと問うと、目は赤加賀智(あかかがち)のように赤く、体はひとつで、頭が八つ、尻尾が八つあり、身体は八つの谷と峰に及ぶほどで檜や杉が生え、腹はいつも血が滲んでいるようですと説明した。赤加賀智はホオズキ(酸漿/鬼灯)のこととされる。
 それを聞いた速須佐之男命は足名椎に、汝の女(娘)を吾に奉らないかと持ちかける。
 対して足名椎は恐れ多いですがあなたの名前さえ知りませんとやんわり拒絶の姿勢を示す。それはそうだろう、いきなり現れたまったく知らない人に最後に残った娘をすんなり預けられるはずもない。
 そこで速須佐之男命が出したのが天照大御神の名前と天からやってきた出自だった。
「吾者天照大御神之伊呂勢者也 故今 自天降坐也」
 伊呂勢(いろせ)は母親が同じ兄弟という意味とされるので、自分は天照大御神の兄弟で天から降ってきたのだと速須佐之男命は言ったということだ。つまり、自分の名は名乗らず、天照大御神の兄弟であることを前面に出している。
 それならば恐れ多くも奉りましょうと老夫(足名椎)は承諾しているので、その答えは効いたことになる。すでに葦原中国にも天照大御神の名は知名度と説得力を持っていたということか。
 それにしても速須佐之男命はどうして天照大御神と同じ母の兄弟である伊呂勢を強調したのだろう。同父兄弟をどう表すのかは知らないのだけど、普通に考えると天照大御神の伊呂勢というよりも伊邪那岐命の子を名乗った方が強そうなのにそうしていない。
 そもそも『古事記』でいうと、天照大御神も速須佐之男命も伊邪那岐命の禊ぎから成ったとしていて母ははっきりしない。そのとき伊邪那美命は死んで黄泉国にいるから母ではないのではないか。
 速須佐之男命は妣国(ははのくに)の根堅州国に行きたいといって泣いていたといっていて、ここでもやはり母親問題というのがある。
『日本書紀』本文は伊弉諾尊と伊弉冉尊がともに三貴神を生んだことになっていて、妣は亡き母という意味で使われているのだろうから亡くなった伊弉冉尊(伊邪那美命)としてもいいのだけど、なんとなくしっくりこないところがある。
 天皇家が祖神を天照大神として伊弉諾尊・伊弉冉尊としなかったことを考えても、天照大神と伊弉諾尊・伊弉冉尊とは親子関係ではないのではないかとさえ思える。

 速須佐之男命の八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)退治についてはよく知られているので細かい説明は不要だろう。
 頭が八つあるということで酒を入れる桶を八つ作って八つの門にそれぞれ置き、それを飲んだ八俣遠呂智が眠ってしまったところを十拳剣で切り刻んだという話だ。
 八俣遠呂智の正体については諸説あるのだけど、川の氾濫とか製鉄といったものは後世の人間の勝手な解釈であまり意味はない。
 それよりも重要なのは”雲”と”八”なのだ。それぞれが何を意味しているかを知らないと何を言わんとしているかは理解できない。
 雲と八は速須佐之男命の実体とも関わることなので最後にしたい。

 ここで少し気になるのは、速須佐之男命が女(櫛名田比売)を湯津爪櫛(ゆつつまくし)に取り成して美豆良(みずら)に刺したという部分だ。
 美豆良は男性の結った髪で、湯津爪櫛は目の細かい櫛のことというのだけど、櫛名田比売の櫛と掛かっているだけではなく、伊邪那岐命・伊邪那美命の話とも関連する。
 黄泉国に伊邪那美命を追いかけていった伊邪那岐命は、姿を見ないでほしいという伊邪那美命の願いを無視して御美豆良に刺していた湯津津間櫛の一つを取って火をともして見てしまう。
 男性が美豆良に湯津爪櫛(湯津津間櫛)を刺すことが一般的だったのかどうかは分からないのだけど、ふたつの話がまったく無関係とは思えない。
 櫛名田比売を湯津爪櫛に取り成したというのはどういうことを意味しているのか。櫛は魔除けのような霊力を持っていたという考え方があったのか、もっと別の理由があったのか。

 速須佐之男命が剣で八俣遠呂智の尾を斬っているときに剣が出てきたという話もよく知られている。
 ここで注目すべきは、八俣遠呂智の尾から出てきた剣が後の草薙剣で、速須佐之男命が持っていた十拳剣の刃が欠けたといっている点だ。
 この部分は『古事記』も『日本書紀』も共通している。つまり、この伝承のキモの部分といえる。
 速須佐之男命の十拳剣よりも草薙剣の方が強かったという見方ができる。
 十拳剣というのは拳10個分の長さの剣という意味で固有名詞ではないのだけど、他にも何ヶ所か出てくる。
 伊邪那岐命が火之迦具土神(カグツチ)を斬ったときや黄泉国へ持っていったのも十拳剣だし、国譲りのときに建御雷之男神が持っていたのも十拳剣だった。山幸彦は兄の海幸彦の釣り針をなくして弁償するときに十拳剣を釣り針に変えている。
 速須佐之男命の十拳剣は『日本書紀』の一書では蛇之麁正(おろちのあらまさ)や蛇韓鋤之劒(おろちのからさびのつるぎ)と呼び石上神社(石上神宮)に祀られているといっている。
 八俣遠呂智の尾から出てきた剣は一体誰のものかということがあるのだけど、『古事記』は牟刈之大刀(むつかりのたち)と、剣ではなく太刀としているところに特徴がある。
 剣なら両刃で、刀なら片刃ということになるのだけど、大刀(たち)といっているから大型の刀ということだ。
 両刃と片刃の違いは小さいようで大きくて、古くは両刃だったのが日本刀に象徴されるように日本では片刃が主流になっていったことを考えると、古いタイプの十拳剣と新しいタイプの牟刈之大刀(草那芸大刀)を暗示しているのかもしれない。
 それにしても尾から出てきたということが不自然だ。八俣遠呂智が飲み込んだのなら割いた腹から出てこないとおかしい。どうやっても太刀(剣)は尾からは出てこない。
 これも象徴的な言い回しで、のちの尾張国の尾張氏の神社である熱田社で祀られていることになることから尾から出てきたという話にしたのだろうという推測はできる。
 この太刀を速須佐之男命は”思異物”として、天照大御神に白し上げたと『古事記』はいっている。
 見慣れた剣ではない物珍しい太刀といったニュアンスだろうか。
 ”都牟刈大刀”というのは太刀の名前ではなく形状をいっている可能性もある。
 ”是者草那藝之大刀也 那藝二字以音”とあるので、草那藝の”那藝”はナギという音で、”草”(クサ)が名前に当たるのだろう。
 草薙剣の本来の名前は天叢雲剣といっているのは『日本書紀』の異伝で、『古事記』はそういう書き方をしていない。
 そのことに関してもうひとつ気になる点としては、ここでは草那藝之大刀としているのに、天孫降臨の日子番能邇邇藝命に授けたときは草那藝劒になっていることだ。
 大刀と剣を厳密には区別していなかったのか、熱田で祀る草那藝之大刀と天照大御神が持っていた草那藝剣は別物だったのか。

 

スサノオは根堅州国へ行ったらしい

 速須佐之男命は宮を造る場所を出雲国に求め、心がすがすがしいと感じた場所を須賀(すか)と名づけて宮を造って住んだという。
 現在その場所とされるところに須我神社(島根県雲南市/web)が鎮座している。
 この神社は『出雲国風土記』(733年)大原郡条の須我社に比定されているものの神祇官管轄社ではなく、『延喜式』神名帳(927年)にも載っていない。
 須賀/須我は管であり蘇我でもあり、スカ/スガの本拠地は出雲国ではない。

 須賀宮を造ったとき、雲が立ち上ってきて(自其地雲立騰)、速須佐之男命はあの有名な歌を歌った。

「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁」
(八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を)

 一般的な解釈としては、八雲が立ち、妻が籠もる宮に八重垣を作ろうといった新婚を寿ぐ歌とされる。
 もう少し踏み込んだ解釈でいうと、これまで湧き起こる多くの雲を垣根がわりにしていたが、それだけでは妻の美しさを隠せない。妻が決して奪われぬよう、垣根を作るのだ、たくさんたくさん作るのだといった解釈もできる。
 しかし、雲や八が意味することを知れば、これは国作りの歌であることが分かる。
 雲から出たから出雲であり、国作りの基本が八だからだ。
 速須佐之男命は櫛名田比売の父の足名椎を須賀宮の宮主に任じて稻田宮主須賀之八耳神(スガノヤツミミ)と名づけた。
 ”八つの耳”というのも何かを象徴している。その前の名前は”足名”だった。

 速須佐之男命がどこで死んだかについて『古事記』は何も書いていない。
 しかし、この後の大国主神(大穴牟遅神)のところで再び速須佐之男命は登場することになる。
 速須佐之男命の系譜については『古事記』と『日本書紀』では違っていて、『古事記』は大国主神を六世孫としている。にもかかわらず、須佐之男命の娘の須勢理毘売(スセリヒメ)と大穴牟遅神は結婚して須佐之男命の試練を受けるというおかしな話になっている。
 ひとつ考えられるのは、速須佐之男命と須佐之男命は別の可能性だ。”速”が付くのが初代で、須佐之男の名は代々受け継がれたと考えるべきかもしれない。
 上にも書いたように、大穴牟遲神が兄神たちに追われているとき、大屋毘古神は須佐之男命がいる根堅州国に行けばいいように計らってくれるはずだと助言して大穴牟遲神は根堅州国へ行くことになる。このときの須佐之男命には”速”は付いていない。
 そして、須佐之男命は根堅州国にいることになっているということは、そこは須賀宮ではないということだろう。
 大穴牟遅神と須勢理毘売は目を見合わせるとすぐに婚姻の運びとなり、事後報告として須佐之男命の元を訪れることになる。
 須佐之男命は大穴牟遅神を葦原色許男呼ばわりして娘の婿にふさわしいか試練を与える。
 須佐之男命が与えた様々な試練に打ち勝った大穴牟遅神が須勢理毘売とともに去っていくとき、おまえが持ち出した生大刀と生弓矢を使って兄弟達を追い詰め追い払って大国主神となり、宇都志国玉神(ウツシクニタマ)となって須勢理毘売を正妻として宇迦山の麓に太柱を立てて高い宮殿に住むがいい、こやつめ、と呪いとも祝いとも取れる言葉を吐いて見送ったというのが『古事記』に語られている物語だ。
 つまり、大穴牟遅神はこれをもって大国主神になったという言い方ができる。

 

『日本書紀』は少し違っている

 続いて『日本書紀』の当該部分を読んでいるわけだけど、ここまででだいぶ長くなったので、『古事記』との違いだけ見ておくことにする。

 第八段本文は、素戔鳴尊は自ら出雲の簸之川(ひのかわかみ)に降りたって川上で泣いている声が聞こえたので行ってみると、脚摩乳(アシナヅチ)、手摩乳(テナヅチ)、奇稻田姫(クシイナダヒメ)がいたとしていて、人物名の表記以外『古事記』と同じだ。
 違うのは、その娘を吾に奉るように勅命をして脚摩乳がすぐに応じている点だ。名前を訊ねたり、天照大神の同母兄弟だといったりといったやりとりは書かれていない。
 八岐大蛇退治に関しては、奇稻田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に化えて髻(みずら)に挿し、脚摩乳と手摩乳に強い酒を醸させ、それを飲んだ大蛇が眠っている間に十拳釼で八本の尾を切り裂くと刃が欠けたので見てみると
草薙剣が出てきたという展開も『古事記』と共通する。
 草薙剣を奈良時代の人はクサナギと読めなかったのか、わざわざ倶娑那伎能都留伎ですと読み方を示している。
 その上で、一書曰くとして、本名は天叢雲劒(あめのむらくものつるぎ)で、大蛇がいるところは常に雲があってそこから来た名前ではないかという推測を書いている。そして、日本武皇子(ヤマトタケル)が改名して草薙劒としたのだという異伝を紹介する。
 素戔鳴尊は、これは神の劒だから吾が持っているべきではないと言い(是神劒也 吾何敢私以安乎)、天神に献上したといっている。あえて言挙げしていることにも何か意味がありそうだ。

 婚姻したふたりは出雲の清地(すが)に着いて結婚生活を送る地をそこに定めて宮を建てたといい、あるいは云うとして例の歌を歌ったという異伝を載せている。
 万葉仮名の違いはあるものの歌の内容は『古事記』と同じだ。

 夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻

 そして、自分の子を宮主とすることを脚摩乳と手摩乳に命じ、稻田宮主神(イナダミヤヌシノカミ)と名付けた後、根国へ行ってしまったと結んでいる。
 遂就於根国矣。
 こういうふに書かれると、やはり根国は死後の世界で、素戔鳴尊は根国へ行く前に葦原中国に立ち寄っただけと見るべきなのかもしれないと思い直す。

 第八段の一書は第六まである。
 一書第一は系譜についての異伝で、素戔鳴尊が出雲の簸之川に降りたって稻田宮主の簀狹之八箇耳(スサノヤツミミ)の娘の稻田媛(イナダヒメ)を娶り、清(すが)の湯山主(ゆやまぬし)の三名狹漏彦八嶋篠(ミナサルヒコヤシマシノ)が生まれたとしている。
 脚摩乳はすでに稻田宮主の簀狹之八箇耳だったという話だ。
 生まれた子の三名狹漏彦八嶋篠の別名として清の繋名坂輕彦八嶋手命(ユイナサカカルヒコヤシマデ)の名を挙げ、この五世孫が大国主神だといっている。つまり、素戔鳴尊から見て六世孫が大国主神ということで、その点は『古事記』と共通している。

 一書第二は、素戔鳴尊が降り立ったのは安藝国の可愛之川上(えのかわかみ)としていて、場所の違いがある。
 ただし、ここでいう安藝は今の広島県の安芸国(あきのくに)ではなく出雲東部の安来(やすき/やすく)のことだと思われる(どちらにしても設定だろうけど)。
 ちょっと面白いのは、脚摩手摩(アシナヅテナヅ)が夫で、妻を稻田宮主簀狹之八箇耳(イナダノミヤヌシスサノヤツミミ)とし、妻が妊娠中だったという設定になっていることだ。
 出産すると八岐大蛇に食べられてしまうのでその前に退治してほしいという話になっている。
 大蛇の尾を斬ると剣の刃が少し欠け、出てきた剣が草薙剣で、これは現在(奈良時代)尾張国の吾湯市村(あゆちむら)で熱田の祝部(はふりべ)が祀っているとしている。
 素戔鳴尊が持っていた剣を蛇之麁正(おろちのあらまさ)と呼び、これは今は石上(いそのかみ)にあると書いている。
 大蛇を退治した後、稻田宮主簀狹之八箇耳が生んだのが眞髪觸奇稻田媛(マカミフルクシイナダヒメ)で、出雲の簸川上に移って長い間育て、やがて素戔鳴尊の妃となり、生んだ子の六世孫が大己貴命だという。

 一書第三は、素戔鳴尊は奇稻田媛が欲しくて脚摩乳と手摩乳にくれるように乞うと、脚摩乳と手摩乳はそれじゃあまず大蛇を退治してくれというので酒に酔わせて頭を斬り、腹を斬り、尾を斬ったときに剣の刃が欠け、出てきたのが草薙剣で、かつては素戔鳴尊が持っていたのだけど今は尾張国にあると書いている。
 違いとしては、ここでは素戔鳴尊が下手に出てお願いする立場になっている点と、出てきた草薙剣を天神に渡さず素戔鳴尊が自分で持っていたことになっている点が挙げられる。
 素戔鳴尊の剣は今は吉備の神部(かんべ)のもとにあり、それは出雲簸之川上山だといっている。
 吉備の神部は岡山県赤磐市の石上布都魂神社(web)とされるのだけど、出雲簸之川上山とすると矛盾する。

 一書第四は非常に変わった独自の伝承を伝えていてなかなか興味深い。
 追放された素戔鳴尊は、子の五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に至り、曾尸茂梨(そしもり)に居たというのだ。
 あれ? いつの間に素戔鳴尊に息子がいたんだ? と戸惑う。天照大神との誓約で生まれた五男三女神の中に五十猛神はいないし、子と一緒に天降ったという話もない。
 新羅国の曾尸茂梨というのは朝鮮半島の新羅国ではなく日本のどこかだろうから、新羅国との関連を考えてもあまり意味はない(そもそも素戔鳴尊の時代に新羅国など存在していない)。
 素戔鳴尊はこの地にはいたくないといい、土で舟を作ってそれに乗って東に渡り、出雲国簸川上の鳥上之峯(とりかみのみね)に至った。そこにいた人を呑む大蛇がいたので天蠅斫之劒(あめのははきりのつるぎ)で斬り、出てきた神剣(後の草薙剣)は自分が持っていてはいけないちい五世孫の天之葺根神(アメノフキネノカミ)が天に奉ったと書いている。
 五十猛命については、紀伊国に坐す大神としており、これは後の紀伊国一宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ/web)のこととされる。
 五十猛命は天降ったときに樹の種を持ってきていて、筑紫から始めて大八洲国に蒔いたので国中が青山になったとも書いている。素戔鳴尊は泣いてばかりいて青山が枯れたということの罪滅ぼしということか。

 一書第五は素戔鳴尊から様々な木々が成って、それぞれの用途を決めたという話が書かれている。
 鬚から成った杉と胸毛から成った檜(ひのき)は宮を建てる材とし、尻の毛から成った柀(まき)は奧津棄戸(おきつすたえ/棺桶)に、眉毛なら成った樟(くすのき)についての言及はないものの、他にも食べられるたくさんの木の種(八十木種)を蒔いて育てるようにといっている。
 素戔鳴尊は熊成峯(くまなりたけ)というところにいて、ついには根国へ行った(居熊成峯而遂入於根国者矣)といい、子供については五十猛命の妹の大屋津姫命(オオヤツヒメ)と枛津姫命(ツマツヒメ)を挙げている。
 これも不思議な伝承で、これら三兄弟の母は誰なのかという話になる。
 熊成峯は熊野地方とされるので、紀伊国に伝わっていた伝承が元になっているだろうか。

 一書第六は、大国主神と少彦名命の国作りの話で、素戔鳴尊は出てこない。
『古事記』が書いている素戔鳴尊の娘の須勢理毘売命と大穴牟遅神(大国主神)との婚姻や試練を与えた話もない。

 

『古語拾遺』と『先代旧事本紀』の独自性

『古語拾遺』のちょっとした独自性としては、剣についての記述だ。
 素戔鳴神が持っていた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の名を天羽羽斬(あめのははぎり)とし、古語では大蛇のことを羽々と称していたといっている。
 そしてそれは今(平安時代初期)石上神宮にあるとも書いている。
 八岐大蛇の尾から出てきた剣については、天叢雲とし、倭武尊が東征の際に相模国で火攻めにあったときに草を薙いで難を逃れたことから草薙剣と呼ぶようになったとしている。
 その剣は天神に献上し、国神(名前の記載はない)の女(娘)を娶って大己貴神が生まれたといっている。
 最終的に素戔鳴神は根国へ行ったというのが『古語拾遺』の内容だ。

『先代旧事本紀』はここでも全部入りといった感じになっていて、無理矢理つなぎ合わせているので矛盾点もある。
 基本的に『日本書紀』を写しつつ、独自性も少し織り込んでいる。
 たとえば神祇本紀」の中で少し面白いことを書いている。
 素戔烏尊の罪を償わせるために千座置戸に捧げ物をさせ、髭を抜き、手足の爪を抜いたというのは『日本書紀』と共通するのだけど、唾(つば)を白和帛(しらにぎて)とし、涎(よだれ)を青和帛(あおにぎて)としたという記述は独自のものだ。
 今の世(平安時代)の人が爪を他人の手に渡らせないようにするのはこれが由来だとも書いている。
 和帛(にきて)は布のことで(『古事記』では丹寸手)、青和帛は麻布、白和帛は木綿の布のこととされるのだけど、唾や涎を和帛にするというのはどういうことかよく分からない。
 神々たちは素戔烏尊に対して、天にとどまることを許さず、葦原中国にいてもいけない、根国へ行くように命じている。
 天を去るにあたって素戔烏尊は御食都姫神(みけつひめのかみ)の大御食都姫神(オオミケツヒメ)を殺したという話は『古事記』から採っている。
 青草を編んだ笠蓑を身につけて神々に宿を借りたいといったとき、神々は犯した罪を責めて宿を貸さなかったという話は『備後国風土記』に書かれた蘇民将来説話に通じる(後述)。
 この後、素戔烏尊は姉の日神に最後の挨拶をして天降っていく。清い心で生んだ女子をよろしく頼んでもいる。

「地祇本紀」では『日本書紀』一書第四に書かれた五十猛神と新羅の曽尸茂梨の話を紹介している。
 そこから出雲に移り、八岐大蛇を退治した話につなげている。
 こんなふうに異伝を勝手に継ぎ接ぎしてしまうのはまずいと思うのだけど、これが『先代旧事本紀』の基本姿勢なので文句を言っても仕方がない。
 考えようによっては一番上手くまとまっているから『古事記』も『日本書紀』も通読したことがない人は『先代旧事本紀』を読めば一通りの話を知ることができるともいえる。

 

葦原中国以降のスサノオ系譜について

 天降った後の素戔嗚尊の系譜については、大己貴神(大国主神)をどこに入れるかでだいぶ違ってくる。
『古事記』は、櫛名田比売との間に八島士奴美神(ヤシマジヌミ)が生まれ、大山津見神(オオヤマツミ)の娘の神大市比売(カムオオイチヒメ)との間に大年神(オオトシ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が生まれたとする。
『日本書紀』は第八段一書第一で、稻田媛との間に生まれた子を清湯山主三名狹漏彦八嶋篠(スガノユヤマヌシミナサルヒコヤシマシノ)、または清繋名坂輕彦八嶋手命(スガノユイナサカカルヒコヤシマデ)、または清湯山主三名狹漏彦八嶋野(スガノユヤマヌシミナサルヒコヤシマノ)とし、この五世孫を大国主神といっている。
『日本書紀』に神大市比売や大年神は出てこず、宇迦之御魂神は伊弉諾尊と伊弉冉尊が飢えているときに倉稲魂命が生まれたとしているので、この点でも系譜が大きく違っている。
 一緒に新羅の曽尸茂梨に渡ったとする五十猛神の母に関する記述はない。
『先代旧事本紀』は五十猛神の別名を大屋彦神とし、この兄弟神として大屋姫神、抓津姫神(ツマツヒメ)の名を挙げる。これも記紀にはない独自の伝承だ。
 更に、事八十神(コトヤソ)、大己貴神、須勢理姫神、大年神、稲倉魂神(宇迦能御玉神)、葛木一言主神
までも素戔烏尊の子としている。
『先代旧事本紀』の系譜は独特すぎてどう受け止めればいいのか分からない。
 続いて孫の都味歯八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシ)から十一世孫の大鴨積命(オオカモツミ)までの系譜を詳しく書いている。
 これは何らかの史料や伝承がないと書けない部分なので、このあたりは無視できない。ただし、ここでは追求しない。

 

風土記におけるスサノオ

『出雲国風土記』(733年)におけるスサノオの存在感は薄い。地名由来で4ヶ所にその名が出てくるだけだ。
 須佐は神須佐能袁命が自身の御霊をこの地に鎮めたのが地名となったとか、安来(やすぎ)はそこを訪れたとき心が安らかになったからといったものだ。
 その他、出雲神戸、御室(みむろ)、佐世郷(させのさと)の地名由来がスサノオに関するものとされ、スサノオの表記としては神須佐能袁命、神須佐乃袁命、神須佐乃乎命、須佐能袁命と、微妙に書き分けている。
 これらを同一人物と見ていいのかという問題もあるし、『古事記』、『日本書紀』と違う表記にした理由も気になる。
 いずれにしても、出雲地方においてスサノオは主役ではないことが『出雲国風土記』や出雲国の神社の祭神からも読み取れる。
 つまり、大和(ヤマト)がそれを黙認したということだ。

 

スサノオは牛頭天王

 出雲地方がスサノオの本拠地でないとすると、スサノオはどこにいたのかということだ。
 高天原がどこにあって、記紀がいう出雲国の肥河上が本当はどこで、根国とはどこを指すのか?
『日本書紀』一書が伝える新羅国の曾尸茂梨がどこかということも関わってくるのだけど、その問いに対する答えは簡単ではない。
 というのも、スサノオは”一人ではない”からだ。
 各地に何人ものスサノオがいて、それぞれの土地で生まれた伝承が語り伝えられてきたものを無理矢理ひとつにまとめたのが記紀の神話なので、スサノオはここにいたと断定することは難しいというか不可能だ。
 オリジナルともいえるスサノオはどこにいたかということであれば、それは尾張にいたと私は思っている(そう聞いている)のだけど、納得してもらえるように説明することはできないかもしれない。
 ひとついえるのは、スサノオの本質は牛頭天王だということだ。
 牛頭天王というと仏教系の神で中世にスサノオと神仏習合したというのが一般的な解釈だけどそれは違う。
 何しろ天王と称しているのだ。それは文字通り、天の王、高天原の王のことを指している。
 では牛頭とは何かということになるわけだけど、”牛”はひとつのキーワードであり、”五”がもうひとつのキーワードとして隠されている。
 五頭天王は五の頭の天の王ということになる。
 スサノオはいうなれば役職命のようなもので、牛頭天王の一側面にすぎない。
 繰り返すと、キーワードは”五”と”三”と”八”だ。五男三女神、八王子などといえばピンと来るものがあるんじゃないか。
 結論を急ぐ前に、スサノオ信仰といったものについて見ておくことにする。

 

スサノオ信仰について

 スサノオを祀る有名神社といえば、京都八坂の八坂神社(web)や愛知県津島市の津島神社(web)がよく知られている。
 八坂神社は祇園感神院や祇園社などと呼ばれる仏教寄りの社で、平安時代前期の876年に僧の円如(えんにょ)がお堂を建てたことに始まるとされる。
 それ以外に656年に高麗の伊利之使主(イリシオミ)が創建したという説もあるのだけど、創祀についてはもっとずっと古いかもしれない。
 現在のように素戔嗚尊を祀るとしたのは明治の神仏分離令以降で、それ以前は牛頭天王を祀っていた。
 牛頭天王を祀っていたから新しいでのはなく、むしろ逆で、牛頭天王を祀っていたから古いという見方ができる。
 津島神社も中世は津島牛頭天王社と称して牛頭天王を祀っていた。
 社伝が伝えるところによると、建速須佐之男命が朝鮮半島から出雲国に至ったとき荒魂がそこに静まり、和魂は対馬(つしま)に鎮まったあと、540年に現在地に移ったといっている。
 平安時代前期の810年に嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られ、990年頃に一条天皇より天王社の号が贈られたという話もある。
 この二社はどちらも『延喜式』神名帳(927年)に載っていないことから平安時代中期まで官社ではなかったということになる。
 しかし、そこにはやはり理由があって、仏教色が強かったからではなく、朝廷の管轄外の特別な社だったと考えるべきだろう。

『延喜式』神名帳にあるスサノオ関連社でいうと、備後國深津郡の須佐能袁能神社がある。
 備後国一宮とされ、現在は素盞嗚神社(広島県福山市/web)と称するこの神社の創建は飛鳥時代後期、天武天皇時代の679年という。
 それが本当であれば『古事記』、『日本書紀』編纂以前からスサノオ信仰があったことになるけど、必ずしもそう言い切れないのは、713年編集の『備後国風土記』逸文(卜部兼方『釈日本紀』に引用)には疫隅國社(えのくまのくにつやしろ)とあるためだ。
 疫隅はこのあたりの地名で、江隈や江熊とも称されていて、神社名はそこから来ているので当初からスサノオを祀っていたかどうかは分からない。
 須佐能袁能神社と称するようになるのは、早くても『日本書紀』編纂以降ということになる。
 備後国でスサノオを祀るのは『備後風土記』逸文に武塔神の話が書かれていることが大いに関係する。
 備後国はもともとは吉備国の一部で、吉備国が備前、備中、備後に分かれて誕生したところで、現在の広島県東部に当たる。
 日本海側の出雲国と瀬戸内海側の吉備国は表と裏の関係であり、一対と考えた方がいい。その吉備国側にスサノオの神社があることには意味がある。
 武塔神の話はこうだ。
 北の海にいた武塔神は南の海の女を求めるうちに日が暮れ、その地にいた蘇民将来兄弟の家に宿を求めた。兄は貧しく、弟は裕福だったので弟に宿を借りようとしたところ断られ、貧しい兄がもてなしてくれたため武塔神は感謝した。再びその地を訪れた武塔神は茅の輪を与え、疫病が流行ったときにこれを身につければ災厄から逃れられると教え、弟の将来一族を皆殺しにした。その上で自分は速須佐雄だと名乗ったという内容だ。
 スサノオ系の神社で夏に茅の輪くぐりを行っているところがあるけど、この話が起源となっている。
 この疫隅國社(須佐能袁能神社)の関連でいうと、734年に吉備真備から遣唐使の任を終えて帰国したと、備後の須佐能袁能神社からスサノオを播磨に勧請し(広峯神社/web)、そこから祇園観慶寺に勧請したのが感神院(八坂神社)だという話もある。

 武蔵国一宮の氷川神社(web)も須佐之男命を祀る古い神社ではあるものの、祭神については古くから多くの説があり、最初からスサノオだったとはいえない。
 出雲国のもうひとつの一宮とされる熊野大社(web)の祭神、伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命はスサノオの別名とする説があるも、これもはっきりしたことは分からない。
 出雲国のスサノオ系神社としては、日御碕神社(web)、須佐神社(web)、八重垣神社(web)、久武神社(web)などがある。
 牛頭天王を祀った中心的な神社は上にも書いたように祇園社や津島神社で、そこから全国に勧請されて天王社が多く建てられた。
 それらの神社は、明治の神仏分離令を受けてスサノオを祀るとしたところが多い。
 なので、スサノオ由来の神社と牛頭天王由来の神社を分けて考えるべきなのだけど、どこがどうだったのかを厳密に分けることは難しい。
 スサノオ信仰がいつどこで始まったのかを推測するのも難しい。

 

すべては八から始まった

 ここまで見てきた上でスサノオとは何かという問いに対する結論めいた回答を出したいところではあるのだけど、はっきり言って私には難しいというか、私の能力を超えていて無理だ。聞き及んでいる話のすべてを理解できているわけでもない。
 それでも、聞いた話を断片的にでも書いておくとどこかで誰かの役に立つかもしれない。

 アマテラスは中心にいて、ツキヨミは陰で支える存在、スサノオは開拓する者という三者の位置づけができる。
 それらの親とされるのはイサナキ・イサナミだけど、必ずしも血のつながった親子関係ということではない。
 オオクニヌシとスサノオの関係も、親子とは限らない。
 ついでにいうと、コトシロヌシはオオクニヌシの代わりに事を行う主であり、スサノオがコトシロヌシでもある場合がある。
 そういう意味でいうと、それぞれの時代、それぞれの土地にスサノオはいたということになる。
 たとえば、アメノワカヒコやアメノホアカリ、ニギハヤヒなどはスサノオでもあるという言い方ができる。

 スサノオが歌ったとされる八雲立つの歌には多くの八が出てくる。それは八の思想によって国作りが行われたためだ。
 まず中心には”雲”がある。
 そこから八方向に道を延ばしていくと八坂ができる。
 そして国境に八つの雲を置くから八雲となる。
 八雲には境界を示す雲石を置く。
 それを囲むと八重垣になる。
 八ヶ所にはそれぞれ田を作り、社を建て、木を植え、製鉄所を置く。
 それらが八田であり、八社であり、八木であり、八剣だ。
 雲から出ると出雲や雲出になる。
 雲の上の存在と言い回しもここから来ている。
 やがて雲を隠して守るために、雲を熊や黒に言い換えた。
 熊社(熊野社)や地名の黒石などがそうだ。
 八は五と三の組み合わせでもある。
 尾張は五で三河が三なのだけど、どうしてそうなのかを説明するのは難しいので省略。
 五男三女神の伝説は尾張と三河が舞台といってもなかなか信じてもらえないと思う。
 牛頭天王は五頭天王だということと、八岐大蛇は山田の大蛇なのだということも、私自身ちゃんと理解できていない部分があって上手く書けない。
 そのためには龍と蛇の話や龍と虎の話をしないといけないのだけど、それもここではやめておく。
 津島神社や八坂神社の神紋は「五瓜に唐花」の木瓜紋で、熱田神宮は「五七桐竹紋」、三河国一宮の砥鹿神社の神紋が三本線の「亀甲に卜象」なのももちろんたまたまではない(熱田はもともと五三桐紋だったのが組み合わされて五七桐竹紋になったそう)。
 尾張国一宮の真清田神社の神紋が「竹に九枚笹」(3×3)なのは、乗っ取られて別の思想に上書きされているためだ(五と八が消されて三になっている)。
 名古屋市の市章が”丸八”なのもここから来ている(尾張徳川家が使っていたのは歴史を知っていたからだ)。
 牛頭天王には八王子がいたということもそうだし、西京や東京は中京のコピー&ペーストだと理解してもらうと気づくことがあるかもしれない。
 神話や伝承は時代が積み重なっていて、新しいと思っているものが意外に古く、古いと信じているものが実は新しかったりする。

 まだまだ言葉足らずで書き足りない部分がたくさんありそうだけど、今回はいったんここまでとしたい。

 

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