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神様事典(名古屋編)

天照大神(アマテラス) ーーー 『古事記』では天照御大神、『日本書紀』では天照大神と表記される。
 皇室の祖神であり、伊勢の神宮の皇大神宮(内宮)の祭神。
 父はイザナギ(伊弉諾)、母はイザナミ(伊弉冉)で、弟にツクヨミ(月夜見)とスサノオ(素戔嗚)がいる。
 もともと天照(アマテル)として太陽神を祀っていたときは男神だったという説がある。『日本書紀』編さんに関わった持統天皇と藤原不比等が自分たちを正当化するためにアマテルをアマテラスという女神にしたと言う人もいる。
 別名をオホヒルメノムチ(大日孁貴)といい、「孁」は「巫」と同義であることから太陽神に仕える巫女だったという説もある。
 アマテラスの食事の世話をするために呼び寄せたのが女神のトヨウケビメであり、アマテラスの御杖代(みつえしろ)は崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命に始まり、皇室の未婚女性から選ばれていることからもアマテル/アマテラス男神説もなくはないのかと思ったりもする。
 名古屋でアマテラスを祀る神社ならココというようなところは思いつかないのだけど、神明社はたくさんある。特に名古屋南西部に伊勢の神宮の荘園、一楊御厨(いちやなぎのみくりや)があった関係で中村区、中川区には神明社が多い。
 オススメ神社60選で、花車神明社(中村区)、朝日神社(中区)、東茶屋の神明社(港区)、七島の神明社(港区)、南押切の神明社(西区)を入れた。
 個人的に一番好きなアマテラス関係の神社は、三重県度会郡大紀町の瀧原宮(web)だ。伊勢の神宮(web)よりも更に原初の神社の姿がそこにある。

 

豊受大神(トヨウケ) ーーー 『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。
 伊勢の神宮(web)の豊受大神宮(外宮)の祭神なので馴染み深い気がしているけど、実はマイナーな神だ。その正体もよく分からない。
『古事記』は伊邪那美命(イザナミ)の尿から生まれた和久産巣日神(ワクムスビ)の子としている。ニニギが降臨した後、外宮がある度相(わたらい)に鎮座したとする。
 トヨウケのウケは食物、穀物のことということで食物の神とされる。
 外宮による『止由気宮儀式帳』では雄略天皇の枕元にアマテラスが現れて、ひとりでは食事ができないので丹波国の比治の真奈井(ひじのまない)にいる等由気太神を近くに呼びたいと言ったため、外宮の地に祀ったとしている。
『丹後国風土記』逸文に、真奈井で天女8人が水浴していたところを老夫婦が見つけ、ひとりの羽衣を隠してしまったため天に帰れず、天女は老夫婦の家に暮らすことになり、やがて追い出されて奈具村に辿り着き、そこで祀られたのがトヨウケビメだったという逸話が書かれている。
 丹後国一宮の籠神社(web / 京都府宮津市)はもともと真名井原にあったことからトヨウケビメが祀られていたのは籠神社だったという説もある。現在は奥宮の真奈井神社でトヨウケビメを祀っている。
 全国の神明社でトヨウケを祀ることはよくあることだけど、単独の主祭神として祀っている神社は外宮以外では少ない。
 名古屋でトヨウケビメを祭神としているのは、守山区の神明社(廿軒家)、西区の神明社(南押切)、西区の榎白山社、中川区の下神明社(かの里)、中川区の三狐神社(野田)、中村区の中村天神社、名東区の神明社(藤森)、守山区の白山神社(小幡)、名東区の神明社(猪子石)など。

 

伊弉諾尊(イザナギ) ーーー 『古事記』では伊邪那岐神、伊邪那岐命、『日本書紀』では伊弉諾神と表記される。
 天地開びゃくの神代七代の最後に生まれた兄妹神の兄。国生みの後、オノコロジマでイザナミと結婚した。アマテラス、ツクヨミ、スサノオの父。
 火の神カグツチを産んだとき火傷を負って死んでしまったイザナミを追いかけて黄泉の国へ行き、変わり果てたイザナミの姿を見て逃げ出した。それを見て怒ったイザナミは八雷神や黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけさせた。なんとかそれを振り払ったイザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)を大岩でふさいでイザナミに離婚を宣言した。
 日向の阿波岐原で禊ぎを行うと、左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれた。
 このときのことが祓詞(はらえことば)となっている。
「掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す」
 母に会うため根之堅州国に行きたいと泣いてばかりいるスサノオを地上に追放し、自らは淡道の多賀の幽宮に篭った。
 伊弉諾神宮(兵庫県淡路市 / web)や多賀大社(滋賀県犬上郡 / web)の他、おのころ島神社(兵庫県南あわじ市 / web)、熊野速玉大社(和歌山県新宮市 / web)、江田神社(宮崎県宮崎市 / web)などで祀られる。
 名古屋では、守山区の熊野社(大永寺)、守山区の白山神社(市場)、西区の多賀宮(円頓寺)、天白区の島田神社、天白区の八劔社(野並)、中区の榊森白山社、中村区の八幡社(栄生町)、南区の石神社、南区の神明社(呼続)、中区の白山神社(新栄)、守山区の高牟神社(瀬古)、守山区の諏訪社(中志段味)、六所社などで祀られている。

 

伊弉冉尊(イザナミ) ーーー 『古事記』では伊邪那美命、『日本書紀』では伊弉冉神、伊邪那美神、伊耶那美神、伊弉弥神。
 イザナギ(伊弉諾尊)の妹で妻。神代七代の最後にイザナギとともに生まれたとされる。
 火の神カグツチを産んだとき女陰に火傷を負って命を落とした。黄泉の国まで追いかけてきたイザナミと争いになり、一日に1,000人の人間を殺す! とイザナミが言えば、それならこちらは一日に1,500人の子供を産ませる! とイザナギが言い返し、離婚。以降、イザナミは黄泉の神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。
 イザナミの墓所とされる伝説地は、比婆山(島根と鳥取の境)や熊野市有馬などいくつかある。
 多賀大社など、イザナギとペアで祀られているところが多いものの、比婆山久米神社(島根県安来市 / web)や花窟神社(三重県熊野市 / web)などではイザナミを主祭神として祀っている。
 夫婦和合や縁結びの神としてイザナギ・イザナミを祀っている神社も多いのだけど、最後はケンカ別れしていることを考えると少し複雑な気持ちになる。
 名古屋では、緑区の熊野社(徳重)、守山区の熊野社(大永寺)、西区の白山社(上堀越)、西区の白山社(児玉)、西区の多賀宮(円頓寺)、天白区の菅田神社、天白区の島田神社、天白区の八劔社(野並)、南区の熊野三社(呼続)、中川区の白山社(戸田)、中村区の熊野社(権現通)、中区の白山神社(新栄)、守山区の白山神社(小幡)、守山区の川島神社、千種区の城山八幡宮、六所社などで祀られる。

 

須佐之男命(スサノオ) ーーー 『古事記』では建速須佐之男命、須佐乃袁尊と、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊、素盞男尊などと表記される。
 死んだイザナミを追いかけて黄泉の国へ行ったイザナギは、変わり果てたイザナミを見て逃げだし、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎをしたときに鼻をすすいで生まれたのがスサノオと『古事記』は書く。
『日本書紀』ではイザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊弉冉尊)との間にアマテラス(天照)、ツクヨミ(月読)、ヒルコ(蛯児)の次に生まれたとする。
 アマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の世界を、スサノオは海原を治めるように命じられるも、母に会いたいと泣き叫ぶばかりで何もしなかったスサノオは追放されてしまう。
 根の国に向かう前に姉のアマテラスに会いにいくと、スサノオが攻めてきたと思ったアマテラスは武装して待ち構えていた。そこで疑いを晴らすために誓約(うけひ)を行い、神々が生まれた。
 これで許されたと調子に乗ったスサノオは高天原で暴れ回り、アマテラスは天岩戸に隠れ、世界は暗くなってしまった。スサノオは今度こそ本当に高天原を追放されてしまう。
 出雲の鳥髪山に降り立ったスサノオは櫛名田比売命と出会い、姫を救うためにヤマタノオロチを退治し、ふたりは結ばれる。
 そのとき歌ったとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」は日本最古の和歌ともいわれる。
 その後、スサノオとクシナダヒメは出雲の根之堅洲国にある須賀へ行き、そこにとどまったという。
 本来は天津神でありながら高天原を追放されたことで国津神とされる。大国主(オオクニヌシ)はスサノオの息子、または子孫とされる。
 最初からスサノオを祀るとして創建された神社は意外に少ない。中世になって仏教の牛頭天王と習合して天王社で祀られていたものが、明治の神仏分離令で牛頭天王を祀ることが禁じられたためスサノオに祭神が変更された例が多い。
 名古屋でスサノオを祀るとしているのは、明治以降に祭神変更された元・天王社が多い。津島神社、須佐之男社、八坂神社、素盞男社と称している大部分の神社がそうではないかと思う。
 ただ、江戸時代の『尾張志』などでスサノオを祀るとしている天王社がけっこうあることからすると、江戸時代の人の認識として天王社の祭神はスサノオというのがあったようだ。
 もともとの祭神がスサノオだった可能性がある古い神社としては、中区の洲嵜神社が挙げられる。他にもあるかもしれないけど、ここがそうだと指摘できる根拠を持っていない。
『尾張國内神名帳』にある「従一位 素戔鳥名神」は名前からしてスサノオを祀る神社だった可能性が高い。ただし、この神社は失われたか所在不明となっている。
 オススメ神社60選の中でスサノオを祭神としているところは、中村区の白龍神社(名駅南)、南区の富部神社、中川区の八幡社(牛立)など。
 泣き虫でワガママで暴れん坊、マザコンでヒーローで戦も強く、和歌もたしなむスサノオという神はとても人間的で魅力に溢れているけど、周りは迷惑するタイプだ。

 

瓊瓊杵尊(ニニギ) ーーー 『古事記』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、『日本書紀』では天津彦彦火瓊瓊杵尊/天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊と記される。
 天照大神(アマテラス)孫=天孫として高天原から日向に降りた(天孫降臨)と日本神話は語る。
 父は天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)、母は栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)。
 アマテラスより三種の神器を授けられ、天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天鈿女命(アメノウズメ)、石凝姥(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)を供に、猿田毘古神(サルタヒコ)に導かれて高千穂の峰に到る。
 大山祇神(オオヤマツミ)娘・木花開耶姫/鹿葦津姫(コノハナサクヤヒメ)を娶り、火闌降命/火須勢理命(ホスセリ)、彦火火出見尊/天津日高日子穂穂手見命(ヒコホホデミ)、 火明命(ホアカリ)、火折尊/火遠理命(ホノオリ)火夜織尊(ホノヨリ)、火照命(ホデリ)が生まれたとする。
 美しいコノハナサクヤヒメに対して見た目に難があったらしい姉の磐長姫(イワナガヒメ)も一緒にもらってほしいというオオヤマツミの申し出を断って送り返してしまったため、天孫族は寿命が短くなってしまったとされる。
 名古屋では、南区の喚續社、中区の富士浅間神社、緑区の鳴海八幡宮、中区の稲荷神社(古渡稲荷神社)で祀られている。

 

月読命(ツクヨミ) ーーー 『古事記』では月讀命、『日本書紀』では月読命、または月弓尊と表記される。
 読み方は「ツクヨミ」が一般的で、伊勢の神宮別宮の月讀宮や月夜見宮では「ツキヨミ」としている。
『古事記』では、伊邪那伎命(イザナギ)が右目を洗ったときに生み成されたとし、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。
『日本書紀』の本文は日の光に次ぐ輝きを持つ月の神を生んだとする他、一書では伊弉諾尊(イザナギ)が左の手に白銅鏡を取り持って大日孁尊(天照大神)を生み、右手に白銅鏡を持って月弓尊(月読命)を生んだと書く。
 性別は記されているものの、男神と考えられている。
『日本書紀』では、アマテラスに食物神の保食神(ウケモチ)を見にいってくるように命じられ、ウケモチが口から食べ物を出してもてなそうとしたのをけがらわしいと怒って斬り殺してしまってため、アマテラスが怒って絶交状態となり、昼と夜が分かれたという説話が語られる。
『古事記』では同じ話がスサノオと大気都比売神の間の話として書かれている。
 属性については、夜の神とされたり、月を読む神とされたり、海の神とされたりで、はっきりしない。
 アマテラスやスサノオと比べると存在感がなく、祀られている神社も限られている。
 名古屋でツクヨミを単独で祀っている神社はなく、他の関係神と一緒に西区の六所神社(比良)などの六所社、天白区の八劔社(野並)、中区の日出神社(大須)、緑区の鳴海八幡宮、熱田区の神明社(四番町)、天白区の五社宮などで祀られている。

 

大国主命(オオクニヌシ) ーーー 大いなる国主という名前からも地上の神の総称なのは明白。
 系図がはっきりしないこと、別名が多いこと、地元であるはずの『出雲国風土記』ではまったく活躍していないことなどもそれを示している。記紀がいう出雲神話をそのまま信じることはできない。
『日本書紀』本文には素戔嗚尊の息子とあり、一書や『古事記』では須佐之男命の六世の孫とする。別の一書では七世の孫とも書く。
『古事記』がいう五世の天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)と『日本書紀』の天之葺根神(あめのふきねのかみ)が同一かどうかも不明。
 別名に大穴牟遅神、大己貴命、大穴持命、大名持神、八千矛神、葦原色許男などがあり、大国魂神を同一神とする説もある。
 后は須勢理毘売命で、妃として多紀理毘売命、神屋楯比売命、八上比売、沼河比売などがいたとされる。
 若い頃は兄たちにいじめられて何度か危機を脱し、少彦名命(スクナヒコナ)とともに国作りをした後、天孫に国を譲ったというのが記紀で語られる話だ。
 出雲大社の他、多くの神社において様々な名前で祀られる。
 愛知県では三河国一宮の砥鹿神社(とがじんじゃ)が大己貴命を祭神としている。
 名古屋では名東区の日吉神社(上社)、中川区の三輪社(榎津)、守山区の白山神社(小幡)、西区の金刀比羅社(菊井)、西区の金刀比羅社(円頓寺)、東区の金刀比羅神社(泉)などで祀られている。

 

天御中主神(アメノミナカヌシ) ーーー 『古事記』において天と地が初めて分かれたとき、高天原に最初に現れた神とする。続いて高御産巣日神・神産巣日神がそれぞれ独神で現れ、姿を隠したと書いている。
『日本書紀』では天地に初めて現れた神を国常立尊としている。
 天御中主神は一書第四で、最初に現れたのが国常立尊で、次に国狭槌尊が現れ、高天原にいるのが天御中主尊という異伝を伝えている。
 天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神をあわせて造化三神ともいう。
 記紀に登場するのはこのときのみにもかかわらず、天の中の主という名前から宇宙の中心神とされ、信仰の対象となった。
 ただし、『延喜式』神名帳(927年)に天御中主を祭神とした神社は見当たらず、信仰対象となったのは中世の伊勢神道以降とも考えられている。
 北極星を神格化した妙見信仰と結びついたことから、妙見系の神社で祀られる他、水天宮系の神社が明治の神仏分離以降に祭神とした。新宗教の祭神となっている例もある。
 名古屋では天御中主を主祭神として祀っているところはなく、わずかに實行教の神社である中区の参神社のみが高皇産霊神、神皇産霊神とともに祀っているだけだ。

 

国常立尊(クニノトコタチ) ーーー 『日本書紀』において、天地が開けて始めに現れた神とする。一書第一では別名を国底立尊としている。
『古事記』では最初に現れた神を天御中主神とし、高御産巣日神・神産巣日神がそれぞれ独神で現れ、姿を隠し、次に国之常立神、次に豊雲野神が独身の神として現れ姿を隠したと書いている。
 原初の神ということで具体的な活躍などは描かれていない。
 中世に起こった伊勢神道が、天之御中主神、豊受大神とともに国常立神を根源神としたことから信仰の対象となり、吉田神道は国常立神と天御中主を同一神として大元尊神とした。
 その後、大本教が国常立神を重視したこともあり、新宗教の神として祀られることも多い。
 名古屋で国常立尊を祀っている緑区の神明社(下村講)神明社(田中神明社)などは伊勢の神宮の外宮由来の神社と思われる。
 南区の喚續社でも他の祭神とともに祀られている。

 

高皇産霊尊(タカミムスビ) ーーー 『古事記』では高御産巣日神、『日本書紀』では高皇産霊尊と表記される。
『古事記』では天地開闢の際、最初に天之御中主神が現れ、その次に高御産巣日神が神産巣日神(カミムスビ)と共に高天原に出現したとする。すべて独神で、その後姿を隠したと書く。
『日本書紀』の一書第四で、初めに国常立尊が現れて、そのとき高天原にいたのが天御中主尊で、次に高皇産霊尊、次に神皇産霊尊が現れたとしている。
 娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロズバタトヨアキツシヒメ)と天照大神(アマテラス)の子の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)と結婚して生まれたのが邇邇芸命(ニニギ)と天火明(アメノホアカリ)ということで、ニニギとアメノホアカリの外祖父に当たる。
 天孫降臨の際にはアマテラスよりも上位に立って指示を与えていることから、皇室の本来の神はタカミムスビだったのではないかという説がある。
 中村区の高野宮社で単独で祀られる他、千種区の高牟神社(今池)では神皇産霊神とともに祀られている。
 また、新宗教の中区参神社の祭神ともなっている。

 

神皇産霊尊(カミムスビ) ーーー 『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊と表記される。
 高皇産霊尊とともに「ムスヒ」の神とされ、独神で性別はないとされながらも高皇産霊を男性、神皇産霊を女性とする考えもある。
 大国主(オオクニヌシ)が兄の八十神らによって殺されたとき、母の刺国若比売(サシクニワカヒメ)が神産巣日に助けてくれるように頼んだところ、蚶貝比売(キサカイヒメ)と蛤貝比売(ウムカイヒメ)を遣わしてオオクニヌシを治癒させたという話が『古事記』にある。
 ムスヒ(産霊)は結びに通じることから生産や縁結びの神とされることもある。
『出雲国風土記』では神魂命という名で登場する。
 高皇産霊とともに千種区の高牟神社(今池)と中区参神社で祀られている。

 

宗像三女神(ムナカタサンジョシン) ーーー 天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)とのウケヒ(誓約)で生まれた三柱の女神の総称。
『日本書紀』本文の田心姫(タゴリヒメ)・ 湍津姫(タギツヒメ)・市杵嶋姫(イチキシマヒメ)として知られている他、別名もある。
『古事記』では多紀理毘売命(タキリビメ)、別名を奥津島比売命(オキツシマヒメ)・市寸島比売命(イチキシマヒメ)、別名を狭依毘売(サヨリビメ)・多岐都比売命(タギツヒメ)とする。
 宗像三女神を祀る神社の総本社は宗像大社(web)で、玄界灘沖の沖津宮で田心姫神を、大島の中津宮で湍津姫神を、辺津宮で市杵島姫神を祀るとしている。
『古事記』、『日本書紀』の一書によってどの神をどこで祀っているかはバラバラで混乱が見られる。宗像大社でも途中で入れ替わったりしたようだ。
 もともと筑紫の豪族の宗像氏の氏神だったのが、後にヤマト王権に取り込まれたとされる。
 アマテラスが宗像三女神に対して道中に降臨して天孫を助けて祭れと命じたと記紀は書いている。
 市寸島比売命は神仏習合で弁才天と習合したため、弁才天を祀っていた神社が明治以降に市寸島比売命を祀るとしたところも少なくない。
 名古屋では西区宗像神社(浄心)城北神社(宗像神社)【廃社】で三女神を祀っている。
 北区深島神社(柳原)は祭神がはっきりせず、現在は田心姫命を祀るとする。
 中村区厳島社(太閤)はもともと弁才天だったところで、今は市杵島比賣命を祀っている。
 北区八王子神社春日神社などの八王子神社系統の神社で五男三女神を祀るとしているところでは宗像三女神が祭神の中に入っている。

 

猿田彦大神(サルタヒコ) ーーー 『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。
 邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨する際に天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。天照大御神(アマテラス)と高木神(タカギノカミ)は天宇受売命(アメノウズメ)に何者か尋ねるように命じ、サルタヒコは自分は猿田彦大神でニニギ一行をお迎えしようと待っていたと答えた。
『日本書紀』一書(第一)は、鼻の長さは七握、背の長さは七尺で、まさに七尋、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のように照り輝いているのは赤酸漿(あかほおずき)のようだと書いている。
 ニニギ一行を高千穂の峰まで送り届けたというのは記紀で共通しているものの、その後の展開が違っている。
『日本書紀』はサルタヒコが希望して伊勢の狭長田の五十鈴川の上流までアメノウズメに送ってもらったとし、皇孫(ニニギ)がこのいきさつからアメノウズメに猿女君(さるめのきみ)の姓名を付けたとする。この後サルタヒコがどうなったかは書かれていない。
 それに対して『古事記』は、ニニギがアメノウズメに猿女君と名づけたエピソードを紹介するだけで五十鈴川に帰ったという話はない。しかし、サルタヒコは阿耶訶(あざか)で漁をしていて比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて海で溺れたといっている。ただ、ここで溺れ死んだのかどうかははっきりしない。アメノウズメはサルタヒコを送って笠沙の岬に帰ってくると魚たちを集めておまえたちは天つ神の御子に仕えるかと尋ねた云々と話は展開する。
『古事記』と『日本書紀』では話の整合性が取れていないので、記紀の話をまとめてひとつのストーリーとして理解するのは危険だ。
 溺れた地とされる三重県松阪市の阿射加神社や三重県鈴鹿市の椿大神社(web)、三重県伊勢市の猿田彦神社(web)、三重県伊勢市の二見興玉神社などで祀られる他、滋賀県高島市の白髭神社(web)をはじめとする白髭神社系の祭神ともなっている。
 中世以降は猿と申のサルつながりで庚申信仰と結びつき、導きの神ということで道祖神と習合したり、新宗教の信仰対象となったりもした。
 名古屋でサルタヒコを主祭神として祀っているところとしては、北区の猿田彦社(六が池町)や中区齋宮社(中須)、熱田区の瑞光宮があるものの、古くからサルタヒコを祀るとしていたところはほとんどないのではないかと思う。
 椿大神社の名古屋分社とされる千代ヶ丘椿神社ではアメノウズメとともに祀っている他、港区の稲荷社(十一屋)、港区の稲荷社(辰巳町)、熱田区の社宮司社(須賀町)、熱田区の櫻田神社、中区の日出神社(大須)、緑区の豊藤稲荷神社、北区の大井神社、中区の稲荷神社(古渡稲荷神社)で祭神に名を連ねている。
 猪子石村(いのこしむら)の名前の由来となったとされる牡石(猪子石神社)と牝石(大石神社)のうち、牡石でサルタヒコを、牡石でアメノウズメを祀るという話もある(猪子石神社・大石神社)。

 

天鈿女命(アメノウズメ) ーーー 『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記される。
 両親は誰とか、どういう生まれなのかなど、記紀に説明はない。
 ウズメの意味には諸説あり、はっきりしない。
 活躍する場面は二度。一度目は天照大神(アマテラス)が須佐之男(スサノオ)の乱暴狼藉に嫌気が差して天の岩屋に隠れてしまったときで、裸踊りをしてアマテラスを誘い出したとされる。
 上半身も下半身も丸出しにして踊ってそれを見ていた神々が大笑いして何事かと天の岩戸の戸をアマテラスが少し開いた云々というのは『古事記』の記述で、『日本書紀』にエロティックな描写はない。神憑りになったように喋り踊ったとある。
 二度目は邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨する際、猿田彦命(サルタヒコ)に名を尋ねる場面だ(猿田彦命の項を参照)。
 アメノウズメは五十鈴川の上流までサルタヒコを送り届けたと『日本書紀』にあり、『古事記』にはそれがない。
 ニニギが猿女君(さるめのきみ)の姓を与えたというのは記紀で共通している。
 アメノウズメはサルタヒコの妻になったという説があるが、記紀にはそういった記述はない。
 猿女君は天孫降臨の神祇氏族となったものの、中臣や忌部に押されて早くに衰退したとされる。
 椿大神社(web)の境内社(別宮)の椿岸神社など、サルタヒコとペアで祀っている神社が多い。
 名古屋では中川区の鈴宮社(戸田)、熱田区の笹社、熱田区の鈴之御前社がアメノウズメを単独で祀っている他、千種区の千代ヶ丘椿神社ではサルタヒコとともに祀られる。

 

天手力雄命(アメノタヂカラオ) ーーー 『古事記』では天手力男神、『日本書紀』では天手力雄神と表記される。
 天照大神(アマテラス)が天の岩屋に隠れて、外の神々が騒がしいので何事かと戸を少し開けて外を覗いたとき、アメノタヂカラオがアマテラスの手を取って天の岩屋から引きだしたと記紀にある。
 アマテラスを引っ張り出す専門として雇われたのか。他に活躍の場面は描かれず、『日本書紀』ではこの後登場しない。
『古事記』は、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨する際、八尺の勾玉・八尺の鏡・草薙の剣に思金神・手力男神・天岩戸別神を添えてニニギに遣わせたと書いている。
 しかし、氏族の祖になったとは書いておらず、佐那の縣の宮にいるとある。今の佐那神社(三重県多気町佐奈)がその宮とされる。
 アメノタヂカラオを祀る主な神社に、長野県長野市の戸隠神社(web)、岐阜県各務原市の手力雄神社(web)、長崎県壱岐市の天手長男神社などがある。
 名古屋市内にアメノタヂカラオを祀る神社はない。

 

太玉命(フトダマ) ーーー 『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命と表記される。
 天照大神(アマテラス)が天の岩屋に隠れて出てこなくなったとき、どういう手を使ってアマテラスを外に出すかという相談が行われ、天児屋命(アメノコヤネ)とともに太占(ふとまに)を行ったと『古事記』にある。天の香山の雄鹿の肩の骨を抜き取って、天の香山の桜の木で鹿の骨を焼いて占ったとしている。
 更にアマテラスが岩戸から少し顔を出したときに鏡を差し出してアマテラスを映すこともしている。
『日本書紀』本文では占いについては書かれず、アメノコヤネとともに天の香山で榊を掘ってきて、アマテラスが天の岩屋から出てきたときに注連縄を張って岩戸に戻れなくする役割を与えられている。
 一書(第三)では、榊を掘ってきたのはアメノコヤネで、フトダマはそれを持つ役だと書いている。
 次に登場するのは邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の場面で、フトダマはアメノコヤネ、天宇受売命(アメノウズメ)、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノヤ)とともにニニギのお供として天降ったと『古事記』はいう。『日本書紀』本文も同じ事を書いている。
 一書(第二)では、高皇産霊尊(タカミムスビ)からアメノコヤネとともに皇孫のためにつつしみ祭るようにという神勅を受けている。
 フトダマが忌部氏(いんべ)の祖ということは記紀で共通している。アメノコヤネは中臣の祖とし、両者は神祇氏族となっていくのだけど、途中で中臣が発展して忌部は押される恰好になる。
 アメノコヤネには「天」が付き、フトダマには付かない。
 忌部の子孫の斎部広成(いんべのひろなり)はそれが気にくわなかったようで、『古語拾遺』(807年)の中で天太玉命と表記して、タカミムスビ(高皇産霊尊)の子としている。記紀には誰の子といった記述はない。
 奈良県橿原市の天太玉命神社、千葉県館山市の安房国一宮・安房神社(web)などで祀られている他、徳島県鳴門市の阿波国一宮・大麻比古神社(web)祭神の大麻比古神は天太玉命のこととされる。
 名古屋では中区の日置神社がフトダマを祀る唯一の神社となっている。

 

天児屋命(アメノコヤネ) ーーー 『古事記』では天児屋命、『日本書紀』では天児屋根命と表記される。
 太玉命(フトダマ)とコンビで語られることが多い。
『古事記』ではフトダマとともに天照大神(アマテラス)の天の岩屋隠れの場面で登場し、天の香山の雄鹿の肩の骨を抜き取って、天の香山の桜の木で鹿の骨を焼いて占ったとしている。
 天の香山から掘り出してきた賢木(榊)に玉や鏡、御幣などを取り付け、フトダマがそれを持ち、アメノコヤネが祝詞を読んだとする。
 天宇受売命(アメノウズメ)が踊りを踊って神々が笑い騒いだのでアマテラスが気になって岩戸を少し開けたとき、フトダマとともに鏡をアマテラスの前に差し出した。
 ニニギの天孫降臨の際にお供として天降り、中臣の祖となったと記紀は伝える。
『日本書紀』本文に占いをしたという記述はなく、アメノコヤネとフトダマが天香山から榊を取ってきて鏡などを取り付け、皆で祈祷したとする。アマテラスが岩屋から引っ張り出された後、岩屋に注連縄を張って戻れないようにしたのがアメノコヤネとフトダマだと書いている。
 一書(第二)では中臣連の祖先のアメノコヤネが神祝(かみほぎ)をのべたといっている。
 一書(第三)ではアメノコヤネは興台産霊(こごとむすひ)の子となっている。
 興台産霊の系統について『先代旧事本紀』は、市千魂尊(いちちたまのみこと)の子とし、その親を津速魂尊(つはやむすひ)としている。
 天孫降臨の際には、高皇産霊尊(タカミムスビ)からフトダマとともに皇孫のためにつつしみ祭るようにという神勅を受けている(一書(第二))。
 中臣連の祖ということから、中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神となり、春日大社(web)をはじめとする春日神社系の神社で祭神として名を連ねている。大阪府東大阪市の枚岡神社(web)や京都市の吉田神社(web)でも祀られる。
 名古屋では中区の春日神社(大須)、中村区の春日神社(新富町)、中川区の春日神社(昭和橋通)、北区の八王子神社春日神社の他、西区の十所社(城町)、北区の味鋺神社、中区の朝日神社、昭和区の御器所八幡宮でも祀られている。

 

香香背男(カカセオ) ーーー 『古事記』には出てこず、『日本書紀』の葦原中国平定の場面でその名が語られる。
 本文では、高天原から派遣された武甕槌命(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)によって国譲りの話がまとまり、大国主命(オオクニヌシ)が幽界に去った後、カカセオのことが出てくる。
 タケミカヅチとフツヌシはもろもろの従わない神を従わせ、草木や石までも平らげたが星神のカカセオだけが服従しないので、倭文神(シトリガミ)と建葉槌命(タケハヅチ)を遣わして服させたとある。
 一書(第二)では天津甕星(アマツミカボシ)またの名を天香香背男(アメノカカセオ)といい、地上ではなく天にいる悪い神といっている。
 天降って葦原中国を平定する前にまず甕星を征するべきとして、斎主をする主を斎の大人(いわいのうし)といい、今は東国の香取の地にいるとする。
 本文では”天”は付かず、一書では”天”が付き、天の神としているところに大きな違いがある。一書ではシトリガミやタケハヅチが征したのではなく、斎主が行ったといっている。それは香取の神というのだけど、フツヌシとはまた別の神のようだ。
 結局、アメノカカセオは登場せず、間接的に語られるのみの存在となっている。とにかく天に従わない神という扱いだ。
 タケミカヅチやフツヌシでも従わせられなかったのに、どうしてシトリガミやタケハヅチにはそれができたのか。ニュアンスとしては戦をしたというより説得したという感じがある。
『日本書紀』本文が星神としているので、普通に考えれば星の神なのだろうけど、それもよく分からない。カカセオの正体については古くから諸説ありはっきりしない。個人的には彗星ではないかと推測したりしている。そのあたりをモチーフにしたのが映画『君の名は。』(web)だった。
 日本神話で語られるのはこれのみにもかかわらず、全国の星宮や星神社の祭神となっている。
 名古屋では南区の星宮社、西区の星神社(上小田井)で祀られている。

 

武甕槌神(タケミカヅチ) ーーー 『古事記』では建御雷之男神(建御雷神・別名に建布都神、豊布都神)、『日本書紀』では武甕槌神・武甕雷男神と表記される。
 伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の神生みの場面において、『古事記』では出てこず、『日本書紀』一書(第六)のみがタケミカヅチについて書いている。
 火の神・軻遇突智(カグツチ)を産んだときイザナミは身を焼かれて死んでしまい、怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したとき剣の鍔からそそいだ血から生まれたのがタケミカヅチという。
 最初に甕速日神(ミカハヤヒ)が生まれ、これがタケミカヅチの先祖といっている。あるいは、甕速日神に次いで熯速日神(ヒノハヤヒ)が生まれ、その次に武甕槌神(タケミカヅチ)が生まれたともいうとしている。
 それに先だって剣の刃からしたたる血が天の安河のほとりにたくさんある岩となり、これが経津主神(フツヌシ)の先祖だと書く。
 次に登場するのが葦原中国平定の場面だ。『古事記』ではこのときが初登場となる。
 地上を平定するために遣わした天菩比(アメノホヒ)と天若日子(アメノワカヒコ)が失敗し、今度は誰にしたらいいかと天照大神(アマテラス)は思兼神(オモイカネ)たちに相談したところ、天尾羽張神(アメノオハバリ)がよいだろうということになるのだけど、アメノオハバリはそれなら自分の子のタケミカヅチの方がいいでしょうと推薦したため、アマテラスはそれを聞き入れ、天鳥船神(アメノトリフネ)を添えてタケミカヅチを地上に派遣した。
 出雲の国に降り立ったタケミカヅチとアメノトリフネは、大国主神(オオクニヌシ)に国譲りを迫る。十握剣を波の上に逆さに立ててその剣にあぐらをかいたというシーンはよく知られる。
 オオクニヌシは息子たちに訊いてほしいと言うので、まず八重事代主神(コトシロヌシ)に問うたところあっさり了承してコトシロヌシは隠れてしまった。
 次に建御名方神(タケミナカタ)に訊ねたところ、自分と力比べをしようではないかというのでタケミカヅチは戦うことになるも、勝負はあっけなくタケミカヅチの勝ちとなり、タケミナカタは諏訪まで逃げていき、国譲りを了承してここからもう出ませんと誓いを立てたとしている。
 国譲りの場面において『古事記』ではフツヌシが登場しない一方、『日本書紀』ではフツヌシが主役として描かれる。
『日本書紀』本文ではアマテラスではなく高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々を集めて地上に派遣する神選びを主導している。そこでは皆がフツヌシがいいでしょうというのでそうなろうとしていたところ、タケミカヅチがちょっと待ったをかける。どうしてフツヌシだけが丈夫(ますらお)で自分は丈夫ではないのかと激高するので仕方なくという感じでフツヌシとともに派遣されることになる。
 この後の展開も『古事記』とは違っていて、大己貴神(オオアナムチ)に国譲りを迫ると子のコトシロヌシに訊ねてほしいというところまでは同じなのだけど、この後タケミナカタは出てこない。このあたりの微妙な違いは何かを暗示しているかもしれない。
 タケミカヅチがもう一度登場するのは、神武東征の場面だ。
 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)が大和入りできずに熊野で大苦戦しているとき、アマテラスとタカミムスビ(高木神)がタケミカヅチに手を貸してやるといいというと、タケミカヅチは平定のときに使った横刀を下せば事足りると答え、高倉下を通じて(夢のお告げで)カムヤマトイワレビコに渡されると敵はひとりでに切り倒されてしまったと『古事記』は書いている。
『日本書紀』はこのあたりはあっさりとした短い記述で、展開はほとんど同じながらタカミムスビは登場しない。
 このとき遣わされた剣は「ふつのみたま」で、後に石上神宮(web)で祀られることになる。
 タケミカヅチというと、常陸国一宮の鹿島神宮(web)の祭神としてよく知られている。ただし、どうして関東の古社で無関係とも思えるタケミカヅチが祀られることになったのかはよく分かっていない。古くは香島の天の大神といい、『常陸国風土記』にもタケミカヅチの名は登場しない。『古事記』、『日本書紀』に鹿島神宮についての記述はない。
 奈良の春日大社(web)は768年に鹿島の神を奈良に呼んで祀ったとしており、『古語拾遺』(807年)に「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」とあり、『延喜式』(927年)の「春日祭祝詞」に「鹿島坐健御賀豆智命」とあることから、遅くとも8世紀には鹿島の神はタケミカヅチという認識となっていたことが推測できる。
 藤原氏の氏神ともされたため、全国の春日神社系の祭神ともなっている。
 名古屋ではどういうわけか、タケミカヅチを祀る鹿島社系の神社が一社もない。現存していないだけではなく、江戸時代の書にも鹿島社は見覚えがないので境内社以外に独立した神社としてはほとんどなかったのではないかと思う。
 中村区の八幡社春日社合殿(元中村)、中区の春日神社(大須)、北区の八王子神社春日神社で祀られる他、中川区の神明社(荒子)、中川区の鹽竈神社(西日置)、北区の味鋺神社で祭神として名を連ねている。

 

経津主神(フツヌシ) ーーー 『日本書紀』のみに登場する神で『古事記』には出てこない。
『出雲国風土記』では布都怒志命と表記され、『常陸国風土記』の普都大神は同一神とされる。
『日本書紀』神産みの段の一書(第六)は、伊弉諾尊(イザナギ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を斬ったときに、剣の刃からしたたり落ちる血が天の安河のほとりにある岩群、五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の先祖と書いている。
 一書(第七)では、カグツチの血がそそいで天の八十河原にあるたくさんの岩を染め、それで生まれた神を磐裂神(イワサク)といい、次に根裂神(ネサク)が生まれ、その子の磐筒男神(イワツツオ)、次に磐筒女神(イワツツメ)、その子の経津主神(フツヌシ)が生まれたとしている。
『先代旧事本紀』も同じように磐裂神・根裂神の子の磐筒男・磐筒女が経津主神を生んだとする。
 葦原中国平定の段では、高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々を集めて誰を派遣するのがいいか相談したところ、皆はフツヌシがいいとなったところへ武甕槌神(タケミカヅチ)が現れて、どうしてフツヌシだけが丈夫(ますらお)で自分は丈夫ではないのかと激昂したため、フツヌシにタケミカヅチをそえて葦原中国に送ることになった。
 本来主役であったはずのフツヌシは葦原中国平定の場面ではまったく活躍せず、すべてをタケミカヅチに奪われる恰好になった。そのため、タケミカヅチと比べると影が薄い。
『古事記』ではタケミカヅチが最初から主役として扱われ、天鳥船神(アメノトリフネ)とともに天降ったといっている。そのため、アメノトリフネをフツヌシと同一視する説もある。
 フツヌシを下総国一宮の香取神宮(web)で祀るようになった経緯について記紀は記しておらず、経緯はよく分かっていない。
『古語拾遺』(807年)には「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とあり、平安時代には香取神宮の神はフツヌシという認識となっていたようだ。
『延喜式』神名帳(927年)で”神宮”は、伊勢の大神宮(内宮)と鹿島・香取のみで、古くからこの二社は対の関係とされていた。利根川を挟んで対峙する恰好になっている。
 奈良の春日大社(web)に藤原永手が、鹿島のタケミカヅチ、香取のフツヌシ、枚岡神社(web)の天児屋根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)を御蓋山の麓に祀り(768年)、藤原氏が氏神としたため、春日神社系の神社で祀られている。
 鹽竈神社(web)でも、塩土老翁神(シオツチノオジ)とともにタケミカヅチ・フツヌシが祀られる。
 名古屋も同系列の春日社、鹽竈神社の祭神として連なっている。
 北区の八王子神社春日神社、中区の春日神社(大須)、中川区の鹽竈神社(西日置)

 

建御名方神(ケミナカタ) ーーー 『古事記』に登場する神で、『日本書紀』には出てこない。
 天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)の命で葦原中国平定のため天降った建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)は、大国主神(オオクニヌシ)に国譲りを迫った。すると子の事代主神(コトシロヌシ)が答えるだろうということで問うとあっさり承諾して隠れてしまった。それに対してもうひとりの子の建御名方神(タケミナカタ)は抵抗した。
 千引の石を軽々と持ち上げてやってきて、自分と力比べをしようではないかとタケミカヅチの手を取ると、その手はたちまち氷柱に変わり、剣の刃になった。逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を取ると柔らかい葦(あし)のようになり、タケミカヅチはタケミナカタを投げ飛ばした。恐れをなしたタケミナカタは逃げだしたものの、科野国の州羽海で追いつかれてしまう。そこでタケミナカタは降参して、国譲りを承諾し、この先自分も子供も決して抵抗せず、ここから二度と出ないと約束をした(なので神無月に日本中の神々が出雲に集まるときもタケミカヅチは参加していないことになっている)。
 その後、タケミナカタは諏訪大社(web)で祀られることになるのだけど、その経緯についてはよく分かっていない。もともと諏訪にはミシャクジ信仰や洩矢神など縄文時代から続く古い土着信仰があったとされ、タケミナカタはよそ者の征服者とする考えもある。
『日本書紀』ではオオクニヌシの子はコトシロヌシのみとなっており、タケミナカタについては書かれないため出自は明かではない。『先代旧事本紀』は大己貴神(オオナムチ)と高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の子としている。
 諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社に分かれ、上社は本宮と前宮があり、下社は秋宮と春宮がある。それぞれ建御名方神(タケミナカタ)とその妃神とされる八坂刀売神(ヤサカトメ)を祀っている。ヤサカトメについては『古事記』、『日本書紀』に登場せず、正体はよく分からない。地元神という説もある。
 タケミナカタについても諏訪大明神についても諏訪大社についても多くの人が様々な説を唱えており、非常に難しいテーマとなっている。個人的にはタケミナカタは尾張とも関わりがあるのではないかと疑っている。
 名古屋では緑区の諏訪社(相原郷)諏訪社(鳴海町諏訪山)、中村区の諏訪社(諏訪町)、守山区の諏訪社(中志段味)で祀られている。
 守山区の白山神社(小幡)の祭神に入っているのは諏訪社を合祀したためで、守山区の上小田井の諏訪社では建南方命という祭神名で祀られている。
 古くは南宮とも呼ばれていたことから、南宮大社(web)との関係も指摘されている。

 

事代主神(コトシロヌシ) ーーー 『日本書紀』では事代主神、『古事記』では八重事代主神として登場する。八重言代主神ともする。
『古事記』では大国主神(オオクニヌシ)と神屋楯比売命(カムヤタテヒメ)の子とし、『日本書紀』は大国主神と高津姫神(タギツヒメ)との子としている。
 タギツヒメは宗像三女神の一柱である多岐都比売命/湍津姫のこととされ、海部氏系図では高津姫神は神屋多底姫(カムヤタテヒメ)の別名としていることからタギツヒメとカムヤタテヒメは同一と考えてよさそうだ。
 コトシロヌシの子の媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)が初代神武天皇の皇后となり、五十鈴依媛命(イスズヨリヒメ)が第2代綏靖天皇の皇后となったとされる。
 記紀ともにオオクニヌシの国譲りの場面で登場し、天津神に葦原中国を譲る決定をしたのがコトシロヌシだった。事代主もしくは言代主という名前から神の託宣を伝える役割を担っていたと考えられている。
 国譲りの場面では、浜に魚釣り、もしくは鳥射ちをしに行っていると記紀は書いている。これは何かを暗示しているに違いない。
 国譲りを承諾したあと、『古事記』は船を踏み傾けて天の逆手を青柴垣に打ち成らして隠れたといっている。青柴垣は神が宿るとされる垣のことで、逆手というのは通常の柏手とは違う形の拍手で、ある種の呪術とされる。『日本書紀』は天の逆手について触れていない。
 現在でも皇居にある八神殿(はっしんでん)の第八殿で事代主神を祀っているのは、このときのコトシロヌシの呪いを封じるためとも考えられる。
 国譲りの経緯に関して、『日本書紀』一書(第二)は本文とはかなり違う展開となっている。天津神によって派遣された経津主神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)は大己貴神(オオナムチ)に対して天津神に国を奉るかと問いかけたところ、あなたたちは怪しい、ここは自分の土地だから譲れないというのでフツヌシは天に戻って報告した。それを聞いた高皇産霊尊(タカミムスビ)はなるほど一理あるといい、それでは現世の支配を皇孫が受け持ち、お前のために立派な宮を建てるから幽界の支配を任せたいと思うがどうだろうと提案し、オオナムチはそれを受け入れ、体に八坂瓊の大きな玉をつけて永久に隠れたとしている。その際、岐神(フナトノカミ)を自分の代わりに付けるといい、フツヌシはフナトノカミの先導で各地を巡って平定し、このとき帰順した首長の中に大物主神(オオモノヌシ)と事代主神(コトシロヌシ)がいたと書いている。
 本文よりもこちらの方が事実を反映しているように思えるけどどうだろう。
『日本書紀』には、神功皇后が新羅を討った帰りに武庫の水門(むこのみなと)で事代主尊に「吾を御心長田国に祀れ」と神告を受けたという話が出てくる。そこで山背根子の女・長媛に祀らせたという。今の兵庫県神戸市の長田神社(web)がそれに当たるとされる。
 中世に七福神の恵比寿神と同一視されたことからオオクニヌシ(大黒様)とともに祀られることもあった。
 伊豆国一宮の三嶋大社(web)は大山祇命(オオヤマツミ)とともに積羽八重事代主神という祭神名でコトシロヌシを祀っている。
 その他、奈良県御所市の鴨都波神社(web)、島根県松江市の三保神社(web)、徳島県阿波市の事代主神社などが祭神としている。
 名古屋ではコトシロヌシを主祭神として祀っている神社はなく、中川区の八幡社(長須賀)、緑区の豊藤稲荷神社、守山区の斎穂社で他の神々とともに祀られている。

 

少彦名命(スクナヒコナ) ーーー 『古事記』では少名毘古那神、『日本書紀』では少彦名命と表記される。スクナビコナともいう。
 大国主神(オオクニヌシ)と協力して国作りをした小さな神というのは記紀で共通している。ただ、いくつか違いがある。
『古事記』はこう語る。オオクニヌシが出雲の美保の岬にいるとき、蘿藦(ががいも)の船に乗って鵝鳥(がちょう)の皮を剥いだ着物を着た神がやって来て名前を尋ねても答えない。神々の誰も知らないという。そのときヒキガエルが久延毘古(くえびこ)が知っているでしょうというので呼び出して訊いたところ、神産巣日神(カミムスビ)の子の少名毘古那神(スクナヒコナ)ですと答えた。カミムスビにそれを伝えると、間違いないといい、葦原色許男命(アシハラシコオ)と兄弟となって国作りをするよう命じた。
 その後、二神は協力して国作りをし、スクナヒコナは黄泉の国に行ってしまったという。
 それに対して『日本書紀』本文は、オオクニヌシをここでは大己貴命(オオナムチ)として、スクナヒコナを高皇産霊尊(タカミムスビ)の子といっている。これは大きな違いだ。
 オオナムチがいたのは出雲の五十狭々(いささ)の小浜で、スクナヒコナはヤマカガミで船を作り、ミソサザイの羽を衣にしていると書く。オオナムチはその神を掌に乗せてもてあそんでいると跳ねて頬をつついたといい、タカミムスビはイタズラ好きで教えに従わない子だといっている。
 病気治療の方法を定め、鳥獣や昆虫の災いを除くためのまじないの法を定めたとあることから、医療の神、酒の神などの性格を与えられることになる。
 オオナムチはスクナヒコナに、国作りは上手くいっただろうかと訊ねると、上手くいったところもあり、上手くいかなかったこともあるとスクナヒコナは答え、出雲の熊野の岬に行って常世に去ってしまったとする。あるいは、粟島に行って粟茎(あわがら)によじのぼって弾かれて常世郷に行ったとも書いている。
 記紀で食い違う部分が何かを表しているようだけど、その意味するところはよく分からない。
『出雲国風土記』や『播磨国風土記』、『万葉集』などにも登場する。
 茨城県ひたちなか市の酒列磯前神社(web)、群馬県高崎市の小祝神社(web)、東京都調布市の布多天神社(web)、東京都稲城市の穴澤天神社、静岡県藤枝市の飽波神社、滋賀県近江八幡市の沙沙貴神社(web)、大阪府大阪市の生根神社(web)、和歌山県和歌山市の淡嶋神社(web)など、『延喜式』神名帳(927年)に載る古社でスクナヒコナを主祭神として祀る神社がけっこうある。
 名古屋で式内社とされる神社でスクナヒコナを祀っているところはないものの、西区の武島天神社、緑区の玉根社、中村区の油江天神社、中村区の土江神社など、古社とおぼしき神社の祭神となっている。
 中区の少彦名神社(丸の内)は医薬品業界が共同で大正時代に建てた神社だ。

 

木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ) ーーー 桜の女神、富士山の女神とされる。よく知られているコノハナサクヤヒメは記紀では別名とされ、『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀では』神吾田津姫(神吾田鹿葦津姫)と名乗っている。
 天孫降臨した邇邇芸命(ニニギ)はコノハナサクヤヒメと出会い求婚し、父の大山津見神(オオヤマツミ)は喜んで承諾して姉の石長比売(イワナガヒメ)も一緒に嫁がせようとしたところ、イワナガヒメはきれいじゃないという理由で送り返され、怒ったオオヤマツミはイワナガヒメをめとれば岩のように長い寿命を得たのにコノハナサクヤヒメだけを妃にしたら命は咲く花のように短くなるだろうと予言のような言葉を投げかけ、コノハナサクヤヒメは一夜で身ごもったことをニニギに疑われ、潔白を証明するために産屋の扉を塗りかめて火を放ち、もし天孫の子なら無事に生まれるだろうと誓約(ウケヒ)をして3人の男の子を産んだ、というのが記紀における物語で、細かい違いはあるものの大きな流れに違いはない。
『古事記』では最初に生まれた子を火照命(ホデリ)、2番目が火須勢理命(ホスセリ)、3番目が火遠理命(ホオリ)とする。ホオリのまたの名を天津日高日子穂々手見命(アマツヒコヒコホホデミ)という。
 ホデリが海幸彦、ホオリが山幸彦で、山幸彦の系統が初代神武天皇につながる。
『日本書紀』は葦原中国平定の段の一書(第二)でこの話を書いている。ここでは天孫の寿命が短くなるだろうと呪ったのはイワナガヒメとしている。コノハナサクヤヒメが産む子供順番も違っていて、最初が火酢芹命(ホスセリ)で、2番目が火明命(ホアカリ)、3番目が彦火火出見尊(ヒコホホデミ)となっている。ヒコホホデミのまたの名を火折尊(ホノオリ)とする。
 一書(第三)では、最初が火明命、2番目が火進命(ホノススミ/または火酢芹命)、3番目が火折彦火火出見尊となっている。
 一書(第四)では生まれた子供は4人とし、生まれる前ではなく生まれた後にコノハナサクヤヒメはニニギに報告したとある。ニニギがそれを疑いあざけったので、コノハナサクヤヒメは戸のない室に自分と子供たちを閉じ込めて火を放ち、天神の子なら無事に出てくるでしょうといい、最初に出てきたのが火明命で、2番目が火進命、3番目が火折尊、4番目が彦火火出見尊といっている。最後にコノハナサクヤヒメが出てきてこれで分かったでしょうというと、ニニギは最初から本当は分かっていたんだけど民たちが疑うといけないのでこうやって示して見せたのだと苦しい言い訳をしたのだった。
 山の神の娘との間に子供をもうけた天神は、その子が海の神の娘との間に子供をもうけ、それが神武天皇として即位するというのが記紀のストーリーだ。
 静岡県富士市の富士山本宮浅間大社(web)をはじめとした全国の富士社、浅間社で広く祀られている。
 その他、ニニギの天孫降臨伝説がある日向(宮崎県)の都萬神社(web)などの祭神ともなっている。
 名古屋では中川区の浅間社(下之一色)、中区の富士浅間神社(大須)などの浅間社・富士社の他、名東区の和爾良神社、千種区の上野天満宮、北区の山田天満宮、千種区の城山八幡宮、南区の神明社(呼続)、南区の神明社(鳥栖)でも祭神に名を連ねている。

 

磐長姫(イワナガヒメ) ーーー 『古事記』では石長比売、『日本書紀』では磐長姫と表記される。
 大山津見神(オオヤマツミ)の娘で、木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)の姉に当たるとされる。
 天孫降臨した邇邇芸命(ニニギ)はコノハナサクヤヒメと出会い求婚し、父のオオヤマツミは姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせようとしたところ、イワナガヒメは醜いという理由で送り返されてしまう。怒ったオオヤマツミはイワナガヒメをめとれば岩のように長い寿命を得たのにコノハナサクヤヒメだけを妃にしたら命は咲く花のように短くなるだろうと予言のような言葉を投げかけたと『古事記』は書く。
 それに対して『日本書紀』は葦原中国平定の段の一書(第二)で、天神の寿命が短くなるだろうと呪ったのはイワナガヒメとしている。
 磐長のイワナガと木花のコノハナは対の関係に違いなく、それぞれ磐座信仰と樹木信仰を表しているとも考えられる。縄文時代から続く磐座を捨て、天孫が支配する新たな世界は樹木信仰を根本とすることを暗示した逸話かもしれない。岩は動かず成長しないのに対して樹木は生長し、生まれ変わる。この姉妹の神話はそのあたりを象徴したものだろうか。
 静岡県賀茂郡の雲見浅間神社(web)、静岡県伊東市の浅間神社、岐阜県岐阜市の伊豆神社などがわずかにイワナガヒメを単独で祀っている。コノハナサクヤヒメとともに祀る神社も少しある。
 名古屋では中川区の八幡社(長須賀)が唯一、イワナガヒメを他の祭神と一緒に祀っている。

 

大山祇神(オオヤマツミ) ーーー 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神と表記される。
『古事記』では伊邪那岐神(イザナギ)と伊邪那美神(イザナミ)が神生みをした際に風の神、木の神、野の神とともに山の神として生まれたとしている。
『日本書紀』一書第六は、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が大八州国を生んだ後、風の神、食の神に続いて海の神、水門の神、木の神、土の神などとともに山の神を生み、山の神を山祇というとしている。
 一書第七では、イザナギはカグツチを三段に斬り、 一段は雷神、一段は大山祇神(オオヤマヅミ)、一段は高龗(タカオカミ)となったとする。
 一書第八では、イザナギがカグツチを斬り殺したときに五つに分かれ、そのうちの首がオオヤマズミに化生したと書いている(体は中山祇、手が麓山祇、腰が正勝山祇、足が䨄山祇)。
 オオヤマツミ自身の活躍が記紀に描かれることはなく、多くの神の親神として登場する。
 天孫の瓊瓊杵尊(ニニギ)の妻となった木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)と、醜いという理由で送り返されてしまった姉の石長比売(イワナガヒメ)の他、須佐之男命(スサノオ)が八俣大蛇(ヤマタノオロチ)から守った櫛名田比売(クシナダヒメ)の両親の足名椎(アシナヅチ)・手名椎(テナヅチ)、スサノオが妃とした木花知流比売(コノハナチルヒメ)などもオオヤマツミの子とされる。
 愛媛県今治市の大山祇神社を総本社とし、静岡県三島市の三嶋大社(web)でも祀られている。
 全国の山神社はこの二社から勧請したものと、集落で独自に山の神を祀ったものとに大別される。全国的に見て愛知県は特に山神社が多いところで、江戸時代の書を見ると多くの村で山神を祀っていたことが分かる。一社ではなく数社の山神があったところも少なくない。
 名古屋に現存する山神社としては、中区の山神社(松原)、瑞穂区の山神社(下山町)、千種区の山神社(田代町)、南区の山神社(道徳)、西区の山神社(上宿)、港区の山神社(知多町)、守山区のお福稲荷社・山神社・白竜社がある。
 守山区の大山祇神社(翠松園)は昭和初期に山を切り開いて住宅地にしたときに祀ったもので歴史は浅い。
 その他の神社でオオヤマツミが祭神に加わっているのは、明治以降に山神を合祀したものだ。

 

軻遇突智神(カグツチ) ーーー 『古事記』では火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤオ)・火之炫毘古神(ヒノカガビコ)・火之迦具土神(ヒノカグツチ)、『日本書紀』では軻遇突智と表記される。
 伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)との間に生まれた火の神で、イザナミはカグツチを産んだときに女陰に火傷を負って死んでしまい、怒ったイザナギによってカグツチは斬り殺されてしまう。殺されたカグツチの血や体から多くの神が生まれたと『古事記』は語る。
『日本書紀』一書第二は、火の神・軻遇突智(カグツチ)が生まれたときにイザナミは焼け焦げて死んでしまったと書き、ここではイザナギがカグツチを斬り殺したことには触れず、カグツチはイザナミが生んだ土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)をめとって稚産霊(ワクムスヒ)が生まれたとしている。このワクムスビから蚕と桑、五穀が生まれたという。
 一書第三は、カグツチではなく火産靈(ホムスビ)とし、イザナミは焼け死んで神ではなくなってしまったと書いている。
 一書第五では、イザナミは死んだ後、紀伊国熊野の有馬村に葬られたとする。
 イザナミが死んで怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したという話は一書第六で語られるもので、この後イザナギはイザナミを求めて黄泉の国を訪ね、そこで仲違いして逃げ帰り、禊ぎをしたときに多くの神々とともに天照大神(アマテラス)・月讀尊(ツクヨミ)・素戔鳴尊(スサノオ)の三貴神が誕生したという話になる。
 一書第七はカグツチを斬り殺したときに雷・山・水の神が生まれたとし、一書第八は五段に斬られて山の神がうまれたとする。
 斬軻遇突智に命を付けて斬軻遇突智命としているのは一書第八のみで、他は命も尊も付けていない。そこには何らかの意図があったと見るべきだ。
 火が多くのものを生み出す象徴とされていたのは間違いないだろうけど、母を死なせ、父に殺された神を火の神として祀ることになった経緯についてはよく分からない。記紀の話からすると、当然怨霊化してもおかしくない神だから、それを鎮めるために祀ったのが始まりと考えるべきだろうか。
 静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社(web)をはじめとする全国の秋葉社や、京都府京都市の愛宕神社(web)を総本社とする愛宕社系の神として祀られている。
 名古屋には秋葉社がたくさんある一方、愛宕社は千種区の愛宕神社(北千種)一社しかない。ここでは祭神を火産神としている。社名を迦具土神社としているところも何社かある。
 その他、式内社とされる北区の羊神社がカグツチを主祭神として祀っている。

 

罔象女神(ミツハノメ) ーーー 『古事記』では弥都波能売神(ミヅハノメ)、『日本書紀』では罔象女神(ミツハノメ)と表記される。
『古事記』は伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んだとき女陰に火傷をしてしまい、苦しみの中、嘔吐して生まれたのが金山毘古神(カナヤマヒコ)・金山毘売神(カナヤマヒメ)で、脱糞して生まれたのが波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコ)・波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメ)、尿から生まれたのが弥都波能売神(ミズハノメ)と和久産巣日神(ワクムスビ)と書いている。
 ワクムスビは富宇気毘売神(トヨウケヒメ)の親神とされる。
『日本書紀』一書第二は、イザナミが焼け死ぬときに、土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神・罔象女(ミツハノメ)が生まれたとする。
 一書第三・第四でも同じようにハニヤマヒメとミツハノメが生まれたとしている。
「ミ」は水、「ツ」は格助詞、「ハ」は早いを意味するというのが一般的な解釈となっている。「罔象」は水の精のこととされる。
 ミツハノメを主祭神として祀っている神社としては、奈良県吉野郡の丹生川上神社中社(web)がある(上社は高龗神(タカオカミ)、下社は闇龗神(クラオカミ)を祀る)。
 他にミツハノメを主祭神として祀っている神社は少なく、籠神社(web)の奥宮・真名井神社や熱田神宮(web)内の清水社など、相殿神や境内社の神として祀っているところは少なくない。
 名古屋では、名東区の貴船社(一社)貴船社(貴船)が高龗神(タカオカミ)ではなくミツハノメを祭神としている(京都府京都市の貴船神社/webの祭神は高龗神)。日吉神社(上社)も上社村の貴船社を合祀しているのでミツハノメが祭神に入っている。
 その他、式内社とされる昭和区の川原神社は日神、埴山姫神とともにミツハノメ(罔象女神)を祀り、北区の大井神社の祭神ともなっている。
 個人的に式内社ではないかと思っている昭和区の御器所八幡宮でも祭神に名を連ねているのが気になる。

 

波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神(ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメ) ーーー 『古事記』では波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神(ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメ)、『日本書紀』では埴山姫/埴山媛(ハニヤマヒメ)と表記される。
『古事記』は、伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んで女陰に火傷をして苦しんでいるとき、嘔吐して生まれたのが金山毘古神(カナヤマヒコ)・金山毘売神(カナヤマヒメ)、脱糞して生まれたのが波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコ)・波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメ)、尿から生まれたのが弥都波能売神(ミズハノメ)と和久産巣日神(ワクムスビ)と書く。
『日本書紀』は、一書第二でイザナミが焼け死ぬときに、土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神・罔象女(ミツハノメ)が生まれたとし、一書第三・第四でもハニヤマヒメとミツハノメが生まれたとする。男神のハニヤスヒコは登場しない。
 一書第二は、斬軻遇突智(カグツチ)がハニヤマヒメをめとって稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとも書いている。
 埴(はに)は埴輪(はにわ)のように土を意味する。大便から生まれたということからの連想ともされる。
 神社の祭神として祀られる場合は、埴山彦神・埴山姫神と表記されることもある。
 ハニヤスヒメ/ハニヤマヒメを単独で祀る神社は全国でも少ない。
 名古屋では中川区の神明社・土之宮合殿が埴安比咩神という名で祀り、昭和区の川原神社が埴山姫神として祀っている。

 

龗神(オカミ) ーーー 『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記される。
『古事記』は伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んだとき女陰に火傷をして死んでしまったことに怒った伊邪那岐神(イザナギ)がカグツチを斬り殺し、そのとき剣からしたたった血が指から流れ落ちて生まれたのが闇淤加美神(クラオカミ)で、次に闇御津羽神(クラミツハ)が生まれたとしている。
『日本書紀』一書(第六)は、剣の柄からしたたった血から闇龗(クラオカミ)、次に闇山祇(クラヤマズミ)、次に闇罔象(クラミツハ)が生まれたとする。
 一書(第七)では、カグツチを三段に斬って、一段が雷神、一段が大山祇神(オオヤマヅミ)、一段が高龗(タカオカミ)となったと書いている。
 闇は谷を、高は山を表し、龗は龍の古語とされる。
 京都府京都市の貴船神社(web)は高龗を祭神とする。
 丹生川神神社の中社(web)は罔象女神を、上社は高龗神、下社は闇龗神を祀るとしている。
 名古屋では北区の東八龍社西八龍社八龍社(福徳町)、中川区の雨宮社、中村区の白龍社(名駅南)で高龗神を祀っている。
 闇龗神を祭神としている神社は名古屋にはない。

 

金山彦神(カナヤマヒコ) ーーー 『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦と表記される。
 記紀ともにイザナミが火の神カグツチを生んで女陰にやけどをして苦しんでいるときに嘔吐物から生まれた神としている。
『古事記』は金山毘古神(カナヤマヒコノカミ)と金山毘売神(カナヤマヒメノカミ)が生まれたとしているのに対して、『日本書紀』一書(第四)は生まれたのは金山彦のみとしている。
『古事記』がいう「多具理」は何かを暗示しているのだろうけど、一般的には嘔吐物と解され、溶けた金属を鋳造するなどのイメージと重なり、金物全般の神とされた。
 カナヤマヒコを祀る総本社は岐阜県不破郡垂井町にある南宮大社(web)とされる。『延喜式』神名帳(927年)では「仲山金山彦神社」となっているので、早くからカナヤマヒコを祀る神社だったようだ。
 南宮大社社伝によると、神武東征の際に金鵄(金色のとんび)を遣わせて八咫烏を助けて戦勝をもたらした功績により、神武天皇即位後に南宮山に祀ったのを始まりとしている。カナヤマヒコは美濃地方の有力豪族の首長と考えるのが自然かもしれない。
 全国の金山神社は南宮大社から勧請して祭神をカナヤマヒコとしているところが多い。
 金属加工その他の企業でもカナヤマヒコを祀っているところがたくさんあり、トヨタ自動車も社内の豊興神社でカナヤマヒコとカナヤマヒメを祀っている。
 名古屋では熱田区の金山神社(金山町)、中村区の金山神社(長戸井町)の他、北区の金神社(山田天満宮内)、南区の琴飛羅社(星﨑)がカナヤマヒコ(金山彦)を祭神としている。中川区にある金山神社(玉船町)の祭神は不明ながら、おそらくカナヤマヒコだろう。カナヤマヒメを祀る神社は名古屋にはない。
 金山総合駅がある熱田区金山の地名は、この金山神社が由来となっている。

 

稚産霊神(ワクムスビ) ーーー 『古事記』では和久産巣日神、『日本書紀』では稚産霊と表記される。
『古事記』は、伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んでやけどをして苦しんでいるとき、尿から水の神・弥都波能売神(ミズハノメ)が生まれ、次に和久産巣日神(ワクムスビ)が生まれたとする。食物神であり伊勢の神宮(web)の外宮の祭神でもある富宇気毘売神(トヨウケヒメ)はワクムスビの娘と書いている。
『日本書紀』は少し違っていて、一書(第二)は、軻遇突智(カグツチ)を生んで伊弉冉尊(イザナミ)が焼け死んでしまう前に土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神・罔象女(ミツハノメ)が生まれ、カグツチがハニヤマヒメをめとって生まれた子が稚産霊(ワクムスビ)としている。更に ワクムスビの頭から蚕と桑が、へそから五穀が生まれたと書く。
『古事記』の場合だとイザナミが最後に生んだ子となり、『日本書紀』ではイザナミの孫ということになる。
 一書(第十一)では、天照大神(アマテラス)が月夜見尊(ツクヨミ)に、葦原中国に保食神(ウケモチ)という神がいるから行って会ってくるようにと命じ、ウケモチはツクヨミを歓待するため口から飯や魚、獣などを出したところ、ツクヨミは汚らわしいと怒って斬り殺してしまったという話を紹介している。この所業に怒ったアマテラスはツクヨミと絶交し、昼と夜に分かれ、天熊人(アメノクマヒト)を地上に遣わすと、ウケモチから粟や蚕、ひえ、稲、大豆、小豆などが生まれていたといっている。
 ワクムスビを主祭神として祀っている神社としては、福島県郡山市の安積国造神社(web)や千葉県成田市の麻賀多神社(web)などがある。全国的に見てもあまり多くはない。
 名古屋では式内社とされる西区の伊奴神社の祭神に名を連ねている。
 同じ食物神属性の保食神(ウケモチ)や宇迦之御魂神(ウカノミタマ)、豊受神(トヨウケ)のようにメジャーにはなれなかった。

 

磐裂神・根裂神(イワサク・ネサク) ーーー 『古事記』では石拆神・根拆神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。
 記紀ともにイザナギがカグツチを斬ったとき剣についた血から成ったとしている。
『古事記』は、伊邪那岐命(イザナギ)が十拳剣で迦具土神(カグツチ)の頸を斬り、刀の前についた血が湯津石村に走り就いて成ったのが石拆神で、次に根拆神、次に石筒之男神(イワツツノオ)が成ったとする。
『日本書紀』一書(第六)は、イザナギが十握剣でカグツチを三段に斬り、剣の刃からしたたった血が天安河の五百個の磐石となって(これが経津主神(フツヌシ)の祖先となったとする)、剣の峰からしたたった血が磐裂神(イワサク)となり、次に根裂神(ネサク)、次に磐筒男命(イワツツノオ)に成ったとしている。一説では磐筒男命と磐筒女命(イワツツノメ)が生まれたとも書いている。
 一書(第七)では、カグツチを斬ったときに天八十河にある五百個の磐石となり、そこから磐裂神、次に根裂神、その子が磐筒男神、次に磐筒女神、その子が經津主神(フツヌシ)と書く。
 いずれにしても、カグツチを斬ったとき剣の刃についた血から化成したということが共通要素として語られている。磐が裂け、根が裂けるという名前からして激しい力を持つ何かを象徴しているのだろう。あるいは、神の血を得たものが神になるということを言わんとしているのか。
 イワサク・ネサクを祀る神社としては、栃木県鹿沼市の加蘇山神社などがあるものの、全国でも数は少ない。
 名古屋では中川区の赤星神社が根裂神(ネサク)を単独で祀っている。愛知県江南市の赤星神社も同じく根裂神を祭神としている。
 星神と根裂神がどういう関係性にあるのかは分からない。ただの星神ではなく赤星神と根裂神に関係があるのだろうか。

 

保食神(ウケモチ) ーーー 『古事記』には登場せず、『日本書紀』一書(第十一)でのみ語られる神。
 天照大神(アマテラス)は月夜見尊(ツクヨミ)に、葦原中国に保食神(ウケモチ)という神がいるようだから会いにいくように命じ、ツクヨミが出向いてみるとウケモチは訪れたツクヨミを歓待しようと様々な食べ物を用意した。
 首を廻すと口から飯が、海を向くと口から鰭の小さな魚が、山を向くと毛の固い獣や毛の柔らかい獣が口から出てきた。それを見たツクヨミは、汚らわしいと怒り、ウケモチを斬り殺してしまう。
 そのことを戻って報告するとアマテラスは激しく怒り、両者は絶縁することになる。それ以来、昼と夜が分かれたとする。
 アマテラスに遣わされた天熊人(アメノクマヒト)が見にいくと、頭頂部からは牛馬が、頭から粟が、眉からは蚕が、眼の中に稗が、 腹の中には稲が、陰部からは麦と大豆、小豆が化成していたのでこれらを持ち帰ってアマテラスに報告した。するとアマテラスは喜び、これらは人の暮らしに必要なものだから分け与えたという話が語られる。
 このことからウケモチは食物の神とされている。ウケは食物のことで、モチは保または貴(ムチ)のことと考えられる。
『古事記』ではよく似た話が速須佐之男命(スサノオ)と大気津比売神(オオゲツヒメ)との間で展開される。そこでは高天原を追放されたスサノオがオオゲツヒメに食物を求めたところ、口から出したので汚らわしいと怒って斬り殺したら様々な食物が生まれたという話になっている。
 京都の伏見稲荷大社(web)の祭神が同じ食物神の宇迦之御魂(ウカノミタマ)のため、全国の稲荷社もそれに倣っているところが多いのだけど、一部の稲荷社ではウケモチを祭神として祀っている。
 名古屋では港区の稲荷社(八百島)、東区の稲荷社(義市稲荷)、守山区の生玉稲荷神社、熱田区の寶田社(八番)が主祭神としている他、中村区の七所社(岩塚)、西区の伊奴神社で祭神に名を連ねている。

 

倉稲魂命(ウカノミタマ) ーーー 『古事記』では宇迦之御魂神、『日本書紀』では倉稲魂命と表記される。
『古事記』は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から救ってめとった櫛名田比売(クシナダヒメ)の後、大山津見神(オオヤマヅミ)の娘の神大市比売(カムオオイチヒメ)をめとって大年神(オオトシ)と宇迦之御魂神(ウカノミタマ)が生まれたと書く。
『日本書紀』は、神生みの段の一書(第六)で、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が大八洲国を生み、その後様々な神が生まれる中で、イザナギが飢えたときに生まれたのが倉稲魂命(ウカノミタマ)としている。
 記紀ともに活躍が描かれることはなく、ウカは食物・穀物のことと考えられ、倉稲魂の表記から稲をおさめた倉を神聖視したものともされる。
 京都の伏見稲荷大社(web)の祭神とされたことから全国の稲荷社で祀られている。
 稲荷神はもともと渡来人の秦氏が祀った神で、空海が教王護国寺(東寺/web)を開くときに秦氏が稲荷山から切り出した木材を提供したことで東寺が稲荷神を祀り、仏教のダキニ天(荼枳尼天)と習合した。ダキニは白狐にまたがる天女の姿として描かれることが多く、そこから稲荷神の使いは狐とされた。食物神のことを御食津神・三狐神(ミケツカミ)とも呼ぶ。
 三大稲荷に定説はなく、伏見稲荷大社以外は、豊川稲荷(妙厳寺/web)、最上稲荷(妙教寺/web)、祐徳稲荷神社(web)、笠間稲荷神社(web)などがそれぞれ三大稲荷を称している。
 名古屋では一部の稲荷社が保食神(ウケモチ)を祭神としている他はウカノミタマを祀っている。祭神名としては、倉稲魂神としているところと、宇迦之御魂命としているところがある。
 守山区の生玉稲荷神社、中区の稲荷神社(古渡稲荷神社)、緑区の豊藤稲荷神社などが名古屋を代表する稲荷社といっていいと思う。
 寺院内社や企業社として稲荷神を祀っているところも多い。

 

海神(ワタツミ) ーーー 『古事記』では綿津見神、大綿津見神、『日本書紀』では少童命、海神、海神豊玉彦と表記される。
『古事記』は、伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が国生みを終えて次に神を生み始め、その8番目に海の神の大綿津見神(オオワタツ)が生まれたと書く。
『日本書紀』は、神生みの段の一書(第六)で、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が大八洲国を生み、次に風の神・級長戸辺命(級長津彦命)、食物の神・倉稲魂命、海の神・少童命(ワタツミ)、山の神・山祇、水門の神・速秋津日命、木の神・句句廼馳、土の神・埴安神、火の神・軻遇突智を生んだと書いている。
 イザナギとイザナミが生み出した海の神ということは記紀で共通している。
 ワタツミの「ワタ」は海の古語とされ、文字通り海の神の名前を持つ。
 次に登場するのはイザナギが黄泉の国から戻ってきて穢れを祓う禊ぎをしたときで、水から生まれた神としてワタツミが出てくる。
『古事記』は水の底で体を洗ったときに底津綿津身神(ソコツワタツミ)が、中程で成ったのが中津綿津身神(ナカツワタツミ)、水の上で上津綿津身神(ウワツワタツミ)が生まれたとする。このとき同時に住吉三神の底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命も生まれたとする。
『日本書紀』は神生みの段の一書(第六)で、イザナギが黄泉の国から戻ってきて川の流れで禊ぎをしたとき八十枉津日神(ヤソマガツヒ)、神直日神(カムナオシヒ)、大直日神(オオナオシヒ)が生まれ、海で禊ぎをしたときに底で底津少童命と底筒男命が、中程で中津少童命と中筒男命が、潮の上に浮かんで表津少童命と表筒男命が生まれたとしている。
 記紀ともにこのワタツミ三神は阿曇連(アズミノムラジ)などが祖神として祀っていると書いている。
 山幸彦が海幸彦の釣り針をなくし、海の底へ探していって豊玉毘売(トヨタマヒメ)と出会う場面でもワタツミが登場する。海底の宮の主で、トヨタマヒメの父が海神(ワタツミ)だ。
『日本書紀』第十段の本文では海神、一書では豊玉彦(トヨタマヒコ)となっている。
 ここでのワタツミ(海神)は、イザナギとイザナミが生んだ綿津見/少童のことで、イザナギの禊ぎから生まれたワタツミ三神とは別と考えられている。
 福岡県福岡市の志賀島にある志賀海神社(しかうみじんじゃ/web)がワタツミ神の総本社とされ、ワタツミ三神(表津綿津見神・仲津綿津見神・底津綿津見神)を祀る。全国の綿津見神社もそれにならっているところが多い。
 長野県安曇野市の穂高神社(web)は、安曇氏(阿曇氏)で祀った神社で、穂高見命とともに綿津見命を祀っている。
 広島県福山市の沼名前神社(web)は大綿津見命という祭神名で、鹿児島県鹿児島市の鹿児島神社は豊玉彦命として祀っている。
 名古屋では港区の龍神社(本宮町)が唯一、ワタツミ神(綿津見尊)を祀っている。
 北区の式内社・綿神社は玉依比売命を祭神としているけど、本来はワタツミを祀っていたかもしれない。

 

住吉三神(スミヨシサンジン) ーーー 『古事記』では底筒之男神(ソコツツノオ)・中筒之男神(ナカツツノオ)・上筒之男神(ウワツツノオ)、『日本書紀』では底筒男命・中筒男命・表筒男命と表記される三神のこと。大阪市の住吉大社(web)で祀られることからそう呼ばれるようになった。古くは墨江神(すみのえのかみ)とも呼ばれた。
『古事記』、『日本書紀』ともに、伊邪那岐命/伊弉諾尊(イザナギ)が黄泉の国から戻ってきて穢れを祓う禊ぎをしたとき、底の方で底津綿津身神/底津少童命(ソコツワタツミ)、中程で中津綿津身神/中津少童命(ナカツワタツミ)、上の方で上津綿津身神/表津少童命(ウワツワタツミ)とそれぞれセットで生まれたとしている。
『日本書紀』において、神宮皇后の三韓征伐の場面で住吉三神が登場する。
 夫の仲哀天皇が崩御したあと、神宮皇后は齋宮に入って神主となり、審神者(さにわ)を通じて新羅を討伐せよという神意を問うため神の名を尋ねた。何人かの神の名が挙がり、その中に日向国の橘小門の水底にいる表筒男・中筒男・底筒男神が出てくる。
 また、ある説によるとという形で、仲哀天皇に新羅を討てと神託を下した神は表筒雄・中筒雄・底筒雄で、仲哀天皇はそれに従わずに亡くなり、神宮皇后が新羅討伐を行うとたちまち新羅は降伏し、戻ってきたときに表筒男・中筒男・底筒男はわが荒魂を穴門の山田邑に祀るように命じたという話が語られる。
 穴門の山田邑は現在の山口県下関市で、下関市にある長門国一宮の住吉神社がそれに当たるとされている。『延喜式』神名帳(927年)では「長門国豊浦郡 住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」と書かれている。
 福岡県福岡市の筑前国一宮の住吉神社(web)が本家という説もある。
 名古屋には住吉神社が熱田区の住吉社(新尾頭)の一社しかない。かつてはもう少しあったのだろうけど、住吉信仰というのはこの地では流行らなかったらしい。

 

豊宇気毘売神(トヨウケビメ) ーーー 『古事記』に登場し、『日本書紀』には出てこない。
 伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んでやけどをして苦しんでいるとき、尿から水の神・弥都波能売神(ミズハノメ)が生まれ、次に和久産巣日神(ワクムスビ)が生まれたとし、ワクムスビの娘が富宇気毘売神(トヨウケビメ)と『古事記』はいう。
 日子番能邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨する際、五柱の神が供として付けられ、三種の神器と一緒に常世思兼神(オモイカネ)、手力男神(タヂカラオ)、天石門別神(アメノイワトワケ)が随伴することになり、天照大神(アマテラス)はそれらの神に対して鏡を私の魂と思って祀るようにと命じる。
 それに続いて、二柱の神は佐久久斯侶伊須受能宮に拝き祭るとあり、佐久久斯侶伊須受能宮は五十鈴宮のこととされるのだけど、二柱についての記述がないのでよく分からない。アマテラスのことなのか違うのか。次に登由宇気神、これは外宮の度相に坐す神ぞとあり、これが現在伊勢の神宮(web)の外宮で祀られる豊受大神(トヨウケ)のこととされる。
 豊受大神が神宮の外宮で祀られるようになった経緯については、『古事記』、『日本書紀』ともに書かれていない。
 伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』は、雄略天皇の夢枕にアマテラスがが現れ、自分ひとりでは食事が安らかにできないので丹波国の比治の真奈井にいる御饌神、等由気太神を近くに呼び寄せるように命じたという話を書いている。
 比治の真奈井については諸説ありはっきりしない。丹後一宮の籠神社(web)が元伊勢を称しているのは、奥宮の眞名井神社がそれに当たるとしているためだ。
『丹後国風土記』逸文に、丹波郡比治里の比治山の頂にある真奈井で天女8人が水浴をしていたところ、老夫婦がそのうちのひとりの羽衣を隠してしまったためひとりだけ天に帰れなくなってしまい、仕方なく老夫婦の家で暮らして万病に効く酒を作っていたのだけど、十数年後に家を追い出されてさまよい、奈具村で鎮まったという奈具社の縁起を紹介している。
 南北朝時代に外宮の神職だった度会家行がとなえた伊勢神道は、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同一神で、この世界に最初に現れた始源神だと主張した。江戸時代に入って出口延佳などが継承し、外宮から勧請した神明社はトヨウケを祀ったところもある。
 名古屋では、守山区の神明社(廿軒家)、西区の神明社(南押切)、西区の白山神社(榎白山)、天白区の五社宮、中村区の天神社(名楽町)、名東区の神明社(藤森)、守山区の白山神社(小幡)、名東区の神明社(猪子石)で天照大神などとともに祀られている他、中村区の椿神明社や中川区の下神明社(かの里)のようにもう一社の神明社と対の形で一方がアマテラスを祀りもう一方がトヨウケを祀るという例もある。
 中川区の三狐神社(野田)の祭神がトヨウケとなっているのは、「ミケツ神」が稲荷神(ウカノミタマ)などと習合した名残で、稲荷社でトヨウケを祀っているところもあるようだ。

 

菊理媛神(ククリヒメ) ーーー 『古事記』には出てこず、『日本書紀』神生みの段の一書(第十)にちらっと登場する。
 黄泉の国に去った伊弉冉尊(イザナミ)を追いかけていった伊奘諾尊(イザナギ)は、イザナミの変わり果てた姿を見て驚き逃げ出し、泉平坂(よもつひらさか)で追いつかれて口論になる。
 イザナギは妻を失って悲しかったのは私の心が弱かったせいだと言うと、泉守道者(ヨモツチモリビト)は、私とあなたはすでに国を生んでこれ以上何を生むものがあるでしょう、私は帰らずここにとどまりますというイザナミの言葉を取り次いだ。
 ここで菊理媛神(ククリヒメ)が登場して何かを言った。するとイザナギはこの言葉を聞いて善いことだと言い、黄泉の国を去ったという。ククリヒメが何を言ったかについては書かれていない。
 ふたりの間を取り持ったことから「ククリ」という名を持つようになったと考えられ、一般的には「括り」の意味だとされる。菊の花の古名を久々(くく)といったことから菊の字が当てられたともいう。
 白山の神、白山比咩神(シラヤマヒメ)と同一視されるようになった時期や経緯についてはよく分かっていない。加賀国一宮の白山比咩神社(web)の創建は古く、『延喜式』神名帳(927年)にも載っている。古くは伊奘諾尊・伊弉冉尊を祭神としていたようで、平安時代後期に大江匡房が書いた『扶桑明月集』の中で白山の祭神を菊理媛としたのが初出とされる。
 白山は霊場となり、中世には神仏習合した。仏教系の社でも白山神は祀られ、白山大権現、白山妙理菩薩などとも呼ばれた。
 現在の白山比咩神社は、主祭神を白山比咩神=菊理媛神とし、伊奘諾尊・伊弉冉尊をあわせて祀る。全国の白山神社もそれにならったところがけっこうあるのだけど、明治の神仏分離令での経緯がやや複雑で、必ずしも三柱を祀っているわけではない。菊理媛神単独だったり、伊奘諾尊・伊弉冉尊だったり、伊奘諾尊または伊弉冉尊のみだったりする。
 名古屋では中区の白山神社(新栄)白山神社(市場)のように古墳の上に白山を祀る例がある。白山神社(大須)も古墳っぽい。
 中区の榊森白山社や西区の白山社(名塚)、守山区の白山神社(小幡)など、古い時代の創建とされる白山社も何社かある。
 その他、寺の鎮守から分離したものや、別の神社に合祀された白山をあわせると名古屋には白山社が多かったことが分かる。

 

蛭子(ヒルコ) ーーー 『古事記』では水蛭子、『日本書紀』では蛭子と表記される。
『古事記』では伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が最初に生んだ子とされるも、イザナミが先にああいい男と声を掛けたのがよくなかったようで、ヒルコは葦船に入れて流してしまったと書く。次に生まれた淡島も子は入れないとする。
『日本書紀』では国生みの段の一書(第一)で、イザナギとイザナギは淤能碁呂島(オノコロ島)に降り立ち、大きな神殿を作って柱を立て、その周りをそれぞれ左右から回って交わり、最初に生まれたのが蛭子(ヒルコ)で、その子は葦の船にのせて流してしまったとしている。次に生まれたのが淡洲(アワシマ)で、これも生まれた子の数には入れないとする。
 一書(第十)では、イザナミが先に声を掛け、イザナギがイザナミの手を取って夫婦となり、淡路島と蛭子(ヒルコ)が生まれたとしている。
 それを補足する形で、続く神生みの段の本文で、太陽の神・大日孁貴(天照大神/天照大日孁尊)、月の神・月弓尊(月夜見尊/月読尊)が生まれた後、蛭子(ヒルコ)が生まれたものの、3歳になっても足が立たないので天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ)に乗せて流して捨てたと書く。この後に素戔鳴尊(スサノオ)が生まれたとする。
 一書(第二)では、ヒルコが3歳になっても足で立つことができない理由をイザナギより先にイザナミが声を掛けたことが道理に反することだからとしている。次にスサノオが生まれ、次に鳥磐櫲樟橡船(トリノイワクスフネ)が生まれ、この船にヒルコを乗せて流したという。
『古事記』では最初の子とし、『日本書紀』では日神・月神とスサノオの間に生まれた兄弟とする違いはあるものの、女のイザナミが先に声を掛けたことが原因で不具の子となり船に乗せて流したという点は一致している。アハシマは子なのか島なのかはっきりしない。
『源平盛衰記』に、流されたヒルコは摂津国に流れ着き、夷三郎として立派に育って後に西宮で祀られたという記述があり、西宮神社(web)はこの話を起源としている。
 中世にはエビス神(恵比寿/戎)と習合した。ただし、必ずしもエビス神=ヒルコというわけではなく、エビス神を祀っていた神社は明治以降に事代主(コトシロヌシ)としたところが多い。
 名古屋では西区の六所神社(比良)をはじめとする六社系の祭神として伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照大御神・月読命・須佐乃男命とともに蛭子命として祀られている。式内社とされる西区大乃伎神社や北区の別小江神社の祭神が同じ六柱となっているのは、これらの神社が一時期、六所社と称していたためだ。どうしてこの六柱を祀って六所社としていたのかはよく分からない。単なる数合わせのようにも思えるのだけど、何か深い理由があるのだろうか。

 

雷神(ライジン/イカヅチ) ーーー 『古事記』・『日本書紀』ともに、死んで黄泉の国へ行った伊邪那美命/伊弉冉尊(イザナミ)から八つの雷神が生まれたと書いている。
 イザナミを黄泉の国に追いかけていった伊邪那岐命(イザナギ)は、変わり果てたイザナミの姿を見て驚く。イザナミの身体には蛆がたかり、頭に大雷(オオイカヅチ)、胸に火雷(ホノイカヅチ)、腹に黒雷(クロイカヅチ)、女陰に拆雷(サクイカヅチ)、左手に若雷(ワカイカヅチ)、右手に土雷(ツチイカヅチ)、左足に鳴雷(ナルイカヅチ)、右足に伏雷(フシイカヅチ)が成っていたと『古事記』はいう。
『日本書紀』神生みの段の一書(第九)でも同じようにイザナミの体に八つの雷神がとりついていたといっている。
 イザナミは逃げ出したイザナギを雷神たちに追わせ、それを追い払うためにイザナギは桃を投げたと『日本書紀』にある。
 その他、雷神というと菅原道真を連想させる。道真は死後に天満大自在天神として神格化されて祀られ、ほどなく怨霊化して関係者が立て続けに命を落とし、清涼殿への落雷で死者が出たことで雷神ともされた。
 雷は「神鳴り」から来ているという説があり、稲妻という言葉は田んぼに雷が落ちると豊作になるという考えが古来からあって稲の妻という字が当てられたとされる。
 京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)祭神の賀茂別雷神(カモワケイカヅチ)は雷神とされることがある。
 群馬県を中心に関東には雷神を祀る雷電神社(らいでんじんじゃ)がけっこうあるけど、名古屋にはない。愛知県田原市に一社あるようだ。
 名古屋で雷神を祀るとしているのは緑区の雷社・須佐之男社で、ここが唯一の雷社ということになる。
 その他、北区の西八龍社は雷除けの神社といわれており、例祭のときに雷除けの神札を配布するという。

 

志那都比古神(シナツヒコ) ーーー 『古事記』では志那都比古神、『日本書紀』では級長津彦命と表記される。
『古事記』は伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の神生みの中で生まれた神とする。風の神と明記している。
『日本書紀』は神生みの段の一書(第六)で、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が大八洲国を生み、生まれたばかりの国は朝霧がかかっていて薫りに満ちているのでそれを吹き消そうと息を吐いたら神が化成したとする。名を級長戸辺命(シナトベ)といい、またの名を級長津彦命(シナツヒコ)としている。
 神社の祭神としては、志那都比古神・志那都比売神の男女一対で祀られることがある。風の神として古くから信仰されてきた奈良県生駒郡の龍田大社(web)祭神の天御柱命・国御柱命は志那都比古神・志那都比売神のこととされる。
 伊勢の神宮(web)の別宮、風日祈宮(内宮)と風宮(外宮)は級長津彦命と級長戸辺命を祀っている。
 級長戸辺は女神とされることがあり、このあたりに少し混乱が見られる。
 神宮の風日祈宮と風宮が別宮に格上げされたのは、蒙古襲来のとき神風を吹かせて撃退した功績があったとされたためだ。
 名古屋では中川区の雨宮社で志那都比古神が祀られている。もともと村内の別の場所にあった風宮社を合祀したためで、他にも風宮があったようだ。
 大風が大きな被害をもたらすことを考えるともっと風の神を祀ってもよかったと思うのだけど、全国的に見ても風の神社は少ない。

 

祓戸大神(ハラエドノオオカミ) ーーー 祭祀の冒頭で神職がとなえる「祓詞」の中で出てくる。
「掛けまくも畏き伊邪那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等諸々の禍事・罪・穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す」
 イザナミを追いかけて黄泉の国へ行ったイザナギは、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊ぎをしたと記紀は語る。
 祓戸大神というのはこのとき化成した神々の総称ということのなるのだろうけど、具体名は書かれていない。
『延喜式』(927年)の「六月晦大祓の祝詞」で登場する瀬織津比売(セオリツヒメ)・速開都比売(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドヌシ)・速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)を祓戸四神といい、この四神を祓戸大神とする考え方もある。
「大祓詞」の中で、瀬織津比売神はもろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流し、速開都比売神は河口や海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込み、気吹戸主神はもろもろの禍事・罪・穢れを速開都比売神が飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放ち、速佐須良比売神は根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失うとある。
『古事記』は速秋津比古神と速秋津比売神が河と海で神々を生んだと書く。『日本書紀』では神生みの一書(第六)で速秋津日命が登場するも、ハヤアキツヒメは出てこない。
 滋賀県大津市にある佐久奈度神社(web)は瀬織津姫命・速秋津姫命・気吹戸主命・速佐須良姫命を祀る式内社(名神大社)で、祓戸大神の総本社的な神社とされている。
 ただ、全国的に見ても祓戸大神を祭神とする神社は少ない。
 名古屋では中村区の水野社が祓戸大神を祀る唯一の神社となっている。
 速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)は北区の大井神社で祭神に名を連ねている。

 

鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ) ーーー 『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)、『日本書紀』では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)と表記される。
 天孫降臨したニニギとコノハナサクヤヒメとの間に生まれた海幸彦(火闌降命)・山幸彦(彦火火出見尊)のうち、山幸彦の子に当たる。
 山幸彦こと彦火火出見尊(ヒコホホデミ)は、兄の海幸彦から借りた釣り針をなくして海の底まで探しに行き、そこで綿津見神(ワタツミ)の娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)と出会い結ばれる。
『古事記』と『日本書紀』とではいくつかの違いがあるものの話の流れとしては共通していて、地上に戻ったヒコホホデミを追いかけてトヨタマヒメは浜辺までやってきて子供を産む。出産する姿を見ないようにというトヨタマヒメの言いつけを守らずヒコホホデミがのぞき見ると、トヨタマヒメは八尋熊鰐(ヤヒロワニ)になっていて驚き逃げ出す。姿を見られたと知ったトヨタマヒメは恥ずかしいといって海の国に帰ってしまった。
『日本書紀』は、産屋の屋根を鸕鶿(う)の羽で葺いてた途中で生まれてしまい、草(かや)につつまれて波瀲(なぎさ)に捨て置かれたので彦波瀲武鸕鶿草葺不合と名づけたと書いている。
 後にトヨタマヒメは妹の玉依姫(タマヨリヒメ)を養育係として送ってきて、ウガヤフキアエズはこのタマヨリヒメと結婚することになる。
 彦五瀬命(ヒコイツセ)、稲飯命(イナイ)、三毛入野命(ミケイリヌ)、火火出見尊(ヒコホホデミ)が生まれ、第四子のヒコホホデミが神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)で、初代神武天皇となる。
 火火出見尊(ヒコホホデミ)は父と同名であり、狭野命、若御毛野命、豊御毛野命という別名を持つ。
『日本書紀』はウガヤフキアエズが没したのは西洲の宮(にしのくにのみや)と書き、鹿児島県鹿屋市の吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ)と治定されている。
 天孫降臨した瓊々杵尊(ニニギ)とそれに続く彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、ウガヤフキアエズを日向三代と呼んでいる。
『上記(ウエツフミ)』、『武内文書』、『神伝上代天皇紀』などの古史古伝は神武天皇以前に鵜萱葺不合命(ウガヤフキアエズ)が開いた古代王朝があったと伝えている。それによると72代続いたともいう。
 宮崎県日南市の鵜戸神宮(web)は、トヨタマヒメがウガヤフキアエズを産むための産屋を作った場所とされ、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を主祭神として祀っている。
 宮崎県宮崎市の宮崎神宮(web)は、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコ)を主祭神として、父の鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を配祀している。
 愛知県では三河国二宮で式内社の知立神社(web)が鸕鶿草葺不合尊・彦火火出見尊・玉依比売命・神日本磐余彦尊の4柱を祀る。
 名古屋では港区の池鯉鮒社(魁町)、中川区の知立社(小碓)、熱田区の波限神社がウガヤフキアエズを主祭神として祀り、天白区の菅田神社で他の祭神とともに祀られている。
 

玉依姫(タマヨリヒメ) ーーー 『古事記』では玉依毘売、『日本書紀』では玉依姫と表記される。
 綿津見神(ワタツミ)の娘で、鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)を育てた後、妃となり、神武天皇(神日本磐余彦尊)を生んだ。
 山幸彦(彦火火出見尊)は海幸彦(火闌降命)に借りた釣り針を探すために海の国を訪れ、ワタツミの娘の豊玉姫(トヨタマヒメ)と出会う。山幸(ホホデミ)が国に帰った後を追いかけてきたトヨタマヒメは海辺で出産するとき姿を見てはいけないといったのにホホデミは見てしまう。すると八尋熊鰐(ヤヒロワニ)の姿になっていたのでホホデミは驚き逃げだし、トヨタマヒメは恥じて海の国に帰ってしまう。産み落とされて残された子は鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と名づけられた、というのが記紀で語られる物語だ。
 この後、トヨタマヒメは子供の養育係として妹の玉依姫/玉依毘売(タマヨリヒメ)を送って寄越す。その後、ウガヤフキアエズは育ての親であり母の妹に当たるタマヨリヒメをめとって五瀬命(イツセノ)、稲氷命(イナヒ)、 御毛沼命(ミケヌ)、 若御毛沼命(ワカミケヌ)の4人の子が生まれたと『古事記』は書く。
『日本書紀』は第十段一書(第四)で、トヨタマヒメは生んだ子供を連れて海に戻ったのだけど、やはり天孫の子供を海で育てるわけにはいかないとタマヨリヒメに子供を送らせたとし、十一段の本文でウガヤフキアエズはタマヨリヒメを妃として彦五瀬命(ヒコイツセ)、稻飯命(イナイイ)、三毛入野命(ミケイリノ)、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)を生んだと書いている。
 ウガヤフキアエズの子についてはいくつか異伝があるものの、そのうちのひとりが初代神武天皇になったというのは共通している。
 タマヨリヒメの「タマ」は霊(ミタマ)、ヨリは憑りつくということで、神霊の依り代となる巫女のことだとする考え方もある。
『日本書紀』第九段一書(第七)では、高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘は萬幡姫(ヨロズハタヒメ)で、その娘が玉依姫命(タマヨリヒメ)といっている。このタマヨリヒメは天忍骨命(アメノオシホネ)の妃となって、天之杵火火置瀨尊(アメノギホホオキセ)を生んだとする。天忍骨はオシホミミのことで、天之杵火火置瀨はニニギのことなので、ニニギの母親ということになり、ワタツミの娘で神武天皇の母となったタマヨリヒメとは別の神だ。
『山城国風土記』逸文では、賀茂健角身命(カモタケツヌミ)と伊古夜日売(イカコヤヒメ)との娘で、丹塗矢となって火雷神と結ばれ、賀茂別雷命(カモワケイカヅチ)を生んだのがタマヨリヒメとしている。
 他にも、大物主大神(オオモノヌシ)との間に鴨王(天日方奇日方命)を生んだのが活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)ともいう。
 タマヨリヒメを主祭神として祀る神社としては、千葉県長生郡の玉前神社(web)がある。タマヨリヒメがこの地でウガヤフキアエズを育てたという伝承を持つ神社で、式内社(名神大社)であり、上総国一宮だ。福岡県福岡市の筥崎宮(web)は、応神天皇を主祭神として、神宮皇后と玉依姫命を祀る。宮崎神宮(web)や三河国二宮の知立神社(web)のように神日本磐余彦尊(神武天皇)の関係でウガヤフキアエズなどとともに祀られることがある。
 下鴨神社(賀茂御祖神社/web)で賀茂建角身命とともに祀られている玉依姫命は、上に書いたように別のタマヨリヒメと考えた方がいい。
 名古屋では式内社とされる北区の綿神社で主祭神として祀る他、緑区の鳴海八幡宮城山八幡社(大高)八幡社(町屋川)でも祭神に加わっている。
 名古屋には賀茂社系の神社が一社もない(もしくは現存していない)。

 

国狹槌尊(クニノサツチ) ーーー 『日本書紀』の第一段本文で、天地開闢のとき、国常立尊(クニノトコタチ)に続いて国狹槌尊(クニノサツチ)、次に豊斟渟尊(トヨクムヌ)が化ったとし、いずれも独神で男神と書いている。
 第一段の一書(第一)は、国常立尊(別名を国底立尊)に次いで国狭槌尊、別名・国狭立尊(クニノサタチ)が生まれたと書く。
 第一段の一書(第二)では、最初に可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)が生まれ、 次に国常立尊、次に国狹槌尊としている。
 第一段の一書(第四)は、天地が初めて別れて国常立尊が生まれ、次に国狹槌尊が生まれ、高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)、次に高皇産靈尊(タカミムスビ)、次に神皇産靈尊(カミムスビ)とする。
『古事記』では天地開闢のときの造化三神を、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神としている。国之常立神は神世七代の最初の神として登場し、国之狭土神(クニサツチ)は大山津見神(オオヤマヅミ)の子供とする。
 野の神・野椎神(ノヅチ)とともに山と野の神を生んだとしていて、その中で天之狭土神(アメノサヅチ)と国之狭土神(クニノサヅチ)を生んだと書いている。ここでいう国之狭土神と『日本書紀』の天地開闢のときの国狹槌尊は別と考えるべきか。
 狭槌は狭(せま)い槌(つち)としてしまうと意味が通らない。狭(さ)を稲霊のこととする考え方もあるけど、それにしてもよく分からない。
 神仏習合時代は蔵王権現と習合する考え方があったようで、現在の神社の祭神となっているのはその頃の名残だろうか。
 滋賀県高島市の國狭槌神社のように八王子権現からクニサツチを祀るようになった例もある。
 クニサツチを祭神の中に入れている神社はそれなりにあるのだけど、共通性はあまり感じられず、系統としてはよく分からない。
 名古屋では中区の八王子社(新栄)で主祭神として祀る他、北区の片山神社で祭神に名を連ねている。

 

年神(トシガミ) ーーー 年神の他、大年神、歳神とも表記する。
『古事記』では須佐之男命(スサノオ)と神大市比売(カムオオイチヒメ)との間に生まれたのが大年神(オオトシ)としている。
 また、オオトシ(大年神)と香用比売(カグヨヒメ)との間に御年神(ミトシ/オトシ)がいて、孫に若年神(ワカトシ)がいるのでややこしい。その他にも多くの神の父とされる。
『古事記』にあるのは系譜のみで、『日本書紀』には登場しないと思う(該当箇所を見つけられていないだけかもしれない)。
 年末に大掃除をするのは、正月にこの年神さんを迎えるためだ。門松はトシガミのための目印で、鏡餅は供え物を意味する。年神は先祖霊とも考えられた。
 来訪神というだけでなく恵方神ともされ、毎年変わる年神のいる方角を恵方とした。
 他にも田の神や穀物の神とされることもある。
 岐阜県高山市の飛騨一宮水無神社(web)祭神の水無大神 は、御歳大神など14柱の総称としている。
 年神を祀る総本社は奈良県御所市の葛木御歳神社(web)とされる。
 名古屋では守山区の斎穂社が大年神と御年神を祀っており、西区の伊奴神社では大年神が祭神に名を連ねる。

 

岐神(クナト/フナト) ーーー 『日本書紀』第五段一書(第六)で登場する神。
 死んだ伊弉冉尊(イザナミ)を黄泉の国まで追いかけていって変わり果てた姿を見て逃げ出した伊弉諾尊(イザナギ)は、泉津平坂(よもつひらさか)で追いつかれて言い争いになる。イザナミは怒って別れるなら私は一日に千人の人間を殺すと言い、イザナギはそれなら私は一日に千五百人の人間を生ませると言い返す。そして、ここから先に来てはいけないと杖を投げると岐神(クナト)が化成したといっている。
『古事記』では黄泉の国から戻ってきた伊邪那岐(イザナギ)が竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓いをしたとき、着ていた衣服から様々な神が生まれたとする。その中で最初に投げ捨てた杖から成ったのが衝立船戸神(ツキタツフナトノカミ)と書いている。
 クナトはフナトともいうので、これは同じ神のことをいっているのではないかと思う。
 クナトは、ここから来てはいけないとイザナギが言ったということから、「来な処」から来ているという説がある。
 民間信仰の神とされ、村の入り口や道の分岐点などで祀られ、道祖神の原形ともされる。
 茨城県神栖市の息栖神社(いきすじんじゃ)は鹿島神宮(web)、香取神宮(web)とともに東国三社の一社とされ、久那戸神を主祭神として祀っている。社伝では鹿島神・香取神が葦原中国を平定するとき東国へ先導した神とされる。
 京都府亀岡市にある丹波国一宮の出雲大神宮(web)の現在の祭神は大国主神と三穂津姫尊となっているのだけど、元々出雲族はクナト神を祀っていたという話がある。
 名古屋では北区の金神社(山田天満宮内)、熱田区の社宮司社(須賀町)で祀られている。

 

八衢彦神・八衢媛神(ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ) ーーー 『古事記』の道俣神(チマタ)、『日本書紀』の開囓神 (アキクイ)がこの神に当たるとされる。
『古事記』は、黄泉の国から戻ってきた伊邪那岐(イザナギ)が竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎ祓いをしたとき、投げ捨てた褌(ふんどし)から道俣神が成ったとし、『日本書紀』第五段一書(第六)は黄泉の国の出口付近で伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が言い争いになり、褌を投げて生まれたのが開囓神 (アキクイ)と書く。
 ちまたは道股、道が分かれる意味で、八衢(やちまた)は道が多く分かれているところを指すとされる。『古事記』では日子番能邇邇芸命(ニニギ)が天降るとき天の八衢で猿田毘古神(サルタヒコ)が待ち受けていたという形で出てくる。
 民間信仰においては道祖神ともされ、道の神、橋の神、乗り物の神、建築の神などともされた。
 神社の祭神では八衢彦神・八衢媛神(ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメ)として祀られることがある。
 奈良県宇陀郡の御杖神社(web)、滋賀県高島市の森神社のように久那戸神とともに八衢比古神・八衢比売神を祀っている式内社がある。
 名古屋では熱田区の社宮司社(須賀町)が猿田彦命(サルタヒコ)、岐之神(クナト)とともに八衢彦神と八衢媛神を祀るとしている。チマタ神を祭神としているのはここだけで他にはない。

 

速玉之男・泉津事解之男(ハヤタマノオ・ヨモツコトサカノオ) ーーー 『日本書紀』で伊弉諾尊(イザナギ)が伊弉冉尊(イザナミ)を追いかけて黄泉の国へ行ったときに生まれた神として登場する。
 第五段一書(第十)はこんなふうに書いている。イザナミに会ったイザナギは、おまえを失って悲しいから来たのだと言う。それに対してイザナミはわたしを見ないでくれと言う。しかし、イザナギはイザナミを見てしまう。するとイザナミは恨み恥じて、あなたは私の心を見た、私もあなたの心を見たと言い、悪いと思ったイザナギが去ろうとするとイザナミは別れると言い、イザナギは負けないと答えた。
 このとき、イザナギが吐いた唾から化成したのが速玉之男(ハヤタマノオ)で、穢れを祓うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれたという。
『古事記』にはこれに当たるような神は出てこない。
 古代の日本では唾(つば)には何か特別な意味があると考えられていたようで、記紀の中でもいくつかの場面で登場する。神聖なものとされたのか、ある種の呪いのようなものとされたのかは定かではない。
 熊野権現と習合して、熊野本宮大社(web)、熊野速玉大社(web)、熊野那智大社(web)で、速玉之男神・事解之男神という祭神名で祀られている。
 出雲国一宮の熊野大社(web)内の伊邪那美神社に合祀された速玉神社は『出雲国風土記』にも載る式内社で、ハヤタマノオなどはもともと出雲族の神だったかもしれない。
 名古屋では天白区の島田神社菅田神社、南区の熊野三社(呼続)、西区の伊奴神社で事解之男命と速玉之男命が祀られている。
 南区の神明社(鳥栖)は速玉之男命が祭神に加わっている。
 緑区の熊野社(徳重)、守山区の熊野社(大永寺)、中川区の熊野社(二女子町)、中村区の熊野社(権現通)は祭神を事解之男命・速玉之男命としていない(イザナギやスサノオ)。
 

塩土老翁命(シオツチノオジ) ーーー 『古事記』では塩椎神、『日本書紀』では鹽土老翁と表記される。神社の祭神名としては塩土老翁が一般的で、これは『先代旧事本紀』での表記でもある。
『古事記』では海幸(火照命)・山幸(火遠理命)の場面で登場する。兄の海幸に借りた釣り針をなくして困っていた山幸のところに塩椎神(シオツチ)がやってきて、どうして泣いているのかと尋ねる。事情を聞いたシオツチは、それなら綿津見神(ワタツミ)の宮へ行くといいと勧め、竹で編んだ小船を作って山幸を送り出したという。
『日本書紀』第十段の本文にもほぼ同じ話が書かれている。
『日本書紀』はそれに先だち、天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降った場面において、事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)という名前で登場する。
 天降ったニニギが住む場所を探して吾田長屋笠狹之碕(鹿児島県南さつま市長屋山とされる)に到ったとき事勝国勝長狹(コトカツクニカツナガサ)に出会い、ここに国はあるかとニニギは尋ね、あります、好きにしてくださいとコトカツクニカツナガサは国を譲ったとする。
 一書のいくつかにも同じような話があり、一書(第四)に事勝国勝神は伊弉諾尊(イザナギ)の子で、またの名を鹽土老翁(シオツチノオジ)と書いている。
『日本書紀』ではもう一度、神武東征の場面で名前が出てくる。神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は45歳になったとき、天孫が国を治めるならどの土地がいいかと兄たちと相談する場面で、鹽土老翁(シオツチノオジ)から聞いたところによると、東に美し国(うましくに)があって、青い山が四方を囲み、そこへ天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛び降りた者がいるらしいという話が出る。自分が思うにそれは饒速日(ニギハヤヒ)だろうといってカムヤマトイワレビコの一行は東の大和を目指すことになる。
 塩土老翁を祀る神社の総本社とされる志波彦神社・鹽竈神社(web)の社伝によると、武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)は塩土老翁の先導で東国を平定し、シオツチは塩竈にとどまって人々に漁業や製塩法を伝えて神とされたという。
 シオツチのシオは潮にも通じるということで、潮を司る神、安産の神ともされた。
 宮城県塩竃市の鹽竈神社をはじめ、全国の鹽竈神社系で祀られる。
 名古屋では天白区の塩竈社(御幸山)、中川区の鹽竈神社(西日置)、中村区の六生社で祀られている。
 塩竈社(御幸山)は安産祈願・祈祷に特化した神社で、戌の日には大勢の妊婦さんが祈祷を受けるために訪れる。

 

天之多奈波太姫命(アメノタナバタヒメ) ーーー 『古事記』、『日本書紀』には登場しない機織りの女神。
『古語拾遺』(807年)は、天照大御神(アマテラス)が天岩屋に隠れてしまったとき、天棚機姫神(アメノタナバタツヒメ)が神衣和衣を織ったと書いている。
 天八千千比売命(アメノハチチヒメ)は天棚機姫神の別名または子、あるいは孫という説がある。機織の神の栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)と同一神とする考えもある。
 機織りの原形といえる編布(あんぎん)は縄文時代にはすでに始まっており、古くはそういった女性のことを棚機女(タナバタツメ)と呼んでいたとされる。
 織姫と彦星の七夕物語が中国から伝わったのもかなり早い段階だったようで、弥生時代には知っていた可能性がある。奈良時代末成立の『万葉集』には棚機や織女の歌が多く詠われており、鎌倉時代初期の『新古今和歌集』では七夕とあるので、平安時代には棚機に七夕の字が当てられるようになったようだ。
 水辺で神に捧げる機を織って神の一夜妻となった云々という話は折口信夫(1887-1953年)が唱えたもので、それほど古い伝承ではないかもしれない。たとえばニニギが天孫降臨する際に衣服関係の神が供として天降ったといった話は記紀には出てこないことからしてもそう言えそうで、棚機女を祀る神社も少ない。
 ただ、名古屋で天之多奈波太姫命を祀る多奈波太神社は『延喜式』神名帳(927年)に載っていることからすると、平安時代もしくはそれ以前に棚機女を神として祀るという認識があったということだろう。

 

神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ) ーーー  初代天皇・神武天皇。
『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ)が玉依毘売命(タマヨリヒメ)をめとって生んだ第四子で、若御毛沼命(ワカミケヌ)という名で紹介される。その際、別名を豊御毛沼命(トヨミケヌ)、または神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)とする。
『日本書紀』は、神日本磐余彦天皇と表記し、諱(いみな)を彦火火出見(ヒコホホデミ)とする。彦火火出見は祖父の山幸彦こと火遠理命(ホオリ)の別名でもある。
 その他、狭野尊(サヌ)という別名もあり、磐余彦尊(イワレビコ)と略されたりもする。
 天照大神(アマテラス)から五世孫に当たり、日向国で生まれ育ち、15歳で立太子されたと『日本書紀』は書く。
『古事記』は前半生に関する記述はなく、神武東征から物語が始まる。『日本書紀』はこのとき45歳になっていたとしている。
 兄や子供たちを伴い、イワレビコは日向を後に大和を目指す。途中の戦で兄を失い、大和にはすでに天津神の饒速日(ニギハヤヒ)がおり、長髄彦の抵抗にあって大苦戦をしたものの、最終的には畝傍山の東南の橿原宮(かしはらのみや)に都を置いて即位するまで経緯を記紀ともに詳しく語っている。細かい部分は違ってはいても話の流れはおおむね共通している。
 事代主神(コトシロヌシ)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)を皇后とし、神八井耳命(カムヤイミミ)と神渟名川耳尊(カムヌナカワミミ)が生まれ、神渟名川耳が皇太子となり、第二代綏靖天皇(すいぜい)となる。
『古事記』は長子を日子八井命(ヒコヤイノミコト)とするも、『日本書紀』には登場しない。
 神武天皇がどんな政治をしたかなど、具体的なことは記紀には書かれていない。『日本書紀』は即位して31年経ったとき、国中を見て回り、いい国を得たものだと感慨にふける場面が書かれている。
 奈良県橿原市の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に葬られたとする。
 記紀の神武東征の話は非常に具体的ではあるものの、神武天皇の実在性については意見が分かれる。
『日本書紀』がいう即位した辛酉年を紀元前660年としており、これは時代区分でいうと縄文時代末に当たる。
 明治になって神武天皇の都があったとされる場所に橿原神宮(web)を建てる際に発掘調査が行われ、縄文時代の大規模集落跡が見つかったことから、何らかの史実を反映したとも考えられる。
 神武天皇/神日本磐余彦尊を祀る古い神社としては宮崎県の宮崎神宮(web)や狭野神社(web)などがある。他の神武天皇を祀る神社は新しいところが多い。
 名古屋に神武天皇/神日本磐余彦尊を祀る神社はない。神武天皇は九州や大和方面では人気があるのかもしれないけど、東国では影が薄い。ただ、東区の物部神社の御神体となっている大石は神武東征の際に尾張国の要石としたものという伝承が残っている。

 

天目一箇神(アメノマヒトツ) ーーー 『日本書紀』で国譲りについて書かれた第九段一書(第二)に登場する神。
 天神(アマツカミ)は經津主神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)に葦原中国の平定を命じ、地上にいた大己貴神(オオアナムチ)はそれをいったんは拒否する。それに対して高天原の高皇産霊尊(タカミムスビ)は現世のことは天孫が治めるから、オオアナムチには神事(かむこと)を治めてほしいと提案し、オオアナムチはそれを受け入れる。
 タカミムスビは、大物主神(オオモノヌシ)に自分の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)を妻にするよう命じ、永遠に皇孫(すめみま)を守るように言いつける。このとき、天目一箇神(アマノマヒトツ)を「作金者(かなだくみ)としたという形でアマノマヒトツは登場する。
『古事記』に同名の神は出てこないものの、天照大御神(アマテラス)が天の岩屋戸に閉じこもってしまったとき、思金神(オモイカネ)が天安河(あめのやすかわ)の上流の天の堅石と天の金山の鉄を材料に、鍛冶屋の天津麻羅(アマツマラ)と鏡の神の伊斯許理度売命(イシコリドメ)に鏡を作らせたという話があり、この天津麻羅が同一神とされる。
 同様の話が『古語拾遺』にもある。アマテラスが天の岩屋戸に隠れた時に天目一箇神が刀剣、斧、鉄鐸などの祭具を作ったと書いている。
 同書によると、天津彦根命(アマツヒコネ)の子で、崇神天皇のときにアメノマヒトツの子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再び鋳造したともいっている。
 また、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としていることから天太玉命(アメノフトダマ)と同一神とする説もある。
『播磨国風土記』では天目一命の名で登場し、土地の女神・道主日女命(ミチヌシヒメ)が生んだ子の父親とされている。
 一つ目の名前は、鍛冶が片目をつむる仕草から来たとも、火の粉を浴びて失明することが多かったことから来ているともされ、よく似た一目連(いちもくれん/ひとつめのむらじ)と同一神とされることもある。
 天目一箇命を祀る神社としては、兵庫県西脇市の天目一神社(式内社)、大阪府大阪市の鞴神社、滋賀県東近江市の竹田神社などがある。
 金屋子神の総本社とされる島根県安来市の金屋子神社で祀られる金屋子神は、金山彦・金山媛や天目一箇神のこととする説もある。
 名古屋では熱田区の金山神社(金山町)が金山彦命とともに天目一箇命を祀っている。

 

石凝姥命(イリコリドメ) ーーー 『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥(命)と表記される。
 最初に登場するのは天照大神(アマテラス)が天岩戸に隠れてしまったときで、記紀ともに鏡作りを担当した神で、作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神としている。
 思金神(オモイカネ)が主導してどうするか相談し、天安河(あめのやすかわ)の上流の天の堅石と天の金山の鉄を材料にして鍛冶屋の天津麻羅(アマツマラ)と伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)に鏡を作らせたと『古事記』は書く。
『日本書紀』第七段一書(第一)では、石凝姥(イシコリドメ)が鍛冶士となり、天香山から金を採ってきて、日矛(ヒボコ)を作り、眞名の鹿の皮をはいでフイゴ(天羽韛)を作ったといっている。
 鞴(ふいご)というのは、火を高温にするために風を送り込む道具で、それを使って作った鏡が紀伊の国の日前神(ヒノクマ)とも書いている。
 第七段一書(第三)には、鏡作の遠い祖先の天拔戸(アマノヌカト)の子供の石凝戸邊(イシコリトベ)が作った八咫鏡(やたのかがみ)というふうに書かれている。イシコリトベがイシコリドメのことかどうかは定かではない。イシコリドメの名前の解釈としては、石の鋳型を使って鏡を作ることに通じた女性を意味するというのが一般的だ。
 次に登場するのは邇邇芸命(ニニギ)が天降るときにお供として付けられた5柱の神のうちの1柱としてだ。
『古事記』と『日本書紀』第九段一書(第一)は共通していて、アメノコヤネ(天児屋命/天兒屋命)、フトダマ(布刀玉命/太玉命)、アメノウズメ(天宇受売命/天鈿女命)、イリコリドメ(伊斯許理度売命/石凝姥命)、タマノオヤ/タマノヤ(玉祖命/玉屋命)の五伴緒/五部(イツノトモノオ)がニニギとともに天降ったとする。
 鋳物や金属加工の神とされ、大阪府大阪市の生國魂神社境内社の鞴神社、岡山県津山市の美作国一宮で式内名神大の中山神社、奈良県磯城郡の鏡作坐天照御魂神社(式内名神大)、岡山県新見市の岩山神社などで祀られている。
 また、紀伊国一宮で式内名神大の日前神宮(日前神宮・國懸神宮/web)は『日本書紀』にある日前神のこととされ、石凝姥命(イシコリドメ)が鋳造したという日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体としている(國懸神宮の御神体が日矛鏡)。相殿で思兼命と石凝姥命を祀っている。
 名古屋では東区の社宮司神社(芳野)が伊斯許理度賣命を祀るとしている。

 

饒速日命(ニギハヤヒ) ーーー 『古事記』では邇芸速日命、『日本書紀』では饒速日命と表記される。
 記紀ともに神武東征の場面で登場する。
 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は兄の五瀬命(イツセ)らと相談し、天下を治めるために日向の高千穂宮を出て東に向かう。
 浪速の渡を通って白肩津(しらかたのつ/東大阪市日下あたり)で船を泊めると、登美(奈良県富雄町か)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が兵を集めて待ち構えていて戦闘になる。
 その戦いでイツセは矢を受け傷を負い、カムヤマトイワレビコ一行は退却させられる。
 熊野に到ったとき、建御雷神(タケミカヅチ)が高倉下(タカクラジ)を通じて葦原中国を平定したときに使った横刀がカムヤマトイワレビコ軍にもたらされると敵はひとりで倒れたという。この刀(佐士布都神/甕布都神/布都御魂)は後に奈良県天理市の石上神宮(web)に祀られることになる。
 この後、ナガスネヒコ軍団との再戦になるのだけど、何故か名前が登美毘古(トミビコ)になる。登美(とみ)はナガスネヒコが待ち構えていたところの地名で、ナガスネは邑の名と『日本書紀』にあるので、トミの彦とナガスネの彦は同一と考えていいだろうか。
 ここでニギハヤヒが登場する。イワレビコの元を訪れ、天津神の子が天降ったと聞いてきたけど、自分も天津神だといい、その印である宝物をイワレビコに献上した。
 ニギハヤヒはナガスネヒコの妹の登美夜毘売(トミヤビメ)と結婚して、宇麻志麻遅命(ウマシマジ)が生まれており、物部連、穂積臣、婇臣の祖であるという説明が入る。
 そうしてイワレビコは荒ぶる神たちを説得したり平定したりして畝火の白祷原宮(かしはらのみや)で天下を治めた、というのが『古事記』の内容だ。ナガスネヒコ(トミビコ)がどうなったかは書かれていない。
『日本書紀』ではカムヤマトイワレビコは東征に出る前から東の国に天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛び降りた饒速日(ニギハヤヒ)がいることを知っていたという設定になっている。東に美し国があることを教えたのは鹽土老翁(シオツチノオジ)だとも書いている。
 大和にいた長髄彦(ナガスネヒコ)もイワレビコがやって来て国を奪おうとしていることを知っていて待ち受けていた。兵を集めて孔舍衞坂(くさえのさか/大阪府と奈良県の境)で迎え撃ち撃退する。
 この後、熊野で高倉下(タカクラジ)を通じてタケミカヅチの剣が与えられる展開は同じで、ピンチを脱するものの、ナガスネヒコとの再戦ではまたも敗れることになる。
 そのとき不意に氷雨が降り、金色の鳶(とび)がイワレビコの弓に止まった。するとナガスネヒコ軍は急に戦意を喪失してしまったという。
 ナガスネヒコはイワレビコの元に使者を送りこう伝えた。昔、天磐船に乗って天からやって来た櫛玉饒速日命(クシタマニギヤハヒ)に自分は仕えている。妹の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)をめとって子供もいる。天神の子がどうして二人もいるというのか。おかしいではないかと。
 イワレビコは、天神の子なら印を持っているはずだからそれを見せるようにといい、対してナガスネヒコはニギハヤヒが持っていた天羽々矢と步靫(かちゆき)を見せた。
 それを見たイワレビコは本物であることを認め、自分が持っている同じものをナガスネヒコに見せるとナガスネヒコは恐れおののいたものの、後には引けないと抵抗を続けたため、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺し、イワレビコに下ったと『日本書紀』はいう。
 いずれもニギハヤヒを天神として、その子のウマシマジを物部氏などの祖としている。
 物部氏が書いたとされる『先代旧事本紀』によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の子で瓊瓊杵尊(ニニギ)の兄に当たる天火明命(アメノホアカリ)と同一神という。これが本当であれば、物部氏と尾張氏は同族ということになる。
 ただ、『新撰姓氏録』はアメノホアカリを天孫、ニギハヤヒを天神として区別している。
 ニギハヤヒについては謎の多い存在として様々なことが語られている。
 大阪府交野市の磐船神社(web)はニギハヤヒが天の磐船に乗って降りた地という伝承を持つ。
 大阪府東大阪市の石切劔箭神社(web)、奈良県大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社(web)などで祀られるも、その数は少ない。そのことから、消された神といった言われ方をすることもある。
 名古屋ではニギハヤヒを祭神としている神社はないものの、天火明(アメノホアカリ)と同一というのであれば、熱田区の孫若御子神社(熱田神宮内)、守山区の八劔神社(大森)尾張戸神社で祀られている。

 

大田田根子(オオタタネコ) ーーー 『古事記』では意富多多泥古命、『日本書紀』では大田田根子と表記される。
 記紀ともに崇神天皇の段で登場する。
『日本書紀』によると、崇神天皇5年から6年にかけて疫病が流行って民の半分が死んでしまい、朝夕天神地祇に祈るも効果がなく、宮中に祀っていた天照大神(アマテラス)と倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)を外で祀ることにした。皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に天照大神を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に倭大国魂神を祀らせたとする。しかし、渟名城入姫は髪が抜けて体が痩せて祀ることができなかったという。
 崇神天皇が占いによって原因を探ると、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメ)が神憑りして告げるには、自分は倭国の域(さかい)にいる神で大物主神(オオモノヌシ)だと名乗った。そのお告げに従って祀るもやはり効果がなく、今度は崇神天皇の夢にオオモノヌシが現れ、災いの原因は自分の意志にあるもので自分の児(こ)の大田田根子(オオタタネコ)に自分を祀らせれば平穏になるだろうと言った。
 早速探させたところ、茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかったので、天皇が自ら出向いてってオオタタネコに、お前の両親は誰かと尋ねた。オオタタネコが答えるに、父は大物主大神で、母は陶津耳(スエツミミ)の娘の活玉依媛(イクタマヨリヒメ)だと言った。
 更に言うには、奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘ですという。
 原文では「亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也」とあるのだけど、これがどこに掛かっているのかがよく分からない。ここでいう「女」というのは娘という意味のはずなので、大田田根子は奇日方天日方武茅渟祇の娘で女性なのかと思ったりもする。天照大神と倭大国魂神を祀ったのが豊鍬入姫命と渟名城入姫命という女性だったことからしても、オオタタネコが女性という可能性もあるのではないか。
 武茅渟祇(タケチヌツミ)は鴨神の建角身(タケツヌミ)のことという説があり、だとすれば、オオタタネコの母方は鴨氏ということになる。
 崇神天皇8年に、天皇はオオタタネコに大神を祀らせたとする。
『古事記』も内容はほぼ同じなのだけど、意富多々泥古(オオタタネコ)は大物主大神の5世孫としている点に違いがある。
 その系図としては、大物主大神が陶津耳命の娘の活玉依毘売をめとって生んだのが櫛御方命(クシミカタ)で、その子が飯肩巣見命(イヒカタスミ)、その子が建甕槌命(タケミカヅチ)、その子が意富多々泥古とする。
 その他の違いとしては、オオタタネコが見つかったのは河内の美努村(みぬむら)といっている。
『先代旧事本紀』地祇本紀は、大田々禰古命(亦名大直禰古命)は、出雲の神門臣(カムトノオミ) の娘の美気姫(ミケヒメ)をめとって一男、大御気持命(オオミケモチ)を生んだと書いている。
 この大御気持が三輪氏や鴨氏などの祖とされる。
 大物主を祀る大神神社(奈良県桜井市/web)の創祀は大国主(オオクニヌシ)と少彦名(スクナヒコナ)の国作りのときにさかのぼる。途中でスクナヒコナが常世に去ってしまって困っていると大物主が現れ、自分は大国主の幸魂奇魂で大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力するというので御諸山(三輪山)に祀ったのが大神神社の始まりという。
 記紀ともにオオタタネコがどこで大物主を祀ったかについては書かれていないのだけど、大神神社の祭主となったと考えていいだろうか。
 オオタタネコを祭主とするに先だって高橋邑(奈良県天理市か)の活日(イクヒ)を大神の掌酒(さかびと)とし、オオタタネコが祭主となったとき、活日は自ら神酒(ミワ)を捧げて歌を歌った(『日本書紀』)。
 この神酒(みき)は我が神酒ならず
 倭(やまと)成す 大物主の 醸みし神酒
 幾久 幾久
 奈良県桜井市の大直禰子神社 (大神神社摂社/web)、奈良県御所市の多太神社(web)などでオオタタネコが祀られている。
 大阪府堺市の陶荒田神社はオオタタネコが創祀の神社と伝わる。
 名古屋では、中区の大直禰子神社が大直禰子命を祀るとしているのだけど、ここは江戸時代は「おたからねこ」などと呼ばれた神社で、明治になって生き残りのために祭神を大直禰子命とした可能性が高い。
 三輪社系としては、中区の三輪神社(大須)、中川区の三輪社(榎津)がある。

 

田道間守(タジマモリ) ーーー 『古事記』では多遅摩毛理(多遅麻毛理)、『日本書紀』では田道間守と表記される。
 記紀とも第11代垂仁天皇に、常世国(とこよのくに)にあるという非時香菓(ときじくのかくのみ)を取ってくるように命じられたとしている。
『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が渡来して持参した7つの宝物を但馬国(兵庫県の北の日本海側)に納めて神宝としたとある。
 またある書によるとという形で別の話が書かれている。それによると、アメノヒボコは初め播磨国(兵庫県南西部)にいて、垂仁天皇が使者を派遣しておまえは何者だと尋ねると自分は新羅国の主の子ですと答え、持っていた宝を献上し、天皇がアメノヒボコに播磨国の宍粟邑(しさはのむら)か淡路島の出浅邑(いでさのむら)の好きな方にいていいと言うと、自分は各地を巡って好きな土地を選びたいというので天皇は許し、近江国の北の吾名邑(あなむら)から若狭国を通って但馬国に到り、そこに住むことに決めたという。
 出嶋(いづし)の太耳(フトミミ)の娘の麻多烏(マタオ)をめとって、但馬諸助(タジマノモロスケ)が生まれ、諸助から但馬日楢杵(タジマノヒナラギ)が生まれ、日楢杵から清彦(キヨヒコ)が生まれ、清彦から田道間守(タジマモリ)が生まれたといっている。
 垂仁天皇90年春2月1日、天皇はタジマモリを常世国(とこよのくに)に派遣して非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。これは今の橘(たちばな)のことだという。
 99年秋7月1日、天皇は纒向宮(まきむくのみや)で亡くなり、冬12月10日菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬られた。
 翌年の景行天皇元年3月12日、タジマモリは非時香菓を八竿八縵(やほこやかげ)を持って戻ってきた。しかし、垂仁天皇はすでに崩御したと聞き、「命を受けて遠くの絶域まで行き、万里の波を越えて遥かに遠くの川を渡り、ようやく神仙の秘区(常世国)へ辿り着くことができました。その間10年も経ってました。天皇のおかげでどうにか帰ってこられたのに天皇が生きていなければ自分に何の意味があるでしょうと嘆いて、天皇の陵の前で叫び泣いて自殺したという。
 田道間守は三宅連の始祖とも書いている。
『古事記』も話としては同じなのだけど、系図が違っている。
 それによると、アメノヒボコが但馬にとどまって、多遅摩の俣尾(マタオ)の娘の前津見(マヘツミ)をめとって多遅摩母呂須玖(タジマモロスク)が生まれ、その子が多遅摩斐泥(タヂマヒネ)、その子が多遅摩比那良岐(タジマヒナラキ)、その子が多遅麻毛理(タヂマモリ)・多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)・清日子(キヨヒコ)とする。
『日本書紀』ではタジマモリの父とされたキヨヒコ(清彦)は『古事記』ではタジマモリの弟となっている。
 この系図のつながりで、多遅摩比多訶が由良度美(ユラドミ)をめとって生んだ子が高額比売命(タカヌカヒメ)で、これが神功皇后(オキナガタラシヒメ)の母に当たるといっている。要するに神宮皇后は新羅国の血筋だということだ。
 問題となるのは、非時香菓/橘とは何を示しているか、ということだ。

 記紀ともに、非時香菓は今の橘なりと書いている。「今」というのは記紀が書かれた奈良時代前期のことだ。そして、奈良時代の橘が現代の橘と同じとは限らないことに注意しなければならない。
 我々が思っている橘は、ミカンの原種のようなもので、別名をヤマトタチバナなどといい、九州から三重県あたりまでの海岸に近い山に自生している。
 垂仁天皇が求めた常世の国にあるとされる非時香菓と橘(ヤマトタチバナ)はあきらかに別のものだ。タジマモリが10年もかけて苦労して見つけて持ち帰ったというのもそれを表している。
 たとえばそれは中国とかインドとかにあったのではないかと考えるのだけど、ヤマトタチバナは大陸や朝鮮半島などには生えていない。では大陸原産の橘が日本にあるかといえばそれもない。
 そもそも垂仁天皇はどうして晩年になって非時香菓を欲したのか。不老長寿の薬という説もあるのだけど、そんなことは記紀には書かれていない。命じられたのが天日槍(アメノヒボコ)の末裔とされるタジマモリだったのは偶然ではない。タジマモリは10年もかけて非時香菓を求めてどこで何をしていたのか。
『古事記』は縵八縵・矛八矛を持ち帰って、縵四縵・矛四矛を大后に献じて、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置いたと書いている。縵八縵・矛八矛というのは、葉のついた枝と葉を取った枝をそれぞれ八枝という意味だ。その理由もよく分からないのだけど、何かを暗示しているのだろう。
 非時香菓の「ときじく」は国または場所を表していると考えていいだろうか。菓は果実という意味だろうから、「ときじく」にある香りの高い果実といったところだ。
 記紀はどうしてそれをあえて「今の橘」と書いたのか。奈良時代において橘というのはいろいろな意味で人気があった。『万葉集』には橘を詠ったものが多くあり、田道間守についての歌もある。
 奈良時代前期に県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)という女官がいた。壬申の乱で活躍した犬飼大伴の娘で、藤原不比等の後妻となって光明子を生み、元明天皇から橘宿禰姓を賜って橘三千代ともいった。元明天皇は『古事記』が完成したときの女性天皇だ。
 この後の時代、橘を家紋にする家も増える。橘というのは単なる植物というだけではない、何か特別な意味を持つものだったのだろう。
 タジマモリは三宅連の祖と記紀は書いている。三宅(みやけ)は天皇直轄地の屯倉から来ているという説がある。県犬養三千代の家も屯倉を管理する家だった。
 このあたりの関係性は、渡来系の秦氏とも深く関わっている。京都御所はもともと聖徳太子の側近、秦河勝の屋敷があった場所だ。そこには右近橘と呼ばれる橘がある。
 タジマモリというのは、考えられている以上に重要な鍵を握るキーパーソンかもしれない。
 アメノヒボコが但馬を本拠としたことから、タジマモリは但馬守というのが一般的な説ではあるのだけど、タヂマはタチバナから転じたのではないかとする説もある。
 三宅氏が祖神として祀った他、香菓を持ち帰ったことから菓子の神、菓祖神とされ、兵庫県豊岡市の中嶋神社(web)、和歌山県海南市の橘本神社(web)などで祀られている。
 各地の境内社としてタジマモリを祀っているのは、中嶋神社からの勧請が多いとされる。
 名古屋では、タジマモリを主祭神として祀る神社はないものの、西区の白山神社(榎白山)に田道間守命を祀る田道間守社がある。

 

大苫邊尊(オオトマベ) ーーー 『古事記』では大斗乃辨神(オオトノベ)、『日本書紀』では大苫邊尊と表記される。
 記紀ともに神世七代(かみのよななよ)の一柱としている。
『日本書紀』によると、初めに国常立尊(クニノトコタチ)、国狹槌尊(クニノサツチノ)、豊斟渟尊(トヨクムヌ)の三柱が生まれ、それぞれ対となる神のいない男神といい(第一段本文)、続いて第二段本文・第三段本文で以下のような組み合わせで神が生まれたとする。
 泥土煮尊(ウヒジニ)・沙土煑尊(スヒジニ)
 大戸之道尊(オオトノジ)・大苫邊尊(オオトマベ)
 面足尊(オモタル)・惶根尊(カシコネ)
 伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)
 この八柱の神は男女の対になっていて、国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までを神代七代と呼ぶといっている。
 オオトノジ・オオトマベについて、大戸之道尊(オオトノジ)は一説では大戸之邊(オオトノベ)といい、別名を大戸摩彦尊(オオトマヒコ)・大戸摩姫尊(オオトマヒメ)、またの別名を大富道尊(オオトミヂ)・大富邊尊(オオトミベ)いうと書いている。
『古事記』は、最初に高天原に現れたのは天之御中主神(アメノミナカヌシ)で、次に高御産巣日神(タカミムスビ)、次に神産巣日神(カミムスビ)が生まれ、これを造化三神と呼んでいる。
 それに続いて、国之常立神(クニノトコタチ)、次に豊雲野神(トヨクモノ)が生まれ、ここまでが独神で、その次から兄と妹の男女神が対で生まれたとする。
 その順番と組み合わせはこうなっている。
 宇比地迩神(ウヒジニ)・須比智迩神(スヒジニ)
 角杙神(ツノグヒ)・活杙神(イクグヒ)
 意富斗能地神(オオトノジ)・大斗乃辨神(オオトノベ)
 淤母陀流神(オモダル)・阿夜訶志古泥神(アヤカシコネ)
 伊邪那岐神(イザナギ)・伊邪那美神(イザナミ)
『古事記』と『日本書紀』を見比べると、おおむね共通しているものの、違っているところもある。
『日本書紀』(720年)は『古事記』(712年)より後に完成しているのに、『古事記』の内容を別伝(一書)という形でどうして紹介しなかったのだろう。
『日本書紀』第三段一書(第一)では、埿土煑尊・沙土煑尊、角樴尊・活樴尊、面足尊・惶根尊、伊弉諾尊・伊弉冉尊が生まれた書いており、意富斗能地神(オオトノジ)・大斗乃辨神(オオトノベ)が抜けている。
『先代旧事本紀』は兄を大苫彦尊(オオトマヒコ)、妹を大苫姫尊(オオトマヒメ)とする。
 クニノトコタチからイザナギ・イザナミまでの流れの中で、オオトノジ・オオトノベを男女の性器の象徴とする説がある。ヂ(地)とべ(弁)は男と女の意味を持つとされる。
 もしくは、「ト」を戸や門として門戸の男女神とする考え方もある。
 オオトマベを主祭神として祀っている神社は少なく、式内社とされる神社の中では、徳島県徳島市の宅宮神社と、愛知県名古屋市守山区の川島神社しかないようだ。
 その他、島根県出雲市の波須波神社が意富斗能知神・意富斗能邊神、宮城県宮城郡の染殿神社(web)が大戸辺命・大苫辺命という祭神名で祀っている。
 守山区の川島神社がどういう経緯で大苫辺命を祀るようになったのかはまったく分からない。
 熊野速玉大社(web)と熊野那智大社(web)の祭神の中に大戸道尊が入っていて、川島神社は江戸時代は熊野権現と呼ばれていたのでその関係かもしれないけど、熊野権現は男神の大戸道で、女神の大苫辺は入っていないからやはり別なのか。

 

大宮能売(オオミヤノメ) ーーー 『古事記』、『日本書紀』には出てこず、『古語拾遺』に登場する。そこでは、太玉命(フトダマ)の子で、天照大神(アマテラス)が天岩戸から出て新殿に移ったとき侍女として仕え、善言美詞を用いて君臣の間を和らげるような働きをしたと書かれている。
『延喜式』の大殿祭(おおとのほがい)の祝詞に、皇居に鎮座して親王や諸臣たちが過ちを犯すことなく心安らかに仕えられるよう見守る神として出てくる。
 これらのことから、宮殿の人格化、もしくは女官の神格化ともされる。
 神祇官で祀られた天皇守護の八神のうちの一柱で、現在の皇居にある宮中三殿のひとつ神殿でも祀られている。
 八神殿の神は以下の通り。

 第一殿 神産日神/神皇産霊神(カミムスビ)
 第二殿 高御産日神/高皇産霊神(タカミムスビ)
 第三殿 玉積産日神/魂留産霊(タマツメムスビ)
 第四殿 生産日神/魂留産霊(イクムスビ)
 第五殿 足産日神/足産霊(タルムスビ)
 第六殿 大宮売神(オオミヤノメ)
 第七殿 御食津神/御膳神(ミケツ)
 第八殿 事代主神(コトシロヌシ)

 皇祖神とされる天照大神は『日本書紀』によれば第10代崇神天皇の時代に宮中から出されて伊勢の神宮(web)で祀られるようになったとされていて、八神殿では祀られなかった。
 現在は宮中三殿のひとつ、賢所(かしこどころ)で祀られている。
 また別の側面として、平安京の市場の守護神とされたことから商売繁盛の神ともされた。
 伏見稲荷大社(web)の上社(南座)で祀られているのは、そういった関係からと思われる。主祭神の宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)に仕える巫女を神格化したものともされる。
 伊勢の神宮の内宮で祀られている宮比神(ミヤビ)や、天鈿女命(アメノウズメ)と同一視する説もある。
 式内社とされる神社の中でオオミヤノメを主祭神としているのは、京都府京丹後市の大宮売神社(名神大社)で、かつて神祇官があったところに近い場所に鎮座する京都府京都市の大宮姫命稲荷神社で祀られている大宮姫命はオオミヤノメのこととされる。
 その他、各地の稲荷社で祭神に名を連ねている。
 名古屋では、守山区の生玉稲荷神社斎穂社、熱田区の櫻田神社に祀られる。

 

宇摩志麻遅命(ウマシマジ) ーーー 『古事記』では宇摩志麻遅命(ウマシマジ)、『日本書紀』では可美真手命(ウマシマデ)と表記される。
『先代旧事本紀』は味間見命(ウマシマミ)とする。
 記紀ともに神武東征の場面で、邇芸速日命/櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)の子として名前だけ出てくる。
『古事記』は、登美毘古(トミビコ/那賀須泥毘古(ナガスネヒコ))の妹の登美夜毘売(トミヤビメ)をめとって生んだ子が宇麻志麻遅命(ウマシマジ)とし、物部連(もののべ)・穂積臣(ほづみ)・婇臣(うねめ)の祖と書く。
『日本書紀』は長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)をめとって生んだ子が可美眞手命(ウマシマデ)とする。
 ミカシキヤヒメの別名を長髄媛(ナガスネヒメ)、またの別名を鳥見屋媛(トミヤビメ)ともいうといっている。
 人物関係は共通しているのだけど、人名が微妙に違っている。
 ウマシマジ・ウマシマデ・ウマシマミで共通するのはウマシマの部分だから、ウマシマで切るのか、ウマシで切るのか。その場合、マジ・マデ・マミは同じ事を表しているのだろうか。あるいは、ウマ・シマ・ジ(デ/ミ)という切り方なのか。
 物部氏側から書かれたとされる『先代旧事本紀』は、饒速日命(ニギハヤヒ)の別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、尾張氏の祖とされる天火明(アメノホアカリ)とは同一人物で、ウマシマジと天香山命(アマノカグヤマ)は異母兄弟とする。
 ウマシマジの子に彦湯支命(ヒコユキ)がいるとも書いている。
 ウマシマジは父ニギハヤヒが残した十種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を神武天皇に献上し、天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったという。
 石見国一宮の物部神社(web)社伝によると、ウマシマジは神武東征の際に義兄の天香山命(アマノカグヤマ)とともに兵を率いて尾張、美濃、越国を平定し、アマノカグヤマは越国に残って後に彌彦神社(越後国一宮/web)に祀られ、ウマシマジは播磨、丹波を経て石見国で没して葬られ、そこに物部神社が建てられたとしている。
 奈良県天理市の石上神宮(web)は、武甕槌(タケミカヅチ)が葦原中国平定のとき使った布都御魂剣をウマシマジが宮中で祀っていて、第10代崇神天皇の時代に、物部氏の伊香色雄命(イカガシコオ)が現在の場所に祀ったのが始まりと伝える。
 大阪府東大阪市の石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ/web)は、生駒山中の宮山にウマシマジ(可美真手命)が饒速日尊(ニギハヤヒ)を祀ったのが起源で、崇神天皇時代に可美真手命が祀られたとする。
 社家の木積氏は物部氏から分かれた穂積氏の末裔とされる。
 愛知県春日井市の味美(あじよし)と名古屋市北区の味鋺(あじま)は古墳密集地帯で、味美二子山古墳はウマシマジの墓という言い伝えがある。
 味鋺神社は、宇摩志麻治命と、その子、味饒田命(ウマシニギタ/マジニギタ)を祀っている。
 味鋺の地名は、この味饒田、まはたウマシマジの『先代旧事本紀』の表記である味間見命から来ているという説がある。
 東区の物部神社(筒井)も宇麻志麻遅命を祀る。

 

高倉下(タカクラジ) ーーー 『古事記』、『日本書紀』ともに、おおむね共通した話が語られ、珍しく表記も高倉下で一致している。
 東征中の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)が熊野村に到ったとき、「大熊髣出即入失」と『古事記』は書く。
 一般的には大きな熊が髣(ほの)かに出てすぐに去ったというように解釈されるのだけど、「髣」は本当にかすかにといった意味なのだろうか。もしかすると「大熊髣」という人物または別の何かが現れたということではないのか。
 この後、イワレビコと兵士たちは突然気を失ってしまったという。
 そこへ熊野の高倉下(タカクラジ)が横刀を持ってやって来ると、イワレビコ一行は目を覚まし、イワレビコは長く寝ていたなと言う。
 イワレビコがその横刀を受け取ると、熊野の山の荒ぶる神たちは自然に切り倒されてしまったという。
 そこでこの横刀をどうしたのかと尋ねるとタカクラジは夢を見たと答え、その夢の内容を語るには、天照大神(アマテラス)と高木神(タカギ)が建御雷神(タケミカヅチ)を呼んで葦原中国で私の子供達が困っているから天降って助けるようにと言うと、自分が行かなくても葦原中国を平定したときに使った横刀があれば事足りるからこれを降ろそうとなり、タカクラジの倉の屋根に穴を開けて落としたという。
 タカクラジが目を覚まして倉を見てみたら実際に横刀があったのでそれを届けたと説明した。
『日本書紀』が『古事記』と違うのは、熊野荒坂津に現れたのは大熊ではなく、丹敷戸畔(ニシキトベ)という人物で、この人間を殺したところ、神が毒を吐いて一行は病み衰えてしまったとする部分だ。
 タカクラジが見た夢の内容は同じで、違いとしては「劔」としている点だ。横刀と剣では違うものだとは思うのだけど、厳密に区別していなかったのだろうか。
 この横刀(劔)は韴靈(フツノミタマ)といい(佐士布都神、甕布都神、布都御魂とも)、後に石上神宮(web)で祀られることになるという部分も記紀で共通している。
 タカクラジは熊野で登場しているから単純に熊野の人と思いがちだけど、『先代旧事本紀』は天香語山命(アマノカグヤマ)が天降った後は手栗彦命(タクリヒコ)または高倉下命というとあって混乱する。
 尾張氏の祖とされる天火明(アメノホアカリ)は『先代旧事本紀』では饒速日命(ニギハヤヒ)と同一とされており、アメノカグヤマ=タカクラジはニギハヤヒと天道日女(アメノミチヒメ)との間に生まれた子とする。
 ただ、尾張氏一族とされる海部氏の勘注系図では、タカクラジはアメノホアカリと大屋津比賣命(オオヤツヒメ)との子としている。
 その系図では、アメノカグヤマの子の天村雲命(アメノムラクモ)の弟となっている。
 高倉下を祭神とする神社は三重県伊賀市の高倉神社などがあるが、数は少ない。
 天香語山命でいうと、新潟県西蒲原郡の彌彦神社(越後国一宮/web)などが祭神としている。
 名古屋では熱田区の高座結御子神社が高倉下命を祀っている。このあたりは高蔵という地名で、縄文時代以降の遺跡や古墳が密集する地区となっている。
 北の春日井市には高蔵寺や高座山があり、そちらとの関係も考えられる。
 これらを総合すると、タカクラジは尾張の人間ではないかと思えてくる。タケミカヅチが国譲りのときに使った横刀(剣)が尾張氏を通じて神武天皇にもたらされ、後にそれを物部氏が祀ったということが何を意味しているのか。記紀がはっきり書けなかった事情があり、暗示があるようにも思う。
『続日本後紀』は、高座結御子神は熱田大神の児神だと書いている。だとすれば、熱田大神の正体はアメノホアカリ=ニギハヤヒということになるのではないか。

 

天火明命(アメノホアカリ) ーーー 尾張氏が祖神とする神。
 系図が様々で、ときに饒速日命(ニギハヤヒ)と同一とされたり混乱が見られる。
 それはおそらく、ホアカリはひとりではないということだろう。何人かの人間がホアカリを名乗った、または呼ばれた可能性が考えられる。
 記紀に書かれた内容を整理しておくと以下の通り。
『古事記』は、天忍穂耳神(アメノオシホミミ)が高木神(高皇産霊尊)の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)をめとめって生まれたのが天火明命(アメノホアカリ)で、次に日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)が生まれたといっている。
 アメノオシホミミは天照大神(アマテラス)と須佐之男命(スサノオ)の誓約(うけい)で生まれた神で、ニニギは天孫降臨の神だから、アメノホアカリはアマテラスとスサノオの孫で、天孫の兄ということになる。
『日本書紀』第九段本文はまったく別のことを書いている。
 天降ったニニギは地上で鹿葦津姫(カシツヒメ)、またの名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)、またの名を木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出会い、コノハナサクヤヒメは一晩で身ごもるとニニギは自分の子ではないだろうと疑い、怒ったコノハナサクヤヒメは戸のない部屋にこもって火を付け、自分が無実なら子供は無事に生まれるだろうといい、三人の子を生んだ。最初が火闌降命(ホノスソリ)、次が彦火火出見尊(ヒコホホデミ)、次が火明命(ホノアカリ)で、ホアカリは尾張連の始祖としている。
 別伝では生まれる順番や兄弟の構成が違っている。
 一書第二は、最初が火酢芹命(ホノスセリ)、次が火明命、次が彦火火出見尊、またの名を火折尊(ホノオリ)とする。
 一書第三は、最初が火明命、次が火進命(ホノススミ)、またの名を火酢芹命(ホノスセリ)、次が火折彦火火出見尊(ホノオリヒコホホデミ)としている。
 一書第五では子供は四人といい、順番は火明命、火進命、火折尊、彦火火出見尊となっている。
 一書第六は、栲幡千千姫萬幡姫命(タクハタチヂヒメヨロズハタヒメ)を高皇産靈尊(タカミムスビ)の子の火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)の子とする別伝を紹介し、その子は天火明命と天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギ)としている。
 また、天火明命の子の天香山(アマノカグヤマ)は尾張連の遠い祖先と書く。
 一書第七は、萬幡姫(ヨロズハタヒメ)の娘は玉依姫命(タマヨリヒメ)といい、天忍骨命(アメノオシホネ)の妃となって天之杵火火置瀨尊(アメノギホホオキセ)を生んだとする。
 また、別伝では勝速日命(カチハヤヒ)の子が天大耳尊(アマノオオミミ)で、丹舄姫(ニツクリヒメ)をめとって火瓊瓊杵尊(ホノニニギノミコト)を生んだといっている。
 更に別伝で、天杵瀨命(アマノキセ)が吾田津姫(アタツヒメ)をめとって火明命を生み、次に火夜織命(ホノヨリ)、次に彦火火出見尊を生んだとしている。
 一書第八は、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(オシホミミ)が高皇産靈尊の娘の天萬栲幡千幡姫をめとって生んだのが天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホノアカリ)とする。
 この天照国照彦火明命(ホアカリ)が尾張連の娘の木花開耶姫命を妃として火酢芹命(ホノスセリ)、次に彦火火出見尊を生んだと書いている。
 これほど系図的に混乱している神様もなかなかいない。各地に伝わるホアカリの伝承をまとめてひとりの人物のように書いてしまったために大きな混乱が生まれてしまったのではないだろうか。『先代旧事本紀』がいうアメノホアカリとニギハヤヒは同一で、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とするのもそのひとつだろう。ニギハヤヒとは別にホアカリがいて、ニギハヤヒもまたホアカリだったと考えていいかもしれない。
『播磨国風土記』では大汝命(オオナムチ)と弩都比売(ノツヒメ)との子となっており、乱暴な性格でオオナムチに捨てられ、怒ってオオナムチが乗る舟を転覆させたといったことが書かれている。こういった粗暴な一面はスサノオにも通じる。
 尾張氏の他、津守氏、伊福部氏、海部氏などがアメノホアカリを祖としており、海部氏の系図でも始祖として載っている。
 海部氏が宮司を務める京都府宮津市にある丹後国一宮で元伊勢の籠神社(web)や、尾張国一宮の真清田神社(愛知県一宮市/web)などが祀る。
 飛騨一宮水無神社(web)は、主祭神の水無神を御歳神としているものの、水主直は『新撰姓氏録』では火明命の後裔となっていることからすると、本来の祭神は天火明だったかもしれない。 
 名古屋では守山区の東谷山山頂にある尾張戸神社や、守山区の八劔神社(大森)、熱田区の孫若御子神社(熱田神宮内)が天火明命を祀っている。

 

天香山命(アマノカグヤマ) ーーー 尾張氏の祖神・天火明(アメノホアカリ)の子としているのは、『日本書紀』第九段一書第六で、天忍穗根尊(アメノオシホネ/オシホミミのこと)が高皇産靈尊(タカミムスビ)の子の栲幡千千姫萬幡姫命(タクハタチヂヒメヨロズハタヒメ)、または火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)の子の千千姫命(チヂヒメ)をめとって生まれたのが天火明命(アメノホノアカリ)と天津彦根火瓊瓊杵根尊(アマツヒコネホノニニギ)で、天火明の子の天香山(アメノカグヤマ)は尾張連らの遠祖と書いている。
 第九段本文や別の一書には天香山(アマノカグヤマ/アメノカグヤマ)は出てこない。『古事記』にも名は見えない。
 アメノカグヤマについて詳しく伝えているのは物部氏側から書かれたとされる『先代旧事本紀』だ。
 それによると、饒速日尊(ニギハヤヒ)と天火明は同一で、ニギハヤヒと天道日女命(アメノミチヒメ)の子の天香語山命はニギハヤヒとともに天降り、手栗彦命(タグリヒコ)、または高倉下(タカクラジ)といったとする。
 もしアメノカゴヤマとタカクラジが同一とするなら、記紀にあるタカクラジの話(神武東征の際にタケミカヅチから預かった布都御魂(フツミタマ剣)を届けたというもの)はアメノカグヤマの話ということになる。
 ただ、アメノカヤマとアメノカヤマが本当に同一人物かといえば少し疑わしい。名前が似ているからといって同じと決めつけるのは危険だ。現代でも一字違いの兄弟姉妹などいくらでもいる。
 しかし、アメノカゴヤマ(タカクラジ)を尾張連らの祖としていることからすると、カゴヤマとカグヤマは同じという認識だったのだろう。
 ニギハヤヒが天降って後に生まれたのが宇摩志摩治命(ウマシマジ)としているから、アメノカゴヤマとウマシマジは母違いの兄弟ということになる。
 尾張氏系図(海部氏系図)では、父は天火明、母は天道日女で、妃の穂屋姫(ホヤヒメ)との間に天村雲(アメノムラクモ)が、大屋津姫(オオヤツヒメ)との間に高倉下がいる。つまり、系図ではタカクラジはアメノカグヤマの子ということになる。
 島根県大田市にある石見国一宮の物部神社(web)社伝によると、
ニギハヤヒの子の宇摩志麻遅命(ウマシマジ)は、神武天皇の命を受け、天香具山命(アメノカグヤマ)と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定し、天香具山命は弥彦神社(越後国一宮/web)に鎮座し、自らは播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里を平定してそこで没し、物部神社に祀られたという。
 彌彦神社(新潟県西蒲原郡)でも同じような話が伝わっており、天香山命は越後国を開拓して漁労や製塩、稲作、養蚕などを人々に教え、弥彦山に葬られて伊夜比古神と呼ばれたという。
 ウマシマジが宮中に祀っていた布都御魂剣は後に石上神宮(奈良県桜井市/web)で祀られるようになったのはよく知られている。物部神社、彌彦神社、石上神宮には共通点がある。それは、この三社は宮中と同じく、天皇のための鎮魂祭を行っているという点だ。
 三社は、ニギハヤヒ・アメノホアカリ・アメノカグヤマ・ウマシマジ・物部氏・尾張氏という共通項を持つ。それらは天皇家とも密接に関わっている。
『万葉集』におさめられた持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」という歌は意味深だ。
 天香具山は人の名前であり山の名前でもあるということは無関係とは思えず、天香具山(天香久山)といえば今は大和三山のひとつとされていて、持統天皇の歌も大和の天香具山を歌ったものとされているのだけど、もともと天香具山というのは記紀にも頻繁に登場するように聖なる山の総称のようなものだった。だから、持統天皇の歌の天香具山には二重、三重の意味が掛かっているに違いない。
 丹後半島にある丹後国一宮の籠神社(web)の祭神は天火明命で、その奥宮がある眞名井神社は、伊勢の外宮(web)の神の豊受大神(トヨウケ)がもともと鎮座した地とされる。
『丹後国風土記』逸文は、近くにある奈具社の由緒として天の羽衣伝説について伝えている。真奈井で天女8人が水浴をしていると、子供のない老夫婦がひとりの羽衣を隠してしまったため、天に帰れなくなった天女は仕方なく老夫婦の家に暮らして万病に効く酒を作ったのだけど、老夫婦に追い出されてしまい、辿り着いたのが奈具村で、この天女こそ豊受姫だというのだ。
 眞名井神社を創建したのがアマノカグヤマとされる。
 この話を持統天皇が知らなかったはずがない。
 尾張には尾張三山と呼ばれる尾張富士、本宮山、白山がある。
 尾張国一宮は一宮市の真清田神社(web)で、天火明命を祀っている。
 三宮が熱田区の熱田神社で、二宮は本宮山の麓にある大縣神社(web)だ。山頂には奥宮もある。
 大縣神社の祭神は大縣大神としていてはっきりしないのだけど、尾張氏の関係者には違いない。
 尾張氏系図の初代が天火明、二代が天香山、三代が天村雲。村雲(ムラクモ)といえば、草薙剣の本来の名は天叢雲剣だから、村雲の剣を祀ったとも考えられる。
 一代目の天火明が一宮、三代目の天村雲が三宮とすれば、二代目の天香山が祀られるのは二宮の大縣神社で、天香具山は本宮山のこととすると話がうまくまとまる。まとまるからといって真実とは限らないけど。
 持統天皇が歌ったのは、アメノカグヤマがトヨウケ姫を祀っているといったことだったのかもしれない。それを暗示的にしか示せなかったとすれば、そこには何か重要な秘密が隠されていると考えるべきか。何故、アメノカグヤマはトヨウケを祀ったのか。トヨウケの本当の正体とは何なのか。
 カグヤマは「カグヤ姫」にも通じる。
 名古屋でアメノカグヤマ(天香語山命)を祀るのは守山区の尾張戸神社のみで、ここでは天火明命と建稲種命も一緒に祀っている。この神社はヤマトタケルの妃で建稲種命の姉とされる宮簀媛(ミヤズヒメ)が創祀したという伝承もある。

 

天村雲命(アメノムラクモ) ーーー 『古事記』、『日本書紀』には登場しないものの、『先代旧事本紀』や尾張氏一族の海部氏系図では重要な位置づけの人物となっている。
 尾張氏の祖を天火明(アメノホアカリ)とする系図では、その子の天香具山(アメノカグヤマ)が二代、その子の天村雲が三代に当たる。
 しかし、話はそう単純ではないかもしれない。尾張氏の三代目というわりには尾張国内にその痕跡がなさすぎる。
 アメノムラクモを単独もしくは主祭神として祀っている神社は陸奥国(福島県から青森県にかけての太平洋側)に集中している。祭神名としては天牟羅雲神などと表記されているので、天村雲と必ずしも同一ではないのかもしれないけど、石見国一宮の物部神社(島根県大田市/web)や彌彦神社(新潟県西蒲原郡/web)の社伝がいうように、天香具山が日本海側の越国を平定・開発したという流れを受けて、その子の天村雲が東北の太平洋側を開発したというのは理にかなっているようにも思う。
 他の地域で天村雲を祀っている神社は、伊勢国や阿波国に少しある。尾張国には一社もない。
 しかし、アメノムラクモといえば、草薙剣の元の名とされる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を連想させる。その名の通りであれば、天村雲の剣ということになる。それを祀っているのはいうまでもなく熱田神宮だ。
 天叢雲剣の名前について、『日本書紀』は素戔鳴尊が八岐大蛇を退治する第八段の本文の中で、一書曰くという形で由来を書いている。大蛇のいるところの上には常に雲があるので、そう名づけられたのだろうと。その剣は日本武皇子の時代に草薙剣と呼ばれるようになったとも書く。
 その経緯については、景行天皇の段で、ヤマトタケルが駿河で地元の賊にだまされて野火に囲まれてピンチに陥った場面で説明がある。ここでも一説ではとした上で、ヤマトタケルが持っていた剣の叢雲(むらくも)が自然と抜けて草を薙ぎ払ったのでそれ以降、草薙剣と呼ぶようになったと書いている。
 叢雲の由来にしても、草薙の由来にしても、そういう伝承があるというだけではっきり書いているわけではないことに注意が必要だ。ただ、そういう伝承があるということはやはり無視できず、叢雲と村雲には何らかのつながりがあるとも考えられる。
『先代旧事本紀』は、天村雲の別名として、天五多底/天五多手(アメノイタテ)、天五田根(アメノイタネ)という名を挙げている。ここにも何か意味がありそうだ
 母を穂屋姫命(ホヤヒメ)とし、妃の阿俾良依姫(アイラヨリヒメ)との間に天忍人命(アメノオシヒト)、天忍男命(アメノオシオ)、忍日女命(オシヒメ)がいて、母不明の子として角屋姫(ツノヤヒメ)を記している。
 海部氏系図では、阿俾良依姫を日向の姫とし、丹波の伊加里姫(イカリヒメ)との間に倭宿禰(椎根津彦)と葛木の出石姫(イズシヒメ)が、母不明の子として忍日女(オシヒメ)を書いている。
 系図では葛木の出石姫こと角屋姫(ツノヤヒメ)と異母姉弟(兄妹か)の天忍人が婚姻し、天忍人が尾張氏四代目、その子の天戸目(アメノトメ)が五代目となっている。
 弟と思われる天忍男の系統は、瀛津世襲(オキツソヨ)と世襲足姫(ヨソタラシヒメ)が生まれ、世襲足姫は第五代孝昭天皇の妃となり、その子と孫が第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇となる。
『日本書紀』の中で、瀛津世襲は第五代孝昭天皇の大連になったという記述がある。
 このように系図上からするとキーパーソンともいえる天村雲について記紀はどうして触れなかったのか。何か秘密があるのではないかと疑いたくもなる。名前がムラクモなのだから、ムラクモ剣と呼ばれた草薙剣とまったく無関係とも思えない。それは父のカグヤマについても言えることで、天皇家にとって尾張氏はある種アンタッチャブルな存在だったのかもしれない。

 

天道日女命(アメノミチヒメ) ーーー 尾張氏の祖・天火明(アメノホアカリ)の妃となり、尾張氏2代・天香具山を生んだとされる。
 つまり、尾張氏の母系の祖ということになる。
 尾張氏系図では大己貴神(オオナムチ)の娘としているのに対して、『先代旧事本紀』では対馬縣主の祖・天日神命(アメノヒノカミ)の娘とする。
 人物関係がややこしいのだけど、『先代旧事本紀』は天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊として天火明と饒速日(ニギハヤヒ)を同一としているので、天道日女との間に天香語山(天香久山)が生まれ、『日本書紀』を信じるなら三炊屋媛(ミカシキヤヒメ/『古事記』では登美夜毘売(トミヤビメ))との間に可美真手命(ウマシマデ/古事記では宇摩志麻遲命)が生まれたということになる。三炊屋媛/登美夜毘売は記紀では神武東征に抵抗した大和の豪族、長髄彦(ナガスネヒコ/那賀須泥毘古)の妹としている。
 尾張氏系図では、天火明と佐手依姫(サデヨリヒメ)との間に穂屋姫(ホヤヒメ)がおり、天香語山命とは異母兄妹となるのだけど、このふたりは婚姻したことになっている。このふたりの間の子が尾張氏3代の天村雲(アメノムラクモ)だ。
 穂屋姫は素戔嗚尊(スサノオ)の娘で、宗像三女神のうちのひとり市杵嶋姫(イチキシマヒメ)や瀬織津姫(セオリツヒメ)と同一という話がありますます混乱する。
『先代旧事本紀』がいう天道日女の父の天日神というのがよく分からないのだけど、別名を天照魂命(アマノテルミタマ)という。尾張氏系図がいう父・大己貴とつながるのかどうか。
 天道日女はまたの名を、屋乎止女命(ヤオトメ)、高照光姫、高光日女、祖母命ともいう。ヤオトメというと羽衣伝説の八乙女を連想させる。
『丹後国風土記』逸文に、京都舞鶴にある山口神社の由緒に関する話がある。
 天香語山命が倉部山(三国山)に神庫を作って神宝を収蔵し、長い梯子(はしご)を設けたのでそこを高橋郷と呼ぶようになったといい、現在は峰に天香語山命を祀る天藏神社がある。
 その麓には山口坐御衣知祖母祠が置かれ、これは天道日女が年老いてこの地にやって来て、麻を績いだり、蚕を養ったりして人々に教えたので後に祀られたといった内容だ。
 8人の天女が眞名井で水浴びをしているとき、老夫婦がひとりの天女の羽衣を盗んだので天に帰れなくなり、仕方なく天女は老夫婦の家で酒を作って富ませたところ追い出されてしまい、奈具村に辿り着いて祀られるようになったという話が、同じく『丹後国風土記』逸文の奈具社の由緒として書かれている。
 この眞名井を祀るように命じられたのが天香語山で、母親の天道日女がヤオトメ=屋乎止女=八乙女であるなら、そこには何かつながりがあると考えるのが自然だ。
 現在、眞名井があったとされる場所に京都丹後一宮・籠神社(web)の奥宮・眞名井神社があり、豊受大神(トヨウケ)を祀っている。そのため籠神社は元伊勢を名乗っている。
 天道日女はトヨウケ神かもしれないし、トヨウケの巫女とも考えられる。
 籠神社の宮司家は尾張氏一族で海部氏系図が知られる海部氏だ。
 天道日女の子の天香山には天香山姫がいたという話があり、カグヤマ姫はカグヤ姫のことかもしれない。
 丹波(たんば)の地名は、天火明が開拓した田庭から来ているという話もある。
 名古屋では熱田区の青衾神社が唯一、天道日女を祀っている。
 青衾神社は熱田神宮の境外摂社で、今はこぢんまりした神社なのだけど、『延喜式』神名帳では名神大社だった。
 創建については不明で、祭神についても諸説ある。「あおぶすま」の「ぶすま」は、産土(うぶすな)から来ているとして、津田正生は天香語山命が祭神だと考えた。
 衾(ふすま)というのは後年、掛け布団のようなものをそう呼んだのだけど『日本書紀』に真床追衾(まとこおうふすま/真床覆衾とも)として何ヶ所か出てくる。
 瓊瓊杵(ニニギ)が天孫降臨する祭、高皇産霊(タカミムスビ)がニニギを真床追衾で覆ったとし、山幸彦(ホホデミ)が海宮に行ったとき座したのも、豊玉姫(トヨタマヒメ)が生んだホホデミの子を包んだのも真床覆衾だった。
 現代でも、大嘗祭の際に天皇が臥す衾がこれを表しているとされる。
 そこからするとただの寝具や赤ん坊を包むものというわけではなく、天津神の象徴といった意味があると思われる。
 青衾神社がこの衾に関係があって、祭神が天道日女や天香語山だとすると、天道日女が子供の天香語山を覆ったときに使った衾を祀ったのが始まりかもしれない。
 ただ、平安時代中期に名神大社にまでなっていることを考えると、もっと大きな存在を祀った社だっただろうか。

 

乎止与命(オトヨ) ーーー 尾張氏第12代(10代とも11代とも14代とも)当主で、初代の尾張国造とされる人物。
『古事記』、『日本書紀』に記載はなく、『先代旧事本紀』の国造本紀などに名がある。
 熱田神宮web)の縁起書などによると、日本武尊(ヤマトタケル)の東征に副将軍として従ったのが、オトヨの息子の建稲種命(タケイナダネ)で、オトヨの娘でタケイナダネの妹の宮簀媛/美夜受比売(ミヤズヒメ)がヤマトタケルの妃になったとされる。
『先代旧事本紀』では乎止與命、小止與命とも表記され、妻は尾張大印岐娘の真敷刀婢(マシキトベ)とする。
 尾張氏系図では、1代の天火明(アメノホアカリ)から数えて12代目になる。
 しかし、11代の淡夜別(アワヤワケ)とは親子関係になく、母は不明とされ、系図上では不明な点が多い。
 そのことから、オトヨは他から尾張氏に婿入りしたか、天火明から続く系図と尾張氏の系図を接続したなどという説もある。
 ただ、素性の知れない人間が尾張大印岐の娘をめとれるとも思えず、父と母を不明としなければいけなかった何らかの理由があったとも考えられ、やや謎めいた存在となっている。
『先代旧事本紀』によると第13代成務天皇のときにオトヨは国造に定められたというのだけど、これはちょっと信じられない。第12代景行天皇皇子のヤマトタケルが東征の帰りに死んだのが30歳とされ、そのとき娘のミヤズヒメが10代、または20代だったとして、景行天皇が崩御して成務天皇が即位した後にオトヨを尾張国造にするというのは不自然だ。そのときまでオトヨは生きていたかどうか。
 息子のタケイナダネはヤマトタケル東征の帰りに駿河の海で命を落としたとされる。
 タケイナダネの息子の尾綱根(オツナネ)は第15代応神天皇のときに大臣となり、オツナネの子の意乎己(オオコ)は第16代仁徳天皇の大臣となった。応神天皇はタケイナダネの孫の仲姫命(ナカヒメ)を皇后としている。
『新撰姓氏録』は河内国神別の若犬養宿禰(わかいぬかいのすくね)を天火明十六世孫・知調根命(オツナネ)の後としている。
 また、河内国神別の尾張連を火明命十四世孫・子豊命の後とする。
 オトヨが具体的に何をした人物だったのかといったことについては伝わっていない。
 そのせいもあってか、オトヨを祀るとする神社もごく少ない。私の知る限り、名古屋市熱田区の上知我麻神社と愛知県一宮市の小豊神社しかない。
 上知我麻神社はもともと千竈郷にあった千竈神社だったのではないかと考えられるも、はっきりしたことは分からない。本来の祭神は伊奈突智翁命(イナツチノオジ)だったともされる。
 どういう経緯で上千竈と下千竈に分かれることになったのか、いつ熱田に移されたのかといったあたりも不明だ。
『延喜式』神名帳(927年)が完成した平安時代中期までには上知我麻神社と下知我麻神社は官社となっており、文治2年(1186年)に2社とも名神に列していることからすると、創建も上下に分かれたのも古い時代と考えられる。一説では大化3年(647年)ともいう。
『尾張國内神名帳』では「正二位 千竈上名神」・「正二位 千竈下名神」となっている。
 江戸時代は熱田社とは独立した神社で、源大夫社と呼ばれていた(下知我麻神社は紀大夫社といっていた)。
 中世から近世にかけて本地仏を文殊菩薩としたことから智恵の神様ともされていた。

 

真敷刀俾(マシキトベ) ーーー 『古事記』、『日本書紀』には記載がなく、『先代旧事本紀』天孫本紀に書かれている。
 初代の尾張国造で尾張氏11代・乎止与命(オトヨ)の妻であり、建稲種命(タケイナダネ)と宮簀媛命(ミヤズヒメ)の母とされる人物だ。
 尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘というのだけど、尾張大印岐の正体は不明。尾張大印岐という名前だとすると尾張氏の一員なのか違うのか。尾張国の大印岐という意味なのか、大印岐は名前なのか違うのか。
 印岐というと滋賀県草津市の式内社・印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)があるけど、これは第30代敏達天皇または第31代用明天皇のときに大嘗祭の悠紀(ゆき)に定められた場所に建てられた社ということで悠紀代、由紀代が転じて由岐志呂と呼ばれるようになったとされるから直接関係はなさそうだ。印岐志呂神社は第38代天智天皇が大和国の大神神社(web)から勧請して建てさせたと伝わる。
 オトヨが尾張大印岐の娘をめとったということは勢力拡大を図るということもあったはずで、それなら尾張大印岐はどの地域を支配していたかが問題となるわけだけど、そのあたりについて書かれているものを読んだことがない。尾張大印岐を祀るという神社も知らない。
『先代旧事本紀』は尾張大印岐の妻で真敷刀俾の母を不明としている。それは何故なのか。
 オトヨとマシキトベの息子のタケイナダネは丹羽氏の祖の大荒田命(オオアラタ)の娘・玉姫をめとったとされる。大荒田は尾張国二宮の大縣神社(web)一帯の支配者と考えられている。
 尾張大印岐の素性がはっきりしないとマシキトベの正体も掴めない。
 真敷刀俾の真敷(ましき)は、尾張国にあった天皇の直轄地、間敷屯倉(ましきみやけ)と関係があるのではないかという指摘がある。『日本書紀』は第27代安閑天皇のとき、尾張国に間敷屯倉と入鹿屯倉が置かれたと書いている。安閑天皇の母は尾張連草香女の娘の尾張目子媛なので、そのあたりも関係がありそうだ。
 入鹿屯倉は入鹿池がある犬山市ではないかとされ、名古屋市北区から春日井市にかけての安食荘(あじき)は間敷から転じたという説がある。
 それらを考え合わせると、オトヨの時代に名古屋市北部を勢力下に治め、息子のタケイナダネのときに更に北へと勢力を広げたという推測ができる(あくまでも推測に過ぎない)。
 マシキトベは現在、熱田神宮摂社の下知我麻神社で祀られている。境内の北西なのだけど、どういうわけか境内から直接行くことができず、いったん外に出て西の鳥居から入る恰好になる。
 西の国道19号線はかつての美濃路で、名古屋城の西から真っ直ぐに延びた道だ。江戸時代は熱田社の南で東海道とつながった。
 下知我麻神社は古くからこの場所にあったという言い伝えがあるのだけど、上知我麻神社との関係も含めて分からないことが多い。
 南区の星宮社に上知我麻神社と下知我麻神社があり、それは単なる境内社ではなくそこが元地だったのではないかという説がある。もともとそのあたりは千竈郷と呼ばれた場所だったともいうのだけど、初めから上知我麻神社と下知我麻神社でオトヨとマシキトベを祀っていたとは断定できない。個人的には千竈郷はもっと北の中川区あたりだったのではないかと考えている。
 ただ、『延喜式』神名帳(927年)に載っているので、平安時代中期までには官社となっていたのは間違いない。
 下知我麻神社の祭神については、熱田社の古い縁起書や『張州府志』などの地誌では二柱を祀るとしていた。しかし、明治になって下知我麻神社を『延喜式』神名帳の下知我麻神社と定めた際に、神名帳では一座になっているのに二柱を祀るというのは都合が悪いということで祭神を真敷刀俾命の一柱とした経緯がある。
 江戸時代は上知我麻神社の源太夫社に対して下知我麻神社は紀太夫社と呼ばれていた。
 マシキトベという音と真敷刀俾という字にはどういう意味が込められているのか。刀は文字通りカタナだとして、俾には「助ける」とか「しもべ」とか「にらむ」といった意味がある。当て字の可能性もあるけど、何かを表しているようにも思える。
 
 
建稲種命(タケイナダネ) ーーー 尾張氏(海部氏)の系図や『先代旧事本紀』によると、父は尾張国初代国造で尾張氏12代(11代とも)の乎止与(オトヨ)、母は尾張大印岐の娘・眞敷刀婢命(マシキトベ)、妻は丹羽氏の祖・大荒田命(オオアラタ)の娘の玉姫で、二男四女をもうけたとする。
 しかし、名前が出てくる子は尾綱根命(オツナネ)、志理都紀斗売(シリツキトメ)、金田屋野姫命(カナタヤノヒメ)の一男二女だけだ。
『先代旧事本紀』はタケイナダネを丹波国造(たにわのくにのみやつこ)とも書いているのだけど、唐突でちょっと信じられない。四世孫に大倉岐命(オオクラキ)がいると『先代旧事本紀』の国造本紀丹波国造条にあるので、そのことと混同したか。
『古事記』では建伊那陀宿禰と(タケイナダのすくね)あり、ここでは宿禰となっているも、尾張氏が宿禰の姓を賜るのはもっと後ではないかと思う。
 応神天皇の段に、応神天皇は品陀真若王(ホムダノマワカ)の3人の娘、高木之入日売命(タカキノイリヒメ)・中日売命(ナカツヒメ)・弟日売命(オトヒメ)をめとったとあり、品陀真若王(ホムダノマワカ)は五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)と尾張連の祖先の建伊那陀宿禰(タケイナダ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)の間の子供といっている。
 いろいろややこしいのだけど、ややこしいついでにタケイナダネの子についてもう少し書いておくと、尾張氏系図や『先代旧事本紀』でタケイナダネのあとを継いだとされるのが尾綱根(オツナネ)またの名を尻綱根(シリツナネ)で、第15代応神天皇の大臣を務めたとする。
 応神天皇と中日売命(ナカツヒメ)との間の大雀命(オオサザキ)が第16代仁徳天皇として即位した。
 その他の人間関係も複雑で、系図を絵にしないと理解できない。
 タケイナダネに話を戻すと、第12代景行天皇と第13代成務天皇の二代にわたって朝廷に仕えたとされ、日本武尊(ヤマトタケル)の東征に副将軍として従って、帰りに駿河の海で命を落としたと伝わる。しかし、これは矛盾する話で、ヤマトタケルは景行天皇の皇子だから、その時代に死んでいたとしたら次の成務天皇に仕えることは不可能だ。父のオトヨは成務天皇時代に初代尾張国造に任命されたという話も無理がある。
『古事記』、『日本書紀』のヤマトタケル東征の段では、タケイナダネとオトヨの名前は出てこない。『古事記』は尾張国で尾張国造の祖、美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に入ったと書き、『日本書紀』は東征の行きに尾張に寄ったという記述はなく、帰りに尾張で尾張氏の女の宮簀媛をめとって何ヶ月か過ごしたとある。
 タケイナダネの話を語っているのは、熱田神宮web)の縁起書や関係神社の由緒などで、かなり脚色があると思った方がいいのだけど、それによると、タケイナダネは東征から海路で帰る途中の駿河で珍しい海鳥を見つけてヤマトタケルに献上するために掴まえようとして海に落ちて死んだという。
 ヤマトタケルがその知らせを受けたのが春日井市の内津峠で、「ああ現哉かな、現哉かな」(うつつかな)と嘆いて、タケイナダネをその地に祀ったのが内々神社(web)の始まりとされる。
 内々神社では日本武尊と宮簀媛も祀られている。
 タケイナダネの痕跡は名古屋市内には薄く、南知多や西三河の海岸沿いに色濃い。
 西尾市吉良町にある幡頭神社(はずじんじゃ/web)は、流れ着いたタケイナダネの遺体を村人が葬って祀ったのが始まりといい、幡頭はタケイナダネが水軍の幡頭(はたがしら)をつとめたことから来ているとされる。
 羽豆神社と書くもうひとつのハズ神社は知多郡南知多町の師崎にあり、ここはタケイナダネと玉姫が暮らしていた土地という伝承が残っている。
 近くの羽豆岬が別名、待合浦と呼ばれるのは、玉姫がタケイナダネの帰りを待っていたからともいう。
 幸田町にある蘇美天神社と西尾市にある志葉都神社は、タケイナダネの息子の建蘇美と建津平を祀るという。
 これは系図にない人物なので創作かもしれないけど、それだけ西三河にタケイナダネにまつわる言い伝えが多く残っているということだろう。
 西尾市吉良町にある西三河最大の前方後円墳とされる正法寺古墳(全長89メートル)は4世紀後半の築造というから、この地方では古い。タケイナダネ一族の誰かが被葬者かもしれない。
 系図上にある子の尻調根命(尾綱根命)は、犬山市の針綱神社(web)の祭神に名を連ねる。主祭神はオツナネ(シリツナネ)の子の尾治針名根連命(ハリナネ)なので、再び北に本拠地を移したということか。
 名古屋市天白区の針名神社では針名根連命を主祭神として祀っているから、尾張東部に勢力を拡げたとも考えられる。
 小牧市の田縣神社(web)の祭神は御歳神(ミトシ)と玉姫命になっている。社伝によると、玉姫はタケイナダネ亡き後、子供たちを連れて故郷の荒田に戻って過ごし、後に田縣神社で祀られるようになったという。
 名古屋市最高峰の東谷山(198メートル)山頂にある尾張戸神社は、尾張氏の祖・天火明命、天香語山命とともに建稲種命を祀る。ここは簀媛命が創祀という伝承がある。
 その他、熱田区の熱田神宮、緑区の成海神社でも建稲種命と宮簀媛命は祀られている。
 
 

宮簀媛(ミヤズヒメ) ーーー 『古事記』では美夜受比売、『日本書紀』では宮簀媛と表記される。
 記紀では倭建命/日本武尊(ヤマトタケル)の妃として登場する。
 父は尾張国造で尾張氏代11代(12代とも)の乎止与命(オトヨ)、母は真敷刀俾(マシキトベ)、兄に尾張氏12代の建稲種命(タケイナダネ)がいたとされる。
 タケイナダネはヤマトタケル東征に副将軍として従い、帰りに駿河の海で没したと伝わる。
『日本書紀』は、ヤマトタケルが東征の帰りに尾張で尾張氏の女の宮簀媛をめとって何ヶ月が過ごし、五十葺山/膽吹山(いぶきやま)に荒ぶる神がいると聞き、草薙剣をミヤズヒメの元に置いたまま出向き、神の怒りに触れて病気になり、どうにか尾張まで帰り着いたもののミヤズヒメのところへは戻らず、伊勢を目指して途中の能褒野(のぼの)で亡くなったと書く。
『古事記』は、東征の行きに尾張国造の祖の美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に入って婚姻の約束をして、帰りにもう一度立ち寄ったところ、ミヤズヒメは生理中で、そのことを互いに歌を詠み、それでも交わり、婚姻したとし、やはり草那芸剣をミヤズヒメのところに置いたまま伊服岐の山の神を討ちに行って神の使者と神を間違えて不調を来たしてしまう。この後、尾張に戻ったという記述はなく、伊勢方面へ向かい、能褒野で没したとする。
 記紀には熱田社創建に関しては何も書かれていない。ミヤズヒメが熱田の地に草薙剣を祀ったのが熱田社の始まりといった話は、『熱田大神宮縁起』などの縁起書や『尾張国風土記』逸文が伝えるものだ。
『尾張名所図会』は布曝女町(今の松姤社があるあたり)でヤマトタケルは川辺で布を晒しているミヤズヒメに出会い、氷上の里への道を尋ねたらミヤズヒメは耳が聞こえないふりをして答えなかったといった話を書き、『尾張志』はヤマトタケルの東征中、ミヤズヒメは門を閉じて誰とも会わず、誰の声も聞かずにヤマトタケルの無事の帰還を祈願したといったような話を紹介している。
 記紀においてミヤズヒメの子に関する記述はない。ただし、『古事記』は尾張国造の祖としていることからすると子孫はいたということで、実際は子供がいたのか、後に養子を取ったのか、タケイナダネと両親が亡くなった後に国造を継いだのだろうか。
 緑区の氷上姉子神社近くの火上山には元宮とされる場所があり、そこがミヤズヒメとヤマトタケルが数ヶ月を過ごした館があった場所という。実際訪れてみると、高いエネルギーを発している場と感じる。
 火上山の西の齋山(いつきやま)は、ミヤズヒメとヤマトタケルが契りを交わした場所という伝承がある。現在は齋山稲荷社があり、社は古墳の上に建っている。ここは古代の空気感を色濃く残す場所だ。
 氷上姉子神社近くにある玉根社もミヤズヒメに関係する社のようだ。
 熱田の松姤社は、とてもキラキラしていて、ミヤズヒメのいい思い出の残存記憶をとどめている場所なのかもしれないと思った。
 熱田区の熱田神宮、緑区の成海神社、中村区の七所社(岩塚)、南区の七所神社(笠寺町)、瑞穂区の東ノ宮神社、中村区の八劔社(高須賀)、天白区の八劔社(野並)、西区の十所社(城町)、港区の熱田社(宝神町会所裏)でミヤズヒメは祀られている。
 守山区の東谷山山頂にある尾張戸神社はミヤズヒメが創祀したという言い伝えがある。
 少し気になる話として、奈良県天理市の石上神宮(web)内にある出雲建雄神社の縁起がある。
 第40代天武天皇時代に、布留邑智(ふるのおち)という神主が夢の中で「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降って皇孫を保じ諸民を守ろう」 と託宣を受けてそれに従い祀ったのが始まりという。
 現在、出雲建雄神社は草薙剣の荒魂を祀るとしている。

 

火上老婆霊(ヒカミウバノミタマ) ーーー 緑区にある朝苧社の祭神。
 氷上姉子神社の東、標高約30メートルの姥神山(うばかみやま)と呼ばれる山の中に社はある。
 現在は国道23号線や高速道路によって分断されてしまっているけれど、氷上姉子神社の元宮があった火上山と東の姥神山、西の齋山(齋山稲荷社)は連続する地域と考えられていたはずだ。姥神山の東南の麓には弥生時代から古墳時代にかけての石神遺跡(石神白龍大王社)がある。
 今でこそ姥神山山中の小社となっているものの、かつては氷上姉子神社の第一摂社として重要視されていたという。
 江戸時代中期の1745年に書かれた『氷上山之図』によると、姥神山全体を境内地として、天神、山神、山王などの社があったようだ。
 火上老婆霊の正体については諸説ありはっきりしない。火上の地主神とされたり、宮簀媛命の母神とされたりする。では、真敷刀俾命(マシキトベ)なのかというと、どうも違うようだ。
 火高里之大老婆や大老婆公、老姥神様などと書かれたり呼ばれたりしていたようで、いずれにしても老婆のイメージで語れる。そのため、年老いたミヤズヒメのことではないかという説もある。
『張州雑志』は尾張大印岐の妻(ミヤズヒメの祖母)といい、『尾張名所図会』は火高の里の地主と書いている。
 西の名和(東海市)にある船津神社祭神の妻という説もある。名和はヤマトタケルが東征のときに船で上陸した場所という言い伝えがあり、船津神社はそのとき案内した地元の首長が祀ったか祀られた可能性が考えられる。朝苧社の祭神がその妻というのであれば、火上の里から名和までは一帯の地域だったということだろう。名和は伊勢湾からの尾張国の入口のひとつだった。
 姥(うば)は乳母に通じることから、ミヤズヒメの乳母だと考える人もいる。近年まで母乳の出がよくない母親が朝苧社に祈願に訪れたという。
 社名の朝苧社について考えてみると、朝はおそらく「麻」のことで、苧は「からむし」のことだろう。
 苧(カラムシ)の茎の皮から採れる繊維は非常に丈夫で古くから利用されてきた。自生していたものの他に縄文時代から栽培されていたとされる。紡(つむ)いで糸にし、糸をより合わせて紐や縄にし、縦横に織れば布になった。古代においては糸を作る専門の麻績部(おみべ)や布を織る機織部(はとりべ)といった職業集団がいたことも知られている。
 機織りは神の衣を織る女性のことでもあり、それは巫女とも重なる。
 火上老婆は特別な機織り、もしくは巫女だったかもしれない。それが年老いたミヤズヒメであったとしてもおかしくない。
 火上山や齋山もそうだけど、姥神山も墓所の印象が強かった。ここに眠っているのももちろん特定の誰かではなく、無数の魂たちだ。

 

日本武尊(ヤマトタケル) ーーー 『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記される。
 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父。
 母は景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫/針間之伊那毘能大郎女/稲日稚郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)。
 同母兄弟について、『日本書紀』は大碓皇子(オオウス)と双子の弟とし、『古事記』は兄に櫛角別王(クシツヌノワケ)・大碓命、弟に倭根子命(ヤマトネコ)・神櫛王(カミクシ)がいるとする。オオウスと双子とは書いていない。
 本名は記紀ともに小碓尊/小碓命(オウス)とし、またの名を日本童男/倭男具那命(ヤマトオグナ)とする。
 日本武尊/倭建命(ヤマトタケル)の名は、西征で川上梟帥(または熊曾建)を討った際に相手から与えられたものだと記紀はいっている。
『常陸国風土記』や『阿波国風土記』逸文はヤマトタケルを倭武天皇/倭健天皇命など表記している。
 妃と子供について『古事記』は、布多遅能伊理毘売命(フタジノイリビメ)との間に帯中津日子命(タラシナカツヒコ)が、弟橘比売命(オトタチバナヒメ)との間に若建王(ワカタケル)が、布多遅比売(フタジヒメ)との間に稲依別王(イナヨリワケ)が、大吉備建比売(オオキビタケヒメ)との間に建貝児王(タケカイコ)が、玖々麻毛理比売(ククマモリヒメ)との間に足鏡別王(アシカガミワケ)が、ある女との間に息長田別王(オキナガタワケ)がいて、帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)が仲哀天皇となったと書く。
『日本書紀』は、兩道入姫皇女(フタジノイリビメ)との間に稻依別王(イナヨリワケ)、足仲彦天皇(タラシナカツヒコ)、布忍入姫命(ヌノシイリビメ)、稚武王(ワカタケ)がいて、吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)との間に武卵王(タケカヒゴ)と十城別王(トオキワケ)が、弟橘媛(オトタチバナヒメ)との間に稚武彦王(ワカタケヒコ)がいると書いている。
 尾張の美夜受比売/宮簀媛(ミヤズヒメ)については、記紀ともにヤマトタケルの系図に入れていない。妃という立場ではないという認識だっただろうか。
『日本書紀』はヤマトタケルを犬上君・武部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君(武卵王後裔)、伊予別君(十城別王後裔)などの氏族の祖とし、『古事記』は、犬上君・建部君(稲依別王後裔)、讚岐綾君・伊勢之別・登袁之別・麻佐首・宮首之別宮道之別(建貝児王後裔)、鎌倉之別・小津石代之別・漁田之別(足鏡別王後裔)らの祖とする。
『新撰姓氏録』でも左京皇別の犬上朝臣や和泉国皇別の和気公らをヤマトタケルからつながる氏族としている。
 ヤマトタケルの性格や人物像については、『古事記』では乱暴で感情的な悲劇の英雄として描き、『日本書紀』では景行天皇の正統な皇子の活躍物語として描かれる。一般的なヤマトタケル像は『古事記』によるところが大きい。
 16才のヤマトタケルは、景行天皇の寵愛する女を奪った兄の大碓命(オオウス)を殺し(手足をもいで薦に包んで投げ捨てた)、その所業を恐れた景行天皇に九州の熊襲建兄弟(クマソタケル)討伐を命じられる。
 伊勢で斎王をしていた叔母の倭比売命(ヤマトヒメ)の元を訪ね、女性の衣装を受け取り、女装して新築祝いの宴会にもぐりこんで兄弟を惨殺した。このとき、弟の弟建から倭建の号を授かったという(『古事記』)。
『日本書紀』では兄の大碓命殺しについては書かれず、美濃国の弟彦(オトヒコ)をはじめ、尾張の田子稲置(タゴイナギ)らを従者として与えられて九州征伐に赴いたとなっている。
 ここでは熊襲の首長は川上梟帥(カワカミノタケル)となっている。
『古事記』はこの後、山の神、河の神、穴戸の神を平定し、出雲で出雲建をだまし討ちにして殺した話を載せる。
『日本書紀』は吉備の穴済の神や難波の柏済の神を殺したとする。
 西征から帰還するとすぐに東征を命じられるような書かれ方をしているのだけど、西征に向かったときは16才で、東征に赴いたのが27才のとき、命を落としたのが30才と『日本書紀』にあるので、西征が長かったのか、西征と東征の間にある程度の期間があったのかもしれない。子供も6人(もしくは7人)できている。
 東征やミヤズヒメとの物語については熱田神宮のページに書いたので、ここでは略しておく。
 伊吹山で体調を崩したヤマトタケルは、伊勢の能褒野(のぼの)で没したと記紀は書く。
『古事記』は白鳥になったヤマトタケルは伊勢を飛び立ち、河内の国志幾にとどまった後、天に翔っていったと書く。
 死の知らせを受けた后や子供たちは大和から駆けつけて陵を作り、ヤマトタケルを弔う歌を詠む。白鳥になって飛び立った後を追い、更に三種の歌を詠んだ。この四歌はヤマトタケルの葬儀でも詠まれ、現在に至るまで天皇の葬儀でも詠まれている。
『日本書紀』は、能褒野の後、大和琴弾原、河内古市にとどまり、それぞれ陵墓を作ったとする。
『日本書紀』では景行天皇がヤマトタケルの死を嘆き悲しんで寝込んでしまったと書かれている。
 陵というのは天皇・皇后に使う言葉なので、ヤマトタケルは天皇に準ずる立場という扱いとなっている。
 宮内庁は、能褒野墓(三重県亀山市)、白鳥陵(奈良県御所市)、白鳥陵(大阪府羽曳野市)の3基をヤマトタケル陵としている。
 ヤマトタケルを祀る主な神社としては、滋賀県大津市の近江国一宮・建部大社(web)や大阪府堺市の和泉国一宮・大鳥大社(web)がある。
 その他、北は岩手県から関東一円、長野県、愛知県、三重県、西は鳥取県、島根県、四国の徳島県、香川県、南は九州の福岡県、熊本県、宮崎県まで幅広く祀られている。
 愛知県内のヤマトタケルゆかりの地としては、一宮市大和町の笠懸の松や中村区岩塚町の七所社の腰掛岩、ヤマトタケル白鳥伝説が残る熱田区の白鳥古墳や守山区の白鳥塚古墳、春日井市の馬蹄石、知多郡の生路井などがある。
 名古屋市でヤマトタケルを祀る神社は多い。熱田神宮や八剣宮をはじめとする熱田社・八劔社系統だけでなく、八幡社や神明社などでもヤマトタケルを祀っている。

 

大碓命(オオウス) ーーー 『古事記』では大碓命、『日本書紀』では大碓皇子、もしくは大碓命と表記される。
 記紀ともに第12代景行天皇の子で倭建命/日本武尊(ヤマトタケル)の同母兄弟という点では一致しているのだけど、『日本書紀』は双子とし、『古事記』では兄弟の構成が違っている。
『日本書紀』は景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)、別名・稻日稚郎姫(イナビノワキイラツメ)との間に第一子・大碓皇子(オオウス)、第二子・小碓尊(オウス)が生まれとし、ある書によるとという形で第三子の稚倭根子皇子(ワカヤマトネコ)がいたと書いている。
 それに対して『古事記』は、吉備臣らの祖の若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の娘の針間之伊那毘能大郎女との間に、櫛角別王(クシツヌワケ)、次に大碓命(オオウス)、次に小碓命(オウス)、次に倭根子命(ヤマトネコ)、次に神櫛王(カムクシ)の5人が生まれたとしている。
 記紀ともに景行天皇には80人の子供がいたといい、そのうち、倭建命/日本武尊(ヤマトタケル)、若帯日子命/稚足彦天皇(ワカタラシヒコ)、五百木之入日子命/五百城入彦皇子(イオキノイリヒコ)の三王子は太子だったといっている。天皇位を継げる皇太子として3人だけが特別扱いされていたということだ。
 このうち、ワカタラシヒコが第13代成務天皇として即位し、イオキイリヒコは即位していない。
 オオウス/オウスの名前の由来について『日本書紀』は、同じ胞から同じ日に生まれたことを景行天皇はいぶかしがって臼に向かって叫んだので碓(ウス)という名を付けたと書いている。
 臼と出産には何らかの関係があったのだろうけど、当時双子は不吉なものと考えられていたのかもしれない。
 オオウス・オウスが生まれたのは『日本書紀』によると景行天皇即位2年で、その2年後の即位4年におかしなことが書かれている。
 美濃国造の神骨(カムボネ)という人の姉妹に兄遠子(エトオコ)、弟遠子(オトトオコ)という美人がいるという話を聞いた景行天皇はその姿を見てみたいと思い、大碓命(オオウス)を自分の代わりに送ったら報告もしなかったため、天皇は恨んだというのだ。
 しかし、2才やそこらそんな役割を果たせるはずもなく、これは何らかを暗示していると考えるべきだろう。
 同じような記述が『古事記』にもあり、そこでは三野国造の祖の大根王(オオネノミコ)の娘の兄比売・弟比売(エヒメ・オトヒメ)となっているのだけど、使いに出されたオオウスはその美人姉妹を気に入って自分のものとしてしまい、代わりの姉妹を天皇に送ったという。
 しかし、景行天皇は別人だと知り、妃とすることなく悩んだと書く。
 オオウスは兄比売との間に押黒之兄日子王(オシグロノエヒコノミコ)を、弟比売との間に押黒弟日子王(オシグロノオトヒコ)をもうけ、それぞれ三野之宇泥須和気(ミノノウネスワケ)の祖と牟宜都君(ムゲツノキミ)らの祖になったといっている。
 守君(モリノキミ)、大田君(オホタノキミ)、島田君(シマダノキミ)の祖先ともする。
『古事記』はこの後、オウスによるオオウス惨殺について書いている。
 景行天皇があるときオウスに対して、おまえの兄は朝夕の食事に出てこないけどどうなっているのか、おまえが行って諭してこいと言った。それから5日経ってもオオウスは食事に出てこないので、天皇はオウスにどうなったのかと訊ねたところ、ねんごろに諭しておきましたと答えた。厠に入ったときに待ち伏せして捕まえて打ちのめして手足をちぎって薦にくるんで投げ捨ててやりましたと。
『古事記』ではそういう展開になっているので、この後、オオウスは登場しないのだけど、『日本書紀』はオウスがオオウスを殺したという話がないので、景行天皇即位40年のところで再び名が出てくる。
 東の方で賊が騒がしいから退治するために誰を派遣したらいいかと天皇が群臣に問うたところ、誰も何も言わないのでヤマトタケル(オウス)が自分は西征を終えて疲れているので、兄のオオウスにやらせてはどうでしょうと提案した。
 それを聞いたオオウスは怖じ気づいて草の中に逃げ込んだ。天皇は使者をやってオオウスを呼びつけ、まだ何もしてないのにそんなにおびえるとは何事かと言い、無理にやることはないと、美濃国に封じることにしたという。
 オオウスは身毛津君(ムゲツキミ)と守君(モリノキミ)の始祖となったと書いている。 
『新撰姓氏録』には、左京皇別の牟義公・守公、河内国皇別の大田宿禰・守公・阿礼首、和泉国皇別の池田首が載っている。
 美濃国に封じられたはずのオオウスなのだけど、美濃地方にオオウスの痕跡はほとんど見られない。何故か、三河国三宮の猿投神社(さなげじんじゃ)の祭神として祀られている。
 社伝によると、オオウスは美濃に封じられた後、この地に移ってきて開拓をし、猿投山で毒蛇に噛まれて亡くなったという。それが景行天皇52年で42才のときという(このあたりの年代は矛盾が多いのであまり問題にしない方がよさそうだ)。
 猿投神社は愛知県瀬戸市と豊田市にまたがる猿投山(629メートル)の麓にあり、猿投山の名の由来には景行天皇が関わっている。
 天皇が伊勢国へ赴いたとき、かわいがっていた猿が不吉なことを言ったため海に投げ捨てたところ、猿は泳いで陸に渡り、鷲取山に逃げ込んだことから猿投山と呼ばれるようになったというのだ。
 この話には後日談がくっついていて、ヤマトタケルの東征の際に三河国から従った者がいて、活躍して功績を挙げたのだけど、後から聞くとその者の正体は例の猿だったという。
 猿投神社というと、養老元年古地図と称される尾張国が水浸しになっている古地図が出てきた神社として知られている。養老元年は奈良時代初期の717年で、古地図は偽物ともされているのだけど、温暖化による縄文海進で海面が10メートル上がったときのシミュレーション地図を見ると古地図は何らかの伝承を元に描かれた可能性があると言わざるを得ない。
 その古地図では瀬戸の奥深くまで入り海になっていて、猿投山の近くまで海岸線が来ていた可能性を示唆している。すぐ西に広がる海上の森(かいしょのもり)は海上に浮かぶ森のように見えたことからそう呼ばれるようになったという話とも一致する。
 現状の海上の森は低いところでも標高100メートル以上あるから縄文海進程度で海辺になることは考えられないのだけど、数万年の間に隆起したとも考えられるので、あながちでたらめとは言えない。
 猿投山の北には尾張・三河・美濃にまたがる三国山(701メートル)があり、それを越えた向こうは美濃国だから、オオウスが美濃国に封じられたという話もまったくの作り話ではないのだろう。美濃国を丹念に探せばオオウスにまつわる伝承が何か残っているかもしれない。
 それにしてもオオウスの存在というのは何かを秘めているように感じられる。オウスに殺されたかどうかはともかく、景行天皇と上手くいかなかったことが記紀の記述につながったのだろうか。
 猿と臼といえば、「さるかに合戦」を思い起こさせる。蟹をだました猿は子蟹たちに復讐され最後に臼に潰されて死んでしまう。オオウスは猿なのか臼なのか。
 オオウスの墓は猿投神社内にある大碓命墓とされている。宮内省が治定していることからしても、やはり単なる伝承というだけではなさそうだ。

 

吉備武彦(キビノタケヒコ) ーーー 『日本書紀』では吉備武彦、他の文献では吉備武彦命、吉備建彦命とも表記される。
 日本武尊(ヤマトタケル)東征の従者のひとり。
 名前からして吉備国(岡山県全域と広島県・香川県・兵庫県の一部)の人物と思われる。
 桃太郎伝説のモデルになったとされる吉備津彦(キビツヒコ)との関係がややはっきりしないのだけど、『新撰姓氏録』は父を吉備津彦、またはその弟の稚武彦(ワカタケヒコ)としている(別の箇所では吉備武彦を稚武彦の孫とする)。
 しかし、稚武彦(吉備津彦)は第7代孝霊天皇の子とされるので、第12代景行天皇時代の吉備武彦とは年代が合わない。
 子供について『日本書紀』は景行天皇の条で、ヤマトタケルがキビノタケヒコの娘の吉備穴戸武媛(キビノアナトノタケヒメ)を妃として武卵王(タケカヒゴ)と十城別王(トオキワケ)が生まれたと書いている。
 その他の子については、『日本書紀』応神天皇条や『日本三代実録』、『先代旧事本紀』に、鴨別(笠臣祖)、浦凝別(苑臣祖)、御友別(吉備臣祖)、兄媛(応神天皇妃)、黒媛(仁徳天皇妃)、意加部彦命(盧原国造)らがいるとある。
『新撰姓氏録』では、左京皇別の下道朝臣、右京皇別の廬原公、右京皇別の真髪部条らを吉備武彦命の後と記している。
『日本書紀』景行天皇40年、ヤマトタケル東征に際して、天皇は吉備武彦と大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)に命じてヤマトタケルに従わせたとある。
『古事記』に吉備武彦は登場しないものの、景行天皇のところでヤマトタケルに吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミタケヒコ)を副へて遣わしたとあることから、この御鉏友耳建日子が吉備武彦のことをいっているかもしれない。
『日本書紀』によると、東国の蝦夷を討ったヤマトタケルは、武蔵、上野を巡って碓氷峠に到り、「吾嬬はや」(あずまはや)と嘆き、ここで一行を分けて、吉備武彦を越国へ派遣し、自らは信濃を目指したという。越国と信濃国にまだ従わない者がいたためだ。
『新撰姓氏録』は、吉備武彦のこのときの東国での活躍によって廬原国(駿河国西部)を賜ったと書いている。
 ヤマトタケルは信濃の山中で出会った白い鹿を殺したため祟られ道に迷っていると白い狗(子犬)が現れて道案内をしてくれたので美濃国に抜けることができた。吉備武彦は美濃国で合流したという。
 この後、ヤマトタケルは尾張でミヤズヒメと結ばれ、伊吹山の神を退治しに行って病気となり、伊勢の能褒野(のぼの)で没したというのが記紀の話で、病気になったヤマトタケルのことを都の景行天皇へ知らせる使者が吉備武彦だったと『日本書紀』はいっている。
 吉備武彦は岡山県を中心とした吉備地方の神社で主に祀られているのだけど、主祭神としては吉備津彦命を祀っている神社が多い。吉備津彦信仰総本社とされる吉備津神社(web)では大吉備津彦大神という名で祀っている。
 その他、静岡県静岡市の久佐奈岐神社のように日本武尊の従者として吉備武彦命と大伴武日連命を祀る神社もある。
 名古屋では熱田神宮web)摂社の龍神社がこのパターンで、吉備武彦命と大伴武日命を一緒に祀っている。
 ただし、江戸時代の『尾張名所図会』(1844年)を見ると、一御前社で大伴武日命を祀り、龍神祠で吉備武彦命を祀っていたことが分かる。それぞれ本社裏手の北西と北東にあり、本社を後ろから守るような恰好になっている。この配置からしても、やはり熱田社の主祭神はヤマトタケルだったのではないかと思える。
 いずれにしても、古代において力を持っていた吉備国を天皇皇子のヤマトタケルが従わせていたということは意味があることで、『日本書紀』もそのことが言いたかったのだろう。
 吉備津彦と吉備武彦の関係についてはちょっと難しいところがある。

 

大伴武日(オオトモノタケヒ) ーーー 『日本書紀』では大伴武日連、他文献では大伴健日連とも表記される。『古事記』には出てこない。
 大伴氏は古代の有力豪族で、藤原氏台頭後に衰退したとされる。
 伴氏系図を辿ると、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊/邇邇芸命(ニニギ)一行を先導した天忍日命(アメノオシヒ)に行きつく。
 記紀に天忍日の系譜はないものの、『先代旧事本紀』や『古語拾遺』は高皇産霊尊(タカミムスビ)の子としている。
 天忍日命(アメノオシヒ)は天津久米命(アマツクメ)とともに武器を携え、ニニギの前に立って仕えたと『古事記』は書く。
 大伴と久米のコンビは『日本書紀』神武東征の場面でも登場する。
 熊野の山中で迷った神武一行は八咫烏(ヤタガラス)の先導で大伴氏の遠い祖先の日臣命(ヒノオミ)が大久米を率いて山道を踏み越えて進んだという(日臣は伴氏系図では天忍日命のひ孫に当たる)。
 この功績を認められ、日臣命は道臣命(ミチノオミ)の名を与えられている。
 大伴武日は道臣命の七世孫という。
 同じく『日本書紀』の第11代垂仁天皇25年で、大伴連の遠祖の武日は阿部臣の遠祖の武渟川別(タケヌナカワワケ)、和珥臣の遠祖の彦国葺(ヒコクニブク)、中臣連の遠祖の大鹿嶋(オオカシマ)、物部連の遠祖の十千根(トオチネ)とともに大夫(まへつきみたち)のひとりとして挙げられている(五大夫)。
 垂仁天皇はこの5人に向かって、先代の城入彦五十瓊殖天皇(イマキイリヒコイニエノスメラミコト/崇神天皇)は聖人だったから、自分もそれに倣って祭祀を怠りなくやらなければならないと言っている。
 第12代景行天皇の時代、倭武尊/日本武尊(ヤマトタケル)東征の際に大伴武日は景行天皇より吉備武彦とともに従者に任じられたという。
 具体的な活躍は描かれないものの、酒折宮(さかおりのみや)でヤマトタケルから靭部(ゆけいのとものお)を賜ったとある。靫部の靫は矢入れのことで、靫部(ゆげいべ)はその兵士のことをいう。いわゆる親衛隊のようなものだろう。
 酒折宮(web)は山梨県甲府市とされている。
『日本三代実録』は東国征伐で得た捕虜を讃岐に置いた関係で移り住み、子孫の倭胡連公が第19代允恭天皇のとき讃岐国造に任じられたと書いている。
 この末裔の佐伯氏から弘法大師空海が出ている。
 大伴氏としては『万葉集』で知られる大伴旅人や大伴家持を輩出した。
「大伴の 名に負ふ靫 負ひて 万代に 頼みし心 何所か寄せむ」という大伴家持の歌も『万葉集』に入っている。
 山梨県西八代郡の弓削神社(web)が日本武尊とともに大伴武日連を祀る他、長野県佐久市には大伴神社(web)があり、この地に大伴武日命が訪れたという伝承が残っている。
 静岡県静岡市の久佐奈岐神社(web)は、日本武尊を主祭神とし、弟橘姫命、ならびに随伴の吉備武彦命・大伴武日連命・膳夫七掬胸脛命を祀っている。
 名古屋では熱田神宮web)摂社の龍神社(web)が吉備武彦命と大伴武日命を祀る。
 江戸時代までは一之御前社で大伴武日命を、龍神祠で吉備武彦命を祀っていた。
 一之御前社がある本殿裏のエリアは近年まで禁足地とされていたところで、一之御前社は現在、本殿の主祭神の天照大神の荒魂を祀るとする重要な社だ。
 江戸時代に一之御前社が重要視されていたとすれば、大伴武日は重要な祭神だったのだろうか。
 その他、天白区の八事神社、瑞穂区の一之御前社(平郷町)、瑞穂区の八劔社(御劔町)で大伴武日命が祀られている。

 

弟橘媛(オトタチバナヒメ) ーーー 『古事記』では弟橘比売命、『日本書紀』は弟橘媛と表記される。
 日本武尊/倭建命の妃で、東征でヤマトタケルが危機に陥ったとき、海に身を投げて一行を救ったことで知られる。
 記紀でその扱いに差がある。
『古事記』は、一行が走水海(はしりみずのうみ)を渡ろうとしたとき、渡の神が波を起こして船が回って進めなくなり、后の弟橘比売命(オトタチバナヒメ)が、わたし(妾)が皇子の代わりに海に入りますので、任務を果たして無事に帰還してくださいといい、菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を敷いて、その上に座って海に下りたとある。
 海の神を鎮めるための儀式を行ったようだ。
 このときオトタチバナヒメは次の歌を詠ったとある。
「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
 相武国の国造にだまされて火に囲まれたとき、私のことを心配して問いかけてくれたあなた、といった意味の歌だ。
 七日後、后の櫛が海岸に流れ着いたので拾い上げて、御陵を作って治めたと書いている。
「陵」や「后」というのは本来、天皇・皇后に使われる言葉なので、『古事記』は暗にヤマトタケルを天皇、オトタチバナヒメを皇后として扱っているともいえる。
 それに対して『日本書紀』は、弟橘媛を「王之妾」という異例の表現を用いている。
 正室のことを「后」、側室のことを「妃」とするのが一般的で、妾というのはいわば愛人扱いだ。どうして『日本書紀』はオトタチバナヒメを「妾」としたのか。『古事記』ではオトタチバナヒメ自身が自分のことを「妾」といっているので、出自に何かあったということだろうか。
『日本書紀』も相摸の海で暴風にあってオトタチバナヒメが海に入って神を鎮めたという展開は同じなのだけど、ニュアンスが少し違っている。
 ヤマトタケルがこんな小さな海はひとっ飛びで渡れるだろうと高挙げ(ことあげ/言挙げ)したことが原因で海の神の怒りを買ったという書き方をし、オトタチバナヒメの歌も載せず、櫛が流れ着いて陵を作ったといった話も書いていない。
『古事記』が書かず『日本書紀』が書いていることとしては、オトタチバナヒメを穗積氏忍山宿禰の女(むすめ)としている点だ。
 二人の子供については、『日本書紀』は稚武彦王(ワカタケヒコ)、『古事記』は若建王(ワカタケル)がいると書いていて、これは同一人物と思われる。
 父とされる忍山宿禰(オシヤマノスクネ)は穂積氏(ほづみうじ)の祖で、饒速日(ニギハヤヒ)の末裔という。大水口宿禰(オオミナクチノスクネ)の子が建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)と『古事記』は書いており、建忍山垂根は忍山宿禰のことされる。
 建忍山垂根には弟財郎女(オトタカラノイラツメ)という娘がいて、第13代成務天皇(ヤマトタケルの異母弟)の妃となり和謌奴気王(ワケヌケ)を生んだと『日本書紀』にある。
 この家系が物部氏(もののべうじ)、采女氏(うねめうじ)の本宗家とされるので、オトタチバナヒメが建忍山垂根/忍山宿禰の娘であれば名家の出ということで申し分ないのだけど、オトタチバナヒメは建忍山垂根の実の娘ではないという話がある。
 三重県亀山市にある忍山神社(おしやまじんじゃ/web)は、第11代垂仁天皇皇女の倭姫(ヤマトヒメ)が天照大神を祀る地を探しているとき立ち寄った場所のひとつ(元伊勢)とされ、ヤマトタケルが東征の際に立ち寄り、この地の神官だった忍山宿禰の娘の弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃としたという伝承を持っている。
 ここの社伝によると、オトタチバナヒメは、田道間守/多遅摩毛理(タジマモリ)と放橘姫(ハナタチバナヒメ)の娘だという。
 タジマモリといえば、垂仁天皇の命を受けて常世国に非時香菓(ときじくのかくのみ)を探しにいって、苦労の末に手に入れて戻ったときには垂仁天皇が崩御していたので嘆いて天皇の陵で自殺したとされる人物だ。
 タジマモリは新羅からの渡来人・天日槍(アメノヒボコ)の末裔とされる。非時香菓は古代でいうところの橘(たちばな)のことなので、名前の弟橘(オトタチバナ)と合致する。
 タジマモリ亡き後、妻のハナタチバナヒメと娘のオトタチバナヒメを引き取ったのが忍山宿禰だというのだ。つまり、忍山宿禰はオトタチバナヒメの養父ということになる。
 このあたりのことについて記紀は語っていないのだけど、わりと真実味があるように思う。
 出自の問題で后にも妃にもなれなかったものの、ヤマトタケルがもっとも大事にしたのがオトタチバナヒメだったのかもしれない。
『常陸国風土記』はヤマトタケルを倭武天皇、オトタチバナヒメを大橘比売命、または橘皇后とし、行方郡条にヤマトタケル天皇がいる安布賀の邑に大和からオオタチバナヒメが来て山と海に分かれて狩りを競ったという記事がある。
『先代旧事本紀』は景行天皇のところで子に稚武彦王(ワカタケヒコ)がいると書き、成務天皇のところで稲入別命(イナリワケ)、武養蚕命(タケカイコ)、葦敢竈見別命(アシカミカマミワケ)、息長田別命(オキナガタワケ)、五十目彦王命(イメヒコノミコ)、伊賀彦王(イガヒコ)、武田王(タケダ)、佐伯命(サエキ)がいると書いている。
 しかし、こんなに多くの子を産んだとは思えないので養子ということだろうか。
 オトタチバナヒメが入った海は、今の三浦半島(相模)と房総半島(上総)の間の浦賀水道と呼ばれる場所だったとされる。『日本書紀』はその海を馳水(はしりみず)と呼んでいると書いている。
 橘樹神社(千葉県茂原市/上総国二宮/web)、走水神社(神奈川県横須賀市/web)、吾妻神社(神奈川県中郡/web)など、神奈川から千葉にかけてはヤマトタケルとオトタチバナヒメを祀る神社は多い。
 千葉県の袖ケ浦市や習志野市の袖ヶ浦は、オトタチバナヒメの着物の袖が流れ着いたことが地名の由来という伝承がある。
 伝承でいうと、愛知県知多郡東浦町にある入海神社(いりみじんじゃ)は、ヤマトタケルとオトタチバナヒメが訪れた地であり、櫛が流れ着いたでそれを祀ったのが創祀という。神社は縄文時代早期の貝塚の上に鎮座している。
 穂積氏忍山宿禰の本拠地についてはいくつか説があってはっきりしないのだけど、三重県亀山市の忍山神社がある地がそうだったという説が有力ではないかと思う。忍山神社は、第10代崇神天皇の勅命で物部氏の伊香我色雄命(イカガシカオ)が猿田彦命(サルタヒコ)を祀ったのが始まりとされる。
 穂積氏忍山宿禰は大倭国山辺郡穂積邑出身とする説もあるけど、大和というのは考えている以上に新しい土地なので、大和発祥としているものは疑う必要がある。
 神奈川県中郡の川勾神社(相模国二宮/web)や香川県善通寺市の大麻神社(web)なども忍山宿禰ゆかりの神社というけど、それも後の時代のことだろう。
 名古屋でオトタチバナヒメゆかりの神社は限られていて、昭和30年に創建されたという橘神社が唯一、弟橘媛命を主祭神として祀っている。
 その他、熱田神宮web)境内社の水向神社(みかじんじゃ)が弟橘媛命を祀る。

 

大物主(オオモノヌシ) ーーー 『古事記』では御諸山上坐神(みもろのやまのうえにますかみ)、美和之大物主神(みわのおおものぬしのかみ)、『日本書紀』は大己貴神の別名であり、和魂(にきみたま)でもあるとしている。
『古語拾遺』も大己貴神の別名のひとつとして大物主神を挙げる。
『播磨国風土記』は八戸挂須御諸命(やとかけすみもろ)、大物主葦原志許(おおものぬしあしはらのしこ)としている。
 その他、三輪明神、倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたま)などとも表記される。

『古事記』は、大国主神(オオクニヌシ)とともに国造りを行っていた少名毘古那神(スクナヒコナ)が常世の国へ去ってしまい、この先どうしたらいいのか途方に暮れていると、海の向こうから光り輝く神がやってきて、自分を丁寧に扱えば一緒に国作りをしよう。そうでなければ国作りは難しいだろうと言い、ではどうしたらいいでしょうとオオクニヌシが訊ねると、自分を倭の青垣の東の山の上に奉ればいいというのでそうしたという。
 これが今の御諸山の上に坐す神だとしている。御諸山は三輪山のことだ。
『古事記』はここでは神の名前について触れておらず、大物主とも書いていない。
『日本書紀』は第八段(スサノオのヤマタノオロチ退治の話)の一書第六でこのことを書いている。
 そこでは大国主神(オオクニヌシ)の別名として大物主神(オオモノヌシ)、国作大己貴命(クニツクリシオオナムチノミコト)、葦原醜男(アシハラシコオ)、八千戈神(ヤチホコ)、大国玉神(オオクニタマ)、顯国玉神(ウツシクニタマ)の名を挙げ、大物主を大国主の別名といっている。
 少彦名命(スクナヒコナ)は熊野の御崎、もしくは淡嶋(あわのしま)から常世の国へ行ってしまい、ひとりでどうしたらいいのかと思っている大己貴神(オオナムチ)のところに海の向こうから光り輝く神がやってくるという同じ展開を見せる。
 ただし違うのは、その神はオオナムチに対して自分はお前の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)と言っている点だ。
 その神にどこに住みたいか訊ねたところ、日本国(やまとのくに)の三諸山がいいというので宮殿を作って祀ったといい、これが大三輪の神だと書いている。
 現在、奈良県桜井市にある大神神社(web)は、大国主が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったのが始まりといっている。古くは美和乃御諸宮や大神大物主神社といっていた。中世以降は三輪明神と呼ばれ、大神神社と改称したのは明治になってからだ。
『日本書紀』は、この神の子が甘茂君(かものきみ)、大三輪君(おおみわのきみ)、姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)とし、その後、少し不思議なことをいっている。
 又曰として、事代主神(コトシロヌシ)が八尋熊鰐(ヤヒロノクマワニ)となって、三嶋の溝湟姫(ミゾクイヒメ)またの名を玉櫛姫(タマクシヒメ)のところに通ってできた子が姫蹈鞴五十鈴姫命という。
 どうしてここで唐突に大国主の子の事代主が出てくるのか、八尋熊鰐とは何を示しているのかがよく分からないのだけど、オオナムチ(大国主)の子が姫蹈鞴五十鈴姫命で、コトシロヌシの子が姫蹈鞴五十鈴姫命というなら、オオナムチとコトシロヌシは同一ということになる。
 この姫蹈鞴五十鈴姫命は後に神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト/初代神武天皇)の后となったとされている。
 大国主=大物主ではなく、大物主=事代主で、大国主と大物主は親子関係と考えると辻褄が合うか。
 大物主の「大」は偉大なという意味で、「物」は鬼とか神とか霊と解すると、個人名というよりは愛称、呼び名、通り名といった方が近いのかもしれない。

 大物主の婚姻に関してふたつの伝承がある。ひとつは『古事記』にある勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)との話で、もうひとつは箸墓古墳にまつわる倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の伝承だ。
 三嶋湟咋(ミシマノミゾクイ)の女(むすめ)の勢夜陀多良比売を見初めた大物主は、赤い丹塗りの矢に姿を変えて川上で待ち構え、用を足しに来た勢夜陀多良比売のところに流れていってホト(女陰)を突いた。勢夜陀多良比売は驚きながらも矢を部屋に持ち帰ると大物主が元の姿に戻り、二人は結ばれ、富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)が生まれたというのが『古事記』の話だ。
『日本書紀』がいう姫蹈鞴五十鈴姫命と『古事記』の富登多多良伊須須岐比売命は同一とされるので、この姫が初代神武天皇の后となったということだ。
 倭迹迹日百襲媛は第7代孝霊天皇の皇女で、『日本書紀』の第10代崇神天皇のところで出てくる。
 崇神天皇5年から疫病が流行って多くの民が死亡してしまい、崇神天皇は自分が到らないせいだと思い悩み、その原因を突き止めようと神淺茅原(かむあさじはら)に出向いて神意を占ったところ、倭迹迹日百襲媛命に大物主が神憑りして伝えるには、自分を祀れば国は平穏になるだろうというので崇神天皇はその通りにするもいっこうに事態は好転しない。
 夢でいいからどうしたらいいか教えてくださいと願ったところ、夢に大物主が現れ、わが子の大田々根子(オオタタネコ)に自分を祀らせれば国は平穏になるし、外国も従うだろうと告げた。
 同じ夢を他に3人も見たということで大田々根子を探したら和泉国の陶邑(すえむら)で見つかったので祀らせたら事が収まったという。
『古事記』では意富多々泥古(オオタタネコ)が見つかったのは河内の美努村となっているものの、話としては同じだ。
 三輪山の神である大物主と倭迹迹日百襲媛が婚姻したのはこの話の後のことという設定なのだけど、一体、倭迹迹日百襲媛命そのとき何歳なんだと思ってしまう。父の孝霊天皇は第7代で、崇神天皇は第10代だから、本来であれば時代が違っている。
 それはともかくとして、大物主は倭迹迹日百襲媛のところに夜しかやってこないため不審に思い、朝までいてほしいと頼んだところ、分かった、それでは櫛笥(櫛を入れる箱)に入っているから驚いてはいけないと言って帰らず残った。翌朝、倭迹迹日百襲媛がその箱を開けてみると美しい小蛇(こおろち)が入っていたので驚き叫ぶと、大物主は恥ずかしく思って人の姿になって御諸山に帰ってしまった。
 倭迹迹日百襲媛は悔いて座り込んだところ、箸が陰(ほと)を突いて亡くなってしまう。それで大市に葬ったと『日本書紀』はいう。同じ話は『古事記』にはない。
 この大市の墓が今の箸墓古墳(はしはかこふん)で、昼は人が作り、夜は神が作ったと『日本書紀』は奇妙なことを書いている。

 大物主は酒の神ともされる。
『日本書紀』にこんな歌が載せられている。
「この神酒は我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」
 これは活日(イクヒ)が神酒(ミワ)を捧げて天皇に献上したときに歌ったものとされる。
 造り酒屋の軒先に吊されている杉玉も大神神社が起源という。
 大物主を祀るとしている神社は、大神神社系統の三輪神社や美和神社だ。
 大物主=大国主=大己貴というのであれば、祀っている神社は多い。
 奈良県天理市の大和神社(web)祭神の日本大国魂大神も大物主という説がある。
 明治の神仏分離令以降を受けて大物主を祭神としたのが香川県仲多度郡の金刀比羅宮(web)だ。
 名古屋には中川区の三輪社(榎津)と中区の三輪神社(大須)が大神神社系の神社で、この二社は大物主命を祀っている。
 東区の金刀比羅神社(泉)、熱田区の金刀比羅社(白鳥)、中川区の金刀比羅社(西宮神社)、西区の金刀比羅社(菊井)といった金比羅系神社でも大物主を祭神とする。
 名東区の痔塚神社、中川区の国玉神社・八劔社合殿でも大物主命を祀る。

 

 

熱田大神(草薙剣)

八劔大神

 

仲哀天皇

神功皇后

タケウチノスクネ

応神天皇(ホムタワケ)

仁徳天皇

 

菅原道真

龍神(九頭竜・他)

石神

牛頭天王

三十番神

安倍晴明

安閑天皇

安徳天皇

徳川家康

豊臣秀吉

御嶽大神

辨財天(七福神)

河童

道祖神

妙見神

飯綱権現

秋葉三尺坊

宇賀神

家神(竃神・厠神・門神・座敷童子)

蔵王大権現

伊奴姫神

徳川義直

平景清

徳川慶勝

高峰大神

蛇毒気神(蛇神)

村上天皇

伊福利部連命