アキバゴンゲン《秋葉権現》

2020年4月10日

アキバゴンゲン《秋葉権現》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名 秋葉三尺坊
祭神名 秋葉権現 秋葉三尺坊
系譜  
属性 火伏せ(火防)
後裔  
祀られている神社(全国) 秋葉神社、秋葉堂、秋葉山秋葉寺(web)などの寺院
祀られている神社(名古屋) 秋葉社

それは秋葉山の山岳信仰から始まった

 秋葉神社といえば、火の神・迦具土神(カグツチ)を祀る火除け、火伏せの神社ということになっているのだけど、そこに到るまでの経緯はやや複雑で、よく分からない部分もある。
 古くから秋葉山(地図)を御神体とする山岳信仰があり、秋葉山が修験の霊場となって、秋葉三尺坊に対する信仰があわさったものというのが大まかな流れだ。
 秋葉山は静岡県の西部、赤石山脈の南端に位置する標高866メートルの山で、718年に行基(668-748年)が秋葉山を開いたというのだけど、たぶんそれは事実ではない。行基は河内国(大阪府)の生まれとされ、足跡は大阪、京都、奈良、兵庫あたりの西日本に色濃い。しかし、伝説がひとり歩きして九州から青森まで行基伝承が残る寺は600以上あるとされるから、それらがすべて本当のはずもない。
 秋葉山が御神体とされていたのは確かだろうし、中世に修験の霊場となったときに行基の伝説が生まれたと考えていいのではないかと思う。
 当初は大登山霊雲院という寺が建てられ、弘仁年間(810-823年)に嵯峨天皇の勅願によって七堂伽藍が建立されたとき秋葉山秋葉寺と改称されたという。
 本尊は行基作と伝わる聖観音菩薩像で、もともとは火伏せとは関係のない寺だった。
 史料上の初出は『日本三代実録』(901年)の貞観十六年(874年)の条の岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)とされる。”岐陛”は秋葉の古語で、”保神”は火神のことだ。秋葉寺と称するようになるのはもう少し後の時代だったかもしれない。

秋葉三尺坊の実像と虚像

 秋葉三尺坊と呼ばれ、秋葉権現として祀られるようになる人がいる。信州戸隠村の岸本家に生まれた実在の人物というのだけど、これも伝説に彩られていてどこまで事実なのかはよく分からない。
 秋葉寺の縁起などによると、生まれは778年というから行基の死から30年後に生まれたことになる。4歳のときにはすでに越後の栃尾蔵王堂で修行する修験者だったという。
 10歳のときに一度戸隠村に戻り、26歳で大阿闍梨となり、蔵王権現堂十二坊の第一坊「三尺坊」の主を務めたことから三尺坊と呼ばれるようになる。
 27歳のときには真言秘密不動三昧之法の秘法を習得したとされる。その結果、自在に飛行する能力を獲得し、白狐に乗って飛び去っていくとき、自分の名を呼べば火災や盗難から守られるだろうと言い残していったため、村人達は般若院を建てて威徳大権現として祀った。
 白狐にまたがって飛び去った三尺坊が降り立ったのが秋葉山だった。水不足で悩むこの地で泉を見つけて、そこに泳いでいたガマの背に秋葉の文字が浮かび上がったから秋葉寺と名づけなどという伝承もある。
 あるとき秋葉山で火事があったとき、三尺坊の霊験で火事を収めたことから火伏せの神とされるようになったともいう。
 三尺坊は各地を巡って民衆を救ったという話もあり、後に秋葉寺に祀られ、秋葉三尺坊と呼ばれるようになった。

熱田園通寺に三尺坊現る

 名古屋の熱田にある園通寺(web)は、秋葉三尺坊が修行に訪れた寺として知られている。
 もともとは熱田社(熱田神宮/web)の神宮寺として尾張氏が建てたとされる寺で、空海が熱田を訪れたときに自ら彫った十一面観音像を安置したという伝承もある。
 尾張氏一族で熱田社の社家だった田島氏が伽藍を整備し、松露山圓通寺として再興した。
 その園通寺に修行僧の姿で現れた三尺坊は、多くの修行を積んでついに鎮防火燭の秘法を獲得し、嬉しさのあまり正体を現して自分は寺を守る守護神になろうと言い残して去っていった。それが永享年間(1429-1441年)というのだけど、そのことをどう解釈していいのかは難しいところだ。三尺坊が生きた時代からだいぶ後世の話になる。
 秋葉山には天狗伝説があり、三尺坊も天狗の姿として語られることがある。秋葉神社の神紋の七葉紅葉は、天狗持っている団扇に似ている。園通寺の御札には、白狐と天狗の姿をした三尺坊が描かれている。

江戸時代に秋葉信仰が広まった

 秋葉信仰が一般にも広がったのは江戸時代に入ってからだ。火除け、火伏せの神として信仰され、遠州の秋葉まで参拝に行くのは遠いので、秋葉講というグループを作って積み立てして代表が参拝に出向くというシステムができあがった。お伊勢参りの伊勢講と同じだ。最盛期には秋葉講は全国で3万を超えるほどだったという。
 同時に秋葉を勧請して地元でも祀るようになり、秋葉祠もたくさん作られた。江戸末にはそういった祠が3万近くになったという。
 ちなみに東京の秋葉原の地名は、この秋葉が由来だ。延焼防止のための火除け地を秋葉ノ原と呼んでいたことから来ている。

秋葉本家争い

 秋葉の本家争いというものがある。普通に考えれば秋葉山の秋葉寺しかないと思うのだけど、事はそう単純ではない。それは明治の神仏判然令(神仏分離令)が招いたものでもあった。
 江戸時代の秋葉寺には禰宜(神職)と曹洞宗の僧と当山派(真言宗系)の修験者がいて、曹洞宗の僧侶が別当を務めていた。
 江戸時代前期の1625年、僧侶と修験の間の対立が激化して裁判沙汰になってしまう。僧侶側は曹洞宗の可睡斎に助力を求め、修験は二諦坊に応援を頼んで争われた。
 可睡斎(web)は室町時代前期に恕仲天誾禅師が開山した寺で、第11代住職の仙麟等膳のとき、幼い家康とその父が武田信玄軍から逃れた際にかくまったということがあった。そのとき、仙麟等膳が居眠りをしていたことから可睡和尚と呼ばれるようになり、その後、寺名となった。
 二諦坊は白山権現系の修験で、秋葉山の修験と組んで秋葉山乗っ取りを画策したとされる。
 結果は曹洞宗側の勝訴となり、秋葉寺は可睡斎の末寺ということになった。
 しかし、これで落ち着いたわけではなく、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現が本山を名乗ったことでまたも裁判になる。越後栃尾の秋葉三尺坊というと、三尺坊が修行をしたところで、三尺坊が去った後に祀っていたところなので、三尺坊の本家を名乗る資格はあった。
 裁判の結果、越後栃尾の秋葉三尺坊大権現を「古来の根本」、遠州秋葉山秋葉寺を「今の根本」とすることで一応の決着を見ることになる。本家と元祖の争いのようなもので、どちらも納得がいかなかったんじゃないかと思う。
 こういう状況をさらにややこしくしたのが神仏分離だった。

神仏分離令・修験禁止令を受けて

 慶応4年/明治元年(1868年)の神仏判然令を受けて、遠州秋葉山の秋葉権現は神か仏かの議論となり、決着がつかないまま時が流れた。
 明治5年の修験禁止令の後、寺社行政を担う教部省は、秋葉権現の本体は大己貴命(オオナムチ)という説(「秋葉事記」等)があるものの、秋葉権現は火伏せの神だから迦具土神(カグツチ)を祀る神社とするのが妥当という判断を下した。
 これを受けて、秋葉寺は仏教関係のものを取り除き、迦具土神を祭神とする秋葉神社(秋葉山本宮秋葉神社/web)として再出発することになる。
 秋葉権現と三尺坊に対する信仰は別物ということで、三尺坊関連のものは本寺の可睡斎に移された。
 秋葉寺の堂宇は半ば破壊された状態で放置されることになる。
 しかし、納得がいなかった曹洞宗側は寺の再建を願い出て、明治13年に許可が出た。ただ、もともとあった山頂近くにはすでに秋葉神社が建ってしまっていたため、秋葉山の麓にあらたに堂を建てることとなった。これが現在の秋葉山秋葉寺(web)ということになる。
 秋葉寺のサイトを読むと面白い。秋葉山山頂にある秋葉神社なるものは神仏分離令のごたごたに乗して明治6年に建てられた宗教施設で、うちとは一切関係ありませんと書いている。あちらさんは京都の愛宕山(愛宕神社/web)から迦具土神を迎えたところで、うちこそが千年以上続く三尺坊を祀る本家であることは歴史的事実であり、物的証拠も揃っているぞと主張する。どうやら本家争いはいまだに続いているらしい。
 それに加え、三尺坊を祀る可睡斎と、秋葉神社と名前を変えた越後栃尾の秋葉三尺坊大権現(新潟県長岡市)もあって、4者が並び立つというのが現状となっている。そのため、秋葉信仰の本場はどこかというのがややこしいことになっているというわけだ。

名古屋の秋葉社

 名古屋にも秋葉社はたくさんある。小さなところも含めると60社以上が現存している。
 これは熱田園通寺の関係もあるのだけど、名古屋城下に火除けの秋葉祠を祀ることを藩主が奨励したせいもある。もちろん、遠州の秋葉山から勧請したものも少なくないはずだ。
 祭神はだいたいが迦具土神となっていて、例外的に三尺坊を祀るとしているところもある。
 名古屋を代表する秋葉社というと、港区の秋葉社(秋葉)秋葉神社(瑞穂通)あたりになるだろうか。港区秋葉の秋葉社は指定村社であり、地名にもなっているくらいだから村の中心神社だったということだ。
 公民館の中や2階テラスに祀られているもの、狭小神社といいたくなるものすごく狭いところに祀られているものなど、多種多様なのも名古屋の秋葉社の特徴といえる。

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