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カグツチ《軻遇突智》

カグツチ《軻遇突智》

『古事記』表記 火之迦具土神
『日本書紀』表記 軻遇突智
別名 火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤオ)、火之炫毘古神(ヒノカガヒコ)、軻遇突智(カグツチ)、火産靈(ホムスビ)、火産霊迦具突智(ホムスビカグツチ)、火焼速男命神(ヒノヤキハヤオ)、火火焼炭神(ホホヤキスミ)
祭神名 迦具土命、火産霊命、他
系譜 (親)伊弉諾神(イザナギ)・伊弉冉神(イザナミ)
(子)多数(本文参照)
属性 火の神
後裔 不明
祀られている神社(全国) 秋葉山本宮秋葉神社をはじめとする全国の秋葉社、愛宕神社(京都府)をはじめとする全国の愛宕社、伊豆山神社(静岡県熱海市)、火産霊神社(福井県福井市)、豊麻神社(愛知県豊橋市)、他
祀られている神社(名古屋) 秋葉神社多数、愛宕神社(北千種)(千種区)、羊神社(北区)

知っているつもりのカグツチ

 カグツチについては知っているようで実は知らず、知っている気になっているだけという人が多いのではないかと思う。
 一般的な知識としては、火の神で、伊弉冉神(イザナミ)がカグツチを産んだときに火傷が元で死んでしまって、怒った伊弉諾神(イザナギ)に斬り殺された、といったところだろうか。
『古事記』と『日本書紀』の違いや、一書による差まで詳しく説明できる人は稀だろう。
 カグツチは実はイザナギに殺されていなかったかもしれないといったら驚くのではないだろうか。
 カグツチの元になった誰かしらはいて、それはイザナギの息子であり、多く枝分かれした家の元になった人物、それがカグツチではないかと個人的には考えている。

 まずは『古事記』と『日本書紀』、それぞれの内容について詳しくおさらいしてみたい。
 その後、『先代旧事本紀』などの史料にも当たってみる必要がある。

 

『古事記』と『日本書紀』が伝えるカグツチの出生

『古事記』、『日本書紀』とも、イザナギとイザナミが協力をして国生みをし、その後、神生みを始めるという展開は共通している。
 神様名や順番の違いは少なくないのだけど、カグツチを生んでイザナミが死んでしまうという流れは同じだ。
『古事記』は、海などの水関係に続いて山関係の神などを生み、それに続いて鳥之石楠船神(トリノイハクスフネ)、別名・天鳥船(アメノトリフネ)、次に大宜都比売神(オオゲツヒメ)、その次にカグツチを生んだといっている。
 ここでいきなりちょっと驚くのだけど、神の名を火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオ)としており、別名として火之炫毘古神(ヒノカガビコ)、またの名を火之迦具土神(ヒノカグツチ)と書いているのだ。
 カグツチの本来の名はヒノヤギハヤオなのか? ヤギハヤオとは何を意味しているのだろう? と戸惑う。
 もうひとつの別名のヒノカガビコというのもよく分からない。香香背男(カカセオ)の”カカ”と同じなのかまったく別なのか?
 ”カカ”と”カク”は同じか、近い意味合いに思えるのだけどどうだろう。
 名前についてはいったん置いておくとして先へ進む。

 カグツチを生んだことで女陰に火傷を負って苦しむ中、イザナミは更に金山毘古神(カナヤマヒコ)と金山毘売神(カナヤマヒメ)、波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメ)、弥都波能売神(ミズハノメノカミ)、和久産巣日神(ワクムスビノカミ)を生み、それから黄泉国(よみのくに)へ行ったと『古事記』は書く。
 まずはここまでをよく覚えておいて、次に『日本書紀』に移る。

『日本書紀』の神生みは第五段に書かれているのだけど、本文と一書では話がだいぶ違っているので、少し注意して読み比べる必要がある。
 本文はわりと短めで、イザナギとイザナミが協力して海や山、草木の神を生んだ後、大日孁貴(オオヒルメノムチ/天照大神)、月弓尊(ツクユミ/月夜見尊/月読尊)、蛭子(ヒルコ)が生まれ、ヒルコは3歳になっても立てなかったので天磐櫲樟船(あめのいわくすふね)に乗せて流してしまい、次に素戔鳴尊(スサノオ/神素戔鳴尊/速素戔鳴尊)が生まれたものの、スサノオが泣きわめいてばかりいるので根の国に追放した
ところまでを簡潔に書いている。
『古事記』では黄泉の国へ行ったイザナミを追いかけていって逃げ帰ったイザナギが禊ぎをしたときにアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれたという展開なので、話がだいぶ違っている。
 正史としての『日本書紀』本文は、アマテラスなど三貴紳は父神と母神が揃った状態で生まれたということが言いたかったのだろう。

 カグツチが出てくるのは第五段一書第二で、ヒルコを鳥磐櫲樟橡船(とりのいわくすふね)に流した後、
火の神の軻遇突智(カグツチ)が生まれ、イザナギは焼け死んでしまう前に土の神の埴山姫(ハニヤマヒメ)と水の神の罔象女(ミツハノメ)が生まれ、カグツチがハニヤマヒメ(埴山姫)を娶って稚産霊(ワクムスビ)が生まれたと、急展開の話になっている。
 ワクムスビの頭から蚕と桑が生まれ、へそから五穀が生まれましたとも書く。
『古事記』ではワクムスビ(和久産巣日神)を生んだのはイザナミとしているのに対して、ここではカグツチとハニヤマヒメの子供といっている。
 それと、ここでは最初から”軻遇突智”としていることにも留意しておく。別名を挙げず、”神”ともしていない。

 一書第三も少し不思議な内容になっている。原文はこうだ。
「伊弉冉尊、生火産靈時、爲子所焦、而神退矣」
 ここではカグツチと思われる神の名を”火産靈”(ホムスビ)といっており、”而神退矣”と言い回しをしている。
 そうして神を退してしまったのだ、とはどういう状態を表しているのだろう?
 死んだというより神を引退したみたいなふうにもとれる。
 ”矣”は語句の最後につけて、”である”とか、だなぁ”とか、”だろう”といった推量や感嘆を表す。
 この場合、断定的に言っているのか、そうなのかなみたいな推測をしているのか、取り方によって少し違う意味になる。
 火産霊は一般的にカグツチのこととされ、火産霊神などの祭神名で祀っている神社もある。
 ただ、簡単に同一と決めつけるのは少し問題があるように思う。
 あと、他では見られない天吉葛(アマノヨサツラ)も加えられているのが気になる。
 この神は京都丹後の籠神社(web)との関連が指摘されている。

 一書第四は、「伊弉冉尊、且生火神軻遇突智之時、悶熱懊悩」と、カグツチを生んで熱によって悶絶懊悩したという表現が使われており、女陰を火傷したとは書かれていない。苦しみながら吐いて、小便と大便を漏らして、それぞれ神になったといっている。

 ここまで見てきて分かるように、カグツチについての伝承は必ずしも一種類ではないということだ。
『古事記』や『日本書紀』の一書では婚姻して子供までもうけたことになっている。

 ここまでの話を別の史料はどう書いているか見てみることにする。

 

『先代旧事本紀』が語るカグツチ

『先代旧事本紀』は基本的に『日本書紀』を参照して書かれているので、ここでも『日本書紀』とほとんど同じ内容になっている。
 ただ、カグツチの名前を火産霊迦具突智(ホノムスヒカグツチ)、または火焼速男命神(ホノヤキハヤオ)、または火火焼炭神(ホホヤケズミ)としており、そこに独自性がある。
 ”火産霊”であり、”火焼速”であり、”火火焼炭”でもあるというのは重要なヒントなのだろうけど、名前が意味するものが何なのかはよく分からない。なんとなく分かりそうで分からないのでモヤモヤする。
 イザナミはこの火の神を生んだために女陰が焼けて伏せってしまい、嘔吐と大小便からそれぞれ神が生まれたというのは『日本書紀』の一書をあわせたような内容になっている。
 ここでもカグツチは土の神の埴安姫(ハニヤスヒメ)をめとって稚皇産霊神(ワカムスヒ)が生まれ、この神の頭の上から蚕と桑が、臍の中に五穀から生まれたとしている。
 少し気になるのが、イザナミが稚彦霊神(ワカムスヒ)を生み、カグツチとハニヤマヒメとの間に生まれたのが稚皇産霊神(ワカムスヒ)となっている点だ。
 国立国会図書館デジタルコレクション(web)に所蔵されている江戸時代に写された『先代旧事本紀』ではそうなっているのだけど、現代語誤訳版ではどちらも稚産霊神になっていて戸惑う。
 同じ神だとおかしいので、やはりカグツチの子は稚皇産霊神が正しいだろうか。
 しかしそうなると、カグツチの前に生まれた稚彦霊神とカグツチの子の稚皇産霊神は親子関係のような名前なので、それはそれで不自然のようにも思う。

 

カグツチの血から多くの神が生まれる

 続いてカグツチがイザナギに斬られる場面を読んでみる。
 ここでもやはり『古事記』と『日本書紀』の一書では違いが見られる。

 まず『古事記』だけど、イザナギが十拳剣(とつかのつるぎ)でカグツチの首(頸)を斬ると、剣についた血から多くの神が生まれたと書く。
 湯津石村(ゆついわむら)に血が走りついて生まれたのが石拆神(イワサク)、根拆神(ネサク)、石筒之男神(イワツツノオ)で、剣の本(鍔)から甕速日神(ミカハヤヒ)、樋速日神(ヒノハヤヒ)、建御雷之男神(タケミカヅチノオ)が生まれたとする。
 国譲りで活躍するタケミカヅチはここで生まれたと『古事記』はいっている。タケミカヅチの別名として建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)を挙げており、『日本書紀』に登場するフツヌシをタケミカヅチの別名のように扱っている。
 続いて剣の柄から闇淤加美神(クラオカミ)、闇御津羽神(クラミツハ)が生まれたと書く。
 最後に、この8神は剣(御刀)によって生まれたとわざわざ注意書きをしているので、カグツチの血から生まれたのではなくて、あくまでもイザナギの剣によって生み出されたのだということを言いたいようだ。

 続いてカグツチの体から8柱の山神が生まれたとする。
 名前だけ書いておくと、正鹿山津見神(マサカヤマツミ)、淤縢山津見神(オドヤマツミ)、奥山津見神(オクヤマツミ)、闇山津見神(クラヤマツミ)、志芸山津見神(シギヤマツミ)、羽山津見神(ハヤマツミ)、原山津見神(ハラヤマツミ)、戸山津見神(トヤマツミ)となっている。
 まったく馴染みのない神ばかりなのが気になるといえば気になる。
 気になるといえば、最後にイザナギの剣の名前を天之尾羽張(アメノオハバリ)と明かしている点だ。
 別名を伊都之尾羽張(イツノオハバリ)ともいっている。
 どうして最初に書かず、最後に種明かしのように書いたのか。尾羽張という名前からして尾張と関係があるのではないかと思ってしまう。

『日本書紀』は段を変えずに神生みについて書かれた第五段の一書の中にイザナギがカグツチを斬って神々が生まれたことや、イザナギの黄泉の国訪問とその後の禊ぎ祓までをまとめているので、カグツチの話も神生みの物語の構成要素という認識があったのだろう。
 つまり、神生みはイザナギとイザナミだけでなくカグツチとあわせて3人で成したことだったということだ。あるいはカグツチの犠牲の上に成り立ったという見方もできる。

 一書第六はイザナギ・イザナミの神生みから黄泉の国訪問と三貴紳の誕生までを一気に描いている。
 内容は『古事記』に近いのだけど違いもある。
 イザナギが十握剣でカグツチを三段斬りにするとそれぞれから神が生まれ(ここでは神名はない)、剣の刃についた血から天安河の五百の磐石となり(これを経津主神の祖といっている)、剣の鍔の血からは甕速日神(ミカハヤヒ)、熯速日神(ヒノハヤヒ)が生まれたとしている。
 甕速日神を武甕槌神(タケミカヅチ)の祖といいつつ、甕速日命、熯速日神、武甕槌神の順に生まれたという話もあると書いている。
 続けて、剣先の血から磐裂神(イワサク)、根裂神(ネサク)、磐筒男命(イワツツノオ)が生まれたという。
 一説には、磐筒男命(イワツツノオ)と磐筒女命(イワツツノメ)が生まれたとも書く。
 続いて剣の柄の血から闇龗(クラオカミ)、闇山祇(クラヤマズミ)、闇罔象(クラミツハ)が生まれたと。

 一書第七はカグツチから生まれた神の異伝なのだけど、三段斬されたカグツチから生まれた神を、雷神(イカヅチ)、大山祇神(オオヤマツミ)、高龗(タカオカミ)と具体的な名前を挙げている点に特徴がある。
 血から生まれた神についてかなり詳しく書いているのだけど、煩雑になるのでここでは省略する。
 書き加えておくことがあるとすると、磐裂神 (イワサク)、根裂神(ネサク)、磐筒男神 (イワツツノオ)、磐筒女神 (イワツツメ)が生まれ、その子が経津主神(フツヌシ)としていることだ。
 ”その子”というのがどこに掛かっているのかが定かではないのだけど、磐筒女神の子ということは言えるのだろう。
 磐裂神から数えて5代目なのか、磐裂神と根裂神、磐筒男神と磐筒女神は夫婦なのか兄妹なのか、そのあたりがはっきりしない。

 一書第八では三段斬ではなく五段斬になっていて、それぞれから大山祇(オオヤマツミ)、中山祇(ナカヤマツミ)、麓山祇(ハヤマツミ)、正勝山祇(マサカヤマツミ)、䨄山祇(シギヤマツミ)が成ったとしている。
 これもかなり独特な伝承だ。

 

『先代旧事本紀』の独自性

『先代旧事本紀』の対応箇所を見ておくと、イザナギは十握剣でカグツチの頸を斬り三つにし、五つにし、更に八つにしたといっている。
 三つから雷神、大山祇、高寵が、五つから大山祇、中山祇、麓山祇、正勝山祇、雜山祇が、八つから大山祇(正鹿山津見神)、中山祇(瀬勝山津見神)、奥山祇(奥山上津見神)、正勝山祇(闇山津見神)、麓山祇(志芸山津見神)、羽山祇(羽山津見神)、原山祇(原山津見神)、戸山祇(戸山津見神)が生まれたとする。
 これは、三つにして五つにして八つにしたというのではなく(それではバラバラ殺人だ)、切り分けたのが三つか五つか八つだったのかの違いだろう。

『先代旧事本紀』の独自性はこの後で、剣鍔(剱鐔)からしたたった血が湯津石村に走り就(つ)いて成ったのが天尾羽張神(アメノオハバリ)としており、この天尾羽張神の子を建甕槌之男神(タケミカツチノオ)といっている点だ。
 ややこしいのは、天尾羽張神の別名として稜威雄走神(イツノオハシリ)、甕速日神(ミカハヤヒ)、熯速日神(ヒノハヤヒ)、槌速日神(ツチハヤヒ)と4つも挙げて、天安河(あめのやすかわ)の上流にいる天窟之神(アメノイワト)だといっていることだ。
『古事記』はミカハヤヒ(熯速日神)の父を天之尾羽張とし、『日本書紀』の第九段は父を甕速日神とし、『日本書紀』第六段一書第三はミカハヤヒの母を日神(アマテラスのこととされる)としているので混乱する。
 ”天安河の上流にいる天窟之神”については『古事記』も天尾羽張神としており、一般的には天岩戸神社(宮崎県高千穂町/web)のあたりだとする(個人的には違うと思っている)。
 どうして天尾羽張神が天窟之神として祀られるようになったのかはよく分からないので、ここではいったん保留とする。

 混乱をもたらす記述はこの先も続く。
 建甕槌之男神(タケミカヅチノオ)の別名を建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)とし、今は常陸国に坐す鹿嶋大神で、それはすなわち石上布都大神だといっているのだ。
 ん? どういうこと? と、しばし思考が停止してしまう。
 鹿島神宮(web)の祭神はタケミカヅチ(武甕槌大神)で、石上神宮(web)の主祭神となっている布都御魂剣(の神霊)は、タケミカヅチが国譲りを迫るときに使った剣で、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ/神武天皇)が熊野で危機に陥ったときに高倉下(タカクラジ)を通じてもたらされ、皇室にあったものを第10代崇神天皇の時代に物部氏の伊香色雄命(イカシカガオ)が石上に移して祀ったのが石上神宮の始まりというのが一般的な認識だ。
 しかし、これを読むと鹿嶋のタケミカヅチと石上のフツノミタマ(布都御魂剣)は同一ととれてしまう。
 鹿島神宮にも布都御魂剣(韴霊剣)とされる剣が伝わっていて、こちらが本物だという説もあるのだけど、そうなると石上神宮の話はどうなんだろうということになる。
 ”フツ”つながりで、この剣はフツヌシのことではないかとする考えもあるのだけど、『先代旧事本紀』はそれをきっぱり否定する。
 剣先(剱鐸)からしたたる血が湯津石村に飛び就いて成った神を磐裂根裂神(イワサクネサク)とし、磐裂根裂神の子の磐筒男(イワツツオ)・磐筒女(イワツツメ)の二神が経津主神を生んだといっている。
 別名はなく、今下総国に坐す香取大神がこれだといっているので、この点ははっきりしている。
『日本書紀』との違いは、磐裂根裂神と、磐裂・根裂をひとりの神としている点だ。

 まとめると、イザナギがカグツチを斬ったときに出た血から天尾羽張神や磐裂根裂神が成り、その子や孫がタケミカヅチでありフツヌシで、国譲りで活躍をして、それぞれ鹿嶋と香取で祀られるようになった、ということだ。
 分からないのは、天尾羽張神が天窟之神として祀られていることと、鹿嶋大神(タケミカヅチ)と石上布都大神を同一視している点だ。
 混乱して飲み込めないので、いったん忘れることにする。

 余談だけど少し引っかかったのは、現代語訳では剣の先としている原文は”剱鐸”で、鐸は”すず”、”タク”で大きな鈴を意味する。これを剣先と訳していいのかどうかという疑問を持った。写すときの誤写かもしれないのだけど。

 

『古語拾遺』も一応確認

『古語拾遺』は忌部氏に関係ないところにはほとんど関心を示していないので、このあたりの話はばっさり切り捨てている。
 ただ、スサノオ(素戔鳴神)が八岐大虵(ヤマタノオロチ)を斬ったときの剣について書いていて、天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の名を天羽羽斬(あめのははきり)として、今は石上神宮にあるとしている。
 現在の石上神宮の祭神のひとつ、布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)がこれに当たるとされる。
 この剣でヤマタノオロチの尾を斬ったときに出てきたのが天叢雲で、後に草薙剣と呼ばれるようになるのだけど、『古語拾遺』はこの天叢雲を天神に献上したといっている。

 

カグツチの後裔について

『新撰姓氏録』にカグツチの後裔を自認する氏族は載っていない。実際にいなかったのか、カグツチとはいっていないだけなのか。
『新撰姓氏録』は畿内限定の氏族名鑑なので、地方にはカグツチ後裔を名乗る一族がいたかもしれない。
 ここまで見てきたように、カグツチの血から生まれたとされる神の一族がカグツチの子だとすれば、カグツチの後裔は山ほどいるということになる。

『日本書紀』一書や『先代旧事本紀』が書いているハニヤマヒメをめとってワクムスビが生まれたという記述をどう受け取ればいいのか。
『古事記』はワクムスビを生んだのはイザナミで、ワクムスビの子をトヨウケ(富宇気毘売神)としていて、カグツチの婚姻や子供については書いていない。
『日本書紀』と『古事記』の記述を安易に組み合わせるではいけないのだけど、カグツチとハニヤスヒメ夫妻の子がワクムスビで、ワクムスビの子がトヨウケというならば、カグツチはトヨウケの祖父ということになる。
 それを信じていいのかどうか判断がつかないのだけど、生まれてすぐにイザナギに斬られていたら結婚も子供もあり得ず、やはりカグツチはイザナギに斬り殺されてはいないと考えるべきではないのか。
 ではなぜ、カグツチを粗とする一族がいなのか? ということになる。別の名前の神として知られているのか、あるいはカグツチの後裔を名乗ることがはばかられたのか。
 この疑問は、どうしてカグツチが火の神として信仰されるようになったのか、という問いにもつながってくる。
 単純に火の神とされるから火にまつわる神としてカグツチを引っ張ってきただけなのか、もしくは祖神としてカグツチを祀ることから出発しているのか。

 

カグツチ信仰はあったのかなかったのか

 カグツチを祀る神社としては、秋葉社がよく知られている。
 ただ、秋葉信仰の発祥と変遷はよく分からない部分も多い。静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社(web)が総本山ということになっているものの、そこに至る経緯は複雑なので、ここでは省略する(詳しくは秋葉権現(アキバゴンゲン)のページで)。
 もともと秋葉山に対する山岳信仰があって、奈良時代以降に修験道とあわさって秋葉信仰となっていったというのが大まかな流れとして考えられる。
 秋葉山本宮秋葉神社の社伝では創建を709年としており、行基が718年に秋葉山を開いたという伝承もある。
 古いといえば古いのだけど、新しいといえば新しい。何しろイザナギ・イザナミやカグツチの話は紀元前660年の神武天皇即位よりもずっと前のことだから、カグツチ信仰が古くからあったとすれば、少なくとも弥生時代までは遡らないといけない。
 700年代初期といえば、『古事記』や『日本書紀』が編纂されていた時期で、その頃歴史をもう一度見直そうという気運が盛り上がっていただろうから、その中でカグツチが”再発見”される形で祭り上げられるようになったのではないかと推測する。
 考えてみるとカグツチを火の神として祀るのはおかしな話なのだ。秋葉信仰ではカグツチを火伏せ、火除けの神としているけど、カグツチは火の象徴そのもので、母のイザナギを火によって死なせる結果になっていて、全然火を防いでなどいない。
 むしろ、火の祟りを起こす祟り神としてカグツチを祀らないといけない。もしかすると最初はそういう意識の方が強かったのかもしれない。
 イザナギに斬られてバラバラにされたという伝承からしても、祟る理由としては充分だ。
 怨霊信仰が一般化するのは平安時代以降とされるけど、日本人はそれ以前から祟りを恐れて神として祀ることで自分たちの守り神にしようという思想があった。大国主(オオクニヌシ)を大々的に祀ったことなどはその典型例だ。
 そういうふうに考えれば、カグツチを祟り神として祀ったことは自然なことに思える。
 では、秋葉社よりももっと古いカグツチの神社があるのではないかということになる。

 東日本の秋葉信仰に対して西日本には愛宕信仰がある。京都府京都市右京区の愛宕山にある愛宕神社(あたごじんじゃ/web)が総本社とされる。
 こちらは秋葉山より少し早い大宝年間(701-704年)に、役小角(えんのおづぬ)と白山の開祖の泰澄(たいちょう)によって愛宕山の朝日峰に神廟を建てたのが始まりとされる。
 全国の愛宕神社ではカグツチの別名とされる火産霊命(ホムスビ/『日本書紀』一書第三)を主祭神とするところが多いのだけど、京都の愛宕神社は火産霊命を入れておらず、祭神はこうなっている。
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
埴山姫神(ハニヤマヒメノミコト)
天熊人命(アメノクマヒトノミコト)
稚産霊神(ワクムスビノカミ)
豊受姫命(トヨウケビメノミコト)
 愛宕神社も中世の修験習合と明治の神仏分離令を経ているので祭神は途中で変わっているはずだけど、この顔ぶれをみるとカグツチの関係者だということが分かる。
 母のイザナミ、妻のハニヤマヒメ、子供のワクムスビ、孫のトヨウケで、肝心のカグツチだけが抜けている。
 天熊人がいつ入ったのか分からないのだけど、ウケモチがツクヨミに殺されて、アマテラスが様子を見に行くように派遣されたのが天熊人だ(『日本書紀』)。
 カグツチは最初からいなかったのか、途中のどこかで抜けてしまったのか。

 秋葉社、愛宕神社より古いカグツチ信仰の神社を知らないのだけど、名古屋に気になる神社がある。
 今は熱田神宮web)の境内となっている日割御子神社(ひさきみこ-じんじゃ)だ。
 現在の祭神は天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)となっているものの、古くから火の神を祀るという伝承があった。

 熱田の熱は古くは以下の様に表記した。

 生丸
  火

 丸に火が生まれると読み解くことができる。
 熱田社社家の尾張氏の祖は天火明命(アメノホアカリ)で、熱田の元地とされる大高はかつて火高、火上の里と呼ばれ、宮簀媛(ミヤズヒメ)の館は火上山にあったともいう。
 日割御子の日割も火割または火崎、火先などだったとすれば、火神を祀る神社だった可能性は高まる。
 日割御子神社は一説では熱田社よりも古いとされ、平安時代までには熱田社に取り込まれる格好になっていた。
 924年の『延喜式』神名帳では「愛智郡日割御子神社 名神大」となっており、霊験あらたかな官社とされていたことが分かる。
 こ神社がもともとカグツチを祀っていたとはいえないまでも、火神に対する何らの信仰があったということは言えるのではないかと思う。
 それはもしかすると炎の火ではなく別の意味の火かもしれない。アメノホアカリの火明が必ずしも火を意味していないのと同じだ。

 名古屋市内にはもう一社、火にまつわる神社がある。北区の羊神社がそれだ。
 現在の祭神が火之迦具土神(カグツチ)になっているというだけでなく、古い火神信仰が見え隠れする。
 ここも延喜式内社で、その当時から”羊神社”として載っている。
 神社のある辻村は、古くは火辻村だったのを嫌って辻村に改めたという話が伝わっている。
 その真偽は定かではないのだけど、火に関係する何らかの出来事があって、こういった伝承や神社が生まれたということはいえそうだ。

 

”カグ”とは何か?

 カグツチの名前について、あらためて一覧を作ってみると以下のようになる。

『古事記』
火之夜藝速男神(ヤギハヤオ)
火之炫毘古神(カガヒコ)
火之迦具土神(カグツチ)

『日本書紀』
軻遇突智(カグツチ)
火産靈(ホムスビ)

『先代旧事本紀』
火産霊迦具突智(カグツチ)
火焼速男命神(ヤキハヤオ)
火火焼炭神(ヤケズミ)

 ひとつ注目点としては、”天”(アメ)の一族とはされていないということだ。
 出自からすれば、天軻遇突智でもよさそうなのにそうはなっていない。
 あと、名前に統一感がないのが引っかかる。
 ”神”がついたりつかなかったり、古事記は”命”としていて、『日本書紀』は産霊とムスヒの神としている。
 産霊は高皇産霊尊(タカミムスビ)や神皇産霊尊(カミムスビ)系統の名前だ。
 これらは本当に同一人物の別名なのだろうか?
 もしかすると、カグツチというのはある種の象徴名でしかないのではないか?

 一般的な解釈としては、カグはほのかに光る”かがよふ”という意味で、ツチは助詞の”ツ”(現代の”の”)と神霊の”チ”のことだとされる。
 ただ、こういった後世の学者たちが考え出した解釈を私は信じていない。
 そもそも人の名前はそんなふうに付けないし、歴史書の中で記す神名は文字通りの意味と象徴的な意味の両方を込めるに違いないから、字の上っ面の意味だけで理解したような気になるの間違いだ。
 もちろん、その多くが本名ではない。アマテラスやオオクニヌシ、ヤマトタケルなどがそうであるように、呼び名のようなものと考えた方がいいのではないかと思う。

 まず、火は”火”一族、もしくは土地を意味すると考えていいだろう。
 ホアカリがそうであるように、ヒではなくホと読むべきで、ホさんのところのカクといったところだろうか。
 カグツチは本来、カクチチだという話を聞いている。
 これを分解すると、”カク”+”チチ”となる。
 チチを単純に父とするのは間違いかもしれないけど、ホさん一族のカクのお父さんと解釈することもできる。
 夜藝速男(ヤギハヤオ)や炫毘古(カガヒコ)が名前かもしれないし、それらは別人かもしれない。
 鍵を握るのは”カク”が何を意味しているのかだけど、分からないとしか言いようがない。
 カクはカカセオのカカと通じるのか通じないのか。
 天香山命(アメノカグヤマ)や、かぐや姫の”カグ”と共通するのか。
 カカの同義語だとすると、チチカカ湖を連想する。チチは父でカカは母を意味するのかとも。

 

カグツチは血肉を分けた

 カグツチは斬られて血と体からそれぞれ神が生まれたと神話は伝える。それは文字通りではなく比喩的な意味での言い回しだったらどうだろう。
 カグツチは血肉から生まれた神々の父であり母であると取ることもできる。
 血を分けた兄弟とか、血筋とか、血となり肉となるといった血にまつわる慣用句は多い。
 カグツチの物語からそれらを引き出すことができる。
 カグツチは決してかわいそうな子供ではないと私は思っている。

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