継体天皇がいたのは三国か近淡海国か
第26代継体天皇の長子で、第27代天皇。 『古事記』、『日本書紀』によると、第25代武烈天皇に皇子がいなかったので、応神天皇の五世孫の衰本杼命/男大迹天皇が継いで即位したという(継体天皇)。 『古事記』は近淡海国(滋賀県)から来てもらったと書き、『日本書紀』は三国坂中井(福井県)で生まれ、父の彦主人王が若くして亡くなったため、母の振媛は故郷に帰って勾大兄(安閑)を生み、越前国坂井郡高向郷で育ち、そこから迎えられたと書いている。 その前に丹波国桑田郡(京都府)にいた仲哀天皇の五世孫の倭彦王(ヤマトヒコ)を迎えようとしたら山に逃げてしまったという話が挟まれる。 男大迹(継体)もなかなかその申し出を受け入れず、ようやく承諾したものの、大和入りまでは20年かかったと『日本書紀』はいう。 即位後に第24代仁賢天皇の子の手白髪命/手白香皇女(タシラカ)を皇后とし、天国押波流岐廣庭命/天国排開廣庭尊が生まれる。これが第29代欽明天皇として即位するのだけど、その前に尾張の目子媛との間に生まれた安閑・宣化の兄弟が天皇となる。
『真清探當證』を偽書と片づけてしまっていいのか?
『真清探當證』という史料がある。継体天皇引き継ぎの前日譚ともいえるものなのだけど、一般にはあまり知られていない。 愛知県一宮市に伝わる秘史といったもので、『古事記』、『日本書紀』とは別の物語がそこには書かれている。 『日本書紀』によると、大泊瀬皇子(第21代雄略天皇)は自ら即位するために有力な皇子を次々に殺していく。そのうちのひとりだった市辺押磐皇子(イチベノオシハ)も殺され、その息子である億計王(ヲケ)と弘計王(オケ)は難を逃れて播磨国明石郡ならびに美嚢郡(みのうぐん)に隠れ住んでいたところ、皇子のいなかった第22代清寧天皇(雄略天皇の皇子)に見出され、その後、第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇として即位したといっている。 しかし、『真清探當證』によると、億計王と弘計王が逃れたのは播磨国ではなく尾張国で、一宮の黒田大神(真清田神社/web)の神主だった葦田宿禰(アシダノスクネ/武内宿禰の孫)を頼って彦主人(ヒコウシ)と供に隠れ住んだというのだ(『日本書紀』は彦主人を継体天皇の父といっている)。 作り話にしては信憑性があるというか、この話の通りだとするといろいろ辻褄が合うことは確かで、一宮市には億計王と弘計王にまつわる伝承地がいくつか残されてもいる。 この書によると、継体天皇は弟の弘計王(顕宗天皇)の子で、幼い頃に根尾村(岐阜県本巣郡)に預けられて育ったことになっていて、世代的にいうと、記紀がいう応神天皇の五世孫というのに合致する。 記紀が何の根拠もなく応神の五世孫と書くとは思えない。けれど、それ以上詳しく書けなかったということに何か秘密があると考えるべきだ。詳しく書くとボロが出るから書けなかったのではないか。 もしこの書の通り、継体天皇が顕宗天皇の子であれば、血筋的にはまったく問題ない直系ということになる。顕宗天皇・仁賢天皇の父の市辺押磐は第17代履中天皇の子で、履中天皇の父は第16代仁徳天皇だ。 そもそも継体天皇が本当に傍流だとしたら即位できたとは思えないし、継体天皇と妃の目子郎女/目子媛との間の安閑天皇・宣化天皇が皇后との間の子の欽明天皇を差しおいて先に即位できたことも説明がつかない。 目子郎女/目子媛は『古事記』では尾張連の祖の凡連(おほしのむらじ)の妹、『日本書紀』は尾張連草香(クサカ)の娘となっている。ふたりの子供が逃げ延びて頼った黒田大神というのは真清田神社のことで、真清田神社は尾張国の一宮だ。 いずれにしても、ふたりの皇子は尾張国や尾張氏と何らかの関わりがあったに違いない。母系社会だった当時、子供は母方の一族が育てることになっていたから、逃げのびるといったことがなかったとしても尾張で育った可能性は充分考えられる。 異母弟の欽明天皇の母で継体天皇皇后の手白香皇女(たしらか)は仁賢天皇の皇女で、第25代武烈天皇の姉に当たる。 欽明天皇の子の敏達・用明・推古・崇峻がそれぞれ即位し、敏達から一代飛んで舒明天皇、その後の第39代天智天皇、第40代天武天皇と続いていくので、現在まで続く天皇の血筋は継体天皇が起点となっている。 こうして見ても、継体天皇は応神天皇から続く直系と考えた方が無理がない。王朝交替などというものもなかったはずだ。 ではどうして億計王・弘計王の出自を誤魔化さなければならなかったかといえば、鍵は天武天皇とその皇后で第41代天皇の持統天皇が握っている。この二人がやったことの辻褄を合わせるためにさかのぼって歴史を操作する必要があったということではないかと個人的には考えている。 そのあたりはここでは書ききれないのだけど、『真清探當證』はなかなか興味深い史料でおすすめしたい。
『古事記』は継体天皇崩御を43歳といっている
継体天皇は多くの妃を持ち、子供は19人(男子7人、女子12人)いたと『古事記』にある。 子の安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇の和風諡号はそれぞれ広国排武金日尊、武小廣国排盾尊、天国排開廣庭尊で、いずれも国を押し広げるといったイメージだ。この時代に天皇の支配勢力を拡げていったということだろうか。 安閑天皇が多くの屯倉(直轄地)を置いたのもその表れだろう。 継体天皇の子のひとり、佐佐宜王は伊勢の神宮(web)に仕えたとしている(『古事記』)。 継体天皇は43歳で崩御したというから天皇としては短命だ。
安閑・宣化はどうして即位できたのか
安閑天皇はは勾の金箸宮/勾金橋(かなはしのみや/奈良県橿原市)で天下を治めたと記紀は書く。 『古事記』は推古天皇までで、このあたりからは略歴のような記述になっていてひとりの天皇についての記事がごく短い。 安閑天皇については子供がいなくて陵は河内の古市の高屋村(大阪府羽曳野市)にあるというだけで、崩御した年齢も書いていない。 宣化天皇については崩御の年齢も陵の場所も書かれていない。宮はヒノクマの廬入野宮(いほりのみや/奈良県高市郡明日香村)だったとする。 安閑天皇に子がいなかったため、弟の宣化天皇が即位することになった。 しかし、宣化天皇の3人の皇子が即位することはなく、異母弟の欽明天皇が即位した。そのあたりの事情については書かれていない。初めから欽明天皇が既定路線だとしたら、どうして直接つながなかったのか。安閑はともかく、宣化まで間に挟む必要があっただろうか。
継体天皇から安閑天皇への引き継ぎの不自然さ
『日本書紀』は安閑天皇即位前後のいきさつや即位後の事蹟についてもそれなりに詳しく書いている。 『古事記』との違いで気になるのは、『古事記』は継体天皇は43歳で崩御したといっているのに対して『日本書紀』では82歳で崩御としている点だ。崩御したのは即位25年といっている。 このあたりはいろいろ混乱があって、別伝によると崩御したのは即位28年とも書いている。即位25年に崩御とすると次の安閑天皇即位までに2年間の空白ができてしまうのでおかしい。 即位25年崩御としたのは『百済本記』に書かれた内容と合わせるためだっただろうか。即位28年崩御とした方が無理はない。 『日本書紀』は、継体天皇が即位25年の春2月に病気が重くなり、勾大兄廣国押武金日天皇(安閑天皇)に譲位して、その日に崩御したと書く。それが2月7日だという。つまり、安閑天皇の即位と継体天皇の崩御は同じ日の出来事だったということになる。 そうなるとやはり即位25年崩御というのは辻褄が合わない。 あと、安閑天皇は即位1年の春正月に都を大倭国の勾金橋に移したという記事があり、これをどう捉えればいいのか混乱する。即位したのは2月のはずなのに、即位1年の1月に都を移したというのはあり得ない。
皇后・春日山田皇女が鍵を握る
安閑天皇の人となりについて『日本書紀』は、器が大きすぎて底が知れないほどで天皇としての器量に申し分ないといったようなことを書いている。 即位後は、継体天皇時代の重臣だった大伴大連と物部麁鹿火大連(もののけのあらかび)を引き続き重用したとある。 大伴大連は大伴金村のことで、これは継体天皇即位を主導した二人で、これに大臣の許勢男人(こせのおひと)が加わっていた(許勢男人は安閑天皇即位前に死去している)。 安閑天皇の皇后に選ばれたのは、仁賢天皇の娘の春日山田皇女(かすがのやまだ/山田赤見皇女)で、妃として勢男人大臣の娘の紗手媛と香々有媛、物部木蓮子大連の娘の宅媛をめとったという。 春日山田皇女の母親は和珥臣日爪の女の和珥糠君娘で、尾張国の山田郡と春日郡(春部郡)との関わりが考えられる。もしかするとふたつの郷名は、この春日山田皇女から来ているかもしれない。 この皇后が後に鍵を握ることになる。
即位3年70歳で崩御
『日本書紀』は即位2年の冬12月17日に安閑天皇は勾金橋宮で崩御したと書いているので、(『古事記』には乙卯年(535年)3月13日に崩じたとある)在位期間は3年弱ということになる。その時の年齢が70歳だったというのを信じていいのかどうか。 父の継体天皇が死去したのが82歳のときで、その年に即位して3年後に70歳で崩御したとなると、即位したのは67歳のときということになり、継体天皇の15歳くらいのときの子供ということになる。なくはないけど、そもそもどうしてそんな高齢で即位したのかという疑問を抱く。更にこの後、皇后との皇子である欽明天皇へ行かず、同じく高齢の宣化天皇が即位したのは何故なのか。 宣化天皇も即位4年に73歳で崩御したとあるから、即位したのは70歳近くだったことになる。 子供について記紀には書かれていないのだけど、室町時代の1426年に後小松上皇の勅命によって成立した『本朝皇胤紹運録』(天皇・皇室の系図)には豊彦王が書かれている。 この豊彦王の正体についてはいくつか説がある中で、秦河勝のことという話がある。 秦氏といえば、6世紀頃に倭国にやって来た渡来人集団で、秦の始皇帝の末裔を称していたとされる人々だ。秦河勝は聖徳太子のブレーンだったことでよく知られている。 用明天皇、崇峻天皇、推古天皇に仕えたとされ、これらは欽明天皇の子供たちなので、世代的には合う。 ただ、安閑天皇に豊彦王という子がいたという史料は他に見つかっていないため、詳細は不明としか言いようがない。もし本当であれば、『日本書紀』が書けなかった理由があるはずだ。 安閑天皇は勾金橋宮で崩御した後、河内の旧市高屋丘陵(大阪府羽曳野市)に葬られ、皇后の春日山田皇女と天皇の妹の神前皇女もこの陵にあわせて葬ったといっている。 これもかなり不自然な話で、どうして陵を大和ではなく河内にしたのか。 春日山田皇女と神前皇女がいつ亡くなったかは書かれていないのだけど、天皇陵に皇后だけでなく妹も合葬するのもおかしなことだ。何か事件性を感じさせる。もしくは匂わせている。 春日山田皇女に関しては、宣化天皇が崩御した後、欽明天皇が即位する前に即位するように勧められたという記事があるので、安閑天皇と同時に亡くなったのではなさそうだ。 結局、春日山田皇女は即位を辞退するのだけど、即位云々の話が出たことを『日本書紀』があえて書いた理由は何だったのだろう。
屯倉を大量設置
安閑天皇在位中の事蹟については、各地に屯倉(天皇の直轄地)を置いたという記事が目立つ。 自分には跡取りがいないので皇后や妃が困らないようにするためにそうしたというのだけど、やり方が少々乱暴でいざこざが起きている。何かをした償いとして自ら屯倉を献上したとも書かれており、土地を差し出すことで罪が許されるといった約束事みたいなものがあったのかもしれない。 記事全体のニュアンスとして、各地の豪族たちは安閑天皇をどこか軽んじていたようだ。土地を差し出すように言われて抵抗している。それはそうなのだろうけど、それに対して安閑天皇は半ば強引に召し上げたりしている。 在位後半は関東から九州まで屯倉を一気に増やしている。豪族側が屈したのか、天皇の権威が高まったためか。 それと、各地に犬飼部を置いたともある。屯倉の番犬を飼う専門の職業集団を作ったというのが一般的な解釈なのだけど、もっと別の意味があったように思う。犬は動物の犬ではないかもしれない。
宣化天皇は穏やかな天皇?
弟の宣化天皇は、わりと穏やかな人物だったようで、兄とは違う性格の天皇として描かれている。 事蹟について書かれていることは少ない。 政治体制としては、大伴金村と物部麁鹿火が引き続き大連で、蘇我稲目宿禰が大臣、安倍大麻呂臣が大夫となったようだ。このあたりから蘇我氏がにわかに力を持ち始めてくる。
安閑天皇と蔵王権現の習合
安閑天皇が蔵王権現と習合したいきさつや理由についてはよく分かっていない。 蔵王権現は大和吉野の金峯山で役小角(役行者)が感得したとされる日本特有の神だ。インドや中国から伝わった仏ではない。後に修験道の本尊とされ、金峯山寺(web)などで祀られた。 安閑天皇の名の広国押建金日王の”金日”からの連想で習合したという説もあるのだけど、江戸初期の学者・林羅山が書いた『本朝神社考』に安閑天皇の崩御4年後に金峯山に現れた蔵王権現が自ら吾は廣国押建金日命なりと名乗ったという話があり、そこから広がったと考えられる。 現在、安閑天皇を祀るとする神社は、江戸時代まで神仏習合の蔵王権現を祀っていたところが明治の神仏分離令を受けて祭神を安閑天皇としたところが多い。 ただ、修験者の間では蔵王権現イコール安閑天皇という意識が早くからできあがっていたとも考えられる。八幡神イコール応神天皇のような図式が中世以降にはあったのではないか。 年代でいえば、安閑天皇は5世紀の天皇で、役小角は7世紀末の人だから、蔵王権現より安閑天皇方が先で、最初から安閑天皇が蔵王権現として示現したとも考えられる。権現というのは仏が仮の姿で現れることをいうから、安閑天皇自身が仏の仮の姿という言い方もできる。 安閑天皇陵に春日山田皇女と神前皇女をあわせて葬ったのは、この三人をあわせることで何か呪術的なことを施すという意図があったのかもしれない。
安閑天皇を祀る名古屋の神社
名古屋で安閑天皇を祀る神社に、天白区の中山神社がある。 祭神名は広国押武金日命となっている。 天白公園の敷地は古くから針名神社の敷地で、そこにあった社に中山神社の御札があったので、あらためて中山神社として創建したのが平成13年という。 中山神社といえば、岐阜県恵那郡にある中山神社が古い。 宣化天皇時代の539年に大和国吉野郡の金峯神社から勧請して建てられたと伝わる。天白の社は、そこから勧請したものだろうか。 東区の片山神社は、古くは蔵王権現社と呼ばれており、蔵王権現、安閑天皇、国狭槌命を祀っている。 ここは役小角が創建したともされる神社で、式内社でもある(実際の片山神社は片山八幡神社かもしれない)。
どうして”安閑”とされたのか
それにしても、淡海三船はどうして”安閑”などという漢風諡号をつけたのだろう。『日本書紀』を読む限り、安閑といった印象はまったく受けない。安閑という言葉が奈良時代と現代であまり違わないものであれば、安らかで静かとか、危機に対してぼんやりしているといった意味だ。 あるいは、混迷の時代に生きた天皇だったからこそ、あえて”安閑”という諡号を贈ったのだろうか。 安閑天皇はほとんどノーマークの天皇だったけど、尾張の隠された歴史の鍵を握るキーパーソンのひとりのようにも思える。
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