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ゴズテンノウ《牛頭天王》

ゴズテンノウ《牛頭天王》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 武塔天神、須佐之男、祇園神、天道神、天刑星、など
祭神名 牛頭天王(素戔嗚尊/須佐之男命)
系譜 不明
属性 祇園精舎の守護神、疫病除け
後裔  
祀られている神社(全国) 八坂神社、廣峰神社、津島神社、など
祀られている神社(名古屋) 天王社、など

牛頭天王はメジャーなのかマイナーなのか?

 牛頭天王という存在が現代の日本でどの程度メジャーなのかはよく分からない。神道や神社に興味がある人なら素戔嗚尊/須佐之男尊スサノオ《素戔男尊》(スサノオ)と習合した日本の神で江戸時代までは非常に人気のある神様だったというくらいの知識はあるんじゃないかと思う。しかし、それ以上詳しく説明できる人は稀だろう。この神様が中世以降、熱狂的に民衆に支持されるようになった経緯というのは実はよく分かっていない。

牛頭天王が先か須佐之男が先か

 まず牛頭天王が先か、須佐之男が先か、という問題がある。
 明治の神仏判然令(神仏分離令)によってそれまで牛頭天王を祀る天王社は須佐之命を祀る神社となったところが多い。天皇を中心とした国作りをしていく中で、「テンノウ」の名を持つ牛頭天王の存在は邪魔でしかなかった。
「中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事」と、権現と牛頭天王は名指しで改めるよう命じられた。
 このことから、牛頭天王の信仰が先にあって須佐之男は明治以降に牛頭天王の代わりとして祀られるようになったと考えている人も少なくないだろうけど、話はそれほど単純ではない。言うまでもなく、須佐之男というのは『古事記』、『日本書紀』に描かれた有名なヒーローで、古代から信仰対象となっていた。それに対して牛頭天王は早くても仏教伝来以降の神だから、須佐之男の方が当然先ということになる。
 では何故、須佐之男と牛頭天王が習合したかということだ。

出自も正体も不明の日本の神

 牛頭天王はいつどこからやって来てどういう経緯で信仰されるようになったのかよく分からない。
 一般的には釈迦ゆかりの祇園精舎の守護神とされるも、インドや中国で牛頭天王やそれに類する神が信仰された形跡はない。だから、インドや中国から入ってきた神ではないということになる。
 では、日本で自然発生的に生まれた神かといえばそうともいえない。ぼんやりと新羅の影が見え隠れする。
『日本書紀』神代巻の一書(あるふみ)に、素戔嗚尊(須佐之男)が高天原を追放された後、新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に降臨したものの、ここにはいたくないといって出雲国に渡ったという話が書かれている。本文ではないのでそういう一伝承があったということだろうけど、旧朝鮮語でソシモリ/ソシマリ/ソモリは牛頭または牛首を意味し、牛頭の名のつく山や島があったから、そこから牛頭天王と須佐之男が習合したという説がある。
 ただし、この説はあまり支持されていない。
 牛頭天王の表記は、「法華経」や「華厳経」などの経文にある牛頭栴檀(ごずせんだん/ゴーシールシャ・チャンダナ)から来ているのではないかという説が有力視されている。
 牛頭栴檀は南インドのヒマラヤ山脈の牛頭と呼ばれる山に生える香木から精製した香料のことという。

牛頭天王に関する中世縁起

 牛頭天王を祀る総本社は、京都の八坂神社(web)だ。
 牛頭天王が祇園精舎の守護神とされたことから、古くは祇園社または感神院と称していた。
 八坂神社社伝によると、創祀は奈良時代以前に遡るという。
 実際の創祀、創建のいきさつはよく分かっていないようで、中世以降にいくつかの縁起が作られた(中世縁起)。
 その中のひとつによると、第37代斉明天皇2年(656年)に、高句麗の使いの伊利之使主(イリシオミ)が来朝した際、新羅国の牛頭山に祀られていた須佐之男を祀ったのが始まりという。
 何故、高句麗の使者が新羅の山に祀られる須佐之男を日本で祀らなければならなかったのかが不明だ。この当時、宮は飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村)にあり、山城国(京都)に都が置かれるのは後の時代だ。山城には渡来系の氏族が多く住んでいたからその関係だろうか。
 この時代は朝鮮半島で高句麗、百済、新羅が争っていた時期で、それぞれの使者が日本にたくさんやって来ていた。660年には唐と新羅によって百済が滅亡し、百済の難民が大量に日本に入ってきた。百済復興のため軍を派遣して大敗した白村江の戦いは663年だ。その2年前の661年に斉明天皇は崩御している。
 このあたりの経緯も後に編さんされる『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の須佐之男の記述に何らかの影響を与えたと見るべきだろう。
 ただし、勘違いしてはいけないのは、渡来人がすべて朝鮮人や大陸人ではない、ということだ。任那(みまな/にんな)があった頃は朝鮮半島の南部は半ば日本と一体化しており、百済が滅亡するまでは百済などにも大勢の日本人がいた。どうして日本が唐・新羅と戦ってまで百済を守ろうとしたかといえば、そこが半分日本だったからと考えるのが自然だ。そうでなければ国を挙げて外国を守る必然性がない。
 間違えやすいのが渡来人と帰化人の区別だ。渡来人は国外からやってきた外国人のことで、帰化人は国外に暮らしていた日本人が日本に戻ってくることをいう。百済人、新羅人といっても、それはほとんどが在朝日本人だったはずだ。だから、たとえ新羅から須佐之男もしくは牛頭天王の信仰が持ち込まれたとしても、それは必ずしも外国の神や信仰ということではないということを認識する必要がある。

廣峯社側の縁起

 牛頭天王が最初に現れたのは播磨国明石浦(兵庫県明石市)だったという縁起もある。その縁起では、明石浦の後、廣峯(兵庫県姫路市)に移り、さらに京都東山の白川東光寺に移って、第57代陽成天皇の貞観18年(876年)に東山の麓に堂宇を建て、元慶年間(877-885年)に東山の感神院に移ったとしている。
 そのため、廣峯神社(web)は牛頭天王の総本社を称している。
 しかし、平安時代の文献に広峯社は登場せず、東光寺の建立以前に祇園の名称が使われていることなどから、この縁起を否定する説もある。
 一方、『播磨鑑』によると、第10代崇神天皇の時代に廣峯山に神を祀ったが始まりで、遣唐使として唐に渡った吉備真備が帰国後にこの地を通った際、神威を感じたため第45代聖武天皇に報告したところ、天皇の勅命で白幣山に社を建てられたという(734年)。
 その地は新羅系の人たちが多く住む国邑があり、その社は新羅社とも呼ばれていたというから、やはりここでも新羅が絡んでくる。
 祇園社はもともとは単に天神または祇園天神といっていたことから、牛頭天王を祀るようになるのは鎌倉時代以降ともされる。平安時代に流行った御霊信仰と牛頭天王が結びついて祇園神は牛頭天王と考えられるようになっていったようだ。
 863年に神泉苑で御霊会が行われ、上御霊神社(web)、下御霊神社(web)が創建され、平安時代末期にかけて祇園社でも疫病神を鎮めるための祭りが行われるようになった。これが今に続く祇園祭の起源だ。
 八坂社の名前は、伊利之使主の子孫が八坂造の姓を賜ったことから来ているともいう。

津島神社は対馬から持ち込まれたのか?

 牛頭天王を祀る天王社のもうひとつの総本社に、愛知県津島市の津島神社(web)がある。
 津島神社社伝によると、須佐之男が朝鮮から日本に渡ったとき、荒魂は出雲国に鎮まり、和魂は対馬(旧・津島)に鎮まったといい、それは第7代孝霊天皇(前245年?)のときとする。
 その後、第29代欽明天皇時代の540年に現在地の近くに移り、810年に現在の場所に遷座した際、第52代嵯峨天皇に正一位の神階と”日本総社”の称号を贈られ、正暦年間(990-994年)に第66代一条天皇より”天王社”の号を賜ったとされる。
 しかしながら、『延喜式』神名帳(927年)には載っておらず、国史にも見られない。史料の初出は1175年の七寺蔵の大般若経の奥書が最初とされる。
 そのため、実際の創建はそれほど古くないという説もあるのだけど、何の根拠もなく天皇の名前を出して「日本総社」や「天王社号」を賜ったと主張するとも思えない。縁起書をそのまま信じるわけにはいかないにしても、古くから須佐之男または牛頭天王を祀る社だったというのは本当だろう。
『延喜式』神名帳に載る尾張國海部郡國玉神社が津島神社のことと考えると無理がないと個人的には思っている(津島神社摂社の彌五郎殿社も論社のひとつ)。
 あるいは、祇園社同様、平安時代には仏教色の強い神社ということで外された可能性もある。
『尾張国内神名帳』には載っている本と載っていない本があり、元亀本などには正一位上津嶋牛頭天王とある。
 國魂神社=津島神社の根拠として、長崎県対馬に島大國魂神社があり、そこで須佐之男を祀っているというのがある。
 ここで祀るもう一柱の天之狭手依比売は伊邪那岐・伊邪那美が国生みで生んだ津島(対馬)の別名だ。
 現在は一緒に祀られている那祖師神社では素戔嗚尊と曽尸茂梨が祀られていることからも、やはり新羅との関係が考えられる。
 対馬から尾張国へ移ってきた一団が故郷の島大國魂神社の分霊を祀ったのが津島神社の始まりだったかもしれない。

武塔天神=牛頭天王?

 牛頭天王は武塔天神とも習合した。
 鎌倉時代後期に成立した『釈日本紀』(卜部兼方)に引用された『備後国風土記』(逸文)に武塔天神と蘇民将来・巨旦将来兄弟の話が出てくる。
 武塔神は妻を探す旅の途中で宿を借りようと土地の長者の巨旦将来を訪ねると断られてしまう。その弟の蘇民将来にお願いしたところ貧しい暮らしにもかかわらず親切に泊めてくれたため、自分の正体は速須佐雄能神(スサノオ)だと明かし、今後疫病が流行ったときは茅の輪を付けていると災難を逃れることができると教えたといった話だ。
 この話が後に祇園社に取り入れられて、疫病除けの神は武塔神=須佐之男=牛頭天王となっていった。
 陰陽師が蘇民将来の護符を配って歩いたともされ、この信仰は全国に広まった。同時に茅の輪は茅の輪くぐりという神事となり、夏の大祓の祀りで行われるようになっていった。
「蘇民将来子孫家門」の札がかかった注連縄飾りの風習が伊勢二見地方にもある。
 その他、仏教において牛頭天王は薬師如来の垂迹とされ、陰陽道では天道神(天刑星)と同一視された。

明治以降禁じられた神

 最初に書いたように、明治の神仏判然令によって神社で牛頭天王を祀ることは禁じられた。
 感神院祇園社(天台宗)は廃寺となり、須佐之男を祀る八坂神社に変えさせられた。
 津島牛頭天王社と称して牛頭天王を祀っていた津島社も津島神社として須佐之男を祀ることになった。
 各地の小さな天王社や天王祠などもそれに倣うこととなる。
 それでも少数ながら牛頭天王を祀る寺がいくつか残っている。愛知県にもあるのかどうか、私は知らない。
 名古屋の例でいうと、天王社を称するところが実はけっこうたくさんある。10や20どころではなくもっとたくさんあり、特に守山区に多い。他の神社の境内に移されたものを含めれば守山区だけで20社くらいあるのではないかと思う。
 それらの多くは津島神社から御札をいただいてきて祀っているのだけど、気持ちの中ではまだ牛頭天王が生きているのかもしれない。

名古屋の天王信仰について

 名古屋で古くから須佐之男を祀る神社としては、中区の洲嵜神社がある。
 この地で古くから祀られていた石神があり、その石神の導きで出雲国から須佐之男がやって来てこの地に鎮まったという伝承を持つ神社だ。
 ここは名古屋でもかなり古い神社のひとつで、『延喜式』神名帳(927年)には載っていないものの、『尾張国内神名帳』にある愛智郡従一位素戔鳥名神(正二位上須佐雄名神)のことではないかと個人的には考えている。
 ただ、『尾張国内神名帳』の愛智郡の神社の並びを見ると、熱田皇大神宮と高蔵名神、今彦名神、日割名神、乙子名神、八劔名神、青衾名神、氷上名神、日長名神、千竈上名神、千竈下名神といった神社に挟まれているので、熱田社関連の神社の可能性が高いから、中区栄では地理的に合わないかもしれない。洲嵜神社があるのは熱田台地の中央部西端に当たる。熱田は熱田台地の南だ。
 熱田台地でいうと、北端近くにあった天王社の存在が気になる。これは紆余曲折を経て現在は那古野神社となっているのだけど、平安時代中期の911年に第60代醍醐天皇の勅命によって建てられたと伝わる古い神社だ。平安時代の天王社だから牛頭天王を祀っていたのだろうけど、須佐之男の意識もあっただろうか。近くには八王子社もあった。

やはり正体不明の神

 あらためて牛頭天王とは何かを考えてみたい。
 牛の頭というのは文字通りの意味なのか、それとも”ゴズ”という音に字を当てはめただけなのか、音と字の両方にかかっているのか。
 動物の牛が日本にいつ入ってきたかは定かではないのだけど、中国経由だったと考えられており、日本原産ではない。古墳から牛を象った埴輪が見つかっていることからそれ以前にはすでに入ってきたと考えてよさそうだ。
 ただ、牛を祭祀に使ったといった記録や記事はないことから、それほど一般的な存在ではなかっただろうか。
 丑も入っている十二支が日本に伝わったのは仏教伝来頃というけど、もっと早かったかもしれない。
 いずれにしても牛の頭を神として崇めるというのは日本らしくないように思える。牛には角が生えていることを考えると、西洋の神というイメージが強い。
 牛頭天王が外国から持ち込まれたとするならば、それはアジアではなくもっと西だったのではないか。たとえばユダヤとかエジプトなどだ。ヘブライ語でゴズは牛頭を意味するという説もある。祇園祭とイスラエルとの関係を主張する人もいる。
 個人的によく分からないと感じているのは、須佐之男信仰が明治以前はどうだったのかということだ。スサノオはその名前からすると、須佐の王だろう。ただ、須佐は本当に出雲国の地名なのだろうか。別の地の地名かもしれないし、別の意味かもしれない。
『出雲国風土記』における主役は所造天下大神(大穴持命)で、神須佐乃烏命(スサノオ)は地名由来のところで出てくるだけで存在感は薄い。スサノオは本当に出雲の神といえるだろうか?
 初めに牛頭天王が先か須佐之男が先かという問いかけをしたけど、その答えは今以てよく分からない。同一神の別名なのか、別々の神が習合したのかもはっきりしない。
 明治政府によって否定された牛頭天王だったけど、完全に消えたわけではなく、今も人々の心のどこかに残っているように思う。特に祇園社だった八坂神社や津島牛頭天王社だった津島神社にそれは色濃い。津島神社のお祭りは今も尾張津島天王祭だ。
 個人的なことをいえば、出自不明の牛頭天王に対するモヤモヤ感は今後も消えそうにない。

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