苦労続きの前半生
1542年、松平広忠(当時17歳)の嫡男として三河国岡崎城で生まれる。 母は水野忠政の娘の於大で、このとき15歳だった。 水野忠政は尾張国の知多郡に勢力を持つ武将で、1533年に三河国刈谷城を築城して尾張国と三河国の間で勢力を保っていた。 この頃の松平家は東の今川と西の織田に挟まれた弱小豪族で、とても危うい立場にあった。そのことで竹千代(後の家康)の前半生は大変な苦労をすることになる。 翌1543年、水野忠政が死去すると、家督を継いだ於大の兄・水野信元が今川から織田方に乗り換えたため、松平広忠は今川への義理立てもあったのだろう、於大を離縁して刈谷城に返してしまった。 この後、竹千代は今川へ人質として送られ、途中で織田方に奪われて尾張で幼少期の数年間を過ごすことになる。 1549年、織田と今川との間で人質交換が成立して竹千代は駿府へ送られた。この地で松平元信と改称し、1557年に今川義元の姪に当たる築山殿と結婚して正室に迎えた。 転機は1560年の桶狭間の戦いだ。若き元康は今川方として織田軍の合間を縫って大高城に兵糧を運び入れるという危険な任務をこなしている。ただし、実際の戦いには参加していない。 今川義元が討たれて今川軍が敗走すると、岡崎城に戻って独立。織田信長と和睦して西三河の領主となった。 1563年には家康と改名している。 1566年、三河国統一。 徳川を名乗るようになるのはこれ以降のことで、従五位下三河守にも任じられている。
家康出自の不確かさ
家康の出自についてははっきりしていない。秀吉は身分の低い百姓から出世して天下を取ったと言われるのだけど、家康の家も決して名門などではなく、悪く言えばよく分からない家系だ。 松平発祥の地とされるのが三河の松平郷で、現在は豊田市に編入されているものの、豊田駅がある中心部から車で20分ほど走った山地にその里はある。 (個人的にこの松平郷がとても好きで、初めて訪れたときにとても懐かしい気がして、その後何度も訪れている) その松平郷がいつ頃開かれたのかはよく分からない。かつての三河国加茂郡で、賀茂神社系の賀茂氏の末裔に当たる松平信盛という人物がこの地を開拓したのが始まりともいう。 賀茂神社(web/web)の神紋が葵紋(二葉葵)で、松平家が三つ葉葵を使っていることや、加茂郡という地名からすると賀茂氏が何らかの形で関わっているとは考えられる。 松平郷の祖という言われ方をするのが松平親氏で、松平郷へ行くと親氏の銅像が建っている。この人物が家康にとっても祖ということになる。 親氏は相模国の時宗総本山・清浄光寺(web)に入って出家して徳阿弥を名乗り、やがて父の長阿弥とともに松平郷に流れ着き、そのときの領主だった松平信重に気に入られて娘の婿となったという。 この松平親氏が松平城を建て、領地を広げたことから松平の祖と言われるようになったようだ。親氏の没年が1393年とされており、それは南北朝時代が終わった翌年に当たる。 親氏の家は、清和源氏新田氏の一族である世良田氏の末裔を称しており、得川氏ともいったことから家康は徳川を名乗ったという話がある。ただ、これは家康が三河守任官のためにねつ造した系図ともいわれ、信憑性は低いとされる。後に征夷大将軍となるときに、源氏の棟梁でなければ資格がないということでかなり無理矢理系図をつなげたということなのだろう。 実際に親氏を祖とするのであれば、親氏の氏素性が問題となるわけだけど、それが表に出せないのであれば、家康の出自も秀吉ほどではないにしてもかなり怪しいと言わざるを得ない。 家康が生まれた頃ですら三河国の弱小豪族だったから、尾張国守護代の織田家の奉行家でしかない信長の家よりも更に下ということになる。
家康後半生の生涯年表
1570年、本拠を岡崎城より引馬城へ移し、名を浜松とあらためた。 姉川の合戦に織田信長の援軍として参戦する。 1572年、三方ヶ原の戦いで武田信玄軍に大敗を喫して浜松に逃げ帰る。 1575年、信玄亡きあとを継いだ武田勝頼軍と長篠で織田軍とともに戦い勝利。 1579年、正室の築山殿を殺害。同じ年、嫡男の信康を切腹させている。 1582年、天目山で武田勝頼を破り、武田家が滅亡。後に家康は武田の有力家臣たちを味方勢力に引き入れることに成功する。 この年、本能寺の変が起こった。堺にいた家康は急いで岡崎城に戻った。この伊賀越えを助けたのが甲賀や伊賀の忍者たちだったという話がある。服部半蔵が付き従っていたのは確かなようだ。 1584年、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助けるという名目で小牧長久手の戦いに参加し、長久手の戦いで羽柴勢を破った。しかし、信雄が勝手に秀吉と和睦してしまったため、結果的には家康は秀吉に負けたような恰好になってしまった。 1586年、大坂城で秀吉の臣下となる。 本拠を浜松城から駿府城に移した。 1590年、北条氏滅亡を受け、秀吉に関東移封を命じられ、江戸城に入った。 1592年と1597年、秀吉朝鮮出兵。ただし、家康は朝鮮半島での戦いには参加していない。その理由には諸説ありはっきりしない。 1598年、秀吉死去。 1600年、関ヶ原の戦いにおいて石田三成方を破る。 1603年、征夷大将軍・右大臣となり、江戸に幕府を開く。 1605年、将軍職を三男の秀忠に譲る。これ以降、大御所と呼ばれる。 1606年、江戸城天守と本丸御殿が完成。 1612年、名古屋城築城。当初尾張藩主に予定していた四男・松平忠吉が死去したため、代わって九男の義直を尾張藩主ならびに名古屋城主とした。 1614年、大坂冬の陣。 1615年、大阪夏の陣で豊臣秀頼を倒し、豊臣家滅亡。 1616年、死去。73歳だった。
家康双子説と影武者交代説
家康影武者交代説や双子説というのはよく語られる。後年の作り話といえってしまえばそうなのだろうけど、それだけでは片づけられないような不可解な点がいくつかあることは確かだ。戦国武将だから影武者くらいは秀吉も信長もいただろうけど、秀吉や信長が途中で入れ替わったなどという話は聞かない。 双子だったというのは、なくはない話だと思う。かつて双子は獣腹といって忌み嫌われていた。人間はひとりずつ生まれるのが当たり前で同時に何人も生まれるのは獣と同じだといった考えがあったようだ。不吉の象徴ともされ、どちらか一方はどこかよそへやられるか、殺されるかしたという。 ただ、家康の場合は弱小とはいえ松平家の嫡男であり、そう簡単に始末するというわけにもいかなかっただろう。もし本当に双子だったとしたら、一方を密かに育てたということは充分に考えられる。 家康が幼少時代に今川と織田の人質になっていたというのは上でも書いたのだけど、同じ時期に松平郷にいたという伝承がある。現在、松平東照宮となっているところにかつて松平の屋敷があり、そこには竹千代産湯の井戸があったり、松平家の菩提寺となっている高月院で竹千代が学んだという話も伝わっている。 あまり知られていないのだけど、家康の20人以上いた子供のうち、3組までが双子だった。次男の秀康、三男の秀忠、六男の忠輝がそうだったという。ここまで双子が多いとなると、家康の家系は双子の遺伝子を持っていたといえるだろう。 家康の子の双子の片割れがどうなったかについては公には何も伝わっていない。 影武者説についてもいろいろあるのだけど、早いものでは桶狭間の戦いの後というのもあり、関ヶ原の戦いのときや大坂夏の陣のときというのもある。
その死から神になるまで
家康の死因について、鯛の天ぷらに当たって死んだというのが通説として信じられてきたのだけど、現在それは間違いというのが定説となっている。 1月21日に鷹狩りに出て、その先で倒れ、夕飯に鯛の天ぷらを食べて、死去したのが4月17日なので、鯛の天ぷらが原因というのは考えられない。死因については胃がんだったのではないかというのが有力視されている。 遺言によって遺体は駿府の久能山に埋葬された。葬儀は江戸の増上寺(web)で行われ、位牌は故郷の大樹寺(web)に立てられた。 神として祀られることになっていたので、葬儀は身内だけでひっそり行われ、安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士という浄土宗の戒名が贈られた。 一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて勧請するようにというも遺言だった。このとき墓を移したという説と移していないという説がある。分骨したともいう。 神号をどうするかとなったとき、南光坊天海と金地院崇伝・神龍院梵舜との間で権現とするか明神とするかでモメ、最終的には天海の意見が通り、薬師如来を本地とする権現とすることになった。 日本大権現、東光大権現、威霊大権現、東照大権現の候補の中かから東照大権現が選ばれた。 これは天照(アマテラス)に対して東を照らす「ヒガシテラス」という意味合いがある。 以降、家康は神君(しんくん)や権現様と呼ばれるようになる。 1645年、神宮号が宣下され、東照社から東照宮に改称され、正一位の神階が贈られた。
江戸から明治にかけての東照宮
江戸時代、秀吉を神として祀ることは禁じられ、豊国社は事実上消えることになったというのは豊臣秀吉のページに書いた。 一方、家康を神として祀ることは全国で流行った。一番多いときは700社もあったという。家康を尊敬していた孫の三代将軍家光が日光東照宮を派手に建て替え、諸大名に東照宮を建てることを奨励したのも大きかったようだ。 しかし、明治になって世の中が変わり、神仏分離令などもあって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは130社ほどになっている。それでも130社もあるというからその数は少なくない。 北は北海道の北海道東照宮からあるのだけど、西日本ではあまり人気がなかったのか、数が少ない。鳥取の鳥取東照宮や岡山の玉井宮東照宮、広島の広島東照宮くらいだ。 主な東照宮としては、日光、久能山の他、世良田東照宮、上野東照宮、滝山東照宮、大樹寺東照宮、松平東照宮、岡崎東照宮、鳳来山東照宮、日吉東照宮、金地院東照宮、紀州東照宮などがある。 名古屋の東照宮は、初代尾張藩主で家康九男の義直が創建したもので、豪華絢爛な神社だったと伝わっている。第二次大戦の空襲で焼けるまでは国宝だった。戦後に再建された姿はかなり地味になっている。
戦国武将たちが辿り着く境地
家康の遺訓としてよく引き合いに出されるのが、「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。云々」というやつで、聞いたことがあるという人も多いと思うけど、これは後世の創作とされている。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と同じだ。 家康がいかにも言いそうだけど、明治時代に創作されて東照宮に収めたことから広まったとされる。 初夢に見ると縁起がいいとされる「一富士二鷹三茄子」は家康がこれらを好んだからということになっているのだけど、これも家康がそう言ったわけではない。 『東照宮御実記』は、次の2首を家康辞世の句として載せている。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
秀吉の辞世の句とされる「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」にも通じる人生観であり諦観だ。 信長が好んで舞った「敦盛」の一節、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか」は信長自身の言葉のように語られる。 私はときどき考えることがある。今のこの世の中を戦国武将たちが見たらどう思うだろうかと。これが彼らが命を賭けて求め望んだ世界なのだろうか。 彼らが求めたのは戦に勝つことではなく平和な世の中を取り戻すことであったならば、ある程度納得してくれるかもしれない。戦国武将といった人たちの居場所がない今の世の中を、現代に生きる私たちは喜ぶべきだろうか。
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