第3回 神社って誰のもの?
神社コラムの第1回 神社数の変遷についてでも少し触れたのだけど、第3回の今回は、「神社は誰のもの?」にした。
端的に言うと、現在の神社の多くはそれぞれの宗教法人のものということになる。
けど、それではよく分からないので、あらためて神社の歴史を振り返ってみることにしよう。
神社の始まりをいつとするかは難しい問題だ。
カミマツリという行為を起源とするなら、縄文時代やそれ以前の旧石器時代から行われていただろうと思う。
常設の社が建てられたことを神社の始まりというなら、早ければ弥生時代だろうし、遅くとも飛鳥時代にはすでにあった。
713年に元明天皇が出した風土記編纂の詔を受けて、各国はそれぞれ地元の風土や歴史をまとめて提出したのだけど、その中の『出雲国風土記』(733年)には399社の神社が載っている。
このうち、神祇官の管轄の官社が184社で、それ以外の非官社が215社となっている。
この時代、68国あったから、単純計算すると2万7社以上の神社が全国にあったことになる。
地域差を考えるとそこまでは多くないかもしれないけど、それでも少なくとも奈良時代初期までに全国に1万社以上の神社があったのは間違いなさそうだ。
ここでいう”官社”や”神祇官”とは何か、ということなのだけど、それを説明するのはまず律令制について理解しておく必要がある。
律令制(りつりょうせい)というのは文字通り、律令による国家体制、政治体制をいう。
”律”は今でいう刑法に当たり、”令”は刑法以外の法律のことだ。
つまり、法律による中央集権制が律令国家というわけだ。
そんなことは当たり前じゃない? と思うかもしれないけど、これは当たり前のことではなかった。
飛鳥時代以前の古墳時代までは、地方は地方の豪族が支配する独立体制で、天皇制があったとしても、全国までその支配が行き届いていたわけではなく、ゆるやかな連合体制だったと考えられている。
最初に誰が律令制を言い出したのかははっきりしないのだけど、現在の通説では7世紀後半の中大兄皇子あたりに始まったとする説が有力視される。いわゆる大化の改新というやつで、年代でいうと645年のことだ。
その後、663年の白村江の戦いで敗れたことがきっかけで国が一つにまとまっていったという流れは考えられるのだけど、このあたりの通説は個人的にあまり信じていなくて、律令制についてもその始まりはもっと遡るのではないかと考えている。
天智天皇(中大兄皇子)時代の668年に、中臣鎌足に命じて律令の編纂を命じてできたのが近江令で、初の令だったという説があるものの、記録がほとんどなく、そんなものは作られなかったという説もある。
次の天武天皇(大海人皇子)時代の686年に制定された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が日本初の律令ともされる。
いずれにしても、律令のうち刑法の律ではなく令が先行して作られたようだ。
その中身はいうと、地方豪族から土地を取り上げ、国の官僚(国司など)を地方に派遣して土地を治めさせると同時に税を取り立てたり、田畑や人口を調べて戸籍を作ったりといったようなことの決まり事と理解すれば大きく間違ってはいない。
前置きが長くなったけど、この律令制の中に神祇官(じんぎかん/かみづかさ)という官庁があった。
朝廷の祭祀を司ると同時に全国の官社を管轄するのが主な役割で、政治や軍事などを担当する太政官(だいじょうかん/おおいまつりごとのつかさ)より上位に置かれていた(ただし神祇官の長である神祇伯(じんぎはく)の官位は従四位下相当)。
初期の頃は中臣氏が独占し、後に藤原氏から白川家へと移っていくことになる。
官社というのは要するに神祇官が管轄した神社ということだ。
奈良時代前期の出雲国でいうと、官社が184社で、非官社が215社というのはそういうことを意味している。
難しいのは、この官社が天皇、もしくは朝廷(政権)が建てたかどうかということだ。
668年、もしくは686年以降に律令制のもとに国関係が建てられたならそのまま官社とされたのは自然なことだ。
しかし、それ以前に建てられた神社も少なからずあったはずで、そのうちのどれを官社として、どれを官社とはしなかったのかということについてはよく分からないとしかいえない。
官社とされると何がどうなるかといと、神祇官の名簿に載り、毎年2月の祈年祭(きねんさい/としごいのまつり)に幣帛を受けられた(一部の神社は月次祭や新嘗祭も)。
あまりメリットはなさそうだけど、官社としてブランド力が上がったりということはあっただろうか。
もしくは、国公立の大学(高校)と私立の学校の違い程度のものだったのか。
非官社の神社は、豪族が一族の祖を祀ったり、土地の神を祀ったり、村の守り神だったり、自然神だったりということだっただろうと思う。
それが誰のものかという意識は当時の人たちにはあまりなかったのではないだろうか。
次に神社について知る手がかりになるのが927年の『延喜式』神名帳だ。
まず『延喜式』とは何かを説明した方がいいかもしれない。
律令制というのは本来、律令格式(りつりょうきゃくしき)の4つが揃って初めて意味をなすものだ。
格(きゃく)は律令の修正や補足のための法令で、式(しき)は律令の施行細則をいう。
日本で初めて律令が揃ったのが701年の大宝律令で、格式についてはそれから100年以上経った平安時代前期の820年にようやく弘仁格式(こうにんきゃくしき)ができた。
その後、869年に貞観格式(じょうがんきゃくしき)が、928年に延喜格、927年に延喜式が作られた(三代格式)。
それぞれ元号からそう呼ばれていて、延喜式は延喜年間(901-923年)に作られたので延喜の式、延喜式と呼ばれているということだ(905年に醍醐天皇の命で作成が始まり完成した927年は延長5年)。
全50巻約3300条から成り、巻1から巻10までが神祇官関係となっている。
内容は、巻1と巻2が定例祭(四時祭)、巻3が臨時祭、巻4が大神宮(伊勢の神宮)、巻5が斎宮、巻6が斎院、巻7が踐祚大嘗祭、巻8が祝詞で、巻9と巻10が神名帳上・下となっている。
つまり、延喜の式の中の神名帳を『延喜式神名帳』といっているということだ。
弘仁式や貞観式にも同様の神名帳があったであろうと考えられているものの、写しも残っていないため不明となっている。
『延喜式』神名帳には、全国の神社、2861社3132座が載っている(座は祭神の数)。
社数と座数に違いがあるのは、1社に複数の神を祀っていたからだ。
ただ、ここから分かるのは、平安時代中期において、大部分の神社(官社)が一柱の神を祀るとしていたということだ。
尾張国も121社121座で、すべての神社の祭神は一柱だった。
このことの意味はけっこう大きいので認識しておく必要がある。
面白いというか興味深いのは、奈良時代初期に官社が184社だった出雲国は、平安時代中期でも官社は187社と、3社しか増えていないことだ。中には廃絶した神社もあっただろうけど、それにしても増えていない。
これはおそらく全国もそうだったはずで、一方で非官社の神社は相当増えたであろうことは推測できる。
平安時代中期の時点で数万社あったのではないかと思う。
その数は鎌倉、室町時代でも増え続け、江戸時代にピークを迎えることになる。
明治時代以降の神社の変遷については第1回の神社コラムに書いたので、簡単に書くにとどめたい。
明治政府による神仏分離令があり、神道が国家の宗祀となって神社は国家の管理下に入り、明治末の神社合祀政策を経て、太平洋戦争があって戦後になり、GHQの神道指令によって神社は国家の管理から離れてすべてが民間に移った。
神社本庁の成り立ちについてはいずれコラムで書こうと思っているけど、ここで話は最初に戻る。
神社は誰のもの? と訊かれたら、それは各神社の宗教法人のものですよと答えるしかない。
宗教法人にしておけばとりあえず税制上の優遇措置があるので、そうしているわけだ。
個人所有の神社もあるにはあるけど、数は少ない。
企業の神社は企業のものだろうし、個人宅で祀っているもの(多くは稲荷社)は個人のものということになる。
神社を宮司や神職の所有と思っている人がいるとしたら、それは間違いだ。あの人たちは神社本庁から派遣された雇われ店長みたいなもので、神社を所有するオーナーではない。
今は多くの神社が無人で、そういう無人社を一人の宮司が何社も掛け持ちしているのが現状だ。
実質的に管理運営しているのは、氏子の皆さんや地域の人たちということになる。
氏子でお金を出し合って祭りを行ったり、祭祀を依頼したり、社殿の修繕をしたりしている。
どの神社もかなり大変なようで、高齢化も進んで保ちきれずに廃社にするケースも増えてきている。
神社本庁がお金を配ってくれるかといえばそうではなく、逆に金を吸い上げられてしまう。
東京の神社へ行くと驚くのだけど、境内の一部を月極駐車場にしていたりする。
参拝者の賽銭など微々たるもので、大きな有名神社ならともかく、町の小さな神社は苦労が多いと思う。
ちなみに、個人で神社を建てたいと思ったらどうしたらいいかについては、白狐稲荷大明神(菊住)のページに書いたので興味がある方は読んでみてください。