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景行天皇社(長久手村)

何故景行天皇なのか?

読み方けいこうてんのう-しゃ(ながくて)
所在地長久手市長久手市西浦401 地図
創建年(伝)837年(承和4年)
旧社格・等級等旧指定村社・九等級
祭神大帯日子淤斯呂和気命(オオタラシヒコオシロワケ)
アクセスリニモ「はなみずき通駅」から徒歩約9分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日
特殊神事 警固祭(おまんと)
神紋橘紋(と陰橘紋?)
オススメ度**
ブログ記事長久手の景行天皇社に参拝する
長久手の景行天皇社へ再び

長久手の地名について

 現在の長久手市は江戸時代まで長久手村、岩作村(やざこ)、大草村、北熊村、前熊村の5村に分かれていた。
 明治11年(1878年)に北熊村と大草村が合併して熊張村となり、明治22年(1889年)に前熊村と熊張村が合併して上郷村になった。
 その後、長久手村は長湫村に改称。
 明治39年(1906年)に上郷村、岩作村、長湫村が合併して長久手村となる。
 昭和46年(1971年)に長久手町、平成24年(2012年)に長久手市となり、現在に至っている。

 長久手の地名について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこんなことを書いている。

長久手村 久手は假名なり
【橘守部曰】 長久手は長久禰(クね)の義にて九折(つつらをり)などいふがごとく羊腸たる山阪道をいふ成べし弖(て)と禰とは恒に通はし用る言にてくねくねしき道のよしなり續紀詔詞に久那多夫禮とあるは心の悪き方に云るなれどそれもくねわたる意は同じ事なり
 允恭紀輕太子の衣通(そとほり)郎女の配所まで追はんとし玉へる時の御歌につく弓の□るるもと詠たまへるは此久禰流の古言也
【谷川士清曰】久手は窪面(くぼて)の異歟ともいへり

『尾張国地名考』津田正生

 要するに、くねっている、くねくねしているというのが”くて”の語源だといっているのだけど、長久手がくねっているとは思えず、個人的にはこの説は信じられない。
 長久手全体を見れば丘陵地帯で川も蛇行して流れているものの、もともとは長久手村の地名で、長久手村だけが特別にくねくねした地形とは考えられず、長くくねるが地名由来の可能性は低いんじゃないだろうか。
 長湫の”湫”は湿地を意味する言葉だけど、長湫の地名は明治以降のもので湿地帯だったから長久手という地名が付いたというのも正しいとは思えない。
 かつて湿地帯があったにせよ、この土地だけの特徴というわけではない。
 実際に湿地を示す湫が地名になるのであれば全国各地にあるはずだけど、久手や湫が付く地名はほとんど見られない。長久手はここだけだし、大久手が長久手市と名古屋市千種区に、広久手が豊田市と瀬戸市にあるくらいだ。

 地名というのは大きく分ければ2種類で、地形や特徴から来ている場合と、その土地の意味から来ている場合のどちらかが多い。
 どちらにしても、その地に暮らす人たちが仲間内で共有するために付ける呼び名で、身内だけでもすぐに通じないと意味がない。特徴ということでいえば、誰々さんちの向こうとか、あの池のそばとか、山とか、川とか、分かりやすいものだったはずだ。
 意味由来の場合は、一族の名とか、その土地がどういう場所だったかから名づけられただろう。
 人が暮らせば地名は生まれるし、それは中世などではなくもっと古い縄文や弥生に遡る。
 長久手の地名由来はくねるでも長い湿地でもなく、もっと別のところから来ているような気がする。
 ”クテ”も別の言葉から変化しているかもしれない。

江戸時代の長久手村

『寛文村々覚書』(1670年頃)は長久手村について以下のように書いている。

長久手村

家数 参拾壱軒
人数 四百拾五人
馬 弐拾五疋

社 六ヶ所 社内四町三反七畝歩 前々除
 権現 明神 氏神 山神弐ヶ所ハ当村祢宜助太夫持分
 浅間ハ 当村祢宜十太夫持分

仏ヶ根山ニ長久手合戦之刻、権現様御馬立場在。

池田庄(勝)入・同庄九郎・森庄蔵、塚有。

古城跡 先年、加藤太郎右ヱ門居除之由、今ハ百姓屋敷ニ成ル。

『寛文村々覚書』

 江戸時代前期の時点で、家数31軒、村人415人、馬25頭だったということは、なかなか大きな村だったといえる。
 神社は6社あって、すべて前々除(まえまえよけ)になっているので、1608年の備前検地以前からすでにあったことが分かる。
 ここでおや? と思うのが”氏神”の存在だ。
 これは景行天皇社ではない。景行天皇社は江戸時代には三社明神などと呼ばれていたから、ここでいう明神に当たる。
 権現は明治に合祀されたなくなった熊野権現のことで、浅間は現存する冨士浅間社だ。
 山神も明治に合祀されて今は残っていない。
 氏神のことが気になりつつ、別の史料にも当たってみよう。

『尾張徇行記』(1820年)が長久手村の神社やその他についてあれこれ書いているので該当部分を書き出してみる。

「明神祠 府志曰、祀景行天皇、祠伝曰、承和四年丁巳創建、斉藤道智房同五年造進之、其後享禄三年庚寅弘治二年丙辰斎藤氏子孫重修
 摂社、神明白山
祠官青山助太夫書上ニ、景行天皇祠 摂社、神明白山境内東西一町半南北一町前々除、祠官ノ考エニ、当社ハ人皇五十四代仁明天皇承和四丁巳年初メテ鎮座ノ由棟札ニアリ、是神名式ニ所謂山田郡和爾良神社歟、此村ノ地名ニ秙乎良岐ト云所、昔年ヨリ景行天皇神明白山ノ三社鎮座ノ由イヒ伝ヘリ、秙ノ字和ニ転し、乎ノ字爾ニ転シ、岐ハ落ノ字ニテ、秙乎良岐転シテ和に良神社ナルヘシト云、又秙乎良岐ノ地ニ権田ト云所ハ、往昔ヨリ神田ノ由申伝ヘリ、長久手合戦ノ砌此三社ノ前ニテ堀久太郎備ヲ立シ事、長久手記ニアリ、其社地ハ即秙乎良岐ナリ、其後慶長九年辰年今ノ地神祠ヲ遷座セリ、重修ノ年暦ハ永享九巳年八月藤原左近太郎家忠・左衛門次郎国守・沙弥善洞・左衛門太郎国包・享禄三庚寅年六月沙門慶祝・斎藤平左衛門尉・同民部丞・牧弥九郎・弘治二丙辰年二月・斎藤源五郎・慶長九申辰年二月加藤右衛門漸々ニ重修ストナリ

熊野祠境内五畝、金神祠境内一反、山神祠二区、一ツハ境内一反六畝廿歩、一ツハ境内一畝前々除

宮田五畝歩村除、外ニ九畝十七歩年貢地ナリ

冨士祠 府志曰、在長久手村、古有祠九区、今僅存一区
祠官青木重太夫書上ニ、冨士浅間祠境内南北八十間東西百四十間御除地、此祠創建年暦ハ不知、此山ハ 神祖御陣場ニテ御旗ヲ立玉フ所也

長湫城 府志曰、加藤太郎右衛門居之、今為民家 今村東城屋敷ト云所ニアリ其跡畠二反七畝歩アリ

金連川 府志曰、金連或作香流、在長久手村上流、呼鴨田川、以北熊村前熊村大草村岩作村四水為源、経藤森村猪子石村入春日井郡矢田川

『尾張徇行記』

 情報が多いので、ちょっと整理しよう。
 まず、”府志曰く”として(『張州府志』1752年)、明神祠は承和4年(837年)に創建されたもので、翌承和5年(838年)に斉藤道智房という人物が社殿を造営し、享禄3年(1530年)と弘治2年(1556年)に修造(再建)が行われたといっている。
 修造を行ったのは斉藤道智房の子孫という。
 神明と白山はここでは摂社という扱いになっている。

 続いて、書いているのは、この明神(景行天皇社)が『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の可能性についてだ。
 長久手村祠官の青山助太夫の書上に54代仁明天皇の承和4年(837年)に初めて鎮座した棟札があるとし、祠官の考えでは山田郡和爾良神社ではないかといっている。
 ”秙乎良岐”(コオロキ)と呼ばれる土地があって、秙が”和”(ワ)に転じ、乎は”爾”(ニ)に転じ、岐は落ちて、ワニラ(和爾良)と呼ばれたというのだけど、これはだいぶ無理があるのではないか。
 呼び名が転じて別の字が当てられることはよくあるけど、字が転じて呼び名まで転じるというのはちょっと考えづらい。
 山田郡の和爾良神社に関してはいくつもの論社があってはっきりしていない。
 名東区の和爾良神社や同じく名東区の神明社(藤森)がそうなのだけど、春日井市の和爾良神社や朝宮神社、両社宮神社などが論社になっているのが気になる。
 今の春日井市は明らかに山田郡ではなく春部郡だったはずが、にもかかわらず山田郡和爾良神社の論社になっているのには理由がある。もしかするとあのあたりに山田郡の飛び地があったのかもしれないと個人的には考えている。
 和爾良の”ワニ”は『古事記』がいうところの稲羽素兎(いなばのしらうさぎ)の話に出てきたあのワニ(和邇)のことで、もちろんサメでも魚でもなくある一族のことだ。
 後に丹羽(ニワ)にも転じるのだけど、ワニの拠点の一つが春日井あたりにあったので、そこに和爾良神社があるのは不自然なことではない。

 話を戻すと、長久手合戦(1584年)に堀久太郎(堀秀政)がこの神社(景行天皇社)の前で陣立てしたと長久手記にあるとし、それは旧地の秙乎良岐だったともいっている(秙乎良岐がどこだったかについては後述)。
 現在地に移されたのは慶長9年(1604年)で、修造は永享9年(1437年)、享禄3年(1530年)、弘治2年(1556年)、慶長9年(1604年)とする。
 1604年にどうして神社を遷したのか、理由は定かではない。
 1604年というと、名古屋城はまだない。中世の那古野城の跡地に名古屋城が建てられるのは1610年から1612年にかけてで、それまで尾張の首府は清洲にあった。
 家康が命じた清洲から名古屋への大引っ越しを清洲越し(きよすごし)と呼んでいるけど、それが行われたのは1612年から1616年頃にかけてのことだ。
 それに先だって1608年に尾張国で行われた検地は、伊奈備前守忠次が担当したことで備前検地(びぜんけんち)と呼ばれている。
 このときすでに除地(よけち)だった土地を備前検地より前という意味で”前々除”(まえまえよけ)といい、このときあらたに除地になったところを”備前検除”という。
 このへんの流れは尾張国の神社を考える上で重要な要素なので頭に入れておいた方がいい。

 次に『尾張志』(1844年)と『尾張名所図会』(1844年)も確認しておこう。

明神ノ社 長久手村にあり景行天皇を祭るよし社説にいへり府志にも然見えたれは古へよりの傳へなるべけれといとめづらかなる祭神也
此社の左の方に神明社右の方に白山ノ社を總て三社ならひ立り古へより三社ノ宮とも呼(イヒ)ならへり
當社は承和四年鎮坐のよし傳へいへり往古は根神(子ノガミ)といふ地にありしをいつばかりにかありけむ大久手といふ地に移し其後又コウロギと呼地に遷し奉り(根ノカミ大クテコウロギ並に長久手の地名也)其後慶長九年申辰二月今の地に遷坐し奉りとそ
長久手合戦記に堀久太郎三社の森ノ前に備立したるよし見えたるは當社のかのコウロギにありける時也
 中略(『尾張徇行記』の修造の記録を引用)
かの神名式に見えたる山田ノ郡和爾良ノ神社を近世より當社なる様にいひ出たる社説もあるを殉後記にも載たれと藤森村白山ノ社よりも猶おほつかなし 社人を青山助太夫と云

『尾張志』

『尾張志』は明神社(景行天皇社)について懐疑的な姿勢を見せている。
 景行天皇を祭ると古くから言い伝えがあるけど珍しい祭神だといい、近世になってこの明神を延喜式内の和爾良神社とする説があるけど藤森村の白山社よりも更に”おぼつかない”といっている。
 旧地については、古くは根神(ねのがみ)というところあって、大久手に遷し、更にコウロギ(秙乎良岐)に遷し、更に現在地に遷したと書いている。
 なかなか面白いというか興味深い話で無視できない。
 特に”根”神というのが引っ掛かる。”根”はある種の拠点を示す地名で、神の根というくらいだから重要な場所に違いない。
 日本神話に出てくる”根の国”というのはそういうことだ。根の国は黄泉とかあの世のことではない。

景行天皇社(けいかうてんのうのやしろ)
 長久手村にあり。今三社明神と稱す。承和四年の創建。享禄三年及び弘治二年齋藤氏の人重修す。
 攝社神明神社・白山社、此帝東國に行幸し給ひし故、此あたりにもさるべきよしありて祭り奉りしなるべけれど、今知れる人なし

『尾張名所図会』

 ここでは長久手村の明神を景行天皇社としている。
 この帝(景行天皇)が東国に行幸したときにこのあたりにも来ていてその縁で祀ったのだろうと推測しながらも、今は知る人もいないといっている。
 長久手を越えて南東に進んだ先にあるのが猿投山(さなげやま)で、この山の名の由来として語られるのが、景行天皇が伊勢に行幸したとき連れていた猿がいたずらばかりするので海に投げ捨てたところ、猿が伊勢湾を泳いで渡ってこの山に逃げ込んだので猿投山と呼ばれるようになったというものだ。
 猿投山の山頂には景行天皇の王子で日本武尊(ヤマトタケル)の双子の兄ともされる大碓命(オオウス)の墓があり、猿投山の麓の猿投神社(三河国三宮)は大碓命を祭神としている。
 これらの伝承が事実そのものではないにしても、伝承として語られることになった出来事があるはずで、長久手に景行天皇を祀る神社があるというのも、まったくの嘘とか荒唐無稽なわけではなさそうだ。

氏神のこと

 いったん保留としていた氏神の話をしたい。
『長久手町史 史料編一 近世村絵図・地図集』に、年不詳のものと嘉永2年(1849年)の村絵図が載っている。
 年不詳の物は庄屋の林家に伝わっているもので、林家が庄屋を務めていた元文年間(1736-1741年)から寛政年間(1789-1801年)にかけてのものだろうと推測している。
 前者の方が古いのは見比べると一目瞭然で、年不詳の村絵図は村中を川が網の目のように流れているのに対して、嘉永のものではそれがだいぶすっきりしている。
 現在は北に香流川が、その南の中央に鴨田川が流れている。
 景行天皇社は”三社宮”とあり、冨士浅間社の鳥居マークはないものの富士ヶ根と書かれている。
 三社宮から少し離れた南に、”荒神森”があり、どうやらこれが氏神らしい。
 嘉永2年の絵図を見ると、三社宮が”氏神”となっており、荒神森は”金神森”、富士ヶ根は”富士山森”になっている。
 どうして名前がこんなふうに変化していったのかは分からないのだけど、もともと明神とは別の氏神があって、それが名前を変え、明神が氏神になったという経緯のようだ。
 説明文を読むと、「この辺りでは金神は荒神に通じ、”オコジンサン”と言われ、たたり神として人々に恐れられている」といっている。
 かつてこの近くに長円寺長光庵という尼寺があって里人は”チョコアン”と呼んでいて、金神はその鎮守だったのではないかとも書いている。
 あるいは、城主だった加藤氏の守り本尊だったか、庵が廃された後に加藤氏の菩提を弔うために里人が祀ったかとも推測している。
 個人的にはこのどちらも違うと思う。氏神はおそらくもっとずっと古く、それが一時的にでも金神と呼ばれたというなら必ず理由があるはずだ。
 長久手市郷土史研究会(web)は特定の一族の守護神だろうとしつつ、庄屋の林家の隣に位置していて、林家の墓地とも隣接しているので林家の守護神ではないかといっている。

 ここで思い出されるのが北区山田にある金神社のことだ。
 現在は山田天満宮に遷されているのだけど、もともとは独立した神社で、大将軍とか上宮などと呼ばれていた。
 山田は平安時代末から鎌倉時代初期にかけて活躍した源氏の武将、山田重忠の本拠地だったとされる場所なのでその関係とも考えられるのだけど、おそらくルーツはもっと古く、もともと金神とも呼ばれていたかもしれない。
 金神社の祭神として金山彦(カナヤマヒコ)が祀られているのだけど、これは単に”金”つながりというだけではなく、ちゃんとした根拠がある。
 金山彦は天香語山(アメノカゴヤマ)の別名であり、香香背男(カカセオ)のことでもあり、若彦のことであり、金太郎のことでもある。それはつまり尾張氏の祖ということだ。
 山田の金神社がそうであるように、長久手の氏神(金神)は尾張氏が祖神を祀ったのが起源だと思う。
 山田というのは尾張氏本家を守護する一族であり、山田の地もそういう意味で名づけられている。
 これは”ヤマタ”ということで、八叉であり、ヤチマタにも通じる。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)や、八街(やちまた)にいたという猿田彦(サルタヒコ)ともつながる。
 山田の金神社では岐神(フナト/クナト)も祀っている。これは八岐(ヤマタ)の神ということだ。
 個人的には氏神(金神)だけでなく景行天皇社も尾張氏の神社だと考えている。それを裏付ける証言が祠官だった青山助太夫の書上にある。
 天保3年(1832年)の書上にこうある。

「延喜式内、山田郡、従三位和迩良神社。祭神、火明命、和迩命、香語山命。摂社、神明宮、白山宮。右摂社三座ハ、承和四年七月、齋藤道智坊、同五郎創立ニ御座候。当社、景行天皇御宮ノ鎮座奉祀候㝡初、鎮座之旧地ハ、当村当時字根之神ト相唱シ候所ノ西麓、字神井堀南麓ノ字和迩原ナリ。誤リ傳フがに原ハ其地也。神子田ト申ス所御座候」と記され、それに続けて、承和四年(837)に、かうろぎ林に本社和尓良神社を移して摂社三社を建立、慶長九年(1604)に二代加藤太郎右衛門によって、本社と摂社二社が移されて、現在地に鎮座したという経緯が記されている。

『長久手町史 史料編1』

 これは非常に重要な証言だ。
 まず最初の鎮座地は和迩原というところで、誤って伝えられているけど、今の蟹原だといっている。
 蟹原は今も残る地名で、杁ヶ池がある西だ。その間に根の神の地名も残っている。
 今の景行天皇社から見て1キロほど南西に当たる。
 ”かうろぎ林”に移したのが承和4年(837年)ともいっている。
 これが本当なら、この神社の創建は平安時代前期よりもずっと古いということだ。
 それ以前は火明命や香語山命といった尾張氏の祖神を祀る神社だったことも分かる。
 和迩命は和爾氏の祖だろうけど、最初からだったのか途中で加えられたのかはなんともいえない。

 付け加えると、現在香流川と呼ばれている川はかつて金連川と表記されていた。江戸時代も残っていて、香流川と金連川が混在してた。
 金連は”金”から来ているのだろうし、”かねのむらじ”とも読める。
 金連といえば、尾張氏の十五世孫に尾治金連(をはりかねのむらじ)がいる。
 瀬戸市の水野にある延喜式内の金神社の祭神となっており、同じく延喜式内の名古屋市天白区にある針名神社の祭神は一世代前の尾治針名根連(をはりはりなねのむらじ)なので、そのへんの時代にも長久手のあたりをあらたに開発した可能性がありそうだ。

 もう一つ、景行天皇社が尾張氏の神社であることを示すのが神紋だ。
 拝殿に掛かる幕に橘紋(たちばなもん)と陰橘紋があったので、これが景行天皇社の神紋だろう。
 橘紋というと橘氏を連想しがちだけど、尾張氏の本家筋が橘紋なので、そういう意味でもここは尾張氏の神社だということがいえる。

景行天皇について

 祭神とされている景行天皇について、ここで一度まとめておくことにする.。
 一般的に日本武尊(ヤマトタケル)の父として認識される天皇だけど、その実体とか何をしたかについて把握している人は少ないだろう。
 私もヤマトタケルについて調べているときに、ヤマトタケルとの関わりという視点で認識していただけで、実のところよく分かっていない。
 なので、あらためて『古事記』、『日本書紀』を読んでみることにする。

『古事記』はその名を大帯日子淤斯呂和気天皇(オオタラシヒコオシロワケ)としている。
 纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)にいて、吉備臣(きびのおみ)たちの祖の若建吉備津日子(ワカタケキビツヒコ)の女(娘)の針間之伊那毘大郎女(ハリマノイナビノオホイラツメ)を娶り、櫛角別王(クシツヌワケ)、大碓命(オオウス)、小碓命(オウス)、倭根子命(ヤマトネコ)、神櫛王(カムクシノミコ)の5人が生まれたといっている。
 それ以外にも八尺入日命(ヤサカノイリヒコ)の女の八尺之入日売命など、たくさんの女性を娶って子が生まれたとする。
 このあたりはどこまで事実を反映したものなのかよく分からない。名前が出ているだけで21人というのも多すぎるのに、記録にない子が59人いて、全部で80人の子がいたというのはいくらなんでも現実離れしている。
 それと、倭建命(ヤマトタケル)の曽孫の須売伊呂大中日子王(スメイロオオナカツヒコ)の女の訶具漏比売(カグロヒメ)を娶って大枝王(オオエ)が生まれたという記述もあって混乱する。
 倭建の元の名は小碓だったはずで、自分の子の小碓命の玄孫を娶るなんてことができるはずもない。
 となると、小碓とは別に何世代か前に倭建がいたということか。
 これらの子のうち、若帯日子命、倭建命、五百木之入日子命(イオキノイリヒコ)だけが後継者候補の皇太子とされ、最終的には若帯日子命が天皇(成務天皇)として天下を治めたといっている。
 若帯日子命は倭建命の異母弟で、次の帯中日子(仲哀天皇)は倭建命の子ということになっているのだけど、このへんは怪しくてそのまま信じることはできない。

 系譜を紹介したあと、ちょっとしたエピソードが語られる。
 美濃国造の祖の大根王(オオネノミコ)の娘に兄比売(エヒメ)と弟比売(オトヒメ)という美しい少女がいると聞いた天皇は、二人を呼び寄せるために子の大碓命に命じて派遣したところ、大碓命が横取りして別の女性を差し出してきた。
 天皇はそのことに気づきはしたものの、娶ることもできず思い悩んでしまったという。
 この後に続く小碓命が大碓命を殺すという話の前フリなのだろうけど、これでは天皇はただの気弱な女好きという印象を与えてしまう。
 西征も東征も子の小碓命に任せきりで自分では何もしていない。
 実際にどうだったかは別として、『古事記』は決断力も行動力もない天皇として描いている。
 この後の記事は小碓命あらため倭建命一色となり、倭建命が伊勢の能煩野(のぼの)で命を落とした場面でも登場しない。
 最後に付け足しのように系譜に触れ、大帯日子天皇は137歳で崩御して山辺の道の上(北)に御陵があると締めくくられる。
 読み返してみると、これでは印象に残らなくて当然だと思う。むしろちょっと気の毒な書かれ方をしているとも思った。

『日本書紀』は『古事記』とは全然違って、景行天皇について多くを語っている。必要以上に持ち上げていると感じる部分もある。
 なにより『古事記』とはキャラ設定がまったく違う。

 名前は表記が違うだけで”オオタラシヒコオシロワケ”の呼び名は共通している(大足彦忍代別天皇)。
 父である先代の活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト/垂仁天皇)と皇后の日葉洲媛命(ヒバスヒメ)の第3子で、垂仁天皇の即位37年のとき21歳で皇太子となり、垂仁天皇が即位99年で崩御して即位したとする。
 本当だとすると、即位したのは83歳ということになる。
 播磨稻日大郎姫(ハリマノイナヒノオオイラツメ)を皇后として大碓皇子(オオウス)、小碓尊(オウス)、稚倭根子皇子(ワカヤマトネコノミコ)が生まれたといっていて、『古事記』とは兄弟構成が違っている。
 更に最大の違いは「一日同胞而雙生」といっていることだ。
 一般的には、一日に同じ胞から生まれた、つまり双子と解釈しているのだけど、雙(そう)を対の関係と解釈すると必ずしも双子ではないのかもしれない。
 もし双子としているのだとしたら、そこには何らかの作為がある。
 続く「天皇異之則誥於碓 故因號其二王曰大碓小碓也」は解釈が難しいところなのだけど、双子が生まれたのを見た天皇は碓(臼)に向かって叫ぶか何かして、碓にちなんで大碓小碓と名づけたといっている。
 この話は何かを伝えようとしているのだろうけど、意図がよく分からない。

『日本書紀』は大足彦忍代別天皇(景行天皇)を行動的な天皇として描いている。
 女を求めて自ら出向いていったり、熊襲が叛いたからといって自分で征伐に行ったりしている。
『古事記』とのあまりの違いに戸惑うのだけど、どっちを信じるかといえば『古事記』の方だ。『日本書紀』の大足彦忍代別天皇像はいかにも嘘くさい。
『古事記』では倭建命が歌ったとする有名な歌「倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し」を『日本書紀』は大足彦忍代別天皇が歌ったことにしてしまっている(少し言葉を変えている)。
 記事は地名説話などが細々、長々と語られ、その内容は退屈だ。
 こんなこと書く必要あったかなと疑問に思うところも多々あって、記事の中盤、即位27年のところでようやく日本武尊が出てくる。
 いつの間にか小碓命から日本武尊になっていて、あれ? と思うのだけど、このとき16歳といっているのも違和感を覚える。
 即位したのが83歳で、27年後に16歳の子がいるなんてのは、設定として無茶苦茶だ。
 この後、東征の帰りに30歳で亡くなるまでについては日本武尊のページに詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。
 伊勢の能褒野で日本武尊が亡くなったという知らせを聞いた天皇は、自分が派遣したことを後悔して大げさなほど嘆き悲しみ、食事が喉を通らなくなって寝込んでしまったという。
 ますます嘘っぽい。
 これで記事は終わりかと思いきや、まだまだ続く。
 最終的には即位60年に106歳で高穴穂宮で崩御したと書かれている。
 皇太子になったときの年齢とかをあわせて考えてもまったく年齢が合わないし、もはや整合性どうこうを検討する気にもなれない。

 以上のように、『古事記』と『日本書紀』とでは扱いが大きく異なっており、どちらをどの程度信用していいのかよく分からない。
『日本書紀』は九州地方を思わせる地名を多く出していて、九州を巡ったように思われているのだけど、個人的にその話は信じていない。
『播磨国風土記』など各地の風土記に大帯日子天皇が登場しているので、ある程度の実在性はあるのだろうけど、纒向(大和)あたりに居を構えて九州を巡ったなどという話に信憑性を感じない。
 話がおかしいということはそれだけ隠し事が多くて辻褄を合わせられなかったということだ。それは都合が悪いから隠したというよりも、何かを守るために隠したということなのだろう。

どうして景行天皇だったのか?

 しつこいようだけど、景行天皇がどうして祀られることになったのか、もう少しだけ考えてみたい。
『愛知縣神社名鑑』は景行天皇社についてこう書いている。

『尾張名所図会』に今三社明神と称す。承和4年(837)の創建、享禄3年(1530)及弘治2年(1556)斎藤氏の人重修す。
 此の帝東国に行幸し給ひし故、此あたりにもさるべきよしありて祭り奉りしなるべけれど、今知る人なし、と記るす。
 慶長9年(1604)2月、今の社地に遷す。
 明治5年7月28日、村社に列格する。
 同40年10月26日、幣帛供進指定社となる。


『愛知縣神社名鑑』

 何故か、『尾張名所図会』の内容をそのまま引用している。これはちょっと珍しい。どうして『尾張志』じゃなかったのだろう。
 延喜式内の山田郡和爾良神社の論社という点については触れていない。
 やはり問題となるのは、江戸時代後期の1832年(天保3年)に祠官の青山助太夫の書上だ。
 神社にはここが延喜式内の山田郡和爾良神社だという伝承があったのだろうと思う。事実かどうかはともかく、神社としてはそういう認識だったということだ。
 青山助太夫書上で重要なのは、そもそも和爾良神社(和尓良神社)の祭神は火明命、和迩命、香語山命で、根之神の西之和迩原というところにあって、それを837年(承和4年)に摂社として神明と白山を加えて”かうろぎ林”に移したといっていることだ。
 その伝承を丸呑みするのは危険だろうけど、ある程度事実を反映したものと考えていいのではないか。
 837年創建というのは年代的に遅すぎるから、それ以前にあったとする話は信じられる。
 隣村の岩作村の石作神社の創建が834年(承和元年)と伝わっていて、おそらくそれとも関連がある。
 石作神社も起源はもっとずっと古いはずで、『尾張国神社考』(津田正生)の中で”當所澤助曰”として神明(石作神社)の旧地は舊氏神と呼ばれる場所で、今(江戸時代)の西島の北一町半あたりだったという話を紹介しており、景行天皇社と石作神社の遷座はほぼ同時期だったかもしれない。

 それにしても、どうして神明と白山だったのだろうという疑問を抱く。
 白山はともかく、ここで神明が出てくるのは唐突に感じられる。
 それと気になるのは青山助太夫書上の「承和四年(837)に、かうろぎ林に本社和尓良神社を移して摂社三社を建立」という言い回しだ。
 摂社は神明宮と白山宮の二社のはずで、本社の和尓良神社を摂社とは呼ばないはずだ。
 あるいは、和尓良神社と景行天皇社は別ということかもしれない。
 和尓良神社が景行天皇社に変わったのではなくて、どこかで景行天皇社が追加されて本社になったということなのか。
 混乱してよく分からなくなった。
 江戸時代は三社宮とか三社明神とか呼ばれていたので三社だったはずだ。その頃には和尓良神社の名は消えて景行天皇社とも呼ばれていた。
 1604年に現在地に遷したときは本社と摂社二社という体制になっている。
 本社の祭神は景行天皇一本に絞られて、火明命、和迩命、香語山命は消えている。
 ここまであまり考えてこなかったけど、摂社の神明と白山が何か重要な鍵を握っているのかもしれない。
 古い白山は多いけど、古い神明はあまりなくて、平安時代前期に神明という名で祀っていたとしたらけっこう珍しい。
 そのときの祭神は天照大神ではなく別の神だった可能性は充分にある。
 白山も菊理姫とかではなかったかもしれない。
 石作神社がいつからか神明と呼ばれるようになったのも連動しているのではないか。
 一つ確かなのは、この神社の性格がどこかの時点で決定的に変わってしまったということだ。
 もともとは尾張氏の神社だったのが、どこかで天皇に近い神社になった。
 それが837年(承和4年)だったのか、その前だったのか後だったのかは分からない。
 景行天皇を祀る神社は数少ないだけに、何か特殊な事情があったのではないか。
 近くに大碓命の伝承はあるのに小碓命(日本武尊)の伝承はないというのも何かありそうな気がする。
 南部丘陵地に、平安時代から鎌倉時代にかけての古窯跡が見つかっていることから、そのあたりの関連もなくはないのか。

長久手村の変遷について

 江戸時代までの長久手村は現在の長久手市の西3分の1くらいが村域だった。北の長久手中学と南のリニモ「芸大通」を結んだ線が岩作村との境界線といえば土地勘のある人ならだいたい掴めるんじゃないかと思う。
 あらためて年不詳の村絵図を見て読み取れることを書き出してみる。
 江戸時代後期の1700年代は丘陵地の谷間をたくさんの細い川が流れていて、ため池も数え切れないくらいあったのが分かる。
 広い水田は描かれてないものの、川沿いの狭い平地を田んぼにしていただろう。
 ひとかたまりの集落という感じではなく、家が分散して描かれている。
 ”三社宮”というのが景行天皇社で、社は書かれてなくて、朱塗りの鳥居だけが書かれている。当時は実際に鳥居は朱塗りだっただろうか。
 その北の小山に富士ヶ根とあるものの、富士社の社は描かれていない。
 その他、荒神森、観音堂、薬師堂、常照寺、山ノ神などが書き込まれている。

 嘉永2年の絵図は簡略版で寺社の様子はよく分からない。
 三社宮は”氏神”となっており、その南に”金神森”が書かれている。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代の村絵図では分からなかった部分も見えてくる。
 一番よく分かるのは田んぼのエリアと集落の様子だ。
 大きな集落があったのは「はなみずき通駅」の南から西にかけてで、少し離れた東、冨士浅間社の南にも民家が集まっている地区がある。今の宮脇、東浦、城屋敷あたりだ。
 水田は鴨田川流域で、流路は今とはだいぶ違っていたようだ。
 南の杁ヶ池の北あたりにも狭い田んぼがあったのが分かる。

 1920年(大正9年)の地図ではあまり変化はなく、しばらく間が空いて、1968-1973年(昭和43-48年)の地図ではけっこう大きな変化が確認できる。
 村を横断する東西の道も通って、細い道沿いに民家も増えてきている。
 1970年代には区画整理されて、1980年代になると田んぼが潰されて宅地化されていった。
 長久手市の中ではこのあたりが一番発展が早かった地区といういい方ができる。
 町の西に地下鉄東山線の藤が丘駅ができた(1969年)も大きかった。
 2005年の愛知万博に合わせてリニモが開通して、交通の便は更に良くなり、長久手市は現在も発展し続けている。
 幹線道路も重要には違いないのだけど、鉄道が町に与える影響の大きさをあらためて思い知る。

景行天皇を祀る必然

 長久手市観光交流協会の季刊誌「雑人(ざっと)」(web版)はこんなことを書いている。

 古文書によると、第12代天皇の景行天皇は大和朝廷の勢力を拡大するため、息子である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に列島東部を征討するよう命じました。そして、のちに息子の足跡をたどる行幸(旅)に出たといいます。旅の途中、この地区を通りがかる天皇を歓迎しようと豪族の石作大連が斎殿を造りました。それがもとになってできた神社であることから、景行天皇の名がついています。

 相変わらずどこから得た情報か謎なのだけど、独自の見解はなかなか興味深い。
 私もあまり公にできない情報源を持っているので人のことは言えないのだけど、その”古文書”とやらを見せて欲しいものだ。
 確かに、景行天皇が東征したという伝承は各地に残っているのだけど、それが事実だとは思えない。
 ただ、景行天皇が大和や纒向あたりにいたとも考えてなくて、ひょっとすると尾張にいたのではないかと思ったりもする。
 第10代崇神天皇から第16代仁徳天皇までは尾張色が強い天皇だ。
 崇神天皇は御間城姫(ミマキヒメ)を皇后とした御間城入彦(ミマキイリヒコ)で、”マキ”の姫の入り婿というのは事情を知ってる人間からしたらそのままの名前だ。
 第11代垂仁天皇は活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ)で、ここまでが”イリ”、次の第12代景行天皇から第14代仲哀天皇までは”タラシ”になる。
 景行天皇の大足彦忍代別の”忍”は三河側からの養子を意味すると聞いている。なので、タラシに養子に入って別け(ワケ)たという意味になる。
 第13代成務天皇は稚足彦(ワカタラシヒコ)、第14代仲哀天皇は足仲彦(タラシナカツヒコ)で、ここまで”タラシ”が続く。
 次の第15代応神天皇は誉田別で、ホムタのワケという名は明らかに流れが違っている。
 建稲種(タケイナダネ)の孫の仲姫命(ナカツヒメ)という尾張氏の姫を皇后としながら裏切ったという話も聞いている。
 こういった流れの中にある景行天皇と尾張国や尾張氏というのはかなり近しい関係性にあると考えていいのではないかと思う。

 それにしてもだ。
 それにしても、いつ誰が最初に景行天皇を祀ったのかについてはさっぱり見えてこない。
 神社側がいう山田郡和爾良神社というのが事実だとして、どうして”ワニ”の神社が景行天皇を祀ることになったのか。
 ワニは春日井(春部)の一族でタカミムスヒ一族とも近しいから天皇家ともゆかりが深いといえばそうなのだろうけど、それにしても景行天皇だけを単独で祀った理由が分からない。
 日本武尊や大碓命の抱き合わせ的に祀ったというのなら理解できるけどそういうことでもない。
 尾張国やその周辺に景行天皇を祀る神社があるかといえばそれもない。
 理由やカラクリを聞けばなるほどそういうことかと納得できそうな気はするのだけど、今の私にそれは見えない。
 景行天皇であることの必然は何だったのだろう。
 別の祭神が景行天皇に変化したという可能性もなくはないだろうか。

 分からない感じがモヤモヤするから、引き続き景行天皇社については心にとどめ置くことにする。
 

作成日 2024.6.10


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