
沓掛から下志段味へ
読み方 | あきば-じんじゃ(しもしだみ) |
所在地 | 名古屋市守山区下志段味3丁目 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明(加具都智神?) |
アクセス | 名古屋市営バス(ゆとりーとライン)「志段味支所北」より徒歩約6分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | ようやく行けた守山区下志段味の秋葉神社 |
定光寺にあった秋葉らしい
守山区の下志段味にある秋葉社。
神社東の県道75号線を北へ行って下志段味橋で庄内川を越えた先は春日井市神領(なかなかすごい地名だ)になる。
この通りは何度か通ったことがあって、神社の存在は知っていた。
ただ、長らく忘れていて、そういえばと思い出たら取りこぼしていることに気づいた。
これが秋葉社だということは知らなかった。
名古屋市守山区のwebサイトに紹介が載っている。
ここに書かれている以上の情報はほとんどないので、そのまま引用してしまう。
祭神の加具都智神(かぐつちのかみ)は現在、八幡神社に合祀されている。秋葉社は明和9年(1772)定光寺よりここに移されたという。土地改良事業により南へ移動し新築した。境内には本堂、西国三十三観音の巡礼供養観音像と参拝の記録が刻まれた20基の石像観音像が祀られた小祠と下志段味村に1基しかない庚申塔がある。また、舟形絵像碑で馬頭観音と思われる道標があり、「右定光寺 左内(うつ)つ」と刻まれているので、かつては「定光寺道」と「大日の渡し」へ通ずる道の分岐点に置かれていたと考えられる。
少し補足をしておきたい。
まず、「祭神の加具都智神(カグツチ)は八幡神社に合祀されている」というのはこれだけでは何のことかさっぱり分からない。
この八幡神社というのは下志段味の八幡神社のことで(秋葉社から見て500メートルほど東南)、『愛知縣神社名鑑』は下志段味の八幡神社について以下のように書いている。
「社蔵の棟札あり。貞享年代(1684-1687)より氏神として村民の崇敬あつく、明治5年庄内川の堤防の南約五丁の社地(下志段味字真光寺12番地)より元境内地に遷座する。同年7月28日、村社に列し、明治40年10月26日供進指定社となる。大正6年11月3日、字西新外に鎮座の秋葉神社(元沓掛村臨済宗、定光寺境内より明和九年当村に遷座の神社)を本社に合祀した。神徳、縁結び、安産、厄除、必勝の神」
該当部分を抜き出すと「大正6年11月3日、字西新外に鎮座の秋葉神社(元沓掛村臨済宗、定光寺境内より明和九年当村に遷座の神社)を本社に合祀した」というのが経緯のようだ。
ただ、よく分からないのは大正6年に八幡神社に合祀されたのに元地にそのまま残っていることだ。
神様だけ移したということはないだろうけど、もしそうなら今の秋葉社は神様不在の形だけということになる。
そんなことはあり得るのか。
もともとこの秋葉は瀬戸市の定光寺(地図)の境内にあったといっている。
江戸時代に定光寺があるあたりは沓掛村(くつかけむら)と呼ばれており(後に中水野村)、今の下志段味のあたりは下志段味村だった。
明和9年(1772年)にどういう事情で定光寺境内にあった秋葉をだいぶ離れた下志段味に移したのか。
その5年前の明和4年(1767年)に尾張一帯で大洪水があって川沿いの多くの村が被害を受けたのだけど、それも何か関係しているのだろうか。
秋葉といえば一般的に火伏せの神で水害とは直接関連はなさそうではある。
もう一つの情報として、「土地改良事業により南へ移動し新築した」というのがある。
元地がどこだったのかについては情報が得られず分からなかった。もう少し庄内川に近いところにあったということだろう。
この土地改良事業がいつのどの工事を指しているのかは不明ながら、おそらく戦後だろうとは思う。
今昔マップで辿る下志段味
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、下志段味のこのあたりは大きく変わったことが分かる。
まず、道筋が違う。
東西に走る県道15号線も、南北の県道75号線もまだない。
八幡神社(下志段味)の東を南北に走る国道214号線が旧道で、この頃にはすでに通っているのだけど、この道路は長らく工事をしていてなかなか完成しない。
もともとはこの道筋の先に志段味橋が架かっていた。今は県道15号線にぶつかるところで途絶えてしまっている。志段味橋も当時より西の国道214号線の道筋に架け替えられている。
集落は下志段味と中志段味が隣接して一体化しており、東の上志段味は少し離れている。
北を流れる庄内川沿いに堤防道路があり、集落との間は広く田んぼだった。
ちょっと謎なのが志段味中学がある一帯の志段味1丁目地区が空白地になっていることだ。
次の大正9年(1920年)の地図では半分田んぼで、半分は桑畑になっている。
秋葉社のことをいえば、それを示すような鳥居はなく、現在地に遷されるまでどこにあったのかは読み取れない。
南に移したということは今より北ということで、土地改良事業というのであれば、農地を宅地化するときだろうから、かつての田んぼかあぜ道にでも祀られていただろうか。
現在地は古くから集落の内なのだけど、地図を辿っていっても最後まで鳥居マークは描かれない。
今昔マップ最後の1992-1996年(平成4-8年)でも、下志段味の集落は明治時代から大きな変化が見られない。少しずつ道路が整備されて家が増えていったくらいだ。
田んぼが消えて家が建ち並ぶようになったのはわりと最近のことらしい。
志段味地区は近年人口が増えていて、来年令和8年には上志段味中学校が開校する。小中学校の統廃合が進む中、新たに中学ができるというのはよほどのことだ。
人口も平成12年(2000年)には2,000人弱だったのが平成31年(2019年)には7,000人を超えている。今は更に増えただろう。
公共交通機関を考えると住むにはなかなか不便そうなのだけど。
神仏寄り合い所帯
守山区のページを改めて引用すると、以下のことを知ることができる。
境内には本堂、西国三十三観音の巡礼供養観音像と参拝の記録が刻まれた20基の石像観音像が祀られた小祠と下志段味村に1基しかない庚申塔がある。
また、舟形絵像碑で馬頭観音と思われる道標があり、「右定光寺 左内(うつ)つ」と刻まれているので、かっては「定光寺道」と「大日の渡し」へ通ずる道の分岐点に置かれていたと考えられる。」
三十三観音のうち一番古いのは安永3年(1774年)、新しいのは明治22年(1839年)のもので、江戸時代中期から後期にかけてのものが多い。その時代に下志段味一帯にこういった観音の石仏が多く置かれていたということだ。
当然ながらもともとは三十三観音プラスアルファがあったに違いない。
内つ(うつつ)は内津川や内津峠がある一帯のことで、春日井市坂下町などがそれに当たる。
大日の渡しは、現在の志段味橋より100メートルほど上流にあった渡し場で、春日井市側大留町の禅源寺大日堂が呼び名の由来だ。
かなり古くからあったようで、小牧長久手の戦い(1584年)のときに秀吉方の池田恒興や森長可たちがここを渡ったと伝わっている。
堂の隣には朱塗りの覆屋に朱塗りの社がある。
守山区に点在する天王社に似ているので、これも天王だろう。もともとここに祀られていたものではなく、どこかから移されたものだと思う。
その隣に並んでいる七つの石碑もそうだろう。
それぞれ「千度参り」、「報徳」、「観音力」、「億陀佛」、「念佛」、「五穀豊穣」、「水神」と刻まれている。
これはあまり見たことがないもので、どういう性質のものだったのかはよく分からない。
こういう祈願をして寺社に奉納したのだろうか。
その隣には二つの石碑が並んでいて、右は庚申塔で、左は文字が読めない。
灯籠の台座には「大權現」と「大神宮」と彫られており、文政6年(1823年)の銘が入っている。
このようにこの場所は下志段味の信仰が一堂に会する寄り合い所帯となっている。
ここが安住の地となっていればよいのだけど。
作成日 2025.3.20