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トヨウケビメ《豊宇気毘売神》

トヨウケビメ《豊宇気毘売神》

『古事記』表記豊宇気毘売神
『日本書紀』表記なし
別名豊受気媛神、登由宇気神、等由気太神、など
祭神名豊受大神、他
系譜(親)和久産巣日神(『古事記』)
属性御食津神
後裔不明
祀られている神社(全国)神宮(三重県伊勢市)、籠神社(京都府宮津市)、豊受神社、神明社、など
祀られている神社(名古屋)神明社(廿軒家)(守山区)、神明社(南押切)(西区)、白山神社(榎白山)(西区)、五社宮(天白区)、天神社(名楽町)(中村区)、神明社(藤森)(名東区)、白山神社(小幡)(守山区)、神明社(猪子石)(名東区)椿神明社(中村区)、下神明社(かの里)(中川区)、三狐神社(野田)(中川区)

何故『日本書紀』は登場させなかったのか

トヨウケ最大の謎は『日本書紀』に出てこないことだ。
『古事記』は書いて『日本書紀』は書かなかった。それは何故なのか?
トヨウケの起源は尾張と三河にある。それが丹波(後の丹後)に移され、伊勢に行き、天皇家が取り込んだ。
何か少しでも書くとボロが出そうでいっそのこと登場させなかったのかもしれない。
嘘をつくより黙っていた方が事実は知られづらい。
しかしそれは都合が悪かったからではなく、あくまでも重要な存在を守るためだっただろうと思う。
そもそも、本当の歴史を一般市民にすべて知らせる必要はない。情報や知識はいつも為政者が握っていて、好きなように出したり隠したりできる。

豊宇気毘売神と登由宇気神は同じなのか?

『古事記』の中で”トヨウケ”が出てくる部分は2箇所ある。
最初は伊邪那美命(イザナミ)の神生みの場面で、火之迦具土神(カグツチ)を生んだ際に女陰(美蕃登)にやけどをして伏せってしまう。
その中で何人かの神を生むのだけど、失禁して尿から弥都波能売神(ミツハノメ)と和久産巣日神(ワクムスヒ)が生まれ、和久産巣日神の子が豊宇気毘売神(トヨウケビメ)といっている。
和久産巣日神は『日本書紀』では稚産霊と表記し、軻遇突智(カグツチ)が埴山姫(ハニヤマヒメ)を娶って生まれた子としている。
埴山姫は軻遇突智の後に同じ母の伊邪那美命から生まれた神(土神)なので、兄と妹の婚姻ということになるだろうか。
その稚産霊から蚕と桑と五穀が生まれたと『日本書紀』は書いている(第五段一書第二)。
このあたりの系譜は『古事記』と『日本書紀』でだいぶ違っているのだけど、豊宇気毘売神を伊邪那美命の系統としている点は頭に入れておきたい。伊邪那岐は関わっていないということだ。

その後、もう一箇所、トヨウケが登場する。
天津日子番能邇邇芸命(アマツヒコホノニニギ)の天孫降臨の場面なのだけど、ちょっとよく分からない記述になっている。
天照大御神(アマテラス)は天降る邇邇芸命に八尺勾玉(やさかのまがたま)、鏡、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を授け、常世思兼神(トコヨノオモイカネ)、手力男神(タヂカラオ)、天石門別神(アメノイワトワケ)を供に付け、この鏡を私の魂だと思って斎き奉るよう命じ、思兼神に対しては祭祀を執り行い政(まつりごと)をしなさいと言った。
天孫降臨の際に、二柱の神は佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拝し祀り、次に登由宇気神、これは外宮の度会神(わたらいのかみ)だといっている。
原文では以下のようになっている。

「此二柱神者 拜祭佐久久斯侶 伊須受能宮 (自佐至能以音) 次登由宇氣神 此者坐外宮之度相神者也」

まず、この二柱の神というのが誰を指しているのかはっきりしない。文章をそのまま解釈すると邇邇芸命と思兼神ということになりそうなのだけど、だとすると手力男神と天石門別神はどうなんだということになるし、それよりも思兼神は伊勢の神宮とはまったく関わりのない神というのをどう考えるかということにもなる。
それから、登由宇気神を豊宇気毘売神と同一とするかどうかという問題がある。
最初に出てきた豊宇気毘売神は”毘売神”、すなわち”ヒメ”神と女神としているのに対して後の方の登由宇気神は女神となっていない。
これはまた後で考えるとして、更に問題は”佐久久斯侶伊須受能宮”と”外宮之度相神者”だ。
一般的な解釈として、佐久久斯侶伊須受能宮を伊勢の神宮の内宮、外宮之度相神者を伊勢の神宮の外宮としているのだけど、本当にそれでいいのだろうか?
伊須受能宮を五十鈴宮、度会神を度会の神とすればその通りだろう。ただ、そうだとしても佐久久斯侶が何を示しているのかはやはりよく分からないし、”外宮之度相神者”という言い回しもちょっと違和感がある。内宮の伊須受能宮と対比させるなら度会宮とした方が自然ではないか。
そして、最大の謎というか引っかかりは、これが内宮と外宮を指しているならば、”天孫降臨以前にすでに伊勢に内宮と外宮があった”ことを意味することだ。
『古事記』は書いていないのだけど、『日本書紀』は第10代崇神天皇の時代に天照大神は豊耜入姫命(トヨスキイリビメ)によって宮中の外で祀らせるようになり、次の第11代垂仁天皇時代に倭姫命(ヤマトヒメ)が各地を巡って最終的に五十鈴川の川上に磯宮(いそのみや)を建てたと書いている。
天孫降臨以前から天照大神を祀る社が地上(葦原中国)にあったという設定もなくはないのだけど、だとしてもそれが伊須受能宮や外宮の度会というのはちょっと無理があるんじゃないだろうか。
『古事記』が書かれた奈良時代初期の人たちの認識といえばそうだとしても、この部分をそのまま素直に受け取ってはいけない気がする。

記紀以外はこのあたりをどう書いているか

『古語拾遺』にはこのあたりの話はない。
『先代旧事本紀』は「陰陽本紀」の中で伊弉冉尊が火産霊迦具突智を生んで苦しんでいるときに稚産霊神を生み、稚産霊神の子を豊宇気比女神と書きつつ、軻遇突智が土神の埴安姫を娶って稚皇産霊神が生まれたといっている。
あれ? と思うのだけど、最初が稚産霊神で後が稚皇産霊神となっていて、後の方は”皇”が入る違いがあるので、別人ということだ。
内容自体は『古事記』と『日本書紀』の合わせ技で、同一にしてしまうと明らかに矛盾するので無理矢理別人化したともとれる。
もしくは、『先代旧事本紀』を信じるならば『古事記』の和久産巣日神と『日本書紀』の稚産霊は別ということか。
トヨウケについては、豊宇気比女神と、やはり”ヒメ”としている。

系譜や後裔は不明

系譜については一切不明としかいえない。和久産巣日神を女神とすれば母親はそれとして、父親に関する記述は何もなく、トヨウケの夫や子供についても何も情報がない。
『新撰姓氏録』(815年)にも手がかりを見つけることはできないので、後裔がいたかどうかも不明ということになる。
ただ、重要なのは上にも書いたように伊邪那美の系統としていることだ。伊邪那岐系統ではないと考えるべきだろう。

伊勢の外宮で祀られるようになった経緯について

トヨウケといえば伊勢の神宮外宮(web)の祭神としてよく知られているのだけど、どうして外宮で祀られるようになったかについてはよく分かっていない。
804年(延暦23年)に外宮の禰宜だった五月麻呂らが神祇官に提出した『止由気宮儀式帳』に、雄略天皇の夢に天照大御神がが出てきて、一所にのみ坐しているのは苦しいことで、食事(大御饌)もままならない。丹波国の比治の真名井に坐す我の御饌都神(みけつがみ)である等由気大神を我の元によこして欲しいと告げたため、雄略天皇が度会の山田原に宮を建てて等由気大神を祀ったのが外宮の起源という話があり、これがまるで事実のように語られているのだけど、もちろんそんなことが本当とは思えない。
いくら神祇官が認めたといっても外宮の禰宜が主張しているだけのことで、事実そのままではないはずだ。
もしこれが本当だとすると説明のつかないことがいくつも出てきてとりとめがなくなる。
この話には裏があって、事実ではないのだけどそういうことにした理由というのもがある。表向きそうしたということだ。
この話のポイントは、天照大御神が一箇所にとどめおかれて苦しいと訴えている点と、丹後という場所、そして度会の山田原というあたりで、そこに大きなヒントがある。
これは見方を変えれば天照大御神が天皇に祟った話だ。その祟りを鎮めるために丹後の等由気大神が必要で、
天皇は慌てて天照大御神を祀り鎮めたということだ。
しかし、それがどうして度会の山田原だったのか、という点については謎が残る。
もし、天照大御神の食事係というのであれば内宮の正殿に近いところに置いた方が何かと便利だ。それを4キロも離れた場所に置く必然がどこにあったのか。
現在は外宮や内宮その他をあわせて神宮という扱いになっているのだけど、内宮と外宮はそもそも別々の神社だった。
内宮と外宮という呼び名は平安時代以降といわれていて、内宮も外宮も別の社名だった。
現在も正式名は内宮は皇大神宮で、外宮が豊受大神宮だけど、たとえば『延喜式』神名帳(927年)では内宮が大神宮、外宮は度会宮と書かれている。

外宮についてもう少し詳しく見る前に、まずは丹後におけるトヨウケの足跡を確認しておいた方がよさそうだ。

丹後にゆかりがある理由

丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ/web)は主祭神を彦火明命(ヒコホアカリ)、相殿神を豊受大神、天照大神、海神、天水分神とし、内宮と外宮の元伊勢を称している。
彦火明命は現在も社家を務める海部氏(あまべうじ)が祖とする神で、もともとの祭神ではない。
社伝によると、現在奥宮真名井神社がある真名井原に豊受大神を祀ったのが始まりという。
平安時代成立と考えられている『大同本記』(逸文)にも同様の記述があり、それによると垂仁天皇の時代に丹波国に派遣された四道将軍の一人、道主命(ミチヌシ)の娘の八乎止女(ヤオトメ)が比治乃真井に御饌都神を奉斎したという。
そこは匏宮(よさのみや)と呼ばれ、『倭姫命世記』が伝える天照大神が4年間滞在した吉佐宮のこととされる。

真名井に八乎止女といえば、丹後地方に伝わる羽衣伝説が思い出される。
『丹後国風土記』(逸文)に、奈具社の起源伝承としてこんな話が書かれている。
丹波郡比治里の比治山の頂にある真奈井で8人の天女が水浴をしていたとき、和奈佐という老夫婦が一人の天女の羽衣を隠した。
子供がいなかった老夫婦の企みにはまって天に戻れなくなった天女は、仕方なく老夫婦の家で暮らすことになる。
そこで万病に効く酒を造ったところ、家は豊かになった。すると老夫婦はおまえはやはり自分たちの子ではないといって天女を追い出してしまう。
行く当てもなくさまよった天女は奈具村に至り、やがてそこで祀られるようになった。
その天女こそ豊宇賀能売命(トヨウカノメ)だというのだ。
籠神社は天橋立のすぐ北にあり、奈具神社は籠神社から見て10キロほど東南のやや離れているのだけど、広く丹後国というくくりで見れば丹後地方の伝承として天女や羽衣伝説とトヨウケが結びつけられて語られていたということがいえそうだ。

では何故、トヨウケと丹後が結びついたのかだけど、一番最初に書いたようにトヨウケの元地は尾張と三河で、丹後ではない。
丹後でトヨウケを祀った海部氏は尾張氏の一族ではあるものの本家筋ではなく、いつの時代かに丹波国(丹後刻)に移ってそこを開拓した人たちだ。
つまり、元を辿ればトヨウケは海部氏=尾張氏の神だったということだ。
真名井原で豊受大神を祀ったのは天香久山(アメノカグヤマ)という伝承がある。尾張氏初代を天火明(アメノホアカリ)とするとその子の天香久山は尾張氏二代に当たる。
天火明と彦火明を同一とするかどうかという問題はあるものの、海部氏はこの系譜につらなる人たちだ。
671年に26代の海部伍佰道(あまべのいほじ)が彦火火出見尊(ヒコホホデミ)を祀って籠宮(このみや)と改め、719年に真名井原から現在地に移して祭神を彦火明命としたのが27代海部愛志(あまべのえし)と伝わる。

外宮の度会氏とは

トヨウケと尾張氏との関わりはそれだけでない。
神道五部書のひとつ『豊受皇太神御鎮座本紀』( とようけこうたいじんごちんざほんき) に、尾張氏三代の天村雲命(アメノムラクモ)は伊勢大神主上祖とあることからもうかがえる。
宮内庁所蔵の尾張氏系図には、彦坐王(ヒコイマス)の後裔の丹波国造、大佐々古直は石部直・度会神主の祖とあり、ここでも尾張氏と神宮外宮はつながってくる。外宮は度会宮と呼ばれ、長らく度会氏が社家を務めていた。
ついでに書くと、彦坐王は『日本書紀』では第9代開化天皇と和珥氏(わにうじ)系の姥津媛(ハハツヒメ)の子とされ、『古事記』は意祁都比売命(オケツヒメ)の子としている。
意祁都比売というと、トヨウケ(豊受)の別名ともされる大宜都比売(オオゲツヒメ)を連想させる。
大宜都比売は『古事記』の中で伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が生んだ伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として出てくる他、高天原を追放された須佐之男命(スサノオ)に料理を出して殺されてしまったあの神だ。

伊勢と尾張は伊勢湾を挟んで対面にあるという地理的なことだけでなく、伊勢の神宮と尾張の尾張氏とは知られている以上に深い関係がある。
トヨウケは尾張の神だと断言してしまうのは乱暴だけど、尾張を発して丹波、伊勢へと移ったといういい方はできる。
いい方を変えれば、天皇家が天照大神を皇室の神とするに当たって尾張の神が必要だったということだ。
しかし、それを尾張の神とすることはできなかった。そこにはやり公にできなかった事情というものがあったのだろう。

”山田”と”豊”ということ

ここでもう一度、伊勢の神宮外宮に話を戻したい。
度会宮と呼ばれた外宮があったのは山田原だ。今も宇治山田などに山田地名は残っている。
山田の本拠地は尾張で、高天原の周辺8箇所に山田が置かれ、そこに暮らす人たちは後に山田の姓を名乗った。
後の山田郡もそうだし、ヤマタはヤマタノオロチ(八岐大蛇)にもつながる。
尾張が本来の高天原というのは何度も書いているけど、尾張氏は天火明や更に遡って天御中主(アメノミナカヌシ)の後裔で、天の一族だから天の一族がいる土地を高天原と呼ぶのは当然というは必然だ。
原は原っぱという言葉に名残があるように土地を意味する。なので、山田原は山田の土地ということで、そこが山田だったのか、山田の一族の支配地だったのかどちらかだろう。
度会(わたらい)は渡りアイが詰まったもので、アイから渡って来たという意味かもしれない。
渡来というと海の向こうから来た人たちを指すと考えられているけど、実際は高天原から来た人たちのことだったという話を聞いている。
天降りという言葉が今も残っているけど、同じような意味で渡来という言葉が使われていたようだ。
渡り来る人という意味であり、橋渡しをするといった意味もある。
籠神社がある天橋立も、”天”の橋立だ。
アイといえば愛知の愛だ。尾張と三河を愛知と呼ぶのはもちろん偶然ではないし、こじつけでもない。
どうして愛は”アイ”なのか? あいうえお順の最初と二番目で、ある意味ではイザナギとイザナミを暗示している。
愛を知る愛知が尾張と三河から成り立っていることの意味を知らなければならない。
イサナキとイサナミは誘っている。逆から読めば、来なさい、見なさいになる。
それは来て見て愛を知れということだ。
三河は”トヨ”の国というのも何度も書いている。
豊葦原瑞穂国の”豊”だ。
トヨウケまたはトユケ、またはトヨウカというからには”トヨの国”である三河にも関わりが深いということになる。

外宮の相殿神について

外宮には隠された相殿神がいることはある程度知られている。
上に書いてきたことと秘密の相殿神は当然関係があって、この相殿神の正体が明らかになればはっきりしてしまうことが多いはずだ。
尾張の神そのものかもしれないし、巡り巡ってなるほどそういうことかと理解できる神かもしれない。
相殿神は中世以降のことではなく、かなり遡るのではないかと思う。
『延喜式』神名帳に「伊勢國度會郡 度會宮四座 相殿坐神三座 並大 月次新嘗」とあるので、平安時代にはすでに主祭神の他に相殿神が三柱祀られていたことが分かる。もしかしたら最初からそうだった可能性もある。
更にいえば、「並大 月次新嘗」と、四座すべてが名神大社で月次祭と新嘗祭に奉幣が行われていたということは、相殿神の三柱は添え物的な存在ではなく主祭神と同格かそれに近い神だったということになる。
では、この三坐の神は何なのかだ。

『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、もともと天照太神の相殿に坐していた天兒屋命(アメノコヤネ)と太玉命(フトダマ)を、止由氣宮ができたときに止由氣宮の相殿神だった皇孫の瓊瓊杵尊(ニニギ)に従わせて、天照皇太神の相殿神を天手力男神(アメノタヂカラノオ)と萬幡豐秋津姬命(ヨロヅハタトヨアキツヒメ)としたという。
これだけを読むと一体何をいっているのかと思うのだけど、この前段として『豊受皇太神御鎮座本紀』独自の話が展開されていて、その流れの中でこういう話になっている。
それにしてもよく分からない異色の顔合わせだ。
そもそも大神宮(内宮)の相殿神がどうして天手力男神と萬幡豐秋津姬命だったのか。
何故、止由氣宮ができたときにこの二神を移す必要があったのか。
止由氣宮のもともとの相殿神が瓊瓊杵尊だったというのもすごく唐突に思える。
『豊受皇太神御鎮座本紀』をはじめとする神道五部書の真贋についてはいろいろ議論のあるところでそのまま受け取るわけにはいかないのだけど、まったくデタラメな作り話を書くとも思えず、何らかの伝承や根拠があったのは間違いないだろう。
本当ではなくてもまったくの嘘でもない。何か暗示めいたものも感じる。
もしこれが本当であれば、外宮の相殿神が瓊瓊杵尊、天兒屋命、太玉命ということを公表できない理由はない。天皇家にとって不都合な真実というほどではない。
瓊瓊杵尊は尾張氏系、天兒屋命は中臣・藤原氏系、太玉命は忌部氏系なので、止由氣宮はそれらの合体した宮だったという見方もできる。
ただ、トヨウケ(止由氣)と同格の相殿神とするには瓊瓊杵尊はともかく、天兒屋命と太玉命では格下すぎるように思うけどどうだろう。

トヨウケは二人いる?

相殿神の正体も気になるところではあるのだけど、やはり問題はトヨウケがいつどこで初めて祀られたかということだ。誰がどいうのも重要になる。
そして一つ問題提起すると、複数登場する”トヨウケ”は本当に一人なのか? ということも問いかけたい。
伝承としての古さでいうと、丹後一宮の籠神社ということになるだろうか。
真名井原に豊受大神を祀ったのが始まりというのだけど、このときトヨウケをどう表記していたのかは分からない。
記録として古いのは『古事記』の「登由宇氣神 此者坐外宮之度相神者也」で、奈良時代初期の712年だ。
外宮の度会神というからには、すでに内宮・外宮という呼び名が一般化していたのだろうか。
登由宇氣神といっているのでトヨウケのことだろうけど、その前に出てきた豊宇気毘売神と同一と決めつけることはできない。
登由宇氣神が女神ではないとは断定できないものの、豊宇気毘売神は女神とするのが妥当だろう。
『止由気宮儀式帳』は平安時代初期の804年(延暦23年)に提出されたもので、そのときは止由気宮と称していたということだ。
しかし、何故か平安時代中期の『延喜式』神名帳(927年)では度会宮になっている。どうして止由気宮ではなかったのか。
少し遡るけど、712年の風土記編纂の詔を受けて編纂された『丹後国風土記』(逸文)では天女の一人を豊宇賀能売命としている。
後に奈具村に行き着いてそこで祀られた(奈具社)のは女神だ。
『豊受皇太神御鎮座本紀』が実際に書かれたのは鎌倉時代という話もあるけど、だとしても少なくとも鎌倉時代にはすでに豊受皇太神という表記を使っていたということだ。
20年に一度伊勢の神宮で行われ続けている式年遷宮の第一回は持統天皇時代の690年とされる。これは内宮で、692年に外宮で行われたという。
これが本当であれば、飛鳥時代には伊勢に内宮と外宮(名称はどうあれ)があったということになる。

しかし、あらためて考えてみると、登由宇氣神と豊宇気毘売神(豊宇賀能売命)は別なんじゃないのかと普通に思う。
”トユケ”と”トヨウケ”は似てるけど違うし、片方が女神というのも大きな違いだ。
『豊受皇太神御鎮座本紀』は天照大神は伊勢へ行き、止由氣大神は高天原に戾って日之小宮(ひのわかみや)にいて、天津神籬(あまつひもろき)を魚井原(まないはら)に立て、道主貴、八小童、天日起命、豐宇可能賣命が御饌をそなえて斎き祀ったと書いている。
つまり、止由氣大神は宮の主であり、豐宇可能賣命は宮を祀る側で、別人だといっている。
では外宮の神はどちらかといえば当然、止由氣大神だろうということになる。それはおそらく男神だ。
だったら止由氣大神はどっから出てきたの? ということになる。

トユケはひとかたまりなのか、ト-ユケなのか、トユ-ケなのか。
トヨウケの詰まったものという可能性もあるか。
『豊受皇太神御鎮座本紀』で気になったのは、大祖止由氣皇太神の前の社に皇孫命の靈を祀れと神勅を下したのが高貴大神だといっていることだ。
高貴大神は高木大神こと高皇産霊尊(タカミムスビ)のことだろう。
急に登場した印象があるけど、そもそも皇孫の瓊瓊杵尊(ニニギ)は天照大神の孫というだけでなく高皇産霊尊の孫でもある。
にもかかわらず、伊勢の神宮では高皇産霊尊がまったく祀られていないのはどういうことか? とても不自然で違和感がある。
記紀神話において天岩戸開きで中心的に役割を果たし、瓊瓊杵尊の天降りのときも重要な役割を任されたはずの思金神(オモイカネ)も伊勢の神宮ではまったく影も形もない。思金神は高皇産霊尊の子とされる神だ。
もしかすると相殿神の一柱は高皇産霊尊かもしれないし、もっと飛躍して考えれば外宮の神である止由氣大神(豊受大神)は高皇産霊尊ではないのか。
だとすれば、トヨウケ-ヒメはトユケ(高皇産霊尊)の娘の萬幡豐秋津姬(栲幡千千姫)とも考えられ、萬幡豐秋津姬が皇大神宮(内宮)の相殿神の一柱となっているのも納得がいく。
外宮の祭神は、トユケ大神こと高皇産霊尊で、相殿神を孫の瓊瓊杵尊とその両親の萬幡豐秋津姬と天忍穂耳命(アメノオシホミミ)とするのが一番しっくりくるのだけど、それはちょっと無理があるか。
ただ付け加えると、神宮外宮の第一別宮は多賀宮 (たかのみや)で、もともとは高宮といっていた。
豊受大御神の荒御魂を祀るというのだけど、高は高皇産霊尊(高木神)を思わせる。

トヨウケ神社と伊勢神道

トヨウケを祀る神社としては全国に豊受神社や神明社がたくさんある。天照大神とセットになっているところもあればトヨウケ単独のところもある。
トヨウケを主に祀っている神社は中世以降に流行った伊勢神道の影響を受けたところという可能性がある。
鎌倉時代から南北朝時代にかけて外宮の神官だった度会氏によって唱えられた神道ということで度会神道ともいうその思想の中心は、正直と清浄を本とし、五行説なども取り込みつつ、外宮の祭神である豊受大神を天御中主神(アメノミナカヌシ)や国常立尊(クニノトコタチ)と同一の根源神とするものだった。
いわゆる神道五部書は、この度会氏によって書かれた偽書と考える人もいる。
内宮より下に見られていた外宮の地位向上を目指したというのが一般的な解釈なのだけど、実情はそんなに単純なものではない。
おそらく度会氏の家には表沙汰にできない歴史が伝わっていて、それをそのまま書くことができなかったのでああいう内容になったのはないかと思う。
たとえば『ホツマツタエ』やそれに類するような伝承も知っていたかもしれない。
神道五部書や古史古伝を偽書と決めつけて最初から検討もしないような態度では歴史の真相(深層)には絶対に触れることはできない。
トヨウケに関しても裏がないわけがない。表からも見え隠れしていることがあって、そこからヒントなりメッセージなりを読み取ることは可能だ。

尾張と丹後と伊勢

トヨウケの正体についてはっきりしたことはいえないわけだけど、伊勢と尾張と丹後は確実につながっていて、それを結んでいるのは尾張氏だということだ。
もちろん、尾張氏だけでなく、天の一族や神の一族、豊の一族なども複雑に絡み合っている。
山背や丹波など、いわゆる京は歴史の博物館だという話を聞いている。平安京よりもずっと以前のことだ。
だから京という呼ばれ方をしている。西の西京があり、東の東京があり、中央の中京がある。
これらはたんにつながっているとか連動しているとかではなく三つ子の関係にある。
それぞれの中には二つの関係性があり、いくつもの円構造が入れ子状態になっている。
その中でトヨウケがひとつ重要な存在となっていることは間違いない。
もう少し上手く説明できるといいのだけど、とりあえず今回はここまでとしたい。

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