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スガワラノミチザネ《菅原道真》

スガワラノミチザネ《菅原道真》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 阿呼(幼名)、吉祥丸、菅公、菅丞相、天神
祭神名 菅原道真
系譜 (父)菅原是善
(母)伴真成の娘
(妻)島田宣来子
(女)宮原頴人娘、他
(子)菅原高視、菅原衍子、他25人以上とも
属性 平安時代の貴族、学者、政治家、漢詩人
後裔 同族に大江氏、秋篠氏
祀られている神社(全国) 太宰府天満宮北野天満宮の他、全国の天満宮、天神社など
祀られている神社(名古屋) 天満宮(細根)(緑区)、有松天満社(緑区)、武島天神社(西区)、堀田天神(如意)(北区)、笠寺天満宮(東光院)(南区)、天神社(中切町)(西区)、天神社(烏森)(中村区)、冨士天満社(荒子)(中川区)、天神社(戸田)(中川区)、北川天満宮(瑞穂区)、眞好天神社(瑞穂区)、北野神社(大須)(中区)、天満社(新家)(中川区)、天神社(万場)(中川区)、天神社(名楽町)(中村区)、七尾神社(東区)、天神社(桜天神社)(中区)、山田天満宮(北区)、上野天満宮(千種区)

分かっていないことも多い菅原道真という人

 菅原道真といえば学問の神様としてよく知られている人物ながら、その出生や家族構成については不明な点も多く、実はよく分かっていないことの方が多い。
 父は菅原是善(すがわらのこれよし)で、母は伴真成(とものまなり)の娘とされ、その三男が道真というのだけど、上の兄弟については何も伝わっておらず、夭折したとも考えられている。
 幼名は阿呼(あこ)が通説とされるも、確かな史料はなく、定かでではない。
 生まれた地もはっきりしておらず、奈良県奈良市菅原町説や京都市下京区説、上京区説などがある。
 父親の菅原是善は文章博士(もんじょうはかせ)だったので平安京にいたはずだけど、平安時代は母親の実家で出産するのが慣わしだったので、母親の実家がどこにあったかによる。
 伴真成は名前から分かる通り古代有力豪族の大友氏の一族なのだけど、この頃までに大伴氏は力を失っていたので政権近くにいたという確証はない。
 823年(弘仁十四年)に大伴親王が即位して第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)となったときに遠慮して大伴からに改めている。

 道真の家の菅原家はもともと、土師氏(はじうじ)だったとされる。
 天穂日命(アメノホヒ)の後裔の野見宿禰(ノミノスクネ)が第11代垂仁天皇の皇后の日葉酢媛命(ヒバスヒメ)が亡くなったとき、殉死の風習を改めるため埴輪(はにわ)で代用することを進言し、垂仁天皇から土師職(はじつかさ)を与えられたことが土師を名乗るきっかけとなった。
 ひ孫の身臣が第16代仁徳天皇から土師連(はじのむらじ)姓を賜ったことから正式に土師氏を名乗るようになったとされる。
 家柄としては葬送を司る一族だったということだ。

 野見宿禰は『日本書紀』の垂仁天皇のところで登場する。
 大和の当麻邑(たいまむら)に力自慢の当麻蹶速(タイマノケハヤ)という人がいて、出雲にいた野見宿禰を呼んで戦わせたところ、野見宿禰が勝ったため、天皇は野見宿禰に当麻蹶速の土地を与えたというものだ。この勝負が相撲の起源ともされる。
 天穂日命は天照大神(アマテラス)と素戔嗚尊(スサノオ)の誓約(うけひ)によって生まれた五男三女神の一柱で、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)の弟に当たる。
 天津神が地上に降りるにあたって最初に派遣されたのが天穂日命だった。
 しかし、天穂日命は大国主神(オオクニヌシ)に従って地上で暮らすようになり高天原に報告にも戻らなかった。そのまま大国主神に仕え、その子の建比良鳥命(タケヒラトリ)は出雲国造となり、その子孫は千家として今も出雲大社(web)の宮司を務めている。
 つまり、土師氏だった菅原家は、この出雲国造家と同族ということになる。
 菅原を名乗るようになるのは、道真の曾祖父の古人(ふるひと)のときで(781年)、住んでいた大和国菅原邑にちなんでいる。
 この頃の菅原家はまだ天皇の葬儀に関わっていたようだ。

 

道真の時代背景

 道真が生まれた845年といえば、平安京遷都から50年ほど経った頃だ。
 平安とは名ばかりで、伊予親王の変(807年)、薬子の変(810年)、承和の変(842年)などの政争が続き、平安前期から中期にかけては地震や富士山の噴火、疫病の蔓延など、天変地異が頻発した時代でもある。
 一方で、遣隋使、遣唐使を通じて中国からの文化や知識などが大量に入ってきた時期でもあった。
 空海が死去したのは835年なので、道真とは重なっていないものの、時代としては遠くない。
 遣唐使廃止を進言したのが道真で(894年)、中国の文化などをありがたがって無条件に受け入れていた最後の時代という言い方もできるかもしれない。この後、国風文化が花開くことになる。

 道真が生まれた頃の菅原家は学者一家として名が通っており、道真も自然とその道を進むことになった。
 小さい頃から出来がよかったようで、11歳で初めて漢詩を詠み、18歳で文章生(もんじょうしょう)という学生となり、特に優秀な2名だけがなれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)にも選ばれた。
 874年には従五位下となり、877年には文章博士になった。
 このことによって道真は天皇にも助言を与えることができる身分になった。
 880年に父の是善が没すると私塾の菅家廊下を引き継ぎ、朝廷の文人の中で中心的な存在となっていく。

 転機が訪れたのは、886年に讃岐国の国司筆頭に当たる受領(ずりょう)として讃岐国へ赴くことになったことだった。
 讃岐といえば空海の出身地で、ここでも道真と空海はすれ違っている。道真は空海を少なからず意識していたのではないかと思うけどどうだったのだろう。
 4年後の890年、任地の讃岐国から帰京した道真を宇多天皇は側近として取り立てた。
 第59代宇多天皇はちょっと特異な天皇で、第58代光孝天皇の皇子(第七皇子・定省王)ながらいったん臣籍降下した(源定省と名乗る)後に即位した初めての天皇だった。
 本来であれば貞保親王が即位するはずだったのを関白の藤原基経がそれを嫌い、定省王(源定省)を宇多天皇として即位させた(887年)。このとき定省王は21歳だった。
 ただ、宇多天皇と藤原基経は仲が悪かったようで、それを取りなした道真を宇多天皇が気に入ったという話もある。

 891年に藤原基経が亡くなると宇多天皇は俄然やる気を出し、藤原家を押さえつけにかかった。
 このとき基経の息子の時平はまだ20歳。のちに道真の左遷を主導することになるのがこの藤原時平だ。
 宇多天皇は道真を参議に抜擢した(893年)。有能であるからというだけでなく、藤原家に対抗させる狙いがあったとされる。
 ところが宇多天皇は897年に退位してしまう。急にやる気を失ってしまったらしい。
 それまでに力を付けて右大臣にまでのぼった藤原時平に対抗するのが嫌になったのだろうか。
 宇多天皇は上皇となり、醍醐天皇が即位した。このとき、道真については引き続き取り立てるようにと、宇多天皇は醍醐天皇にいったとされる。
 899年には藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となった。
 通常、学者の家の人間が右大臣にまでのぼるということはない。道真の家の菅原家も家格としては高くなかった。それゆえ、周囲の反感を相当買ったに違いない。道真もいろいろな理由をつけて辞退しようしたものの聞き入れられず、結果として政争に巻き込まれることになる。
 それでも後ろに宇多上皇がついている間はよかった。しかし、宇多上皇が突然、出家してしまったからたまらない。
 すかさず時平は道真追い落としにかかる。

 

太宰府へ

 醍醐天皇に道真が娘婿の斉世親王を即位させようとたくらんでいるなどと吹き込み、醍醐天皇はそれを真に受けて道真左遷を決めてしまう。
 おそらく裏にはもっと複雑な事情があったのだろうけど、表面上ではそういうことになっている。
 宇多上皇がついている道真について醍醐天皇もよく思っていなかったのかもしれない。
 遠い太宰府の地に送られた道真は、そこで幽閉生活を送ることになる。その暮らしぶりはかなり困窮したものだったようで、それを嘆く歌なども残している。
 家族と離れて会えなかったのもつらかっただろう。道真には妻と妾の子があわせて25人以上もいて子煩悩な一面があったとされる。
 太宰府に飛ばされた2年後の903年に死去。享年59。

 

死後ほどなくして祀られる

 道真の亡骸はそのまま太宰府の安楽寺に葬られることになるのだけど、葬送の牛車が安楽寺の門前で動かなくなったため、ここに道真は留まりたいのだろうということになり、境内に廟を立てて祀ることになった。これが後の太宰府天満宮の前身だ。

 この後、平安京では次々と関係者が死んで道真の祟りと考えられたというのが一般的なイメージだろうけど、実際は道真が怨霊とされるまでにはかなりの年月が経っている。
 908年の藤原菅根の死に続いて909年には左遷を首謀したとされる藤原時平が39歳で死去した。病死ではあったものの39歳という若さから道真の祟りではないかという話がにわかにささやかれるようになる。都では疫病が流行ったり天変地異が続いたのもそう思わせる要因となった。
 醍醐天皇は左大臣の藤原仲平に命じて太宰府に派遣し、道真の墓の上に社殿を造営して安楽寺天満宮と称すようになった(919年)。
 913年には右大臣の源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死。
 923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳で死ぬといよいよ道真は怨霊扱いされるようになる。
 朝廷は道真の怒りを鎮めるべく元号を延長と改元し、道真を右大臣に復帰させ、正二位を追贈して霊を慰めようとした。
 それでも都の変死は収まらず、保明親王に代わって皇太子となった慶頼が5歳で死去、ついには決定的ともいえる930年の清涼殿落雷事件が起きる。
 醍醐天皇も参列した会議中の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫をはじめ朝廷の要人に多くの死傷者が出た。
 この件で醍醐天皇は床に伏せってしまい、皇太子の寛明親王(朱雀天皇)に譲位したとたん崩御した。
 翌931年には宇多法王まで亡くなってしまった。
 その後、道真には太政大臣が追贈され、道真はすっかり御霊扱いされてしまう。

 

道真の霊が現れる

 942年、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女(巫女ともされる)が託宣を受けて道真を祀ったのが北野天満宮の起源という。
 多治比文子は道真の乳母だったという話もあるのだけど、道真の霊が出てきて我を右近の馬場に祀れという神託を受けて自分の家の庭に祠を祀ったといい、それが文子天満宮(web)として今も残っている。
 右近の馬場というのは、右近衛府の馬場のことで、毎年5月に近衛役人の競馬があった。道真は右近衛大将だった時代に好んでこの行事に参加していたという。
 道真は文武両道の人で武芸にも長けていたというと多くの人は意外に思うんじゃないだろうか。
 947年、北野にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮らが朝廷の命によって道真を祀る社を造営し、朝日寺を神宮寺とした。
 987年、初めて勅祭が行われ、一条天皇から北野天満宮天神の勅号が贈られた。
 北野天神は後に二十二社の一社となり、天皇や朝廷の崇敬を受けることになる。

 

詩文の神から学問の神へ

 江戸時代になると道真左遷の昌泰の変を題材とした芝居『天神記』や『菅原伝授手習鑑』、『天満宮菜種御供』などが作られ、人形浄瑠璃や歌舞伎でも上演されて道真が再注目されることになる。
 江戸時代も中期以降になると、天皇の忠勤、学問ができた学者という面が強調されるようになり、寺子屋などでもそう教えられたことから徐々に学問の神という性格を強めることになった。
 道真は死後、早い段階で天満大自在天神と神号が与えられ、北野で祀られていた火雷神や古くからの天神信仰と結びついて、天神といえば道真のこととされるようになっていった。
 そのため、古来より天神社として天神を祀っていた神社の多くが江戸時代に道真を祀る天満宮とされた。
 現在、天満宮として菅原道真を祀っている神社も、創建当初からそうだったとは限らない。むしろ道真を祀る神社として創建された方が少ない。

 名古屋でいうと、天満宮(細根)(緑区)、有松天満社(緑区)、武島天神社(西区)、堀田天神(如意)(北区)、笠寺天満宮(東光院)(南区)、天神社(中切町)(西区)、天神社(烏森)(中村区)、冨士天満社(荒子)(中川区)、天神社(戸田)(中川区)、北川天満宮(瑞穂区)、眞好天神社(瑞穂区)、北野神社(大須)(中区)、天満社(新家)(中川区)、天神社(万場)(中川区)、天神社(名楽町)(中村区)、七尾神社(東区)、天神社(桜天神社)(中区)、山田天満宮(北区)、上野天満宮(千種区)など、菅原道真を祀っている神社がけっこうある。
 しかし、これらは後付けのところがほとんどで、江戸時代以前から菅原道真を祭神としていたところはごく少ない。
 中区の桜天神は信長の父の織田信秀が北野天満宮から菅原道真の木像を勧請して那古野城の祠に祀ったのが始まりとされるので、名古屋における道真の神社としては古い方だろう。

 

祀って鎮めて味方に付ける

 以上のように、平安時代に怨霊鎮めとして祀られた天神道真は江戸時代になって学問の神として復活したというのがおおまかな理解でいいと思う。
 その間のことでいうと、鎌倉、室町時代には詩文に秀でていた道真にあやかろうと、北野天神で歌合の会などが催されるようになっているから、そのあたりも後の時代につながっている。

 日本人の面白いというか特異なところは、祟る人間を神として祀って鎮め、それを自分たちの味方にしようという発想だ。
 西洋と日本の違いの例え話として、チェスと将棋の違いがある。チェスは相手の駒を取ったら捕虜にするだけなのに対して将棋は取った駒を自分の駒として使える。そこに大きな違いがある。
 戦国時代を考えても、相手の国の大将をを討ち取ったら家臣を自分の軍に入れて使っていた。その一番の成功者が徳川家康だ。
 怨霊化した人間を神として祀る例としては、道真の他にも平将門などが代表例として挙げられる。
 不慮の死を遂げたり、幼くして亡くなった子供を若宮として祀るのもそれに近いものがある。
 平安時代というのはこういった怨霊、御霊信仰が一般化してもっとも盛んだった時代で、道真が生きた時代背景として理解しておく必要がある。

 

わりと幸せな人生だった

 望まない政争に巻き込まれて左遷されて死んだ悲劇の人で怨霊化したというのが道真のイメージだろうけど、あらためてその一生を俯瞰してみると必ずしもそうは思えなくなる。
 学者の家に生まれた出来の良い子は順調に出世して功成り名遂げて、たくさんの子供にも恵まれた。平安貴族に妾がいるのは当たり前としても25人の子はさすがにちょっと多い。
 確かに後半生は不幸な面もあったけど、平安時代前期の59歳といえばけっこうな長寿だ。充分やるべきこともやれただろう。
 死ぬときも世の中や関係者を恨みながら死んだとは思えないし、ましてや死後に呪ってやるなどとは考えもしなかったのではないか。
 怨霊になるつもりもないのに怨霊とされたことが、あるいは一番の悲劇といえるかもしれない。
 少々堅物なところはあったようだけど、詩歌を愛する心も持っていたし、会ってみれば人間味のある暖かい人だったのではないかと勝手に想像する。
「東風吹かば 思い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」なんて、すごくセンチメンタルな歌だ。高尚でも何でもない。
 でも、このセンチメンタルさが日本人は好きなのだ。私も例外ではない。

 

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