スガワラノミチザネ《菅原道真》

2020年1月26日

スガワラノミチザネ《菅原道真》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 阿呼(幼名)、吉祥丸、菅公、菅丞相、天神
祭神名 菅原道真
系譜 (父)菅原是善
(母)伴真成娘
(妻)島田宣来子
(女)宮原頴人娘・他
(子)菅原高視、菅原衍子、他25人以上とも
属性 平安時代の貴族、学者、政治家、漢詩人
後裔 同族に大江氏、秋篠氏
祀られている神社(全国) 全国の天満宮、天神社
祀られている神社(名古屋) 天満宮(細根)(緑区)、有松天満社(緑区)、武島天神社(西区)、堀田天神(如意)(北区)、笠寺天満宮(東光院)(南区)、天神社(中切町)(西区)、天神社(烏森)(中村区)、冨士天満社(荒子)(中川区)、天神社(戸田)(中川区)、北川天満宮(瑞穂区)、眞好天神社(瑞穂区)、北野神社(大須)(中区)、天満社(新家)(中川区)、天神社(万場)(中川区)、天神社(名楽町)(中村区)、七尾神社(東区)、天神社(桜天神社)(中区)、山田天満宮(北区)、上野天満宮(千種区)

 菅原道真について簡単に説明すると、平安時代前期の845年に生まれた貴族で、宇多天皇に重用されて異例の出世を遂げたものの、それを妬んだ藤原時平の陰謀で太宰府に左遷され、そこで不遇の死を遂げたことで怨霊化し、天神として祀られるようになり、江戸時代に入ってから学問の神という性格に変わった、といったところだろうか。
 しかし、こういった表面的なエピソードだけで語りきれないところが道真にはある。良くも悪くももっと人間味溢れる人だった。
 たとえば、道真について清廉潔白な堅物の学者といったイメージを抱いている人は少ないと思うけど、妻との間だけでなく妾や多数の女との間に25人以上の子供がいたと聞けばどうだろう。
 平安貴族としては特別なことではなかったし、いくら元気でも、なかなか25人の子供は作れない。道真にはそういう一面もあったということだ。
 宇多天皇に気に入られたのも単に有能だったからというだけではない。政争の道具というと言葉が悪いけど、本人の思惑とは無関係に否応なく政争に巻き込まれ、きれい事だけでは済まなかったはずだ。無害な人間なら藤原の陰謀で飛ばされることもなかった。
 文武両道で武芸にも秀でていたというのも道真のイメージにはないものだけど、そちらの方面でもかなり優秀だったようだ。
 貴族の家に生まれ、出世を遂げ、多くの女性と子供に恵まれたのだから、それだけで充分幸せではないかと客観的に見れば思う。晩年、地方に飛ばされて貧乏暮らしで苦労したといっても、前半生は人並み以上に幸福だったと思えば悪くない人生だ。怨霊と化して復讐して回るなんてことは本来、道真のキャラクターにはなかったものだ。

 道真の家はもともと、土師氏(はじうじ)だった。
 天穂日命の末裔とされる野見宿禰が殉死の風習を改めるため埴輪(はにわ)で代用することを進言し(垂仁天皇の皇后の日葉酢媛命が亡くなったとき)、第11代垂仁天皇から土師職(はじつかさ)を与えられたことが土師を名乗るきっかけとされる。
 ひ孫の身臣が第16代仁徳天皇から土師連姓をいただいたことから正式に土師氏を名乗るようになった。
 家柄としては葬送を司る一族だったということになる。
 野見宿禰は『日本書紀』の垂仁天皇のところで登場する。大和の当麻邑に力自慢の当麻蹶速という人がいて、出雲にいた野見宿禰を呼んで戦わせたところ、野見宿禰が勝ったため、天皇は野見宿禰に当麻蹶速の土地を与えたというものだ。これが相撲の起源ともされる。
 天穂日命(天之菩卑能命)は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた五男三女神の一柱で、天忍穂耳命の弟に当たる。
 天津神が地上に降りるにあたって最初に派遣されたのが天穂日命だった。しかし、天穂日命は大国主命に従って地上で暮らすようになり高天原に報告にも戻らなかった。
 そのまま大国主に仕え、その子の建比良鳥命は出雲国造となり、その子孫は千家として今も出雲大社(web)の宮司を務めている。
 土師氏=菅原家は、この出雲国造家と同族ということになる。
 菅原を名乗るようになるのは、道真の曾祖父の古人のときで(781年)、住んでいた大和国菅原邑にちなんでいる。
 道真の母は伴真成の娘で、この家系は今上天皇の直系祖先に当たる。なので、菅原道真は天皇家の祖という言い方ができる。

 菅原家が葬送を司る家系から学者の家系になったのは菅原姓に改めた古人の次の代からのようだ。古人の代にはまだ天皇の葬儀に関わっていた。
 道真が生まれた845年といえば、平安京遷都から50年ほど経った頃だ。
 平安とは名ばかりで、伊予親王の変(807年)、薬子の変(810年)、承和の変(842年)などの政争が続き、平安前期から中期にかけては地震や富士山の噴火、疫病の蔓延など、天変地異が続いた。
 一方で、遣隋使、遣唐使を通じて中国からの文化や知識などが大量に入ってきた時代でもある。
 空海が死去したのは835年なので、道真とは重なっていないものの、時代としては遠くない。
 その遣唐使廃止を進言したのが道真で(894年)、中国の文化などをありがたがって無条件に受け入れていた最後の時代という言い方もできるかもしれない。この後、国風文化が花開くことになる。
 道真が生まれた頃の菅原家は学者一家として名が通っており、道真も自然とその道を進むことになった(道真は三男)。
 小さい頃から出来がよかったようで、18歳で文章生(もんじょうしょう)という学生となり、特に優秀な2名だけがなれる文章得業生(もんじょうとくごうしょう)にも選ばれた。
 874年には従五位下となり、877年には文章博士になった。
 このことによって道真は天皇にも助言を与えることができる身分になった。
 転機が訪れたのは、886年に讃岐国の受領として讃岐国へ赴くことになったことだった。
 ここでいったん平安京を離れたことがかえって出世につながった。
 翌887年に光孝天皇が崩御すると宇多天皇が即位することになる。このときの宇多天皇はまだ14歳かそこらだった。
 宇多天皇は光孝天皇の息子ながら、臣籍降下して源定省を名乗っており、本来であれば貞保親王が即位するはずだった。しかし、関白の藤原基経がそれを嫌い、源定省を強引に即位させてしまったのだった。
 ただ、宇多天皇は藤原基経を嫌って橘広相を重用したため、モメ事が起きる。それを仲裁すべく平安京に戻った菅原道真がなんとか収め、このことで道真は宇多天皇の信用を得ることになる。
 891年に藤原基経が亡くなると宇多天皇はにわかにやる気を出し、藤原家を押さえつけにかかった。このとき基経の息子の時平はまだ20歳。のちに道真左遷を主導することになるのがこの時平だ。
 宇多天皇は道真を参議に抜擢した(893年)。有能であるからというだけでなく、藤原家に対抗させる狙いがあった。
 ところが宇多天皇は897年に退位してしまう。なんか急にやる気を失ってしまったらしい。
 それまでに力を付けて右大臣にまでのぼった藤原時平に対抗するのが嫌になったのだろうか。
 宇多天皇は上皇となり、醍醐天皇が即位した。 
 899年には藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となった。通常、学者の家の人間が右大臣にまでのぼるということはない。周囲の反感を相当買ったに違いない。
 それでもバックに宇多上皇がついている間はよかった。しかし、宇多上皇が突然、出家してしまったからたまらない。
 すかさず時平は道真追い落としにかかる。醍醐天皇に、道真が娘婿の斉世親王を即位させようとたくらんでいると吹き込み、醍醐天皇はそれを真に受けて道真左遷を決めてしまう。
 おそらく裏にはもっと複雑な事情があったのだろうけど、表面上ではそういうことになっている。
 宇多上皇がついている道真について醍醐天皇もよく思っていなかったのかもしれない。

 遠い太宰府の地に飛ばされた道真は、そこで幽閉生活を送ることになる。その暮らしぶりはかなり困窮したものだったようで、それを嘆く歌なども残している。特に家族と離れて会えなかったのがつらかったようだ。子だくさんの道真には子煩悩な一面もあったとされる。
 太宰府に飛ばされた2年後の903年に死去。享年59。安楽寺に葬られた。
 この後、平安京では次々と関係者が死んで道真の祟りと考えられたというのが一般的なイメージだろうけど、実際は道真が怨霊とされるまでにはかなりの年月が経っている。
 908年に藤原菅根が、909年には藤原時平が39歳で死ぬのだけど、ともに病死で不審死ではない。このときはまだ道真の怨念によるものだとはされなかった。
 ただ、913年に右大臣の源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死すると、一連の死は道真の祟りだとささやかれるようになり、ついに朝廷も動かざるを得なくなった。
 醍醐天皇の勅を受けた左大臣の藤原仲平が大宰府を訪れ、道真の墓の上に社を建てて祀った。これが太宰府天満宮の前身となる安楽寺天満宮だ(919年)。
 923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳で死ぬといよいよ道真は怨霊扱いされるようになる。
 朝廷は道真の怒りを鎮めるべく元号を延長と改元し、更に道真を右大臣に復帰させ、正二位を追贈して霊を慰めようとした。それでも変死は収まらず、保明親王に代わって皇太子となった慶頼が5歳で死去し、ついには決定的ともいえる930年の清涼殿落雷事件が起きる。
 醍醐天皇も参列した会議中の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫をはじめ朝廷の要人に多くの死傷者が出た。この事件で醍醐天皇は床に伏せってしまい、皇太子の寛明親王(朱雀天皇)に譲位したとたん崩御した。
 翌931年には宇多法王まで亡くなってしまった。
 その後、道真に太政大臣が追贈され、道真はすっかり御霊扱いされてしまう。

 942年、右京七条に住む多治比文子という少女が託宣を受けて道真を祀ったのが北野天満宮の起源という。
 多治比文子は道真の乳母だったという話もあるのだけど、我を右近の馬場に祀れという神託を受けて自分の家の庭に祠を祀ったといい、それが文子天満宮として今も残っている。
 右近の馬場というのは、右近衛府の馬場のことで、毎年5月に近衛役人の競馬があった。道真は右近衛大将だった時代に好んでこの行事に参加していたという。
 947年、北野にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮らが朝廷の命によって道真を祀る社を造営し、朝日寺を神宮寺とした。
 987年、初めて勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号が贈られた。
 後に二十二社の一社となり、天皇や朝廷の崇敬を受けることになる。

 江戸時代になると道真左遷の昌泰の変を題材とした芝居『天神記』や『菅原伝授手習鑑』、『天満宮菜種御供』などが作られ、人形浄瑠璃や歌舞伎でも上演されて道真が再注目されることになる。
 江戸時代も中期以降になると、天皇の忠勤、学問ができた学者という面が強調されるようになり、寺子屋などでもそう教えられたことから徐々に学問の神という性格を強めることになった。
 道真は死後、早い段階で天満大自在天神と神号が与えられ、北野で祀られていた火雷神や古くからの天神信仰と結びついて、天神といえば道真のこととされるようになっていった。
 そのため、古来より天神社として天神を祀っていた神社の多くが江戸時代に道真を祀る天満宮とされた。現在、天満宮として菅原道真を祀っている神社も、創建当初からそうだったとは限らない。むしろ道真を祀る神社として創建された方が少ない。

 菅原道真という人は決してヒーローなどではないし、立派なだけの人物でもなかった。ましてや政敵を憎んで怨霊化するような人間ではない。
 しかし、現在に至るまでこれほど広く神として祀られている人間は他にいないわけで、偶然が重なったにしても、やはり特別な存在と言うしかない。他に類を見ないという形容がよく当てはまる。
「東風吹かば思い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」なんて、すごくセンチメンタルな歌だ。高尚でも何でもない。
 でも、このセンチメンタルさが日本人は好きなのだ。私も例外ではない。

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