ムナカタサンジョシン《宗像三女神》

2023年11月30日

ムナカタサンジョシン《宗像三女神》

『古事記』表記 多紀理毘売命(田心姫)
市寸島比売命(市杵嶋姫)
多岐都比売命(湍津姫)
『日本書紀』表記 田心姫(タゴリヒメ) 別名 田霧姫(タギリヒメ)
市杵嶋姫(イチキシマヒメ) 別名 瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)
湍津姫(タギツヒメ)
別名 宗像大神、道主貴、など
祭神名 宗像三女神、他
系譜 (親)天照大神素戔鳴尊
(子)本文参照
属性 宗像の神、海の神
後裔 不明
祀られている神社(全国) 宗像大社(福岡県宗像市)、厳島神社(広島県廿日市市)、松尾大社(京都府京都市)、江島神社(神奈川県藤沢市)、他
祀られている神社(名古屋) 宗像神社(浄心)(西区)、城北神社(宗像神社)(西区)【廃社】、深島神社(柳原)(北区)、厳島社(太閤)(中村区)、八王子神社春日神社(北区)

三女神は姉妹ではないし宗像の神でもない

 宗像三女神に関しては世間一般で多くの思い違いがあるように思う。
 まず、宗像地方が発祥の神ではない。
 いつも書くように、『古事記』、『日本書紀』は事実を元にした架空の話で、人名についても地名についても別のものに変えている。敵対勢力や外国人の目に触れる可能性があるのに、わざわざ本当のことを書く必要はなく、むしろ大事なものは隠して守らなければならなかった。
 なので、記紀に出てくる地名は本当ではないということになる。そう思い込むようにミスリードしている。
 あと、三女神といういい方をしているので三姉妹のように思っている人もいるだろうけど、そうではない。
 そもそも、最初から三神をセットで祀っていたわけでもないので、それぞれ三柱の神を別々に見ないといけない。
 
 というわけで、まずは『古事記』と『日本書紀』が何をどう書いているかをおさらいして、それ以外の書にも当たっていくことにする。
 いったん頭の中を初期化して、一から整理していくことにしよう。
 
 

とりあえず『古事記』をベースに考える

『古事記』で宗像三女神が出てくるのは、天照大御神(アマテラス)と速須佐之男命(スサノオ)が誓約(うけい)をする場面だ。
『古事記』は伊邪那岐命(イザナギ)が死んだ伊邪那美命(イザナミ)を黄泉国(よみのくに)まで追いかけていって逃げ帰り、禊(みそ)ぎを行ったときに天照大御神、月読命(ツキヨミ)、速須佐之男命が生まれたといっているのだけど、海原をしろしめすように命じられた速須佐之男命がいうことを聞かずに母恋しさに泣いてばかりいるので(妣国根堅州国)、伊邪那岐命は怒って速須佐之男命の追放を決めた。
 根国(ねのくに)へ行く前に天照大御神に会っていこうとした速須佐之男命に対し、自分のところに攻め込んでくると怖れた天照大御神は武装して待ち構えた。
 それを見た速須佐之男命は、自分には邪(よこしま)な気持ちはないと訴えた。
 ならばそれを証明してみせよという天照大御神。
 そこで速須佐之男命が提案したのが、宇気比(うけひ)をして子を生むというものだった。
『日本書紀』では誓約と書いて”うけひ”と読ませているのだけど、一般的にはあらかじめ約束事を決めておいて、結果によって吉兆や事の成否などを知る一種の占いのようなものと解釈されている。
 ただ、聞いた話では、そうではなくて、”うけひ”というのは養子縁組のことをいうのだという。確かにその方が現実的だし、この後の話の展開についても納得がいく。
 天照大御神と速須佐之男命からそれぞれ五男三女神が生まれたことになっているので、もしそれが本当なら姉と弟が交わる近親婚が行われたということになり、そうなると、伊邪那岐命・伊邪那美命の婚姻とはまた別の問題となってくる。
 後述するけど、ここで重要なのは五男三女神ということだ。八王子といういい方もできる。
 これまでにも何度か書いているように、尾張が五男で、三河が三女ということがここで描かれているということだ。五男は五頭であり、五頭天皇は牛頭天皇であり、牛頭天皇は須佐之男ということにつながる。
 
 天安河(あめのやすかわ)を挟んで天照大御神と建速須佐之男命は対峙した。
 まず天照大御神が建速須佐之男命が持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を受けて三つに折り、天真名井(あめのまない)の水ですすいでからかみ砕き、その吹きだした狭霧から成ったのがいわゆる宗像三女神だった。
 最初が多紀理毘売命(タキリヒメ)で、別名を奥津嶋比売命(オキツシマヒメ)、次が市寸嶋比売命(イチキシマヒメ)で、別名を狭依毘売命(サヨリヒメ)といい、次が多岐都比売命(タキツヒメ)だった。
 続いて速須佐之男命が天照大御神の左の角髪(みずら)につけていた玉緒を受け取って天真名井の水ですすいでから噛み砕いて吹きだした狭霧から成ったのが正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)で、右の角髪の玉緒から天之菩卑能命(アメノホヒ)、御鬘に巻いていた玉緒から天津日子根命(アマツヒコネ)、左手に巻いている玉緒から活津日子根命(イクツヒコネ)、右手に巻いている玉緒から熊野久須毘命(クマノクスヒ)がそれぞれ成ったといっている。
 この結果を受けて天照大御神は、五男は自分(天照大御神)の持ち物だったので自分の子とし、三女は汝(速須佐之男命)の剣から生まれたので汝の子とするとした。
 速須佐之男命は私の心が清かったので手弱女(たおやめ)を得た。つまり自分が勝ったのだと、勝手に勝利宣言をして高天原で暴れ回ることになる。
 
 まずは『古事記』のこの話をベースとして頭に置きつつ、同じ場面を『日本書紀』はどう書いているかを見てみよう。
 
 

『日本書紀』の共通点と違い

 神生みにういて『日本書紀』は第五段で書いているのだけど、第五段本文は伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)がともに大八洲国や山川草木を生んだ後、大日孁貴(天照大神)、月神(月読尊)、蛭子(ヒルコ)、素戔鳴尊(スサノオ)を生んだことになっていて、そこに『古事記』との大きな違いがある(第五段の一書では伊弉諾尊が黄泉国から戻って禊ぎをしたときに三貴神が生まれたという伝承を伝えている)。
 天照大御神と素戔鳴尊の誓約は次の第六段で描かれる。
 まったく言いつけを守らならい素戔鳴尊は伊弉諾尊から追放を言い渡され、根国へ向かう前に天照大神に会うことを願い出て認められた。
 そのとき海はとどろき、山は鳴り響いたので、素戔鳴尊が高天原を奪いに来ると思った天照大神は完全武装をして待ち構えた。
 対して素戔鳴尊は、自分は黒い心を持っていない、ただ別れの挨拶に来ただけだと訴えた。
 ならば赤心を示してみよという天照大神に誓約を申し出るという展開は『古事記』と共通する。
『古事記』では説明がなかった約束事に関する記述がある。
 原文では以下のようになっている。
「如吾所生是女者則可以爲有濁心 若是男者則可以爲有淸心」
 もし自分が生んだ子が女なら濁った心があり、男なら清い心ということを素戔嗚尊はあらかじめ宣言したということだ。
 そこで天照大神は素戔鳴尊が持っていた十拳釼を三段に折って天眞名井の水ですすぎ、かみ砕いて狭霧にして吹きだしたものなら成ったのが田心姫(タコリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)だったと書いている。
 あれ? 女だけど? と思うのだけど、実はこれはちょっとずるい取り決めで、結果的に男でも女でも言い逃れができるようになっている。
 この場合、十拳釼は素戔鳴尊のものだけど、生んだのは天照大神だから素戔鳴尊が女を生んだことにはならず、もし天照大神から男が生まれていたら、十拳釼の持ち主は素戔鳴尊だから素戔鳴尊が男を生んだということにもできるからだ。
 この後、素戔鳴尊は天照大神が身につけていた八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいおつみすまる)を受け取って
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、天穗日命(アメノホヒ)、天津彦根命(アマツヒコネ)、活津彦根命(イクツヒコネ)、熊野櫲樟日命(クマノクスビ)の五男が生まれたという。
 この結果、素戔鳴尊から男から生まれて素戔鳴尊の清心が証明される形になり、丸く収まったかに思えるのだけど、この後、天照大神はちょっとおかしなことを言っていて、ん? と思う。
 原文は以下の通り。
「天照大神勅曰『原其物根 則八坂瓊之五百箇御統者是吾物也 故彼五男神悉是吾兒』」乃取而子養焉 又勅曰『其十握劒者 是素戔鳴尊物也 故此三女神悉是爾兒』便授之素戔鳴尊」
 八坂瓊之五百箇御統はもともと自分の持ち物で、そこから生まれた五男は吾の児だといって養い、十握劒の持ち主は素戔鳴尊だから三女は素戔鳴尊に授けたというのだ。
 これでは素戔鳴尊から生まれたのは女となり、女なら濁心があるということになってしまうのでは? と思うのだけど、”勅曰”と、天照大神は素戔鳴尊の誓約など無視する形で一方的に命じたとしている。
 これを読む限り、誓約というのは占いとかではなく、やはりただの養子縁組なのではないかと思える。
 考えてみると天照大神は婚姻したとか交わったということは一切書かれておらず、対になる男神もいない。
 だとしたら、養子を取ったと考えるのが自然で、『日本書紀』の原文でも「乃取而子養焉」と、養ったとしているからそうではないかと思う。
 三女神については素戔鳴尊が養ったという話はなく、「此則筑紫胸肩君等所祭神是也」と書くにとどめている。
 筑紫の胸肩君が祭るようになった経緯については続く一書の中で言及している。
 
 第六段の一書は第一から第三まであって、そのどれもが天照大神と素戔鳴尊との誓約についての異伝になっているのだけど、その証言は微妙に食い違っている。違いは小さいといえば小さいし、大きいといえば大きい。どうしてこういった違いが生まれたのかについてはよく分からないし、『日本書紀』の作者は何故それら異伝を三種類も採用したのかという疑問も抱く。
 一書第一は、弟の素戔鳴尊がやってくるのは善い心ではなく、我の天原を奪いに来るに違いないと決めつけた日神が大げさとも思える武装をして待ち構えたという話になっている。
 身に十握劒、九握劒、八握劒を帯び、背には矢入れ(靭)を負い、腕には防具(稜威之髙鞆)をつけて手に弓矢を握ったといっている。
 そこに現れた素戔嗚尊は言った。自分には悪心はなく、ただ姉上に会いたかっただけですと(唯欲與姉相見)。
 この後の展開が本文との大きな違いになっている。
 本文は素戔鳴尊が身の潔白を証明するために誓約を申し出たことになっているのに対して、ここでは日神側が一方的にそれをやったという話になっている。
 原文はこうだ。
「若汝心明淨 不有凌奪之意者 汝所生兒必當男矣」
 もしお前の心が明淨で凌奪の意がない者であれば汝は男児を生むであろうと。
 そう宣言した上で、まずは自分(日神)が身につけていた十握劒を食して生まれた兒を瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)と号し、また九握劒を食して生まれた兒を湍津姫(タギツヒメ)と号し、八握劒を食して生まれた兒を田心姫(タゴリヒメ)と号した。
 続いて素戔鳴尊が頸(くび)にかけていた五百箇御統之瓊(いおつみすまるのたま)を天渟名井(あめのぬなまい)の水ですすいで正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネ)、天津彦根命(アマツヒコネ)、活津彦根命(イクツヒコネ)、天穗日命(アメノホヒ)、熊野忍蹈命(クマノオシホム)の五柱の男兒が生まれたという。
 ここでは持ち物の交換は行われず、日神の剱から三女神が生まれ、素戔鳴尊の瓊から五男神が生まれているので、最初に取り決めをした男兒が生まれたら清い心を持っていることが証明されたということに問題はないように思える。
 しかし、不思議に思うのは、この結果を持って素戔鳴尊が”勝ちを得た”としていることだ。
 原文では「故素戔鳴尊 既得勝驗」となっている。
 この誓約は勝ち負けなのか? と思う。
 ただ、本文では曖昧だったことがここではっきりとなり、その後、素戔鳴尊は調子に乗って高天原で乱暴狼藉を働いて、天照大神は嫌気が差して天岩戸に隠れて云々という話になっていく。
 それとは別によく分からないのは、日神が生んだ三女神をこの後すぐに筑紫洲に降ろして天孫を奉助し、天孫に祭られなさいと命じたとしていることだ。
 どうして日神は三女神を自分の子として育てずに筑紫にやってしまったのだろう。あまりにも冷たくないだろうか。
 ここの一書では五男神がどうなったかについては書かれていない。
 
 一書第二の独自性は、羽明玉(ハアカルタマ)という神が登場する点だ。
 素戔鳴尊が天に登ろうとしているところに羽明玉が現れて瑞八坂瓊之曲玉(みずのやさかにのまがたま)を奉った。
 この羽明玉は岩戸隠れのときに八尺瓊勾玉を作った豊玉神(トヨタマ)や天明玉命(アメノアカルタマ)などと同一視されるのだけど、いずれも玉作(玉造部)の祖とされているので、この一族に伝わる伝承かもしれない。
『古事記』では玉祖命(タマノオヤ)という名前で登場して、邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨の際に従った五伴緒(いつとものお)の一人としている。
 天に登ってきた素戔鳴尊に悪心があると疑った天照大神は兵を起こして詰問した。
 対する素戔鳴尊は、吾は姉の顔が見たかっただけです、それと珍しい瑞八坂瓊之曲玉を献じたかっただけで、他意はありませんと言った。
 曲玉って、さっきそこでもらったばっかりじゃんとツッコミを入れつつ読み進めると、汝の言葉の虚実をどうやって示すのかと問う天照大神に、素戔鳴尊は共に誓約をしようと申し出た。
 女が生まれたら黒心、男が生まれたら赤心と決め、眞名井を三ヶ所掘って相対した。
 天照大神は言った。吾が帯びている剱を汝に渡すので、汝が持っている八坂瓊之曲玉をこちらに渡すようにと。
 そうして天照大神が八坂瓊之曲玉を天眞名井に浮かべて洗って噛み砕き、息吹から市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命だった。
 続いて素戔鳴尊が剱を天眞名井に浮かべて噛み砕いた息吹から天穗日命、正哉吾勝勝速日天忍骨尊、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命が生まれたという。
 ここでは天穗日命が長男になっているという違いもある。
 三女神に関しては、市杵嶋姫命を遠瀛(おきつみや)にいる神、田心姫命を中瀛(なかつみや)にいる神、湍津姫命を海濱(へつみや)にいる神といっているのだけど、それは後ほど宗像大社のところであらためて考えることにする。
 
 一書第三の他との一番の違いは、男神が六柱生まれたといっている点だ。
 日神と素戔鳴尊が天安河を隔てて相対して誓約を行い、汝(素戔鳴尊)に賊之がなければ必ず男が生まれるだろうといい、もし男が生まれたら予(日神)の子として天原を治めさせると取り決め、日神の十拳釼から瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ)、別名市杵嶋姫命が、九拳釼から湍津姫命(タギツヒメ)が、八握劒から田霧姫命(タキリヒメ)が生まれ、素戔鳴尊の左の五百箇統之瓊から勝速日天忍穗耳尊が、右の髪留めから天穗日命、頸の瓊から天津彦根命、右の背中から活津彦根命、左足から熯之速日命(ヒノハヤヒ)が、右足から熊野忍蹈命、またの名を熊野忍隅命が生まれたと書く。
 この中では熯之速日命が他には出てこない独自の神で、『日本書紀』の第九段は甕速日神(ミカハヤヒ)の子で武甕槌神(タケミカヅチ)の父としている。
 甕速日神は伊奘諾尊が軻遇突智(カグツチ)を斬った時に出た血から成ったといい(『日本書紀』第五段一書第六)、『先代旧事本紀』は天尾羽張神(アメノオハバリ)の別名として甕速日神の神名を挙げている。
 いずれにしても素戔鳴尊から生まれたのが男だったことから、素戔鳴尊は「正哉吾勝」と勝ち誇り、日神は最初の約束通り六柱の男神を自分の子として天原を治めさせたという。
 三女神については、当初、葦原中国の宇佐嶋に降ろしたのだけど、今(奈良時代当時)は北の海道に在って、道主貴(みちぬしのむち)と呼ばれ、筑紫の水沼君(みぬまのきみ)たちが祭っている神が是だといっている。
 
 

誓約についてのまとめ

 ここまでを簡単に箇条書きするとこうだ。
 日神(天照大神)は素戔鳴尊が自分の天原を奪いに来ると怖れ完全武装して待ち構えた。
 素戔鳴尊は自分には悪意がないことを示すために誓約を申し出た(天照大神側からという話もある)。
 誓約の取り決めは、悪心がなければ男が生まれ、悪心があれば女が生まれるというものだった。
 互いの持ち物を交換すると話がややこしくなるのだけど、結果として男が生まれたことで素戔鳴尊に悪心がないことが証明された。
 何故か素戔嗚尊は勝ち誇っている。文面からして、安堵したとか喜んだといったニュアンスではない。
 共通しているのは、剱から三女神が生まれ、玉(瓊)から五男神(例外的に六男神)が生まれていることだ。
 五男神は日神(天照大神)が自分の子とした。
 三女神は筑紫(または宇佐嶋)に降ろされ祭られた。
 
 以上が記紀のまとめなのだけど、詳しい検討の前に記紀以外はどう書いているかを見ておくことにする。
 
 

『古語拾遺』は三女神に触れていない

『古語拾遺』は素戔鳴神と日神(天照大神)の誓約について簡単に書くにとどまっている。
 五男三女神の中では長男に当たる天祖吾勝尊(アマツミオヤアカツ)だけが登場して、天照大神は吾勝尊を大事に育てたといっている。
 特別な愛情を注いで常に常に腋(わき)の下に抱いていたので腋子といい、今(平安時代初期)の俗世で稚子(いときなこ)を和可古(わかご)というのはここから来ているといったことも書いている。
 
 

まとめ記事の見本のような『先代旧事本紀』

『先代旧事本紀』 は「神祇本紀」に素戔烏尊と天照太神の誓約について書いているのだけど、『古事記』と『日本書紀』の全部入りできれいにまとめていて、ちょっと笑ってしまう。
 羽明玉も出てくるし、男神は五男ではなく六男になっていて、『古事記』だけでなく『日本書紀』一書の内容も取り込んでいる。
 唯一の違いというかオリジナルな点は、素戔烏尊が天に昇ってくるのを見た天鈿売命(アメノウズメ)が日神にそれを告げたという記述だ。天鈿売命は岩戸隠れのところで活躍するのだけど、ここで出てくるとしているのは『先代旧事本紀』だけだ。どんな意図があったのか、ちょっと読み取れない。
 誓約の申し出については、素戔烏尊からで、男が生まれたら清い心という証拠だと取り決めをしている。
 剱と玉に関しては、天照太神が交換したと、『日本書紀』本文を採用している。
 十握剱から瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ)、またの名を田心姫(タゴリヒメ)、または田霧姫(タギリヒメ)が、九握剱からは瑞津嶋姫命(タギツシマヒメ)が、八握剱から市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)が生まれたといっている。
 六男神は、正哉吾勝々速天穂別尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦命、熯速日命、熊野豫樟日命と、『日本書紀』一書第三に拠っている。
 この後の天照太神の発言に矛盾があるのは『日本書紀』本文と同様だ。
 六柱の神はもともと自分(天照太神)の持ち物である玉から生まれたから引き取って子として養い、高天原を治めさせると言っている。
 素戔烏尊から男が生まれたら潔白だったはずなのに、それをひっくり返してしまっている。
 三女神は筑紫国の宇佐嶋に降ろして天孫を祭らせ、今は北の海道にいて道主貴と呼ばれているというのも、『日本書紀』一書第三をそのまま写している。
 三女神がいる場所に関しても言及しているのだけど、『日本書紀』一書第二と違いがある。
『日本書紀』一書第二は、遠瀛に市杵嶋姫命、中瀛に田心姫命、海濱に湍津姫命としているのに対して、ここでは瀛津嶋姫命は遠沖にいる田心姫命のことで、辺津嶋姫命は海浜にいる瑞津嶋姫命、中津嶋姫命は中嶋にいる市杵嶋姫命のことだといっている。
 宗像大社の祭神問題についても後述とする。
 
 

三女神の名前問題

 五男神(六男神)のことは置いておいて、三女神についてもう少し見ていくことにしよう。
 まず名前の問題だけど、別名がいくつかあってちょっとややこしいので、まとめてみたい。
 生まれた順序通りに書くと以下の通りだ。
 
『古事記』
 多紀理毘売命(タギリヒメ) 別名:奥津嶋比売命(オキツシマヒメ)
 市寸嶋比売命(イチキシマヒメ) 別名:狭依毘売命(サヨリヒメ)
 多岐都比売命(タキツヒメ)
 
『日本書紀』本文
 田心姫(タコリヒメ)
 湍津姫(タギツヒメ)
 市杵嶋姫(イチキシマヒメ) 
 
『日本書紀』一書第一
 瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)
 湍津姫(タギツヒメ)
 田心姫(タゴリヒメ)
 
『日本書紀』一書第二
 市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)
 田心姫命(タゴリヒメ)
 湍津姫命(タギツヒメ)
 
『日本書紀』一書第三
 瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ) 別名:市杵嶋姫命
 湍津姫命(タギツヒメ)
 田霧姫命(タキリヒメ)
 
『先代旧事本紀』
 瀛津嶋姫命(オキツシマヒメ) 別名:田心姫(タゴリヒメ)、田霧姫(タギリヒメ)
 瑞津嶋姫命(タギツシマヒメ)
 市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)
 
 こうして並べてみると、一つとして同じものはなく、わりと大きく違っていることが分かる。
 つまり、伝承としてはあまり明確ではなかったといういい方ができる。
 最初に三女神は三姉妹ではないと書いた。誓約のとき順番に生まれているのだから三姉妹だろうと思うかもしれないけど、順番も名前もはっきりしないような三女神を三姉妹とするのはちょっと無理がある。
 誓約は養子のことだとも書いたけど、それぞれの一族(家)から三人の女子を養子に取ったと考えれば三女神が三姉妹ではないのは当然のことだ。
 名前からしても共通項や姉妹性は感じられない。
 五男は尾張、三女は三河というのも繰り返しになるけど、ここでは尾張と三河とで五男と三女の交換が行われたのかもしれない。
 そんなに単純ではなかったにしても、何らかの養子縁組が行われたことが伝承として伝わったと考えていいのではないか。
 女子ゆえに表だってその系譜が残ることはなかったけど、『新撰姓氏録』(815年)には五男神の天穂日命や天津彦根などの後裔がたくさん載っているので、それぞれの系統が発展していったことが分かる。
 
 

尾張氏家の系譜では

 尾張氏家に伝わる系図を見ると、それぞれの姉妹、兄弟関係は記紀が書いているのとはまったく違っている。
 市杵嶋姫は天津彦根、忍穗耳、天穗日の三兄弟の妹に位置づけられ、田霧姫(瀛津嶋姫)や瑞津姫は別系統になっている。
 これがどこまで事実を反映したものなのかは私には判断がつかないのだけど、少なくとも記紀がいうような剱と玉を噛み砕いて吐き出した息吹から男女神が生まれたというのよりずっと現実味があるのは確かだ。
 天照神は天火明(アメノホアカリ)の妻の天道姫(天道日女)のことであり、瀬織津姫(伊勢織津姫)のことだと、罔象女の項で書いたけど、三女神は道主貴と呼ばれていると記紀がいっているのはここにつながる。
 三女神もまた天道姫だったといういい方ができる。
 
 田心姫(タコリヒメ)、湍津姫(タギツヒメ)、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)のそれぞれの名前から読み取れるのは、頭の部分は地名または一族の名ということだ。
 濁ると分かりづらくなるので濁らずに考えないといけないのだけど、田心姫なら”タコリ”または”タコ”の女(娘)であり、湍津姫なら”タキ”の女、市杵嶋姫なら一木(イチキ)の女といった具合だ。
 嶋は海に浮かぶ島ではなく土地や縄張りを意味している。津(つ)は現代日本語の助詞の”の”のことだ。
 これらはどれも通称のようなもので本名ではない。なので、一つの名前に相当するのが一人とは限らない。母から娘が受け継いだり、その地位についた者が引き継いだ例もあっただろう。
 いつも書くように、『古事記』や『日本書紀』は事実を元にしたフィクションで、登場する人物名、団体名、地名などはすべて変えている。
 三女神の名前もそうだし、宗像や筑紫というのも九州地方のことではない。
 現に宗像大社があるではないかと思うかもしれないけど、神社というのは思っているよりも新しい歴史で、古くからあるといってもそこが発祥とは限らない。
 人が移れば歴史も移る。人の移動に伴って伝承も移動するということだ。
 九州を天皇や歴史の発祥の地と考えている人は少なくないだろうけど(専門家と呼ばれる人でさえ)、実際の歴史はもっと古く、九州は新しい土地だ。
 九州は2世紀くらいに海外向けの影武者とした土地で、本来の高天原は別にあって、隠して守っていた。
 それでも隠しきれなくなった3世紀に、もうひとつのダミーとして仕立てたのが倭(纒向)だ。
 その本家に当たるのが尾張であり三河だったといってもどれくらいの人が信じるかは分からないけど、五男三女神の誓約の話は尾張と三河でのことだと聞いている。
 宗像大社の元宮はおそらく三河のどこかにある。それは一社ではなく、一木、二木、三木の三社だったかもしれない。
 以上を踏まえた上で、福岡県の宗像大社について見ていくことしよう。
 
 

宗像大社について

 現在の宗像大社(むなかたたいしゃ/web)は、九州の宗像市田島の辺津宮を総社として市杵島姫神を、辺津宮から11km沖の筑前大島にある中津宮で湍津姫神を、中津宮から49kmの沖ノ島にある沖津宮で田心姫神を祀るとしている。
『日本書紀』一書と『先代旧事本紀』でも違いが見られるように、どこの宮でどの神を祀っていたかについては諸説あり、必ずしも昔から今のようではなかった。
『延喜式』神名帳(927年)には「筑前国 宗像郡鎮座 宗像神社三座 並名神大」とあり、もしかすると中世は陸の一社で三柱の女神を一緒に祀っていたのかもしれない。
 宗像大社は非常に古い神社のひとつとされているのだけど、本当にそうかは疑問だ。
 沖ノ島で見つかった8万点を超える祭祀具などは一括して国宝指定されているのだけど、その大部分は4世紀から9世紀のものとされ、実は”新しい”ものだ。
 古墳にしても5世紀や6世紀のものしか見つかっていない。
 4世紀といえば、倭の纒向が事実上消えた時期で、大陸や朝鮮半島との交流が活発化した時代でもある。
 それまで隠していた本拠がいよいと危うくなったということで新たな体制作りが行われたと考えられる。
 九州が影武者だったと上に書いたけど、更に前線の守り固めとして沖ノ島がその役目を担うことになったのだろう。
 宗像大社の社家を古くから務めたのが胸形君(むなかたのきみ)などの宗像氏(胸形氏、宗形氏、胸肩氏とも)だった。
 宗像氏の祖は大国主神の六世孫、または三女神の七世孫の吾田片隅命などという説もあるけど、『筑前国風土記』逸文には「宗像其大海命子孫」 とあり、大海は”オオアマ”で、この”アマ”は”天”の”アマ”のことなので、高天原の天一族から出たと推測できる。
 天武天皇は大海人皇子(オオアマノミコ)で、胸形氏の娘である尼子娘(アマコノイラツメ)を娶って高市皇子(タケチノミコ)が生まれている。
 辺津宮がある宗像市の”田島”は熱田社社家の尾張氏が名乗った田島氏とも関係がありそうだ。田島は島田をひっくり返したものだ。
 高天原というのは天もあり地にもある。地の高天原は天の高天原の写しであり、地の高天原は別の地にも写される。
 それは神社の勧請というのにも似て、コピーだからといって偽物というのとは違う。
 尾張と三河の高天原は九州にも西京にも東京にも東北にも北陸にも写された。
 しかし、オリジナルはどこかといえば尾張だといっておく。天の一族が最初にいたのがここだからだ。
 何故隠したかといえばそれは守るためだったに他ならない。
 ”ひた隠し”にした”ひた”とは”日立”のことであり、”音”の世界だ。
 ただ、隠すだけでは駄目で、歴史は伝えなければならない。そのために生み出されたのが”おとぎ話”で、これは”音聞話”から転じている。”音”で”聞”いた”話”という意味だ。
 私たちは先人達の思いを無にしてはいけないし、伝えようとしたメッセージを取り違えてはいけない。
 
 

厳島神社について

 日本全国に宗像三女神を祀る神社は7千社ほどあるという。これはけっこうな数だ。
 九州宗像ローカルの神だったらこれほどの全国区になるとは考えにくい。何か別の力が働いたに違いない。
 一つには海の女神とされたことで海に携わる人間たちが祀ったというのは考えられる。船の守り神も、男神よりも女神の方が合うような気がする。
 もう一つは七福神の一人である弁才天(弁財天)と市杵嶋姫が習合したことだ。
 いつ頃どういう経緯でそうなったのかはよく分からないのだけど、時代としては中世以降だろうと思う。
 江戸時代まで弁財天を祀っていた神社は明治の神仏分離令を受けて祭神を市杵嶋姫や宗像三女神に変えたところが少なくない。
 宗像三女神を祀るとする神社としては、安芸の宮島の厳島神社(広島県廿日市市/web)もよく知られている。
 社伝では推古天皇元年(593年)にこの地の有力豪族だった佐伯鞍職が神託を受けて勅許を得た上で御笠浜に市杵島姫命を祀ったのが始まりとしている。
『延喜式』神名帳には「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社 名神大」とあり、安芸国一宮とされた。
 ただ、厳島は神に斎くという意味の斎島だったと考えられており、6世紀の終わりに初めて神が祀られたなどということはあり得ない。もっと古くから島自体が信仰対象とされていただろうし、何らかの神祭りも行われていたはずだ。そのときの神は市杵島姫命ではなかったかもしれない。
 現在は田心姫命と湍津姫命をあわせて宗像三女神を祀るとしている。
 
 

タキリ姫について

 ここまで宗像三女神としてセットで考えてたけど、今度は個別に見ていくことにする。
 タキリヒメは『日本書紀』本文の田心姫と表記するのが一般的になっているのだけど、別名が多いのが特徴だ。
『古事記』では多紀理毘売命、別名を奥津嶋比売命としており、『日本書紀』一書は田霧姫命とする。
 ”タコリ”と”タキリ”は近いといえば近いのだけど、どうして『日本書紀』は”タコリ”に対して”田心”という字を当てたのだろうという疑問を抱く。”田心”を”タコリ”とは普通読めない。
 見逃せないのは、タキリヒメの系譜だ。
『古事記』は大国主神の後半部分で唐突にこんな記事を挟み込んでいる。
「故 此大國主神 娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命 生子 阿遲(二字以音)鉏高日子根神 次妹高比賣命 亦名下光比賣命 此之阿遲鉏高日子根神者 今謂迦毛大御神者也」
 大国主神は胸形の奧津宮に坐す多紀理毘売命を娶って阿遲鉏高日子根神(アジスキタカヒコネ)が生まれ、妹の高比賣命(タカヒメ)、またの名は下光比賣命(シタテルヒメ)が生まれた。阿遲鉏高日子根神は今でいう迦毛大御神、つまり加茂の大神だというのだ。
 しかし、これは大胆な情報操作で、そのまま信じることはできない。
 これに続く国譲りの場面では、使者として送った天若日子(アメノワカヒコ)が阿遅鉏高日子根神の妹の下照比売(下光比賣命)を娶って国を奪おうとしたという疑いを掛けられて高木神(高御産巣日神)が放った矢に射られて殺され、葬儀に出た阿遲鉏高日子根神は”姿形が天若日子にそっくり”だったので天若日子の妻や父(国玉神)は天若日子が生き返ったと喜びすがったところ、阿遲鉏高日子根神は死者に間違われたと激怒し、十掬劍で喪屋を切り伏せて足蹴にしたという話が語られる。
 阿遲鉏高日子根神が天若日子と”そっくり”というのが暗示なのだけど、大国主神と多紀理毘売命との間に阿遲鉏高日子根神が生まれたというのはだいぶ無理がある。
 阿遲鉏高日子根神は大国主神系統ではなく、高御産巣日神(高皇産霊尊)の系統だ。
 多紀理毘売命が養子にせよ天照大神の子とすると、ここでいう大国主神は高皇産霊尊の子、または孫ということで、高御産巣日神もまた、もう一人の正統天孫ということになりそうだ。
 この阿遲鉏高日子根神が天若日子殺害の真犯人であり、天若日子の地位や土地や名前までも奪ったという話を聞いている。
 
 タキリ姫関連でいうと、栃木県日光市にある日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ/web)も興味深い。
 社伝によると、下野国の僧の勝道上人(735-817年)が766年(天平神護2年)に二荒山の修行の拠点として紫雲立寺(現在の四本龍寺)を建立し、767年(神護景雲元年)に二荒山(男体山)の神を祭ったことを神社の起源としている。
 しかし、二荒山信仰がそんなに新しいはずもなく、もっとずっと古くから山神を祀っていたのは間違いない。
『延喜式』神名帳には「下野国 河内郡鎮座 二荒山神社 名神大」とあり、下野国一宮とされた。
 隣接する日光東照宮(web)が建てられたのはずっと後の江戸時代になってからなので、二荒山神社の方がはるかに古い。
 家康が自身を日光に祭るように命じたというのが本当であれば、それは二荒山神社と無関係のはずがない。
 家康は当然、裏歴史を知っていたので、二荒山神社についても知っていただろう。
 現在は日光三山の男体山(二荒山)に大己貴命(オオナムチ)、女峯山に田心姫命、太郎山に味耜高彦根命を祀るとしており、これも暗示的だ。
『古事記』の系譜に従えば、父と母と子ということになる。
 家康や松平家はまず間違いなくタカミムスヒの一族と深く結びついている。あるいは、松平家そのものがタカミムスヒの系統なのかもしれない。
 阿遲鉏高日子根神が大加茂(迦毛大御神)という『古事記』の証言も見逃せない。
 加茂や賀茂というと京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)、下鴨神社(賀茂御祖神社/web)が本拠と思っている人が多いだろうけど、実際は三河国が起源だ。
 松平発祥の地とされる松平郷が三河国賀茂郡なのもそれを示している。
 松平(徳川)の家紋である三つ葉葵は賀茂社の二葉葵から来ているというのも逆で、松平の三つ葉葵の方が先だ。
 京都の歴史は古いと思っているとしたらそれは思い違いで、あそこは歴史の博物館のように作られた土地なのだという。京都がオリジナルというものは少ないかほとんどないかもしれない。
 
 話を戻すと、二荒を”にこう”と読んで”日光”という字を当てたのは空海という話が本当かどうかは分からないけど、二の荒の山と呼んだことに意味がある。
 二の荒というと、尾張国二宮の大縣神社(おおあがたじんじゃ/愛知県犬山市/web)を思い浮かべる。
 ここは大荒田命が関わっている。
 大荒田命というと、尾張氏十二世孫の建稲種(タケイナダネ)と婚姻したのが大荒田命の娘の玉姫(タマヒメ)だ。
 二荒山とこのあたりが何か絡んでいる気がする。大縣神社が尾張国二宮なのは、格付けの二位という意味ではなく、ここが二木の土地だからだ。
 田心姫も、尾張国の田光(たこ)と何か関わりがありそうだ。
 田光には田光神社(田光八幡)があり、ここは尾張国熱田の八剣宮の社家が創建したという話があり、境内には空海手植え伝説を持つ樹齢千年を超える大楠もある。
 
 名古屋で田心姫を祀る神社としては深島神社(北区柳原)がある。
 那古野台地の北端下にいつ誰が祀ったのが始まりなのかは分からないのだけど、1610年の名古屋城築城以前からあったのは間違いなく、名古屋城初代城主で初代尾張藩主の徳川義直(家康の九男)も名古屋城鬼門の守り神として大事にしたと伝わっている。
 義直は他にも宗像社を建てたという話があり、尾張の徳川家も三女神を意識していたことがうかがえる。
 義直は家康が年を取ってからの子で、手元に置いて大切に育てたというので、表沙汰にできない歴史についてもいろいろ聞いていたのではないかと思う。
 裏歴史というものはその内容が正しいかどうかにかかわらず確かに存在している。それは一部の人たちの間で共有され、守り伝えられてきた。都市伝説などではなく、この現代にも続く現実だ。
 たとえばトヨタ自動車は社内神社の豊興神社(ほうこう)で金山彦神(カナヤマヒコ)を祀っている。
 金属加工の神だから不自然ではないと思うかもしれないけど、金山彦は天火明(アメノホアカリ)の別名だ。天火明は天若彦でもある。 
 三河の豊(トヨ)の国の王である豊田一族がどうして尾張の神を祀っているのか? 一族の長の豊田会長の邸宅がどうして天白八事の南山にあるのか?
 今上天皇が即位後、初の地方訪問先として愛知県を選んだのは何故なのか? 子供の名前を愛子としたのはどんな意図があったのか?
 愛知県では尾張旭市とあま市七宝町を訪問したというのは表向きで、尾張と三河それぞれの一木、二木、三木を回ったと聞いている。そこで訪れた場所と会った人物が鍵を握っている。
 尾張は龍で、三河は虎なのだという。そこへ後から蛇が入ってきた。竜頭蛇尾という言葉も中国由来ではない。
 逆鱗に触れてはいけないし、虎の尾を踏んでもいけないのは、天皇もよく知っているはずだ。
 
 その他、タキリヒメを祭神とする神社としては、石川県小松市の瀧浪神社(たきなみじんじゃ)、滋賀県草津市の小汐井神社(おしおいじんじゃ/web)、兵庫県神戸市の一宮神社などがある。
 瀧浪神社は『延喜式』神名帳の多伎奈弥神社(たきなみじんじゃ)の論社で、小汐井神社も貞観5年(863年)創建という神社だ。
 神戸市の一宮神社は、もともとは一宮ではなく市宮だったようだけど、宗像大社から勧請したと伝わっている(神戸には一宮から八宮まであって五男三女神を祀っている)。
 これらの古い神社がタキリヒメ(田心姫)を単独で祀っているということに注意しておく必要がある。
 三河国の一宮である砥鹿神社(とがじんじゃ/web)は、大己貴神を祀るとしているのだけど、本宮山山頂の奥宮では大己貴命と田心姫命を祀っている。
 これもまた暗示的だ。
 
 

一木の姫

 市寸島比売については独立した項で書いた方がいいのかもしれないけど、一番重要なのは”一木の姫”ということだ。
 尾張国の一木というと、真清田神社(ますみだじんじゃ/web)がある中島郡のあたりで、真清田神社は表向きは天火明を祭神としているのだけど、それは必ずしも本当ではない。
 真清田神社は尾張国の一宮ではなく日本国の一宮であり、出雲大社(web)の元宮ともいえる神社だ。なので、この国の大本の神を祀っている。
 そして、真清田神社には市寸島比売や宗像三女神が隠されている。
 本殿裏にあって、ある意味では本社よりも重要な第一別宮の三明神社(さんみょうじんしゃ)などもそうだろうし、本社と並んで重視される服織神社(はとりじんじゃ)の祭神の萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメ)もそうだ。
 萬幡豊秋津師比売はおそらくタキリヒメ(田心姫)の別名だろう。
 京都府京都市の松尾大社(まつのおたいしゃ/web)は大山咋神(オオヤマクイ)とともに中津島姫命(ナカツシマヒメ)を祀っているけど、これはもう名前の通り中島の姫なので市寸島比売のことだ。
 京都府宮津市にある丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ/web)は主祭神の彦火明命の妻神を市寸島比売としている。
 広島県廿日市市の厳島神社(web)や神奈川県藤沢市の江島神社(web)、滋賀県長浜市の都久夫須麻神社(竹生島神社/web)などは中世に弁財天と習合して明治以降に市寸島比売に変えたと思われているけど、習合以前に市寸島比売や宗像三女神を祀っていたのではないかと思う。
 その他、愛知県豊川市の関川神社、京都府京都市の白雲神社、奈良県御所市の高天彦神社、兵庫県神戸市の氷室神社(web)などが市寸島比売を祀るとしている。
 
 

タカの姫

 タキツヒメも宗像三女神としてではなく単独で祀っている神社がある。
『先代旧事本紀』は大己貴神を素戔烏尊の子と位置づけているのだけど、大己貴神の系譜の中で辺都宮の高津姫神(タカツヒメ)を娶って都味歯八重事代主神(ツミハヤエコトシロヌシ)と高照光姫大神命(タカテルヒメオオカミ)が生まれ、倭国葛木郡の御歳神社(みとしじんじゃ/web)に鎮座していると書いている。
 この少し前で湍津嶋姫命(タギツシマヒメ)、またの名を多岐都姫命(タギツヒメ)、またの名を辺津嶋姫命(ヘツシマヒメ)が辺都宮に鎮座しているといっているので、高津姫神は湍津嶋姫命のことをいっている。
 高照光姫を大神といっていることから、これは普通の女神とは別扱いということが推測できる。
 よく似た名前の高比売命(高姫)が『古事記』、『日本書紀』にも出てくる。上にも書いたように、高天原から葦原中国に派遣された天若日子(天若彦)が大国主神の娘の高比売命と婚姻して役目を果たさないので高木神が射った矢で殺され、高比売命の兄の味耜高彦根神が見舞って云々という話のあの人物だ。
『古事記』は大国主神と多紀理毘売命の子として阿遅鉏高日子根神と高比売命を挙げ、『先代旧事本紀』も大己貴神と田心姫命の子としているので、高比売命イコール高照光姫大神命と考えると違うのかもしれない。
 いずれにしても、タキリ姫はタカミムスヒの系統だろうと思う。
 ”タキ”が地名なのか一族の名なのかは分からないけど、”高”姫とするなら、タカミムスヒの系譜の可能性が高い。娘ではなく養子かもしれない。
 
 尾張氏家の系図を見ると、タケツ姫として載っている。
 ということは”竹の一族”なのかと思うとそう単純ではない。
 父親は八事酒解男(ヤサカ)で、母親は熱田姫となっており、クマノクスヒ(熊野久須毘)とイクツヒコネ(活津日子根)の姉に位置づけられていて、タカミムスビ(高皇産霊)の長女の兼代姫とイザナギ・イザナミの子の香智治(カグチチ)夫婦の養子になったとある。
 イザナミが”竹の一族”なので、そういう意味では”竹の姫”になったといういいかたはできる。
 アマテラスとスサノオの誓約は実際のところ、かなり複雑だったのではないか。
 このタケツ姫には多くの別名が挙げられており、その中の一つに”息吹戸主”とあり、おやっ? と思う。これがきっかけで一つの仮説を思いついたのだけど、それは最後のまとめで書きたいと思う。
 
 タキツヒメを祀る神社としては、青森県弘前市の岩木山神社(いわきやまじんじゃ/web)、青森県弘前市の石峰山石神社(いしみねやまいそのじんじゃ)、千葉県八千代市の高津比咩神社(たかづひめじんじゃ)、兵庫県神戸市の三宮神社(web)などがある。
 高津比咩神社はさほど古くないようだけど、岩木山神社は津軽国一宮で、顕国魂神(ウツシクニタメ)などとともに多都比姫神(タツビヒメ)という名で岩木山に祀られており、石峰山石神社も『延喜式』神名帳に「陸奥國桃生郡 石神社」として載る古社だ。
 特徴としては大己貴神などと一緒に祀られていたり、山の神とされていることが多い。
 
 

宗像三女神は祓戸大神なのか?

 タケツ姫の別名として息吹戸主が挙げられていることが気になって他の三女神も見てみると、タキリ姫は豊秋津美姫とあり、天道姫の別名に伊勢織津姫とある。
 ん? これって祓戸神じゃないの? と気づく。
『延喜式』に収録されている「六月晦大祓の祝詞」には瀬織津比売(セオリツヒメ)、速開都比売(ハヤアキツヒメ)、気吹戸主(イブキドヌシ)、速佐須良比売(ハヤサスラヒメ)が祓えの神として出てくる。
 これに当てはめると、瀬織津比売は天道姫、速開都比売は豊秋津美姫のタキリ姫(田心姫)、気吹戸主はタキツヒメ(湍津姫)となるので、残った速佐須良比売は一木姫(市杵嶋姫)ということになるだろうか。
 気吹戸主でいうと、天照大神と素戔嗚尊が”吹きだした息”から生まれたという記紀の記述とも符合する。
 日本武尊(ヤマトタケル)が命を落とすことになったのが伊吹山(息吹山)というのも何か関係がありそうだ。
 
 宗像三女神を祓戸神とする説があるのかどうか知らないけど、祓戸神を祀る神社が少なすぎるのがずっと引っかかっていた。もしかすると別の名前や違う形で祀られているのではないかと。
 その一つが八幡社だ。
 八幡社の総本宮は大分県宇佐市の宇佐神宮(web)とされている(本当は違うのだけど、表向きはそういうことにした)。
『日本書紀』一書第三にも、三女神を葦原中国の宇佐嶋に降ろしたと書いている。
 八幡社は様々な変遷を経ているので原初の形は不明なのだけど、八幡大神(応神天皇)、比売大神、神功皇后(息長足姫命)の三柱を祀るとしている。
 石清水八幡宮(web)や鶴岡八幡宮(web)などもそうだ。
 これらの八幡社では、この比売大神を宗像三女神(多岐津姫命、市杵島姫命、多紀理姫命)としている。
 応神天皇と神功皇后は子と母という関係性だけど、ここに宗像三女神が入っていることには違和感を抱く。
 けれど、これが祓戸神だとしたらどうだろう。違和感は残るものの、神功皇后と応神天皇親子が祓えの神を必要としたと考えるとわりと腑に落ちる。
 もし、この比売大神が宗像三女神で、宗像三女神は同時に祓神であったとしたら、八幡神とともに祓神の宗像三女神は全国で祀られたということになる。
 八幡神というのはもともと応神天皇のことなどではなく、天一族にとっての根源神だった。”ヤハタ”は”八のハタ”のことで、この国のありようや国作りはすべて、八の思想から成り立っている。
 五男三女神もあわせて八神であり、その子神たちは八王子となる。
 
 

鍵を握る三女神

 ここまで見てきて、いわゆる宗像三女神と呼ばれる三柱の女神は重要な地位にあって、隠された歴史を紐解く上でも重要な鍵を握る存在といういい方ができると思う。
 尾張と三河の両方に関わっている。
 そして、後半で思いついた宗像三女神は祓戸神なのかという問題だ。
 これはかなり可能性がありそうだし、宗像三女神イコール祓戸神というだけでもなさそうだ。もっと他の神を兼ねている気がする。
 神話は統合だけでなく分解もあって、たくさんの神を一つにまとめたり、逆に一人の神を分けて複数の神として描く場合もある。
 宗像三女神はそれが同時に行われているのではないか。無関係の三女神を一つにまとめつつ、個別の女神は他の神を兼ねている。
 そこに養子縁組が行われているので余計複雑なことになっている。
 ただ、現実はそれほど難しいものではないのかもしれない。いくつかの勢力または一族がいて、5人の男子と3人の女子がいて、婚姻したり養子縁組したということだけといえばそうだ。
 その先はそれぞれに後裔が増えていって、直接の祖を神として祀ることで一つの信仰が形作られ、各地に分散していったということだ。
 一人の人間には一つの側面しかないわけではない。複数の側面がある。役柄とか役割といってもいいのだけど、多くの別名が生まれたのはそういうことで説明がつく。
 現代風にいえば、一人の人間は誰々の息子であり、何々会社の人であり、どこどこのおじちゃんだったりするようなものだ。
 宗像三女神も同じように考えればいいのだと思う。果たした役割はおそらく我々が考えるより多く、表だってはいなくても我々の身近にしっかり生き続けているのだろう。

 

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