
新田の八幡
読み方 | はちまん-しゃ(きたしんちょう |
所在地 | 日進市北新町相野山1286 地図 |
創建年 | 1657年 |
旧社格・等級等 | 十二等級・旧村社 |
祭神 | 応神天皇(オウジン) |
アクセス | 名鉄バス「岩藤」より徒歩約10分 |
駐車場 | あり |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月第1日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 日進市北新町の八幡に謎はなさそう |
謎はなさそう
ある程度はっきりした神社で、謎らしい謎もない。
江戸時代前期に新田を開発して誕生した北新田集落の氏神として創建されたと伝わる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
今の豊田市寺部の人々新田開拓のため、この地に移り明暦三年(一六五七) 寺部の八幡社より分霊を祀り氏神とした。
明治五年、村社に列し同四十四年五月、村内にあった熱田社・御鍬社・津島社を合併した。
三河国寺部からこの地に入植した人たちが新田を開拓して、寺部の八幡を勧請して祀ったということのようだ。
神社の創建を1657年(明暦3年)としており、これも特に疑う理由はない。
『日進町誌』は大正時代の『愛知郡誌』を引用してこう書いている。
慶安元年戊子、三州加茂郡寺部村ノ人、数人来リテ開墾スト云フ
と記し、天明九年の「愛知郡岩崎村北新田見取田畑検地帳」(区有資料)の見返に、次のように見えている
(なお、これは寛政九年の追記で、「鈴木氏買帳」にもほぼ同様のことが見えるが、「覚帳」は幕末から明治にかけて記述されたものであるので、前者のずと思われる)。
棟札の写しも残っているようなのでおそらく間違いないのだろう。
入植したのが1648年(慶安元年)で、神社創建が1657年なので、これも違和感はない。
棟札によると、北新田だけでなく岩崎村の氏神でもあり、妙仙寺の境外鎮守社でもあったようだ。
本願主の黒田史郎兵衛正家は地主だった渡辺氏の代官ということで、渡辺家も深く関わっているだろうと『日進町誌』はいっている。
境内の由緒書はもう少し詳しい。
慶安元年(1648)、三河各地より9軒の人々ここに入植し北新田の成立をみる。
うち4軒は来主渡辺氏の本拠たる三州賀茂郡寺部よりの転住者たりしため、
入住10年の明暦3年(1657)9月、寺部の八幡宮をここに勧請、岩藤新田も氏子となり、当神社を両新田の氏神として今日に至る。
寺部からだけではなく三河の各地から9軒がこの地にやってきたといっている。
どうして三河の人間が尾張のこの地にやってきたかというと、岩崎の領主だった渡辺氏の本拠地が三河国加茂郡寺部だったからということらしい。
そういう事情ならば納得するし、寺部の八幡を勧請して祀ったのも自然なことだ。
寺部の八幡宮は平安時代後期の1133年に創建したとされる神社で、1656年(明暦2年)に藩主の渡辺飛弾守治綱が社殿を造営したという。
1656年といえば、北新田に八幡を勧請する前年で、この造営主が寺部の渡辺氏だったということは何か関係があるというか連動したものだったかもしれない。
北新田と江戸時代の地誌
北新田は岩崎村の枝邑(支村)という扱いだったので、尾張の地誌には独立した項がなく、詳しいことを知ることができない。
『尾張徇行記』(1822年)に「北新田ハ岩藤ツツキ山腰ニアリ、民戸処々ニ散在セリ」とあるように、丘陵地の麓に民家が点在していたようだ。
ただ、北新田地区にこのとき初めて人が入ったわけではない。というのも、東北部の丘陵地帯に平安から鎌倉にかけての窯跡が5基見つかっているからだ。
それからすると、少なくとも平安時代、もしくはそれ以前からこのあたりに人がいたことは間違いない。それがどこまで遡れるかを推測するのは難しいものの、江戸時代でないことは確かだ。
古墳より古い遺跡が見つかっていないからといっても知られていないだけかもしれない。
八幡創建のいきさつについては上に書いたことで間違いなさそうなのだけど、他も一応見ておくと、1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』にはそれらしい神社はなく、『尾張徇行記』には「八幡祠境内五反六畝御除地、明暦三丁酉年創建スト也」とある。
明暦3年((1657年)創建は神社由緒書その他と一致する。
『尾張志』(1844年)は「神明社 白山ノ社 辯才天ノ社 山ノ神ノ社四所 八幡社 天王ノ社二所 みな岩崎むらにあり」と書いており、この中の八幡社が北新田の八幡だろう。
『愛知縣神社名鑑』をもう一度見ておくと、「明治五年、村社に列し同四十四年五月、村内にあった熱田社・御鍬社・津島社を合併した」とあるので、明治以降の変遷も分かる。
村内にあった熱田社、御鍬社、津島社が江戸時代のどの神社に当たるかがちょっと微妙なところで、『尾張志』の顔ぶれとは合わないように思える。
津島社は天王でいいとして、熱田社と御鍬社はどこから来たのだろう。
江戸時代の辯才天は今の弁天池のどこかにあったものとして、白山はどこへ行ってしまったのか。
岩崎村にあった神明社は「同40年12月に熱田社・御鍬社・池鯉鮒社・須佐之男社を合併した」というから(『愛知縣神社名鑑』)、そちらと考え合わせてもよく分からない。
熱田社、御鍬社、津島社は、全部北新田の中にあったものなのか。
北新田の変遷
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
北新田の開拓順序がよく分からないのだけど、明治期には殿ヶ池や南鶯・北鶯(みなみ・きたうぐいす)あたりに民家が集まっている。
ここが北新田の始まりなのか、後に発展したのは判断がつかない。
八幡社があるのはそこよりも南の相野山集落の西の外れだ。
現住所でいうと、東相野山に集落があり、その西の相野山に八幡という位置関係だったことになる。
八幡がこの場所ということは、もともと北新田はここから始まったということだろうか。
棟札にある「妙仙寺の境外鎮守社」の妙仙寺(地図)は、八幡から見ると1.2キロほど西南に位置している。
江戸時代のどこかで妙仙寺が八幡を管理することになったのだろう。
1920年(大正9年)の地図ではほとんど変化は見られない。
時代は飛んで1968-1973年(昭和45-48年)、集落の西に東名高速の高架が建設されて風景は様変わりしたものの、集落周辺はあまり大きな変化はない。
一番の変化は八幡南の道路が整備されたことだ。この道沿いに民家が建ち始めている。
1970年代に入ると集落の北東の丘陵地が宅地化されて団地が建った。地図ではさつき台、さくら台となっており、現在は五色園と地名が変わっている。
1980年代以降は更に宅地開発が進んでいった。
市町村の変遷についても簡単に書いておくと、明治3年(1870年)に岩崎村から分村されて北新田村となり、明治22年(1889年)の市町村制で岩崎村、岩藤新田村と合併して岩崎村大字北新田となった。
明治39年(1906年)に、香久山村、白山村と合併。
昭和33年(1958年)に日進村は日進町となり、平成6年(1994年)に日進町が日進市になったのに伴い、日進市北新町となった。
北新町の人口は平成半ばの1,600人台をピークに減少へ転じ、令和元年(2019年)の調査では990人と、1,000人を割り込んだ。
日進市の人口は増加傾向にあるので、北新町はやや苦しいところかもしれない。
五色園のこと
北新町の北東に五色園(公式サイト/地図)がある。
知る人ぞ知る珍スポット扱いされているところなのだけど、もちろん真面目に作っている。
日本で唯一の宗教公園を自認しており、親鸞聖人のエピソードや一生をコンクリ像で再現しているのが見所だ。
この像を作ったのがコンクリ仏師の浅野祥雲(あさのしょううん)とされていて、浅野祥雲の聖地という呼ばれ方もしている。
浅野祥雲の代表作は関ヶ原ウォーランド(公式サイト)だけど、五色園はそれに次ぐ規模なので、興味ある方は一軒価値ありです。こちらは無料だし。
園内には浄土真宗系単立寺院の五色山大安寺があり、昭和9年(1934年)に森夢幻(後の大安寺初代管主)が約20万坪を買い取って宗教公園としたのが始まりだ(宗教法人五色山大安寺として許可されたのは昭和48年(1973年))。
相野山ということ
八幡がある場所は相野山(あいのやま)という地名で、由来はよく分からないのだけど、気になる。
天白に相生山(あいおいやま)という地名があって、そことの関連性もあるのではないか。
あいのやまは”愛の山”にも通じるし、愛は愛智の愛でもある。
このあたりが江戸時代前期に新田開発されるまでまったくの手つかずの未開地のだったわけではないし、もっと古くからの歴史が埋もれていておかしくない。
五色園がたまたまこの地に作られたということはあり得ず、何らかの根拠や理由があってこの地を選んだはずだ。
当たり前ではあるけど、表面上見ているものだけが歴史ではない。
作成日 2025.5.31