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八幡社(折戸)

丹羽氏以前があるのではないか

読み方はちまん-しゃ(おりど)
所在地日進市折戸町寺脇123 地図
創建年1472年(文明3年)
旧社格・等級等十二等級・旧指定村社
祭神誉田別尊(ホムタワケ)
アクセス名鉄豊田線「日進駅」より徒歩約12分
駐車場あり
webサイトwebサイト(白山宮公式サイト内)
例祭・その他例祭 10月第2日曜日(旧10月10日)
神紋
オススメ度
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自分で調べて確かめる

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

社伝によれば文明三年(一四七二) 九月、 折戸城主丹羽氏從が創建し、以来丹羽家の崇敬厚く、永禄元年(一五五八)八月岩崎城主丹羽氏清、社殿を再建する。
寛保二年(一七四二)十一月丹羽氏武の祈願の記録がある。
明治五年、村社に列格し、昭和十五年四月十九日、供進指定社となる。

 文明3年に折戸城主の丹羽氏従(にわうじより)が創建したというのは、尾張の地誌も同じで、記録にも残っているという(文明3年は1471年で1472年は間違い)。
 ではそれで間違いないかというと、必ずしもそうではない。
 1471年に至るまでこの地に何の神社もなかったかといえばそうではないだろうと思うからだ。
 ”八幡”を勧請したのが丹羽氏従で、それが1471年というのが事実だとしても、その前身に当たる神社があったのではないかと個人的には考えている。少なくとも可能性だけでも検討する余地はある。
 1471年に建てられた八幡社ですと言われて、へえ、そうなんだと納得してしまえばそこで思考停止して追求するのをやめてしまう。
 しかし、いったん受け入れたとしても、立ち止まって、本当にそうだろうかと考えてみる必要があるのではないか。
 情報を得て終わりではなく、そこが始まりで、何よりも自分で調べて確かめることが大切だ。

 というわけで、史料やネット情報などから一つずつ紐解いていくことにしよう。

折戸村の由来は?

 折戸町は江戸時代の折戸村(おりどむら)から来ている。
 折戸について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこう書いている。

折戸村(をりど) 登濁

 地名詳ならず或は正字居所(をりど)の義にや

 【附言】十六夜日記異本にをりどといふ驛をゆく」

 源平盛衰記に扱戸の宿に陳爲(ジンス)
とあるは中島郡今の折津の当なり

 地名の由来ははっきりしないとしつつ、”居所”から来ているかもしれないと推測している。
 それとは別の話として、『十六夜日記』の異本や『源平盛衰記』(『平家物語』の異本)に出てくる”扱戸(をりど)”は中島郡の折津のことといっている。
 この折津というのは中島郡(今の稲沢市)の下津 (おりづ)のことで、古代に国衙(こくが)があった場所という説があったり、中世には伊勢の神宮(公式サイト)の御厨(みくりや)があった場所だ。
『日進町誌』は「大字名の折戸は、字音と天文二十一年の文書に見える「下津(おりと)の表記から渡船場(降津)のように思えるが、そのような現況ではなく、崖地(下所)によるものかも知れない」と書いている。
 もし折戸が下津から転じたものだとすると、中島郡の下津(折津)と何か関係があるのかもしれない。
 しかしながら下津を”をりど”と読むかというと少し疑問だ。津を”ど”とは読まないし、下津から折戸に転じたというのはちょっと無理がある。
 文字よりも”をりど”という音が由来だろうと思う。
 その場合、”と”ではなく”ど”と濁るところも鍵を握る。

折戸の歴史

『尾張徇行記』(1822年)は折戸城と丹羽氏について詳しく書いているので、少し長いけど引用しておく。

折戸城 府志曰、土人曰、丹羽和泉守居之、其地今為陸田、其北猶有城内池呼、丹羽家伝日、丹羽平三郎氏明四代孫和泉守源氏従、始築城於尾張国愛知郡折戸郷云々

丹羽氏古城跡東西十九間程南北十七間程アリ、今ハ畠ニナリ四畝六歩アリ、其由来へ文化六巳年庄屋書上ニ、一色平三郎氏明長正年中丹羽郡丹羽村ニ居住シ、 丹羽郡ヲ領スルニ依テ氏ヲ丹羽ト改メ、家紋モ雪笹ヲ桧扇ニ改ム、五代目丹羽和泉守氏従、文明三年四月愛知郡折戸村ニ始テ城ヲ築キテココニ移レリ、明応六丁巳年八月六日卒、法名ヲ長松寺殿龍沢道盛大禅定門ト号ス、六代目新助氏員翌七年父氏従ヲ氏神八幡宮二勧請ス、於是氏神ヲ城主ノ墓トイヒ伝ヘリ、又文亀三年ニ本郷村へ城ヲ移シ、八代目若狭守氏清天文七年岩崎村ニ於テ新ニ城ヲ築キテココニ移リ、折戸ハ元祖氏従ノ菩提所ナルニヨッテ、其跡ニ竹流山宝泉寺ヲ創建ス、十一代目勘助氏次天正十二年長久手合戦ノ後、三州伊保ノ城ニ移り、十二代目勘助氏信濃州岩村ノ城へ移り、十六代目和泉守氏音越後ノ高柳へ移り、十七代目和泉守薫氏播州三草へ移リ、二十代目式部少輔寛政八年辰八月六日、元祖長松寺殿三百年ノ忌辰ニ、江戸ヨリ代替ノ使者宝泉寺ヘ参リ、法会執行アリ

 要約すると、丹羽氏の祖は一色氏で(清和源氏の足利氏の支流)、丹羽郡を領したことで丹羽氏を名乗るようになり、5代目の丹羽和泉守氏従が文明三年(1471年)に折戸村に城を築いて移り住み、その子で6代目の新助氏員が八幡宮に父を勧請したということらしい。
 丹羽氏従が八幡を創建したことが社伝として伝わっていることは確かなようだ。
 八幡と隣接する宝泉寺の前身の長松寺を創建したのも丹羽氏従で、それが文明3年7月というから、八幡より先に寺を建てたことになる。

 少し分からないことがありつつ先へ進めると、丹羽氏従が折戸村に移って折戸城を築城したということは、そのときすでに折戸村はあったということだ。
 1471年といえば応仁の乱(1467-1477年)の真っ最中で、そのことも関係していたはずだ。あれは京都だけの戦いではなく、全国各地に飛び火していた。
 そもそもあの戦いの発端となったのは室町幕府管領家の斯波氏と畠山氏の家督争いで、斯波氏は尾張守護職なので、尾張も無関係ではいられなかった。
 それにしても、丹羽郡丹羽荘にいた丹羽氏(一色氏)がどうして愛知郡のこの地ヘやってきたのかが気になる。なんのアテもツテもなく移ってきたとも思えないから、何か関係があったのだろう。

 折戸の集落がいつ頃できたのかを推測するのは難しい。
 一つ手掛かりとなるのが古窯址の存在だ。
 8世紀後半から13世紀後半にかけての古窯址が30基ほど見つかっており、少なくとも奈良時代にはこのあたりに人がいたのは間違いない。
 これだけの窯があるということはそれなりの人数がいただろうし、折戸の集落はその頃すでにあったのではないか。
 丹羽氏が折戸に移って城を築いたことが始まりではないことは確かだ。
 となると、八幡より以前に何らかの社があった可能性は高い。
 集落としてはいったん途切れて、社も廃社になったか、人と一緒に移っていったかしただろう。

江戸時代の折戸村と神社

 江戸時代の地誌を『寛文村々覚書』(1670年頃)から見ていく。

人数 弐拾九軒
家数 弐百弐拾人
馬 拾弐疋

禅宗 岩崎村妙仙寺末寺 宝泉寺
 寺内六畝拾三歩 備前検除

社 三ヶ所 内 八幡 山之神 八幡古森
 右宝泉寺持分
 社内弐町弐反八畝弐拾歩 松林共ニ 前々除

 家数が29軒で、村人が220人なので、村の規模としては大きくない。
 1軒あたり7.5人はわりと大家族だ。
 馬が12疋(頭)と多いのは、農耕以外の用途があったことを示している。 

 神社は八幡、山之神、八幡古森となっている。
 八幡は今の八幡社で、山之神は合祀されて残っていないのだけど、八幡古森というのは何なのか。
 八幡とは別にもう一つの八幡があったのか、もともと別の場所にあった八幡を今の地に移したのか。
 いずれも前々除(まえまえよけ)なので1608年の備前検地以前からあったということだ。
 そして、この頃までにはすべて宝泉寺の持分となっている。
 全部をあわせた社地が2町2反=6,600坪は相当広い。

続いて『尾張徇行記』はこう書いている。

社三ヶ所 覚書ニ、八幡・山神・八幡古森社内二町二反八畝二十步松林共前々除、宝泉寺持分
宝泉寺書上ニ、氏神八幡祠境內東西六十間南北五十二間、山神祠境内東西十五間南北二十間、天道祠境内東西十八間南北十四間、米宮境内東西二十間南北十七間、秋葉祠境内東西十九間南北十八間、イツレモ村除

 宝泉寺の書上に、八幡、山神の他に天道祠、米宮、秋葉祠があると書いてあることを紹介している。
 八幡古森がどうなったか不明で、天道と米宮、秋葉が増えている。
 天道も気になるところではあるのだけど、米宮というのは初めて見る。

『尾張志』(1844年)ではこうなっている。

八幡ノ社 天道ノ社 山ノ神ノ社 稻荷ノ神
 四社ともに折戸村にあり

 米宮が稲荷神になっている。
 なるほど、その米かと納得する部分はあるのだけど、米宮という呼び方はかなり珍しいのではないか。
 これらの社(祠)は明治以降に合祀されたか八幡に移されたかしただろうけど、詳しいことは調べがつなかった。

宝泉寺について

 八幡社のすぐ南に宝泉寺(地図)があり、ほとんど一体化している。
 後述する折戸城とも関係がある寺で、上に書いたように、八幡に先だって折戸城主の丹羽氏従が建立したと伝わる(1471年)。
 尾張の地誌がどう書いているか、それぞれ引用してみる。
 まずは『寛文村々覚書』から。

禅宗 岩崎村妙仙寺末寺 宝泉寺
 寺内六畝拾三歩 備前検除

『尾張徇行記』はこうだ。

宝泉寺 府志曰、在折戸村、号竹流山、曹洞宗属岩崎妙仙寺、天文四年丹羽和泉守氏従從創建之、寺中有古牌、銘曰宝泉寺殿滝沢道成大禅定門、折戸吹上城主丹羽和泉守源氏従、明応六年丁巳八月六日卒
覚書ニ、寺内六畝十三步備前検除
当寺書上、境内六畝十三歩備前検除、此寺慶長元丙申年一言和尚創建ス

『尾張志』は以下の通り。

寶泉寺

折戸村にありて竹流山といふ本寺上に同し天文四年當處の城主丹羽和泉守源氏從是を創建す木佛坐像の観音を安置す境内に鎮守社石地蔵などあり又丹羽和泉守氏從同右近大夫氏識同次郎三郎氏重同右近大夫氏勝同勘助氏次等の位牌當寺にあり

『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。

竹流山寳泉寺(ちくりうざんはうせんじ)

折戸村にあり。曹洞宗、岩崎妙仙寺末。天文四年丹羽和泉守氏從菩提の爲に建立す。境内に氏従の石碑ありて、
『寶泉寺殿龍潭道成大禪定門折戸吹上城主丹羽和泉守源氏從明應六天丁巳八月六民卒』と見えたり。
同村西島といふ所に此人の城趾あり。氏従は清和源氏一色次郎範氏の五代平三郎氏明、當國丹羽郡丹州発庄に來住して、始て丹羽氏を稱す。氏明四世孫氏従、はじめてここの城を築いて居住し、男子を多くうみしよし、「本朝武林傳」に見えたり。

 宝泉寺の創建について、尾張の地誌は天文4年といっている。これは1535年で、文明3年の1471年とは大きく時代が隔たっている。
『日進町誌』は文明3年の1471年4月に折戸城を築き、7月に宝泉寺を建立して、9月に八幡を勧請したと書いており、どちらを信用すればいいのか判断がつかない。
 ただ、丹羽氏従の没年は1497年という情報があり、そうなると1535年に丹羽氏従が建立したということはあり得ないことになる。
『尾張徇行記』は宝泉寺の書上に、慶長元年(1596年)に一言和尚が創建したとあると紹介している。
 ただし、『日進町誌』によると一言和尚は天文7年(1538年)に没しているので、それはないと書いている。
 同じく『日進町誌』から引用すると、以下のような事情があったようだ。

折戸城主丹羽氏従が宝泉寺の前身である長松寺を文明三年七月に創建したが、曽孫の氏清が天文六年八月、本郷城から岩崎城へ移った際に、長松寺を岩崎へ移して妙仙寺と改号したという。
そして、妙仙寺二世一言高賢が慶長元年に長松寺の跡地に宝泉寺を再興したという。

 これが一番妥当で信じられるような気がする。

折戸城についての不確かな話

 続いて折戸城についても見ておくことにする。
 八幡社境内南側に折戸城址の立派な石碑が建っており、そこから集落を一望でき、いかにも城に相応しい場所に思える。
 しかし、ここにあったのは吹上城で、折戸城は別にあったという話もある。
『寛文村々覚書』はこんなふうに書いている。

古城跡壱ヶ所 先年丹羽道家居城之由、今ハ畑ニ成ル。
古城跡壱ヶ所 先年丹羽ノ矢野居城之由、今ハ畑ニ成ル。

 この記述が混乱をもたらしている。
 丹羽道家が居城したものと、丹羽ノ矢野が居城した城跡があり、どちらも今は畑になっていると書いている。
 詳しい場所には触れていないものの、明らかに城跡が2ヶ所あって、江戸時代前期までには畑になっていたようなのだ。
 となると、八幡の境内地は城があったところではないのではないかということになる。
 丹羽道家や矢野というのは他では出てこない名前で、何者かよく分からない。
『尾張徇行記』の丹羽氏系譜では、氏従、氏員、氏清、氏次、氏信、氏音、薫氏といった名前が挙げられており、当主(城主)はいずれも名前に”氏”がついている。道家や矢野というのはそぐわない気がするのだけど、通称のようなものかもしれない。

『尾張徇行記』はこう書いている。

折戸城 府志曰、土人曰、丹羽和泉守居之、其地今為陸田、其北猶有城内池呼、丹羽家伝日、丹羽平三郎氏明四代孫和泉守源氏従、始築城於尾張国愛知郡折戸郷云々

『尾張志』は以下の通り。

をりとむらにあり西島といふ地也この地むかしは吹上といひしよし丹羽家の傳記に見ゆ今はさる名は絶て傳はらす城根(シロ子)といふ也氏神八幡社より一町ばかり西にて民居の北に屬る山城にて西南の方は眼下に見かろして景色よく吹上ともいひつへき地形なり北は山南は谷にて東西二方に堀ありしさま殘れり東西堀を除て二十五間南北十八間ばかりあり當城は丹羽和泉守氏從文明三年四月はしめて築て此處に住居し明應六年丁己八月六日身まかりて長松寺殿龍澤道盛大禪定門といふ其子新助氏員文龜三年に同郡本郷村に此城を移したりかかれは二代三十三年在城の後廢れたるなり

 折戸村の西島はかつて吹上と呼ばれており、その呼び名は今(江戸時代後期)には伝わっていないものの、場所は八幡より1町(109メートル)ほど西の山といっている。
 現在、いずれにも遺構はなく、詳しいことは分からないとされる。
 文亀3年(1503年)に丹羽新助氏員が本郷城を築いてそちらに移り、折戸城(吹上城)は廃城になったとされる。

折戸の変遷

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で折戸の様子を確認してみる。
 地図に描かれた状況は江戸時代からそれほど変わっていないはずだ。
 集落の南を流れる折戸川は、南東から北西へ向かって流れ、野方で天白川に注ぎ込んでいる。
 折戸の集落は比較的緩やかな丘陵地に四方を囲まれている。
 この地形が窯を作るのに向いていたのだろう。
 あまり広くない平地部分を余すことなく農地にしており、周囲には多くのため池が作られている。

 江戸時代の折戸村について『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

此村ハ山ノ交ヒニアリ、民家ハ山腰ニアリテ瀬戸ノ分リモナシ、一体先年ヨリ戸口多キ所故村中ニテハ田畝不足ナルニヨリ、隣郷諸和和合藤枝浅田野方村ノ田地ヲ承佃スルト也、小百姓ハカリニテ村立相応ノ所也、 専農事ヲ以テ渡世トス

 集落はひとかたまりで、だんだん村人が増えて田畑が足りなくなったので近隣の諸輪や和合、藤枝、浅田、野方に田畑を借りているといった状況だったようだ。
 江戸時代前期の1600年代後半は家数29軒、村人220人だったのが、江戸時代後半には増えたということなのだろう。
 集落の農地はすべて渡辺半蔵家の領地だったようだ(『日進町誌』)。
 八幡は集落の北の高台に鎮座していた。

 1968-1973年(昭和43-48年)の地図を見ると、道路が敷かれ、道沿いを中心に家も増えていったことが見て取れる。
 ただ、集落東を南北に走る県道57号線や、南を東西に走る道路はまだない。
 集落の南を走っている名鉄豊田線が開通したのは1979年(昭和54年)で、日進駅はやや遠いものの、名古屋や豊田方面へのアクセスがだいぶ便利になった。
 この時代に北部の丘陵地が宅地開発されて、東山園や東山団地が建った。
 1980年代以降、日進駅北も順次区画整理されて家が建ち並ぶようになった。

 市町村名についても少し追っておくと、明治22年(1889年)の町村制で折戸村、野方村、赤池村、浅田村、梅森村、蟹甲新田が合併して香久山村となり、明治39年(1906年)には 岩崎村、白山村と合併して日進村が発足した。
 昭和33年(1958年)の町制で日進町となり、平成6年(1994年)には日進市となり、現在に至っている。
 令和4年(2022年)の調査では、折戸町の住人は1,143世帯、2,838人だそうだ。これが近隣と比べて多いのか少ないのかはよく分からないのだけど、核家族化が進んでいることは分かる。
 現在も田んぼは少し残っているものの、農家は少なくなっただろう。

丹羽一族は去った

 折戸城の丹羽氏は去り、八幡やゆかりの宝泉寺などは残った。
 城主はいなくなっても丹羽一族が全員よそへ移ったわけではないだろうから、今でも日進には丹羽さんが多いのではないかと思う。
 神社にしろ、寺にしろ、誰が建てたにせよ、後の時代まで守られて伝わっていくもので、もはや最初が誰だったかはさほど重要ではないのかもしれない。
 その後の数百年の歳月には重みがある。
 ただ、個人的には丹羽氏以前の歴史が知りたいという思いがあって、それがなかなか見えてこないところにもどかしさを感じている。
 日進の歴史は全体的にモヤがかかっていて見えづらい感じだ。

作成日 2025.6.7


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