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直会神社

ここは本当に直会の社なのか?

読み方なほらい-じんじゃ
所在地尾張旭市庄中町塚坪2-223番地 地図
創建年不明(天武天皇時代とも)
旧社格・等級等無格社・十四等級
祭神神直日神(カムナオヒ)
大直日神(オオナオヒ)
アクセス名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約25分
駐車場あり(境内)
webサイトwebサイト(澁川神社サイト内)
例祭・その他3月と12月の第1日曜日
神紋五七桐紋
オススメ度
ブログ記事

直会殿の跡

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

 創建は古く天武天皇の白鳳5年(676年)と伝える。悠紀斎田の抜穂式の直会殿をそのまま祀ると。
明治6年、据置公許となり、同43年2月2日今のように社名を改めた。

『愛知縣神社名鑑』

 直会神社について語るとき、必ず出てくるのが676年(白鳳5年)に尾張国山田郡で行われた斎忌(ゆき)の話だ。
 詳しくは澁川神社のページに書いたのだけど、『日本書紀』に、天武天皇白鳳5年(676年)に新嘗のための斎忌が尾張国山田郡になったという記事があり、それが行われたのが印場の澁川神社あたりだったということになっている。
 この話はちょっと疑わしいところがあると個人的には考えているのだけど、その際に直会殿が建てられた場所が直会神社なのだという。

 では、直会(なおらい)とは何か、ということだ。

 一般的に直会というと、神事、祭事の際に供えた神饌(食べ物や酒)を下ろしていただくことをいう。
 砕いていえば打ち上げの飲み会みたいなものだ。
 ただ、神に供えたものをいただくということは神人が一体となることを願ったもので、一種の象徴的な儀礼として捉えられている。
 宮中で行われる秋の新嘗祭(にいなめさい)では、天皇も新穀を捧げて、後にそれを召している。
 直会殿(なおらいでん)ということでいうと、その直会を行うために設けられた建物ということになる。

 直会の語源は、直る、つまり元に戻るという意味で”なおりあい”から来ているというのが一般的にいわれる。
 大事な神事の前には身を清める潔斎(けっさい)を行い、神事を終えて日常に戻ることを解斎(げさい)といっており、直会は解斎ということも意味している。

本当にこの場所だったのか?

 直会殿が直会神社になったというのは、話としてはおかしくない。あまり例は多くないだろうけど、そういうことがあったとしても不思議ではない。
 ただ、それがこの場所だったかという点に疑問というか違和感を抱く。

 斎忌の斎田があったのが今の澁川神社あたりだったという話がある。
 澁川神社はもともと現在地より南西4、500メートルのところにあって、斎忌のときに現在地に移したと社伝はいう。
『尾張名所図会』(1844年)は1キロほど(十餘町北)北にあったのを移したと書いているので、そういう話もあったようなのだけど、いずれにしても斎忌絡みで場所が移されたという伝承がある。
 その澁川神社から見て直会神社は、約740メートルほど南東に位置している。
 そのすぐ南を矢田川が東から西へ流れている。
 なんか、ちょっと遠くない? と思うのだ。

 当時の人たちの地理感覚とか距離感がどんなものだったかは想像もつかないのだけど、この場所に直会殿を作る必然が見えない。
 澁川神社と直会神社との間には天神川も流れている。
 当時はあたり一面広大な田んぼだったとしても、矢田川近くのこの場所が直会殿に適していたとは思えないのだけど。

 思い違いをしてはいけないのは、このとき行われたのは新嘗祭だったということだ。
 澁川神社の由緒などは大嘗祭といっているのだけど、天皇即位に伴う践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)ではなく新嘗祭だったということを頭に入れておく必要がある。
 新嘗祭は毎年行われているもので、普段であれば卜(うらない)によって斎忌や次(すき)を決めることはしない。
 天武天皇白鳳5年に特別の新嘗祭が行われたということは何か特別な事情があったことを意味している。そのあたりについても澁川神社のページに書いた。

 このときの経緯について『日本書紀』はこう書いている。

「(九月)丙戌 神官奏曰 爲新嘗 卜国郡也 齋忌(齋忌此云踰既) 則尾張国山田郡 次(次此云須伎)也 丹波国訶沙郡 並食卜」

(中略)

「十一月乙丑朔 以新嘗事」

『日本書紀』天武天皇紀

 ここを読めば分かるように、9月21日に新嘗の斎忌と次の地が決まり、11月1日に新嘗が行われている。
 つまり、斎忌に決まってから新嘗までは一ヶ月ちょっとしかなかったということだ。
 これは新暦にすると10月半ばか後半くらいにそちらに決まりましたと告げられて11月下旬には稲や酒を用意しなけばいけなかったことになる。
 稲刈りはすでに終わっていただろうから、稲を選別して酒造りをやったということだろうと思う。
 直会殿というのがどれくらいの規模のものかは分からないのだけど、神社の社殿のような立派なものではなかったはずだ。そんなものを一ヶ月では建てられない。
 たとえば地鎮祭を行うときのような臨時のものだっただろうか。

 そんな場面を想像しつつあらためて思うのが、なんでここだったんだろう? ということだ。
 別に神社にいちゃもんをつけているわけではなくて、素朴な疑問として浮かぶということだ。
 たとえば禊などをするために川の近くの方が都合がよかったとにしても、それならもっと近い天神川で事足りる。
 斎忌をきっかけに澁川神社を移したという話も、このスケジュールを考えるとあり得ないことのようにも思えてくる。
 当時の澁川神社の規模がどれくらいだったにせよ、一ヶ月程度で移せたとも思えない。
 移したのは新嘗が終わって、その跡地に移したということか。
 だとすると、白鳳5年の新嘗のときは澁川神社はまだ旧地だったことになる。
 どちらにしても、直会殿は澁川神社の中か隣接した場所でよかったのではないかと思うけど、どうなんだろう。

江戸時代の書では

 江戸時代の書に手がかりを求めてみよう。

『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1822年)は直会神社について書いていない。
 神社と呼べるような規模ではなかったのだろう。
 しかし、『尾張志』(1844年)はこんなことを書いている。

「直會殿の跡は南の方枝郷庄中にあり今猶小社ありてナウライ或はニヨウライと訛る
 諸人崇敬し病気をいのりに必靈験ありて平癒せすという事なし
 近郷はいふに及ばす遠路他國よりも参詣して其繁昌の社なり」

『尾張志』

 枝郷庄中というのは、印場村の支村で、庄中と呼ばれていた集落だ。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、庄中にもけっこう家が建っている。これは江戸時代の庄中集落が発展したものだ。
 小社というから祠程度のもので、地元では”なうらい”とか”にょうらい”と呼ばれていたようだ。それは直会殿の跡という認識があったことが分かる。
 位置でいうと、庄中集落の東の端に当たる。
 それほど小さな祠にもかかわらず、参れば病気が治るという評判が高かったのだろう、近隣だけでなく遠方からも人が訪れて治らないことがないとまでいっている。”繁昌の社”といってるからかなりのものだ。

 今は住宅地の中に埋もれるような格好になっている小さな神社で、当時の賑わいぶりは想像がつかないのだけど、わりと最近、戦前までは大勢の人が参拝に訪れていたという。
 各地に直会道と呼ばれる道があったくらいだから、かなり有名な社だったことがうかがえる。
 当時、祭りの日は瀬戸電の臨時列車が増便されて最寄りの旧印場駅は人でごった返したという。今ではちょっと信じられない光景だ。
 現在も3月と12月の第1日曜日に例祭が行われて、伝統の”打ちはやし”や”ざい踊り”、”棒の手”が奉納されるそうだ。
 屋台も出るというから、私が思う以上に賑わいぶりは健在なのかもしれない。

澁川神社との関わり

 現在、直会神社は澁川神社の管理下に入っている。
 今の宮司は分からないのだけど、『愛知縣神社名鑑』では両神社ともに朝見武彦となっている。
『尾張志』の澁川神社の項に、”神主淺見氏”とあるのだけど、字が違うだけで代々浅見(朝見)家が社家を務めたのかもしれない。
 尾張旭市の図書館に、「朝見武彦文庫健康コーナー」というのがあって、サイトを見ると、「故朝見武彦氏のご遺族の寄付により朝見武彦健康推進基金を設け」とあるのですでに亡くなったようだ。
 跡取りがいれば、引き続き朝見家の人間が宮司を務めているかもしれない。
 この浅見家(朝見家)に何か伝わっているような気がするのだけど、代々どこまで伝わっているだろうか。

 澁川神社と直会神社との関わりについて持ち出したのには理由がある。それは神紋のことだ。
 澁川神社の神紋は菊の左右に何かの葉が付いた葉付菊花紋なのに対して、直会神社の神紋は五七桐紋となっている。
 桐紋は五三桐や五七桐などがあちこちで使われていて、どういう性格のものかを断定することはできないのだけど、澁川神社が菊花紋で直会神社が桐紋ということに少し違和感を覚えた。
 2つの神社がともに天武天皇時代の斎忌斎田にちなむのであれば、同系列の神社ということになり、神紋を共有していてもおかしくはない。
 そこで思ったのが、直会神社というのはそもそも斎忌のときの直会殿とはまったく関係のない神社なのではないか、ということだ。

民間信仰なのでは?

 676年の斎忌のときにこの地に直会殿が設けられて、その跡地に社が建てられたとすると、江戸時代の後期に至るまでに1,000年以上の歳月が流れたことになる。
 祠程度のものがそこまで長い年月を保てるだろうか?
 もちろん、祠自体は何度も建て替えるとしても、その間ずっとお世話をする人が必要だ。それなりにお金もかかる。
 676年当時に印場にある程度の集落があったとしても、枝郷の庄中は江戸時代以降にできたはずで、印場村(当時はどう呼ばれていたか分からない)からだいぶ離れたこの社の管理を1,000年以上続けたというのはちょっと信じがたい。
 言い伝えだけだったとしても、そこまで伝わるだろうか。

 そもそも、直会殿の跡社と病気平癒がつながらないというのもある。
 本当に直会殿の跡なら、稲作とか収穫にまつわる性質の社の方が自然だ。
 人々から”にょうらいさん”などと親しく呼ばれていることからしても、民間信仰の匂いが強い。
 直会の”なおらい”が”にょうらい”に訛るというのもちょっと納得できない。
 もとも”にょうらい”と呼んでいたものに直会の字を当てたとする方がしっくりくる。
 だとすれば、”にょうらい”は”如来”だったかもしれないし、別の何かかもしれない。
 個人的な感触としては、直会神社はそういう神社だと思う。


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