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澁川神社

澁川神社

澁川か坂庭か

読み方しぶかわ-じんじゃ
所在地尾張旭市印場元町北嶋3-977番地 地図
創建年不明(景行天皇時代または天武天皇時代とも)
旧社格・等級等指定村社・十一等級・延喜式内社
祭神高皇産霊神 (タカミムスビ)
大年神(オオトシ)
御食津神(ミケツ)
庭高日神(ニワタカツヒ)
阿須波神(アスハ)
波比伎神(ハヒキ)
大宮売神(オオミヤヒメ)
八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)
アクセス名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約9分
駐車場あり
webサイト公式サイト
例祭・その他10月15日に近い日曜日
神紋葉付菊花紋
オススメ度**
ブログ記事渋川神社へ

疑いの余地はないのか?

 尾張旭市元印場町にある澁川神社は、『延喜式』神名帳(927年)に載る「山田郡 澁川神社」とされる。
 神社側はそう自認し、江戸時代の地誌やその他もそうだと書いている。
 しかし、本当にそう言い切っていいだろうか? という疑問というか引っかかりというかわだかまりのようなものが私の中にある。
 そのきっかけとなったのが、江戸時代の尾張の歴史家である津田正生(つだまさなり)の主張だった。

 津田正生にいわせると、延喜式内の山田郡の澁川神社を印場村の天神だとするのは間違いだという。

 澁川神社は中志段味にある諏訪明神(諏訪社(中志段味))であり、印場村の天神は延喜式内の坂庭神社であると。
 かなり突飛な説でほとんど誰も相手にしてないのだけど、私は検討する余地があると思っている。
 古い神社の多くは創建のいきさつがはっきり伝わっていないもので、澁川神社も例外ではないのだけど、澁川神社が伝える由緒になんとなく違和感というか納得できないものがあるのだ。
 歴史をやる上で、こういったちょっと引っかかりは大事で、そこを素通りしてしまうと大事なことを見落としてしまうことになる。
 とはいえ、いきなり検討に入るのは唐突すぎる。
 まずは澁川神社について分かっている情報を提示しつつ整理して、考えるのはそれからにしよう。

分かっていることを書き出してみる

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

「天武天皇白鳳五年(676)丙子の大嘗祭の斎場を澁川神社で行うと伝える斎場(いみにわ)を今の印場と何時頃から来たか判らない。
「延喜式神名帳」に尾張国山田郡の内斎庭の里鎮座の神。「本国帳」に従二位渋川名神とある。本殿の北側に潮干塚あり海潮の干満を計りし所という。明治5年5月、村社に列し、同30年2月字東向畑1-158番地、八劔社。字東向畑1-150番地山神社の両社を合祀した。
同40年10月に16日(ママ)、供進指定社となる。社名の渋川は古くは渋川という鉄分を含んだ川の名に寄るという。」

 澁川神社について語るとき、必ず出てくるのが天武天皇白鳳五年(676)の大嘗祭の話だ。
 斎場は”ゆにわ/ゆには”と読み、神を祀るための神聖な場所を意味する。

 澁川神社にある由緒書はこうだ。

「この神社は景行天皇の御代に高皇産霊大社(タカミムスビノオオカミ)を創祀したと伝えられ白鳳五年天武天皇御即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斎田を当地に定められるに当り、大年大神 御食津大神 庭高日大神 阿須波大神 波比伎大神 大宮売大神 八重事代大神の、七柱を合祀申し上げ、醍醐天皇の御代延喜式の制定により、神名帳に列せられた式内社であります。
当社創建の地は、ここから西南方数百米渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神七柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります。
往昔は山田郡の総社として広く尊崇せられ、織田信長が神殿を改修し、後に徳川光友が神殿を再建、それぞれ幣帛を奉じている。」

 澁川神社の社伝では景行天皇の時代に高皇産霊尊を祀るために創建されたとしている。
 景行天皇(大足彦尊)といえば日本武尊(ヤマトタケル)の父とされる第12代天皇で、時代でいうと4世紀くらいだろうか。
 印場地区には印場大塚古墳(5世紀後半)などもあり、矢田川流域の長坂遺跡は弥生時代のものとされるので、古い神社があっても不思議はないのだけど、この時代に高皇産霊尊を祀ったというのはちょっとどうかと思わないでもない。

 天武天皇白鳳五年に尾張国山田郡が新嘗(にいなめ)のための悠紀(ゆき)に選ばれたというのは『日本書紀』に書かれている。 ただし、大嘗祭(おおなめのまつり)とするのは少し問題があって、新嘗祭のためとした方がいいように思う。
『日本書紀』にはこうある。

「丙戌 神官奏曰 爲新嘗 卜国郡也 齋忌(齋忌此云踰既) 則尾張国山田郡 次(次此云須伎)也 丹波国訶沙郡 並食卜」

 9月21日に神官(かむつかさ)が奏上して言うに、新嘗(にいなめ)のために国郡を卜(うらな)ったところ、斎忌(ゆき)は尾張国山田郡に、次(すき)は丹波国訶沙郡に決まりましたということだ。
 白鳳五年(676年)は天武天皇即位5年に当たり、即位してすぐの大嘗祭ではない。
 なので、由緒がいう「天武天皇御即位の大典に際し大嘗祭の悠紀斎田を当地に定められる」というのは正しくない。
 大嘗祭についても『日本書紀』は触れている。

「十二月壬午朔丙戌 侍奉大嘗中臣 忌部及神官人等 幷播磨 丹波二国郡司 亦以下人夫等 悉賜祿 因以郡司等各賜爵一級」

 (即位2年の2月27日に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し)、即位2年の12月5日に大嘗(おおなめ)で祭祀を行う中臣と忌部、神官たち、播磨(はりま)と丹波(たんば)の郡司(こおりのみやつこ)、人夫たち全員に禄を与え、郡司たちは爵位を1級賜ったという内容だ。
 つまり、大嘗祭が行われたのは即位2年で、そのとき斎忌と由基(現在は悠紀と主基の字を当てる)は播磨国と丹波国だったことが分かる(ここでは郡がどこだったかまでは書かれていない)。
 即位後最初の大嘗祭を践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)として通常の新嘗祭と区別したのはもう少し後の時代という説もあるのだけど、『日本書紀』があえて白鳳五年の新嘗祭について書いたのは、何か特別なことがあったからと考えるのが自然だ。新嘗祭のために卜いをして毎年斎忌と由基を決めていたわけではないはずだ。
 このあたりの事情については後ほど改めて考えてみることにしたい。

 神社の由緒でもう一つ気になったのが祭神についてだ。
 もともと高皇産霊神 (タカミムスビ)が祀られていたところに、大年神(オオトシ)御食津神(ミケツ)、庭高日神(ニワタカツヒ)、阿須波神(アスハ)、波比伎神(ハヒキ)、大宮売神(オオミヤヒメ)、八重事代主神をあわせ祀ったというのは本当だろうか。
 あまり馴染みのない神も入っているけど、実はこれ、大嘗祭斎田の八神殿で祀る神だ。
 かつて宮中でも御膳八神(みけのはっしん)として祀られていた(八神殿は神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神)。
 見慣れない庭高日大神、阿須波大神、波比伎大神はというと、『古事記』で大年神が天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメノカミ)を娶って生まれた奥津日子神、奥津比売命、大山咋神、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神の八神の中の三神だ。
 どうして八神の中でこの三神が選ばれたのかは分からないし、いつ頃にこの顔ぶれが定着したのか定かではないのだけど、澁川神社はこの御膳八神を祀っているといっている。
 しかし、『延喜式』神名帳に載る尾張国の神社は121座121社で、建前上にしても一社で一柱の神を祀るということになっていたので、主祭神としては高皇産霊尊だということなのだろう。
 それにしても、なんとなく後付けめいた感じがする。

 神社の由緒がいう「当社創建の地は、ここから西南方数百米渋河(そぶこ)と、考えられるが、祭神七柱合祀を機に今の地に御遷座のものであります」ということについていうと、創建の地は別で、後に現在地に移されたという話は共通している。 ただし、元地がどこだっかについてはいくつかの説があり、はっきりしない(後述)。


江戸時代の地誌などでは

 江戸時代前期の1670年頃に作られた『寛文村々覚書』の印場村を見ると以下のようになっている。

印場村 枝郷 庄中家数 四拾壱軒
人数 四百拾三人
馬 三拾四疋社 四ヶ所 内 蘇父川天神 八龍 大明神 山神
社内弐町八反五畝歩弐町四反 天神 織田常真公御黒印有之。
外ニ 田三反壱畝歩 屋敷八畝拾歩 備前検除 当村祢宜 四郎太夫持分
五畝歩 八龍 山神 前々除 同人 持分
四反歩 大明神 前々除 あつた徳太夫持分

 家数41軒で人口が413人ということは、一軒に10人家族が住んでいたということだ。
 江戸時代の一村の平均人数は400人とか500人だったとされるので、平均的な大きさではあるのだけど、名古屋城から10キロも離れた郊外ということを考えると集落としては大きな方だ。
 尾張旭市でいうと、新居村についで二番目に大きな集落が印場村だった。
 馬の数が34頭と多いのは、瀬戸街道(水野街道)沿いで人や物の運搬に使われたためだ。

 蘇父川天神というのが澁川神社のことで、大明神の八劔社と山神は東向畑にあったのだけど、明治30年に澁川神社に合祀された。 八龍は高龗社(たかおかみしゃ)として現存している。

「弐町四反 天神 織田常真公御黒印有之」の織田常真は、織田信長の二男の織田信雄(おだのぶかつ)のことだ。 本能寺の変(1582年)で信長と長男の信忠が亡くなったので、本来はこの信雄が継がないといけなかったのだけど、清須会議で豊臣秀吉に丸め込まれて尾張、伊勢、南伊勢を領するにとどまった。 この尾張国を領していた時代に蘇父川天神(澁川神社)に黒印を出したということのようだ。
 黒印というのは、この場合、神社が土地を領有する権利を与えたということだ。
 ”前々除”(まえまえよけ)は、徳川家の代官頭だった伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)が1607年に行った検地以前から除地(よけち)だったことを意味する略語で、尾張の地誌にはよく出てくる。
 なので、前々除とされている神社は少なくとも江戸時代以前からあったということが分かる。
 ”備前検除”というのは、1607年の検地のときに除地とされたということだ。
 除地ということは、税などが免除されるということになる。

 江戸時代後期の1844年に編纂された『尾張志』には以下のようなことが書かれている。

『尾張志』 1844年

 印場村については、 『日本書紀』の天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)五年新嘗の記事ことに触れ、「大嘗會  齋忌の齋場にてもとは齋場村ともかきしが後今の文字に改む」といっている。
 印場村は大嘗祭の斎場があったことから斎場村と呼ばれ、後に印場村になったというのだ。
 ゆにわ→いむば→いんば、というのだけど、やや無理があるようにも思う。

 澁川神社についてはこんなことを書いている。

「印場村にありて今天神の社と申す天武天皇の御践祚の御時大嘗會の齋場(イミニハ)に祭りし社也
(中略)
御歳(ミトシ)神大食津(オホミケツ)ノ神大宮ノ賣神等御膳御酒(オモノミキ)などにあつかり賜へたる神々を配享(アワセマツ)れり
(中略)
往古は今ノ地より南西の方四町あまりに澁河(ソブコ)といふありそこに祭れりしを後に今ノ地に移せるなるとそ
古き制札ありて禁制 「陰葉之郷天神ノ社破取事」
本社の後の方に古塚あり もと其上に古甕ありて海湖のさし引に随ひ水の盈涸する事有りしとそ今は絶たり末社
天王社 白山社 諏訪社 愛太子社 多度社 山神社 金神社 春日社 須原社 熱田社 熊野社 神明社 八竜社 八幡社 一ノ御前社例祭 九月廿九日 神主淺見氏八劔社 印場の枝村庄中村にあり」

 旧地については現在地より四町ほど南西の澁河(そぶこ)という地にあったとする。
 1町は約109メートルなので、4町なら400メートルとか450メートル南西ということになるだろうか。
 天神川の北岸なら今の印場元町3丁目あたり、天神川の南岸なら庄中町1丁目あたりか。
 しかし、同じ時期に編纂された『尾張名所図会』(1844年)は違うことをいっている。

「澁川神社(しぶかはのかみのやしろ) 印場村にあり。『延喜式神名帳』」に澁川神社、「本國帳」に従三位澁川天神とある官社にて、往古は今の地より十餘町北に澁川という所あり、そこに鎮座なりしを、後今の地に移せりといふ。もと大嘗會の齋場に祀りし社にて、村名もそれによれり。」

 旧地は現在地の10町余り北の澁川というところにあったというのだ。
 10町だと1キロ以上離れるので、今の旭前町北とか、桜ヶ丘町とか、平子が丘町とかということか。
 しかし、このへんは今でこそ山を切り開いて住宅地になっているものの、昭和になるまでは丘陵地というや小山があったところなので、そこにあえて社を祀ったかと考えるとどうなんだろうという気もする。
 ただ、山の上にあったものを里に降ろすというのはよくあることなので、場所を移したことの必然性でいうと、この説もなくはない。
 続けて、

「『日本書紀』に、天渟中原瀛真人天皇五年九月丙戌。神祇官奏曰。爲新嘗卜國郡也。齋忌則尾張國山田郡。次則丹波國訶沙郡。並食卜。としるしたる齋忌の齋場よりつけし村名なり。されば御歳神・大食津神・大宮賣神等の御膳・御酒などにあづかり給へる敷神を配享せり。
往古は殊に境地廣く、五六町を隔てたる所に鳥居の跡ありて、今は田となる。又本社の後ろの方に古塚あり。もと其上に古甕ありて、海潮のさし引に随ひ、水の盈涸する事ありしとぞ。今は絶えたり。又直會殿の跡は、今小祠を存して南の方庄中にあり。」

 といったことも書いている。
「五六町を隔てたる所に鳥居の跡がある」というのは本当で、それだけかつての境内は広大だったということだ。

 神社創建のいきさつについては、『尾張名所図会』は触れておらず、『尾張志』は天武天皇即位の大嘗祭のときに齋場が作られて、それを元に神社にしたといった理解のようだ。
 しかし、上で見てきたように即位の大嘗祭云々というのは間違っている。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。
 これがなかなか意味深というか、含みのある書き方をしていて興味深い。
 ちょっと長くなるのだけど、順番に見ていこう。

「印場村 山田庄 或曰田中荘」

 まずここでおやっと思う。
 印場村はかつての山田郡に当たり、その後、山田庄とされていたので何の疑問も持っていなかったのだけど、ここでは”田中荘ともいう”といっている。
 田中荘というのはよく分からないのだけど、なんとなく引っかかりを覚えた。

 印場村の神社についてこうだ。

「社四区、覚書ニ蘇父川天神、八龍、大明神、山神、社内二町八段五畝歩此内天神じゃ内二町四段織田常真黒印アリ、
外ニ田三段一畝歩屋敷八畝十歩備前検除、八龍山神社内五畝歩前々除、当寺祢宜四郎太夫持分、大明神境内四段歩前々除、熱田徳太夫持分」

 この部分は『寛文村々覚書』をそのまま写している。
 次に『張州府志』を引用している(『張州府志』は『尾張志』に先だって1752年(宝暦2年)に編纂された尾張藩の最初の地誌)。

「府志曰、渋川神社、在印場村、或作斎場、今俗云、蘇父川方言以渋為蘇父、盖指地□也、祀御歳神、高御魂神、庭高津日神、大食津神、大宮売神、事代主神、阿須波比岐神、神名式所謂渋川神社、本国帳録、従三位天神、伝云、当社天武天皇御宇鎮座、中世罹兵焚為烏有、故不可得考、俗称渋川、天神地祇古有社産、今近郷田有称朝拝田、霜月田等名、又当社鳥居隔五六町許、有其趾、今為田、
又本社後二三間許有塚、々上有甕、古有潮水盈涸、今則絶矣」

 澁川神社は印場村(または斎場村)にあって、蘇父川とも呼ばれていること、天武天皇時代に鎮座して御膳八神を祀っていること、五六町ほど離れたところに鳥居の跡があることなどが書かれていて、特に目新しい情報はない。
 中世に戦があって焼けたことなども書いている。

 悠紀の斎場について詳しく書いていて参考になるので引用しておく。

「斎場天神本紀
伝聞、尾張国山田庄渋川斎場、天神八座神ヲ祠祭神躰トス、所謂御歳神、高御魂神、庭高日神、大御食神、大宮売神、事代主神、阿須波神、阿波比伎神也、奉斎渋川所以ハ、皇天践祚トキ、天神地祇ヲ祭リ玉フ、是ヲ大嘗祭トイヒ、悠紀主基ノ両神殿ヲ構ヘ、主上自ヲ神膳ヲ饌ヘ玉フ大祭也、彼両神殿ニ備ヘ玉フ神殿ノ供御米、兼テ諸国ヲ占ヘテ、其占ニ当レル国郡ノ稲ヲトリテ饗給フ、是ヲ抜穂ト云、其悠紀主基ニ当レル両国ニ抜穂使ヲ遣シ、国郡ノト定タル田ニ、八月上旬ニ官ニ申テ、宮主等国ニ到リ、書く斎郡ニ於テ大祓シ訖テ、卜定田及斎場雑色人等、次領斎場亦八神殿作リ、即於斎院祭神八座諸役人抜テ供御飯黒白二酒等令駈使丁前後検校運送九月下旬至京所ト定斎場院之外、預作仮屋、暫収御稲、然後差駆使丁三百人抜穂稲、京ニ送ル、于爰四十代天武天皇五年ノ秋九月為神官卜国郡なり、斎忌ハ則尾張国山田郡、須岐ハ丹波国(今後也)訶沙郡並ト食ヘリ、山田郡斎忌ト云ハ渋川斎場也、其式如前件、大祭終テ在京ノ大嘗宮両神殿ハ壊却テ、後祢宜卜部二人両斎国ニ下テ、御膳神八座ヲ祭ラシメ、即解斎トシテ明日斎場ヲ焼却ノ定式ナリトイヘトモ、爰ニ村長里民請テ曰ク、今是斎ノ斎院ハ、此地ニ祭テ豊年ヲ祷ルヘシトテ、直ニ斎場天神ト号シ崇敬シ奉ル、遂月累年、尾張権守社頭ヲ経営シ、奠幣供膳神祭シ、猶其裔孫不絶尊崇シ、神ニ仕ヘ、譜第ノ社務トナリ、則家号ヲ権守ト称ス、亦祈年新嘗二千三百九十五座之国幣ニモ預リ、延喜式ニ所載尾張国山田郡渋川神社、文治二年尾張国神名帳亦復如此、其草創ハ忌む国忌郡ノ卜食ニ当リテ奉祭、神徳偏ニ五穀上衍事ヲ普天ノ卒土安国ノ大本、秋ノ垂穂ノ八束穂ノ長ク久シク、遠近清平テ戸口滋営昌シ天地日月卜□窮乎」

 ざっくり要約すると、大嘗祭のとき、尾張国山田郡に斎場と御膳八神を祀る八神殿を建てた。神事が終われば通常は焼いて壊してしまうのだけど、村長や里の民がこの先も祀りたいので残してほしいと願い出て許され、それが澁川神社になったといった内容だ。
 これを読むとなるほどそういうことかと納得しやすい。
 しかし、神社は景行天皇時代に高皇産霊尊を祀るために創建したといっており、天武天皇時代の大嘗祭(新嘗祭)を機に創建されたとはしていない。
 この違いはかなり大きい。
 神社は大嘗祭(新嘗祭)で斎忌に選ばれたのでそれに合わせて神社を移したといっていることからしても、斎場の斎忌殿が神社に発展したという話とは合わない。
神社がそう主張する以上、何らかの記録や言い伝えなどがあったということだろうから、それを否定することはできない。
 それにしても抜穂使(ぬきほのつかい)が京(みやこ)から300人も来たというのは、想像している以上に大がかりな行事だったようだ。

 そして最後に、面白いことを書いている。

「志略曰、渋川天神祠、延喜神名帳曰、山田郡渋川神社、本国帳曰、従三位渋川天神(川一作河)
集説曰、按出羽国山本郡副川(ソフカワ)神社座沢女(マスサハメノ)命歟、
私曰、物部印葉(インハノ)連歟、
里老云、本殿祭国常立尊、左右祭伊弉諾尊伊弉冉尊云々」

 志略は『尾州志略』なのか別の書なのか分からないのだけど、集説は天野信景(あまののぶかげ)が
1707年(宝永4年)に書いた『本国神名帳集説』(ほんごくじんみょうちょうしゅうせつ)を指している。
 津田正生の『尾張国神社考』の原題は『尾張神名帳集説本之訂考』で、この書を下敷きにして、勝手に付け加えたり批判したりしたもものだ。
 天野信景は尾張藩士であり、国学者でもあるのだけど、『本国神名帳集説』は藩とは関係のない個人の神社調査研究書なので、わりと自由にあれこれ書いている。
 その中の話でしかないのだけど、澁川神社は出羽国山本郡の副川神社(そふかわじんじゃ)と同様に沢女命(サハメ)を祀っているのではないかという説を載せている。

 これは他では見たことのない斬新な説だ。
 沢女命といえば、『古事記』の中で、伊邪那美命(イザナミ)が火神の迦具土神(カグツチ)を生んで火傷がもとで亡くなってしまうとき、嘆き悲しんだ伊邪那岐命(イザナギ)が落とした涙から成った神(泣沢女神)として登場する。
 現在の副川神社(秋田県南秋田郡八郎潟町)の祭神は天照大御神豊受大神素盞嗚大神となっていて沢女命ではないのだけど、古代は沢女命を祀っていたのだろうか。
 それにしても、副川(そふかわ)と蘇父川(そふかわ)が同じだから同じ神を祀っているというのは少々乱暴だ。他に何か根拠があれば別だけど。

 ”私曰”の”私”が誰を指しているのかちょっと分からないのだけど、物部印葉連の”いんは”から印場が来ているというのもだいぶ無理がある。
 ただ、唐突に出てきた物部という存在は無視できなくて、高皇産霊尊と物部はつながるので、古い物部の一族が高皇産霊尊を祀ったというのは可能性としてはありだと思う。
 里老の話として、本殿に国常立尊を祀り、左右に伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っているというのはちょっと惹かれる説だ。
 尾張旭市のエリアには尾張氏の影も見え隠れしていて、そういう意味でいうと澁川神社の本来の祭神が尾張氏系であっても不思議ではない。

津田正生の主張

 最初に書いたように、津田正生は印場村の天神は延喜式内の澁川神社ではないという説を唱えた。
 津田正生いわく、澁川神社は中志段味の諏訪明神(諏訪神社)なのだという。
『尾張国神社考』の中でこう書いている。

「『延喜式』神名帳の山田郡澁川神社は山田荘志段見村諏訪明神のやしろ是なるべし。
いま志段見村と書はかな書也。正字下垂水(しだみ)のいひ也。尾張山の水の雫(したた)りおつる處也。故に下垂水と呼。
集説本に澁河神社を印場村に引たるは非なり」

 志段見は当て字で、尾張山(東谷山のこと)の水がしたたり落ちる場所という意味で本来は下垂水という字だったといい、集説本(『本国神名帳集説』)が澁河神社を印場村の天神としているのは誤りであるとする。
 更に、印場の八處明神の社人が、曾父川(そぶかわ)とよふ畔名(あざな)もあるというのは偽りで、澁川は志談上中下の三村をいうとしている。
 これだけだと根拠がよく分からないので、『尾張国地名考』も引用してみる。

「中志太水に諏訪の原の地名あり 是は尾張山より雫水所々に淀て小さき湖水をなせるによりて也
湖水を洲廻(すわ)といひ其邊の廣野を原といふことに諏訪明神を祀る」

 尾張山(東谷山)から流れ出た水が湧き水となってできた小さな湖水を洲廻(すわ)といい、そこに社を祀ったので諏訪明神ということになったのだということだ。

 津田正生が言いたかったのは澁川神社の社名のことで、印場に曾父川という地名があるから蘇父川天神と呼ばれていて、蘇父川=澁川だというのは違うということなのだろうと思う。
 ただ、志段味(志談)上中下村を澁川と称することや、志段味の諏訪明神を澁川神社とする根拠についてはもう一つはっきりしない。

 印場村の天神を延喜式内の「山田郡 坂庭神社」とすることについては、天武天皇時代の斎忌から来ているとしつつ、こんなことを書いている。
 坂庭の”坂”は仮字(かりもじ)で、坂庭は本来は栄庭だった。
 印場村の印場(いむば)は斎場(いみにわ)から転じたもので、栄庭(いみにわ)と斎場は同じ意味となる。
 要するに印場=斎場=栄庭=坂庭となるのだと。

 これはけっこういい線をついている気がする。
 というのも、斎忌(悠紀)は斎(ゆ)酒(き)とも表記して、酒にも大いに関係があるからだ。
 大嘗祭(新嘗祭)のときは斎忌(悠紀)の斎田で採れた新穀から白酒(しろき)と黒酒(くろき)を醸して供えられた。
『尾張徇行記』の中でも黒白二酒を運んだと書かれているので、山田郡の斎田で白酒と黒酒を作ったはずだ。
 白酒は白濁した酒で、黒酒は植物(久佐木)を蒸し焼きして炭化させた灰を混ぜて色を付けた。
 つまり、澁川神社のあたりに斎田が作られて、その稲から酒を醸したことで斎酒とか、酒庭と呼ばれ、そのお祀りした社が神社となって坂庭神社と呼ばれた可能性は考えられる。
 坂庭神社は”サカニハ”と訓じられているものの、古くは”サカハ”だったともいう。

 今の澁川神社が延喜式内の澁川神社ではなく坂庭神社だったとしても、天武天皇の大嘗祭(新嘗祭)にゆかりの延喜式内社には違いなく、名誉も損なわれないと思うけどどうだろう。
 澁川神社は山田郡の総社を自認しているのだけど、平安時代の『尾張国内神名帳』では山田郡筆頭が坂庭天神で、二番目が澁河天神になっていることからしても、総社というのであれば先頭に書かれた坂庭天神の方がふさわしいような気もする。

 坂庭神社の論社は現在、小牧市多気東町の坂庭神社や西区の星神社(上小田井)などが挙げられているものの、どこも決め手に欠ける。
 小牧市の坂庭神社はかつての春部郡で山田郡ではないだろうし、西区小田井村の星宮(星神社)も性質が全然違うように思う。

 中志段味の諏訪社についていうと、社伝では奈良時代初期の718年創建といっており、これが本当だとすれば『延喜式』神名帳に載っていてもおかしくないし、『尾張国内神名帳』にも諏訪社はないことから別の名だったとも考えられる。
 志段味のあたりは古墳密集地帯でありながら延喜式内社とされるのは東谷山の山頂にある尾張戸神社だけで、古社がなさすぎるように感じる。
 なので、中志段味の諏訪社が延喜式内の澁川神社であるという津田正生の説はまったくのたわごととは思えない。


特別な新嘗

 上の方で天武天皇白鳳5年の新嘗祭は特別だったのではないかと書いた。
 新嘗祭は毎年11月に行うもので、この年も通例通りならわざわざ記事にしなかったはずだ。
 あえて書いたということは、特別な新嘗祭を行ったということであり、それは必ずしも良い理由ではなかったと推測できる。
『日本書紀』を少し遡って読んでみると、その理由が浮かび上がってくる。
 尾張国山田郡が新嘗のための斎忌に選ばれた天武天皇即位5年の記事を順番に拾い出してみる。

「六月 是夏 大旱 遣使四方 以捧幣帛祈諸神祗 亦請諸僧尼祈于三寶 然不雨 由是五穀不登 百姓飢之」

 夏6月に大変な干ばつがあり、四方に遣いをやって天神地祇に幣帛を奉り、僧や尼僧に祈祷させるも雨は降らず、五穀は実らなかったので百姓たちは飢えた。

「秋七月壬午 祭龍田風神 廣瀬大忌神」

 7月16日、龍田の風神と広瀬の大忌神を祭った。

「有星出于東 長七八尺 至九月竟天」

 (7月に)彗星が東に現れ、長さは七、八尺あり、9月には大空にかかった」

「八月辛亥 詔曰『四方爲大解除 用物則国別国造輸 秡柱(略)
壬子 詔曰『死刑 沒官 三流 並降一等 徒罪以下 已發覺 未發覺 悉赦之 唯 既配流不在赦例』
是日 詔諸国以放生」

 8月16日、詔して、四方に大解除(おおはらえ)をした。祓に用いる物は国ごとに国造が輸送するよう命じた。
 8月17日、詔して、死刑や官を没収された者、流された者たちは一段罪を軽くした。
 同日、諸国に詔をして放生会(ほうじょうえ)をさせた。

「九月丙寅朔 雨 不告朔」

 9月1日、雨が降った。告朔(ついたちもうし)をしなかった。

「九月丙戌 神官奏曰『爲新嘗 卜国郡也 齋忌 則尾張国山田郡 次 也丹波国訶沙郡 並食卜』」

 9月21日、神官たちが奏上した。卜いで新嘗のための斎忌が尾張国山田郡に、次が波国訶沙郡に決まりました。

「冬十月乙未朔 置酒宴群臣 丁酉 祭幣帛於相新嘗諸神祇」

 10月1日、群臣(まえつきみたち)と宴を催して酒を飲む。
 10月3日、相新嘗(あいなめ)を行い、神祇に幣帛を奉った。

「十一月乙丑朔 以新嘗事 不告朔」

 11月1日、新嘗を行う。告朔をしなかった。

 これを読むと、当時の危機的な状況が見えてくる。
 夏に雨が降らずに作物が育たず民が飢え死にし、天神地祇や仏に祈るも雨は降らなかった。
 放生会というのは生き物を解き放つことで、そうすることによって徳を積めるという考えがあった。
 7月には彗星が現れている。
 この時代の尺がどうだったのかは分からないのだけど、仮に後世の1尺=30センチを当てはめると、2メートルちょっとといったところか。
 しかし、9月に空いっぱいを渡ったとも書いているので、我々が思う彗星とは別の天体現象だったのかもしれない。
 わざわざ書いたということは珍しかったからだろうし、おそらく不吉と考えられたはずだ。
 8月には大祓をして、罪人の罪を軽くしている。これも放生会と同じく、徳を積むためだ。
 ここには書かれていないけど、この年は地震も頻発したとされる。

 こういったことの何がまずいかというと、悪いことが起きるのは天皇(天子)の徳がないためとされたからだ。
 壬申の乱について『日本書紀』がどこまで本当のことを書いているか分からないけど、あの通りだとすると、天武天皇は先代の皇子との戦争に勝利して即位したことになる。
 正統性(正当性)という点でも当時から疑問視する向きがあったかもしれない。
 こういった状況の中で、この年の新嘗は特別なものとして行うことになったのではないだろうか。
 大嘗祭と同じように斎忌と次を定めて大々的に新嘗祭を催したのは、そういう理由だったと考えれば納得がいく。
 その中で個人的にちょっと疑っているのが斎忌と次の地だ。本当にこれは卜で決まったのだろうか。

 天武天皇は大海人皇子という名が示す通り、大海人(オオアマ)の皇子、つまり海(アマ)=天(アマ)にゆかりの深い人物だ。
 天は高天原の天であり、高天原は尾張だということは神様事典などで書いている。
 尾張氏の祖とされる天火明、天香久山、天村雲など、天の一族であることが示されている。
 斎忌に選ばれた尾張はもちろん、次の丹波国も尾張氏と関係が深い。
 丹波国の一宮は出雲大神宮(公式サイト)で、出雲国の杵築大社(出雲大社/公式サイト)の元宮ともされる。
 どちらにしても、高天原の中心が”雲”で、その周辺に八の雲があるので”八雲”となり、雲から出ると”出雲”になるので、いうなれば尾張の分家のようなものだ。
 古く丹波国は丹後国も含んでおり、丹後国の一宮の籠神社(このじんじゃ/公式サイト)は尾張氏一族の海部氏(あまべうじ)が社家を務めている。
 海部も字が違うだけで海=天の一族だ。
 何が言いたいかというと、天武天皇(大海人皇子)は危機的な状況を本家筋の尾張氏に頼ったのではないかということだ。


悠紀田は山田郡のどこにあったのか?

 地元目線で考えたとき、素朴な疑問として浮かぶのは、どうして印場だったのだろう? というものだ。
 卜だったにせよ、そうでなかったにせよ、尾張国山田郡に決まったまではいい。
 問題は山田郡のどこを斎田として、どこで斎忌の祭祀を行うかだ。
 当時、どうやって場所を決めていたのかはまったく分からないので想像するしかないのだけど、後年の例でいうと、京からの遣いと現地の人間が相談して決めていたようで、そうだとすると、最終的に場所を決めたのは尾張氏だったか、もしくは山田郡の郡司のような人間だったかかもしれない。
 それを印場にした理由というか必然性というものが見えてこない。

 山田郡は中世に分割されて北は春日井郡、南は愛知郡に統合されたので郡域がよく分かっていないのだけど、『延喜式』神名帳の神社などからおおよそは推定されていて、西は北区や西区の一部、北は守山区から尾張旭市、瀬戸市、東は日進市や東郷町の一部、南は天白区や昭和区、千種区の一部あたりだったと考えられている。
 土地勘があると分かると思うけど、東西に相当広い範囲だ。
 この中で斎忌の斎田をどこにするかを決めるのは、そう簡単ではない。
 ただ、このときが特例の新嘗だったとすれば、天皇即位に伴う践祚大嘗祭とは別と考えるべきだろう。
 卜によって斎忌が尾張国山田郡に決まったのが9月21日で、新嘗が行われたのが11月1日ということは、稲の収穫はすでに終わっていたかもしれない。
 9月21日は新暦にすると10月だろうし、11月1日も11月の後半だ。
 いずれにしても、斎忌の斎田に決まって春の田植えから特別に稲を栽培したということではなかった。
 それがどうして印場のあたりだったのか、というのが個人的には一番引っ掛かっている点だ。

 山田郡の中心地がどこだったのかもよく分かっていない。郡の役所がすでにあったかどうかも定かではない。
 山田と呼ばれた地区でいうと、今の北区あたりがそうだったというのが通説だ。
 京から抜穂使が大勢やってきたというならそれを受け入れる体制が整っていないといけないし、郡の役所から遠いのも不便だ。道もちゃんと通っている必要がある。
 そう考えると、山田の中心から遠く、人も多かったとは思えない印場あたりが最適だったとはちょっと考えづらい。
 尾張の古代の幹線道路というと、後に鎌倉街道から東海道になった道があり、それはずっと南だ。
 山田郡でいうと、瀬戸街道の前身が古くからあったとすれば、印場はその街道筋に当たることは当たる。
 ただ、それならもっと西の守山とか矢田あたりでもよかった気がするけどどうだろう。
 あるいは、澁川神社がいうように、このときすでに澁川神社があって、澁川神社が山田郡の総社的な存在だったとすれば、斎忌の地として選ばれたことの理由にはなるだろうか。
 もしそうなら、場所を移したことをどう説明するかという問題も出てくる。
 いずれにしても、もともとの澁川神社は新嘗の斎忌をきっかけにできた神社ではなく、この地の人間によって御饌神とは別の神を祀るまったく違う性質の神社だったということになりそうだ。
 一つ想定されるのは、尾張氏ではなく物部氏かそれに近い氏族が高皇産霊尊を祀ったということだ。


神紋のこと

 神社拝殿に掛かった幕の紋を見て、おやっ? と思った。
 菊紋の左右に何かの葉が付いた葉付きの菊花紋が神紋になっている。
 これは他では見たことがないものだ。
 菊は二十四葉で、左右の三つ葉が何なのかはよく分からない。
 柏なのか梶なのか、桐に見えなくもない。

 菊花紋といえば天皇家の紋と思いがちだけど、古くからそうだったわけではなくて、後鳥羽上皇が好んだことで天皇家の紋となっていたとされる。時代でいうと鎌倉時代だ。
 正式に皇族の紋と定められたのは大正15年なので、わりと最近といっていい。

 余談だけど、『万葉集』に菊は出てこない。
 百代草(ももよぐさ)が菊のことではないかとされるも、それにしても飛鳥、奈良時代の人たちは菊を知らなかったか、まったく興味がなかったらしい。
『日本書紀』の一書に、菊理姫が出てくるから菊という言葉がなかったわけではない。
 しかし、菊の花に関しては『日本書紀』にも『古事記』にも出てこない。
 その後の『古今和歌集』(905年)には菊の花を詠んだ歌があるので、日本人が菊を意識するようになるのは平安時代からのようだ。

 話を戻すと、菊花紋だからといって天皇と関係が深いというのは短絡的ではあるのだけど、澁川神社の菊花紋は天皇家と何らかの関係がありそうな気がする。
 それは天武天皇というよりも、天皇の向こう側にいるタカミムスヒの一族との関係かもしれない。
 横に付いている葉が何を示しているかによっても変わってくる。
 これがもし桐だとすると、天皇家と尾張氏家が合体しているように思える。
 熱田神宮の神紋は五七桐紋と笹竹が合体した五七桐竹紋だけど、本来は五三桐だったはずだ。
 澁川神社が今の神紋をいつから使っているかは分からないけど、何やら意味深ではある。

少し関連がありそうな話

 西区の伊奴神社に、こんな話が伝わっている。
 天武天皇2年の673年に、稲生村(いのうむら)で穫れた稲を皇室に献上することになり、その際に社を建てたのが伊奴神社の始まりであると。
 この伊奴神社は『延喜式』神名帳に載る山田郡 伊奴神社とされるのだけど、問題は673年という年だ。
 これは天武天皇が即位した年であると同時に大嘗祭が行われた年でもある。
 大嘗の褒美が播磨国と丹波国の郡司に与えられたという記事からすると、このときの斎忌と次は播磨国と丹波国だったようだけど、伊奴神社の伝承が本当であれば、尾張国山田郡も稲を献上したということで、天武天皇5年の新嘗との関わりも考えられる。
 澁川神社から見て伊奴神社は約10キロ西に位置している。

結論というほどのものはない

 以上を踏まえた上で、現在の澁川神社を延喜式内の澁川神社と考えるかどうかは各自の判断に委ねたい。
 私個人としては、津田正生の志段味の諏訪社が澁川神社で、今の澁川神社は坂庭神社という説に惹かれるものを感じている。
 何の知識もなく志段味の諏訪社を訪れたとき、なんか、この神社くすぶってるなという感想を抱いた。
 本当はもっといい神社なのに、そういう扱いをされていない感じとでもいったらいいだろうか。
 後に津田正生説を知って、そういうことだったのかもしれないと、腑に落ちるものがあった。
 天武天皇の新嘗の斎忌と結びつけるのであれば、上にも書いたように坂庭神社の方がふさわしいように思う。

 歴史がどうであれ、私は澁川神社が好きだ。これまで何度も訪れていて、いい神社だと思う。
 平成14年に火事で社殿が焼けてしまったのは本当にもったいなかった。
 江戸時代前期の1688年に再建された社殿が今も残っていたらよかったのに。
 それでも神社は続く。
 歴史と人々の思いを飲み込んだまま。



作成日 2024.4.9


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