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深川神社

瀬戸の産土神

読み方ふかがわ-じんじゃ
所在地瀬戸市深川町11 地図
創建年伝771年(奈良時代後期)
旧社格・等級等旧県社・五等級
祭神天之忍穂耳尊(アメノオシホミミ)
天穂日命(アメノホヒ)
天津彦根命神(アマツヒコネ)
活津彦根命(イクツヒコネ)
熊野橡樟日命(クマノクスヒ)
建御名方命(タケミナカタ)
田霧姫命(タギリヒメ)
市杵島姫命(イチキシマヒメ)
活津比売命(イクツヒメ)
アクセス名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約12分
駐車場あり(30分以上有料)
webサイト公式サイト
例祭・その他例祭 10月第3日曜日
陶祖祭 4月第3日曜日
神紋五七桐紋
オススメ度**
ブログ記事

引っ掛かっているいくつかの点

 瀬戸市の産土神(うぶすながみ)、総鎮守として瀬戸市民から愛される神社だ。
 瀬戸市民なら行ったことがないという人の方が少ないくらいかもしれない。
 瀬戸市出身で棋士の藤井颯太七冠もよく訪れているそうだ。

『延喜式』神名帳(927年)に載る山田郡深川神社がこの神社ということに異を唱えている人はほとんどいない。
 ちょっと天邪鬼なところがある津田正生ですら疑問を呈していないくらいだからもう決まりでいいだろうと思うのだけど、個人的にちょっと分からないというか引っ掛かっている部分がある。

 どの史料も口を揃えて創建年を奈良時代後期の771年といっているけど、これを本当に信じていいのかというのが一つ。
 江戸時代まで八王子と呼ばれていたことも気になっていて、神紋が五三桐ではなく五七桐になっているのも少し引っ掛かる。
 それからこれが一番分からない点なのだけど、旧地は現在地ではなく東屋敷というところで、慶長元年(1596年)に火事で焼失して現在地に遷されたという話だ(『東春日井郡誌』大正12年)。
 慶長元年の火事については『尾張徇行記』(1822年)も書いているのだけど、そこでは遷座したとはいっておらず、東屋敷という地名は現在残っていないため、どこのことなのかは分からない。

 以上のことを念頭に置きつつ、江戸時代の史料その他を見ていくことにしよう。

社伝いわく

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は宝亀二年(771)と社伝にあり 『延喜式神名帳』に山田郡深川神社と、又国内神名帳 に從三位深川天神とある。
社殿の造営には慶長元年 (1596)五月、元和九年(1623)二月、正保四年(1647)九月、延宝二年(1674)八月、元禄元年(1688)、同十四年九月の棟札が残る。
明治五年五月郷社に、同四十年十月二十六日供進指定を受けた。
昭和十九年十月七日県社に昇格する。

 771年創建というのは社伝として伝わっているということだ。
 しかし、奈良時代以前からある神社のわりに古い棟札が残っていないのが気になる。
 慶長元年(1596年)に火事で焼失したというのであれば、それ以前の棟札が燃えてしまったというのも納得いくのだけど。
『東春日井郡誌』は「慶長元年丙申年、森林中より火を発し消失したるもの是也、後之を再建し現在の地に遷して、其旧跡を東屋敷と称せり、而後屡々再建を重ねて今の社殿とはなれり」といっているので、神社から火が出たのではなく近くの森から火が出て延焼したということのようだ。
 明治以降に郷社から供進指定社、県社にまで昇格していることからしても、瀬戸地区の中心神社だったのは間違いない。
 五等級は相当に高い等級で、同等の神社は名古屋でも数社しかない。成海神社ですら六等級なので、それより上ということだ。
 社家は『尾張徇行記』に祠官二宮治部太夫、『愛知縣神社名鑑』に二宮弥史郎とあり、ネット情報では2020年の時点で二宮あづさ宮司とあるので、二宮氏が代々継いでいるようだ。
 二宮姓は神社の一宮、二宮、三宮の二宮から来ている場合もあるのだけど、この神社は熱田社(熱田神宮)との関係が深いことからすると、熱田社の大宮司を務めた藤原南家(千秋家)の分家筋の可能性が高いだろうか。
 だとすれば、それは平安時代中期以降ということになり、それ以前は別の家が社家を務めていたことになる。おそらく尾張氏の一族だろう。

江戸時代の書を読む

 では、江戸時代の書を順番に読んでみることにしよう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

瀬戸村

家数 四拾五軒
人数 弐百八人
馬 拾六疋

禅宗 赤津村雲興寺末寺 大昌山宝泉寺
寺内五畝歩 備前検除
外ニ式反五畝歩 前々除

薬師堂一宇 地内五畝歩 前々除
当村祢宜 市太夫持分

社四ヶ所 内 山神 社宮神 八王子 権現
社内壱町弐反七畝拾八歩前々除 右同人持分

 家数は45軒で、村人は208人なので、江戸時代前期はまださほど大きな村ではなかったことが分かる。
『尾張徇行記』の赤津村の項に「瀬戸村ハ元赤津村ノ支邑ニテ、陶工ノ根元ハ赤津村ノ由」とあり、もともとは赤津村が本郷で瀬戸村はそこから分かれた支村という認識が江戸時代の人間にはあったらしい。分かれたのは少なくとも奈良時代かそれ以前に遡る古い時代のことだ。

 神社は4社で、山神、社宮神、八王子、権現となっている。
 このうち、八王子が深川神社、山神は東郷町にある山神社で、社宮神は西郷町の石神社だと思う。
 権現が分からなかったのだけど、熊野権現のようだ。
 現在、御嶽社があるのが東権現町なので、もともと熊野権現があったのはこのあたりだったかもしれない。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)の瀬戸村はこうだ。

社四区覚書ニ山神・三狐子・八王子・権現社内一町二段七畝十八歩前々除
府志日、深川神社瀬戸村、俗曰八王子社、神名式深川神社、本国帳従三位天神、今以八王子之名、称五男三女神、然不詳神故
摂社奥宮(今存遺址)神明祠・八幡祠・山神祠・熊野祠五区・山神熊野二社在社外、宇賀石神諏訪三社今亡

神宝 甆獅子一、是古藤四郎俊慶所手焼、寄進祠中、曽有一雙、為盗取夫、今存其一、而形不全
祠官二宮治部太夫書上ニ、氏神八王子社内五段歩前々除、人皇四十九代光仁帝宝亀二年鎮座ナリ、延喜式尾張国山田都深川神社、 国内神名従三位深川天神トアリ、再営、慶長元申年、又元禄十四巳年ニアリ
末社白山社・八幡社・神明社・奥宮明神社、弁才天社・本社境内ニアリ
巌窟二本社ノ左右ニアリ、東ノ方ニ小川アリ、古深川ト唱フ、今ハ杁川ト云

往昔当社へ両部習合シ、仏閣モアリテ境内十町余ヲ構へ、殊ニ織田信長朱章七十五石ノ神領ヲ以テ、神事□奉射祭ノ料トス、然ルニ慶長元申年正月野火ノ災アリテ、神祠仏閣社官社僧ノ宅マテ悉ク焼失シ、其時朱章モ焼亡セシ故、検地ノ時神領没収セラル、於今其神領ノ地名奉射田明神前田二区ノコリ、今年貢地ナリ

当村内熊野権現社内松林二段歩前々除、石神社内松林九畝十九歩前々除、山神社内薮五畝二十歩前々除、諏訪明神社内松林五畝二十歩前々除、今社廃ス、何レモ勧請ノ年曆ハ不伝卜也

 情報が多いので一つずつ整理しながら見ていくことにしよう。

 まず気づくのが、『寛文村々覚書』では「社宮神」だったのが「三狐子」になっている点だ。
 読み方(呼び方)は”シャグジン”とか”サグジ”とかで、同じ社を指しているには違いないのだけど、当てる字を変えているところに興味をひかれる。
 三の狐の子というのは何かありそうだ。
 これはいわゆるミシャクジ信仰と呼ばれる民間信仰なのだけど、そのルーツは古く、なかなか謎めいてもいる。
 現在の社名の石神社は、石=”ジャク”で”ジャグジン”(シャクジン)ということだ。
 物部が石神信仰らしいから、そのへんも関わりがあるかもしれない。

 それから、この中で一番、おおっと思ったのは「然不詳神故」の部分だ。
 この神社を延喜式内の深川神社としつつ、現在(江戸時代後期)は八王子と称して五男三女神を祀ってるけど、実際のところ祭神は”詳(つまび)らかではない”といっている。
 江戸時代の人にもそういう感覚があったのが面白いと思うのだけど、それには理由がある。
『延喜式』神名帳に載っている尾張国の神社は121座121社で、座は今でいう柱、祭神のことだ。121社で121の神を祀っているということは、これらの神社すべての祭神は一柱だということになる。
 これはけっこう重要な点なので認識しておく必要がある。
 他の国では一社に二座とか三座とかもっと多くの神を祀っているところもある。
 つまり何が言いたいかというと、少なくとも平安時代中期の時点で深川神社の祭神は一柱だったということだ。五男三女神ということはあり得ない。
 平安時代後期、もしくは鎌倉時代以降に八王子と称するようになったと考えられるのだけど、もう一つの可能性として瀬戸村の八王子は延喜式内の深川神社ではないということだ。
 あるいは、八王子は八柱の王子ではなく違う祭神の別名ということかもしれない。八の国の王子ということであれば、たとえば若彦とか天香語山とかが考えられる。
 最初は天神を祀ったという話もあるので、記紀神話の神ではなくもっと大きな存在としての神だっただろうか。

 瀬戸村にたくさんの社(祠)があったということも特徴として挙げられる。
「摂社 奥宮(今存遺址) 神明祠・八幡祠・山神祠・熊野祠五区・山神熊野二社 在社外、宇賀石神諏訪三社今亡」
 本社の他に奥宮もあり、神明、八幡、山神の他、熊野の祠は5つ、山神と熊野の社が2社、境外には宇賀神、石神、諏訪社も3社と、一時は村中が社(祠)だらけだったようだ。
 それが江戸時代後期になると、多くが廃されたのはどんな理由からなのだろう。
 ただ、完全な廃社ではなく社(祠)はなくなって跡地は残っていたといっている。
「末社白山社・八幡社・神明社・奥宮明神社、弁才天社・本社境内ニアリ」とあるので、それら内の半分くらいは本社の境内に遷されている。
 現在の深川神社を見ると、神明社、白山社、八幡社、奥宮社、辯財天社はそのまま残っている。遷されなかった社がどうなってしまったかは調べがつかなかった。
 それから、たくさんあった熊野が影も形もなくなってしまったことが気になるところだ。

 次に問題の火事話をあらためて考えてみる。
 関係する部分を引用してみるとこうだ。
「往昔当社へ両部習合シ、仏閣モアリテ境内十町余ヲ構へ、殊ニ織田信長朱章七十五石ノ神領ヲ以テ、神事□奉射祭ノ料トス、然ルニ慶長元申年正月野火ノ災アリテ、神祠仏閣社官社僧ノ宅マテ悉ク焼失シ、其時朱章モ焼亡セシ故、検地ノ時神領没収セラル、於今其神領ノ地名奉射田明神前田二区ノコリ、今年貢地ナリ」

 両部神道(りょうぶしんとう)は密教の真言宗の思想で、ルーツを辿ると空海に行き着く(天台宗の影響を受けたのが山王神道)。
 伊勢内宮の天照大神を胎蔵界の大日如来、外宮の豊受大神を金剛界の大日如来にたとえ、両部があわさって完全な大日如来となり、伊勢の神宮を守っているといった思想もあった。
 八王子(深川神社)も中世には神仏習合していて仏閣もあったといい、境内は十町というから、ものすごく広かったことが分かる。
 一町は1ヘクタール、3,000坪なので、十町は3万坪、東京ドーム44個分に当たる。
 現在地は丘陵地と瀬戸川に挟まれた狭い土地で3万坪は確保できないから、やはりもともとは別の場所にあったと考えるべきなのだろう。

「織田信長朱章七十五石ノ神領ヲ以テ」にはちょっと面白い話がある。
 信長が鷹狩りでこの地を訪れた際、美濃の斎藤龍興の刺客に襲われそうになったところを八王子(深川神社)の宮司が機転を利かせて救い、その礼として七十五石の神領を与えられたという。
 朱章というのはいわゆる朱印状のことで、領主などが朱肉で判を押した公文書のことをいう。
 そして、問題の火事の記事が出てくる。
「慶長元申年正月野火ノ災アリテ、神祠仏閣社官社僧ノ宅マテ悉ク焼失シ、其時朱章モ焼亡セシ故」
 慶長元年(1596年)の正月(1月)に野火が発生して神社も仏閣も僧の邸宅までことごとく焼けてしまったといっている。
 このとき信長の朱章も焼けてしまって、後の検地(太閤検地か?)のときに神領を証明する手立てがなく没収されてしまったというのは笑ってはいけないけど気の毒なことだった。
 旧地がどこだったのかといった記述はないものの、現在地の東700メートルほどにある宝泉寺(地図)も慶長元年の大火事で焼けたという伝承があることからすると、今よりもう少し東だっただろうか。
 森ごと焼けてしまうような大火事なら元地にそのまま建て直すとは考えにくいから、焼けていない場所に建て直したのではないだろうか。
 境内地が十町あったというなら、その境内地の中で焼けなかったところを選んだかもしれない。
 深川神社には慶長元年の棟札も残っているので、1月に焼けてその年のうちに再建したようだ。

 深川神社以外については、「当村内熊野権現社内松林二段歩前々除、石神社内松林九畝十九歩前々除、山神社内薮五畝二十歩前々除、諏訪明神社内松林五畝二十歩前々除、今社廃ス、何レモ勧請ノ年曆ハ不伝卜也」といっていて、熊野、石神、山神、諏訪は社が廃されていて創建年は不明とする。
 石神は今でもあるのだけど、ここでいっている石神と今の石神は別なのか、明治以降に復活したのか。 

『尾張志』(1844年)はこんなことを書いている。

深川神社
瀬戸村にありて今は八王子ノ社と申す祭神は五男三女ノ神なりそは天ノ忍穂耳ノ尊天ノ穂日ノ命天津彦根ノ命活津彦根ノ命熊野橡樟ノ命田心姫ノ命湍津姫ノ命市杵島姫ノ命の八はしら也
本社造替は慶長元年五月元和九年二月正保四年九月延宝二年八月元禄元年十月同十四年九月遷宮あり
例祭九月五日神楽を奏し湯立を執行す拝殿鳥居等厳重也 神宝狛犬一隻藤四郎春慶が作りて奉納したりしとそ
青ぐすりの陶器にていと古きものなり 二疋ありしが中世うせて今は片方残りたるが足さへ折れて形全からず
(後略)
末社 白山社 八幡社 神明社 陶彦ノ社 文政七年申十月おほやけに申こひて藤四郎春慶の靈をまつる

 興味を持ったのは「例祭九月五日神楽を奏し湯立を執行す」の部分だ。
 現在の例祭は10月第3日曜日に行われているけど、もともとは旧暦の9月5日だったようだ。この日に意味があるのないのか。
 湯立て神事を含む神楽(かぐら)を行っていたらしい。
 このあたりからも古い伝統を持つ神社だということが分かる。
「拝殿鳥居等厳重也」とわざわざ書いているくらいだから、江戸時代当時の人から見ても立派な社殿と鳥居に感じられたということだ。
 拝殿は建て替えられただろうけど、本殿は江戸時代後期の1823年(文政6年)に建てられたものが残っている。
 この社を手がけたのは諏訪の名工・立川和四郎とされる。
 横に回って見ると前方に張り出した流造の屋根が特徴的なのが分かる。
 細かい彫刻が施されているらしいのだけど、遠くてあまりよく見えない(一部の神社通は参拝のときに双眼鏡を持っていく)。
 本殿は1999年(平成11年)に瀬戸市有形文化財に指定された。

藤四郎と陶彦社

 深川神社の向かって右に、藤四郎こと加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)を祀る陶彦社(すえひこしゃ)がある。
 境内社とは呼べないほど立派な社殿で、二社が並び建つ格好になっている。陶彦社の鳥居も独立してある。

 藤四郎は瀬戸窯業の恩人、陶祖と呼ばれて陶彦社に祀られているのだけど、陶器が下火になっていた時期に磁器の技術をもたらして磁祖と呼ばれるようになった加藤民吉に比べると存在感は薄い。
 秋のせともの祭は民吉に感謝を捧げる祭りで盛大に行われるのに対して、春4月第3日曜日に行われる陶祖まつりは地味というかあまり知られていない。そんな祭りがあることを知らない人もいるんじゃないかと思う。私も行ったことがない。
 それは藤四郎が瀬戸の人間ではなくよそ者だからというのもあるかもしれない。

 加藤四郎左衛門景正はなかば伝説的な人物で、詳しい生まれや来歴はよく分かっていない。
 大和国で藤原元安という役人の家に生まれというのが本当であれば、藤原氏ということになる。
 1190年代生まれで、1223年に道元禅師に随行して宋に渡って6年間焼物の秘法を学んだという話も事実かどうか定かではない。
 帰国後に良質の粘土を求めて全国を回っているとき、深川神社を訪れて参籠(寝泊まりして祈ること)していると、夢で巽の方角に祖母懐にがあるという神のお告げを受けて探したところ、求めていた粘土が見つかったため、この地に竃を作って作陶を始めたというのも、どこまで本当か分からない。
 祖母懐(そぼかい)というのは、地名や土の名前ではなく良質な陶土が採れる所という意味で、この土で作った茶入れも祖母懐と呼ばれる。
「うはかふところ」という銘が入った茶壺もあるそうだ。

 この藤四郎が奉納したとされる陶製の狛犬が伝わっており、国の重要文化財となっている。
 それについて『尾張志』をあらためて引用すると、
「神宝狛犬一隻藤四郎春慶が作りて奉納したりしとそ青ぐすりの陶器にていと古きものなり 二疋ありしが中世うせて今は片方残りたるが足さへ折れて形全からず」
 狛犬を一疋(ひき)、二疋と数えるのは面白い。
 狛犬なので当然二体あったはずが、中世に一体失われて、残った方も足が折れて形が分からずといっている。
 しかし、写真を見ると、そこまでひどい状態ではなく、むしろ鎌倉期の作というには少し新しいような気もする。
『尾張徇行記』は、「神宝 甆獅子一、是古藤四郎俊慶所手焼、寄進祠中、曽有一雙、為盗取夫、今存其一、而形不全」と書いている。
 祠の中にあったのを一体は盗まれたというのだ。
 一体は火事の時に焼けたという話もあるのだけど、盗まれた可能性が高そうだ。

 陶彦社に関しては『尾張志』が書いている。
「陶彦ノ社 文政七年申十月おほやけに申こひて藤四郎春慶の靈をまつる」
 文政7年は1824年で、このとき初めて陶彦社が建てられたということになるだろうか。
 文政7年は加藤民吉が遙拝所(今の窯神社)を建てることを尾張藩が許可した同じ年なので、2つの出来事は連動しているのかもしれない。

古墳のこと

 神社本殿の裏手に回ると古墳の横穴式瀬室が剥き出しになっている様子を見ることができる。
『尾張徇行記』は「巌窟二本社ノ左右ニアリ」と書いているので、もう一基あったはずだけど現在は知られていない。
 直径9メートルほどの円墳で、横穴式石室を持つことから6世紀後半以降のものと考えられている。
 詳しい調査などは行われておらず、遺物などは不明とのことだ。
 この場所に古墳があるということは、古墳と神社が無関係のはずがなく、もともとの祭神は古墳の被葬者もしくはその一族の祖と考えるのが自然だ。
 たとえ創建が奈良時代前期の771年だったとしても、そのとき突然この場所に神社が出現したわけではなく、この土地の歴史の延長線上に神社が建てられたということだ。
 上に書いたように、それが八柱の八王子ということはあり得ず、少なくとも平安時代中期までは一柱の神だったことになる。

 大目神社のところで書いたように、瀬戸の遺跡分布は東北の奥地エリアから始まり、だんだん西へ川を下るように移っていったことを示している。
 赤津村と瀬戸村では赤津村の方が古い。
 それでも、瀬戸村域に人が暮らし始めたのはそれほど新しい時代ではなく、少なくとも弥生時代までにはこの地も開拓されていたはずで、それが古墳へとつながっている。
 瀬戸川流域ではほとんど遺跡や古墳は知られてないものの、まったくないわけがないので、見つかっていないか隠されているかしているのだろう。
 赤津の大目神社と瀬戸村の深川神社は無関係のように思えて実際は深い関係がある。
 どちらも中世には八王子と呼ばれていたというだけでなく、熱田とのつながりも見え隠れする。
 まず間違いなくどちらも尾張氏系の神社として始まっている。

神紋について

 最初に書いたように、神紋が五七桐紋なのも引っ掛かっている点だ。
 五七桐紋を使用している一族や神社は多いのでどの系統と断言することはできないのだけど、尾張の神社ということからして尾張氏や熱田との関係が濃厚だ。
 古い桐紋は五三桐で、五七桐紋は新しいというか変化した形と聞いている。
 五三桐の五三は五男三女神の象徴であり、尾張の五と三河の三をあわせた八の国を示している。
 五三が五七になったということは、三に四が足されて七となり、五七になったということだ。
 瀬戸の八王子系の神社の多くが五三桐で、五七桐紋は深川神社くらいじゃないかと思う。
 熱田神宮は五七桐の下に笹が付いた形になっている。
 もともとは五三だったのを五七に変えられて、更に別の勢力が加わったことで笹が追加された。
 深川神社の五七桐はその流れの中にあると考えていい。
 もしかすると三河か二木の勢力が途中で入ってきているかもしれない。
 日本の政府や行政機関が五七桐紋を使用しているのも、もちろん、たまたまなどではない。

今昔マップで辿る瀬戸村の変遷

 現在、瀬戸というと名鉄瀬戸線の終点「尾張瀬戸駅」周辺を思い浮かべる人が多いと思う。
 しかし、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、村の中心はもっと東側だったことが分かる。
 尾張瀬戸駅は田んぼだった場所で、そこから東は集落があって駅が作れなかっただろうか。
 せと銀座通り商店街は瀬戸駅ができて以降のことで、末広町商店街の方がルーツは古そうだ。どちらもなかなかの寂れっぷりで昭和ムード満点なのだけど。

 大正9年(1920年)の地図を見ると激変していて驚く。
 これは明治38年(1905年)に開通した瀬戸自動鉄道(大正10年に尾張瀬戸駅に改名)の存在が大きい。
 瀬戸駅を瀬戸側の起点として最初は矢田駅まで、翌年に大曽根駅まで伸長した。
 このことによって西側の田んぼは潰され、たくさんの民家が建った。
 この20年間の激変ぶりは古くからの住人を驚かせたのではないかと思う。
 この路線は当初、人よりも瀬戸で生産された陶器を名古屋方面へ運ぶ役割が大きかった。
 国鉄の中央線を延伸するはずが計画倒れになり、それならというので地元の実業家などが立ち上がって実現したのが瀬戸自動鉄道だった。
 明治39年(1906年)に瀬戸電気鉄道に社名を変更し、その後、昭和14年(1939年)に名古屋鉄道と合併して、名鉄瀬戸線となる。
 現在50代以上の方はこの列車が昭和時代に名古屋城の堀を走っていたのを覚えてるんじゃないかと思う。今も続いていれば名古屋名物となっていただろうに、惜しいことをした。

 大正以降の地図がないので詳しい変遷は分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)の地図では平地に隙間なく民家が建ち並んでいる。
 この頃までには今の町並みは完成していたようだ。
 空襲の被害の話も聞かないので、細い路地や昭和の風情がところどころに残されている。
 昭和から平成にかけては寂れる一方だった瀬戸が多少なりとも復活したのは2005年の愛知万博がきっかけだった。
 来場者を迎える玄関口の一つとして尾張瀬戸駅が古びたままでは恥ずかしいということで、駅前の大がかりな再開発が行われた。複合施設のパルティせとや瀬戸蔵などができたのもこのときだ。
 大正時代に建てられた風情のある駅舎は瀬戸蔵に移築されて保存されている。

 南に巨大団地の菱野団地が建ったり、愛知環状鉄道が通ったりしたものの、瀬戸駅周辺の発展は頭打ちとなっているのが現状だ。
 瀬戸線が栄までではなく名駅まで乗り入れていれば状況は違っていたかもしれない。
 瀬戸出身の藤井颯太の登場が光を取り戻させたのが救いといえる。
 せと銀座通り商店街なども少しずつ新しい店ができて頑張っているので、ぜひ瀬戸を訪れてみてください。
 昭和レトロ好きは特にオススメします。
 深川神社を参拝して、瀬戸焼きそばを食べて、商店街で昭和の空気を吸いつつ、瀬戸蔵を見たり窯垣の小径を歩いたりで、半日はたっぷり楽しめます。

まとめにならないまとめ

 古い神社の宿命として、延喜式内社かどうかという問題がつきまとう。
 旧社格は廃止されてどの神社も平等というのはあくまでも建前で、式内社かどうかというのは神社界の中で今も厳然と生きている。
 しかしながら、100パーセント確実に式内社といえるところは少なくて、中には論社が3社も4社もあるところがある。
 個人的な感触としては、式内社とされている神社の半分くらいは疑いを持っている。
 延喜式内社とは何かということに関しては機会があれば神社コラムに書きたいけど、ざっくりいえば平安時代中期の時点で神祇官の管轄社だったということだ。
 たとえるなら国立大学と私立大学の違いのようなものだ。
 その選定基準は分からないのだけど、律令制の中で国が管理した神社が官社、延喜式内社ということになる。
 これらの神社の多くは奈良時代以前、飛鳥時代にはあったと考えていい。
 ただ、古ければ自動的に神祇官社になったわけではなく、奈良時代、平安時代と進むにつれて神社の数は増え、平安時代には延喜式に載っていない神社は載っている神社の数倍はあったに違いない。
 だから、延喜式に載っている神社は古くてそうじゃない神社は新しいという区別も間違っている。
 ちなみに、そういう神社を式外社(しきげしゃ)と呼び、延喜式には載っていないものの『日本書紀』以降の六国史に社名が出てくるものを国史見在社(こくしけんざいしゃ)または国史現在社(こくしげんざいしゃ)などと呼んでいる。

 結局何が言いたいかというと、延喜式内かそうじゃないかは思うほど重要ではないということだ。
 瀬戸村の八王子が延喜式内の深川神社だったとしてもそうじゃないとしても、この神社が尾張氏ゆかりの古い神社であることに変わりはない。
 その起源を辿れば弥生時代、あるいは縄文時代まで遡ることができるかもしれない。
 古代から中世以降にこの神社が瀬戸村の人たちにとって重要な神社だったのも疑いない。
 長い歳月の中で神社は変容する。不変の神社など一社もない。
 たとえ原初の姿が失われ、由緒が伝わっていなかったとしても、大事なのは長い時を経て今もそこに在ることだ。
 無数の人たちの思いも積み重なっている。
 神道には中今(なかいま)という言葉がある。
 過去から未来へと続く時間の中心に現在があるといった思想だ。
 我々がやるべきなのは受け継ぎ引き継ぐことだ。
 判断や結論は先送りでいい。

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