祖母懐の神あるいは石神
読み方 | いしがみ-しゃ(にしごうちょう) |
所在地 | 瀬戸市西郷町1 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 旧無格社・十五等級 |
祭神 | 猿田彦命(サルタヒコ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約16分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 11月1日に近い日曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
猿田彦か土の神か
名鉄「尾張瀬戸駅」の東、せと末広町商店街のアーケードを抜けてすぐを右に曲がった先に、この神社はある。
瀬戸の古い集落があったあたりは区画整理されておらず、細い道が入り組んでいて目的地を見つけるのが少し難しかったりする。
私も山神社を探しているとき見つけられず、ちょうど前から歩いてきた人に訊ねたら、よそから散策で訪れていたお姉さんだったなんてこともあった。
それは分かりっこない。
この石神社は江戸時代に社宮神や三狐神と呼ばれていた神社だと思うのだけど、ちょっと確信が持てない。
情報もごく少ない。
神社入り口に由緒書があるのでそれを引用してみる。
ただ、ところどころ字がかすれて読めない部分もある。
祭神 猿田彦命叉の名大土御祖神(おおつちみおやのかみ)
由緒 創建年月は不明。その昔、この社を「さいの神」と呼んでいたと近在の古老は云う。さいとは塞が訛ったもので、つまり塞神を祀る社であった。
塞神は辻辺境にあって災害を□き止る神である。道反大神岐大神(みちかえしのおおかみくなと)に起因して石神と同意である。
これらは古くから道祖神信仰庚申(こうしん)信仰の民間信仰に結びついておりこの民間信仰に深いつながりをもつ猿田彦命がいつしか祭神として祀られたものと思われる。
良縁・安産・子育等に霊験ありと古くより信仰される。
塞神(さいのかみ)については後ほどとして、とりあえず今の祭神は猿田彦命(サルタヒコ)ということが分かる。
気になったのはまたの名として「大土御祖神」としている点だ。
これは『古事記』に登場する大土神(オオツチ)の別名だと思うのだけど、だとすると猿田彦とは何の関係もない。
『日本書紀』には出てこず、『古事記』では大年神(オオトシ)が天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)を娶って生まれた神で、活躍は描かれていないので正体は分からない。
伊勢の神宮(公式サイト)の摂社に大土御祖神社があるものの、そこで祀られているのは大国玉命(オオクニタマ)、水佐々良比古命(ミズササラヒコ)、水佐々良比賣命(ミズササラヒメ)なので、大土神(土之御祖神)は祭神となっていない。
これに関連して『愛知縣神社名鑑』にこんな記述がある。
創建については明かではない。昔から祖母懐一円の産土神で通称塞の神とよばれた。
明治6年据置公許となる
どうやらこの神社は祖母懐の神らしい。
もともとは土の神、または土地の神を祀ったのが始まりということだろうか。
祖母懐とは何か?
聞き慣れない祖母懐(そぼかい)とは一体何なのか?
祖母懐にまつわる有名な話がある。
瀬戸窯業の父、陶祖と呼ばれた藤四郎こと加藤四郎左衛門景正(かとうしろざえもんかげまさ)にまつわるものだ。
鎌倉時代初期に生きたとされる藤四郎は、宗に渡って焼き物の秘法を学び、帰国後に良い土を求めて全国を巡り歩いた。
瀬戸に辿り着いた藤四郎は、深川神社に籠もって祈願をしていると、夢で神のお告げがあった。
巽(たつみ)の方角(東南)に祖母懐があるというものだったという。
ここで祖母懐が出てくる。
現在は”そぼかい”と音読みしているのだけど、古くは”うはかふところ”と呼んでいたようだ。
語源がよく分からないのだけど、最高の土が採れる場所という意味らしい。
字からすると、祖なる母の懐(ふところ)、つまり母なる大地といったことだろうか。
もう少し厳密な定義としては、三方を丘に囲まれて日に向かう土地、ということなのだとか。
日向(ヒムカ)というのはそもそもそういう意味かも知れない。
これは後世の後付けかもしれないけど、石神社の場所を考えると、この定義はわりと意味がありそうだ。
この祖母懐で採れた土を祖母懐土といい、江戸時代は尾張藩が独占するようになる。
数は少ないながら、”祖母懐”の印が入った茶器も伝わっている。
しかしながらこの祖母懐の話はどこか作り物めいている。
瀬戸で良質の粘土が採れたことは確かだけど、藤四郎の伝説も近世以降に作られた物語のような気がする。
ただし、ここで石神社の存在が浮かび上がる。
『愛知縣神社名鑑』がいうように、「昔から祖母懐一円の産土神」だったとすれば、この神社は瀬戸窯業に関わる人たちにとって重要な意味を持っていたということになる。
産土神(うぶすながみ)というのは生まれた土地の神で、一生変わることがない。
江戸時代の書では
この神社に関する情報は少ないながら、江戸時代の書でそれを拾ってみる。
まず『寛文村々覚書』(1670年頃)ではこうなっている。
瀬戸村
社四ヶ所 内 山神 社宮神 八王子 権現
社内壱町弐反七畝拾八歩前々除 右同人持分
瀬戸村の社は4社で、八王子は今の深川神社、山神は東郷町の山神社で、権現は熊野町の熊野神社のことだろう。
すべて前々除(まえまえよけ)なので、1608年の備前検地以前からあったことが分かる。
右同人持分は「当村祢宜 市太夫」のことだ。これは今も深川神社の宮司を続けている二宮氏を指している。
この中の社宮神が今の石神社のことだと思う。
ただ、ちょっと引っ掛かったのが『尾張徇行記』(1822年)の記述だ。
社四区覚書ニ山神・三狐子・八王子・権現社内一町二段七畝十八歩前々除
当村内熊野権現社内松林二段歩前々除、石神社内松林九畝十九歩前々除、山神社内薮五畝二十歩前々除、諏訪明神社内松林五畝二十歩前々除、今社廃ス、何レモ勧請ノ年曆ハ不伝卜也
『寛文村々覚書』では社宮神となっていのが、ここでは三狐子になっている。
おそらく”シャグウジ”とか”サグジ”などと呼んでいたはずで、これは共通の社に違いない。
問題はその後の「石神社内松林九畝十九歩前々除」の部分だ。
三狐子とは別に石神もあったということは、今の石神社はこの石神のことなのかと思ったりもする。
「今社廃ス、何レモ勧請ノ年曆ハ不伝卜也」とあるので、このときはすでに社はなくなって社地だけが残った状態だったようだけど、この石神の社地に明治以降に社を復活させて今の石神社となった可能性はあるだろうか。
もしくは、社宮神や三狐子と呼ばれていた神社が石神社となって今に伝わっているのか。
これ以上の情報がないので判断がつかない。
『尾張志』(1844年)は深川神社以外の瀬戸村の神社が載っておらず(私が見つけられないだけかも)、手がかりが得られない。
今昔マップでは
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を確認してみる。
現在は住宅地の中に埋もれるような格好になっているものの、明治になってもこのあたりは丘陵地のままで、石神社は集落から外れた南の丘の中腹に位置していたのが見て取れる。
三方を丘に囲まれて日に向かうところという条件に当てはまっている。
ただ、祖母懐はここではなくもう少し南の丘陵だ。
今も祖母懐町の町名や祖母懐橋、祖母懐公民館といった名称が残っている。
明治になって祖母懐から土を採取することが禁じられて、今は道路と住宅地になっている。
神社の周りが開発されて家が建ち始めるのは1960年代以降のことだ。
石神社の始まりと変遷について
この石神社がいつ誰によって建てられたかについて考えてみる。
ここまでに出てきた情報を元に総合的に考えるのであれば、祖母懐の守り神として鎌倉時代前期に祀られたのが始まりと考えるのが妥当だ。
猿田彦以前は土の神—大土御祖神という神名を認識していたかどうかはともかく—を祀るという意識だったかもしれない。
しかし、そうだとすると、かつて地元の人たちがこの神社を”塞の神”と呼んでいたという話とはそぐわない感じがする。
塞(さい)の神というと、一般的には村の境に祀って外部から敵や病気が入ってこないようにするものだ。
塞は塞(ふさ)ぐという意味で、悪霊などをふさぐ、ふせぐ、といった願いが込められた。
少し字が違う”賽の河原”は、この世とあの世を隔てる三途の川の河原のことで、主に子供が行くとされるところだ。
残された父母は供養のために石を積む。
しかし、上にも書いたように石神社は丘の上に祀られていて、村の入り口や街道沿いではない。
なので、一般的にいわれる道祖神のような性格の神社ではなさそうだ。
よく似た神に、岐神(クナト)がいる。
伊弉諾尊(イザナギ)が死んだ伊弉冉尊(イザナミ)を追いかけて黄泉の国へ行き、戻ってきたときに穢れを祓った際、投げた杖から成ったのが衝立船戸神(ツキタツフナド)だったと『古事記』はいう。
続いて脱ぎ捨てた褌から道俣神(チマタ)の神が成った。
『日本書紀』では黄泉の国の黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナギが追いかけてきたイザナミに向かって、これ以上は来るなと言って投げた杖から来名戸之祖神 (クナトノオヤカミ)が成ったとする。
フナト/フナトは、これ以上来てはいけない”来な所”という解釈もされる。
道俣神を『日本書紀』や『古語拾遺』は猿田彦と同一とし、本居宣長は『古事記伝』の中で、『延喜式』に収録されている道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)に出てくる八衢比古(ヤチマタヒオ)・八衢比売(ヤチマタヒメ)は道俣神のことだと書いている。
ヤチマタといえば天孫の瓊瓊杵尊(ニニギ)を出迎えた猿田彦が立っていたのが天の八衢(あめのやちまた)だった。
話が広がりながら収束していく感がある。
私たち現代人は、江戸時代を”古い”と考えがちだけど、古代からの流れで考えたとき、近世という言葉が示すように江戸時代は”新しい”時代だ。
江戸時代の物や事な名はそれ以前からずっと続いてきたものと考えるのは間違いで、大きく分けて古代、中世、近世といった区分で大きな変革があったと考えなければならない。
江戸時代は荒れた戦国時代を経てまったく新しい価値観が生まれた時代だった。生活様式だけでなく、人々の価値観も大きく変わった。
何が言いたいかというと、江戸時代に社宮神や三狐子と呼ばれたものが明治以降の近代に石神となったというのは逆で、そもそも石神だったのが中世以降に社宮神や三狐子に変わった可能性があるということだ。
むしろ猿田彦が先で、祖母懐の話や大土御祖神の方が後付けなのではないか。
石神社のことを”塞神”と呼んでいたというのは、この神社の本質を示しているように思う。
あるいは、もっと古い石神信仰から発しているかもしれない。
では、この石が何を示しているのかということについて、もう少し深掘りしてみたい。
深川神社との関係性は
現在の石神社は深川神社の境外摂社のような形になっていて、深川神社宮司の二宮氏が管轄している。
その深川神社との関係はどうなのかということなのだけど、深川神社は社伝では奈良時代後期の771年創建といっている。
しかし、本殿裏に6世紀後半の古墳があることからしても、その起源はもっと古いはずだ。
神紋が五三桐紋ではなく五七桐紋となっているのは、祭神や社家が途中で変わったことを示唆している。
そもそもは尾張氏の神社だったのが、途中でそれ以外の氏族のものになったとも考えられる。
宮司の二宮氏がいつから深川神社社家になったのかは分からないし出自も明確ではないのだけど(私が知らないだけ)、熱田社大宮司の千秋家との関わりでいうと、藤原南家の流れなのかもしれない。
それと、なんとなく三河の勢力が入ってきているような感じもある。
もし、この石神社が古い石信仰を元にしているのであれば、そこに物部氏の影も見えてくる。
あるいは、長久手にある石作神社の石作連との関連についても考える必要があるかもしれない。
いずれにしても、祖母懐を守る土の神というのは後付けのような気がする。
石神、塞神、猿田彦、岐神……。
岐神=クナト=フナトということでは、船戸氏も絡んだりしてるのだろうか。
深川神社から見て石神社は400メートルほど南東に位置している。
ただ、深川神社は慶長元年(1596年)に火事で焼失して東屋敷から現在地に遷されたという話があって、旧地は今より東だっただろうから、ほぼ直線上に南北の関係性だったのかもしれない。
この位置関係も偶然とは思えない。
深川神社の氏子と石神社の氏子のすみ分けについても気になるところだ。
それと、一つ書き忘れたのだけど、石神社のすぐ南に蛭子町(えびすちょう)という町名があって、これが引っ掛かった。
明治時代に窯元の文兵衛という人物が毎年10月20日に恵比寿講に大盤振る舞いしていて、ある年、一里塚川に橋を架けるために一年だけそれをやめてその資金を工面したので、恵比須橋と呼ばれるようになり、それが町名になったという。
しかし、これはいかにも作り話っぽくて信じられない。
地名(町名)というのはそんなレベルで決定されるものではなくて、もっと上の方の一部で決められている。
この場所を蛭子としたのには理由があるはずで、それも石神社に絡んでいるのではないかと推測する。
蛭子町は”えびす”と読ませているけど、もともとは”ヒルコ”だっただろう。
ヒルコは記紀神話ではイザナギ・イザナミの子として生まれながら不具だったので流されたという話で語られているのだけど、別伝承では夷三郎(恵比須三郎)になったという話がある。
瀬戸はサナギになった龍(ドラコ)を送る産道の入り口で、ここから送られて大分の宇佐で産まれたという伝承が尾張にあって、この話をすると長くなるのでやめるけど、そのあたりの話と石神社が直接か間接かはともかくとして関わっているのではないかという感触がある。
小さな神社の物語
町中や住宅地に埋もれるようにして鎮座している小さな神社にも秘められた歴史があることをこの石神社も伝えている。
創建年が分からないほど古い神社はどこもそうだ。
由緒は失われただけではなく隠されてもいる。
蓋をする、塞ぐということだ。
塞神というのはそういう意味も掛かっている。
実際に参拝してみるとなかなかに荒れた感じでちょっと痛々しくもあるのだけど、それでもしっかりこうして残っていることが何よりも大事なことだ。
大きな神社に合祀してしまえば、歴史も封印されてしまって伝わらない。
そこに在れば訪れることができる。
跡地を訪れてみてももう何も残っていない。
神社は空間だ。
その空間に意味と理由がある。