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南山神社(松原町)

なんで南山?

読み方みなみやま-じんじゃ(まつばらちょう)
所在地瀬戸市松原町3丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセス名鉄瀬戸線「水野駅」より徒歩約5分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他不明
神紋
オススメ度
ブログ記事住宅街なのに吹き抜け感が気持ちいい瀬戸市松原町の南山神社

昭和15年は皇紀2600年

 名鉄瀬戸線「水野駅」の150メートルほど北に、この神社はある。
 社名は南山だけど、神社があるのは松原町だ。
 松原町の西隣に南山町がある。
 松原神社でもよかったんじゃないかと思うけど、南山神社である必然があったのだろう。

 史料にもネットにもほとんど情報がなくて、唯一の情報はwikiの松原町のページにあるものだ。
 そこにはこう書かれている。
「1940年(昭和15年)に社殿が完成し、天照大神・大山祇神を勧請して、式典が行われ、現在の形となる」
 微妙な言い回しなのだけど、昭和15年に創建されたのではなく、このとき社殿などが建てられたということなのだろう。
 だとすれば、神社(祠程度のものだったかもしれない)はそれ以前からあったということか。
 昭和15年といえば、皇紀2600年に当たることから全国各地で様々な祝典などが行われた年だ。
 戦意高揚のためということもあって、このとき建てられた神社も少なくない。
 出征する兵士を送るためにも神社が必要とされた。
 この南山神社もこういった一連の出来事の中にあったと思うのだけど、「天照大神・大山祇神を勧請して」というのが引っ掛かる。それ以前は別の神を祀っていたのだろうか。

南山神社だけど松原町にある

 最初に書いたように、南山神社なのに南山町ではなく隣の松原町にある。
 なんで、松原町で南山神社なのかが気になるところだ。
 南山を”なんざん”ではなく、”みなみやま”としているのにも理由はあるのだろう。
 ちょっとしたヒントになるかもしれないことが『尾張徇行記』(1822年)に書かれている。
 かつてこのあたりは今村と呼ばれたところで、江戸時代後期時点で今村の神社は以下のようだった。

八王子 山神 覚書ニ社内五段六畝七歩前々除、熱田祢宜次右衛門持分
八王子社人熱田社家長岡円太夫書上ニ、八王子社内四畝二十歩、此社勧請ノ由来ハ不知、修造ハ文明五癸丑年、今村ノ城主下総守源広長為之、 又明応八戊午年同城主松原下総守周盛修造スト也、西山神社内三畝十五步又東山神社内一畝步共年貢地
又円太夫書上ニ、三狐子社内一畝十歩、金井明神社内一畝十二歩、諏訪明神社内一畝歩、弁才天社内一畝歩何レモ年實地
府志曰、八王子祠在今村、所祀神、即俗所謂五男三女神是也、配享天照大神素盞烏尊、社伝曰後土御門帝文明五年癸巳九月下総守源広長造進神祠
摂社 熊野三所及以天照大神祭一祠
金井明神祠、在同村、杞安閑天皇、社伝曰、延喜神名帳所載、 金神社是也、按同郡小金山神社、是乃式内金神則今此社亦移祀之者歟

 この中に松原町と南山神社のヒントになるようなことがある。それが以下の部分だ。

「今村ノ城主下総守源広長為之、 又明応八戊午年同城主松原下総守周盛修造スト也、西山神社内三畝十五步又東山神社内一畝步共年貢地」

 現在、八王子神社(共栄通5)がある場所にかつて今村城があり、城主が松原氏だったことから松原城とも呼ばれていた。
 松原の地名(町名)はおそらくここから来ているのだろうと思う。
 この今村城に付随するような形で西山神と東山神の社があったようだ。
 現在はもう残っていないか、八王子神社に移されたかしたのだろう。
 この西山と東山に対する南山ということはあり得るだろうか。
 ただ、今村城から見て今の南山神社があるのは北なので、今村城に対して南山ということではなさそうだ。
 ウィキペディアは『角川日本地名大辞典 23 愛知県』や瀬戸市の調査などを参照して「この辺りは、旧今村字浦山と呼ばれていた。町名設定の際、浦山地区を三分割し、南方に当たるこの地を南山町としたと推察される。」と書いているけど、やや納得がいかない。
 浦山の由来は裏山から来ているのか別のものなのか。

今昔マップで辿る南山界隈の変遷

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 今でこそ住宅地の中に取り込まれる格好になっている南山神社だけど、松原町のあたりは明治の半ばになっても樹林に覆われた未開の丘陵地だったことが分かる。
 あるのはため池くらいで、民家はない。
 民家が集まっていたのは、松原町1丁目から平町にかけてで、名鉄瀬戸線の前身の瀬戸自動鉄道が明治38年(1905年)に開通する以前の旧瀬戸街道沿いにも民家が並んでいる。

 次の1920年(大正9年)を見ると、鉄道はすでに通っているものの、まだ大きな変化が見られない。
 駅名と位置が違っていて、現在の水野駅は「いまむら」(今村)、西の西山町には「ねのはな」(根ノ鼻駅)があり、東の北山町には「よこやま」(横山)があった。

 途中の地図がないので戦前、戦後の変遷は分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)では激変といっていいほど大きく様変わりしている。
 北も南も丘陵地を大規模に宅地化してたくさんの家が建ち、松原町も完全に住宅地になっている。
 その後、ため池も埋め立てられ、このあたりも名古屋のベッドタウンとしての性格を強めていくことになる。
 鉄道の開通が風景を大きく変えてしまうことをあらためて思い知る。

 ちなみに、松原地区の子供は東山小学校で、隣の南山町の子供は效範小学校へ通うことになるのだけど、この效範小学校は棋士の藤井聡太さんの母校だ。
 明治6年(1873年)に開校した效範学校を前身とする歴史のある小学校で、なんて読むんだろうと思ったら效は効の異字(旧字)で、そのまま「こうはん」と読むようだ。
 小学生には難しそうだけど、藤井さんなら普通に読んでそうだ。
 中学は名古屋大学教育学部附属中学校で、ここはかなり偏差値が高い。
 名古屋大学教育学部附属高校は3年生で中退したものの、タイトル戦で忙しくなければ普通に名古屋大学くらいは楽勝だっただろうと思う。
 そんな藤井さんだけど、足が速いという意外な一面も持っている。
 実は私も足が速い方で、小学校のときは50メートル7秒フラットで、学校の代表として大会に出てリレーのアンカーをやったことがありました。

南山神社の前身はあったのか

 以上見てきたように、昭和15年(1940年)に神社が今のような格好に整えられたのは間違いなさそうだ。
 しかし、問題はそれ以前だ。
 天照大神は国家の神として祀ったのは分かる。
 大山祇神は一般的に山の神と考えられているのだけど、大山祇神は日本国民の総氏神とされたので戦争中に祀られる例も少なくなかった。
 つまり、この南山神社は戦争によって性格が変わった神社という見方ができるということだ。
 それ以前は何の神を祀るどんな神社だったのかは情報がないのでまったく分からないし、推測することも難しい。
 昭和15年当時の松原町あたりがどの程度開発されていたのか。
 西隣の南山町のあたりは今昔マップに「今村川西」とあり、それなりの集落ができている。
 今村の本郷は瀬戸川の南、今の共栄通から東寺山町、西寺山町あたりで、氏神は八王子神社だった。
 今村川西の集落がいつできたのかは把握できていないのだけど、この集落の神社があったとしてもおかしくはない。
 それが南山神社もしくはその前身の可能性が高いと思うけどどうだろう。
 昭和15年ならそのあたりの事情を知っている方もいるはずなので、情報が得られるといいのだけど。

 現地で感じた南山神社の印象はちょっと不思議なものだった。
 見た目は新しいのに古いような感じもあり、なんとなくこの場に馴染んでいないような気もした。
 高台にあって周りを囲まれていない吹き抜け感がそう思わせたのかもしれない。
 ちょっと普通の神社とは違うなと思ったのはたぶん気のせいではなくて、何かに似てる感じがして思いついたのは護国神社感みたいなものだった。
 昭和15年に今の姿になったという話を知って自分の中で腑に落ちた部分はある。

作成日 2025.2.26

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