神社があって祭りがある
読み方 | つしま-じんじゃ(しなのちょう4) |
所在地 | 瀬戸市品野町4丁目101 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 建速須佐之男命(スサノオ) |
アクセス | 名鉄バス「品野本町停留所」から徒歩約2分 |
駐車場 | なし(スペースあり) |
webサイト | |
例祭・その他 | 品野祇園祭 7月第3土曜日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
品野という土地の記憶
道沿いにある小さな社で、その存在に気づいていてもわざわざ車を停めて参拝しようという人は少ないだろう。
しかし、品野町民にとってこの社はわりと重要な意味を持っている。これがなくなってしまうと地域のつながりが失われてしまいかねないくらいの重要度はある。
この社の祭礼として毎年7月に品野祇園祭が行われているためだ。
その祭りの話をする前に、まずは品野町の歴史と神社の成り立ちについて確認しておくことにしよう。
品野は古い歴史のある土地だ
神社のある場所は、江戸時代でいうと下品野村だったところに当たる。
下品野村の歴史については下品野の氏神だった神明社(落合町)のところに詳しく書いたので、ここでは繰り返さない。
品野町の歴史に限って言うと、神社があるのが品野町4丁目で、この品野町4丁目から6丁目で古い縄文の遺跡が見つかっている。
品野西遺跡と呼ばれる縄文草創期 (15,000-12,000年前)の遺跡から有舌尖頭器、木葉形尖頭器、斧形石器などが出土した。
品野のこのあたりは特に古くから人が暮らす土地だったということだ。
古代の集落跡の他、7世紀の瓦も見つかっており、古代寺院があったと考えられている。
奈良時代以降の遺跡では大型竪穴建物跡なども確認されており、古代における役所的な土地柄だったようだ。
その他、古窯跡や室町時代の火葬場跡なども発見されており、下品野南部はそういう場所だったということをまず頭に入れておきたい。
神社の成り立ちについて
こういう小さな津島社は、江戸時代に牛頭天王を祀った天王祠が元になっているものが多い。
下品野の津島神社もそういう種類のものだっただろうと思う。
境内にわりと詳しい説明板があったので、一部抜粋して紹介する。
品野祇園祭は当津島神社分社(お天王さん)の祭礼です。創建は不詳で、秋葉神社、金比羅神社と合祀されています。
秋葉大権現の市内最古の常夜燈(寛政七年一七九五)、金比羅神社の灯籠(明治十八年)が境内にあり、祇園祭には津島神社の大幟が立てられます。
昔は中島のお天王さんでしたが昭和四十年に新町名に変わるとき、一、三~六丁目、窯町などのお天王さんと合祀されこの時から下品野村自治体は品野祇園祭の主催者となりました。
品野町の変遷について補足すると、江戸時代は春日井郡に属す下品野村で、中品野村、上品野村があった。
明治13年(1880年)に春日井郡が東西に分割されて東春日井郡になり、明治22年(1889年)に市町村制が敷かれた際は、中品野が下品野が吸収される形で、下品野村大字中品野、大字下品野となった。
明治39年(1906年)に上品野村と下品野村が合併。
大正13年(1924年)の町制施行で品野町が誕生し、品野町大字上品野・大字中品野・大字下品野となる。
昭和34年(1959年)に品野町は瀬戸市に編入されて、大字上品野・大字中品野・大字下品野となった。
市制施行で瀬戸市が誕生したのが昭和4年(1929年)なので、品野が瀬戸市に編入されたのはだいぶ後ということだ。
昭和40年(1965年)に品野町1~8丁目が成立。
説明書きにある新町名云々はこのときのことをいっている。
それまで町内に散らばってあった天王社を一ヶ所に集めたということだろう。
秋葉社と金比羅社が移されたのもこのときだっただろうか。
秋葉権現は天王同様、藩の奨励もあって、集落でたくさん祀られた。天王は疫病除けや厄除け、秋葉は火除けや火伏せの神として人気があった。
金比羅は誰がどういう経緯で持ち込んだのかは分からない。一般的には海の安全を守る神というイメージが強いけど、もっと幅広く信仰されていただろうか。
下品野村と酒屋
津島神社があるすぐ近くにかつて柴田酒造という酒蔵があり、この柴田家はこのあたりの庄屋を務める有力な家だったそうだ。
創業は江戸時代中期の寛延元年(1748年)という。
柴田酒造はすでになくなったものの、柴田家は明治以降も村長や町長を務めたというから、家としては健在なのではないかと思う。
『尾張徇行記』にもこんな記述がある。
此村落ハ、信州飯田街道筋ニアリ、カマ嶋東島中島南島ト四区二分レリ、小百姓多ケレトモ上中品野ヨリモ村立ヨクミヘタリ、中ニハ酒屋又ハ小商ヒナトスル者モアリ、戸口多クシテ佃力足り、他村へ掟田地ハナシ
やはり酒屋も営んでいるといっている。
柴田酒造以外にも酒蔵はあったのかもしれない。
この場所は品野盆地の西側に当たり、水野川と後田川が流れる低湿地帯ということで水がよかったというのもあるのだろう。
それと、交通の便がよく、名古屋方面にも信州方面にも売りに出すことができたのも大きかったのだと思う。
下品野の中心
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるあたりがちょうど村の中心だったことが分かる。
民家の密集地帯であり、南北と東との道との三叉路がこの場所だった。
東西の道は北に新しく通された22号線に移っているのだけど、当時の道は神社の前の道だった。
これ以降の地図が飛んでしまって経緯が分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)では現在の町並みがほぼ完成している。
それ以降、丘陵地の方が少しずつ開発されて家が増えていく様子が見て取れる。
品野祇園祭のこと
最初に書いたように、この津島神社があることで品野祇園祭が行われている。
品野祇園祭を続けるために津島神社が必要だったという言い方もできる。
この祭礼の始まりについてははっきりしないようだけど、江戸時代末くらいには始まったのではないかとされる。
個人的にはもう少し早い江戸時代中期あたりには天王社が祀られて何らかの祭礼が行われたのではないかと思うけどどうだろう。
明治の頃は山車が3台あったと説明板にある。
現在は南島の1台となったものの、この山車が特徴的で、非常に珍しいことに神武天皇像と阿吽の従者像2体が乗っている。素朴ながらからくり人形でもある。
古い写真で確認すると昭和14年以前にはなく、初めて登場するのが昭和15年というから、皇紀二千六百年(紀元二千六百)に当たる昭和15年(1940年)に神武天皇像を作ったのだろう。
戦争中は中止となったり、戦後は時代の変化の中で祭りも変わることを余儀なくされつつも、現在まで続いているのは立派なことだ。
コロナのときは山車引きは取りやめたようだけど、それもここ数年で復活したのではないかと思う。
どこも後継者不足で祭りの存続が難しくなっているという話をよく聞くのだけど、一度やめてしまうと再開はかなり難しくなるので、なんとか頑張って続けていって欲しい。
風物詩というのは必ず意味があって行われてきたもので、考えている以上に重要だったりする。
この世界は目には見えない力が働いていて、祭礼というのはその働きを強めるという役割もある。
地方の小さな祭りといっても侮ってはいけない。
作成日 2024.11.21