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白鳥神社(諸和村)

諸輪大明神とは誰のことか

読み方しらとり-じんじゃ(もろわむら)
所在地愛知郡東郷町諸輪字中市151 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧郷社・五等級
祭神日本武尊(ヤマトタケル)
アクセス東郷町巡回バス「中市」より徒歩約1分
駐車場あり
webサイトwebサイト(富士浅間神社サイト内)
例祭・その他不明
神紋五七桐紋
十六菊花紋(?)
オススメ度**
ブログ記事

白鳥は日本武尊のことではない?

 白鳥神社という社名の神社は全国に何社かあって、いずれも日本武尊(ヤマトタケル)ゆかりの神社とされる(例外もあるかもしれないけど)。
 死んだ後、白鳥になって飛び去ったという記紀などの伝承による。
 この白鳥をハクチョウのことと思っている人が多いようだけど、それは違う。ハクチョウを古くは鵠(くぐい)といい、ここでいう白鳥はあくまでも”しらとり/しろとり”だ。
『古事記』は”八尋白智鳥”、”やひろのしろちどり”といっている。
 この”千鳥”も現在のチドリ科の鳥のことではないだろう。

 名古屋で白鳥というと、熱田の白鳥を思い浮かべる。地名としての読みは”しろとり”だ。
 尾張最大といわれる断夫山古墳に隣接して白鳥古墳もある。
 もう一つの白鳥は、守山区の志段味古墳群の中でも最古級の白鳥塚古墳だ。こちらは”しらとりづか”と読ませる。
 熱田の白鳥は日本武尊と関係が深く、守山区志段味の白鳥塚古墳は日本武尊とは直接的な関係は指摘されていない。
 白鳥というのは日本武尊そのものを指すのではなく、もっと広い意味で使われたのではないかと個人的には思っている。
 白であり鳥であることはとても象徴的で、鳥は空を飛ぶ鳥のこととは限らない。

 東郷町諸輪の白鳥神社もまた、日本武尊が関わっている。祭神が日本武尊になっているから当然といえば当然なのだけど、この神社はそう単純でもない。
 どこかの時点で熱田の人間がやってきて白鳥神社と名を改めるまでは諸輪大明神などと呼ばれていた。
 つまり、諸輪の王を祀っていたということだろう。
 ではそれは誰なのかといえば、少なくとも日本武尊ではない。諸輪を治めていた人物だ。あるいは、その人物の一族の祖神ということになるだろうか。

 諸輪王が誰かということを考える前に、まずは諸輪がどういう性格の土地だったのかについて見ていくことにする。
 古代東海道の道や駅、郷については春日社(和合村)で考察したのだけど、そのあたりも関わってくる。

諸輪の由来は?

 白鳥神社があるのはかつての諸輪村で、”もろわ”と読み、双輪、両輪、両和、諸和などとも表記した。
 諸輪村の隣村は和合村で、この二つの村には何らかのつながりがあっただろうと思う。
 イメージとして共通するのは”二つの輪”もしくは”二つの和”だ。
 ”両方”といってもいいかもしれない。
 和合村と南の傍示本村の間は山田郡と愛知郡の郡境があったと考えられており、諸輪村の東を流れる境川は尾張国と三河国の境界だった。
 二つの輪、双方の和という意味の村名は意味ありげで象徴的だ。
 明治になって春木村と諸和村が合併したとき東郷町と名づけたのも、東郷=統合という意味だったのではないかと思う。

『尾張国地名考』の中で津田正生(つだまさなり)は諸輪村についてこう書いている。

諸輪村(もろわ) 一に諸和ともいふ
正字室廻(むろは)の義なるべし三方に山を周旋して大陽の氣の籠る所を室輪とも室ともいふ

 津田正生は”室”から転じたと考えていたようだけど、”むろ”と”もろ”は似てるようで違うし、この説には共感できない。
 ここは三方を山で囲まれたような山深いところではないし、太陽の気が籠もるところというのも意味が分からない。
 見つかっている中で一番古い平安時代の表記が”双輪”なので、それからしても室が双には転じるとは思えない。やはり、”双”とは”両”とかがもともとの意味だったのではないだろうか。

 富士浅間神社サイト内の白鳥神社のページにはこんなことが書かれている。

社蔵の棟札等に依れば古くは諸輪大明神と呼ばれた。弘仁13年(822年)編纂の日本霊異記に既に地名が出ている事や隣接する諸輪古墳とも関係があると考えられる事より延喜年間以前の創建と考えられる。

『日本霊異記』(にほんりょういき)、正式名『日本国現報善悪霊異記』は、平安時代前期の822年(弘仁13年)に、薬師寺(公式サイト)の景戒によって書かれた日本初の仏教説話集だ。
 この中に諸輪が出てくるというのだけど(原本は確認していない)、『尾張徇行記』(1822年)は以下のように書いている。

志略曰、日本霊異記尾張国育智郡守輪里云々疑諸輪乎

 ”史略”がどの書をいっているのか分からないのだけど、その中で”尾張国育智郡守輪里”は諸輪のことかとあるということだ。
 ”守輪里”を諸輪と決めつけていいのかどうかは判断がつかない。
 ただ、諸輪には古墳群や古窯跡があることからすると、古い集落があったのは間違いない。
 だから、守輪里が諸輪のことという可能性は否定できない。
 面白いというか興味深いのは、同じく『日本霊異記』に”愛智郡片輪里”の話があることだ。
 片輪里は古渡(今の中区金山)のことという説がある。
『延喜式』は尾張国に馬津(うまづ)、新溝(にいみぞ)、両村(ふたむら)の3つの駅があると書いており、このうちの新溝が古渡にあったとされる。
 両村は豊明市の二山村ともされるのだけど、両村郷は山田郡なので、おそらく愛智郡域だったであろう豊明二村山は違う。
 そうではなく両村駅は諸輪なのではないかという説があり、だとすれば、方輪・新溝駅と守輪里・両村駅とがつながってくる。これは古代東海道の道筋の問題も絡んでくる。
 このあたりについては春日社(和合村)に書いたので、ここでは繰り返さない。

諸輪の歴史

 諸輪の歴史はおそらく縄文時代かそれ以前まで遡る。
 ただ、知られている範囲でいうと、一番古い痕跡は古墳ということになる。
 7世紀の上市古墳を初めとして、諸輪上市地区に5基ほどあり、その西の後山地区には古代から中世にかけての窯跡がいくつか見つかっている。
 これはあくまでも表に出ているもので、実際はもっと多くの遺跡が埋もれているはずだ。
 諸輪中学や小学校を含めた後山全域が遺跡だろうと思う。
 諸輪御嶽神社(地図)がこの場所にあるのも、もちろんたまたまなどではない。
 偶然ではないということでいえば、前川を挟んで向かいに富士塚という地名があるのもそうで、御嶽が不一、富士は不二でセットになっている。
 二つの輪が重なる場所が諸輪であり、和合ということだ。

諸輪村と神社について

 江戸時代の尾張の地誌で諸輪村がどう書かれているか見ていく。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

諸輪村

家数 七拾壱軒
人数 五百八拾九人
馬 三拾七疋

禅宗 岩崎村妙仙寺末寺 道休山清安寺
 寺内壱反七畝歩 備前検除

净土宗 寺内年貢地 祐福寺末寺 恵日山観音寺

天台宗 野田密蔵院末寺 洞松山長栄寺
 寺内壱反弐畝四歩 備前検除

社三ヶ所 社内、松林共ニ七町壱反歩 前々除

明神 当村祢宜 七郎大夫持分
権現 当村 長栄寺持分
八王子 村中支配

観音堂壱宇 地内、松林共ニ拾町 前々除

古城跡壱ヶ所 先年丹羽道休居城之由、今ハ畑ニ成ル。
同壱ヶ所 先年丹羽次郎三郎居城之由、今ハ畑ニ成ル。

 家数が71軒で村人が589人というのは、尾張の外れということを考えれば大きな村だったといえる。
 馬が37疋(頭)と多いのは、村の中を挙母街道が通っていたためで、宿場的な役割も担っていたためだろう。
 殿様や朝鮮人一行が通るときなどは人と馬を出さないといけなかった。

 神社は明神と権現と八王子があったことが分かる。
 この中の明神が白鳥神社のことで、すでに白鳥大明神などと呼ばれていただろう。
 権現と八王子についてはよく分からない(私が把握できていないだけ)。
 明神は諸輪村の祢宜の七郎大夫が、権現は長栄寺、八王子は村で管理していたようだ。
 寺と城については後回しにする。

『尾張徇行記』(1822年)の神社部分だけを抜き出すと以下のように書かれている。

社三ヶ所 覚書ニ、社内松林共ニ七町一反前々除、明神祢宜七郎太夫持分、権現長栄寺持分、八王寺村中持分トアリ
祠官大原七郎太夫書上ニ、白鳥大明神祠末社八幡・熊野権現・境内松山一町二反前々除、畠七畝十一歩(祢宜ヤシキ)村除、下田三畝同シ、鎮座年暦不知
庄屋書上ニ、山神五社、境内一ツハ東西五間南北三間ホト、一ツハ東西三間南北七間ホト、一ツハ東西六間南北五間ホト、一ツハ東西八間南北三間ホト、一ツハ東西六間南北五間ホト、イツレモ前々除
府志曰、白山祠白鳥明神祠八王子祠俱在諸和村

 ここにある”祠官大原七郎太夫”が熱田から来た人間で、この人物が白鳥に改めたという話なのだけど、個人的にはちょっと疑っている。
 白鳥大明神の境内社に、八幡と熊野権現があるといっている。
 山神も5社あって、すべて前々除(まえまえよけ)というから江戸時代以前からあったものだ。
『張州府志』(1752年)に白山祠と八王子祠があると書いてあるようだ。
『寛文村々覚書』がいう”権現”はどうやら白山権現のことらしい。

『尾張志』(1844年)にはこうある。

白鳥社
諸輪村にあり日本武尊を祭る當社に文亀元年八月拜殿造立の棟札あり末社熊野社及八幡社あり社人を大原七郎太夫と云

一ノ御前ノ社 白山ノ社 八王子ノ社 山ノ神ノ社五所

この八社ともに同むらにあり

 文亀元年は室町時代後期の1501年に当たる。
 織田信長の父の信秀が1511年生まれだから、それよりも前だ。
『尾張徇行記』と比べると一御前社が増えている。
 これも熱田社の関係ということになるだろうか。

いつ白鳥になったのか

『愛知縣神社名鑑』は白鳥神社についてこう書いている。

古くは諸和大神社と称していたが、文亀元年(一五〇一)に熱田の宮の祢宜大原七郎太夫来られて拝殿を造営白鳥神社と改めた時の棟札が残っている。
正保二年(一六四五)寛文十年(一六七○)の造営棟札もある。
室町期より戦国期の間は武家の崇敬特に深かった。
明治五年七月、村社に列し、昭和十七年七月三日年郷社に昇格した。

 この記述を信じるなら、1501年(文亀元年)に熱田社の祢宜の大原七郎太夫が来て拝殿を造営し、社名を白鳥に改めたということになる。
 棟札が残っているのならそうなのかもしれないけど、いうまでもなく熱田の大原七郎太夫が勝手にやったことではないだろう。
 このとき白鳥に改めたというのが事実なら、そうする理由や必然があったということだ。
 社名変更に伴って祭神を日本武尊にしたのであれば、それ以前の諸輪大明神では誰を祀っていたのかということも気になる。
 何故、白鳥を追加するのではなく上書きという形を取ったのか。
 何かを隠したかったのか、守りたかったのか、そういった意図はなかったのか。

『東郷町誌 第一巻』がもう少し詳しく書いてくれている。

往古諸和大明神といったが、文亀元年熱田神宮禰宜大原七郎大夫武恒が職を奉じてここに来住、白鳥神社と改称。
永井直勝天正十二年長久手合戦のみぎり戦勝を祈願、やがて摂州高槻の城主に転じ、日向守となって後、病気平癒の祈願をしたこともあった。
又南の城主柘植氏は正保二年に本殿を、寛文十年にその子また社殿を寄進造営したという。

明治五年に村社となり、明治十三年神仏分離令で八王子社・白山社を相社に愛宕社、一の御前社、社宮寺社、山神各社を移転、末社に奉祀され、明治四十一年供進指定社となり、昭和十七年十一月郷社に列格、昭和十八年愛宕社一の御前社、社宮寺社、山神の四社を八王寺社に合祀す。
現在宗教法人として愛知県神社庁九級神社となっている。
更に昭和二十九年忠霊社を造営、諸始部落出身戦死者の英霊 五十六柱を奉祀す。
四月三日鎮座祭を行う。

大祭 10月19日 古例 献馬

 合祀の過程がちょっと複雑なのだけど、明治になるまで白山、八王子、一之御前などはあったようで、神仏分離令や神社合祀政策で白鳥神社に集められたということだろう。
 現在も残る境内社では、熊野社で国常立命、八王子社で天忍穂耳命、八幡社で応神天皇、白山社で菊理媛命をそれぞれ祀っている。
『東郷町誌 第二巻』から補足すると、拝殿は昭和43年、本殿は昭和54年に再建されたものということで、全体的に新しい印象を受ける。
 参道が真っ白に塗り固められていて不思議な感じだ。

 大原七郎大夫武恒という人物については情報がなくて分からないのだけど、熱田社の大原家は伊勝村の一族のようで、熱田社の大原真人武継という神官が牛巻ヶ淵の大蛇を矢で退治したという伝承がある。
 ここで”牛巻”が出てくるということは、尾張氏との関係が考えられる。大原家は尾張氏の一族かもしれない。
 だとすれば、大原は尾張氏の本家、もしくは熱田の尾張氏から諸輪に派遣されたということで、白鳥への変更もそちらの意向ということになるだろうか。

 長久手合戦のとき白鳥大明神で戦勝祈願をしたという永井直勝について少し書くと、三河国碧海郡大浜郷の武将で(長田重元の次男)、家康の嫡男の信康に仕えていたのが、信康が謀反の疑いをかけられて自刃(1579年)すると徳川を離れて隠棲した。
 しかし、家康に召し出されて再び徳川に仕えることになり、1584年の小牧長久手の戦いで池田恒興を討ち取るという武勲を挙げることになる。
 関ヶ原の戦い(1600年)や大坂の陣でも活躍し、出世を遂げた。
 遠山の金さんこと遠山景元の直系祖先であり、子孫には永井荷風や三島由紀夫などがいる。狂言師の野村萬斎のご先祖様でもある。

諸輪村の寺院

 江戸時代の諸輪村にあった寺院について『寛文村々覚書』は禅宗(曹洞宗)の道休山清安寺(公式サイト)、浄土宗の恵日山観音寺(公式サイト)、天台宗の洞松山長栄寺を載せている。
 洞松山長栄寺は1823年に名古屋城(公式サイト)近くに移されたものの、3寺とも現存している。
『尾張徇行記』は諸輪村の寺院について以下のように書いている。

清安寺 府志曰、在諸輪村、号道休山、曹洞宗属岩碕妙仙寺、天文三年丹羽右近太夫氏識創建之、氏識法諱号清安道休、故為寺号
覚書曰、寺内一反七畝備前検除
当寺書上、境内除地覚書ト同シ、此寺ハ岩崎城主丹羽若狭守男丹羽右近太夫諸輪ニ在城ノ時創建ス、法名清安道休禅定門創建、天文三甲午年也、開山華翁和尚永禄元戊午年

観音堂一宇 覚書ニ地内松林共十町前々除、観音寺持分トアリ
観寺書上ニ、境内東西二百四十間余南北百五十間余御除地、観音堂再建ノ時、棟札ニ天暦三年巳丙年開基、元禄十四巳年マテ七百五十三年、以前尾州愛知郡米ノ木村掃部山御鎮座、住持寿慶法印依瑞夢此地に勧請トアリ、又開帳仏ノ古キ台座ノ裏ニ如左記セリ

 両和常楽寺
貞和三年十二月廿三日 円実 書判
 聖净空

当寺境内ハ昔年三畝村除ナリシカ、後観音堂ノ境内へ寺ヲ移シ、寺跡三畝ハ今ニ寺控ナリ、昔時寺号ヲ常楽寺ト称シ、寺ヲ移セシ時改号スルトモイヒ、又祐福寺ノ末寺ニナリシ時、同末寺ニ知多郡 常楽寺アリシ故ニ、観音寺ト改号スルトモ申伝へ、其年暦ハ総テ不知ヨシ、山号ヲ恵日山ト云
此寺府志ニ泄ル

 天文三年は1534年で、清安寺は岩崎城主の丹羽若狭守の子の丹羽右近太夫が諸輪城主だった時代に創建したといっている。
 ただ、清安寺の公式サイトは1564(永禄7)年に諸輪中城を築城した丹羽右近大夫氏識が創建したと書いており、30年の開きがある。
 丹羽氏識の生まれは明応6年(1497年)とも永正4年(1507年)ともいわれるので、1534年なら若い頃だし、1564年なら最晩年ということになる(1565年没)。
 備前検除となっているので、1608年の備前検地のとき除地になったようだ。

 恵日山観音寺は経緯がちょっとややこしいというか分からない部分がある。
『寛文村々覚書』では年貢地になっているけど、『尾張徇行記』では除地になっている。
 公式サイトを読むと、917年(延喜17年)に慈眼阿闍梨が創建した真言宗の常楽寺が始まりで、1342年(康永元年)に浄空円実上人が浄土宗の観音寺に改称したといっている。

 洞松山長栄寺は1823年(文政6年)に尾張藩主の徳川斉朝が天台宗の豪潮律師を開山として現在地(北区柳原)に移したという。
 尾張では一時期、春日井の野田密蔵院を中心に天台宗が流行したのだけど、その後廃れてしまった。
 密蔵院も現存はしているものの、大幅に規模は縮小されて大寺院だった頃の面影はない。
 尾張四観音のひとつ、守山区の龍泉寺(公式サイト)は天台宗の生き残りだ。

諸輪の城

 諸輪にあった城について『寛文村々覚書』は「古城跡壱ヶ所 先年丹羽道休居城之由、今ハ畑ニ成ル。同壱ヶ所 先年丹羽次郎三郎居城之由、今ハ畑ニ成ル。」とだけ書き、『尾張徇行記』も「丹羽次郎三城跡畠五畝二十歩、丹羽道休城畠三畝十二歩アリ 志略ニ、按丹丹羽系譜丹羽右近大夫氏源氏識(若狭守氏清子)築城於尾張国愛知郡語輪郡云々」と、簡単に紹介するだけだ。
『尾張志』は少し詳しく書いている。

諸輪ノ南ノ城
 諸輪村下屋敷といふ地なる庄屋眞野勘右衛門が居屋敷是也南西北三方に土居又堭あり東の方大手口の形勢存れるが今も表長屋門の入口也
東より南へ高土居の芝生なるに古木の松並立りこの松は慶長年間名古屋御城御造営のとき三河國よりほらせて移し植られたる其殘り苗なるがかく
大木と生しけれる也世々に枯れるは追繼にも又植並たりとそ此土居の北に大きなる池あり府志に城臨池とわるは即是也
さて此勘右衛門が家は古代より此地の郷士にて先祖は柘植道昌といふそれより世々絶す村長となり来れるが近世に眞野と改めたりとそ
城主なりしは道昌より以前か知かたし天文の頃山口九郎次郎が輕足大將に柘植宗十郎といふあるは歴代の内か又は同族にもやあらむ
舊家なる事は疑なけれど家譜記録残りなく火に失て萬わきがたきよし今の勘右衛門いへり城址は東西三十七間南北三十八間あり

同所中ノ城
 同村下屋敷といふ地にあり東北二方は竹藪南北二方は松林にて西北南に堭形殘り艮の隅に民家一戸ありて其外はみな畠なり
東西廿間南北三十八間あり城主は丹羽次郎三郎也と鄕人いへり

同所北ノ城
 同村上屋敷といふ民居の北の端にありて東南二方高土居残り西北二方に堀ありて小松交りの竹藪あり土居堀幅を除て東西廿八間南北四十間あり
城主は丹羽右近太夫なりと鄕人いへり 
府志には諸和城ニッ土人云一則丹羽道休といひ地方覺書に丹羽道休城跡畠三畝十二步とあるは即是也張州志界に
按丹羽系□丹羽右近大夫源氏識(若狭守氏清子)築城於尾張國愛智郡諸輪鄉云々と見ゆ氏識の法名道休といへり

『東郷町誌 第一巻』が補足してくれているのでそちらを引用する。

・諸輪北の城跡
 諸輪字上市、古くは上屋敷という、にあり。
古老は伝える。天正十二年の頃(小牧長久手合戦の年)永井伝八郎直勝の居城で永井氏後に日向守となって
摂州高槻の城主に転じ五万五千石を領したという。

古書多くは諸輪城跡二とあるもの多く、尾張誌に次のようにある。
諸輪北城跡
諸輪村上屋敷という民居の北の端にありて、東南二方高土居残り、西北二方堀ありて小松変りの竹藪あり、
土居場巾を除いて東西二十八間南北四十間あり、府誌には「諸輪輸二、土人云一则丹羽道休一則丹羽次郎三郎各居之、今俱為陸田」といい、
地方覚書に丹羽道休城跡島三畝十二歩とあるは即是也、張州志略に按丹羽系図丹羽右近太夫源氏識、
若狭守氏清子築城於尾張国愛知郡諸輪云々とあり、氏識の法名道休といえりと真偽は詳かでないが附記する。

・諸輪中の城跡
請輸字中市にあり、今は居屋敷
古老の伝えるところによれば、永禄七年(信長岐阜に移った年) 丹羽氏識の居城で永禄八年九月死せりと、
氏識は道体と号し清安寺を創建した人、よって清安寺を道休山といい氏識の位碑は同寺にあり、諡号を永運院殿安道休禅定門という。
尾張志に
諸輪村下居放という地にあり
東南二方は竹藪、西北二方は松林にて、南北西□形残り、良の隅に民家一戸ありてその外はみな島なり、
東西二十間、南北三十八間あり、城主は丹羽次郎三郎と郷人は云えりど、今多くは居屋敷となっている。

・諸輪南の城
古老の伝える所によれば、寛文十年の頃柘植八太夫重次の居城であった。柘植八太夫は白島神社へ社殿一宇を寄進した事がある。と。
古書多くは南城のことにふれていない。

・諸輪 東の城跡
古文書に見えないので詳でないが、釜の前とも城の腰ともいう。城主は丹羽氏勝の弟氏国であったが後美濃釜戸に移った。

 どうやら中・南・北の3つの城があったようで、『東郷町誌 第一巻』は東もあったといっている。
 戦国時代は丹羽氏が城主だったようだけど、創建したのが丹羽氏とは限らない。もっと古くからあったかもしれない。
 気になったのは庄屋の眞野勘右衛門の祖先は柘植道昌といっている点だ。
 南城が柘植道昌の創建で、白鳥神社の社殿を寄進した人物に柘植八太夫がいるので、この地の有力な一族だったのは間違いない。
 問題は丹羽氏との関係性だ。近しい一族だったのか、そうではなかったのか。
 丹羽氏も戦国時代は織田方についたり松平側だったりとはっきりしないので、ちょっとよく分からない部分がある。
 古代の尾張氏と丹羽氏の関係についても、単に近しい親戚といった間柄ではなさそうだけどどうなんだろう。

諸輪の変遷

 諸輪村の村域がどこからどこまでだったのかは把握できていないものの、集落は春日社の東から諸輪街道沿いに集中していた。現住所でいうと上市から中市にかけてで、下市には観音寺があるくらいで民家はほとんどなかった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見るとそのあたりの状況が見て取れる。
 1920年(大正9年)を見てもあまり変わっている様子はない。
 時代は飛んで1968-1973年(昭和43-48年)になるとさすがにいろいろな変化が見られる。
 平地部分は田んぼも含めて全面的に区画整理されて、民家も増えた。
 あと、縦筋の道が通っている。諸輪交差点から北へ延びる県道233号線で、岩作諸輪線の名称通り、日進を縦断して長久手の岩作までつながった。
 南の国道153号線が通るのはまだだいぶ先のことだ。
 昭和30年代から40年代にかけて北に諸輪団地が建ったり、愛知用水が通って愛知池ができたりして、このあたりは住宅地としてゆるやかに発展していった。
 ただ、東の前川両岸には今も田んぼが残り、昭和の面影が完全に消えたわけではない。

 町村合併についても書いておくと、明治11年(1878年)に傍示本村、祐福寺村、部田村が合併して春木村となり、明治22年(1889年)に諸輪村と和合村が合併して諸和村となった。
 明治39年(1906年)には諸和村と春木村が合併して東郷村が成立した。
 東郷町となったのは昭和45年(1970年)のことだ。

諸輪王とは誰なのか

 諸輪の歴史がいつ頃始まったのかは分からない。飛鳥や奈良時代ということはなく、最大限遡るなら縄文か旧石器時代の可能性がある。
 ここは尾張と三河の交わる場所ということで両輪と呼ばれたのではないか。
 しかし、政治経済の中心的な場所だったかといえばそれはなさそうだ。
 とはいえ境界だ。あるいは関所的な場所だったかもしれない。
 最初にこの土地を治めていたのはどんな勢力だったのだろう。
 ざっくりいえば尾張氏かその関係者だろうけど、その気配はあまり濃くない。
 では三河側の影響が強いかといえばそうでもない。
 大事な場所というのは分かるのだけど、なんとなくつかみ所がないようにも感じている。実体が見えないというか、気配が薄い。
 尾張の出先機関のようなものがあって、三河側と連絡を取り合っていた場所といえばそうかもしれない。
 古墳や諸輪大明神は古い時代の延長線上にある。

 どうして白鳥社だったのかもずっと引っ掛かっていて、最後までその正体は見えなかった。
 途中で熱田の人間が来て白鳥社になったというのは何を意味しているのだろう。
 日本武尊は関係があるのかないのか。
 この場所に日本武尊の伝承が伝わっているという話は聞かない。
 輪の中心は黄身であり黄泉で、周辺は白身であり白泉と聞いている。
 鳥は鳥居に通じる。
 白鳥が降りたところには墓が作られたと記紀はいう。
 白鳥にはどこか死のイメージがつきまとう。
 白鳥神社がある場所は上中下の”市”だ。市は市場の市でもあるけど、人が集まる場所を意味する。
 ”いち”ではなく”し”と読めば死を連想させる。
 諸輪一帯を掘り返したらとんでもない遺跡が出てくるような気もするけど、それが表に出ることはないだろう。

作成日 2025.7.31


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