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タジマモリ《田道間守》

タジマモリ《田道間守》

『古事記』表記多遅摩毛理、多遅麻毛理
『日本書紀』表記田道間守
別名不明
祭神名田道間守命、他
系譜(祖)天日槍
(父)清彦(『日本書紀』)/多遅摩比那良岐(『古事記』)
属性菓子の神
後裔三宅連、他
祀られている神社(全国)中嶋神社(兵庫県豊岡市)、橘本神社(和歌山県海南市)、他
祀られている神社(名古屋)田道間守社(白山神社(榎白山)内/西区)

お菓子の神は飛躍しすぎ?

田道間守といえば非時香菓(ときじくのかくのみ)、非時香菓とえば橘(たちばな)、橘といえば柑橘系、柑橘系といえばおやつ、おやつといえばお菓子、ということで田道間守はお菓子の神様ということになっている。
三段論法どころか何段飛んでるんだよという話だけど。

田道間守を知っていますかと日本人にアンケートを採ったら何パーセントが知っていると答えるのだろう。
マイナーといえばごくマイナーなのだけど、なんとなく名前だけは聞いたことがあるという人はそれなりにいるだろうか。
『古事記』にも『日本書紀』にも出てくる人物で、そもそも神様ではない。天皇の側近とでもいうべき人だ。
第11代垂仁天皇の時代というから古くはあるけど神話時代でもない。
記紀の話しぶりからすると、おそらくモデルになった人物はいただろうと思う。
ただし、不老長寿の果実を探しにいった云々というのはお話であって、何らかの歴史を伝えるために形を変えて物語にしたというのが実際のところだろう。
田道間守の”タジマ”とは何か? ”非時香菓”、”橘”、”常世”といったキーワードは何を示しているのか?
そういったことを考えつつ、記紀その他の歴史書や伝承などについて見ていくことにしよう。

『古事記』が語る多遅多摩毛理

垂仁天皇こと伊久米伊理毘古伊佐知命(イクメイリビコイサチ)は、第12代景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣天皇)の父なので、景行天皇皇子の倭建命/日本武尊(ヤマトタケル)から見ると祖父に当たる。
天照大神(アマテラス)を祀る場所を探してあちこちを巡った倭比売命/倭姫(ヤマトヒメ)は垂仁天皇の娘とされる。
多遅多摩毛理の話はそういう時代の話として語られているということだ。

田道間守は『日本書紀』の表記で、『古事記』では多遅摩毛理、または多遲麻毛理という字を当てている。
その多遅摩毛理が出てくるのは垂仁天皇の最後の方でこんなふうに書かれている。
天皇は三宅連らの祖の多遅摩毛理を常世国に遣わして登岐士玖能迦玖能木實(ときじくのかくのこのみ)を求めさせた。
多遅多摩毛理はその国に到り、その実を採ってきたものの、戻ってきたときにはすでに天皇は崩御していた。
実の半分を大后に献じ、半分を天皇の陵に献じると、常世国で登岐士玖能迦玖能木實を持ってきましたのにと泣き叫んで多遅摩毛理はそのまま死んでしまったのだった。
以上のように何気ない記事ではあるのだけど、その中に暗示めいた表現があってが引っかかりを感じる。
原文では以下のように書かれている。

「多遲摩毛理 遂到其國 採其木實 以縵八縵矛八矛 將來之間 天皇既崩
爾多遲摩毛理 分縵四縵矛四矛 獻于大后 以縵四縵矛四矛 獻置天皇之御陵戸而 擎其木實」

縵は”かげ”、矛は”ほこ”で、縵八縵(かげやかげ)は葉の付いた八枝、矛八矛(ほこやほこ)は実が付いたままの枝を意味するというのが一般的な解釈だ。
または、縵八縵は木の実を紐でつないだものという説もある。
いずれにしても、実だけを持ち帰ったのではなく、枝ごと持ってきたというのがひとつあって、それが”八”となっているのも象徴的な意味がある。
更にそれを大后と天皇陵と半々に分けて献じたというのも何かありそうだ。

登岐士玖能迦玖能木實については、今(奈良時代)でいう”橘”のことだと書いている。
橘は小ぶりのミカンのようなものだけど、酸っぱくて苦いのでそのままでは食べない。
奈良時代の橘と現代の橘が同じではないとしても、当時の人も食べなかっただろうと思う。
ただ、橘の木は古くから日本に自生していたとされ、わざわざ常世国まで取りに行くようなものではないから、登岐士玖能迦玖能木實が橘の実そのものではないだろう。

『日本書紀』が省略したこと

『日本書紀』も内容は『古事記』とほとんど同じだ。
原文は以下の通り。

「九十年春二月庚子朔 天皇命田道間守 遣常世國 令求非時香菓 香菓 此云箇倶能未 今謂橘是也」

垂仁天皇即位90年に、天皇は田道間守に命じて常世国で非時香菓を求めさせた。
香菓は”箇倶能未”(かくのみ)と読みます。今の橘がこれに当たります。
という内容だ。
しかし、垂仁天皇は9年後の即位99年春2月1日に崩御してしまう。140歳だったと『日本書紀』は伝える。
記事は続き、翌年の春3月12日にとうとう田道間守は常世国に到着し、非時香菓を見つけたという内容だ。
出発から10年後にようやく常世国に到ったということだ。
八竿八縵の非時香菓を得た田道間守が戻ってみると垂仁天皇はすでに崩御した後だったため、嘆き悲しみ、天皇の命を受けて万里の浪を越え、遠くの川を渡り、ついに常世国の神仙で非時香菓を見つけてやっとの思いで帰ってきたのに天皇がいないのでは生きていても意味がないではないですかと天皇陵で叫び泣いて自ら死んでしまったのだった。
群卿(まえつきみ)はその話を聞いて涙を流したといった内容だ。

『古事記』との違いとしては、八竿八縵(『古事記』では縵八縵矛八矛)を半分に分けて太后と天皇陵に献じたということが書かれていないことだ。
これはわりと大きな違いだと思うのだけど、別伝承が元になったのか、『日本書紀』がその部分を省略してしまったのか。
死の方のニュアンスも違っていて、『古事記』は「遂叫哭死也」と、叫び泣いて遂に死んでしまったとしているのに対して、『日本書紀』は「叫哭而自死之」と、自殺したとしている。
『日本書紀』は野見宿禰(ノミノスクネ)の提言もあって殉死の風習を改めて代わりに埴輪(はにわ)を作るようにしたという記事があるにもかかわらず、田道間守は殉死したことになっている。
『古事記』には殉死をやめたといった記事はない。
そもそもどうして田道間守は死ななければならなかったのかという疑問が残る。

記紀以外に書かれない田道間守

『古語拾遺』は天皇記がごく簡単な記述になっているから田道間守について言及がないのは分かるのだけど、『先代旧事本紀』がまったく書かなかったのは何故だったのか。
あれほど『古事記』、『日本書紀』大好きな『先代旧事本紀』らしからぬ態度だ。
書くまでもないことだという判断だったのか、あえて書かなかったのか、理由はよく分からない。

田道間守の死についての補足

田道間守の死について補完するような記事が『釈日本紀』(鎌倉時代末の『日本書紀』の注釈書)の中にある。
奈良時代末に藤原浜成(ふじわらのはまなり)の撰とされる編年体の歴史書である『天書』(あまつふみ)を引用したもので、第11代垂仁天皇皇子で第12代天皇の景行天皇が田道間守の忠心に報いるために垂仁天皇陵近くに葬ったとする内容だ。
垂仁天皇陵は菅原伏見東陵(奈良県奈良市)に治定されており、近くにある宝来山古墳(ほうらいさんこふん)が田道間守の墓ともされる。
たぶん本当ではないだろうけど、そういう話が伝わっていたという事実があるということだ。

大伴家持が詠んだ歌

『万葉集』の中にも田道間守は出てくる。
大伴家持が歌った 「橘の歌」という題の歌で、以下のものだ。

かけまくも あやにかしこし 皇神祖の かみの大御世に
田道間守 常世にわたり やほこもち まゐでこしとき
時じくの 香久の菓子を かしこくも のこしたまへれ
国もせに おひたちさかえ はるされば 孫枝もいつつ
ほととぎすなく 五月には はつはなを えだにたをりて
をとめらに つとにもやりみ しろたえの そでにもこきれ
かぐはしみ おきてからしみ あゆる実は たまにぬきつつ
手にまきて 見れどもあかず 秋づけば しぐれのあめふり
あしひきの やまのこぬれは くれなゐに にほひちれども
たちばなの 成れるその実は ひた照りに いやみがほしく
みゆきふる 冬にいたれば 霜おけども その葉もかれず
常磐なす いやさかはえに しかれこそ 神の御代より
よろしなへ 此の橘を ときじくの かくの木の実と 名附けけらしも

反歌

橘は 花にも実にも みつれども いや時じくに なほし見がほし

これは記紀が語った田道間守のエピソードを借りつつ橘諸兄(たちばなのもろえ)の繁栄が長く続くことを寿ぐものだったと考えられている。
このあたりのことについては後ほどあらためて考えてみることにする。

田道間守の系譜について

田道間守の系譜については『古事記』と『日本書紀』で少し違っている。
共通するのは新羅国王子の天之日矛/天日槍(アメノヒホコ)の後裔としている点だ。
『古事記』は応神天皇記で、その昔に天之日矛が渡来してきたとし、その経緯についてわりと詳しく書いている。
新羅の王子である天之日矛が妻に逃げられて、妻が逃げた先の難波にやってきたという設定になっている。
しかし、難波の手前で海の神の怒りによって追い返され、いったん但馬国(たじまのくに)に落ち着く。
その但馬で多遅摩俣尾(タジマノマタオ)の娘の前津見(マヘツミ)を娶って多遅摩母呂須玖(タジマモロスク)が生まれた。
多遅摩母呂須玖の子が多遅摩斐泥(タジマヒネ)、多遅摩斐泥の子が多遅摩比那良岐(タジマヒナラキ)、多遅摩比那良岐の子が多遅麻毛理(タヂマモリ)だと『古事記』はいう。
多遅麻毛理の兄弟に多遅摩比多訶(タジマヒタカ)と清日子(キヨヒコ)がいるとも書いている。
この多遅摩比多訶の後裔が息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)こと神功皇后なのだという(多遅麻毛理の兄弟の多遅摩比多訶の孫で、父は息長宿禰王)。
これが本当だとすると、多遅麻毛理は天之日矛の玄孫(やしゃご)に当たるので、天之日矛の渡来は垂仁天皇よりも4、5代前の天皇のときということになる。

『日本書紀』は垂仁天皇即位3年に新羅の王子の天日槍がやってきたとする。
『古事記』とは渡来の時期に大きなズレがあり、数世代後の田道間守が垂仁天皇時代に生きているというのも大きな矛盾点だ。
天日槍は七種の宝を持参してきており(『古事記』では八種)、それを但馬国に献上して神物としたと書く。
これが後の伊豆志坐神社(出石神社)の起源となったとされる。
天日槍の渡来の理由や経緯についても『古事記』とはだいぶ違いがある。
新羅からやってきて播磨国(はりまのくに)に停泊していた天日槍のところへ垂仁天皇は遣いをやって正体を問いただした。
それに対して天日槍は、自分は新羅国主の子で、日本国に聖皇がいると聞いて国主の座を弟に譲って渡来しましたと答えた。
そして持参した宝を献上するという流れになるのだけど、宝が何故か八種に増えている。
内容も羽太玉が葉細珠に変わっていたりしつつ、前段から増えたのは膽狹淺大刀(いささのたち)だ。
持参した玉(珠)や鏡が宝で、それに加えて大刀を献上して恭順の意を示したということだろうか。
対して天皇は、播磨国の宍粟邑(しさわのむら)か、淡路島の出浅邑(いでさのむら)のどちらか好きな方に居てもいいと提案するのだけど、天日槍は自分で諸国を巡って気に入ったところに住みたいと申し出て天皇はそれを聞き入れた。
菟道河(うじがわ)を遡り、近江国の北の吾名邑(あなむら)でしばらく暮らした後、若狭国を通って但馬国の西に到り、そこに居ることに決めた。
その地で出嶋(いづし)の太耳(フトミミ)の娘の麻多烏(マタオ)を娶って但馬諸助(タジマノモロスケ)が生まれ、但馬諸助から但馬日楢杵(タジマノヒナラギ)が生まれ、但馬日楢杵から淸彦(キヨヒコ)が生まれ、淸彦から田道間守(タジマモリ)が生まれたとしている。
『古事記』との大きな違いは、『古事記』では淸彦は兄弟としているのに対して『日本書紀』は淸彦を父としている点だ。
この系譜でいっても田道間守が天日槍の玄孫に当たる。ただ、そうなるとやはり、田道間守と天日槍が同時に垂仁天皇時代に生きていたというのはおかしなことになる。系図の混乱という程度では済まない。

『古事記』、『日本書紀』から読み取れることとしては、渡来した新羅国王子の天之日矛/天日槍が但馬国に土着して地元の娘を娶って代々その地に根を下ろしたということだ。
ただし、いつも書くようにこれはあくまでもお話の設定に過ぎない。
但馬国にいたから多遅多摩毛理/田道間守という名前になったのだろうと安易に考えてもいけない。
逆にタジマと称する人がいたからタジマという地名が生まれた可能性もある。
タジマは但馬であり、田道間であり、田嶋であり、ひっくり返せば嶋田になる。
尾張氏の熱田社の社家が田島を名乗っていたのも偶然ではない。
新羅国といっても朝鮮半島の新羅国とは限らず、海を渡ることだけが渡来ではない。
このへんのミスリードに引っかかってしまうのは仕方がないことではあるのだけど、記紀の設定をそのまま鵜呑みしたらあらぬ方向に導かれてしまうので気をつけたい。

後裔について

『古事記』、『日本書紀』ともに多遅多摩毛理(田道間守)を三宅連らの祖といっているので、後裔は三宅氏などということになる。『日本書紀』は三宅連の”始祖”といっている。

『新撰姓氏録』(815年)の三宅連関係を見てみると、諸蕃(しょばん)の中で、天日桙命の後裔として三宅連を載せている。
諸蕃というのは中国、朝鮮などから渡ってきて土着した一族のこととされるのだけど、その通り受け取っていいのかどうか。
天日桙命(天日槍)が”天”を冠している以上、それは”アメ”の一族なのではないのか?
古代の朝鮮半島を外国と考えることがそもそも間違いかもしれない。当然ながらその時代に国境といったものは存在していない。
それはともかくとして、三宅連同祖として橘守と糸井造を載せており、いずれも天日桙命の後、天日槍命の後、という扱いになっている。
これらの氏族は、田道間守/多遅多摩毛理の後裔ではなく、天日桙命/天日槍命の後裔を自認していたということのようだ。
三宅は宮家にも屯倉にも通じるし、”三”の数字を持つ一族でもあるから、外国の王子などではなくやはり日本の天一族の出のような気がする。

非時香菓とは何だったのか?

非時香菓(ときじくのかくのみ)、もしくは登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)とは結局何だったのか?
『古事記』はすべて当て字として、『日本書紀』の非時香菓もそうなのか、字自体に意味があるのか。
そもそも、本当に”ときじく”の”かくのみ/かくのこのみ”と読むのだろうかという疑問もある。
『日本書紀』は、”非時香菓”の”香菓”の部分を”箇倶能未”と読みますとわざわざ注を入れているので、後半は”かくのみ”でいいのだろう。
これを分解すれば、”かく”の実、または木の実となる。
では、”かく”とは何かということだけど、一般的には香(かぐ)しい実と解釈して、いい香りがする木の実とされている。
それはそうなのだろうけど、おそらく別の意味も掛かっている。
カクツチのカクだったり、カクヤマのカクだったり、カクヤヒメのカクだったりと共通することかもしれない。
カカセオのカカなどとも近い可能性もある。
前半の”トキジク”は、非時を時に非ずと解すればそこから時を超越した不老長寿や神仙思想につながるのは理解できる。
ただ、そういうことは『古事記』も『日本書紀』も書いていないから、これは後世の人間の勝手な思い込みではないか。
そんな面白い話であれば、浦島太郎のようなお話が作られて語り伝えられているはずではないか。

垂仁天皇はその最晩年に何の目的で非時香菓を求めさせたのか?
最初から常世国にあると確信的に言っていることからすると、物語上のこととはいえ、目的のものやその意義について理解していたということなのだろう。
おそらくそれは非常に珍しいものであり、手に入れるには大変な苦労が伴うことが想定されていた。『日本書紀』はいくつもの海や川を越えて10年かかったといっている。
常世国についてはいくつもの説や解釈があるのだけど、ここでは死者の国という感じではない。行くのは難しいけど戻ってこられる場所という設定だから、

もうひとつの大きな疑問は、この役にどうして田道間守が選ばれたのかだ。
天之日矛/天日槍のエピソードや系譜を書いてそこにつなげているということは、田道間守は天之日矛/天日槍の後裔であることに意味あったということなのか。
お供もつけてもらえず、田道間守は単独で困難な使命を果たすよう命じられたのか?
苦難の末にようやくの思いで非時香菓を持ち帰ったら垂仁天皇はすでに崩御していてがっかりしたというのは分かるけど、死ななければならないほどのことだっただろうか。
非時香菓を手に入れることは垂仁天皇の個人的な願望だったということか。
もし誰もが欲しがるような不老長寿の実ならば、他のところでも出てきてよさそうなのに、ここ以外では出てこない。

よくよく考えると田道間守の話はなんだかよく分からないというのが結論ともいえない結論になる。

お菓子の神様として

田道間守を祀る神社はそれほど多くない。
主祭神として独立して祀っているところとしては、兵庫県豊岡市の中嶋神社(web)や和歌山県海南市の橘本神社(web)くらいだろうか。
境内社として田道間守を祀っているところはそれなりにあって、福岡県太宰府市の太宰府天満宮(web)や京都府京都市の吉田神社(web)にある境内社は中嶋神社から勧請したとされる。
名古屋では西区の白山神社(榎白山)に田道間守命を祀る田道間守社がある。現存する田道間守関係の神社は名古屋市内ではここだけだと思う。
非時香菓は奈良時代でいう橘だという記紀の記事から、橘関係の寺社で田道間守を祀っている例もある。
お菓子の神様とされたのはそれほど古い時代のことではなく、おそらく明治以降のことだと思う。

非時香菓は木の実ではない?

少し見方を変えてみる。
非時香菓は木の実ではないとしたらどうだろう。
土地だったり勢力だったり人だったりと仮定してみる。
垂仁天皇は田道間守にそれを求めさせた。
田道間守はそれを手に入れるまでに10年かかっている。
そして、非時香菓は橘だともいっている。
だとすればそのまま非時香菓は橘ではないのか?
県犬養三千代(665-733年)に708年の11月に元明天皇から橘宿禰の氏姓が与えられたことが橘氏の始まりとされている。
『万葉集』にある大伴家持の「橘の歌」は橘諸兄を念頭に置いて歌ったと上に書いたけど、橘諸兄は県犬養三千代と最初の夫である美努王との間に生まれた子だ。最初は葛城王といっていた。
美努王は美濃と、葛城王は尾張と深く関わってくる。
美努王は三野王であり、犬養三千代、後裔の三宅と、”三”が付く土地とゆかりのある人たちという言い方もできる。
県犬養三千代は美努王と離婚して、藤原不比等の後妻となっている。
美努王の死去が708年の5月だから、同年の11月に県犬養三千代が橘宿禰の氏姓を賜ったときはすでに藤原不比等と再婚していただろう。
橘宿禰の氏姓は元明天皇の大嘗祭のときで、元明天皇が即位した際に藤原不比等は右大臣に任じられている。
藤原不比等といえば、『日本書紀』編纂の中心人物のひとりであり、『古事記』編纂にも関わったという説もある。
こういった流れと時期、人物関係を考えると、『古事記』、『日本書紀』が描いた田道間守の話はこのあたりの人たちと絡んでくるような気がする。
『古事記』、『日本書紀』の編纂者たちは事実をそのまま書かず、あるいは書けず、別の話を借りたり作ったりしてそれを伝えようとしている。
隠すこと自体が目的なのではなく、隠しながら伝えることを本意をしていたはずだから、そこはなんとか汲み取っていかないといけない。
匂わせ記事といえばそうなのだけど、はっきり書けない事情を察してくださいといったところだろうか。
奈良時代の人たちにとっては詳しい説明抜きで共通理解できた部分も多々あって、それが後世には分からなくなっていることもある。
奈良時代の人に、非時香菓は橘ですよといえば、ああ、あの橘のことね、となったに違いない。

垂仁天皇は第10代崇神天皇の第三皇子で、活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさち/『日本書紀』)の他、活目天皇、伊久米天皇、生目天皇として伝えられている。
崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえ)の名が示す通り、間城=槇=眞木の入り婿だろう。
皇后で活目の母は御間城姫だ。
天之日矛/天日槍は”天”の”ヒホコ”で、その後裔の田道間守は”タジマ”の”モリ”と称している。
歴史はその最初から現在に至るまで途切れることなくつながっていて、突き詰めればすべては争いを伝えているという言い方もできる。

それにしても、田道間守がどういうわけか白髪のおじいちゃんに思えて仕方がないのは私だけだろうか。

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